山門編-失われた天地の章(29)-根の国の王(3)
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡る冒険をし、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、豊葦瑞穂原を目指し、天津彦を名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場を目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。五瀬の妹である狭野姫は天津彦の企図を継ぎ、新たに豊葦瑞穂原を目指す。室の地に上陸した狭野姫は、名草族の宝剣、韴霊剣の力を得て、室を平定し、熊野の名を授ける。
狭野姫は再び山門に踏み入るが、またも大日が立ちはだかる。狭野姫が放った矢が大日に致命傷を与え、死期を悟った大日は、天孫族との平ぎを入彦に命ずる。父の命を拒否した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。兄を奪われた狭野姫と父を奪われる入彦。二人は感情をぶつけ合うが、いつしか心が通い、二人は山門の美しい夕景に、天孫族と山門の麗しい未来を見る。その夜、講和の使者として入彦は狭野姫のもとを訪れ、天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が饒速日を殺し、山門掌握のための画策を進める。計画の成就には拐かしていた美茉姫の協力が不可欠であり、安彦は、夜姫と名を変えた異母妹に神楽を教授させる。安彦は山門を牛耳るための大祭を執り行うが、美茉姫の救助に向かった入彦、御統、豊は大宮の地下で夜姫と激しく呪術を戦わせ、御統に白銅鏡から呼び出された天目一箇神は地中を突き破って大祭の最中に出現し、安彦の企図は挫かれる。しかし、安彦は人々に恐怖を植え付けながら、次善の策を進める。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
山道を行く二つの影がある。山道といっても獣道で、足元は草棘に埋もれ、頭上は鬱蒼とした樹冠が日光を細々と滴らせている。
輪熊と鹿高だ。
二人、というよりも二柱の地祇は、磯城族と天孫族とが磐余砦で攻防する直前に五十茸山へ戻っていた。
輪熊にとっては、久方ぶりの帰郷ということになる。鹿高も輪熊と一度離れ、彼女の郷である萱野の丘に帰っていた。
輪熊座の座員には、緩い解散を命じてあった。
輪熊は大山津祇という地祇で、鹿高は鹿屋野姫という地祇だ。彼らを山の王、草の女王と呼んでその眷属となっていた輪熊座の座員は、元々は人間であり、五十茸山や萱野の丘の霊気に触れるうちに半霊半人となっていた。山と丘を離れ、輪熊座として俳優の業を巷間に披露している間に、座員たちはずいぶん人間にもどった。輪熊と鹿高は、それぞれの眷属であった座員たちに、山門大宮に留まるもよし、磯城邑で新しい生活を始めるもよし、山と丘に戻るもよし、と好きな道を選ばせていた。
山と丘での幽閑な生活を選んだ者は少なからずおり、輪熊と鹿高は、それぞれの邑で、一足先に帰っていたそれらの者たちから歓迎された。
しばらくの間、人の世界の生活で身に付着した穢れを落とした輪熊と鹿高は、決めてあった大境木の樹影で落ち合った。山にいた輪熊にとっては、鹿高を迎えに出た格好になる。
「あんたが、そうやってあたしを待っていてくれたのは、もうずいぶん昔のことになるねぇ」
上から物を言う口調だが、鹿高の面差しには、どこか清楚な恥じらいがあった。
「馬鹿なことをいうな。そんなもん、昔も昔、大昔だ」
無粋にそっぽを向いた輪熊だが、甘酸っぱさを思い出さないわけではなかった。地祇にとっての昔は、人にとっては数代前の時代になる。
「聞いただろう。大日が、逝っちまったらしいね」
五十茸山と萱野の丘の時間はゆったりと流れる。それぞれの邑で過ごすうちに、人の世界では物事が慌ただしく過ぎ去ってゆく。もちろん、情報は仕入れている。
