山門編-失われた天地の章(34)-天地消失(5)-
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、天孫族を率いて真秀場を目指し、山門に挑むも大日の前に敗れる。狭野姫は五瀬の遺志を継ぎ、韴霊剣の力を得て、熊野の地を平定する。狭野姫は再び山門に挑み、ついに大日を倒す。天孫族との平ぎを命ずる父に反抗した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。愛する者を奪われた二人は感情を剣に宿して戦うが、山門の美しい夕景は、二人に天孫族と山門の麗しい未来を見せる。天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が山門掌握の画策を進める。拐かしていた美茉姫を御巫に仕立て、大掛かりな大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった御統が顕現させた天目一箇神が安彦の企図を破壊する。一方、五十茸山では、輪熊と鹿高が剋軸香果実の起源を知る。
美茉姫を取り戻した入彦たちは、果実の真意を知り、山門を消滅から救うために動き始める。豊には、彼女を解き放たない暗い宿願がある決断を迫る。
安彦は最後の手段として果実との融合に挑み、盟友である御名方は出雲の軍士を率い、戦いの準備を整える。狭野姫は入彦の助力の依頼を受けるが、手研は天孫族の不満を案ずる。
山門の命運を決する戦いが迫る最中、御統と豊は、川辺で友情を確かめ合う。
ついに磯城族と天孫族は山門大宮に進軍し、御名方が率いる出雲族と対峙する。戦での犠牲者を最小にすべく、入彦、御統、豊は斑鳩宮に侵入し、果実の破壊を試みる。三人の前に、果実と融合し、この世のものとは思えぬ姿となった安彦が立ちはだかる。
地上では呪術の怪物と地祇、天孫族、磯城族、出雲族、登美族が入り乱れる大激戦が展開され、多くの命と希望が消え去っていく。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
鵄の甲高い鳴き声が澄明な大気を貫いたが、死力をふり絞る地上の軍士たちには届かない。
ひとり、鵄の声に反応した男がいる。
国牽は空を見上げた。吸い込まれそうな青空に、黒々とした鳥影が過ぎてゆく。遠ざかってゆくその影が、国牽には、安彦の後ろ姿に見えた。
霊力によって生み出されていた埴土の兵はすでになく、地の裂け目も塞がっている。地震の荒男も、大山祇と鹿屋野姫によって、土に戻されていた。地上の戦いは霊力の支配から脱し、人力の戦いに集約されている。
国牽は辺りを見渡した。喊声が集中しているところでは、激しい戦いが行われている。天孫族、磯城族、出雲族、登美族の軍士たちが熾烈に戦っている。
祝者や巫の仕事は、負傷者の救助に移っていた。
一方の光景に、日差しを拒否するかのように暗雲に沈む斑鳩宮がある。その地下に、安彦がいるのだ。
磯城族の氏上の側室の子として生まれた安彦は、不憫な幼少時代だった。努めて平然とし、異母兄と対等に付き合おうとする姿勢がいじらしかった。族人から向けられる、異母兄妹へのものとは温度の違った視線が、幾度も安彦の矜持を傷つけたに違いない。国牽は、子供らを分け隔てなく愛したつもりだった。しかし、安彦にはより深い愛情を注ぐべきだったのではないかという後悔がある。大彦や大日は族人からも愛されるが、安彦を愛するのは、その母の他は、父たる己しかいなかったではないか。
後悔を後悔のまま放置するのは、怠け者の所業である。
戦場に自分の必要性がもはやないと判断した国牽は、斑鳩宮へ向けて走りだした。
その頃、斑鳩宮の地下世界では、果実を巡る競り合いが続いていた。
地下世界は白霧に満たされていた。果実の膨大な霊力が水蒸気のように拡散し、微量の白光を放つのだ。白さの中での静かな戦いだ。
入彦、御統、豊は、この白霧の中のどこかに隠された果実を探しながら、安彦が造り出す幻影と戦っている。
この白霧は、かつて饒速日が山門の諸族を夢幻に包み、操ったものとおなじ霊力を帯びている。その呪いから逃れ得たのは、秀抜の呪能を備えた者だけだった。大日ですら、意識のどこかに異質を感じる部分を残しながらも、正体に気づかず、操られた。
幸いなことに、三人には果実の霊力に抗い得るものを身につけている。豊は万人に一人といって良い呪能を備えているし、入彦には大物主の幸魂を写し取った鏡が、御統には天目一箇神を封じ込めた鏡がそれぞれある。夢幻に包まれて、甘い夢を見ているのは如虎だけだ。
そこで安彦は、霊力の霧にはない想像力で、もっと強力な幻を造り出し、三人の戦意をくじき、深い眠りにつけようとした。その行為からわかるように、安彦に、三人に対する殺意はない。地上の戦いが出雲族の勝利に終わり、安彦が果実を完全に取り込むまで、大人しくしていてくれればそれで良いのだ。
かえって三人にとっては、安彦がまだ余裕を見せている今にこそ、果実を奪取しなければならない、ということになる。
ところが三人は、幻影に苦しめられた。
