山門編-失われた天地の章(33)-天地消失(4)-
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、天孫族を率いて真秀場を目指し、山門に挑むも大日の前に敗れる。狭野姫は五瀬の遺志を継ぎ、韴霊剣の力を得て、熊野の地を平定する。狭野姫は再び山門に挑み、ついに大日を倒す。天孫族との平ぎを命ずる父に反抗した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。愛する者を奪われた二人は感情を剣に宿して戦うが、山門の美しい夕景は、二人に天孫族と山門の麗しい未来を見せる。天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が山門掌握の画策を進める。拐かしていた美茉姫を御巫に仕立て、大掛かりな大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった御統が顕現させた天目一箇神が安彦の企図を破壊する。一方、五十茸山では、輪熊と鹿高が剋軸香果実の起源を知る。
美茉姫を取り戻した入彦たちは、果実の真意を知り、山門を消滅から救うために動き始める。豊には、彼女を解き放たない暗い宿願がある決断を迫る。
安彦は最後の手段として果実との融合に挑み、盟友である御名方は出雲の軍士を率い、戦いの準備を整える。狭野姫は入彦の助力の依頼を受けるが、手研は天孫族の不満を案ずる。
山門の命運を決する戦いが迫る最中、御統と豊は、川辺で友情を確かめ合う。
ついに磯城族と天孫族は山門大宮に進軍し、御名方が率いる出雲族と対峙する。戦での犠牲者を最小にすべく、入彦、御統、豊は斑鳩宮に侵入し、果実の破壊を試みる。三人の前に、果実と融合し、この世のものとは思えぬ姿となった安彦が立ちはだかる。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
暁闇が剥がれ落ちると、この早朝の空は快晴だったが、周囲の山々から下りてきた冷気が、地表に霧を生んだ。
白さの中に、軍靴が土を踏む音だけが聞こえる。
天孫族と磯城族は布陣を終えた。万を超す軍士たちは、矛や盾、弓を握りしめ、そのときを静かに待っていた。白さの向こうに敵の陣営は沈んでいるが、殺気だけはひしひしと伝わってくる。
やがて霧が晴れると、野天に眩しい青さが広がったが、軍士たちが見上げたのは、目には見えないが確かにたなびいている巨大な戦雲だった。
一羽の鵄が高く鳴きながら、空の青さを滑ってゆく。
天孫族の本営で、胡床に座っていた狭野姫は、孤高の鳥影を認めると、溌剌と立ち上がった。鳥は、天津神の使いだ。天孫である天孫族の勝利を予兆し、言祝いでいるに違いない。狭野姫だけでなく、天孫族の軍士のすべてが吉兆を感じた。
手研は角笛を吹いた。手研が用いたのは、牛の角を使った大角だ。軍隊の進退に鐘鼓を用いるのは大真の作法だが、それが伝わるのはもう少しあとのことだ。大角に使われる牛の角は、やがて巻貝の殻にかわる。
野太い音色が戦場を流れてゆく。
出雲族の正面を攻撃するのは、道臣が指揮する部隊だ。道臣の号令で、三千ほどの軍士が動き出した。
道臣の視界に、出雲族の陣営がよく見えている。柵と逆茂木を連ね、その手前には小川が流れている。水面は青々としているが、難なく徒渉できる、と道臣は判断した。
二度目の角笛が先ほどよりも強く響き渡ると、道臣麾下の軍士たちは走りだした。
喊声が小川の水面を沸き立たせた。
出雲族の陣営から、何百という飛矢が放たれる。
鋭く虚空に弧を描いて、飛矢が天孫族の先頭に降り注ぐ。
天孫族の先頭集団は大きな盾を携えている。彼らは盾を構え、飛矢に備えた。
高らかに盾が鳴る。盾の隙間を通った矢を受けた軍士が、次々に斃れていく。
飛矢と盾が奏でる殺意の演奏が終わると、矛を構えた天孫族の軍士たちが、連なる盾の群れを割り、斃れた仲間を踏みつけて突撃してゆく。
戦場はたちまち喊叫に満ちた。
激しく水飛沫を上げ、小川を渡った天孫族の先陣が、柵と逆茂木に殺到した。
柵や逆茂木に縄をかけ、引き倒す。させまいと躍り出る出雲族を、天孫族の矛が迎え撃つ。そこに、飛矢が雨のように降りしきる。
飛び交う死神が悲鳴を上げるような大混戦になった。瞬く間に、人が折り重なって死んでいく。断末魔の叫びは、喊声にかき消された。
高台に陣取った御名方は戦場を見下ろし、今にも最前線に飛び出したくなる衝動をうまく抑えて、出雲族の前衛の善戦に感心していた。
天孫族の先陣と出雲族とはほぼ同数だが、柵と逆茂木を敷設して迎撃している分、出雲族に余裕がある。死傷者も、多くは天孫族だ。
しかし、御名方の視界は、左方から猛然と進んでくる一団を捉えている。
