山門編ー失われた天地の章(31)ー天地消失(2)
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、天津彦を名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場を目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。五瀬の妹である狭野姫は天津彦の企図を継ぎ、名草族の宝剣、韴霊剣の力を得て、室を平定し、熊野の名を授ける。狭野姫は真秀場を目指して、再び山門に挑み、大日に致命傷を与える。死期を悟った大日は、天孫族との平ぎを入彦に命ずる。父の命を拒否した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。兄を奪われた狭野姫と父を奪われる入彦。二人は感情をぶつけ合うが、いつしか心が通い、二人は山門の美しい夕景に、天孫族と山門の麗しい未来を見る。天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が山門掌握の画策を進める。拐かしていた美茉姫を御巫に仕立て、大掛かりな大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった御統が顕現させた天目一箇神が安彦の企図を破壊する。
一方、五十茸山では、輪熊と鹿高が剋軸香果実の起源を知る。斑鳩宮の地下深い祭壇では、安彦はいよいよ最後の手段として、果実との融合に挑む。
美茉姫を取り戻した入彦たちは、果実の真意を知り、山門を消滅から救うために動き始める。豊には、彼女を解き放たない暗い宿願がある決断を迫る。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
吹く風と日射しに、春らしい温もりがある。
畝火山は麗らかな春景色だ。橿原の喬木には橿が多いが、その枝の葉も、地表を埋める草花も命の色に満ちている。
入彦は数名の従者を連れて、橿原宮を訪れた。従者の一人は石飛で、春日族であった頃から入彦を主と仰いでいた彼は、今は入彦の兵衛となっている。
入彦一行は天孫族の竪穴の舎が散在するなかを進んでゆく。得体のしれない数人を磯城族と看破した天孫族は、片目に嫌悪を、片目に猜疑を灯して、入彦たちを注視した。
目に見えない茨の壕を越えていかなければならない。それも無理からぬことで、天孫族は孔舎衛坂と磐余砦の戦いで多くの仲間を失っており、彼らにとっては死神と呼んでよい大日の息子が氏上となった磯城族は、不倶戴天の仇だった。和睦が締結されたといえども、天孫族のすべてが心情で受け入れたわけではない。
ところで、天孫族の住居は壕や濠、木柵などで囲われていない。つまり、邑を建てていないということだ。外敵や悪霊を防ぐための呪術は至るところに施され、入彦の従者のうち祓除を弁えている者が気分を悪くするほどその呪術は磯城族に対する憎悪に満ちていたが、人と野獣の領域に境が設けられていなかった。それは、狭野姫や天孫族のかしこき辺りのために建てた橿原宮が、あくまで仮宮であることを表している。
仮宮であろうとなかろうと、山門の重点は今や橿原宮にあり、入彦としては安彦出雲族連合と対するに当たって、天孫族との共闘を何としても成り立たせる必要があった。
橿原宮の建物の周囲には、浅いながらも壕が巡らされており、掘った土で土塁を築いて、その上に躑躅や石楠花を植えて籬としている。
躑躅は美しい春の色で出迎えてくれたが、門の前に立っている二人の門守は厳冬のような険しい顔つきで、矛先を入彦一向に向けた。
「何用か。ここは山門人が通るべき門ではない」
山門人であることは、現れた数人の肌に文身があることでわかる。入彦の左頬にも、洗練された水の意匠の文様が描かれている。天孫族に山門人を嫌う族人は多い。山門人がすんなりと天孫族を迎え入れていれば、天孫族は過酷な運命に遭わずにすんだ。侵略を征途と言い張る者の独善が天孫族に蔓延しており、山門人を卑下する心機が門守の目に灯っている。
悪意は伝わりやすい。石飛をはじめとする入彦の従者たちは、門守の目の色から無言の侮辱を感取し、
「その山門人に一度は叩き出された己らではないか」
という敵愾心に染まった。
入彦だけが平常心だった。いくつかの戦場を踏んで矛のきらめきにも慣れているし、その場に最もふさわしい自分を演出する技は幼い頃から習得している。この場合の最もふさわしい演出とは、磯城族の代表としての威儀を見せつつ、交渉役としての柔らかさで相手を包むことだ。
「磯城の氏上の入彦です。磐余彦様の御稜威なる徳を慕うあまり、先触れもせず、不躾にもまかり越しました。どうぞ、磐余彦様にお取り次ぎを」
入彦は頭を下げて礼容を示した。態度にも声にも力みがなく、自然体でありながら、相手に否定を許さない存在感がある。大日の若かりし頃の姿を知る者は、目を細めるだろう。磯城族の氏上を父から継いで以来、入彦に流れる大日の血は濃度を増している。なお、狭野姫は、対外的には磐余彦の号を用いている。
磯城族の氏上の名を、門守は二人とももちろん知っている。目の前の青年が憎んでも飽き足らぬ大日の子であると知った門守の片割れは、何を若造が、と目を剥いたが、もう片割れは礼儀と世知を多少は弁えていた。彼の主人が、この青年を高く買っているらしいことを知っている。
「しばし、お待ちあれ」
彼は鼻息の荒い相棒をたしなめつつ、一旦、門内に消えた。
それほど待たせずに現れた人影はひとつ増えており、その新たな人影は手研だった。
手研は誠実さが体貌に滲み出る人物だった。磐余彦の股肱の臣下であるその人とは、一度、両族の成ぎを申し入れた席で会っている。手研から感じるのは強靱な柔らかさだ。どんな暴風雨に遭おうとも、この人は決して折れない、と入彦は一目で感受した。
手研も若い入彦を見る目に敬意がある。磐余砦で敵味方であった二人は、顔を合せるや、互いに信頼できる相手だと確信した。人が人を知る機微というのは、こういうものなのかもしれない。
「ようこそ参られた。ご案内いたします。ただし、お供の方はお一人でお願いします」」
手研は従者の数に制限はつけたが、武具を取り上げることはなかった。入彦と石飛は腰に銅剣を提げている。手研に続いて、入彦と石飛は門を通った。門外に残された従者たちは、少し離れたところにある喬木の木陰に入って、主を待つことにした。
