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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(32)-天地消失(3)-

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の嫡男、春日族の入彦に出会う。


 山門やまとでは神祝(かみほ) ぎの馳射はやあて誓約うけひの鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。


 山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。


 かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。


 登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。


 大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にぎはやひにただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。


 筑紫の日向ひむかの五瀬は、天孫族を率いて真秀場まほろばを目指し、山門に挑むも大日の前に敗れる。狭野姫は五瀬の遺志を継ぎ、韴霊剣ふつのみたまのつるぎの力を得て、熊野の地を平定する。狭野姫は再び山門に挑み、ついに大日を倒す。天孫族とのたいらぎを命ずる父に反抗した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。愛する者を奪われた二人は感情を剣に宿して戦うが、山門の美しい夕景は、二人に天孫族と山門の麗しい未来を見せる。天孫族と磯城族は講和を成す。


 山門の首邑である山門大宮では、安彦が山門掌握の画策を進める。拐かしていた美茉姫みまつひめ御巫みかんなぎに仕立て、大掛かりな大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった御統が顕現みあれさせた天目一箇神あめのまひとつのかみが安彦の企図を破壊する。一方、五十茸山いぶきやまでは、輪熊と鹿高が剋軸香果実の起源を知る。


 美茉姫を取り戻した入彦たちは、果実の真意を知り、山門を消滅から救うために動き始める。豊には、彼女を解き放たない暗い宿願がある決断を迫る。


 安彦は最後の手段として果実との融合に挑み、盟友である御名方は戦いの準備を整える。狭野姫は入彦の助力の依頼を受けるが、手研は天孫族の不満を案ずる。


 山門の命運を決する戦いが迫る最中、御統と豊は、川辺で友情を確かめ合う。



 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子ひこと呼ばぬ者には容赦ない。


 五瀬いつせ

 狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。


 手研たぎし

 五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。


 珍彦うずひこ

 元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。

 暴風雨が襲いくる直前には、大気に不穏な静けさが漂う。天孫族の手研からの使人が伝えた両族合流の期日を明日に控えた一日の夕べ、磯城の邑はそんな不気味な静けさにあった。時が呼吸を止めたような空白を利用して、戦に出る軍士いくさびとたちは、家族と思い思いの時間を過ごす。


 入彦は自分のへや青銅鏡あおみのかがみ石榴ざくろの実で磨いていた。石榴は籠に盛っており、ときおり口の中にも放り込んだ。


 明日以降の支度はすべて整えている。国牽くにくるや大彦、石火いわほ石飛いわたかたちとは、もう交わす言葉がないほどに話しあった。あとは百襲姫ももそひめが三輪山に宿る磯城の祖霊に祈りを捧げ続けるその霊験を信じるのみだ。


 斎宮に籠もって祈りを捧げ続ける百襲姫の顔色は冴えない。疲れもあるが、それ以上に、祖霊の声が返ってこないことがどうにも気がかりだった。祖霊の無言は、凶事が近づいていないことの証左でもあるが、何かが不吉だった。百襲姫が結論づけたのは、三輪山の大物主が、今は不在だということだ。そのとおり、磯城の祖霊である大物主は、安彦を助けるために、留守にしている。そこまで見通せないものの、百襲姫は大物主の不在を入彦たちには告げなかった。告げたところでどうなるものでもないし、余計な不安を蔓延させるだけだからだ。


 それでも百襲姫は祈りを続けていたが、それは擬態ではなかった。祖霊は不在でも、祈りを捧げるべき天神地祇は数多いる。僭越ではあったが、百襲姫は天地を祀る秘法を実行した。


 それはともかく、入彦は久しぶりの落ち着いた時間を過ごしていた。


 兵衛とねりの石飛が来客を取り次いできた。客というのは、豊だ。


「今日はお話があって、参りました」


 何か沈鬱なものと連れ立って房に入ってきた豊は、入彦が何かを言う前に、彼の前に座った。


 相変わらずの黒衣だ。その黒に際立って、豊の頬や手の肌は皓々としている。


「近頃、いましとゆっくり話す間がなかったが、どうしてた」


 入彦は二人の距離にある緊迫した空気を嫌って、和やかにしようとしたが、豊の思い詰めたような瞳がそれを許さなかった。


「ずいぶん、賑やかになったのね」


 豊が言うのは、房の中の調度のことだ。大日に連れられて、はじめて入彦の房に来たときは、物入れ用のかめだけが一つ置かれた殺風景な部屋だった。今は、甕の数も増え、胡床あごらや几帳、衣裳函いしょうばこなどが並んでいる。


 もっとも、ここは磯城邑の宮の房であり、はじめて豊が入室したのは、山門大宮の大日の邸の房だった。


「うん。美茉みまつがいろいろ選んでくれたんだ」


 と、入彦は許嫁との仲睦まじさを照れながら披露した。


 次の戦いが終われば、入彦は正式に美茉姫を妻に迎える。あの可憐な美茉姫を思う存分抱きしめることができるかと思うと、大日譲りの助平心が入彦の鼻の下を伸ばした。決戦を控えて、なかなかの肝の太さといえなくはない。いつもなら厳しくたしなめるはずの豊は、このときは、羨ましそうな目をしただけだ。


「大日様が、わたしをあなたの側室おみなめとして迎えたこと、覚えてるかしら」


「もちろんだ。でも」


「そう、あなたは、その関係の解消を申し出た」


 誓約うけひ鏡猟かがみがりに豊を出場させるために側室という立場を利用しただけで、入彦は生々しい関係になるまえに、離縁を豊に伝えていた。女好きの血を引いている入彦にしては、苦渋の決断だった。何しろ、豊はまだ少女だが美しい。美茉姫も美しいが、豊には神秘的な美しさがある。美茉姫を日輪にたとえるとすれば、豊は月光だ。日月を左右の手に納める欲望を捨てさせたのは、それ以上の吉事を掴める予感があったからだ。その予感通どおり、美茉姫との絆はいっそう強くなり、豊はなくてはならない友人になった。