それは珍彦が指揮する別働隊三千だ。道臣が指揮する先陣とは時間差を付けて、攻撃する手はずになっていた。先陣は、出雲族を前面に釘付けするための、いわば囮であった。それを承知の道臣は、配下の軍士の鮮血を被っても、突撃を止めなかった。
自陣の左の脇腹に食いつきかけた敵の別働隊を見ても、御名方は片頬で笑っただけだ。
出雲族に、天孫族の別働隊を迎撃する兵力がないと見込んでの作戦だろうが、実は御名方にはまだ隠された兵力がある。
連なった柵の端を回り込んだ珍彦は、出雲族という獣が脇腹を食い破られてのたうち回る様を未来図に描いた。手研が指揮する本体がさらに攻勢を重ねれば、獣の首を取るのは時間の問題だ。
「ゆけ!勝ちは目の前だ」
その言葉を置き去りにして先頭を駆ける珍彦の真正面で、大地が無数に隆起した。隆起はたちまち、埴土の兵と化した。
珍彦は狼狽えない。
「土塊に戻してやろう」
怒声を貫いて突き出された珍彦の矛を、埴土兵の盾が受け止めた。
埴土兵は手強く、ともすれば鍛錬された天孫族の軍士の力量を上回るかもしれなかった。
二体の埴土兵を相手にしていた珍彦は、周囲の天孫族が次々と斃れていくのをみて、たまらず別働隊を後退させた。ここで全滅しては、作戦の囮となって死んでいった者たちが浮かばれない。
さらに悪いことに、埴土兵は戦場全土に渡って出現した。一進一退であった正面での戦いも、天孫族が後退し始めた。大地が割れ、そこに飲み込まれた者もいる。
「すばらしい。安彦の呪力が戦場を統べておる」
戦場を見下ろす高台を、御名方の大笑が響もした。しかし、その笑いがどこか乾いていたのは、人と人とが争うとき、その決着をつけるのはあくまで人の力だという信念が御名方にあるからだ。現世に生きてはいない存在に、人の行く末を決められるのは、あまり良い気がしない。
「ほどほどにしておけ」
安彦のために、御名方はそう呟いた。安彦は今は自我を留めているが、果実の霊力に染まりすぎれば、やがて己をも霊力の中に溶かしてしまうだろう。
天孫族は、別働隊が後退し、先陣が崩壊しかけている。その光景を見て、手研は本体を突入させるべきか否か、判断に迷った。すばやく行動したのは、磯城族の国牽だ。
「息子よ」
と、国牽は大彦を呼んだ。
「あれは安彦の埴土の術だな。あやつも、なかなかやるではないか」
どちらの立場にいるつもりなのか、国牽は戦場全体を支配している末っ子の力量を喜んでいた。
「そんなことを言ってる場合じゃないぞ」
父を横目で見た大彦は、戦場では一番先頭で暴れることを心得としている彼にふさわしくなく、磯城族の陣営で、今のところおとなしい。
「まぁ、そういうな。出雲族も天孫族も、山門の片隅の磯城族をどこか見下していやがったが、今は磯城族の男一人に弄ばれている。胸がすくではないか」
山門の諸族が山門主に跪いても、最後まで独立不羈を貫いた国牽には、蛮族と見下げられた鬱屈がある。
「わからんでもないが、だが、それも、入彦が安彦をとっちめるまでのことだ」
大彦の中では、それは確定した事実だった。苦しみもがくだろが、入彦は必ずそれをやり遂げる。大日に向けていた信頼を、いまは入彦に向けている大彦だ。
「ともかくも、天孫族を放っておくわけにもいかん。祝者どもを借りてゆくぞ」
国牽は、大彦に一言ことわってから、祝者を召集した。氏上の入彦から磯城族の指揮を委ねられているのは大彦であるから、前氏上であろうとも、国牽は一定の配慮をみせた。
「歳を考えろよ」
憎まれ口を叩いた大彦だが、それが激励と気遣いの表現だということは、国牽には伝わっている。
「ふん、小僧っ子どもの喧嘩に手を出すのは、ちと大人気ないがな」
国牽も憎まれ口を返したが、それが父子の最後の会話になった。
祝者を率いた国牽は、歳を感じさせない速さで戦場を駆けた。その行く手の地面が裂け、何人かの天孫族が裂け目に落ちた。
国牽は一流の司霊だ。彼の姉は抜群の呪能を認められて百襲姫を襲名したが、呪能の高さでは、国牽も姉に劣らない。彼が女であったら、と考えるのは、国牽の武骨な風貌と相まって多少の不快を伴う想像だが、もしその不快に耐えられたとすれば、その先に姉を超え得る百襲姫を画くことができるだろう。
国牽が解除の呪言を投げると、裂け目に落ちた天孫族はたちまち死の口から吐き出され、裂けた地面は結合された。
磯城族の祝者も優秀だ。彼らは次々と埴土兵を撃破し、地割れを防いだ。彼らを襲おうとした出雲族は、天孫族が迎え撃った。ここにようやく、天孫族と磯城族が共に戦う形が作られた。天孫族の祝者や媚女も、進んで国牽の指示を仰いだ。国牽には磁石のように人を引き寄せる統率力がある。
「なるほど、親父もそれを望んでいる、ということか」
国牽は、この期に及んでどこか戦意をくすぶらせている大彦に、行動で訓辞したのだ。天孫族との共闘が必要だと理解しても、最愛の弟を奪った天孫族を心情が拒否していた。だが、そこに拘っていては、新しい山門は作り出せない。