宮の中は新しい建材の香りが満ちて、吸い込む空気が清々しい。壁や天井に装飾はなく、質素ながら上品な美しさの造りだった。これが天孫族の首脳の心情の表現なのだとしたら、やはり天孫族とは手を取り合うべきだ、と入彦は考えた。しかし、天孫族には磯城族に近親を殺された族人がおり、磯城族には天孫族に友人知人を殺された族人がいる。そこが難しいところだ、と入彦は廊下を進みながら思いを巡らせた。
中庭に出て、春の日差しに照り返る白砂を踏んで堂に上った。そこに磐余彦こと狭野姫が待っていた。
「よく参られました、磯城津彦殿」
狭野姫は入彦を尊称で迎えた。そのまなざしに捉えられるだけで蕩けてしまいそうな笑貌だ。磯城族の氏上は、磯城津彦と呼ばれることがある。
近頃、狭野姫は羽根飾りの派手な衣服や男装を脱ぎ、女衣に腕を通して、めっきり女らしくなった。彼女にそういう心境の変化を与えた入彦自身は、そうと気づかず、狭野姫に向かって作法通りの山門の礼を捧げた。
床に両膝を付き、額も床に付けていた入彦は、許されて、顔を上げた。
入彦は剋軸香果実の脅威について、秘蔵することなく語った。
天孫族の居住地の剣呑さとは一転して、狭野姫の朝廷は和やかな雰囲気で磯城族の氏上を迎えたが、入彦の説述を聞き終えると、さすがに水を打った静けさとなった。
ところで、朝廷という言葉は、もともとは朝庭だった。早朝の澄明な大気こそ祖霊の声がよく通ると考えられ、その声を聞くために氏上や大夫などが朝の庭に参集するのだ。山門の諸族にはその風習がまだ残っているが、大真の最新文化に触れることの多い筑紫の諸族では、神や祖霊の声ではなく、氏上そのものの声を屋内で聞くようになった。大真の皇帝が天子として天の意思を具現化したものと考えられたように、神や祖霊を降ろさずとも、氏上そのものが神や祖霊であると考えられた。
こうして庭の广が取り払われ、役所や官庁を表す廷となり、朝庭は朝廷となった。
入彦の来訪が急であったため、狭野姫の左右の人間は多くはない。しかし手研をはじめ、道臣や珍彦など、狭野姫が信頼する臣下は揃っている。
彼らは互いに目語を交わした。にわかには信じがたい話だが、入彦の急な来訪という事実が真実味を支えている。
「つまり、こういうことだろうか。山門の天地を無に帰しかねない危険な果実が山門大宮の斑鳩宮の地下にあり、それを安彦という者が操っているが暴発寸前である、と。それを阻止し、果実を破却したいが、安彦は出雲支族の支援を受けており、磯城族だけではその撃破は難しい。それゆえ、我ら天孫族に共闘を願いたい。そういうことで、よろしいか」
手研は噛んで飲み込むような話し方で、入彦の来訪の主旨を整理した。山門主饒速日が既に亡く、嗣子である真手への継承の儀式が大混乱となり、実質的に現在の山門の実権が安彦という人物に握られていることは、情報収集で掴んでいる。安彦の強引さに反発した斑鳩族は、真手を安彦に握られているから手出しができない。さらに安彦は出雲の軍士を引き入れ、目下、山門大宮は戒厳令下にあることも把握している。
「さようでございます。もともと果実は、文字通り、磯城族が撒いた種。その草刈り、根刈りに磯城族が矢面に立つのは当然ですが、出雲の軍士が相手では、磯城族だけでは歯が立ちません。斑鳩族は動けず、その他の諸族は日和見で頼むに足りません。ここはどうしても、天孫のお力をお貸しくださいますよう」
入彦は、再度、額を床に付けた。
手研や道臣、珍彦は一斉に狭野姫を振り返った。彼らの思いは概ね一致している。入彦が妄想を述べているとは思えず、天孫族も山門に踏み込んだ以上、入彦の話を無視できない。しかし、磯城族と和睦を結んだことですら、族内から有形無形の不満が出ているのだ。入彦を信じるしかない共闘を承諾すれば、不満が爆発するおそれがある。戦うなら磯城族が勝手に戦え。そう大呼する族人の声が聞こえてきそうだ。
「お顔をお上げなさい」
一人、狭野姫だけが朗らかだ。その声を聞いたとき、手研は苦笑した。姫の心は、もう決まっているらしい。
「思ったことをやる。あとは僕三人組が何とかする」
という彼女の鉄則がある。僕三人組筆頭の手研は呆れる思いがないではないが、無条件に信頼されていることが心地よくもある。
「山門の災厄は天孫族の災厄でもあります。あなた方が災厄と戦うというのなら、我らも戦いましょう」
このときの狭野姫は、入彦には女神のように見えた。しかしこの女神は、決して甘いだけではない。
「その見返りに、あなた方磯城族の忠心が欲しいものです」
天孫族に服従せよ、と狭野姫は条件を出したのだ。和睦を結んだとはいえ、磯城族と天孫族とはあくまで独立対等だ。この機会に、磯城族を取り込んでしまいたい。それが狭野姫の表向きの理由だが、本当のところは三人組が四人組になりそうだという胸算用があった。
狭野姫は一度引き締めた頬を微笑に変えた。それだけの動作で、男も女も、心を蕩かさぬ者はいない。狭野姫は、稀代の悪女ともいえる。
ところが入彦は蠱惑されるどころか、瞳から真っ直ぐな光を放ったから、その光をまともに受けた狭野姫の方がどぎまぎした。
「お言葉ですが磐余彦様、成ぎでの矢の誓いをお忘れか。磯城族と天孫族は手を携えて、新しい、美しい山門を創ろうと誓いあったはず。どちらがどちらに忠心を捧げるということではありますまい」
入彦の声に気張りはないが、臆する音色もない。言うべきことを言ったという顔をしている。反論というものを、ついぞ聞いた記憶のない狭野姫は、朗らかな笑顔を固めると、撥条仕掛けのようにそっぽを向いた。堂内にはらはらした空気が流れたが、珍彦などは、なかなかやるやつだ、と心のなかで唸った。
入彦にはしたたかなところがある。磯城族としては天孫族との共闘が是非とも必要だが、立場が弱いわけではない。果実の話を聞いた以上、高天原の子孫を名乗る天孫族は、邪心を球にして捨てた祖霊の失態を隠すためにも、入彦の話に乗らざるをえない。そこを見通して、入彦は秘蔵なく話したのだ。人の意に染まる術に長けた入彦は、今この場に相応しい色が何色であるのかを弁えていた。主導権を狭野姫に譲るふりをして、実はやんわりと脅している。そして、余計な条件は飲まない。入彦の政治的感覚を理解したのは、堂内では手研だけだった。
入彦の提案を拒否できないことに想到した狭野姫は、むかっ腹を立てた。すると彼女の美しさが際立った。狭野姫は細い腕を飾る翡翠付きの銅釧を抜き取ると、腹いせ紛れに珍彦に投げつけた。八つ当たりを抱きしめたような格好で、珍彦はひっくり返った。
「まぁまぁ」
と、手研が手を挙げたときが、天孫族と磯城族との共闘が成立したときだった。手研の思考は、天孫族の族人をどのように説得するかに移っている。
「我らはこれより戦の用意に取りかかる。御身も磯城に戻り、戦の段取りを付けられよ。出立の日取はこちらからお知らせする。それでよろしいか」
