山門編-失われた天地の章(35)-天地消失(6)-
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、天孫族を率いて真秀場を目指し、山門に挑むも大日の前に敗れる。狭野姫は五瀬の遺志を継ぎ、韴霊剣の力を得て、熊野の地を平定する。狭野姫は再び山門に挑み、ついに大日を倒す。天孫族との平ぎを命ずる父に反抗した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。愛する者を奪われた二人は感情を剣に宿して戦うが、山門の美しい夕景は、二人に天孫族と山門の麗しい未来を見せる。天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が山門掌握の画策を進める。拐かしていた美茉姫を御巫に仕立て、大掛かりな大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった御統が顕現させた天目一箇神が安彦の企図を破壊する。一方、五十茸山では、輪熊と鹿高が剋軸香果実の起源を知る。
美茉姫を取り戻した入彦たちは、果実の真意を知り、山門を消滅から救うために動き始める。豊には、彼女を解き放たない暗い宿願がある決断を迫る。安彦は果実を制御し、その無尽蔵の霊力を得るため、果実との融合を図る。
山門に出雲族が現れ、磯城族と天孫族はそれぞれの命運を賭けた決戦に挑む。
すべてに決着をつけるべく、入彦、御統、豊は斑鳩宮に侵入し、果実の破壊を試みる。三人の前に、果実と融合し、この世のものとは思えぬ姿となった安彦が立ちはだかる。如虎の活躍で入彦たちは果実の奪取に成功し、御統は果実と心を通わせる。豊を突き動かした暗い宿願が凶刃を振るい、御統の命を奪う。果実は大暴走し、御統、豊、国牽を呑みこむ。
山門の消失が始まったそのとき、入彦は、天目一箇神にある願いを捧げる。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
山門の天地が激しく鳴動した。不気味な咆哮が空を伝播し、彼方の山影までをも震わせている。
地上で戦っていた軍士たちは、山門大宮の斑鳩宮辺りから真っ直ぐに天を衝き上げる竜巻を見た。
竜が蜷局を巻くような大渦は、累代の斑鳩族が、そして斑鳩族の氏上が山門主となってからは山門の諸族が、延々と築いてきた壮麗な高殿や瑞殿、霊廟を瓦礫と化し、猛烈な渦に吸い込んで塵芥とした。
長大な竜巻は天に迫り、暗雲を広げた。その光景は禍々しさを超越して、神々しくさえあった。
矛や剣を絡め合っていた天孫族も、出雲族も、磯城族も、登美族も、互いに顔を見合わせ、これから始まるであろう常軌を逸したできごとを、不安な目で認めあった。狭野姫と御名方、石飛と吉備彦も、その作業を終えてから、武器をおろし、恐ろしくも荘厳な光景を見上げた。
軍士たちのうち、目敏い者は、竜巻が膨張していることに気が付いた。斑鳩宮があった場所の一点から吹き上げた竜巻は、今や大宮の領域を超えるまでに膨張している。やがてその膨張が、自分たちの立っている場所にまで及ぶという想像は、恐怖に駆り立てられて容易だった。
忠誠心が不足している者は武器を捨てて逃げ出したが、最後まで戦場に立ち続けた軍士たちのうちにあって、それは少数だった。ほとんどの者は、指導者と仰ぐ者の近くに集まって、指示を待った。しかし、指導者が的確な指示の言葉を失っている。
その少し前、地下空間から辛くも逃れ出た入彦は、斑鳩宮の出入り口の長鳴き門の手前で、一度、石畳の上に倒れた。疲労困憊だった。如虎にも、入彦の衣服に噛みついて引きずるほどの力が残っていない。弱々しく鳴くだけだった。