「石火、吾らも出るか」
大彦は、傍らの石火に雄々しく声を掛けた。その音吐には鬱屈を振り払った清々しさがある。
石火も、大日を敬愛するにかけては人後に落ちない。大日が春日族の邑として作った率川邑の邑宰に石火を任じたとき、その信頼に感動した石火は、そのときの心の奮えを今も忘れてはいない。
「このまま出番がないのかと、やきもきしておりましたぞ」
朗らかな声を返して、石火は磯城族に出撃準備を命じた。
「春日山の霊威はここにも届いている。春日族の誇り、今こそ見せようぞ」
石飛が若い声で号令すると、春日族の騎手たちは喊声で応えた。
「父上、お先に」
石飛率いる百あまりの騎手が、石火の横を駆け抜けていく。
「おこがましい青二才めが」
矛を軽々と振るって、石火も駆けだしてゆく。その後ろに、磯城族が続いた。
「いや、まてまて、磯城族の先頭は吾だと決まっておろうが」
石火と石飛に出遅れた大彦が懸命に走り出した。
磯城族は小勢とはいえ、飛来する岩石のような破壊力を秘めていた。
磯城族の突撃は、戦況を大きく塗り替えた。大彦の銅棒の前では、埴土兵など、何の足止めにもならない。最初にかっ飛ばされた埴土兵などは、どこまで飛んでいったかしれない。
勢いを得た天孫族はたちまち戦線を押し返し、出雲族が築いた防衛戦がそこかしこで崩壊した。
「やれやれ、あちらには随分と面倒な男がいるな」
そんな言い方で、御名方は暴れ回る大彦を惚れ惚れと眺めた。
御名方には、まだ余裕がある。彼の秘手は、埴土兵だけではない。
戦線全体に渡って、天孫族と磯城族の勢いが最大に達しようとしたとき、大地が突如として波打った。地中からの凄まじい衝撃に突き上げられ、天孫族も磯城族も、出雲族までが多く転げた。
「地震の荒男だ」
その最初の叫びを発したのが誰かはわからないが、戦場の全ての目が、その叫びが指す方向を見た。
今まさに山岳が産まれ出ようとしているかのように大地が隆起し、たちまち土と岩石の大巨人と化した。
戦場の日が陰り、人型の黒々とした影が、一万数千人の視界を隠した。
空間が凍り付いた中で、地震の荒男が拳を振り上げ、大地を打ち据えた。天地が激しく揺さぶられ、大地の八方に亀裂が走り、一万数千人が飛び上がり、数百人が影形なく潰された。
「こいつはどうにもならん」
最初に配下に退却を命じたのは国牽だ。その声に戦場全体が我に返り、天孫族も、磯城族も、出雲族も、戦場で指揮の立場にある者は、次々と退却を命じた。
大彦も舌打ちをして、戦場で後退するという初めての経験を余儀なくされた。さすがに、あの巨岩のごとき拳と銅棒を打ち合わせる気にはならない。
地震の荒男が歩くだけで、数十人が犠牲になった。
絶望が戦場を伝播していく。もはや戦どころではなくなった。
「おいおい、さすがにやりすぎだ。これでは、山門そのものがなくなっちまう」
さすがに御名方も青ざめた。勝手放題に暴れまわるということではないだろうが、どこまで安彦の制御があの大巨人に利いているのか心もとなくなった御名方は、出雲族の本営を護る者たちにも退却の準備をさせた。
恐慌に陥った戦場を、離れて見る人影があった。
「どうやら、うちらの出番が来たようだよ」
鹿高は、隣で大樹に背を預けて眠りこけている輪熊を起こした。甘眠を破られた輪熊は不機嫌そうな目を開けると、落雷のようながなり声で背伸びした。大樹の枝にとまっていた鳥が数羽、慌てて逃げていった。
「あん?ああ、あれか。まぁそうだな、あれは非永には辛かろう」
億劫げに立ち上がった輪熊は、腰を回したり、肩を回したりした。
「どうする。うちらも本当の姿に戻るかい」
「そこまでのもんでもなかろうが、せっかくだ。近頃、自分たちの力に奢っていやがる非永どもの目を覚まさせるためにも、いっちょ派手にいくとしよう」
「いまは月がないから、うちらの力も半減するけど。あの子たちが巻き込まれないといいけどねぇ」
「おいおい。あそこは戦場だぜ。みんな死にに来てやがるんだから、巻き込んだところで、文句もないだろうよ」
「そうだろうけど。うちはやっぱり心配だねぇ」
「まぁ、御統の知り合いだけ踏んづけないよう気をつけるとしよう」
そんな長閑な会話を交わすうちに、輪熊と鹿高の姿は、地祇の本来の姿になった。輪熊が背を預けていた大樹の梢が、腰より下にある。その体躯は、地震の荒男よりも小さいが、ほとばしる霊力は、ただそこに居るだけで、大樹の葉をざわつかせ、草原の草を波打たせるほど圧倒的だった。
飛来した二つの巨大な影が地震の荒男の前に立ちふさがったとき、それを目撃した人間は、とても地上世界の光景とは思えなかった。神々の闘争の場裏に紛れ込んでしまった。愕然と抱いた共通の認識には、ほぼそのような慄きがあった。しかしここは紛れもなく地上世界であり、闖入者は悪霊と地祇のほうだった。