手研はその場を取りまとめた。最後の確認は、入彦にも狭野姫にも向けられた。入彦は諾と言い、狭野姫は無言だったが、花顔を正面に戻した。
「それでは、磐余彦様、ごきげんよう」
入彦が狭野姫を直視して微笑んだのには、他意はない。ただ、本当にそう言いたかっただけだ。その屈託のない笑顔に染められた狭野姫は、両頬に火照りが広がっていくのをどうしようもなかった。
入彦は最後にもう一度、深々とした礼を捧げてから、退いた。宮の門を出て、主を案じていた従者たちに合流すると、飛ぶように走った。もちろん、吉報を磯城に持ち帰り、速やかに戦いの準備に取りかかるためだ。そして、話を知った天孫族の過激派に襲撃されるのを避けるためでもある。
一方、狭野姫はぼんやりとしている。入彦がいた空間だけが虚ろになり、穴が空いているように彼女には思われた。
朝廷は入彦が持ち込んだ件で閉廷したわけではなく、狭野姫の裁断を仰がなければならない事案がいくつもあった。明日早朝の朝議で、参集した大夫に告知しなければならないものもある。しかし、入彦が退廷したあとの狭野姫は、心ここにあらずで、手研の奏上にも曖昧に頷くだけだった。
「近頃、日女様は祭政にご熱心でないのではないか」
という族人の声が、しばしば手研に届くようになった。今のところその声は、手研の胸の中に留めてあり、盟友と言うべき道臣にも、珍彦にも打ち明けていない。もっとも、道臣も珍彦も配下を持ち、それぞれの担当範囲で族人を指導すべき立場にあるから、それらの者から狭野姫への不満を聞き、手研と同じように胸に秘めているのかもしれない。
手研は、年下の叔母に関する事案であれば、無限に胸の中にしまっておくことができる許容量を有しているが、族人たちはそうではない。手研に不平不満を申し立てても響いてくれないと分かれば、彼らは独自の行動を起こすかもしれない。狭野姫に直訴する程度であれば可愛げがあるが、その愛嬌を超越した行動がないとも限らない。
手研には、族人の気持ちがよく分かる。彼らは不平や不満を体内に抱え込み、耐えきれずに漏出しつつあるのだ。
もとは室と呼ばれていた熊野や山門南部の諸族を取り込んで天孫族は巨大になったが、中核の族人を真天孫族と呼ぶとすれば、彼らの我慢にも限度がある。
真天孫族はかつて、天津彦五瀬の壮図に己の夢を載せ、故郷の日向高千穂を旅立った。海路は遙かで、途中で舟が波に転覆し、海原に飲み込まれた族人もいる。吉備主に保護されたときには、吉備人の蔑視にさらされたこともある。孔舎衛坂では多くの族人が戦死し、五瀬もその戦いで斃れた。兄の壮図を継いだ狭野姫に霊威を感じた族人は、歯を食いしばって、さらなる試練に挑んだ。辛酸をなめたのは一度や二度ではない。そしてようやく五瀬が目指した真秀場、豊葦瑞穂原に辿り着いたが、磯城族とも磐余砦で熾烈な攻防を繰り広げた。
出発したときの十人に一人も、今の真天孫族は残っていない。そうまでして彼らが棘の道を歩き続けたのは、辛苦を超えたところに、栄達の日々が待っていると信じたからこそだ。もちろん、神威を放つ狭野姫に魅了された、ということもある。しかし、心の豊かさだけで生きていける人は少ない。むしろ、物の豊かさを追い求めるところに発展がある。
ところがようやく辿り着いた真秀場で、真天孫族の生活は、日向高千穂にいた頃と大差のあるものではなかった。
多くの諸族を吸収したが、狭野姫は彼らと真天孫族とを平等に扱った。公平に処遇した、というのが狭野姫の本意なのだが、何らかの特権が授けられると信じていた真天孫族には、物足りないこと甚だしかった。
真天孫族が与えられたものといえば、万里を踏破したという栄誉と、水利の良い土地だけである。栄誉はいつか忘れられるし、土地は水田にするのはよいが、収穫のうちの一定量を税として納めなければならない。狩猟や採取が中心の諸族も当然、税を納めるが、諸族も真天孫族も扱いが同じ、というところが、真天孫族人の不満の根源だった。結局、うまい汁をすっているのは一部の狭野姫の取り巻きだけ、という認識が、真天孫族人の間で醸成されつつある。
そこに狭野姫の祭政の緩怠だ。真天孫族人の心中は、手研にとっては、察するに余りがある。
狭野姫に言わせれば、彼女は自分の責務を緩怠している自覚は全くない。占卜をたて、祖霊の声を感受し、手研を通じて族人に伝えている。諸族からの訴えは必ず祖霊に伺いをたてているし、四季の祭祀も滞りなく主宰している。文句を言われる筋合いはないはずだ。
ただ狭野姫に思い当たることがあるとすれば、一心不乱に真秀場を目指し、山門の畝火山周辺に天孫族の安住の地を造りあげるまでの情熱と使命感は衰え、何か別の感情が心の広い範囲を占めていることだ。その、別の感情の正体を、狭野姫自身掴みきれず、戸惑うことがある。それが、真天孫族の目には緩怠として映るのだ。
手研は、狭野姫を戸惑わせる感情の正体を知っている。人はいつか、その感情に染まる。それはむしろ勧奨すべきものだが、時と、その人の立場によっては害悪になることがある。
朝廷が閉じられてから、手研は一人になり、誰にも聞かせたことのない深い溜息を落とした。
天孫族の皆に愛された狭野姫は、天津彦を継ぎ、磐余彦を名乗った。そのたびに、狭野姫の姿は真天孫族から離れてゆく。そう想うことの切なさは、手研においてもっとも大きい。襁褓に包まれた彼女を抱いた記憶も、小さな手を引いた日の記憶も、手研の中に息づいている。
狭野姫と真天孫族との間に広がった溝を埋めなければならない。磯城族との共闘が、その溝を埋めてくれるものであればいい。手研は、来たるべき次の戦いを、そう捉えている。
手研は人の目に見えない感情というものと戦わなければならないが、安彦もまた、人の目に見えないものと熾烈に戦っている。
山門大宮は、わずかの間に荒廃した。
先に挙行された大陵での大葬が恐怖と混乱に塗りつぶされて以来、歴代の饒速日が築き上げてきた山門の首邑は賑わいと生気とを失った。
「地震の荒男」
恐怖心を植え付けられた邑人は、あの夜の土塊の大巨人をそう呼ぼうとして、言挙げを恐れて口をつぐむのだった。言葉に呪力があると信じる人々は、言霊が大巨人を起こすことを恐れたのだ。
地震の荒男は、山門大宮を破壊することなく土に戻ったが、大宮に避難した邑人の心を壊した。諸族の邑に近親親類がいる者は、恐怖に駆り立てられるまま大宮を脱出した。大宮を離れられない者は、舎の中で息を殺した。
そこに出雲の大軍が現れた。
得体のしれない剽悍な軍士が大宮内を闊歩し始めると、子は怯え、女は泣き、男は武器になるものを探し、老人は長生きを嘆いた。