「やっぱり、うちらが一緒にいたほうがよかったんじゃないかねぇ」
鹿高には後悔がないではない。人と地祇であるから、大日の思慕に応じることはできなかったが、非永にしておくのはもったいない男だとは認めていた。
「人の争いに、おれらがくちばしを突っ込むわけにゃいかねぇ」
地祇としての分別を口にはしたが、輪熊にもやりきれない思いがある。
「なりゆきってのを、少しばかり伸ばしてもよかっただろう」
なりゆきというのは、大宮で出雲系と思しき一団の夜襲を退けたことや、登美彦の政変から大日たちを逃すためにひと暴れしたことを指す。それらをなりゆきとするなら、なりゆきついで、というものもある。
「繰り言をいってもしょうがねぇさ。そもそも登美彦、いや安彦の野郎には貸しがあっただろう。おれらを出し抜きやがった貸しがな。天孫にはそれがねぇ。大日がいるとはいえ、磯城と天孫、どちらが正しく、どちらが誤っているともいえねぇだろう」
地祇が正義の味方というわけではないが、明らかな是非が認められない以上、人の争いに影響を与えることは、やはり地祇としては避けなくてはならない。
だが、剋軸香果実という天神地祇の厄介な荷物の処置ということになれば、話は別だ。それは本来、人の世界に存在してはならないもので、天神地祇が長らく放置していた無責任が人の世界に害を及ぼしている。ましてそれが自分の領域である五十茸山で芽吹き、生長したとなれば、輪熊としてはなおさら義務感に苛まれる。輪熊の見かけによらぬそうした正義感と、見たまんまの骨太さが、鹿高の好むところだった。
二柱の地祇は、人の姿のまま、山の傾斜を登ってゆく。地祇の姿に戻るのは、煩わしい果実をこの山で育んだ得体の知れぬ何者かにお仕置きをくれてやるときだ。それまで、霊力を温存しておく。
輪熊は細かいことにはこだわらない質で、食欲の願望絡みで鹿屋野姫である鹿高と、周囲に迷惑な夫婦喧嘩のような争いを起こしたりはしたが、山に出入りについては割合に無頓着だった。その無頓着さが災いの果実の蔓延を見逃す要因となったのであれば悔恨の極みだが、輪熊は地祇にしてはまだ若く、彼が五十茸山の霊気の凝り固まりから生まれ出る以前に、果実が根を張った可能性もある。
人であれば、生まれ育った古家に数代前から巣くった鼠を退治するような心境に近いかもしれないが、剋軸香果実が隣家に及ぼす害は、鼠の比ではない。
樹木がまばらになり、山道に石が目立ち始めた。ここからは、七つ子石と呼ばれる石の花と、石柱のような石の木が植生する領域になる。
輪熊はこの辺りに近づいたことはない。漂う気配に嫌悪を感じていたからだ。人でいえば、古家の一角にある開かずの間に近づかない心理に似ている。もっとも、輪熊の眷属のうちの知りたがりが山中を探索し、情報を伝えていたので、石の森の存在自体は輪熊も知っていた。
かつて、地祇にとってそれは一昼夜の過去に過ぎないが、安彦が一人で立ち入った領域だ。その地祇にとっての一昼夜で、安彦は大きく人格を変え、登美彦となった。山門という祭政体も、大きくその様相を変えている。変えたのは、わずか拳ほどの大きさの、虹色の光を放つ果実だ。
樹影が尽き、青天が広がった。
五十茸山の頂上付近だ。
石の木は、石柱のようでありながら、確かに根と樹皮を持つ樹木なのだ。葉はないが枝はある。石の木に混じって、樹木ではないものも時を止めて佇立している。それは獣だったり、人の形をしていた。
かつて安彦が一人で見渡した殺伐とした光景だ。そのときは、石の森の中央に虹色に輝く果実があったが、今は光を放つものはない。ただ、霊気の名残が、まだ肌を泡立てる濃度で漂っている。輪熊は思わず、毛深い腕をさすった。
「こいつが、そうだな」
輪熊は七つの花弁を持つ大きな花卉を見上げた。
それは花と呼ぶにはあまりに大きく、地祇の姿に戻ったときの輪熊の背丈ほどもある。可憐さは微塵もなく、すべてが石でできている。