輪熊、いやすでに大山祇であったが、彼の拳骨が地震の荒男を殴りつけると、荒男はよろめき、後退した。すかさず、鹿屋野姫、それは鹿高の本来の姿だが、強烈な蹴りを喰らわせた。荒男は地祇の連撃に耐え切れず、一旦は土塊に戻った。人間たちは歓声を上げたが、すぐに悲鳴にかわった。土塊は集結し、再び大巨人となった。
「面倒な野郎だ」
「簡単には終われないねぇ」
二柱の地祇は、煩わしげな顔を見合わせた。その二柱をゆうゆうと見下ろすほど、地震の荒男は、先ほどよりも一回り巨大になっていた。だが、それとて、大山祇と鹿屋野姫の圧倒的な霊力の前には、砂山を一段積み上げただけのことにすぎない。破砕され、再生するという作業を、もう一度繰り返した。
「どうやら、あたりに土がある限り、何度でも蘇ってくるようだねぇ。思うに、果実を取り込んだ安彦がいる限り、その呪力が大地を伝わって、この木偶の坊を動かし続ける仕組みじゃなかろうかねぇ」
「ふん。だったら、もうちょっとのお付き合いだな。ぼちぼち御統の野郎が何とかするだろうぜ」
「大丈夫かねぇ、あの子は」
「馬鹿野郎。あいつを育てたのは俺様だぞ。やるときゃ、きっちりやりやがる奴だよ、あいつは。お供はちょいと頼りないがな」
大彦とは若干の見解の相違を持ちながらも、御統なり入彦なりが、仕事を仕上げることを疑っていない点について、両者は共通していた。ただ、鹿屋野姫には別視点からの反論がある。
「お待ちなよ。あの子を育てたのは、あたしじゃないか。あんたはろくなことを教えなかっただろう」
「なんだとぅ」
救世主かと思われた二柱が口論を始めたので、周囲の人間たちははらはらした。ところが、別のことに気が付いた人間もいる。それは天孫族の一人だが、楽勝のはずだった戦いを苦戦に変えた埴土兵がどこにも見当たらなくなった。そのうえ、厄介だった地割れもなくなっている。戦場を支配していた安彦の呪力が、地震の荒男を動かすのに集中されている、ということだ。
「ここいらが限界というわけか。馬鹿者め、もっと気合を入れんか」
見当違いの怒りをみせた国牽は、しかし行動としては、磯城族の祝者と天孫族の媚女を指揮して、出雲族の一角を衝いた。
人は、人としての戦いを再開した。悪霊と地祇との戦いは、同一の地上のものだが、次元が違う。人としては、付き合ってはおれなかった。
突如として再開された人の戦いは、柵や逆茂木のほとんどが破壊されていたため、防御を失った出雲族にとって不利かと思われた。しかし、天孫族とて、指揮系統が地震の荒男の出現で滅裂しており、道臣も珍彦も、軍士たちを戦力としてまとめるのは容易ではなかった。
混乱の最中で、両陣営には、それぞれまだ機能を維持している戦闘集団があった。手研が指揮する天孫族本隊と、御名方が掌握する出雲族本営である。小規模であったぶん、出雲族本営のほうが動きが早かった。
「出るぞ!」
鋭気をほとばしらせた号令を御名方は発したが、しかし出雲族の本営を飛び出たのは彼一人だ。しかも高台から、柵を踏み台にして、文字通り飛び出したのだから、残された出雲族は唖然とするしかなかった。
御名方の気心をよく知る側近だけが落ち着いていて、本営の予備兵力である二百名余りの軍士を取りまとめると、きちんと出撃口の坂を下りて主君を追った。
さて、飛矢のように勢い良く飛び出した御名方は、足の下の、豆粒ほどの大きさの敵味方を見下ろして、満悦の笑みを浮かべた。そのまま大地に叩き付けられたなら、彼はただの大馬鹿ということになるが、もちろん御名方にはそうならないための処方がある。
御名方の手には、赤銅鏡がある。呪言を高らかに唱えると、赤黒の鏡面が激しく波打ち、光が奔出した。光はたちまち、怪異な大蛇の姿となった。
敵味方が慌てて避けた所に、轟音と激しい土煙を立てて、八つ首の大蛇が降下した。その小丘のような背に御名方が傲然と立っている。
出雲の肥川に棲息し、下流の人々を氾濫で悩ませていた水神だ。力試しに、大蛇に挑んだ御名方は、一度は瀕死の重傷を負ったが、幼子を連れた旅人に救われた。傷が癒え、体力を回復し、呪能を鍛え上げた御名方は、大蛇に再び挑戦して、その力を赤銅鏡に写し取ることに成功した。
思えば、安彦との縁は、その旅人から発している。
「そういえば、あの客人は、今頃どうしておろう。鍛冶のような形をしておったが、なかなかの男であった。再び出会うことがあれば、山門主となったあかつきには、大夫として召し抱えたいものだが。あの幼子も
、今は大きくなっておろうな」
戦場のど真ん中で、敵味方の衆目を集めながら、御名方は悦に入った表情で空の高みを見上げていた。まさかその幼子が、今、斑鳩宮の地下空間で安彦と戦っているとは思いもよらない。
「さて、いよいよ吾が山門の六合の主となる。その前に地を均し、穢れを浄めておかねばならん。大蛇よ、肥川の激流で、抗う者を中つ海まで押し流してやれ」