不幸中の幸いで、出雲族の統率は案外しっかりとしており、彼らは乱暴狼藉を働くことはなかった。邑人は、塗炭の苦しみを塗り込められることは避けられた。ただ、明日はそうなるかもしれないという脅威があった。
「でかい細螺だな」
逼塞する大宮を砂泥地の巻き貝にたとえて、御名方は鼻で笑った。
御名方は出雲族の野営地を郊外に置いた。そうすることが、安彦との約束だったからだ。出雲族の軍士が大宮の千引き門内に入れるのは、物資の交易と、治安維持の巡邏においてのみ許されていた。
これまで大宮の治安維持にあたっていた斑鳩族は、安彦には非協力の立場をとっている。氏上であり、次期山門主であるはずの真手を安彦に握られているため、反旗は翻さない、という状態だ。
もっとも、地中の悪霊という悪霊がこぞって妖気を吐き出し、それが黒雲となって覆い被さったような山門大宮に、好んで仕事に来る盗賊などはいそうになかった。
御名方の軍律は厳しく、物資を交易する邑人は、剽悍な出で立ちの出雲族軍士の、意外な礼儀正しさに安堵した。
中には御名方の命令を軽視し、粗暴を働く者も当初にはいたが、二、三の首を刎ねると、御名方の命令は行き渡るようになった。
御名方の幕舎も郊外にある。その重々しい幕布を開けて、腹心の一人が情報を運んできた。
大宮の現状や山門の諸族の動向に関する情報は、ほぼ掴んでいる御名方である。
「結局、真手は山門主に就いたのか」
興味薄げに御名方は尋ねた。安彦がやろうとした大掛かりな継承儀式は失敗に終わったようだが、真手が山門主になろうとなるまいと、御名方にはどちらでもよい。明日には己が支配する天地なのだ。むしろ、曖昧であったほうがやりやすい。
「就くには就いたようですが、山門の者どもにはそれどころでない事態が起こったようです」
「ふぅん。で、安彦の野郎は、今どこにいる」
わざわざ大宮に乗り込み、邑人の恐慌を抑えてやっているのに、一別以来ご機嫌伺にも来ない。腹を立てているわけではなく、御名方は安彦を案じている。本心は読めないが、御名方が大宮を密訪したときにすら、必ず恭しい顔を見せに来た安彦なのだ。派手に現れると逆に照れる性格なのか、それとも何か悪い事態が生じているのか。
「安彦殿と真手様は斑鳩宮に籠ったままのようです」
「悪霊の棲家のようなところに主がおっては、仕える者はさぞ迷惑であろう」
朱色の屋根を燦々と輝かしていた斑鳩宮の高殿も高楼も、今は雷雨を孕んだ黒雲のような妖気に覆われている。悪鬼でもなければ、そこに居れそうもない。
「役人や仕人はすべて斑鳩宮から退避しているとのことです」
「ほう、ならば安彦も真手もあんなところで二人ぼっちというわけか。山門人もなかなか薄情者よ」
御名方は胡床から立ち上がった。世話人がみな逃げ出しているのなら、自分がいってやるしかない。御名方の老婆心が働いた。
幕布を跳ね上げて、御名方は幕舎を出た。
あらためて斑鳩宮を見やると、小高い丘の上のそこには、身震いしたくなるような怨毒が覆いかぶさっている。
「一人でいくさ」
周りに集まっていた数名の兵衛にそう言った御名方は、しかし用心のため、鉄剣と真金鏡を携えた。鉄剣は出雲の鉄を鍛えた業物で、真金鏡には大蛇に霊力を映しとってある。大概の災厄は、この2つで払い退けることができる。
大宮の第一門である千引き門を通る。かつて砂埃がたっていた郭内に人影は見当たらず、旋風が一群の土を巻き上げ、消し去っているのみだ。ところが、邑人はやはりおり、舎の中から顔を出し、御名方の姿を見ると、慌てて顔を引っ込めた。
「やれやれ、まるっきり干潟狩りだな」
顔をのぞかせては引っ込める邑人を蛤や鯏にたとえて、御名方は小気味よく笑った。
爻わり門まで来ると、その中の郭は交易場所なので、多少は人の出入りがあった。しかし、他族から行商に来たような者はおらず、必要最小限の生活物資だけを抱えて、足早に去っていく者ばかりだった。
何組からの巡邏隊とすれ違った。彼らは、悠然と歩いている人影が御名方であると知れると、慌てて敬礼した。
「ご苦労」
声をかけつつ、御名方は彼らを観察している。どうやら強者の立場を利用して、邑人を虐げているような不埒者はいないようだった。
長鳴門に近づくと、殺伐とした風にのって、何やら声が聞こえてくる。その名の通り、門柱に刻まれた長鳴き鳥が鳴いているのかと思ったが、やがてその声が呪言であることが聞き取れた。
門の前に十人ほどの祝者と思しき風体の男たちが並んでおり、ひたすらに呪言を唱えている。左右を見れば、土塀に沿って、一定の間隔でも祝者らしき人影が立ち並んでいる。この土塀と長鳴き門の向こうが、山門主饒速日の居住区である斑鳩宮だが、どうやら祝者たちはぐるりと斑鳩宮を取り巻いている様子だった。
ここにも出雲の巡邏の一隊がおり、彼らは御名方の姿を認めると、隊長が走り寄った。
「こいつらは何をしてるんだ」
「斑鳩宮に仕えていた祝者たちです。どうやら主から、悪霊が門や塀を越えないよう祓除の呪言を唱え続けるよう命じられたようです」
斑鳩宮の主といえば、今は真手ということになるが、実際は安彦からの命であろう、と御名方は見当付けた。
「こいつらはずっと唱え続けてるのか」
御名方は気味悪いものを見るような目をした。
「三交代で儀式に当たっているようです」
「ふぅん、まぁ、ご苦労なことだ」
鼻を鳴らした御名方は、巡邏隊を退去させた。ここで斑鳩族の祝者の尻を眺めていたところで、馬鹿馬鹿しいだけだ。
「邪魔をして悪いが、ここの長は誰だ」
御名方は一番派手な衣装の祝者の肩を叩き、振り向かせてから、そう尋ねた。
「わたしですが、あなた様は」
「出雲の御名方だよ。安彦、いや登美彦と呼んだほうがいいのかな。どっちでもいいが、とにかく、吾のことを聞いていてくれたら、話が早いのだが」
「聞き及んでおります」
「よかった。なに、御身たちの邪魔をしようというんじゃない。ここの門を通らせてもらいたいだけだ」
「それも主から命じられております。あなた様がお見えになられたら、お通しするようにと」
「手回しのいいことだな」
「お気をつけください。これより先は、災いに満ちています。妖気にからめ取られた者は、石のように体を固められてしまいます」
祝者の長は忠告を与えた。御名方は鉄剣の柄を叩き、鏡を掲げてみせた。
「こいつとこいつがあれば、まぁ、大概のことは大丈夫さ」
「そうおっしゃるのであればこれ以上は申しませんが、ともかくお気をつけなさい」
「気遣い、痛みいる。ところで、汝の主はどこにいるか知っているか」
さすがに広い斑鳩宮内を散策する気にはならない。
「いつものところにいると伝えればわかる、とのことでしたが」
「なるほど。いつものところ、だな」