「何をしている、腑抜け者が!」
突然の叱声は、安彦が放ったものだった。彼は入彦の胸倉を掴み、引き起こした。
「汝は、吾の目論見を妨げた。その責めは負ってもらうぞ」
鬼気迫る眼光で、安彦は入彦の両目を射抜いた。安彦に入彦への害意や悪意はすでになく、謝意すらあったが、入彦が叱声に応えない場合は、手加減なく打ち据えてやるつもりだった。
入彦は辛うじて自立する力を両足に蘇らせたが、間もなく大渦に飲み込まれるであろうこの場から走り逃れることは困難と思われた。
その時、蹄の音がした。長鳴き門の向こうから現れたのは、たてがみをなびかせた翠雨だった。御統から斑鳩宮の外で待機を命じられていたのだ。
「ああ、翠雨」
入彦はよろめきながら翠雨に歩み寄り、その首筋を抱いた。
「すまない。汝の友を死なせてしまった」
入彦は涙に溢れる瞼をきつく閉じたが、すぐに思い直した。御統と豊のことは、天目一箇神に委ねた。あどけない御統の笑顔と、つっけんどんな豊の辛口に再会できると信じるしかない。そのためには、まず自分自身が生き延びなければならない。
入彦の四肢に力が甦った。
入彦は翠雨の背にうち跨った。翠雨は御統の許しなく人を背に乗せないが、入彦は御統と同じくらい大切な人であると判断した。尻にしがみついた獣もついでだった。
「私は戦っている軍士たちに避難を呼びかけます。叔父上はどうなさいますか」
息を吹き返した馬上の入彦を、安彦は眩しげに見上げた。異母兄は素晴らしい後継者を育てた。自分も我が子をこのように育てたかったが、御統は両親の名も知らないうちに現世を旅立ってしまった。そう仕向けたのは、結局は安彦自身であり、もしも幽世で再会することができたなら、せめて思う存分、甘えさせてやろうと思った。
「吾は、一度は祖父様に生き延びるよう諭されたが、やはりここであの大渦をひとときでも留めようと思う。呪力の尽き果てた吾ではあるが、なに心配はいらぬ。斑鳩宮からいいものを運び出しておいた」
安彦が指さす場所に積まれていたのは、十種神宝だ。天璽神宝とも呼ばれるそれらの宝器は、初代饒速日がその御祖から授かった天神の眷属であることを示す天璽だ。鏡二面、剣一振り、勾玉三個、比四枚であり、いずれもが比類ない霊力を秘めた神宝と伝承されてきた。それは真実であったが、歴代の饒速日が果実の封印のために神宝を駆使し、その目的を達しないまま、蓄えられた霊力だけを浪費した。から同然の器になり果てはしたが、天神の眷属の証である価値にはかわりなく、長い間、斑鳩宮の神庫に保管されていた。
登美彦を名乗っていた当時の安彦が、時間稼ぎのため天孫族と交渉したとき、狭野姫からの要求を受けて天璽の現物を提示したところ、理由を付けて取り上げられてしまった。無論、本物を諾々と天孫族のもとまで運んでやるほど安彦はお人好しではないし、狭野姫も眼前に並べられた十の器を本物と信じるほど脳天気ではない。安彦は時が稼げればよく、狭野姫は天璽を手中にしたという伝聞を放つことができればそれでよかった。
出番を失った瑞宝十種に、思いがけない出番が回ってきたというわけだ。急な役回りを与えられた神宝は、あまりうれしそうな顔をせず、無造作に積まれている。罰当たりだ、とでも言いたげだ。
「出涸らしでも、ないよりはましだ。これで少しでもあの大渦を止めてみる」
出涸らしとまで酷評された神宝の面目は丸つぶれだが、安彦としては、汚名を少しでもすすぐ機会を求めている。父である国牽に諭されて、一度は生きて罪をあがなうことを考えたが、やはりここでこの身を犠牲にすべきだ、と考え直した。
安彦の覚悟を覆すほどの言葉を見つけられない入彦は、
「それでは、ここでお別れです、叔父上」