「もしかして、よりを戻したくなったのか」


 半ば冗談、半ば期待を込めて入彦は言った。どこか切なげだった豊の眉が、このときようやく彼女らしい勝ち気さで逆立った。


「お悪戯いたを言う口にやいとを据えてもよいのだけれど、今はやめておくわ」


 曇った彼女の眉の辺りに雷雲が沸き、今にも雷を落とされそうな想像をして、入彦は怯えた。豊の言霊の術であれば、その程度のお仕置きはたやすい。


「大日様にきちんと報告していないわ」


 二人の関係の解消は、二人で決めたことだ。大日にきちんと告げる暇が、あの頃にはなかった。孔舎衛坂で戦い、大宮を逐われ、磐余で戦った。


「では、父の霊廟おたまやにゆこう」


 二人は連れ立って、三輪山の麓にある霊廟に向かった。そこには大日だけでなく、累代の磯城族の氏上このかみが葬られている。


 大日の霊に告げた二人は、帰り道に無言だったが、不意に入彦がある思いを口にした。


「父上のみささぎを造ろうと思う」


 むろん、来る戦いは勝利を掴む予定になっている。


「叔父がやろうとしたことは失敗に終わったけど、考え方はおもしろいと思う」


 叔父とは安彦のことだ。その当時は、まだ登美彦を名乗っていた。先代饒速日の大陵で挙行しようとした大葬は、地震なゐ荒男すさのおによって邑人に恐怖を与えただけになったが、その原因を作った一人としては、叔父の思想自体には吸収すべき点がある、と見ている。これまでは、磯城族においても、氏上継承の儀は、族人に秘されて行われてきた。仕える主が、一夜で変わる。諸族程度の規模の集団であればそれでも良かろうが、次の戦いの後、入彦が思い描く新しい山門ではもっと新しい思想を導入したい。祖霊だけでなく、人々からも祝福を受ける継承儀式にしたい。

 

「どこに造るの」


「春日山の近くがいいと思う。父上は、磯城ももちろん愛していたが、春日も愛していた」


 春日族の邑である率川いざかわ邑は、大日が基礎から造り上げた邑だ。入彦も、そこで育った。思い入れは磯城に等しい。


 みちが分かれた。一方は邑に向かい、もう一方はそのまま野に伸びている。


「豊。いましはもう私の側室ではないが、へやはそのままにしておくよ。いえが欲しいのなら、言ってくれ」


 入彦も、ときどき数日いなくなる豊を、以前から案じていた。


「ありがとう。わたしのことは心配しないで。あなたの近くにいるわ」


 微妙な言い方を残して、豊は野に伸びる径を進んでいった。


 彼女の黒衣を掴もうと伸ばしかけた手を止めて、入彦は邑へ向かう道を選んだ。


 翌朝の黎明、磯城の邑に凜々とした戦気が立ち昇った。


 邑の門前に並んだ数百人の磯城の軍士いくさびとが、山門の明日を決する戦いに赴くのだ。


 馬のいななきが、いやがうえにも軍士たちの闘気を鋭利にする。春日族から磯城族へ合流した者には、馬に乗る騎手のりてもいる。春日族は、長髄彦ながすねひこの異名をとる登美族の支族であったから、騎馬の戦いに習熟している。数は百程度だが、大きな戦力になるはずだ。敵方には、登美族は参戦しない。


 騎馬隊は石飛が指揮する。本隊は入彦が指揮し、石火が参謀として支える。大彦は、適当に暴れることになっている。祝者はふりたちは征く道を清め、敵の呪術に備えるため、全員が参加する。


 輪熊、鹿高、御統、豊も、軍士たちに混じって出陣を待っている。御統のそばには翠雨あおさめが、豊のそばには如虎にょこがいる。百襲姫と美茉姫はかんなぎを指揮し、斎宮いつきのみやに籠もって、戦勝を祈願する。


 それぞれに役割を背負った族人は、氏上の号令を待っている。


 うてなに立った入彦は、軍士たちの顔を見渡した。皆、勇敢な顔をしている。豊の姿を見つけると、入彦はほっとした。


「皆も知っていると思うけど、私の父、大日は偉大な人だった」


 入彦は静かに話し始めた。それほど大きな声ではないのに、なぜかその声はよく通った。


「私は、そうではない。非力で、弱虫だ。でも私は、決して怯えたりしない。なぜなら、この矛に、剣に、矢に、よろいに、大日の魂が宿っているからだ。私は臆病で、意気地がない。だが私は、決して逃げ出したりしない。なぜなら、皆がいるからだ。私はふがいなく、腰抜けだ。それでも私は進むことをやめない。なぜなら、その先に、皆との平らかな明日があるからだ」


 とても人を奮起させるような訓辞ではない。でも、とても入彦らしい、と豊は思った。同じ思いが巡ったようで、軍士たちは何かが心を打つのを感じた。


「皆、私と共に進んでくれるだろうか。私を奮い立たせてくれるだろうか」


 あいの大音声が、磯城の天地をどよもした。軍士たちが応える声は何度も挙がり、そのたびに、入彦の鼓動が熱い血潮を体内に脈打たせた。


「ゆこう」


 大彦を促すと、大彦は彼の得物の銅棒を振り上げ、大音声で出陣を告げた。


 邑に残る族人が、無事と武運を祈りつつ、軍士を見送る。


 美茉姫も斎宮から駆けつけて、入彦を見送った。


御祖みおや御霊みたまと共にあれ」


 彼女が言挙げすると、見送る族人たちが唱和した。


 邑の外では、野原は若い緑で沸き立っていた。草花を揺らすのは、春から夏へと渡ってゆく風だ。


 この光彩にあふれた世界を、無に帰させはしない。入彦の強い思いは軍士たちの一人一人に伝わっており、軍靴の音は勇ましい。


 朝の光が夜の名残をすっかり払った頃、きれいな円錐形の小山が見えてきた。耳無山みみなしやまだ。名前の由来は、よけいな出っ張りがない、ということだ。


 よけいな出っ張りがないはずの山姿を、黒々とした影が取り巻いている。鉄器で武装した天孫族だ。山足を隠すほど雲集しており、その規模は万を超えていると思われ、まさしく軍であった。