視界を覆い尽くされ、物の輪郭が全く掴めないから、闇に閉ざされているのとかわりない。白い闇の中を、果実を探して、三人は彷徨っている。
入彦の眼前に、幾度目かの人影が現れた。白い闇の中で、その人影だけが鮮やかな黒さで滲み現れる。だからそれが幻影だと知れるのだが、その人影は、やがて大日の姿となる。
大日の微笑みは春の日差しのようだ。温かく、優しい。そして入彦にこう呼びかける。
「よくやったな。もう苦しむことはない。ゆっくりと休んでよいのだ」
と。その声は、入彦の心をある情景へと誘う。のどかな日、父と二人、春日山の木漏れ日を歩いた景色。並んで歩き、手を引かれたときもあり、背に負われていたときもある。なにも案ずることなく眠ることのできた父の大きな背。そのときのように休めばよい、と大日は言う。入彦はこう応えるのだ。
「違いますよ、叔父上。父はそのようには、今の私には申しません。父の心根は、貴方もわかっているでしょう。父はこう言うのです。苦しんでも、悲しんでも、必ず最後までやり遂げろ、と。やり遂げるまでは決して休むな、と。やり遂げてこそ、父は微笑むのです。目的をはてしてこそ、父は労ってくれるのです。しくじっても、父はもっと大きく労ってくれるのです。私はまだ、目的を果たしても、しくじってもいない」
大日の幻影が目の前に立つ度に、入彦は歯を食いしばって払い除けた。
豊の前に現れる幻影は、日光を浴びる鈿女族だ。それはまだ豊が生まれる前の鈿女族の日常だが、そうであったはずだと豊が希求する光景でもある。
安彦が造り出した幻影ではない。豊が望んで映し出している。安彦は豊の過去を知らない。まだ山門の持傾頭であったとき、入彦の周囲に現れるようになった少女の素性を配下に調べさせたが、大した情報はつかめなかった。
何を見せれば豊の戦意を挫くことができるのかを知らない安彦は、果実の霊力の随に任せた。かつて饒速日によって発動されたときと同じように、見たい幻を見せた。日の下の鈿女族は、豊が見たいと渇望した光景なのだ。
鈿女族の女たちが美しい巫の衣裳で、天神地祇への寿言を紡いでいる。子どもたちは駆け回り、その中に、豊が弟のようにかわいがった男児もいる。
豊は、そこにはいない。そこへ近づこうと懸命に走っている。なぜ懸命に走るのか。大災の接近を知っているからだ。
走っても走っても、光の中の鈿女族は近くならず、やがて空が血のような紅さに染まり、夥しい黒い凶手が鈿女族を襲って、阿鼻叫喚が巻き起こる。
「逃げて!」
そう叫んで、幻影は終わる。それは豊の心の内奥に巣食う鈿女族の遺恨が見せている幻影だ。幻影は繰り返され、その度に豊は、鈿女族を襲った災厄への怒りを増幅させてゆく。
入彦と豊は、幻影を払うたびに闘争心や敵愾心を増したが、御統は二人とは違い、幻影を退けはしなかった。それは、安彦が見せる幻影が、御統のもっとも会いたい人物へ誘ったからだ。三人の中で、安彦がその望むものをもっとも知るのが御統であり、もっとも傷つけたくない童子でもある。
御統は、輪熊と鹿高に手を引かれている。輪熊の手は分厚く力強く、鹿高の手は繊細で優しい。
輪熊と鹿高はもうひとつの人影を指差し、いつのまにか御統はその人影の背に負われていた。
懐かしい背中。その背に負われ、またはその人物の腕に抱かれ、長い旅をした記憶がある。幻影の中で、その人物の背で揺られながら、御統はそのときの旅の日々を遡っているのだと知った。
星影の夜、岩窟の宿。寂寥を三人目の道連れとしたような旅だったが、不安はなかった。その人物が、絶対に自分を守ってくれるとわかっているからだ。
御統は負われた背から首をもたげ、その人物の顔を見ようとしたが、どうもよく見えない。ただ、微笑んでいることだけがわかった。御統は懸命にその人物を思い出そうとした。
五百箇。そう、その人は五百箇という名前だった。御統という名を授け、真紅の管玉と、美しく鋳上げられた白銅鏡を与えてくれた人だ。それ以外のことは何も知らないが、その人がいなければ、自分は生きていなかったことは知っている。
幻影の中の幾夜を過ごしたか、その人は御統を背から降ろし、草原に立たせた。
光に満ちた草原だった。日差しは温かく、風は心地よい。
草原の小高くなったところに、二つの人影があった。五百箇にそっと背を押された御統は草原を駆け上がった。
教えられなくてもわかる。二つの人影は父と母だ。御統は父と母のもとへ飛び込んだ。
逆光の中の父母の顔はよく見えない。だが、愛情は伝わってくる。御統は母に抱かれ、父に背や頭を撫でられて、泣きじゃくった。ずっとずっと求めてきた瞬間だった。とうとう常世原にたどり着いたのだ、と思った。
現実の白霧の中で御統はうずくまり、そのまま地肌に体を横たえ、幻影の世界から意識を戻すことをしなかった。幻影の中の父と母の顔立ちは逆光に隠されていたが、愛情は伝わってきた。御統がそう信じていたとおり、父と母はずっと御統を愛してくれていたのだ。なぜ遠く離れていたのか、その理由は今は必要ない。父と母のそばにいられるのなら、それだけでいい。