悲痛を胸の底に沈め、爽やかな声でそう言った。磯城族の男たちには、爽やかさがよく似合う。
「おう。異母兄のような、父のような丈夫になれよ」
安彦も爽やかな声を返したとき、長鳴き門の冠木や門柱、門扉が大音をたてて引き裂かれ、砕かれながら渦に吸い込まれていった。
入彦は翠雨の腹を蹴り、翠雨は逆風を衝いて猛然と走り出した。尻にしがみついた如虎が吹き流しのようにはためいた。
入彦が大渦の勢力範囲から逃れ出たのを確認した安彦は、心置きなく迫り来る大渦に対峙した。
安彦は、すでに地面に打ち込んでいた五つの杭に、十種神宝を二つずつ結いつけて、固定してゆく。
二つずつ設置された十種神宝を互いに結び合わせれば星印となる。この形を五芒星ともいい、大真帝国では五行説の重要な儀式に用いられる現世の象徴だ。五行説は、木、火、土、金、水の五大要素が現世を構成しているという考え方で、その思想や技術の体系的な輸入はまだ行われていないが、安彦は知識としてある程度を学んでいた。五行説に、陰と陽の概念を加えたものが陰陽五行説であり、二つずつ杭に繋がれた神宝は、それぞれ陰と陽を現している。
陰陽五行説が陰陽道に発展するのは遙かな後世のことだが、安彦は凶悪な災いと対峙するために、大真の思想を用いた。
強風の中での作業は困難を極めたが、五芒星を完成させた安彦は手印を結んで、呪言を唱えた。
大渦が眼前に迫り来る。大地を、石畳を剥ぎ取り、吸い込んでゆく。一瞬でも気を抜けば、身体をさらわれる暴風だ。
安彦が発する呪言が十種神宝を銀色に発光させた。光はやがて別の光と結びつき、銀光の五芒星が浮かび上がった。その中心で、安彦は一心不乱に呪言を発し続けた。
荒れ狂う大渦は、たしかにわずかの間、その膨張をやめたが、やがて五芒星ごと安彦を飲み込んだ。大渦の中でも銀光はしばらく灯り続けたが、山門大宮がすべて飲み込まれた頃に消えた。
五芒星の光が消えると、大渦の膨張が加速した。大渦が吹き上げる気流が天を突き上げ、分厚く黒い雲が広がってゆく。
出雲族が乗り込んで以来、大宮の人口は激減していたが、天孫族との会戦に先立ち、住民はほぼ避難していた。
無人の家屋を、大渦が貪欲に呑み込んでゆく。山門の首邑であり、栄華と繁栄の中心であった山門大宮は消え去った。
「大宮は消え去っても、山門を消え去らせはしない。ましてや人々を」
強い使命感に駆られて、入彦は翠雨を疾駆させた。
灌木の丘、喬木の林、葦の草原、翠色の小川、虹色の花畑。山門の光彩が左右を飛び去ってゆく。鳥影が放射状に飛びゆき、鹿や猪も懸命に走っている。そのいずれもがやがて大渦に呑まれ、消え去り、太古の原野に還るのだ。
行く先に、人の群が見えてきた。天孫族、出雲族、磯城族に登美族もいる。彼らはすでに戦いを止め、族ごとにその指導者のもとへ集まっている。
出雲族は、天孫族のすぐそばで集結した。互いに敵愾心は霧散している。
猛烈な風が吹き荒れている。
御名方は狭野姫のもとへ行った。護衛の軍士はさすがに御名方の行く手を遮ったが、それを見た狭野姫は迷いなく御名方を手招いた。
「あれが何か知っていますか」
建御子を自負する狭野姫も、天と地を繋ぎ揺るがす大渦を目の当たりにしては、顔色を青くせざるを得ない。鳥の群が黒く染まり始めた天空を飛び去り、獣が走り込んでは、そこかしこの軍士の集まりに小さな混乱を生んでいる。
猛烈な風が渦に向かって吹いており、狭野姫の羽飾りはほどんど吸い取られている。
狭野姫に問われた御名方も大渦の詳細を知りようがないが、見当はつく。要するに、安彦がしくじったのだ。だが、安彦を責めるつもりは全くない。御名方とて、これほどの天変地異が起こるとは、予想していなかった。