石灰を塗り込んだような花弁が、日光を吸い込んで、不気味な光沢を見せている。
この石の花の存在を輪熊に伝えた眷属の一人は、実は非常な幸運の持ち主だった。石の森で散見される人型の石は、もとは生身の人間だった。彼らは果実の霊力によって石化され、その生命力を養分として石の花に吸われたのだ。石の森の中心に、途轍もない霊力を持つ果実があることを知らなかったことが、その眷属を幸運に導いたのだ。
「それで、どうするんだ」
と、鹿高が聞いた。地祇の姿に戻れば、脱け殻となった石塊程度は、微塵に砕くことができる。だがそうしたところで、何の解決にもならない。
「さて、それはここの猪甘に聞いた方が早かろう」
と、輪熊は答えた。猪甘は豚を飼育する民のことをいう。厄介な果実を飼育した者がいる、と輪熊は言うのだ。
実際、それはいた。安彦が遭遇した、白猪とも玄狐とも姿を変える神がそれだ。
「おい、いるんだよな。もったいぶってないで、さっさと出てきやがれ。さもねぇと、ここいらに屁を撒き散らしてやるぜ」
輪熊と鹿高をどこかで盗み見ているはずの者へ、がなり立てた。
鹿高は、輪熊がまだ実行するまえから、形の整った鼻を摘まんだ。
すると、それほど離れていない場所に立っていた石柱が形を変え始めた。
「摘み終った生り木を守っていても詮ないが、下俗の臭気を撒かれるのは堪らぬ」
白猪が現れた。
「出やがったな」
歯を剥き出した輪熊の口内に牙が見えた。地祇の姿に戻る支度を整えている。
「そういきりたつな大山津祇よ。予は天神の身をもって、地祇たる汝の領域に仮寓しておっただけ。何も迷惑はかけておるまい」
白猪の言いぐさは尊大だった。
「ふざけるなっ。俺様の庭に面倒なもん植え込みやがって」
輪熊が力任せに腕を振るうと、石柱が一本、粉々になった。
「ここが汝の庭だと。若造が意気がったことをほざくものよ」
白猪がのそりと近づくと、輪熊はまるで巨大な壁が迫ってくるような威圧感を感じた。
これほど厚みのある霊気と対峙したのははじめてだった。厚みはあるのに、何かが虚ろだった。
これだけの霊気を放つ以上、それは神以外には考えられない。だが、天神ではない。天神の放つ霊気には気高さがある。白猪の放つ霊気は、むしろ妖気と呼んだ方がいい。
魑魅魍魎の類いだと決めつけた輪熊は、こいつは山に棲まわせていてはならないものだと判断した。
七つ子石に投げ掛けられた輪熊の影が巨大になっていく。だが、地祇の姿に戻ろうとする輪熊の気勢をかわすように、白猪の霊気は退いた。
「どうした。さっきのははったりだったか」
輪熊の影は膨張を止めたが、筋肉は隆起しており、牙も剥いたままだ。鹿高も頬と手足に獣毛を生やし、いつでも強靭な蹴りを繰り出せる体勢をとっている。
白猪は、ため息のような白い息を深く吐いた。かと思えば、その姿は玄い狐となり、青い隼となり、赤い猿となり、目まぐるしく鳥獣の姿を変遷した。やがて、ようやく思い出したと言うように人の姿となった。白髪白髭の古老の姿だ。
疲れきった格好の古老は、枯れ木が風に揺れるような不安定さで数歩進み、そこにあった石に腰かけた。
「もはや己がどのような姿であったのかを思い出すのも難しくなったが、この姿であっておると思う」
消え入りそうな声だ。
「汝はなにものだ。天神でも地祇でもあるまい」
風が吹けば塵となって消えそうな古老の姿が、輪熊に哀れみを感じさせた。ただし、警戒は解いていない。
「難しいことを問うてくれるな、大山津祇よ。予がなにものかであったのは、はるか昔のこと。なにものかでいられることの幸いをも、予は既に忘れておるのだ」
古老からは、もはや幾ばくの霊気も漂ってこない。ただの枯れた身体だ。いや、石に腰掛けたその姿さえ、もしかすれば幻影であるのかもしれないほどの空虚さだ。しかし、その目はじっと輪熊を見つめている。からっぽのようでありながら、想像もつかない長い年月を見つめ続けてきたような深さもある。
輪熊は、とりあえず警戒を解いた。人の姿となり、古老の前であぐらをかいた。
「あんたは、あの石の花に実がなり、育つのをただずっと待っていたんだな」