御統の戦意を挫くことには成功したが、入彦と豊は安彦の幻影を振り払った。だが、視界を奪う白い闇の中で、果実の在り処がわかるはずもなく、入彦と豊はやみくもに動き回っては方向感覚も失っていた。倒れるまで彷徨う覚悟はあるにしても、あと幾度、幻影の誘惑に抗えるかの自信はない。
果実を見つけ出される心配は少ないと考えた安彦は、意識を地上の戦闘に集中させようとした。
ところが、安彦の意表をつき、入彦と豊の、永遠に続くかと思われた徘徊を終わらせたのは、如虎だった。
如虎は呪能を持たない獣だから、白霧の呪いに抗うことをせず、早々に眠りに落ちた。如虎は黒豹だ。普通、黒豹は獰猛な獣だが、彼はその常識にとらわれない優しい性格をしていた。もちろん肉を食べるが、自分で狩りをすることはできず、輪熊座に飼われていた子豹のころから、人が獲ってきた鹿や猪の肉を与えられていた。
如虎は旅芸人一座の輪熊座の動物芸の中では、人気を博していた。黒毛が艷やかで美しかったし、吠えるときの声は輪熊も認める美声だった。
如虎は虫の羽音にも怯える臆病者ではあったが、それは起きているときのことで、夢の中では豹本来の獰猛さをみせることが多かった。それは、実は彼自身が、豹の獰猛さに憧れていたということだった。
さて、如虎は夢を見ていた。心地よい日差しの野原で寝そべっている夢だ。なんと如虎の周囲には雌の豹が何匹も侍っている。年頃の如虎は、そんな夢を見るのだ。
夢の中の如虎は雄々しく、自信に満ち溢れている。彼が一声、咆哮すれば、すべての動物がひれ伏した。
そんな如虎の嗅覚を、何か芳醇な香りが刺激した。それは円熟した雌の獣が雄を招き寄せる匂いに似ていた。夢の中の如虎は行動的で、躊躇をしない。雄の本能で、すぐさまその匂いに反応した。
夢の中の如虎には、その甘い匂いの源が、妖艶な大人の雌豹に見えた。だから飛びついた。友人兼飼い主の豊のひんしゅくを買うこと間違い無しの鼻の下を伸ばした顔で。 ところが、現実の世界で、それは妖艶な大人の雌豹ではなかった。
入彦や豊の探索を躱すために、白霧の中を浮遊し、緩やかに飛行していた剋軸香果実は、突然、黒豹に飛びつかれて驚いた。
果実にも心があるのか、驚いて狼狽し、その拍子に白霧の呪術が解けた。
時が止まる、という瞬間は確かにあり、このときがそうだった。入彦と豊、そして霊体の安彦の視線が、一匹の獣に集まった。当の如虎は、事態が理解できずに固まっている。彼が上下の牙で挟んでいるのは、間違いなく剋軸香果実だった。
「それだ!」
入彦が叫び、仰天した如虎が飛び上がった。そのときから、時が再び動き始めた。
「こっちにおいで、如虎」
豊が焦りを押し殺した優しい声で呼ぶ。
「こっちにこい」
入彦が焦りをむき出した大声で呼びつける。
従順な如虎は、どっちの命令に従うべきが戸惑った。
この場合の正解は、
「すぐに逃げろ」
であったろう。なぜなら、霊体の安彦が、如虎のすぐ後ろに迫っていたからだ。
強烈な殺気を感じた如虎が恐る恐る背後を振り返ると、そこに憤怒の表情の安彦が浮かんでいた。驚倒の心境を飛び上がって表現した如虎は、必死に宙を四足で掻いた。無様を見せる如虎をそれでも褒めるべきは、果実を噛んだまま放さなかったことだ。
安彦の頭上にみるみる黒雲が湧き、号令一喝で激しい落雷が如虎を撃った。と、見えたが、如虎は豹柄を置き去りにするような素早さで落雷から逃れていた。しかし、黒雲は次々と稲光を発し、如虎を追いながら地肌を焼き付けてゆく。
如虎に対しては、安彦は殺意満杯だった。もともと眼中になかった獣だ。その獣に出し抜かれたことが、安彦の殺意を増幅した。
豊の操る札と、入彦が生み出す植物の根や葉が、激しい落雷から如虎を護る。稲光の閃光を頼りに逃げ続けた如虎は、この地下世界に降りてきたときの通路をようやく見つけた。
まさに逃げ切ろうとしたそのとき、如虎の前方の地面がいくつも盛り上がり、屈強な埴土の兵となった。行く手を遮られた如虎は慌てて旋回し、さらに逃げようとしたが、一体の埴土兵の矛に殴打されて吹き飛び、地面を転がった。如虎を突き刺そうと剣を掲げた埴土兵を、太い植物の根が縦横に貫き、破砕して土塊に還した。その隙に如虎の側に駆け込んだ豊が、あと二体の埴土兵を解除の呪言で土塊とした。
如虎を護りきった入彦と豊だが、事態は全く好転していない。無数の埴土兵に取り囲まれてしまったし、肝心の果実は、如虎が殴打された拍子に放してしまい、宙空を糸で引かれるように飛んで、霊体の安彦の手に落ちた。
安彦の両眼が熾火のように燃えさかっている。安彦は当初の余裕を捨て、全霊力をもって、邪魔者を排除することに決めた。地上の戦いへの安彦の支援が弱まったのはこのときからだ。
「甥御殿よ」
安彦は入彦に呼びかけた。この呼びかけに応じなければ、敬愛する異母兄の子であろうとも、殺傷はやむを得ないと決めた。
「おとなしく地上へ戻り、磯城族の行く末を見守られよ。果実のことは、吾に委ねてもらいたい。必ずや果実の霊力を吾のものとし、磯城を、山門を、豊かな六合とすることを約束する。吾が庶兄も、汝の考も、それを望むであろう」