御名方が命ずると、大蛇は八つの鎌首をもたげ、それぞれが頬を膨らませた。牙の見える顎の隙間から、水しぶきが吹き出た。
「させないわよ」
凜とした気高い声が、空から降下してきた。
黄金色の光が滑空する。それは狭野姫を背に乗せた天神、日孁だ。
大蛇が八つの顎から激流を吐き出そうとしたその瞬間、日孁の黄金色がより激しく輝いた。
大蛇が水神であるなら、日孁は日神だ。その輝きは日輪と同様であり、その光は太陽光線であった。
灼熱の陽射が地を灼き、大蛇の顎から吐き出されたばかりの激流をたちまちに干上がらせた。
「おっかねぇことしやがる」
陽射の余波を受けた御名方は、あまりの熱さに大蛇の背で暴れ回り、逆上して、大蛇の顎で日孁を噛み砕かせようとした。
大蛇の顎に強靱な牙があるように、日孁の両脚には鋭利な爪がある。襲いかかってきた八つの顎のうち、二つを両脚の爪で撃退し、あとは急上昇して避けた。
日孁は上空へ飛翔する前に、一つの小さな光を射出していた。それは金色の武具に身を鎧い、宝剣、韴霊剣を抜き放った狭野姫だ。虚空を滑空し、大蛇の背の御名方めがけて突風のように斬りつけた。
御名方の頭椎の大刀が名工の打った鉄剣でなければ、彼は両断されていただろう。落雷のごとき一撃を受け止めた御名方は、不安定な足元で踏ん張りが利かず、狭野姫を抱き止めるような格好で、諸共になって大蛇の背から落下した。
狭野姫も御名方も優れた武技の持ち主であるから、見苦しい墜落はせず、軽やかに身を回して、地に降り立った。
「あぶない真似をするんじゃない」
思わず口走った御名方は、戦場という空間を無視している。しかし、御名方にそうさせるほど、狭野姫の姿は美しく、可憐で、出雲随一の武人を自負する御名方をして、傷つけることを躊躇わせた。
「だったら、さっさとその首、渡しなさい」
猛然と狭野姫は斬り込む。声は美しいが、言葉は獰猛だった。間一髪で斬撃をかわし、数本の髪を虚空に舞わした御名方は、ようやくここが戦場で、その若い美貌が敵であることを思い出した。
御名方も大刀を走らせる。
二人はたちまち十数合を打ち合わせた。刃と刃が交差する度に、戦場の殺伐さを超越した華やいだ火花が散った。
互いに名乗りは上げていないが、斬り結んでいる相手がそれぞれの陣営の長であることは、すぐに感取した。その感覚はすぐに相手への敬意に変じた。気迫、気格、気位が一流であることは打ち合わせる刃から伝わってくるし、何より総大将でありながら堂々と戦いを挑んでくる姿勢に不退転の決意がある。
単純な武力は御名方が上だった。兄に手ほどきを受け、建御子を自負する狭野姫は、その武技こそ御名方と互角だったが、やはり力で劣り、一振りごとの威力で後手に回った。しかし、哀しき男の性で、御名方はどうしても勝負を決する一撃を放つことができない。
狭野姫の秀麗な顔立ちは、たちまちふくれっ面になった。否が応でも伝わってくる御名方の逡巡は、彼女にとっては屈辱だった。
「いい加減になさい。無礼ですよ!」
とうとう狭野姫は、綺麗な指を突きつけて、御名方を批判した。
「馬鹿野郎!女が斬れるか!」
という台詞も、決死の覚悟で挑んでいる彼女に失礼か、と考えた御名方は、
「もっとこう、いるだろう、斬り甲斐のある奴が」
と、反論した。
そう言われた狭野姫は、そんな人がいたかしら、と考えてみた。手研や道臣はとんでもないし、珍彦もちょっと可哀想。そういえば、あの磯城族の大男なんかどうかしら、と思い当たったところで、狭野姫は頭を振って空想をかき消した。そもそもその大男は、いま身近にいない。
「斬り甲斐がないのなら、斬られ甲斐を味わってみることです」
そう叫んだ台詞を貫く速さで、狭野姫は御名方を突いた。油断していた御名方は、あやうく串刺しになるところだった。稲光のような韴霊剣の切っ先に、頭椎の大刀を絡めて受け流す。そこからまた数合、斬り結んだ狭野姫と御名方は、突然、反発して弾き合うように後方へ飛んだ。空いた空間に、大蛇が巨体を走らせた。日孁と大蛇の戦いも、継続している。
大蛇が激流を吐き出し、日孁の熱波が蒸発させる。牙と爪が激突する。その合間を縫って、狭野姫と御名方が剣と大刀を交差する。
御名方の側近は、二百名ほどの出雲族を率いて、側まで来ていた。同じように、手研も出雲族本隊三千人を率いて待機していた。双方とも、主に加勢し、救援する機会を見計らっているが、天神地祇が争闘する場には、足がすくんで入っていけない。
狭野姫の武具を美しく仕立てている羽根飾りが散り、狭野姫の白い首筋に、赤いすじが走った。少量の赤い滴が、虚空に舞った。それを見た手研は、我を忘れて駆けだした。天神地祇への畏敬も怖れも投げうっていた。
同じ思いが天孫族全員にある。本隊三千人が一斉に動き出した。大蛇に踏み潰されても、日孁の熱波に焼かれても、彼らが愛する狭野姫を、こんなところで喪うわけにはいかなかった。