 磯城族が合流すると、入彦と大彦は耳無山の頂へ案内された。頂といってもそれほどの高さはないが、それでも、そこから北の地形を一望できる。


「待ちわびておりましたよ」


 入彦と大彦を迎えたのは、狭野姫の溌剌とした声だ。日光をまともに浴びたような眩しさで、入彦は思わず視界を手で覆った。


 狭野姫は橿原宮で見せていた女衣姿ではない。凜々しい武具を身につけ、例の派手な鳥の羽根飾りをなびかせている。頭上には真金鏡まがねのかがみが輝いており、そこに封じられている大鵄おおとび天神あまつかみ日孁ひるめが巨大な翼をたたんで側に控えている。


磐余彦いわれひこ様、この度は共に戦えますこと、光栄に極みでございます」


 入彦は拝礼して感謝を表した。

 

「我らも山門の民となったのです。共に戦うのは当たり前のこと。磯城族の戦いぶり、期待しています」


 入彦はもう一度拝礼して狭野姫の言葉を受けたが、傍らの大彦は少し不平を口元に上らせた。磯城族を格下に見るような言い草が気に入らない。ただ彼は幼稚ではないので、甥の礼儀に従って、おとなしくしていた。


「さぁ、ぐずぐずしてはおれません。安彦とやらに、きついお仕置きを据えにゆきましょう」


 颯爽と立ち上がった狭野姫の羽根飾りが揺れて、今にも飛び立ちそうだったが、


「それはまた明日のことにして、まずは軍立いくさだてを話し合いましょう」


 と、手研たぎしが言葉の手綱を引いた。


 軍議が開かれた。出席したのは、天孫側が、狭野姫、手研、道臣みちのおみ珍彦うずひこで、磯城側が入彦と大彦だ。


「山門大宮に籠もる安彦をたすけるのは、出雲族だけです。斑鳩族はもちろん、登美族も動く気配は見せていません。御名方みなかた柵戸きのへを長く築き、我らを迎え撃つつもりのようです。出雲族は三千には満たないでしょう」


 手研が、斥候うかみが掴んできた情報を披露した。


 出雲族の規模は、大真の軍編成に従えば、一師を少し上回る程度だ。磯城族と合流した天孫族は万を超えており、概ね一軍の規模となる。


「ならば、平押しに押せばよいだろう」


 大彦が彼らしい真正面攻撃を主張した。敵を軽視しているわけではなく、大軍に策は不要という通則を発言したに過ぎない。  


われもそう思うが、こちらの被害を抑えたい。無理攻めはするべきではない」


 手研は慎重だった。議論を交わした結果、天孫族を三つに分かち、それぞれを手研、道臣、珍彦が指揮し、道臣が正面を珍彦が側面を攻撃して、手研が後詰めする戦立てとなった。磯城族は遊撃的立ち位置を委ねられた。


 安彦に鉄拳を喰らわせてやるつもりで意気込んでいた大彦は明らかに不満げであったが、入彦は承諾した。手研には、天孫族が主導権を取らなければ族人が納得しない、という配慮があるのだろう、と推察したからだ。入彦としては、誰が主導権を取ろうと、果

実の暴発を防ぐことができればそれでいい。磯城族の氏上が山門主になる必要はなく、これまでどおり、山門の一隅で独立できていればそれでいい。天孫族としては、この戦いに参加する以上、狭野姫を山門主に奉戴する戦いでなくてはならないのだ。


「手研殿の差配に依存はありませんが、大事なことは、敵は出雲族ではない、ということです。討ち果たすべきは果実であり、それを手中にしている安彦です」


 入彦が戦いの目標を再確認する言葉を挙げると、珍彦が口を尖らせた。


「それはわかっている。だが、安彦は斑鳩宮の奥に籠もっている。奴を打つ前に、出雲族を排除せねばならんのではないか」


「そのとおりです。ですが、手研殿もおっしゃられたとおり、被害を抑えなければなりません。勝てる戦いであればなおさらです」


「それで、磯城津彦殿は何を申されたいのか」


 道臣が口を挟んだ。


「磯城の軍士はここにいる大彦が率い、存分に働きますが、私は二三の者を連れて、斑鳩宮に侵入し、果実を奪取もしくは破却します。安彦は、恥ずかしながら、磯城の族人です。磐余彦様におかれましては、どうか私の単独行動をお認めいただきたい」


 その申し出に、手研は困惑顔を作ったが、入彦は狭野姫を見つめた。


「よろしいでしょう。ただし、われら天孫は、大宮を踏み潰すつもりで攻撃します。天孫の軍士が斑鳩宮になだれ込んだとき、御身を敵と誤って殺めるやもしれません。その覚悟があるのなら、気をつけておゆきなさい」