それは安彦の本心だ。己が果実の膨大な霊力を制御することができれば、山門の諸族を、いや出雲や吉備、筑紫の諸族までをも、平和に、豊かに、統治することができる。磯城族の祖霊である大物主の力添えを得ている今ならば、果実を自身の中に封印することができる。邪魔がなければ、そのときは間もなくだ。先代の饒速日のような姑息な呪いではなく、圧倒的な霊力による永遠の平和を、この豊秋津洲にもたらすことができる。安彦は、そう信じている。
「私はそうは思いませんよ、叔父上。父は、そんな方法で豊かな六合を創ろうとはしません。父が望むのは、人が、人の力で、挫けながら、悩みながら、それでも創り上げていく豊かさを目指しているのです。果実の霊力になど、頼ろうとはしません」
入彦は、そう断言した。天神地祇に祈り、加護を求めはするが、最後は人の力で成し遂げることが、大日の理想だった。まやかしや呪いなどが介在するものではない。
「果実が蓄えた大地の霊力は何百年、何千年とあり続けるかもしれないけれど、人はそうはいかないわ。あなたもいつかは死に、朽ちるのよ。そのとき、あなたは果実をどうするつもりなの」
今度は豊が鋭く指摘した。とてつもない力を秘めた妖物は、いつか人の手に余るときがくる。そんなものは人の世界にないほうがいい。高天原に還すか、さもなければ根の堅州に墜とすべきだ。
豊は、安彦に突きつけた指先に気迫を込めたが、安彦はせせら笑っただけだった。
「やはり、汝らは何も知らぬようだ。果実が、剋軸香果実と呼ばれるその由縁を。果実と一体となって、吾は理解した。果実が永きに渡って蓄えてきた大地の霊力は、ただ万象を無に帰すものではない。剋を戻すものなのだ。人に穢され
ぬ清らかな太古へ、剋を還すものなのだ。そのすばらしい力を、吾は統べる。ゆえに吾は死なぬ。朽ちぬ。山門に生きる人々も、また幾度となく繰り返される剋の中で、豊かで幸せな日々を永久に授けられるのだ。そうなってこそ、山門は永久の真秀場となる」
ときを戻そうと言うのだ。あの麗しき磯城の日差しの日々へ。そこでは、夜姫となって死んだ異母妹も陽姫となって蘇り、敬愛の想いを伝えられなかった大日と大彦に、安彦は本心を語っているだろう。そして、その安らかな日々を永久に繰り返す。剋を支配する者となれば、それを実現させることができるのだ。
安彦は陶酔した目を上方に向けた。そこには地下世界の暗さしかないはずだが、安彦の網膜には、青空と降り注ぐ日差しのもと、五穀が実り、鳥獣が飛び交い、人々が笑顔を向け合う美しい山門が映っていた。その夢のような世界の実現を図り、希求したのは安彦の真実ではあった。
「叔父上、あなたが本当にそれを真秀場だというのなら、私はやはり、叔父上からその果実を奪い取らねばなりません」
永久に繰り返される日々。豊かであろうと、幸せであろうと、それはまがい物にすぎず、それを理想郷とは入彦は考えない。
「人は死に、子に次を託してゆくのです。子は親の思いを受け継ぎ、さらに子に次を託してゆく。それを繰り返してこそ、悲運があろうと、悲嘆があろうと、一歩ずつ、本当の真秀場に近づいていくのだと、私は信じます。叔父上が求めておられるのは、ときという名の牢獄にすぎない。山門の人々を、永久の囚人にはさせません!」
信念と気迫を、入彦は音吐に込めた。
興を醒まされた安彦が入彦を見下ろす目の色が、みるみる変化した。熾火のように燃えさかっていた目が、その炎の揺らぎはそのままに、氷点下まで冷え込んだ。
「口惜しいな、入彦よ。吾は汝の諾いが欲しかったのだが」
入彦は、安彦の呼びかけに応じなかった。すでに判断したように、入彦の妨害を排除するためには、死傷させることもやむを得ない。
安彦の放つ膨大な霊力に、殺意が混ざってゆく。そのことを肌の悪寒で感じ取った入彦は、豊を庇うように寄り添った。
「天目一箇神を呼び出せたら、何とかできそうなんだけど」
豊がささやいた。入彦はかぶりを振った。
「御統は眠ったままだ。よほど良い夢を見せられているのだろう。白銅鏡は御統の声にしか応じない。ともかく、あてにできないものを恃んでもどうにもならない。私と豊、ふたりができる方法で叔父上の目を覚まそう」
毅然として、入彦は言った。その言葉に、胸の底をじんと熱くした豊は思う。あのどこか頼りない、茫漠とした、薄っぺらさしか感じなかった入彦と出会ったのは、いつの日のことだったろう。それとも、こうあって欲しいという入彦を、まだ幻影に見ているのか。
「豊、私を信じるか」
まっすぐ見つめてくる瞳と、熱意に震える声は本物だ。本物の入彦が、ついてきてくれと言っている。
「本当に何も知らないのね、入彦。嬢子の心を得るのは難しいのよ」
そんな言い方で、豊は入彦を微笑ませた。ただ、
「わたしを信じてはいけないのよ、入彦」
という心奥の声は、言葉にしなかった。自分を信じろと真正面から言える入彦が、羨ましく、遠い存在のように思えた。
安彦の頭上の黒雲が激しい閃光を放ち、轟音が地下世界を揺るがした。数本の稲妻が入彦と豊を襲ったが、寸前に地中からの伸びた植物の極太の根が避雷針となって二人を護った。その焼け焦げた根を超える高さに、豊は飛翔している。彼女の黒衣が木菟となって羽ばたいたのだ。
「大雷!、裂雷!、火雷!」
豊はありったけの呪力を言霊に込め、幾つもの光弾を放った。だが、安彦の周囲を覆う目に見えない分厚い霊力の壁が、豊の全力の攻撃を弾いた。