それは出雲族とて同じことだ。二百人の出雲族も、御名方を援護するため突入した。
たちまち、大乱戦となった。
三千対二百だから、圧倒的に天孫族優位であったが、天神地祇が争っている場では、規模の大きさが災いとなる。天孫族は動きが制限され、ようやく狭野姫の元に辿り着いたのは、手研他数名だった。出雲族は小規模な分だけ小回りが利き、十数名が御名方の周囲に集まった。
狭野姫を襲おうとした数本の矛を、手研の鉄剣がたちまち叩き落とした。その剣さばきに出雲族はたじろいだが、それでもこの場限りの出雲族有利はかわらない。
「剣を伏せてもらおうか。吾とて、吾の民となる族から美しい氏上を奪うのは気が引ける」
ここで狭野姫が否と応じれば、さすがに女性を斬る逡巡を捨てる覚悟の御名方だった。狭野姫さえ剣を置けば、戦いは終わるのだ。
「御名方殿」
息を弾ませた声で応じたのは狭野姫ではない。狭野姫を護る数名の天孫族の最後尾にいた小柄な人物が、いつの間にか前面に立っていた。出雲族の矛先がその小柄に人物に向けられた。
その人物が甲を取ると、長い艶やかな黒髪が肩に落ちた。御名方は目を見張った。
「五十鈴姫か…」
思いがけない邂逅に声を詰まらせた御名方は、ようやくそれだけを絞り出した。
戦場の埃や泥にまみれているが、穏やかな強さを秘めた明眸と、潤いを含んだ赤い唇を見間違えはしない。その人は確かに、天孫族の前天津彦、五瀬に嫁いだ五十鈴姫だった。
見つめ合う御名方と五十鈴姫の視界から戦場の光景が消え、松並木の美しい汀の風景が広がった。戦場の喊声は、波打ち際の潮騒となった。
二人が記憶を重ねたその光景は、美保の海岸だ。二人は、そこで愛を育んだ。
五十鈴姫の父である事代主は、御名方の兄である。つまり二人は叔父と姪の関係だが、この時代の叔姪婚は珍しいことではない。だが、事代主は二人の関係を知りながら、出雲族に隣接する蹈鞴製鉄の一族の氏上の嗣子に嫁がせることに決めた。製鉄集団を出雲族に取り込むための政略婚であることは明らかだった。
出雲族の氏上を大国主といい、嗣子を事代主という。御名方にも、五十鈴姫にも出雲族氏上の血が流れているから、二人は政略結婚自体に異は唱えない。それでも、いつか終わると知っていた麗しの日々が、いざそのときを迎えたときの喪失感は、御名方にとってたまらない苦痛だった。
御名方は一見は奔放のようであるが、実は理路をわきまえた自制心を備えており、最愛の人を奪われても、兄に逆らうことをしなかった。だが、精神の真ん中に空いた巨大な穴がそのままであることに耐え切れず、穴を埋めるべく、肥川の地祇である八岐の大蛇に一人で挑むような無茶をした。一度は死にかけたが、たまたま通りかかった旅の鍛冶に助けられた。赤子を連れたその鍛冶から聞いた山門の安彦という名が、いくつかの変遷を経て、御名方をこの戦いの場裏へと導いた。
一方の五十鈴姫は、十四歳で蹈鞴製鉄の一族の氏上の嗣子の妻となったが、夫は氏上を継承する前に亡くなった。蹈鞴製鉄一族の氏上は弟が継いだが、この弟は、若くして未亡人となり族内での立場を失った義姉を粗略には扱わなかった。族内で一定の尊敬を得る立場を確保できた五十鈴姫は、義弟の恩に応えるため、御名方への追慕を心の奥深くにしまい込んで、一族のために尽くした。自ら砂鉄を取り、蹈鞴を踏んで、一族の女たちの主導者となるべく努めた。
ところがある日、父の元へ召し返された五十鈴媛は、新しく夫とのなる人物を紹介された。
その人物こそが、天孫族の天津彦、五瀬であった。
その流浪の民族の氏上は、吉備に戻り、海を超えて豊葦瑞穂原へ往くという。五十鈴媛にとっては、地の果てに連れ去られるような恐ろしい話だった。しかも夫となる男にはすでに妻がおり、子もいるという。五十鈴媛は、またしても政略の道具とされるのだ。
それでも五十鈴媛が従容と運命を受け入れたのは、父を絶大に信頼しているからだった。父は父なりに、若くして未亡人となった娘に心を痛めていたのだろうし、父の目に適った人物がいい加減で、薄情な男であるはずがない。
五十鈴媛が予想したとおり、新しい夫は誠実な人だった。誠実だからこそ、故郷に残してきた妻を愛していると五十鈴媛に告げたのだ。それでいて、正妻としての立場をきちんと整えてくれた。豊葦瑞穂原への旅に同行している五瀬の子の手研も誠実で、寄る辺のない五十鈴媛に、実母と変わらぬ孝心で仕えた。
未開の暗闇に往くことを余儀なくされた五十鈴媛に、二つの灯りが灯された思いだった。
しかし灯りの一つは、海原の荒波を被って、消えてしまった。孔舎衛坂で、強盛な山門の諸族と戦った天孫族は天津彦五瀬を失い、五十鈴媛は夫を失った。彼女は波間に揺れる小枝のように漂い、残されたもう一つの灯りである手研に守られて、熊野に上陸し、八剣山の峻険を越え、夫の目指した豊葦瑞穂原にたどり着いたのだ。