「わからんが、すぐにこの場を離れたほうが良さそうだとはわかる」
御名方の声にも余裕はない。
「この場から離れて、なんとかなりますか」
「それもわからんが、逃げるに越したことはないだろう」
光明の見えない会話をかわす二人の目に、疾駆してくる馬影が見えた。
周辺の天孫族も、すぐにその馬影に気づいた。手研が狭野姫に歩み寄った。
「何か叫んでおりますな。あれは、もしや磯城の入彦ではありますまいか」
狭野姫は額に手をかざしたが、そうする間もなく、馬の背に乗った人物が入彦とわかった。入彦は懸命に大手を振って、この場からの遁走を合図している。
「走れ!逃げるんだ!力の限り、逃げ続けろ!」
入彦の叫びが、狭野姫にも届いた。御名方ももちろん聞いたし、磯城族の大彦も、登美族の吉備彦も聞いた。
不忠者はすでに逃げ去っており、戦場に残っているのは、主君と仰ぐ者のためなら水火を辞さない忠義者ばかりだ。彼らが入彦の声を聞いて、それぞれの主君へ指示を仰ぐ顔を向けた。
翠雨が天孫族の陣営に駆け込んだ。翠雨から下りることをせず、入彦は馬体を狭野姫に寄せた。
「経緯を述べている暇はありません。すぐにこの場から逃げてください。あの大渦がまもなくここも呑みこみ、全てを太古に戻します。人の身はそれに耐えられません。渦は山門のほとんどを呑みこむでしょうが、限りがないわけではありません。さぁ、早く。すぐに逃げるのです」
入彦の警告に素早く反応したのは手研だ。彼はむずがるに違いない狭野姫を抱きかかえてでもここから連れ出すつもりだった。だが、狭野姫は意外な素直さで年上の甥の指示に従った。一度だけ振り返り、
「御身はどうなさるのですか」
と問い、不安げに入彦を見つめた。
「もちろん、私も逃げますよ」
そのとき狭野姫に見せた入彦の笑顔には、破滅的な現状にも光があることを示す希望があった。狭野姫の胸の中で、何かが決定的な激しさで高鳴った。
狭野姫と入彦のやりとりを、先ほどまで命の奪い合いをしていたとは思えない和らぎで見ていた御名方は、
「吾らも逃げるが、邑々(むらむら)にも避難を呼びかけねばならんだろう。吾らは北へ向かうから、道すがらの邑人の尻を蹴飛ばしてゆく。西は登美族の若い氏上どのに任せると伝えておく」
そう言って、さっと身をひるがえした。
「よろしくお願いします」
馬上だが、入彦は御名方に最敬礼を捧げた。大渦は北から向かってくる。そのため、北がもっとも危険だが、その危険をさらりと引き受けた御名方に感謝したのだ。
「私は磯城族と共に東に参ります。南は天孫の皆様にお任せします」
入彦は馬首を東へ向けた。
「肯った」
手研が力強く頷いた。
「では」
入彦は狭野姫に視線を送り、彼女の輝く黒い瞳を見つめてから、翠雨を走らせた。
こうして戦っていた四族の軍士たちは、山門の灯りを絶やさぬため四方に散った。
必死に生き延びようとする人間たちを見つめる地祇の目があった。輪熊と鹿高だ。
「さっきまで殺し合っていたのにねぇ。まるで友人だったことを思い出したみたいじゃないか」
呆れながらも、鹿高の声にはどこか羨望の響きがある。天神地祇のような超越者にはないものを、彼らは持っている。
「これよ、非永が侮れぬのは。地上で栄えるのは、天神でも地祇でもなく、必ずや非永であろう」
輪熊は断言した。
「でも、まぁ、とりあえずあれを何とかしないことにはねぇ」
鹿高のいうあれは、ますます凶暴さを増し、周囲の有形物を問答無用で巻き込んでいる。逃れきれず、悲鳴を上げながら猛風にさらわれる鳥獣の姿も見えるようになった。人が犠牲になるのも間もなくだろう。
「ここまできて、あとは知らねぇってわけにはいかねぇな」
「御統には嫌われたくないからねぇ」