薄く笑った安彦が呪言を唱えると、天井から土の触手が何本も伸びて、飛翔する豊を掴み取ろうとした。辛うじて、豊は土の触手をかわす。
豊は呪力では、到底、果実の霊力を帯びた安彦を倒せないことを悟った。土の触手をかわしながら下を見ると、入彦は何十という埴土兵と戦っている。如虎は逃げ回っているが、ときおりは牙をむいて、埴土兵の尻のあたりに嚙みついたりしている。頼みの御統は眠ったままだ。
呪力で勝負にならなければ、物理的な力に用いざるを得ない。だが、霊体となった安彦に、物理の力が効くのかどうかは心もとない。
豊は、そのとき、あることに感づいた。あるではないか、物理の力が効くものが。
豊は崩れかけた祭壇の頂に置かれたものを見た。それは、安彦の抜け殻、生身の身体である。果実と一体になった安彦が、抜け殻に執着するのかどうかは賭けだったが、何かしらの打開策を求めなければ、いずれ豊も入彦も、圧倒的な霊力に敗れ去ることは明らかだ。
豊の視線からその意図を察した安彦は、自分の生身を護ろうとした。土の触手と埴土兵が無数にわき出て、祭壇の頂の抜け殻を守備した。
豊はありったけの呪力を言霊に変えて、無数の電光を放った。同時に、持っていた全ての木片や小石を放出し、飛矢や雷蛇と化して投げつけた。
ほとんどの術は土の触手と埴土兵に阻まれたが、一矢だけが安彦の守備陣形をすり抜けて、安彦の生身の胸部に突き刺さった。
聴覚を震わさぬ叫声を、豊は聞いた。安彦の本心の苦悶が豊に届いたのだ。
張り巡らされていた目に見えない帳が、一斉に落ちたような感覚が、豊と入彦にあった。地中だから空気は澱んだままだが、肌にまとわりついていた霊気の感触が解けた。
豊は黒衣の翼をたたみ、地表に降り立った。入彦が青銅鏡を降ろすと、縦横に巡っていた植物の根が地中に還った。おっかなびっくりの歩調で、如虎が二人に近づいてきた。崩れかけた祭壇の頂に、六つの目が同時に向けられた。
そのとき、入彦の青銅鏡がひとりでに浮かび上がると、眩しく輝き、鏡面から抜け出た光球が尾を引いて祭壇の頂に向かい、安彦の生身に吸い込まれた。青銅鏡は浮遊を止め、入彦の手に戻った。鏡面の澄みは以前のままだったが、入彦には、そこに封じていた大物主の幸魂が、すでに宿っていないことを悟った。
このとき、安彦の体内で、三つの霊魂が対峙していた。安彦自身の魂と、果実と、そして大物主だ。大物主は磯城族の代々の祖霊の集合体だが、いまは安彦に分かりやすいよう、祖父に当たる太瓊の容姿を借りている。輪熊座の靫翁といえば、御統と豊にも既知の人物ということになる。
対峙しているといっても、安彦と果実の霊魂は溶け合い、渾然一体となっている。そこに手を添えているのが大物主だ。不可視の霊魂の世界を描き出せば、そういう光景になる。
安彦は果実の暴走を抑え込み、自分の精神野に封じ込めようとした。大物主の霊力を得ることでその企図に成算が生じたが、大物主は天神地祇に備わる四魂のうち幸魂を欠いており、結果として安彦は霊魂の中の欲望の分野を果実に操られた。
幸魂を欠いたまま、安彦の不利を切歯扼腕するしかなかった大物主だが、安彦の生身が豊の術によって攻撃を受け、安彦の霊魂がその衝撃によって正気を取り戻したこの一瞬を、大物主は見逃さなかった。入彦に分け与えていた幸魂をすばやく回収し、本来の霊力を取り戻すや、溶け合った安彦と果実の霊魂に介入し、分離させることに成功した。
生身の安彦の精神野で、そのようなことが行われている。
大物主の霊魂は、ようやく正気を取り戻し、息切れしているような安彦の霊魂に語りかける。
「もうよそう、安彦。もはや永久の力でどうにかなるものではない」
それは理解している安彦だった。しかしこのまま果実を野放しにすれば、蓄えられた膨大な霊力の暴走で時空が巻き戻され、山門は、何もなかった時代の原野に戻ってしまう。
「汝が背負わねばならぬ運命ではない」
慈父の顔でそう言うと、大物主は安彦に有無を言わせず、安彦の生身から果実の霊力を切り離した。瞼を見開いた安彦は、祭壇の頂に倒れ込み、あえいだ。入彦は思わず駆け寄り、叔父を助けた。
「吾などに構うな。それよりも、大物主様が」
震える指で、安彦は宙空に浮遊する果実を指した。大物主は安彦の精神野から果実の霊魂を追い出すため、自ら犠牲になったのだ。
磯城族の人間にとって、大物主は最もあがめ奉るべき祖霊だ。喪うわけにはいかなかったが、しかし、強烈な霊気を光射として放つ果実に対して、どうしようもなかった。大物主の幸魂が宿らぬ青銅鏡は、もはや入彦に何の力も貸し与えない。
呪力を使い果たした豊も地表に座り込み、時空が逆巻くそのときをただ待っているだけだ。
果実の放つ光射がときおり波打った。それは、その中に取り込まれた大物主がまだ戦っている証だった。
入彦は覚悟を決めた。気迫が宿った瞳を、豊と安彦に向ける。二人は頷いた。なけなしであろうとも、三人の命を絞りきれば、数秒でも、そのときを遅らせられるかもしれない。その数秒で、助かる命もあるだろう。
三人が同時に立ち上がったとき、もう一人も立ち上がっていた。