御名方は、列をなしている祝者にちょっと間を空けてもらって、その隙間を通った。
長鳴門を抜けるとき、なにか薄い膜を突き抜けた感触があった。祝者たちが施術した呪いの防壁を抜けたのだ。
斑鳩宮内には、重苦しく、粘着性の空気が漂っている。
いくらか廊下を進むと、祝者の長の忠告の意味がわかった。
人型の石がある。それが石を彫刻したものではなく、人が石化したものだということは、すぐにわかった。自分の体を見れば、衣から露出している肌に、白い粉のようなものが付着している。御名方が手で払えば、その白い粉は落ちたが、呪力の乏しいものでは
、いずれその白い粉が全身を覆って、石化してしまうのだろう。
御名方は足を急がせた。
進むにつれて、空気の抵抗が強くなってくる。まるで、水の中を進むようだ。
広い空間に出た。そこは山門主が臣下や諸族の大夫を引見する広間である。
洒脱な意匠が彫り込まれた柱が二列縦隊で伸びており、その奥に壇がある。どの柱にも壇にも雲のような白い気体が絡みついており、まるで雲海の中にいるようだった。
壇の頂に人影がある。それは安彦ではなく、人影と表現しがたいほど、生気がない。
真手であった。
誰もいない広間を見下ろす真手は、呼吸をしているのかどうかもわからない。
「安彦のやつめ」
舌を鳴らした御名方には、事態が飲み込めている。真手が人ではなく、安彦が土をこねて作り上げた埴土の土人形であることも知っている。斑鳩族を操るために、安彦が饒速日の子として、真手を作りだしたのだ。饒速日が安彦の妹の陽姫に産ませた子がいることは事実だ。その子が、いまどこにいるのかまでは、御名方は知らない。
真手は、安彦の指示がなければ動かない。大陵での山門主継承儀式のあと、山門主となった真手は、この広間で臣下や諸族の大夫を引見するはずだった。その指示のみを与え、安彦は真手を忘却してしまったようだ。
真手は安彦の新たな指示を受けるまで、その身が朽ち果てようとも、壇の頂上で待ち続ける。土人形とはいえ、あまりに哀れではないか。
御名方は、真手が安彦以外の命令を聞くまいと思いつつも、壇下に至り、ここにいる必要はないのだと教えてやろうとした。だが、数歩近づいて、やめることにした。
真手の表情が穏やかだったからだ。そして御名方は悟った。真手は壇の頂で、臣下や諸族の大夫を待っているのではない。安彦の指示を待っているのでもない。ただ、土に帰るそのときを待っているのだ。
「良い土になれよ。春に花が咲き、秋に実を成らす木を養えるような良い土にな」
その言葉が真手に届いたかどうかはわからないが、御名方は先に進んだ。
いつもの房に、御名方は入った。そこは、まだ登美彦だった安彦と御名方が密会していた四方塗籠の部屋だ。かつては斑鳩宮の外からこの部屋に繋がる通路を通っていたが、宮内から入る方法を知らないわけではなかった。安彦もそれを見越して、祝者の長に、いつものところ、と伝言させたのだ。
光の一粒子とて存在を許さない漆黒である。この部屋の中に、外へ繋がる通路の他に別の空間へ繋がる通路があることも、御名方は承知している。それも安彦は見越している。変なところで気が合うものだ、と重圧感を増す空気の中で、御名方は場違いな呑気さであった。
漆黒の中を手探りでそこへ通じる扉を見つけ、開いた。
開いても闇であったが、やがて、仄かな呪いの光が灯り、下方へ降りてゆく階段を浮かび上がらせた。
地の底へ向かうような階段だ。冷たい風が流れ、冷気と妖気が蠢く亡者のような不気味さで、ゆるゆると立ち昇ってくる。
楽しげな場所に通じていそうになかったが、御名方は階段を降りていった。
一段下るごとに、死者に近づいていくような悪寒が増す。
冷気と妖気が白霧となり、視界が埋もれていく。並の人間であれば、瞬間で石と化すだろう。
仄かな呪いの光を頼りに階段を降りていくと、広い空間に出た。ここは階段よりは呪いの光が強く、照らし出された凄惨な光景に、図太い御名方もさすがに顔色を変えた。
散乱した遺体に、冷気と妖気が絡みついている。
遺体が着けた衣を見ると、祝者や巫であるらしい。空間に充満した冷気のおかげで、遺体は腐乱を避けられている。
鳴動が地中から突き上げてくる。
崩れかかった祭壇があり、その頂に座っている誰かがいる。かつて頂の主であった人物には首はなかったが、今の主には首がちゃんとついている。ただ、生きているとは思えない。
「安彦か」
御名方は呼びかけた。安彦の姿をした頂の主は、目に生気を灯らせていないが、死んでいるとも思えない。
背後で、何かが形を成していく気配がした。
「ようこそ、お越しくだされた」
予想外の方向から歓迎された御名方は、鉄剣に手を掛けながら振り向いた。
そこに、浮遊する霊体となった安彦の姿があった。異形ではあるが、禍々しくはない。目元は、御名方がよく知る安彦のものだ。
「見事に人をやめたものだな」
褒めたのか、けなしたのかわからない御名方の声だった。
「人をやめたわけではありませんが、この姿になったのには理由があります」
それはそうだろう、と頷く御名方へ、安彦は異形となった経緯を話した。
時間を少し遡る。
大陵での大葬の失敗と、妹の喪失の衝撃による自失から立ち直った安彦は、山門へ進駐したばかりの御名方を斑鳩宮の露台に招き、心中を明かした。
その心中を安彦は我が儘と表現したが、その中身は、御名方が山門主として君臨し安彦が御言持となって山門を運営するという密約を一旦停止し、安彦が文字通り種をまいた果実の暴走を食い止めるため、果実に巣くう膨大な霊力と対峙して封じ込める、というものだ。要するに、御名方との事業に本腰を入れる前に、過去の誤りを精算しておきたい、ということだ。御名方にしてみれば、今から付き合おうとした女に過去の男と話をつけてくると言われたようなものであり、肩透かしをくらった気分だが、許容した。
御名方を露台で見送った安彦は、視線を転じて、斑鳩宮の外に広がる景色を眺めた。
初代饒速日が鵤ヶ丘と名付けた小高いの丘の頂上付近を均して建てられた斑鳩宮だ。そこの高殿の露台から見晴かせば、山門の野原が一望できる。
幾筋もの川面が光の粒子を流してゆく。遥かに霞んで見えるのは山門を外界から護る青垣山の連なりだ。
初代饒速日は、虚空満つ山門の原、と詠じたという。何が満ちるのか、と安彦は考えてみた。降りしきる光なのか、豊かな水なのか、それとも溢れ出す生命なのか。このとき安彦の目に映っていたのは、廃墟となったような山門大宮と、出雲族が郊外に張った野営の幕舎である。これが見納めの風景かもしれないと思えば、出雲族が蹴立てる土埃が戦雲となって立ち昇るような殺伐とした場景も、胸にしみる光の彩りに思えた。