 狭野姫は迷うことなく、峻厳に言い放った。天孫の面目を立て、入彦の心情を汲むにはそう言うしかなかった。


「ありがとうございます」


 入彦は立ち上がった。軍議はそれで閉じられた。


 磯城族の軍営に戻った入彦は、さっそく人を遣って御統と豊を呼んだ。二人はすぐに来た。翠雨と如虎が当然の顔をして連れ添っている。


「私たちは、密かに斑鳩宮に入り、果実と安彦の暴走を止める。私たちの仕事が早ければ早いほど、戦で斃れる人が少なくなる。二人とも、その覚悟で付いてきてほしい」


 入彦は御統と豊の顔を交互に見た。あと二つの視線を感じ、


「お前たちもだ」


 と、翠雨と如虎に言った。


 四つの頷きを受け取ると、入彦は号令をかけている大彦の側に行った。


「伯父上」


「おう、こっちは任せな。お前はお前のやるべきことをやれ。焦るなよ。お供は少々頼りないが、案ずることはない。お前の後ろに弟が見えるよ。必ず上手くいく。焦らぬことだけを心がけよ」


 訓示を与えた大彦は、彼らしい豪快な笑い声をあげて、終わったら酒を飲もう、と言った。


 石火と石飛、国牽、そして輪熊と鹿高にも後事を託す言葉をかけて、入彦は二人と二匹を連れて、山門大宮へ出発した。


 出雲族が警戒する地域を潜行し、一夜野営して、翌黎明の暁闇に紛れて大宮へ侵入する。安彦の妨害をかわし、剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを奪取する。作戦自体は、至極単純だ。


 奪取した果実の処理は、可能であれば破砕し、それが不可能であれば、御統の白銅鏡ますみのかがみに宿る天目一箇神あめのまひとつのかみか、狭野姫の真金鏡まがねのかがみに宿る日孁ひるめに託して高天原に運び、天神あまつかみの処置に委ねる。それが狭野姫も同意した果実の処分方法だった。


「どうにもならなければ、海原の底に沈めればよい」


 輪熊などは、そんな乱暴な案を主張したりもした。果実が蓄えた霊力を発動して周囲を無に引き込んだとしても、驚くのは魚ばかりということで、その案にも一理あるが、また誰の手に渡るやもしれぬ危険がある。天神が棄てたものは、天神に返すというのが筋の通った話だ。


 ともかく、全ては安彦の手から果実を奪取してからのことで、暴発するときがいつとも知れない焦燥感を抱きながらも、入彦は慎重に山門の野を進んだ。

 

 人の目で一見すれば、春空の下の色めきだった爽快な草原も、呪いの目で見ればそこかしこに呪詛の言霊が浮いている。呪言が土の下に埋められているのだ。その土を踏んだ者は呪われる。呪能の貧しい者は体調不良を起こしたり、呪気を帯びたまま戦場に出れば、同じ呪気を帯びた飛矢を招き寄せ易くしたりする。即効性はないが、嫌らしい仕掛けだ。それらはすべて、安彦や御名方が天孫族と磯城族を迎撃するために敷設させたものだ。


 入彦一行は、豊の祓除はらえの術で呪詛を解除しながら進んでいる。


 呪詛の結界に穴を空けるのは、少人数であれば比較的たやすいが、軍となればそうもいかない。今頃、天孫磯城連合軍では、多くの祝者や巫が先頭に立って、隈取くまどりを施した呪いの目で呼見こけんしながら、ゆっくりと行軍しているはずだ。呼見は、眼力によって呪いを無効にする術だが、それがなければ、耳無山から山門大宮へは起伏の少ない葦原を半日かけずともよい行程だ。だが実際、連合軍が戦場予定地に到着するのは夜半になる。そこで陣形を整え、夜が明けると同時に開戦となる。出雲族の警戒が前方に集中するそのときを見計らって、入彦たちは大宮へ侵入する手はずだ。


 大きく迂回したこともあって、入彦一行はさしたる困難もなく、出雲族の警戒線の内側に入った。春の日暮れはのんびりとしているが、明日、黎明からの行動を考えて、早めの休息を取ることにした。


 警戒線の内側とはいえ、出雲族の軍士が巡回していることも考えられるので、入彦は青銅鏡あおみのかがみに写し取った大物主の幸魂さちみたまの力を使って、小規模の叢林そうりんを生み出し、その中で野営した。もちろん、叢林には豊が結界を張っている。


 木立の側で翠雨を休ませた御統は、翠雨の背の荷物袋を降ろした。


 まだ宵の口で、空に明るさは残っていたが、入彦たちは食事を摂った。煙を立てられないから火は起こせず、塩を振った鹿肉や木の実を食べた。三人で食事をするのはこれが最後かもしれないという思いは全員にあったが、誰もそのことを口にしなかった。普段は口さがない御統も、大人しく鹿肉や木の実を無言で食べている。


 食事が終わると、しばらく三人で立ち昇っていく夜気を見つめていたが、やがて立ち上がった入彦が、荷物袋から夜具を取り出した。と言っても、獣の毛皮を縫いつけた薄いふすまだけだったから、春の夜の冷たさは完全には防げず、三人は寄り添った。如虎は、豊の側で体を横たえた。ちなみ、衾は掛け布団に近い。


 入彦はなかなか寝つかれず、星空を見上げていた。


 大真では、星の運行で人の未来を予測する技術があることを、父から聞いた。父は、星は遥かな上古から存在し、遥かな後世にまで存在し続けるものだ、と教えた。入彦には理解できない話だったが、星だけでなく、山門の天地あめつちも永遠に有り続けるものだと思っていた。見上げれば常に空が有り、踏みしめれば常に大地がある。それがある日、忽然となくなることなど想像しようがない。


 いや待て、と入彦は思い直した。果実が無に返すのは天地ではなく、人が築き上げてきたものだ。人は、自分たちが築き上げてきたものが天地だと錯覚する。しかし確かに人は、それに依りかからなければ生きていけない。獣のように暮らすことはできないのだ。