御統だ。
御統は、無言で、何の躊躇もなく、眩しく輝く果実に近寄った。表情に懼れはなく、安らかだった。入彦と豊、そして安彦は時が止まったように感じ、ただ御統を見つめた。
果実から放たれていた強烈な光が一点に凝縮してゆき、やがて、人の形になった。
入彦と豊、そして安彦は息を飲んだ。その輝く人の姿が、赤子の姿をしていたからだ。そしてその輝く赤子こそが、果実の霊魂の正体であることを認知した。
「やぁ」
御統には、まるで友人のような心安さがある。驚くべきは、その親しみを果実の霊魂が受け入れたことだ。小さな手を伸ばし、信頼できる兄を迎えるようなあどけない表情をみせている。
御統と赤子とに、いつ、どのような真心の交流があったのか。入彦は驚愕の眼差しで彼らを見つめている。
「父ちゃんと母ちゃんに会いたいんだろ。そうだよな、おれっちもそうなんだ」
御統は、赤子の霊気の小さな手に触れた。
夢の中の光景で、御統は面立ちは朧ながら、確かに両親の温もりに抱かれていた。それは、果実に半ば操られていた安彦の呪術によって見せられていた幻影だが、それを幻影として認識する御統の中の冷静な部分があり、それがその光景を見つめるもう一つの視線に気づいた。その視線は、両親の腕の中の御統を羨んでいた。目覚めたとき、御統は、その羨望の眼差しの持ち主が、果実そのものなのではないかと考えた。
「捨てられたって、父ちゃんと母ちゃんのところに帰りたいよな」
御統は果実の心を代弁した。果実は、天津神が高天原から捨て去った邪気の結晶だ。邪気だからといって、生みの親を忘れるわけではない。むしろ邪気だからこそ、自分を清めてくれるはずの親の無償の愛を求めるのだ。
御統は思う。邪気を捨て去った高天原の神々は、どのような幸せを享受しているのだろう、と。邪気にとって、高天原の神々は親なのだ。子を捨てて得る幸せに、どれだけの価値があるのだろうか。
生み出したものにも事情はある。やむにやまれぬ事情だ。しかしそれでも、子は親を探し求める。
御統はもう決めている。この霊気の赤子を、高天原に帰してやることを。そうできる手段が、御統にはある。
御統は腰に提げていた白銅鏡を掌に載せ、赤子に見せた。鏡に宿っている強烈な霊気を感知して、赤子はやや怯えたように眉を寄せた。だが、御統の穏やかさが、赤子の険しさを解いた。
「ほら、見事な鏡だろう。おれっちが赤ん坊の頃から持っていた鏡なんだ。輪熊の親方は、赤ん坊のおれっちを育ててくれた人が、この鏡を作ったと教えてくれた。その人は、おれっちの父ちゃんじゃないけど、赤ん坊だったおれっちをずっと守ってくれていたんだ。その人の顔は覚えていないけど、優しさは覚えている。この鏡を持っていると、その人と手を繋いでいるみたいで、とても安心できるんだ」
御統は白銅鏡を愛おしげに撫でた。その人が五百箇という名であることは、輪熊から聞いていた。両親にも会いたいが、五百箇にも会いたい。
「この鏡の中に天目一箇神が住んでいるんだ。天神なんだぞ。おれっちは、おっちゃんと呼んでるけどね。そのおっちゃんが、きっと高天原に戻してくれる。約束はしてないけど、話せばきっとわかってくれると思う。だって、おれっちが、ずっと父ちゃんと母ちゃんに会いたくてずっと泣いていたことを、この鏡の中で見ていたんだ。きっとわかってくれると思う」
御統がそう請け負うと、果実の赤子は笑ったように見えた。霊力で淡く輝く小さな手を御統に伸ばし、御統の手と触れた。まるで指切りの約束をしているように見えた。
なんということだろう。安彦も、入彦も、豊も、果実の中に取り込まれた大物主の魂も、己の眼が見守る光景が信じられなかった。
遙かな上古、高天原の神々は自らの邪気を結集して、下界に落とした。邪気は種となり、根を張って茎を伸ばして、高天原に届こうとした。届かないことを知り、根付いた豊秋津洲の大地から霊力を吸い上げて、時を戻そうとした。まだ捨てられるまえの時に戻ろうとした。それも果たせなかったが、邪気は諦めなかった。邪気といえども、親を慕うのだ。
霊力の枯れ果てた大地から、邪気は果実となって別の場所に移る術を身につけた。
果実が長い歳月をかけ、次の大地を求めて飛翔する度に、その周囲で栄えていた人の文明が消えた。何もなかったときに戻されたのだ。人に知恵が付いてくると、膨大な果実の霊力を欲して、自ら果実を暴走させるようになった。
その様子を苦々しく見ていた高天原の天神は、邪気がいつか戻ってくることを怖れ、眷属に十種の神宝を持たせ、果実を討伐させようとした。その眷属こそ、初代の饒速日であり、彼からの数代は果実の討伐に励み、果実のことを学んだが、その成果を活かすべき者が、己の野望のために先祖が培った知識を悪用して果実を制御しようとした。だがその試みも、結局は失敗した。いまだかつて、剋軸香果実となった邪気の本心と、心を通わせようとした者はいなかった。
御統は希有な男児だった。果実の邪気の本心に触れ、その悲しみを労り、その辛さを癒やし、信じ合ったのだ。高天原からの捨子は、ようやく、信じるに足る友人を得たのだ。
地下空間に充満していた霊力が、拭い去られた。その残滓が、闇の中で輝いて、まるで星空のように瞬いた。