御統が現世から消滅し、その復活を天目一箇神に委ねられていることを、この時点の輪熊と鹿高は知らない。
「まったく、非永どもに関わったおかげでこのざまだ」
「でも、あんたもあたしも、随分と楽しめたじゃないか。御統はあたしたちの子どもみたいなものさ。非永が子どもに次を託すということが、なんだかわかったような気がしないかい」
「もっとできの良いのがよかったがな」
そんな憎まれ口を叩きながらも、輪熊は分かっている。御統のために、地祇としての命を捨てることなど、とうの昔から覚悟していたことを。
「ちょっとの間しか生きられない非永をうらやましがっているのは、あたしらぐらいのもんじゃないかねぇ」
「だったら、俺らのできも悪いってことだわな」
輪熊と鹿高は、どちらからともなく手を繋いだ。大渦の巻き起こす暴風は、地祇の姿の彼らすら吸い込むほどの勢力になっている。
「いくか」
二柱の地祇は、ゆっくりと大渦に向かって歩き出した。二柱の地祇の霊力を全て注入すれば、大渦の膨張を食い止めることぐらいはできるだろう。
「この身体は潰えるだろうが、もしも運良く魂だけでも残れば、俺様は山、おめぇは野っ原、末永く護っていこうじゃねぇか。どうだい、鹿屋野姫」
輪熊は、鹿高の本名を呼んだ。
「あたしもそうしたいと思ってたよ、大山津祇」
二柱の地祇は寄り添った。その姿を大渦が呑み込んだ。
大渦の膨張の速度があきらかに遅くなり、そのおかげで無への回帰を逃れられた人の数は無数だった。ただ、それは少し先になってからわかった結果であって、逃げている最中の者たちは二柱の地祇の献身を知るよしもなく、必死で走った。
磯城族も懸命に走った。
半日死力を尽くして戦った軍士たちだ。傷を負っていない者を探す方が難しく、途中で生存を諦める者も出た。
山門は青垣山に囲まれた盆地で概ね平坦だが、起伏がないわけではない。前方に丘がある。普段であればなんということのない上り坂が、疲労困憊の軍士たちには絶壁の断崖に感じられた。わずかでも気を緩めれば、身体をさらわれる猛風が吹き荒れている。
入彦は翠雨の背から飛び降りた。一人の磯城族が生存を諦めて斜面に突っ伏したからだ。彼は足に重い傷を負っていた。
入彦はその磯城族の男を助け起こすと、翠雨の背に上げた。男は、自分を助けようとしている人物が、磯城族の若き氏上であることを知って狼狽した。
「いけない。吾などが生き延びてもしかたがない。御身こそ生き延びられよ」
男は翠雨の背を下りようとした。それを両手で制した入彦は、
「ちがいます。災いに当たって、族のもっとも後ろに立つ者を氏上というのです。私は、父からそう教えられました」
拒否を許さぬ口調で男を翠雨の背に括り付けると、入彦は翠雨の尻を強く打った。翠雨は男を乗せて丘の斜面を駆け上がった。
入彦はすぐに、今にも倒れそうな磯城族の軍士を見つけ、彼を助けた。肩を貸しながら丘の上方を見上げると、巨軀が見えた。伯父の大彦だ。彼は背中に一人を背負い、両脇に一人ずつを抱えて斜面を登っている。
入彦は背後を見た。大渦が迫っている。猛風にさらわれた族人が一人、悲鳴を上げながら吸い込まれていった。入彦は目を背けず、その無慈悲な光景を睨み付けた。
大渦は暴れ狂っているが、明らかに膨張の速度は落ちている。この丘こそが生死の境界となるに違いない。そう信じた入彦は、歯を食いしばり、半ば意識をなくした族人を引きずりながら斜面を一歩一歩登っていった。
丘を登りきり、下りに差し掛かったとき、疲労のあまり、不覚にも入彦は意識を失った。猛風に身体をあおられ、手助けしていた族人もろとも、入彦は丘の斜面を転がり落ちた。
意識が暗闇に沈んでいたのは、そう長いときではなかったが、その間に世界は新しい時代に入っていた。