 剋軸香果実は、なぜ人の世を無に返したがるのだろうか。入彦は、明日、破却するかもしれない果実が求めるものを考えてみた。当然、答えはでない。果実が求めるものが何であろうと、人は人の世を守らなければならない。そこまで考えて、もう寝ようとした

ときに、小さな話し声が聞こえてきた。豊と御統も、まだ眠っていなかったのだ。入彦は耳を澄ました。


「いいわね、御統。明日一日は、常世の原のことを考えてはだめ。お父さんとお母さんのことは考えないで。そこに行きたいなんて考えないで。そうじゃないと、あなた、とても危険なことをするから」


 豊が御統に言い聞かせている。御統は、もう半ば寝息を立てているようだ。


 常世の原が死後の世界であることを、豊は御統に伝えたのだな、と入彦は思った。入彦もそのことを知っていた。知っていたが、あえて御統には教えなかった。あまりに酷だと思ったからだ。だが、教えてやるべきだった。その役割を、豊が果たしてくれたことに、入彦は安堵した。もっとも、御統がそのことをもとより承知していたことは、入彦は知らない。良く言えば天真爛漫、悪く言えば脳天気な御統の小さな胸のうちに、まさか悲壮な想いがあるとは思いもよらない入彦だ。そして豊の胸のうちにも、秘められた悲痛な覚悟があることも、入彦は知らない。


 入彦は、やがて眠りに落ちた。


 山門の葦原で、今夜、一万数千人が浅い眠りに就く。夢の中で、大切な人に出会った者は多いだろう。篝火に照らされる夜はどこか幻想的だが、朝には厳しい現実が待っている。


 草の葉が夜露を結ぶ頃、入彦は眠りから覚めた。父とどこか長閑なところを歩いていた夢の名残が、しばらく入彦をぼんやりとさせた。


 豊はすでに身支度を済ませていた。寝ぼすけの御統も背伸びをしている。翠雨と如虎も目覚めている。


 三人と二匹は軽く食事を済ませた。


 彼らの姿を隠していた叢林を、入彦は鏡の中に吸い込んだ。


 空にはまだ星があり、後方を振り返れば、無数の篝火が光の線を結んでいる。前方は、ひたすらの闇である。


 入彦は出発を告げた。荷物は戦いに必要なものだけとし、その他のものは捨ててゆく。


 暁暗が仄かに薄れた頃、入彦たちは前方に巨大な影を見た。


 山門大宮だ。かつては無数の篝火で、夜なお昼のごとしであった山門の首邑が、埋葬されたかのように暗がりのなかに沈んでいる。


 門守かどもりもいなければ、結界もない。入彦たちは易々と大宮に入ったが、薄気味悪いものを感じた。しかしそれが入彦たちを誘い込む罠だったとして、進まないわけにはいかない。


 さすがに長鳴き門は強力な結界が張ってあった。門の内側の斑鳩宮を護る土壁も、分厚く高い。当然、ここにも強力な呪詛が仕込まれており、乗り越えようとしたり、破壊しようとした者には呪術が発動される。


 さても優秀な言霊師である豊でも、短時間ではどうしようもない。


 予想していた事態だったので、入彦は一枚の呪符を取り出した。それは、磯城族の百襲姫が日々呪力を注入していたものだ。入彦はその呪符を、頑固親父の顔で閉じている門扉に貼付けた。入彦がその作業をしている間、御統は、翠雨の首筋を撫でながら、


「おまえはここで待っているんだよ」


 と、むずがる相棒に言い聞かせていた。翠雨はまだ成馬ではないが、馬体は室内の行動には不向きだ。翠雨は鼻面を御統にすり寄せて、気を付けて、と気持ちを伝えた。


 門が揺れ始めた。入彦たちが立っている場所も揺れだし、今にも門扉はこじ開けられそうだったが、頑固親父が目を剥いたように思えた瞬間、呪符は四散した。


 百襲姫の積年の呪力を上回る呪力が、門扉に注がれているということだ。 


 三人は戸惑い、そして焦慮した。伯父の言葉を思い返した入彦は、まだ星影の残る空を見上げて、深呼吸した。

 

 入彦の視界を、ふと白い蝶が横切った。暁暗のなかで、それを蝶と見分けられたのは、その蝶が仄かに光っていたからだ。それは明らかに、呪力の輝きだった。


 豊と御統も白い蝶に気づいた。


「あれは・・・」


 豊はあることを思い出した。美茉姫を救出するために、同じようにこの長鳴き門の呪力の強固さに苦心していたとき、白い蝶が飛んで、門の裏に通じる黒穴へと誘った。


 同じ蝶が、門扉に止まった。すると、また門が揺れ始め、今度は頑固親父も諦めた。静かに、門が開いた。


 これこそ罠ではないか、と三人は疑ったが、そうではなかった。


 白い蝶の輝きが強くなり、眩しくなり、やがてその輝きは何かに吸収されるように凝縮され、人の姿が現れた。


夜姫やひめ!」


 山門の斎主いわいぬしであり、美茉姫救出時に斑鳩宮の地下で三人を苦しめた強力な呪術者だ。豊にとっては因縁の相手であるから、とっさに身構えた。しかし、入彦には、目の前に現れた仄かな輝きの女性が、夜姫でないことが一目でわかった。


「わたくしは夜姫ではありません。陽姫やひめです。ああ、わたくしの甥御殿。立派になりましたね」


 陽姫は慈しみの目で入彦を見つめた。その女性に害意がないことを悟った入彦は、今にも術を発動しそうな豊をなだめた。


「叔母上。門の呪いを解いてくださり、ありがとうございます」


「なつかしい呪いの香りが残っています。これは、百襲姫さまですね」


「はい。百襲姫様の呪符を用いましたが、門の呪いの力が上回りました」


「おかげで随分、門の呪いの力が落ちていました。それで、わたくしの残された呪いの力でも、祓うことができたのです」


「どうか、この先もお導きを」


「わたくしの力はもはや尽きます。この姿は、わたくしが夜姫に堕ちる前に産みだした分身わかれのみ。蓄えておいた力はまもなく尽きます」


「私は、叔母上の兄、安彦を討ちにゆきます」


「わかっています。どうか異母兄上あにうえを討ち、異母兄上を苦しみから救ってください。ただ、知っておいてほしいのです。異母兄上は、心から磯城の平和を望んでいました。そして入彦、あなたの父を、誰よりも尊敬していたのです」