果実は、ただの拳大の果実となって、御統の掌に収まった。
「なんということだ。果実が、男童に心を許そうとは」
蹌踉と立ち上がった安彦の全身が驚愕に染められた。一人の童子の思いやりの心が、どれほどの術者もなし得なかったことを成したのだ。
「終わったのか」
あまりにも大きな喜びが、逆に感情を奪うということがある。このときの入彦がそうだった。彼は虚脱したように無防備だった。
御統が果実の心を安らかにし、全てが弛緩したような空間の中で、ただ一人、心を研ぎすましていた者がいた。
豊だ。
確かに一つの物語は終焉を迎えようとしているが、彼女には、もう一つの物語を終わらせる使命がある。憎悪と怨念に満ちた物語を、今こそ、豊は終わらせなくてはならないのだ。
豊は黒衣の下から短剣を取り出した。銅剣であるから、威力はそれほどでもないが、無防備な背をみせている者なら容易に命を絶つことができる。
今しかない。豊は心の中で号泣した。
果実の暴走が山門を消し去ってしまう事態は食い止めた。今を逃し、すべてが終わり、入彦の安らかな笑顔を見てしまえば、豊は一族の宿願を果たすことができなくなってしまう。
入彦を殺して、自分も死ぬ。その機会は、今しかないのだ。
「ごめんね」
豊は心の中で御統に謝った。ずっと友達でいられたら、どんなにすばらしかったことか。
豊は心を殺して飛び出した。だが彼女の銅剣が貫いたのは、入彦の背ではなく、御統の胸だった。豊に覆い被さった得体の知れぬ不気味さを感じ取った御統が、豊の手元で鈍く輝く光が入彦を狙っていることを見るや、咄嗟に駆けだして入彦を庇ったのだ。
何が起こったのか、豊には理解できなかった。肉を貫く感触がし、御統は瞼を閉じ、両手が血に染まった。
鏡を落とし、ゆっくりと倒れる御統。このときの、時の流れの遅さは、豊にとってあまりに惨かった。己の凶行を、心をえぐり取るほどの鮮烈さで網膜に焼き付けられた。
豊の叫びが、時の流れを戻した。
入彦がゆっくりと振り向き、呆然とする。豊は御統を抱きしめ、命が出てゆくのを妨げようとした。しかし御統の胸から流れ出す鮮血は止まらず、体から温もりが失われていった。
安彦も愕然とした。御統が我が子であることを知るのは、彼のみだ。それを御統に伝えるつもりはなかったが、その機会が永遠に失われた事実が、安彦を激しく打ち据えた。
如虎が激しく吼えた。悲痛さよりも緊迫さの強いその咆吼が指すもの見た視線は、宙空に浮遊する果実を捉えた。
入彦は、赤子の叫び声を聞いたような気がした。次の瞬間には、視界を焼くような閃光に吹き飛ばされた。
果実から放出された禍々しい霊気が地下空間を瞬く間に満たし、その中心部では激しい渦が生じた。すべてを吸い込み、すべての時を戻す渦だ。そこに吸い込まれたものは、時を遡り、その遡行に耐えられない物質は無に還ることになる。
激しい衝撃で地表に叩き付けられた入彦は、何とか意識を保ち、上半身を起こした。激しい渦が大気を巻き込んでいる。その渦の後ろに、泣き叫ぶ赤子の姿が見えたような気がした。ようやく出会った父母の元へ導いてくれる者を奪った現世を憎悪した顔をしていた。
もはや果実の暴走を食い止めることはできない。入彦は暗然とその事実を悟った。
御統の体を地表に横たえた豊はよろめき立ち、涙を吹き荒れる大気の流れに飛ばして、すべてを吸い込む渦に飛び込もうとした。豊の呪力で可能となることなど、もはや何もないが、それでも、わずか半瞬でも、自分が招いたこの災厄を止めたかった。豊の身は瞬時にして無となるだろうが、それでも構わない。むしろ、そうしたかった。
豊の腕を、入彦の手が掴んだ。豊の罪がどれほどのものだろうと、決してこの手を離さない、と入彦の瞳が言っている。
「入彦。わたしは、鈿女族よ。それを言えば、分かるでしょう。わたしは、あなたを、大日の血を絶やさなければならなかった。そうしなければ、鈿女の怨念が消えないから。でも、できなかった。ためらってしまった。あなたを殺さなかったかわりに、わたしは御統を殺してしまったのよ!」
その告白の衝撃に胸を貫かれた入彦は、おもわず手の力を緩めてしまった。豊の腕がするりと抜け、そして豊は渦の中に消えてしまった。
その様子を見ていた安彦も、元凶の最大の一人として、半瞬のための犠牲になろうとした。しかし、彼も腕を取られた。
安彦の腕を取ったのは、今、地下空間に駆け込んできた国牽だった。経緯はわからないが、いよいよの時になったことは分かった。
「親を遺して死ぬ馬鹿は一人で十分だ。汝は生きよ。生きて罪をあがなえ」
国牽はそう諭すや否や、身を翻して渦に飛び込んだ。
豊と国牽が命を触媒にして発動させた結界は、渦の勢いを弱めた。それが暫時のことに過ぎないことを、安彦は知っている。
安彦も命を結界の触媒にしようとした。しかし、再び父の強い声を聞いた気がした。
「生きよ」
その声に突き飛ばされて、安彦は地下空間から駆けだした。
渦は再び勢いを盛り返した。それはつまり、豊と国牽の命が尽きたということだ。