耳底を柔らかい音が流れてゆく。それが風の音だと気づいたとき、入彦の意識は暗闇を脱した。
眩しさが、まず入彦の視界を灼いた。やがて、光彩が物の形を整えてゆくと、両頬を懸命になめる翠雨と如虎が見えた。
「やぁ、翠雨、如虎」
入彦が翠雨と如虎の頬をなでると、二匹は飛び上がって喜んだ。その騒動に走り寄ってきたのは、入彦が助けた二人の男だった。一人が冷たい水に浸した布を入彦の額に当て、一人が水を飲ませた。
意識が鮮明になると、美しい青空が見えた。新しい時を刻んでゆくように、白い雲が流れている。
誰に説明されずとも、入彦は、危難が去ったことを知った。
「さぁ、野郎ども、いつまでもへばってる暇はないぞ」
もう元気を回復した大彦が、大声で磯城族に活気を注入している。その大声が、入彦のそばに来た。
「入彦、よく寝たか。これからはもっと大変になるぞ」
入彦を覗き込む大きな眼が、溌剌とした声で入彦を軽く脅した。
「伯父上・・・。伯父上は、なぜ氏上を父にお譲りなされたのですか」
入彦は疑問を投げかけた。そうではないか。大彦が氏上であれば、磯城族は挫折を知らずに繁栄に向かって邁進するだろう。
「さっそく悩んでおるな、入彦。そうよ、氏上は悩むものなのだ。だから吾は、それを弟に押しつけて逃げたというわけよ」
大彦は大笑いで入彦の不安を吹き飛ばした。
生まれてくる時代にも産声があるとすれば、このとき、青天にまで届いた大彦の笑い声がそれだった。
その青天に、入彦が目覚める少し前、強く輝く光の尾を引いた流星が流れるのを、多くの人が目撃した。それは霊力を使い果たした剋軸香果実が、次なる生息地を求めて飛びゆく姿だったが、それを、そうと知る者はいなかった。
さて、大渦は消えた。それにともない、山門の中心部も消えた。五重の濠を巡らした山門の首邑、山門大宮はもちろんのこと、その衛星的な邑々も消え去った。消えた後には、葦原が広がった。太古の原野だ。
多くの族が邑を失い、大きな損害を受けた。それでも、山門の周辺部は時の回帰を逃れた。天地は太古に還っても、人々はなおも時の流れのなかで生き続けている。
天孫族も乗り切った。出雲族との戦いと、大渦の災厄で多くの軍士を喪ったが、狭野姫は、手研、道臣、珍彦とともに、橿原宮へ帰り着いた。
狭野姫は褥に倒れ込み、深く眠った。
手研も疲労困憊だったが、わずかな休息を取っただけで、道臣、珍彦とともに次なる時代の天孫族の歩みについて語り合った。
優しい風に揺れる葦原に、人影が立っていた。その人影は、丘の上の、斑鳩宮の高楼がそびえていた辺りを見つめていた。丘は今もあるが、頂にあるのは、ただ葦原と澄み渡った青空だった。
人影は、絵画の一色であるかのように、ずっと立ち尽くしていた。
やがて青天に夕色が滲み始めた頃、人影の隣に、もうひとつの人影が立った。御名方だった。
「どれだけ見続けても、この眺めはかわらんよ、安彦」
御名方は安彦の肩に手を置いた。幽さの中に消え入りそうな弱々しい肩だった。
柔らかい風が安彦の髪を揺らしている。佳人のような白い頬を、涙が滑り落ちる。
「何もかもなくなってしまった。私が、私がそうさせたのだ」
安彦は消え去ってしまいたかった。そうならなければならないと思った。だから十種神宝とともに、大渦に呑み込まれたのだ。だが、何かが、逆巻く時の流れの中から安彦を掴みだした。
気がつけば、安彦は葦原に立っていた。そしてそのまま、立ち続けている。
「ふたつ、良いことを教えてやろう」
御名方は、悔恨の底なし闇に落ちている安彦の魂を掬い上げたかった。
「失ったものは還ってこないが、再び創り出すことはできる。これがひとつだ。もうひとつは、汝はすべてを失ったわけではない」