 安彦、いや登美彦とみひこがいなければ、父、大日が斃れる悲運が山門を襲うこともなかった。それでも入彦は、陽姫の言葉を信じようと思った。


「さぁ、お通りなさい。この門に施された呪いは、もう悪さをすることはできません。ただし、お気を付けなさい。この先にも、呪いが埋められています」


 陽姫は右手を後方にかざし、呪力を放った。斑鳩宮の入口付近の闇が一瞬輝き、何かの影が蠢きだした。気づかずにそこを通っていたなら、いきなり襲われていただろう。


「異母兄上のこと、よろしくお頼みしましたよ。それから、大彦の兄様はだらしがないから、美茉姫を困らせないよう、あなたがよく言い聞かせるのですよ」


 陽姫の姿をなしていた光の粒子がほどけ始め、群蛍の乱舞のようになったかと思うと、やがて虚空に吸い込まれていった。


「あんなに綺麗な人だったのね、夜姫は」


 豊が、また一人の肉親を喪った入彦に寄り添った。


「私もはじめてお目にかかったよ。豊とはいろいろあったようだけど、叔母上を許してもらえるだろうか」


 斑鳩宮の地下でも、誓約うけひの鏡猟りのときも、馬合せのときも、豊と夜姫は呪術を激しく交戦させた。豊は多くの傷を負わされたが、夜姫が陽姫にもどった今、二人には和解して欲しい、と入彦は願った。陽姫の声はもう聞けないが、豊からはその言葉を聞きたい。


「いいわ。でも、あなたの叔父上にはきついお仕置きをするわよ」


 そういう言い方で、豊は、入彦の願いを叶えた。


「なんかいるよ」


 御統が鋭い声をあげた。陽姫が呪力を放った辺りで蠢きだしていた影が、怪異な姿に凝縮された。四つ足四つ手で、剣らしきものと矛らしきものを二本ずつ持っている。全身は漆黒。体の輪郭がおぼろで、悪意が煮えたぎったような黒い蒸気を噴いている。


黄泉醜男よもつしこをよ」


 豊が化け物の正体を見破った。黄泉よみの世界の兵士である。生前に悪事を働いた汚れた魂は黄泉に堕ち、そこで兵役にとられるという。


「生きてても、死んでても嫌な奴だ」


 御統は腹に巻いたふくろに手を入れ一掴みの石礫を取り出した。投擲とうてきは軽業のなかでも御統がもっとも得意とするもので、しかもただの小石ではなく、呪力にたっぷりと浸している。豊に頼んで仕立ててもらった特別の小石だ。


 それを投げつける。黄泉醜男は剣と矛で防いだが、一つが、人でいえば眉間に相当する場所を鋭く衝いた。


五百根いほね霊揺たまゆら這い回れ」


 入彦が呪言を称えると、地中から無数の木の根が飛び出し、黄泉醜男を絡め取った。もがく黄泉醜男に豊が祓除はらえの言霊と投げつける。黄泉醜男は音にならない断末魔をあげて、地中に吸い込まれていった。


「へっ、どんなもんだ」


 三人の以心伝心の攻撃に満悦した御統は、意気揚々と斑鳩宮に乗り込んだ。だが、一歩目で、ぎょっとした。宮内のいたるところに、黄泉醜男が這い回っている。


 それは背筋が寒くなるおぞましさだった。害虫が群をなして蠢いている光景を遙かに超越した気味の悪さだ。


 思わず回れ右をしかけた御統だが、後ろから走ってきた入彦と豊に押し込まれた。


 宮内の不愉快な光景に、入彦は唸り、豊は小さな叫び声をあげた。だが、引き返すわけにはいかず、回り道もない。


 御統は白銅鏡ますみのかがみを取り出した。こういう悍ましい光景は、巨大な金槌の一撃で粉砕するに限る。


「おっちゃん!鍛冶かぬちのときまだ!」


 溌剌と御統は叫んだが、鏡は無言で、鏡面に小波もたたない。御統は気の抜けた表情で鏡を覗き込んだり、振ってみたりしたが、鏡はひたすら知らぬ顔だった。


「あれ、おっちゃん、まだ寝てんのかな」


 とぼけたことを言う御統に、入彦と豊は付き合っていられない。すでに黄泉醜男は三人と一匹の侵入者に気づいている。嫌悪感を掻き立てる足音で、巨大な蜘蛛の群のように三人に迫ってくる。毒気の塊である黒玉を吐き出す個体もいる。


「あれに触れると、全身が火膨れるわよ」


 豊は黒衣の内から小さな木片をいくつも掴みだし、


「汝ら、燃やし尽くすもの」


 言霊と共に木片を投げると、猛然と放たれた火炎が黒玉と、いくつかの黄泉醜男を焼き尽くした。


五百枝いおえ霊揺たまゆら生い茂れ、五百根いおね霊揺這い回れ」


 入彦が生み出した木の枝と根が、数体の黄泉醜男を貫き、破壊した。


 最初の黄泉醜男の群を突破した入彦たちは、ひたすら走った。何十という黄泉醜男が追いかけてくる。


「広間まで走って!そこに地下に降りる道があるわ」


 美茉姫救出前に、如虎とともに斑鳩宮に侵入させていた使役の札たちが、宮内の造りを調べ、豊に伝えていた。


 入彦たちは広間に駆け込んだ。整然と並んだ二列の柱の間を駆け抜ける。黄泉醜男の吐き出す黒玉が柱に当たって、毒の霧を撒き散らした。入彦たちは肌に少量の火膨れを負った。