古老は頷いた。
「それは、この山がほんの一握りの土塊だったころからのことかもしれねぇが、そんな大昔のことは、さすがの俺様も知っちゃいねぇ。教えてくれ、なんであんなものがここに生えてやがる」
あんなものを忌々しげに指さしながら、輪熊は問いかけた。
古老は深い息を吐いた。まるで、大昔の大気を吐き出したかのようだった。
「高天原を知っておろう」
「ああ、もちろんだ。天神がいる場所だ」
「予が生まれたころ、彼らをまだ天神とは呼ばなかった。ただ、そこにあったものたちだ」
古老は、そこを指さした。枯れ枝のような指の先には、青天が広がっている。
「そこにあったものたちのなかで、最初に名を名乗ったものは、己を、そらの真中にいるもの、と称えた。次に、その左右にいるものが、高くそびえ立つもの、宿し生むものと称えた。高くそびえ立つものと宿し生むものとは、結びを行い、はじまりの男とはじまりの女を生んだのだ」
結びは、産霊である。霊体を生みだすことだ。古老の昔語りは続く。
「そこにあったものたちは次々に名乗りを上げ、そこを高天原と名付けた。
やがて、それぞれ名乗ったものたちは、己の内に、相手を妬み、嫉む邪なものがわずかにあること知り、彼らは相談し合って、その邪なものを集め、球のようにして空の下に放ち落とした。
その邪なものは、空の下の、塵や芥や獣の脂のように不安定な形をしたものの中に落ち、それらを懲り固めて一つの島になった。自ずと凝り固まったのだ。邪なものはその島の中心にあり、霊気を吹き上げたが、やがてそれも凝り固まり、空まで届く柱のようなものになった。
はじまりの男は雄々しく、はじまりの女は美しく育ち、空から捨てられた邪なものを哀れみ、そこから生まれ出るものを善く導くため、父母の許しを得て、自ずと凝り固まった島に降りた。
二人はそこで結びを行い、ひとつのものを生み成したが、それは邪なものの霊気を強く吸っていたため、姿は親に似ぬ醜さで、形も定かでなかった。
しかし二人はその生まれ出たものを愛し、高天原からの咎めから逃すために海に流した。
ああその醜く、形の定かでないものこそ、予である。
予はとある海辺に流れ着き、そこから、はじまりの男とはじまりの女が次々と島を生みだす様を眺めておった。
二人は八つの島を生み、名付けて大八島といった。その中でも最も大きく、豊かであった島を豊秋津島といった。
はじまりの男とはじまりの女はやがて隠身となったが、生み残された種々(くさぐさ)のものは、大いに栄えた。
ああしかし、はじまりの男とはじまりの女は慈しみに満ちてはいたが、やはり微かな邪を持っておった。その邪は、二人が隠身となってから現れ、やがて二人は永遠に別れた。一人は黄泉に降り、一人は自ずと凝り固まった島に留まった。そして高天原から落とされた邪なものは、そらにも届くような柱の頂に、微かな実をつけた。
その実はあまりにも小さかったが、大八島に栄えた種々のものから少しずつ霊気を吸い取り、それを蓄えて、やがて虹色に輝く果実となった。
その輝きはあまりに美しく、その霊力はあまりに妖しかった。予は虹色の果実に見入った。魅入られたのだ。
予が虹色の光を見つめているうちに、種々は大いに栄えた。栄えすぎた。
そして、その日は唐突に訪れた。虹色の輝きが、そらを覆い尽くし、灼き尽くすほどの白い光となった。やがてその白い光が消えたとき、そらの下には何もなかった。島は残ったが、種々はどこにもいなかった。
予はただ一人となったが、恐ろしいとも、痛ましいとも思わなんだ。
ただあまりに虚ろであった。種々がいなくなったからではない。虹色の果実が消え失せたからだ。
だが、予は見たのだ。遥か空の上を飛びわたるものを。それは虹色の果実から放たれた種であった。予には、ひとめでそうだとわかったのだ。
予はそれを追った。我を忘れてな。海を渡り、川を遡り、山を越えてここにたどりついた。虹色の果実の種は、ここに落ちたのだ。ここはまだ小さな山であったが、汝のいう一掴みの土塊よりはもう少し大きかった。