御名方は不躾に、安彦の首に腕を回した。
「吾がいる。そうだろう。それを教えてやる」
そう言われた安彦は、涙を止めて御名方の顔を見た。どんな艱難苦難も踏みつけて進む男の顔があった。異母兄たちも、そんな顔をしていた。
安彦は葦原に視線を戻した。同じはずの風景に、わずかな明るさの変化があった。虚無の象徴として見ていた葦原が、何かが栄える兆しに見えた。葦原の同じ光を見つめながら、御名方は、
「吾と汝で、また新しい六合を創ろう。山門はもういい。ここからずっと東にも、よい土地があるそうだ。今度はそこへゆこう。今度こそ、吾と汝の真秀場を創ろうではないか」
と、安彦を誘った。御名方のいう東には、科野と呼ばれる土地があり、洲羽の湖を抱く肥沃な大地だという。御名方は次なる建国予定地をすでに決めていた。
安彦は強ばらせていた肩の力を抜き、御名方の揺るぎなさに身体を預けた。二人の異母兄に、今このときと同じような素直さを向けていたなら、今日はなかっただろう。悔恨は消し去りようがないが、御名方の言うように、確かに新しさへ進む道もある。そんな声が胸の中に聞こえるようになった。
二人の偉大な異母兄の姿を映した目を閉じた。涙がもうひとすじ、左右の瞼の下から流れ落ちた。
安彦と御名方の人影が風景から消え、地表から立ちのぼる宵闇の青さが葦の穂先までを染めた頃、丘を登る三つの影があった。ひとつは入彦で、あとのふたつは翠雨と如虎だ。
斑鳩宮が建っていた丘の頂は広い平坦で、いくつもの高楼が建ち並んでいた面影はない。そこから見晴るかす世界は、天界には黄金色に近い夕景色が広がり、地界の葦原は宵の青さに沈んでいる。
入彦は、地下世界への入口があった辺りに立った。当然、根の堅洲に続くような深い穴はなく、葦の穂が揺れているだけだ。
入彦は人を探している。御統と豊だ。二人は死の淵に落ちたが、天目一箇神が禁忌を破って何らかの手を打ってくれたはずだ。
入彦と翠雨と如虎は葦の穂を分けて探したが、御統と豊の姿はない。それでもひたすら入彦は再会を信じて探し続けた。
やがて夜空に星々が象形を結び始めた頃、赤子の泣き声がした。
こんなところで赤子が泣いているはずはない。そう思いながらも、泣き声のする方へ入彦は走った。そして見つけた。二人の赤子が、葦の褥に寝かされているのを。ひとりはすやすやと眠り、ひとりは泣きぐずっている。
入彦に続いて、如虎と翠雨も集まってきた。
入彦は泣いている赤子を抱き上げた。入彦に抱かれると、その赤子は泣き止み、澄んだ眼で入彦を見つめた。
「やぁ、豊。また会えたな」
天目一箇神は、魂を新しい器に入れたとしても元の二人ではない、と言った。その言葉どおり豊と御統は、赤子として生まれ変わったのだ。
入彦はよく眠っている赤子も抱き上げた。のんびりしているので、こちらが御統に違いないと思った。
ところで、入彦が二人の赤子を豊と御統の生まれ変わりとして信じ、疑わなかったのは、白銅鏡が添えられていたからだ。そして赤子を包んでいるのは、豊のあの黒衣だった。
丘の麓にいくつもの炬火が見えた。磯城族が、入彦を案じて迎えに来たのだ。
入彦は翠雨と如虎と一緒に、二人の赤子を抱いて丘の斜面を下りた。
磯城族は、戻ってきた氏上が二人の赤子を抱いているのを見て、驚いた。先頭にいた大彦も驚いたには違いないが、その驚きを腹の底に沈め、入彦の抱いている二人の赤子を覗き込んだ。事情を察する、という具合にはいかなかったが、大彦は、新しい二つの命は磯城族にとっての吉兆と捉えた。
「我らに新しい命がくだされた。こりゃ、めでたいぞ」
大彦が大声で祝福すると、他の磯城族にも朗らかさが伝播し、二人の赤子は族人の寿言に包まれた。