「あのうてなの後ろに地下へ降りる入口があるわ」


 豊が指さした壇は、平時であれば山門主饒速日がその上におり、臣下を見下ろすことになる。今、その壇の頂には、一塊の土くれがあるだけだが、入彦たちの視覚に触れることはなかった。


 壇の裏に回ったが、入口らしきものは見当たらない。入彦と御統がところかまわずその辺りを叩いたり、蹴ったりしていると、床にわずかなきしみがあった。


 そこが入口と見当づけた豊は、言霊を紡ぎ出し、大雷魂を落とした。


 警告する暇がなかったため、入彦と御統も吹き飛ばされたが、床に大穴が空いた。そこから地中に降りていく暗闇が見えた。豊と如虎がその穴に飛び込む。入彦と御統も、豊への文句はそこそこに、穴に飛び込んだ。


「まだ追ってくるよ」


 御統が振り返ると、破壊された入口から黄泉醜男が入ってこようとしていた。地中の底には安彦が待ち構えているに違いなく、このままでは挟み撃ちに遭う。


「しかたないわね」


 豊はここにも大雷魂を招来した。狭い空間だから、轟音とともに壁や天井が崩れた。危うく生き埋めになるところだったが、通路の崩壊は最小限に留められた。


「そういうことは、前もって言ってくれ」


 入彦は当然の抗議をしたが、


「そんな余裕はなかったのよ」


 と、豊も当然の反論を返した。


「大丈夫かな」


 御統が真っ暗闇の向こうを見通そうとするように目を細めた。もちろん、真っ暗闇だから、御統のその試みは、他の者にはわからない。


「埋まったところを掘り返して、また追ってくるんじゃないか」


 入彦も案じ顔をつくったが、なにしろ自分の手も見えない漆黒だ。


「大丈夫よ。やつらはそこまで頭が良くないわ。わたしたちの姿を見失えば、また他の獲物を探してうろつくだけよ」


 豊はそう言った。その声に、如虎が身を寄せた。


「ここにいるわよ。いま、灯りをつけるわね」


 如虎を抱きしめて安心させた豊は、黒衣の内から細い木の枝を取り出した。


 ほっほっ、という掛け声とともに火が点った。例の、一生懸命に自分を松明と信じている木の枝だ。


 三つの顔と一匹の顔がほのかな灯りに浮かび、ようやくお互いの表情を確認しあった。


 松明もどきを持たされた入彦が先頭に立って、どこまで下りていくともしれない闇の通路を進んだ。


 たいして進まないうちに、灯りの届かない闇の先から、不気味な音がした。その音は、どんどんと近づいてくる。


 息を飲むうちに、不気味な物音の主が灯りの中に現れた。


道反ちかえしの大磐よ」


 豊がそう叫んで身構えた。


 それは生者と死者の世界の境に置かれた大磐で、死者が生者の世界に復活しようとするのをふさいでいるという。


「なんでそんなものがここにあるんだ」


 入彦は混乱した。この暗闇の道は、本当に黄泉に通じているのかと恐れたが、そうではない。道返の大磐は何も一つではなく、山となるほどに積み上げられている。そのうちの一つを、安彦が召喚し、この暗闇の道を守らせたにすぎない。


「それはわからないけど、何か手を打たないと、潰されるのは確実だわ」


 大磐は道幅一杯の巨体をしており、一部の天井や壁をこそげ落としながら近づいてくる。退路は、豊が招来した大雷魂によって崩落している。もう一発、大雷魂を放てば、大磐を破壊することができるかもしれないが、通路が崩壊し、今度こそ生き埋めになる可能性のほうが高い。


「押し返してやる」


 入彦は鼻息を大きく落として青銅鏡を構えた。たちまち地中や天井や壁から植物の根が生えだし、大磐の行く手を遮った。だが大磐は止まらず、根が千切れはじめた。


「汝ら四つ足、角牙生えしもの。勇ましく、退かぬもの」


 豊が木片や小石をばらまき、言霊を与えて、牛や猪と信じ込ませた。牛や猪の意気込みの木片たちは、勇ましく大磐にぶつかった。


「五百根霊揺、這い回れ」


 入彦は全身の細胞から霊力を集め、青銅鏡に集中させた。


 大磐の進行が止まり、後ずさりはじめた。御統も如虎も大磐に体当たりして押し返した。道返しの大磐はなんとか前進しようとしたが、入彦の操る大物主の幸魂と、豊の言霊を帯びた札たちと、御統と如虎の火事場の馬鹿力とに敵わなかった。


 とうとう大磐は、通路の底まで押し返され、その向こうの広い空間へ押し出された。道反しの大磐は、侵入者を防ぐという任務を果たせなかったことに項垂うなだれたような格好で静かになり、微動だにしなくなった。


 大磐にかわって入彦たちを襲ったのは、猛烈な冷気だった。


 暗闇の通路を抜けた入彦たちは、広い空間に出たが、外界は夏に向かっているというのに、ここは真冬の寒さだった。


 暗闇の中に、雲のようにたなびいているものが幾筋もある。それらはもちろん雲ではなく、強すぎる霊気が視覚に映ったものだ。 


 たなびく霊気が微量の光を放つほか、その広い空間は暗闇だった。暗闇であるにも関わらず、空間の広さを感じとれた理由は、三人と一匹の肌に触れる暗闇の気配に覚えがあるからだ。