以来、予はここに棲みつき、あの種が芽吹き、葉を広げ、花となり、実をつけるのを見守ってきた。
予は静かに見守るだけの日を送るつもりであったが、高天原は、あれを根絶やしにしようとした。
ある日、高天原は一柱の天神を送り込んできた。天鳥船とも、天磐船ともいう舟に乗せてな。その天神の名は火明といった。予は火明から果実の種を隠し続け、ときには戦った。
種は天にも届こうとする柱のように成長しようとしたが、そうすれば火明に見つかってしまう。予はなんとかそれを止めようとした。種は自らを追い出した高天原を、それでも慕っておったのだろう、懸命にそこまで育とうとした。
予は工夫をし、上に伸びゆこうとする種の力を、横に広げさせた。そうして、いつしかこの辺りは石の森となったのだ。
火明は、やがて一代での討伐を諦め、鵤丘に邑を建て、饒速日を名乗った。饒速日は代々、隙あらばこの石の森を根絶やしにしようとしたが、予は守り続けた。数代が経つと、饒速日はここのことを忘れ、己の族を肥え太らせることに努めた。
そうして、再び、石の花は虹色の果実を実らせた。
ところが、そのことを思い出した饒速日がおった。やつは、磯城の童男をここに送り込んできた。
予はその童男をひねり殺してくれようかと思わぬでもなかったが、やめた。その童男を、もしや果実がここに呼び寄せたのではなかろうかと思うたからだ。
予が思うたとおり、その童男は果実に魅入られておった。それはかつての予のようであった。
予はもはや老いさらばえ、この石の森の外では塵となってしまう。だがあの童男に果実を委ねれば、あの果実はより美しく七色の光を放つであろう。そう、かつてあの日、空を覆う白い光を放つ前の輝きに。
汝らには見えぬであろうが、予には見える。果実は、いまこそ最も美しく光輝いておる」
語りを終えたとき、古老は狂気すら感じさせる恍惚の色を浮かべていた。
果実の妖しい霊力に、魅入られているというより、憑りつかれた者の末路の姿がそこにあった。欲望が、果てのない幻覚を見せ続けているのだ。人であればその末路にも終わりがあるが、非永ではない身には末路も永久になる。
言い表しようのない悲哀をひしひしと感じた輪熊は、非永ならざる類いの身をもって、この古老の哀れな末路に終わりを作ってやらねばなるまい、と考えた。とはいえ、いずれ風化していくような枯れた姿を見せている古老を、自らどうしてやろうという気は起きない。
立ち去るべきか否かと悩む輪熊を解放したのは、古老自身だった。
「さて、大山津祇よ。ここまで聞いた汝は、この先、どうする」
そう問う古老の声に、欲望が発する殺気があった。鹿高もそれに耳障りを感じ、伏せていた目を上げた。
「果実は虹色の光を尽くしたのち、すべてを吸い込む白き光となることは、今しがた聞かせたところだ。非永のもとへゆき、警めるか、大山津祇よ」
「知れたことよ」
輪熊は立ち上がった。非永の栄衰に関心はないが、御統や入彦、豊や美茉姫、大彦や磯城の人々が白光の中に消え去るのを、手をこまねいて見ているつもりはない。非永への関与を避ける地祇としての体面の裏に、輪熊座の興行で喜び、拍手喝采してくれた人々への愛着が輪熊にはある。
「地祇として、お節介が過ぎるのではないか」
「うるせぇ。いちど守ったもんは、最後まで守り通すってのが、輪熊様よ」
「はた迷惑な聞かん坊よ。だが丁度よい。汝は地祇でありながら、非永に情を向けすぎる。いちど予と一体になり、地祇のあり方を学び直すとよい」
そう言い終わったとき、古老の姿は一変していた。萎れた老人の姿は糸くずが解れるようにして細断され、その切れ間から染み出るように粘着性の白い気体が現れ、たちまち濃霧のようになって輪熊を包み込んだ。
それは一瞬のことで、かつ醜怪な変化であり、反応が遅れた鹿高は輪熊の姿が濃霧に消えたことに動揺しかけたが、すぐに平静を取り戻し、
「無駄なことをするねぇ」
と、つぶやいた。