渦は少しずつ大きくなっている。吸い込まれる大気が猛烈な流れを作り、地下空間の岩壁を割き、地表を剥いだ。如虎は身を伏せ、四肢の爪を立てて何とか耐えている。入彦も暴風に耐えていた。御統の体が吸い込まれ、それを止めようとした入彦の手に、白銅鏡だけが残された。
御統が自分の体の一部のように大切にしていた鏡。鏡面は、今も湖面のように澄んでいる。
鏡の中の住人は、御統の声にしか反応しないはずだが、入彦は懸命に念じた。今こそ、天目一箇神の助けが必要なのだ。
入彦の心の呼びかけに、鏡が応えた。鏡面が波打ち、膨大な光が奔出した。光は猛烈な大気の流れも意に介さず、たちまち巨大な人影に変じた。天目一箇神だ。
「やっかいなことになっておるな」
現れるや、呑気な声を出して、顎の辺りを撫でた。超越した存在というのは、そういうものだろう。山門が消え去るかという瀬戸際も、まさに人事だった。
だが、一つ目の大眼に仁心が灯っていると観て取った入彦は、天神の惻隠の情へ懸命に訴えた。
「天目一箇神よ。あなたは御統の願いにお応えくださると聞いています。私は御統の願いを知っています。どうか果実を、果実の中の赤子の魂を高天原にお連れくださいますよう」
入彦の体は天目一箇神の掌に載せられている。そうしなければ、荒ぶる渦に巻き込まれてしまうからだ。如虎も同様で、彼は天目一箇神の薬指の辺りにしがみついている。すさまじい渦が岩石を剥ぎ取り、砕きながら吸い込んでいる。天目一箇神は、さながら暴風の中に聳える孤峰であった。
「予は男童の願いに応えておるのではない。五百箇との約束で、男童を護っていたにすぎん」
入彦の懸命の願いを無碍に退けながら、しかし天目一箇神には自責の念がある。豊を操った怨恨の存在を見落とし、咄嗟の凶行から御統を護ることができなかった。
「五百箇との約束を反故にした詫びにはならぬが、汝の願いを叶えてやってもよい。とは申せ、こうなってしまった果実の力を、予であろうとどうすることもできん。何か、他にないか」
つかんだ藁が根こそぎ抜けた思いの入彦は目眩によろめき、天神の人差し指に倒れかかった。呆然と、いずれ山門を無に還す大渦の中心を見つめた。
「早く決めた方がいい。ここはまもなく崩れ去る。非永たる身ではひとたまりもあるまい。地祇の霊力は天神ほどではないが、よく頑張って渦の膨張を妨げておる。だがそれも、あとわずかのことにすぎん」
天目一箇神のひとつ目には、大渦の中心で懸命に抗う大物主の霊魂が見える。その魂の輝きは痩せ細り、まもなく消え去るだろう。天目一箇神はそのひとつ目を剥いた。
「ほう、これは驚いた。あの女童の魂がまだ見える。おお、寄り添っておるのは御統ではないか」
興奮気味の天目一箇神の声に、入彦は自我を取り戻した。
「御統と豊がまだ生きているのですか」
「むっ、肉体は滅んでおる故、生きているとは申せぬ」
「ですが、魂はまだあるのですね」
「驚くべきことだがな」
「では天神よ、私に願いがあります。御統と豊の魂を現世にお戻しください」
「難しいことをいうものだ。魂を入れおく器がなければ、現世には戻せぬ。それに、魂が残っているとはいえ、屑のようなものだ。元の男童、女童にはならぬ」
「構いません。それでも構いません。あなた様は万物を形造る鍛治の神。器を造ることもできましょう」
入彦は懸命に食い下がった。鍛人は鉄や銅しか扱えないが、鍛冶の神であれば万物の素を扱えよう。魂の器たる肉体をも造ることができるのではないか。
「それは予にとっても禁忌だが」
迷った大眼で、天目一箇神は入彦を見下ろした。真心を煌々と灯した懸命な視線が見上げてくる。その目の光に覚えがある。五百箇と同じ目だ。
「非永というものもなかなかに興味深い。よかろう。汝の願い、聞き届けよう。ただし、もう一度申すが、元の男童、元の女童ではないぞ」
天目一箇神は念を押し、入彦は頷いた。
天井が崩壊し、岩石が天目一箇神にも落ちてきた。
雨のように降る岩石を片手で振り払った天目一箇神は、
「では、あとは予に任せ、汝らは逃げるが良い。この渦の力は膨大だが限界がないわけではない。走りに走れば、逃れうることができよう」
そう言って、入彦と如虎を地上への通路の上がり口まで運び、そこに降ろした。
「さぁ早く行け!」
天目一箇神の声に崩落の轟音が重なった。天目一箇神の姿は瓦礫の向こうに消えた。
地上への通路もいつ崩れ落ちるかしれない。瓦礫を見つめていた入彦は、如虎に促され、通路の向こうを見た。闇の果てに小さな光がある。地上の輝きだ。
入彦は通路の斜面を駆け上った。御統と豊に、もう一度会えることを信じて。
一方、天目一箇神は大渦に対峙していた。万物の素から肉体を作り、それを器にして魂の残滓を宿すことなど、やってみたこともない。しかし、やってみる価値はありそうだった。それを成せば、高天原の中心にいる天之御中主や高皇産霊などから大目玉を喰らいそうだが、やってしまったことはどうしようもないだろう。
社会からみれば悪事だが、自分の良心や道徳、信念を確信して実践すること。それを確信犯という。
そんな言葉が天神の世界にあるのかどうかは知れないが、天目一箇神は巨大な鉄槌を振り上げた。
多くの犠牲を払うも、ついに暴走を始めた剋軸香果実。山門の天地消失が始まる。
次回、終章。