 祝者や巫を生きたまま犠牲に供えた悍ましい祭壇のあった地下空間だ。ここで夜姫と戦ったのは、美茉姫を救出したときのことだ。剋軸香果が確かにその祭壇に収められていたのを、三人と一匹は視認している。この暗闇のどこかに果実が息を潜ませているのは間違いなく、安彦もどこかにいるにちがいない。


「叔父上、入彦、まかり越しました」


 入彦は暗闇に向かって堂々と言い放った。鋭い語気が暗闇を伝わり、たなびく霊気を震わせた。


 足下に、白い触手のようなものが絡みついたかと思うと、地中から湧いて出たように、白い霧が視界を覆い尽くした。それらはすべて霊気の粒子であり、強烈な霊体が存在する証だ。


「父の声に近づいているな、入彦よ」


 その声の主は、突如として姿を現した。


 なんと形容して良いか分からない霊気の塊が入彦を睥睨していた。入彦は息を飲んだ。気を抜けば、一瞬で凍り付きそうな冷気が周囲に漂っている。


 入彦は呼吸を取り戻した。吐かれた息は白い結晶と化したが、白い霊気の粒子に溶け込んだ。霊気の塊は人の姿を成してはいなかったが、これが安彦である、と入彦にはわかった。


「叔父上、おわかりでしょう。果実が災いを招くときはまもなくです。果実をお手放しください」


 霊気の塊、それはあたかも台風の渦のようであったが、その中心を、入彦は正視した。


「災いはもう起きておるのだ、入彦よ。吾が、愚かにも、ときの軸となる果実を饒速日の手に渡したそのときからな」


「お話しください、叔父上。山門が被っている災いのすべてを」


「難しいことではない。山門の絶対者になろうとした強欲者を、磯城の馬鹿者が手助けしただけのこと。強欲者は、山門人の心までをすべて支配しようとし、果実の膨大な霊力を利用することを思いついた。その呪いは途轍もなく強く、あの大日さえ抗えず、白日夢の中で操られた。呪いから逃れ得たのはわずかに過ぎず、そのうちの正しき者は正しき行動に心身を捧げ、馬鹿者は果実の魅力に取り憑かれ悪事を働いた」


 霊気の渦の中心に目があったとすれば、その目は、入彦の横にいる御統を見つめた。見つめられた御統は驚く素振りなく、親しい人に対するように、静かに見つめ返している。御統が安彦と言葉を交わしたのは、山門大宮郊外での一度きりだ。それもわずかな言葉のやりとりにすぎない。さらには、それが安彦であり、御統であるという名乗りすら、互いに交わしてはいない。それでも御統には、自分を見つめる目が、それが得体のしれない霊気の渦であったとしても、大事な存在であるような気がした。


「それが災いの全てではありますまい」


「そうだ。枝葉のことにすぎん。強欲者も、馬鹿者も、そして正しき者も、すべてが果実の思うがままだった。山門全土に触手を伸ばすことに成功した果実は、山門の大地から、山野から、生きとし生けるものすべてから、その備わる霊力を吸い上げた。そして、本来であれば数百年後に起こるはずだった災いを今にも起こしうる膨大な霊力を手に入れたのだ」 


「それをおわかりなのであれば、果実をお渡しください。隣にいる童子をぐなは、幸いにも天津神あまつかみを招くことができます。災いの果実を、高天原に返しましょう」


「そうはゆかぬよ、甥御殿」


「災いを除くには、それしか手はありますまい」


「それでは、馬鹿者が、ただの馬鹿者で終わってしまう。馬鹿者には馬鹿者の意地があるのだよ」


「馬鹿な」


 入彦の怒気は、白霧を激しく波打たせた。意地などで、山門の天地を失うわけにはいかない。


「ゆえに、さきほどから馬鹿者と申しておる」


 霊気の渦が寂しく笑ったように、御統には思えた。多くのものを犠牲にしたがゆえに、正しさへ戻れないということがある。そういうことなのだろう、と御統は心の深いところで感じた。


「叔父上、私を以前の惰弱な私と思うてはなりません。この胸の中には大日がおり、上等な言霊師と、非凡な俳優わざをぎと、勇敢な獣を仲間にしています。あなたが果実の霊力をいかに利用しようとも、あなたを打ち破ることなど容易いのです」


 入彦は啖呵を切った。褒められた二人と一匹は、思いがけないことに、つい照れた。


「猪口才な青二才め、とは言わぬよ。だが、やってみるがいい。いましの思う通り、果実はこのなかのどこかにある。白い闇の底を這いずり回り、望むものを探し当てるがよい。ただし、吾が邪魔をせぬとは思わぬがよいぞ」


 言葉の応酬は終わり、ここからは実力で主張を証明するしかない。


「馬鹿者の意地か、正しき者の信念か。どちらであろうと、そろそろ結末をつけねばならぬ。それも早くしなければ、外の者どもが難儀をしよう」 


 地上の世界では、朝焼けが空を焦がし、磯城族と天孫族、出雲族の軍士たちが矛を林立させ、このとき、まさに戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。


 入彦たちが果実を奪取すれば、もはや戦いは不要であり、安彦が強奪者を排斥すれば、それまた戦いは不要なのだ。斑鳩宮の地下世界の結末がどうなろうと、それが早ければ早いほど、地上で命を落とすやもしれない数千人が救われる。


 だが入彦は焦らない。磯城族の中で、今日、戦うことの意味を、たとえ斃れようともその意味を理解していない者はいない。天孫族も、出雲族も、それぞれの思いは異なろうとも、何かを決断して今そこにいることにかわりはないだろう。今日、この戦いの場裏で、意味のない死などないのだ。


 入彦は悠然と青銅鏡を構え、これから始まる安彦との熾烈な戦いに備えた。

 地中深くで、濃密な霊気の渦と化した安彦と入彦は、ついに対峙した。


 地上では、山門の命運を決する戦いが始まっている。

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