輪熊を飲み込んだ粘着性の濃霧は、何かの隆起に引き延ばされるように広がると、一声の咆哮と同時に、霧散した。無数の白い粒子が飛び散った後には、両腕を大きく振り広げた大山津祇の姿の輪熊がいた。
「あんたを呑み込んで、あんたの霊魂を自分のものにできると勘違いしたようだねぇ」
鹿高は白けた顔を作ったが、意外にも輪熊は神妙な顔をしていた。
輪熊の、大山津祇としての霊威に打ち負かされ、霧散した古老ではあったが、取り込もうとした輪熊の霊魂に、己の霊魂を投影することはできた。その一瞬の交錯で、輪熊は古老の長い歳月を共有した。古老は、むしろそれを望んだのかもしれなかった。
「やつはな、棄てられたとはいえ、天神のはしくれよ。もともとはすさまじい霊力を持っていたのさ。だが、果実の妖しい虹色の輝きに魅入られるうちに、やつ自身も力を吸い取られちまった。果実は大地からも、そしてその魔力に魅了されて近づいてきた非永か
らも力を吸い取って成長したのさ。果実の源は、高天原の天神の欲望だ。たいした力はないが、欲望だけは旺盛な非永は、果実にとっては良い肥しだっただろう。やつも存在し続けるためには、力が必要だ。果実が大地や非永から吸いこぼしたおこぼれにあずかって生きてきたんだ。そうするうちに、やつはここで迷い来る非永や獣を喰うだけのただの悪霊に成り下がっちまった」
「悪霊じゃ、地祇のあんたには敵うべくもなかったね。あんたに祓われて、案外せいせいしているのかもしれないよ」
「さて、どうだかな。もとは天神だ。非永はすぐ死ぬし、地祇さえもいつかは死ぬ。だが、天神だけは永久だ。なにしろ、無から成り出てきたやつらだからな。姿は見えなくなっても、どこかにはいる。神は隠身ってことだ」
そのとき、石の森の大気が急速に動いた。息を殺していた風が、流れ始めたのだ。
果実を収穫された七つ子石の花卉や、石柱のような石の樹木が、そして石化された人や獣の姿が、風に吹かれて少し崩れた。いずれ、全てが風化するだろう。
風が石の森を抜きぬけてゆく音に、輪熊と鹿高は古老の声を聴いたような気がした。その声の中に、解放された喜びが鳴っていたように思えた。
「さて、力なき非永どもに、教えてやるとするか。まもなく汝らは消し去られてしまうぞってな」
「なんだか、うれしそうだねぇ。あんた、まさか、さっきのやつから果実の狂心を引き継いだんじゃないだろうねぇ」
そんなはずはないことは百も承知だったが、鹿高は輪熊をからかった。
「ばかいえ。俺様はな、あの御統のまぬけ面をぶん殴ってやれるんじゃないかと、楽しみなのさ」
輪熊は人の姿に戻っている。憎まれ口を叩いているが、それが、御統や豊、入彦や大彦、いたいけな人間というものを守ってやる宣言だということは、付き合いの長い鹿高には分かっていた。
分かってくれる人が側にいない、というのが斑鳩宮に冷えた孤影を置く登美彦だった。
日輪のような輝かしい創造主になりたいとう希望が断たれた今、ならば地中の王になろうとする彼の暗い心情を理解する者はいない。
大陵での挙行を試みた、 先代の饒速日の葬礼と真手への山門主継承の大祭は、失敗に終った。登美彦にとっては、いや安彦にとっては人生最大の失敗と言わざるを得ない。
登美彦の名を棄て、安彦の名に戻した彼は、しかし、その人生最大の失敗によって、今、深い喪失感に陥っているわけではない。
安彦をどうしようもなく哀しませたのは、夜姫、いや陽姫を失なった事実だ。
最も愛していたはずの異母妹だ。安彦が守りたいと願った人々の中心にいたはずの女性だ。
剋軸香果実の妖魅に憑りつかれ、湧き出る欲望のままに陽姫を生贄として捧げた。陽姫が饒速日に汚されるや、嫉妬に駆られた安彦は、最愛であったはずの陽姫をそれ以上に汚し、夜姫に堕とした。そして、夜姫は死んだ。異母兄を狂わせた果実の祭壇を死守して。
先代饒速日の葬礼と山門主継承の大祭が、群衆の悲鳴と混乱によって閉じられたあと、大地を蠢かして人々を恐怖に陥れた安彦は、怒りを虚しさの中に納めて山門大宮へ戻った。