故郷を遠く離れた異郷で、再び巡り合った不思議に戸惑いつつも、五十鈴媛と御名方は、今この瞬間に万感を眼差しで伝えあった。
「汝妹よ、なにゆえここにいる」
御名方の知る五十鈴媛は、運命に従順ながらも、他族で一人生きてゆく気概を持った勁い女性ではあったが、武具に身を鎧い、剣を帯びて戦場に出るような大胆さは持たなかったはずだ。
「生きるも死ぬも、天孫族として、と願ったまでです」
それは五十鈴媛の、運命への小さな反抗だった。それを彼女の人格の成長と愛でてくれたのか、運命は予想外の演出を用意していた。
御名方は五十鈴媛を掻き抱きたい衝動に駆られた。だがここは戦場であり、御名方は帥将である。ときを忘れたのは一瞬で、すぐに軍士の顔を取り戻した。
「五十鈴よ、汝がここに迷い込んだというのであれば、汝は五十鈴媛であるが、剣を持つのであれば、汝は天孫の軍士であるから、吾は汝を斬らねばならん」
そのときを想像もできないのに、御名方は自らを偽るように冷厳に言い放った。それは御名方の迷いの表現でもあった。
「わたくしは、天孫、天津彦五瀬の妻でございます」
澄明な声で、五十鈴媛は言った。清々しいほど、彼女は自分の立場を明確にしていた。
「なるほど。汝妹は、やはり五十鈴媛だな」
自分よりもよほど凛々しい。御名方は個人の感情を心の内奥にしまい、帥将として覚悟を定めたが、そのとき、すでに勝機は遠のいていた。
狭野姫の元にたどり着いた天孫族が増え、いつのまにか人数は出雲族を越えていた。
激しく舌打ちした御名方は、それでもまだ間に合う、と突撃する構えをとったが、側近に鋭い声を掛けられ、危機が迫っていることを察した。
日孁と大蛇が絡み合い、もんどり打って御名方と狭野姫を巻き込もうとした。咄嗟に五十鈴媛をかばった御名方は、そのまま彼女を抱いたまま後退した。狭野姫も後退し、数十人の天孫族に守られた。
腕の中に護った五十鈴媛の華奢な可憐さが伝わり、御名方は昔日の甘い心の感触を思い出した。わずか刹那だけ強く抱きしめ、御名方は五十鈴媛を離した。
御名方は激しく戦う大蛇を、一度、鏡に戻した。仕切り直しである。
散らばっていた出雲族が御名方の周囲に集まってきた。五百ほどはいるが、狭野姫の周囲に集結しつつある天孫族は千数百はいるだろう。まともに戦えば、勝負にならない。
「悪いな、しくじっちまった」
近づいてきた側近に、御名方は素直に詫びた。思いがけない人との邂逅が出雲族の勝機を遠ざけてしまったが、自分に万事を顧みない断固たる決意があれば、その事態は避けられたなずだという自責が、御名方にはある。
「そんな弱気では、どうせ六合など建てられませんよ。まだまだ一回、二回、戦えます。怖気づいたのなら、尻を蹴ってやりましょうか」
側近はそんなことを言える性格だった。
「汝の辛口を忘れていたな」
御名方はそう言って、尻を蹴り上げられる前に、もう一度、天孫族に挑む覚悟を決めた。
その前に、整理しておかなければならないことがある
御名方は、二人の軍士を五十鈴姫に付け、天孫族まで送らせた。
もはや言葉は不要で、御名方は涼やかな目で、五十鈴媛を見送った。
五十鈴媛を送り届けた二人が戻ると、御名方は出雲族に号令をかけた。
あとは敵陣を貫くだけだ。誰かの矛が狭野姫の首を挙げればそれでよし。斃れても、それもまたよし。
隊列を整え終えた側近が報告に来た。
「媛が再びあなたの前に立たれたら、どうなさいますか」
その答えによって、側近は吉凶を占おうとした。
「口上を聞いていなかったのか。あいつは、天孫族の軍士である」
そう言い切った御名方に迷いはない。
「そうであれば、まだまだ勝機はありますな」
側近は朗らかに笑った。
「あたりまえだ」
御名方は頭椎の大刀を頭上に高く掲げた。左手には赤銅鏡の鏡を持ち、再び大蛇を召喚する。
御名方の大刀が振り下ろされた。五百の熱い魂が赤々と燃えたぎる一つの巨大な火球となり、野を焼く炎のように、喊叫を轟かせて天孫族へ突進した。
天孫族も応じた。誰もが、ここが死力の尽くしどころと心得ている。
手研にこっぴどく叱られた狭野姫は、今度は闇雲に突入せず、樫の木の弓を引いて、立派な矢羽根の矢を放った。先頭を走っていた出雲族を一人、一矢で倒した。
日孁は狭野姫の頭上にあり、金色に輝きながら熱波を放ち、激しく羽ばたいて白羽を飛ばした。まるで金色の滴が出雲族を撃つようであったが、大蛇が飛矢のような白羽を身に受け、熱波は八つの顎から吐き出される激流で相殺した。
天孫族の矛の群に、出雲族が突入した。
出雲族は精鋭揃いで、天孫族はたちまち苦戦に陥った。
ここで手研は狼狽えず、前線にわざと持ちこたえさせずに、ゆるやかに後退した。
「わたくしは退がりませんよ」
と、我が儘をいう狭野姫を二三人の軍士に担がせ、手研は粘り強く戦った。