安彦は踵を返した。
高殿を降り、斑鳩宮の奥へ向かってゆく安彦の歩みが、一歩ごとに大きく、力強くなった。心のどこかから沸々と湧きあがるものがある。決着をつけてやる。強い決意が、体内を駆け巡っていく。
剋軸香果実が妖力の渦を巻く地下空間に降りる前に、安彦にはもう一つ片づけておかなければならない懸案があった。
真手だ。
先代饒速日の嗣子として斑鳩族を一時あやつり、諸族を安彦の号令一下に統治するため、埴土の呪術で生み出した土人形だ。
出雲族の武力を背景にいずれ御名方に山門主の地位を譲位させ、御名方安彦体制で山門を牛耳る計画であり、その継承の流れが祖霊の意思であることを演出するために大陵での大葬を挙行したが、それが破綻した今では、真手は目途のないただの土塊である。
もっとも、御名方は計画が破綻したなどとは言わない。安彦が怒りのままに起動させた地震の荒男の暴発が諸族を根拠地に逼塞させ、山門の中心に大きな空白を作った。そこを御名方が率いた出雲族がやすやすと占拠した。
「手間が省けた」
というのが、御名方の言いぶりだ。
先代饒速日が安彦の妹の陽姫に子を産ませたことは事実で、その子は安彦がもらいうけ、吉備彦として育てた。その吉備彦は今、登美族の邑で過ごしている。饒速日の血を引く憎むべき存在であるが、陽姫の血を引く愛すべき存在でもある。後者を重視した安彦は、いずれ吉備彦を登美族の氏上に据えるつもりであり、その手筈も整えている。
饒速日に、ある一人の男児がいる。その事実だけを利用して土人形を造り、真手という名を与えた。虚構を練り上げた手に、真実という言葉を被せた安彦なりの諧謔である。果実の妖力を注入して自我を崩壊させた饒速日を操り、全ては筋書き通りに進むはずであった。
安彦は、真手を控えさせている房に足を運んだ。そこに、牖から射し込む春の光を不思議そうに見つめている真手がいた。
真手を振り向かせることなく、安彦は解除の呪言を唱えた。命が虚構の土人形とはいえ、その目を見ながら命を終わらせることはできなかった。
作業が終わると、安彦は静かに房を立ち去った。瞬時に土塊に戻すつもりだったが、童子のように光を見つめる真手を見て、考えを改めた。
土に戻るまでに時間を与えた。好きな場所で、好きな時に土に戻るよう呪言に言霊を含ませた。その言霊を浴びた真手は、言葉で伝えずともそれを理解する。
安彦が立ち去った房で、しばらく光を見つめ続けていた真手は、やがて立ち上がり、自分がそこで役割を果たすはずだった場所へ向かった。土人形とはいえ、彼には彼なりの意地があったのだろう。
真手の行き先を見届けることなく、安彦は地下空間へと繋がる長く深い階段を降りていく。一段ごとに禍々しい妖気が肌に刺さってくるが、この時点ではまだ陽姫が命を振り絞って発動させた結界が利いており、果実の妖力の本体は地下空間に封じられている。
階段を降りきると、巨大な磐が塞がっている。安彦が施術した封印だ。呪言を唱えると、磐は土に還り、封印は解けた。
するとさっそく、果実の妖気が触手を這わせてきた。安彦は腰に提げていた剣を抜いて、触手を払った。その剣は銅剣ではなく、鉄剣でもなく、木剣だ。ただの木剣ではなく、勝軍木の木を削ったものである。勝軍木の木は呪力を留めておきやすく、
また呪力を流しやすい霊木だ。妖魑を相手にするときは、いかなる名工の鉄剣よりも威力を発揮する。
白く発光する妖気が、損傷した祭壇を覆うように渦を巻いている。
霊木の剣で妖気の触手を払いつつ、祭壇に近づいた安彦は陽姫に感謝した。生命を賭せば何とかなりそうな妖気だ。陽姫が命を尽くして施術した封印がまだ活きている。
どこかから笑い声が聞こえた気がした安彦は、祭壇の頂きを凝視した。そこに、誰かがいる。
白い妖気の渦が、人型を生み出しているのだ。その人型が哄笑している。
「汝が果実の本体か」
挑みかかるように、安彦は誰何した。
白い妖気の人型は何も答えない。顔に当たる部分を笑いに歪めたような変化はあった。かと思った瞬間、地下空間全体をどよもすような鳴動が安彦を襲った。地を衝き上げ、内臓を殴りつけるような衝撃だ。
それは笑い声だった。白い妖気の人型が、身を反らして震えている。
音はないが、白い妖気の人型は確かに笑っている。その波動は鼓膜ではなく、内蔵と精神を打ちつけた。
白い妖気の人型が発する笑いの波動が、安彦の鼓動と繋がったとき、安彦は白い妖気の人型の声を聞いた。
ほんの一瞬のことだったが、安彦は、果実の意思を理解した。
それは、天神に対する凄絶な憎しみであった。高天原に生まれながら、地に捨てられた神々の邪心の、破滅的なまでの怒りであった。天神が愛してやまない地上世界を、幾万回であろうとも破壊し尽くそうという断固たる決意であった。そして実際に破壊された地上世界の軌跡であった。
膨大な知識量を急速に注入された安彦は、鼻と耳から血を吹いた。並の人間であれば脳を潰され、即死していただろう。安彦の呪能が、死すべき衝撃をやわらげた。
安彦は勝軍木の剣を取り落とし、両膝を着いた。
白い妖気の人型が弾けるように膨張し、地下空間のすべてが雲の中のような白さに満ちた。
口の中に溜まった血を吐いた安彦は悟った。これは罠であったのだ。陽姫の呪力が利いていたのではない。陽姫の呪力というご馳走を味わった果実は、より美味なる獲物が近づくのを待っていたのだ。
蜘蛛の巣にかかった虫の立場に置かれた安彦は、しかし突如として哄笑した。その波動は白い妖気を震わせた。
快哉が安彦の脳を突き上げた。結末がどうであろうと、これですべてが終わる。死力を尽くして、妖魔の果実と戦えばいい。雑念は不要だ。その清々しさに、安彦は思わず笑ったのだ。
取り落としていた霊木の剣を拾い、体中の呪力を勝軍木に注入する。剣身が震え、鈍く発光する。
視界は妖気の濃霧だが、撃つべき場所は分かっている。
霊木の剣を上段に振りかぶり、安彦は疾走して、跳躍した。
祭壇の頂き、果実が収められた箱がある。それを全霊で撃った。
稲妻が大樹を裂くような炸裂音が轟き、祭壇に亀裂が走った。果実を収めた箱は、霊木の剣と共に微塵に飛び散ったが、果実そのものに傷はなく、悪霊の醜悪な笑みのような姿で宙空に浮かんでいる。
妖気の白霧は瞬時にして消え去ったが、禍々しい赤黒い光の触手が、果実から噴出した。いよいよ果実も本気になった。
安彦は果実をむんずと掴み、自分の胸に押し付けた。果実の三分の一ほどが、安彦の胸部に埋没する。
凄まじい痛みを巡らせて、果実は抗った。その激痛に耐えながら、安彦は果実を体内に取り込もうとした。箱が壊れたならば、自分の身を封印の器としなければならない。