族人のうち気の利く者が、さっそく翠雨の背にちょうどよい大きさの籠を結いつけた。柔らかい布が敷かれ、その上に二人の赤子は寝かされた。
「さぁ、帰るぞ。我らの邑にな」
大彦の号令で、磯城族は長い1日を終え、帰路に着いた。
入彦と如虎は、翠雨に寄り添って歩いた。
磯城族が進む先は暗闇だったが、それを切り裂いてゆく炬火があるように、残された山門がゆく先にも必ず光がある、と入彦は強く信じることができた。
翠雨の背に揺られ、眠っていた赤子も目を覚ました。
四つの澄んだ眼に、満天の星空が映っていた。
それから幾年かが過ぎた。
太古の葦原に還った土地にも低木が生え、その木陰で小さな獣が憩うようになった。花々はそこかしこに群生し、蝶や蜂を楽しませている。風景の光彩が豊かになった。
それでも、かつて栄えた都は剥き出しの丘のままだ。だが人々の歩みが止まったわけではなく、いくつかの土地で繁栄を築いていた。ひとつは天孫族で、橿原宮は往時の斑鳩宮の栄華に迫っている。ひとつは、山門の古豪でありながら天孫族とうまく折り合いをつけた葛城族だ。氏上の太忍は天孫族に服いながらも自治権を認められ、長柄邑を中心に、山門西南方に勢力圏を保有した。もうひとつが、磯城族である。
入彦は、拡張した磯城族の邑に瑞籬の名を与えた。橿原宮や長柄邑のような華麗な高楼は建ち並ばないが、活気のある邑だ。
瑞籬邑は二つの山影に護られている。ひとつが磯城族の神奈備山である三輪山で、もうひとつが鳥見山だ。
入彦は、鳥見山の、山門盆地を見晴るかすことのできる頂き近くに社を建てた。入彦の宮はもちろん瑞籬邑にもあるが、鳥見山の社で過ごす時間も多かった。
まだ木の香りのする社の露台に立ち、山門の天地を一望した。昔日、まだ天孫族と磯城族が磐余で戦っていた頃、鳥見山で偶然出会った天孫族の狭野姫と、この近くで美しい夕景色を見た。遠くかすむ山々の青さは、あのときと変わっていない。
入彦の左右に、男児と女児が立っている。御統と豊の生まれ変わりの二人に、入彦は豊城彦と豊鍬姫の名を与えた。二人を我が子として育てることに、妻の美茉姫も賛同してくれた。
父子三人の静かな時間は、板床を踏む音で中断された。参上した舎人の石飛が、
「橿原宮から使人が参りました。大彦様がもてなされておられます」
と、告げた。
「伯父上のもてなしは荒っぽいゆえ、早ういってやらねばな」
使人が難儀している様が目に浮かぶようで、入彦は微笑んだ。
「もう帰るのですか、父上」
豊城彦が残念そうな顔で言った。
「しかたがない。大事な話をしなければならないからね」
入彦も残念だった。ここでの静かな時間は、何ものにも代えがたい。入彦がまだ幼かったとき、父と共に、春日山の檜の大木を見上げていた時間があった。あのとき、父は今の自分と同じように、そのときの一粒一粒を大切に思っていたに違いない。
「どんなお話をするの?」
目を丸々させて、豊鍬姫が尋ねた。御統と豊とは異なり、二人の童子は、豊城彦がしっかりと、豊鍬姫がのんびりとしていた。
「汝たちが暮らす天地を、もっともっと豊かにするお話だよ」
入彦は二人の童子を抱き上げた。
「豊かにですか。私の名前にも、豊かがあります」
知性を響かせる声で豊城彦が言った。
「わたしの名前にも豊があるよ」
元気いっぱいに、豊鍬姫がはしゃいだ。
「そうだ。汝たちと同じように、山門は豊かになっていくんだよ」
二人を両腕に抱いたまま、入彦はもう一度、山門の天地を眺めた。
季節は初夏。躑躅の盛り。見渡す風光は花色の額の中の絵画のようだった。
完
御統の物語はこれでおしまいです。
ですが、虚空満つ山門の物語は、まだまだ続きます。たぶん・・・。
最後までお付き合いくださった方、ありがとうございました。