やがて、出雲族の勢いが弱まった。その瞬間を見逃さず、手研は総攻撃を命じた。出雲族を包み込むように後退していた天孫族は、新手を繰り出し、三方から攻め立てた。
「左右の敵に構うな。ただひたすら天孫を貫け」
御名方は声を枯らして叫んだが、この場にいる出雲族が精鋭であるように、天孫族も精鋭である。明らかに、出雲族の劣勢となった。
天孫族の矛の群の中に埋没してしまう暗い予想を出雲族が思い始めたとき、新たな勢力が戦場に現れた。
登美族だ。
率いているのは吉備彦である。
安彦の子として育てられてきた吉備彦は、常に距離を置こうとする父に懐疑を抱き、父からも要請がなかったことから、この度の開戦に族員を動員しなかった。
山門を混乱に陥れ、出雲族を引き込んだ父は明らかに常軌を逸している。しかし吉備彦は覚えている。わずかな父と子の時間、素っ気なく、かつ厳しく接した父に確かな優しさと温もりがあったことを。
吉備彦は安彦の血を引いていない、と噂する声も聞いている。だが吉備彦は、土壇場で父を信じることにした。
山門主の持傾頭としての安彦は決して評判が良くはなかったが、登美彦の名を襲名し、登美族の氏上であった間は、族人思いの氏上であった。そのため、一人で戦場に赴こうとする吉備彦に、数百人の登美族が従った。
千に満たない小勢だが、登美族は騎馬だ。突破力はすさまじく、ようやく体勢を立て直していた珍彦や道臣の部隊を易々と撃破し、貫いた。
「おい、面白いやつらを見つけたぞ」
大彦はそういう表現で、傍らの石火の注意を引いた。
「あれは、登美族ですな。出雲族には与せずと聞いていましたが」
石火は額に手をかざして、戦場を疾駆する集団を見た。
「あれが天孫の本隊を襲えば、天孫は耐えられまい」
大彦の言を受けて、石火は息子の石飛を招き寄せた。石飛は百余りの春日族の騎手を率いて、登美族の側面を襲うべく出発した。
「われらもゆこう」
大彦は徒の磯城族を率いて、天孫本隊の加勢に向かった。埴土兵ばかりを相手にしていた大彦は、ようやくまともな戦いができる、と意気込んだ。
石飛の騎馬隊は、登美族の横腹に喰いついた。吉備彦は百騎ばかりを割いて春日族に当たらせ、自分はそのまま主力を率いて天孫族本隊を襲おうとしたが、前方に、ひとつの騎影を見た。
石飛だった。
「今さら出てきて、戦の手柄をもぎ取ろうとは烏滸がましい。我らは端役にすぎん。端役同士、馬合せの始末を付けようではないか」
矛を頭上で一旋させて、石飛は吉備彦に呼ばわった。
吉備彦は石飛を黙殺したいと思ったが、そうもいかない事情があった。
山門主上覧の、神祝ぎの馬合せの際、吉備彦率いる登美族の騎手の中に、刃止めの施されていない矢を使用した者がいた。しかも、あろうことか、その矢は御言持大日の嗣子、入彦を狙った。咄嗟に主の盾となった石飛によって入彦は落命を免れたが、石飛は重傷を負い、しかも天孫族襲来のどさくさで、犯人の追及も登美族の謝罪もなされなかった。
馬合わせの登美族の旗頭を務めた吉備彦は、その事実を負い目として感じていた。石飛が始末をつけようと誘うのなら、それで負い目が晴らせるのなら、吉備彦としてはその機会を無視することはできない。それは、彼がまだ若いということでもある。
一突きで、と目論んだ吉備彦の渾身の矛は、しかし石飛に外された。瞬く間に数合を打ち合わせる。それで互いに相手の力量を知った二人は、矛を唸らせ、裂帛の気合いを吐きながらその後も何十合を戦うが、とうとう最後まで決着はつかないことになる。
登美族の勢いは少し削られたが、まだ十分な突破力を保持している。ただ、時間をいくらか喪失した。その時間で、大彦率いる磯城族が、登美族と天孫族との間に割って入った。
大彦は武勇抜群だが、騎馬の速度にはついていけず、いつもの爆発力は発揮できない。磯城族の軍士たちは天孫族の盾となって登美族の騎馬の猛攻を防いだが、数騎、十騎と、突破された。
磯城族を貫いた登美族の騎馬は、そのまま無防備の天孫族の背後を襲った。天孫族は出雲族と登美族とに挟撃される形となった。
天孫族と出雲族、どちらが勝ち残るのか予想がつかず、このままどちらも族滅するのではないかと思われるほどの大混戦となった。
「吾が斃れても、吾の屍を盾として突き破れ!」
御名方が絶叫した。
「天照らす天孫の御子を、命に替えても守り抜け!」
手研も絶叫した。
鼓舞された軍士たちは、尽き果てたはずの死力を蘇らせ、懸命に戦った。
どこまでも青い空を行く白雲の群が、下界の人々の営みを静かに見つめている。
いよいよ、山門の明日が決まるときがきた。
双方が全滅するような大激戦。戦いは佳境となり、天孫族、出雲族、磯城族、登美族の軍士たちは、それぞれ自分が信じるもののために死力を尽くす。
斑鳩宮の地下世界でも、最後の戦いを迎えていた。