果実の半分ほどが体内に埋もれたとき、全身から血を吹き出したように、安彦が朱色に染まった。
安彦の力が緩み、果実は拘束を逃れて、再び宙空に浮いた。その下に、安彦は倒れ伏した。
勝利を確信した果実は、太い触手を安彦に伸ばした。安彦の極上の呪力を吸い尽くそうとした。
その触手を掴まれたとき、果実は驚いたように震えた。
安彦が起き上がる。血に塗れた笑みを果実に向け、
「一番下の弟に、ずいぶん手こずっているじゃないか、団栗よ。大彦兄に見つかったら、お前など叩き潰されるぞ。吾のほうが優しいのだから、我儘を言わず、早くこちらに来い」
そう言って伸ばされた安彦の手を見た果実は、明らかに怯えていた。
果実が膨張した。目の錯覚ではなく、実際に倍ほどの大きさになったのだ。捨てられた邪心の塊とはいえ、高天原に生まれたという矜持がある。非永風情に脅されたという怒りが、果実の中で充満した。
言語に絶する激しさの妖気が放たれた。その波動をまともに受けた安彦は、一瞬で意識を失った。
しかし、それでも安彦が倒れなかったのは、彼を支える存在があったからだ。
安彦の背後に、突然、老人が現れた。その老人の棲家は磯城の三輪山である。彼は磯城族からは大物主として崇められ、とある旅芸人一座からは靭翁として慕われている。その正体は累代の磯城の氏上の霊魂の集合体であり、祖霊と呼ばれる霊体だ。見ためには、安彦にとっては祖父に当たる太瓊の姿をしている。
太瓊は、安彦も気づかないうちから、ずっと傍にいた。安彦が臆することなく果実に挑めたのは、実は太瓊が支えていたからだ。
「大日の息子には、わしの幸魂を与えた。汝には、残りの魂を与えてやろう」
太瓊はそう言うと、安彦に重なって一体となった。
途端に安彦の目が強い光を放った。安彦は再び果実を掴み取ると、胸に押し付けた。対抗はあったが、果実は安彦の体内に没した。
安彦の体が激しく発光した。その光が納まると、安彦の皮膚は透けていた。皮膚が本来の色を取り戻したとき、安彦の体はただの肉体として、崩れかけた祭壇の頂にあった。
安彦は果実を封じ込めるための器となった。霊体となった安彦が、その様子を眺めていた。
「それで、要するに汝は死んだのか」
経緯をひととおり聞いてから、複雑さを嫌ったような口調で御名方は言った。
「死んではおりません。ひととき、このような姿になっているだけです」
「そうか。で、我が儘は済んだのか」
安彦と果実との因縁にけりが着いたのか、御名方は確認した。
「はい。ですが、わたしはこのような姿ですので、人の前に出るわけには参りません。しばらくは御名方殿に山門を頼まねばなりません」
「肯った。ところで、山門の諸族はおとなしくしているが、天孫と磯城は吾に服うつもりはないようだ。近々、派手に戦となるだろうが、それも吾が仕切ってよいか」
「もちろんです。そのつもりで、出雲の健児を引き連れて来ていただいたのです」
「吾は汝の埴土の術もあてにしていたのだがな」
大地を自在に操るほどの安彦の呪術があれば、戦いはかなり有利になる。
「ご心配なく。この姿になっても術は使えます。それどころか、この地下にいても、遙か出雲の山の一つも動かせそうなほどに、力が満ち満ちております」
「安心した。では、吾は戻るぞ。よいな、安彦。吾と汝で、おもしろい国を創ろう。出雲や白日を踏んづけて、大真とも五分に渡り合える国をな」
「はい。約束どおりに」
「出雲の山をも動かせるという汝の力で、吾の親父の頭にでっかい石でもぶっつけておいてくれ」
「いつか必ず」
軽口を交わして、安彦と御名方は別れた。
溌剌と去ってゆく御名方を見送りながら、大真帝国と五分に渡り合える国づくりは、御名方かそれとも別の誰かに託さねばなるまい、と安彦は、自分のいない未来を想像した。
大物主の霊魂を得て、今は果実の妖力を閉じ込めている。果実はいま息を潜めながら、どう対処すべきか考えているだろう。
安彦は、自分が果実を閉じ込めておく器としては不十分であることを自覚していた。
御名方か、天孫か、磯城か。戦いを勝ち抜いて、果実を永遠に封印できる者が到来するときを、安彦は待たねばならない。
安彦が待つ人間の一人は、入彦だ。
その入彦は、来たるべき決戦に向けての準備に忙殺されていた。とは言っても、軍の編成については石火に一任してる。大日が春日邑の邑宰を任せていただけあって、その手の作業に抜かりはない。磯城族の男たちを軍士に仕立て上げるのは、大彦が担当している。磯城族の男たちは磐余砦の籠城戦を体験して、すでに立派な軍士であったが、大彦の調練は、その彼らをして実戦の方がましと嘆かわしめるほど勁烈なものであった。石火の子である石飛も隊長の一人として調練で声を張り上げている。磯城族の全軍は千人足らずで、大真の軍編成単位でいけば、軍ではなく、師にも足らず、旅が二つほどのものだったが、それでも数倍の敵を撃破できるという期待が持てた。
入彦は、むしろ戦後の処理が忙しい。天孫族と共闘し、安彦から果実を奪取し、出雲族を駆逐したあと、山門をどのように運営していくのか。新しい山門の姿を描かなければならない。そのため入彦は、祖父の国牽と幾度も話し合い、天孫族の手研とも頻繁に使人を交わした。
輪熊と鹿高は三輪山に入って、のんびりとしている。二人は、果実の奪取には手を貸すが、人どうしの戦いや山門のその後については口出しも手出しもしないことに決めている。
そうすると、手持ち無沙汰になるのが御統だ。
兄と慕う入彦は多忙で相手にしてもらえず、何かの役に立とうと手伝いを始めれば余計な手間を増やすだけという始末で、とうとう邑から放り出されてしまった。
それでも御統は、磯城族の子どもたちに人気がある。何しろ、輪熊一座で軽業の第一人者だったし、御統の戯馬や投石はどこにいっても人気を博していた。
邪魔者扱いされているのは、子どもたちも同じだ。なので御統は、邑の外で子どもたちを集めて、投石を教えたりしていたが、そのうち飽きた。
豊もきっと無聊を託っているに違いない、と勝手に決めつけた御統は、ここ数日、姿を見ていない豊を探した。
歩き回って探してみたが、豊は見つからなかった。そういえば、豊はふっと姿を消すことがある。数日すれば戻ってくるので気にかけたことはなかったが、豊はどこに行っているのだろうか。そもそも、豊は何族の出身なのだろう。
そんなことを考えていると、川辺に出た。
山門には川が多い。水が豊かな大地だ。いつか大日が入彦に話しているのを聞いたが、天孫族の農業技術を導入すれば、山門は間違いなく豊かになる。
それはそれとして、自分はいつ常世の原に行けるのだろう。光の粒子を運びながら流れてゆく川面を見て、御統は何度も思い描いてきたまだ見ぬ世界を、また思い描いていた。
川辺に佇む御統を、豊が見つけた。彼女が御統の名を呼ぶと、御統は頬を膨らませた顔で振り向いた。
「どこへいっていたのさ」
「乙女には秘密があるものよ。野暮はいわないで」
いつものようにはぐらかした豊は、
「ふうん、そうなんだ」
と、膨らさせた頬をしぼませて、川面に視線を戻した御統の表情が気になった。
どこか儚げで、寂しげだ。そんな表情を御統はあまり見せたことがない。ふと気づいた。初めて出会った夜、豊の名前を聞いた御統。そのとき、御統は同じ表情をしていた。
「ねぇ、豊。おれっちは、いつになったら常世の原にいけるのかな」
目的地を見失った旅人のように途方に暮れた心情を、御統は豊に伝えた。
「お父さんとお母さんが、そこにいるのよね」
御統は幼児のような素直さで頷いた。
「あのね、御統」
いつか明かさなければならないと考えていた真実を、今、伝えよう、と豊は決意した。
「常世の原は、わたしたちの現世にはないの。亡くなった人たちが暮らす幽世にあるの。つまり、ひどいことを言うと思わないで、あなたのお父さんとお母さんは、もう亡くなっているのよ」
真実を伝えることは、ときに残酷だ。その残酷さを和らげるためなら、どんな嘘も許されると豊は思う。しかし、豊は上手な嘘が言えなかった。
御統が豊を見つめた。心が締め付けられるほど、澄んだ瞳をしている。
「知っているよ」
御統のその声も澄みわたっていた。豊は思わず、胸を手で押さえた。
「知っているんだ。父ちゃんも母ちゃんも死んでしまってること。でも、輪熊の親方はそう言わなかったんだ。常世の原にいるって言ったんだ。きっと、おれっちにうまく本当のことが話せなかったんだと思う。でも、おれっちは行きたいんだ。そこが幽世だったとしても、父ちゃんと母ちゃんに会いに行きたい」
川面に向かって、言霊を流れに乗せるように御統は言った。豊には見える。言霊が、川が運んでゆく光の粒子に混じって流れてゆく。どこかに行き着けば、その言霊が真実となって返って来るのではないか。それは、とても恐ろしく、悲しい想像だった。
「だめよ、御統。そんなことはいわないで。そんなことを言う御統はきらいよ」
豊の脳裏に、不吉色に染まった記憶が巡った。御統は、いつも危険を犯そうとしていた。もしかすれば御統は、死に急いでいるのかもしれない。
生意気な悪童だが、御統のいない世界はどうか。
弟のように思っていた男児がいなくなったときの悲しみを、もう二度とあじわいたくはない。深淵の闇をさまよっていた豊の前に、灯った光が御統だった。それは蛍の光のような幽さだったが、やがて群をなし、豊の視界は明るくなった。
「豊には、嫌われたくないな」
御統は頭を掻いた。
御統は、輪熊が幼児だった自分に作り話を聞かせたのだ、と豊に言った。しかし、それも少し違う、と御統は感じている。安彦と陽姫という異母兄妹の間に生まれたということを、輪熊は知っている。その真実を、御統に伝えられずにいる。そこまでを悟ってはいないが、御統は、次の戦いが終われば、輪熊は真実を話してくれるにちがいないと期待している。次の戦いが終われば、人のふりはやめて、地祇として五十茸山に帰る、と輪熊が言ったからだ。
豊は御統の横に並んだ。御統がどこにもいかないように、手を握った。
「また、人が死ぬのね」
豊が言った。川面が運んでゆく光の粒よりも、幽世へ運ばれてゆく人の数がもっと少なければいいのに。そんなことを豊は考えた。
「次の戦いは、きっとおれっちたちが勝つよ。こっちには親方も姐さんもいるし、入彦の伯父さんだっている。それに、天孫族のあのおっかないねえちゃんだっているんだから」
おっかないねえちゃんとは、天孫族の狭野姫を指している。
「そんな言い方すると、怒られるわよ。あのひと、そう言われるの嫌いだから」
豊には、狭野姫への憧れがある。日の光に包まれた狭野姫の世界は、さぞ美しいのだろう、と想像している。
「この戦いが終わったら、大きな邑を造るって、入彦のあんちゃんが言ってたよ。そしたら、豊の舎も作ってもらえばいい。如虎と一緒に暮らしなよ。おれっちの舎も作ってもらうんだ。親方たちは山に帰るっていってたけど、きっとたまに遊びにきてくれるさ。あんちゃんは忙しいかもしれないけど、おれっちと豊で、いつでも好きなときに翠雨に乗って遠乗りしたり、軽業だって教えてあげるよ。そうやって、ずっと一緒に遊ぼうよ」
楽しい明日が待っている。御統はそう言っている。
豊はしきりにまつげを瞬かせた。そうしないと、涙がこぼれそうだったからだが、まつげはたちまち濡れた。
御統の言葉のひとつひとつは、川面の光の粒のように美しかった。しかし、それを流し去ろうとするものがある。御統と豊は、ふたすじの川なのだ。いまは寄り添っているが、ひとつにはならない。御統の川は明るさの中へ伸びてゆくが、自分という川は、また深淵に落ちてゆく。
豊は川面を見つめたまま、何も話さない。目元は涙で膨らんでいる。瞼を降ろすと、美しい輝きが豊の頬を流れた。
言葉はなくても、繋いだ手から伝わってくるものがある。豊は、なにかとても悲しいものを背負っている。御統にはそれがわかる。
「ねぇ、御統。あなたは最初の夜に、翠雨に一緒に乗って欲しいと言ったのよ、覚えてるかしら」
もちろん覚えている。そのときの場景を、土の上に描くこともできる。
「次の戦いが終わっても、そのときに何があったとしても、もう一度、そうやって誘ってくれる?ずっと友達でいてくれる?」
そのときの豊の瞳ほど、美しいものを御統は見たことがない。その美しさからとめどなく湧き出る涙。その源泉に何があるのか御統は知らない。でも、何と答えるかは知っている。
「本当に何も知らないんだな、豊は。ずっと友達に決まっているじゃないか」
豊の口癖を真似て、御統はくすりと笑った。
豊も笑った。涙を散らしながら笑った。
突然、怒った顔を作った豊は、繋いでいた手を離して、御統を突き飛ばした。無防備だった御統は、派手な水しぶきをあげて、川に落ちた。
「何するんだよ」
御統が噴水のように飲んだ川の水を吐き出すと、
「御統のくせに、生意気だからよ」
そう言って、豊は笑った。さっきの美しさよりも、もっと美しかった。御統も笑った。そして、豊に川の水をぶっかけた。
はしゃいだ二人は、ひとしきり、水を掛けあった。川の魚たちには、いい迷惑だっただろう。
夏を呼びに行く春の風が、その様子を眺めていた。
それぞれの運命を絡ませて、果実は巨大な渦を巻いていく。
天孫族、磯城族、出雲族は、剣を磨き、矢羽根を結んで、きたる会戦に備えている。
剋軸香果実が山門の天地を呑みこむときが、近づいていた。