先に大宮に逃げ帰っていた人々は、供も連れず一人で戻ってきた安彦を怖いもの見たさで迎えようとしたが、実際に彼の影が視界に入ると、蜘蛛の子を散らすように舎や物陰に隠れた。安彦自身気づいていなかったが、表面上の冷静さは装っていたものの、抑えきれない呪力が放射され、彼の影をより巨大に見せていた。
安彦は人々の恐怖が敷き詰められた道を歩いて大宮を進み、屋根の崩れの目立つ斑鳩宮に入った。
まるで氷室のような宮内では、さすがに役人が恐怖を圧し殺して出迎えたが、安彦は彼らの存在を認めない顔をして、宮の奥へと進んだ。
秘された一房から長い階段を降りてゆく。地の底のような空間で、争いの跡がある。死者の呻き声のような音をいつも以上に響かせる果実の祭壇の側で、息絶えている夜姫を見つけた。
安彦は、その光景で、夜姫の最期のときを察した。
夜姫は、祭壇の頂の、果実が納められた箱に覆い被さり、守るようにして倒れていた。
祭壇の周囲は激しく損壊しており、祭壇から伸びる管を通じて呪力を吸いとられていた生贄の祝者や巫は、屍を散乱させている。凄惨な光景だが、夜姫は外部の驚異から果実を守ったのではない。霊力を暴発させようとする果実を、全ての呪力と全ての生命力を尽くして、夜姫は防いだのだ。
果実が、いつかその内蔵する膨大な霊力を暴発させることは分かっていた。充満した気体は、いつか容器を破るものだ。しかし、いまが異母兄が望むそのときでないことを、夜姫、いや陽姫は悟っていたのだ。
安彦は、冷えきった陽姫の体を抱き締めた。そして長い時間、一人で泣き続けた。皮肉にもこのとき、安彦は憑りついていた果実の妖魅を剥ぎ落とした。邂逅以来、心に話しかけてきた果実の妖声を遮断した。
陽姫は、登美夜姫として、人知れず葬送された。安彦は、自分自身も同じ葬穴に入ったつもりだった。
最愛の人を地中の人としてから、安彦は登美彦の名を棄て、武埴安彦を名乗った。
山門朝廷瓦解の物音を聞き取った諸族は、派遣していた大夫を次々に引き上げた。大夫は、諸族の長である氏上が勤めることが通例だったから、彼らが大宮の邸を払うと、多くの従者が共に立ち去り、大宮はにわかに寂れた。斑鳩族も安彦との距離を取ったため、斑鳩宮は閑散としたが、安彦に支援者がいなかったわけではない。
山門の最大勢力である斑鳩族などは、あわよくばこの機会に斑鳩宮と山門大宮を制圧し、安彦を追放して、長らく他族出身者に占められていた権力の座を回復しようとする気配をみせた。それが気配だけで終わったのは、安彦のもとに、鉄の武具を連ねた大軍が到来したからである。
黒い光を陽炎のように立ち昇らせるその軍団を率いるのは、安彦の盟友、御名方だ。
御名方は出雲族だ。出雲族は大規模な民族で、おそらく山門の諸族を糾合しても、その規模には及ばない。
その大族を統べる主が、大国主だ。御名方は、その次男である。
出雲の高位に収まっているべき御名方が、出雲族の一派を率いて山門に現れたのは、当然、理由があってのことだ。
出雲族は、兄の事代主が継ぐ。次男である御名方は、高位にはあっても、兄に養われる立場だ。兄には一生頭が上がらない生活に甘んじなくではならない。御名方と事代主との兄弟仲が悪いわけではなかったが、御名方は自分の天地が欲しかった。
出雲族は大族だから、族員の間に、自然と格差が生まれる。自らが置かれた現状に不満を抱くのは御名方だけではなかった。
御名方には若かりし頃の武勇伝がある。肥川の上流に棲んでいた地祇の大蛇が和魂と荒魂の調律を崩し、荒ぶる神となって暴れていたのを、御名方が鎮め、その破壊的な霊力を銅鏡に納めた。大蛇の猛威に苦しめられていた肥川流域の出雲族は、当然ながら御名方に信頼を寄せた。御名方は地祇である大蛇の霊力を得ると共に、その地域の人望をも得た。
その武勇伝と人望とが、御名方の声に応じる数千人を生んだ。不遇をかこっていた彼らは、御名方の山門征行に自分たちの将来を託した。その心情には、真秀場を目指した天孫族の心情に通じるものがあった。
御名方は父と兄を敬愛していたが、二人の統治方針には不満を持っていた。父と兄は、出雲族のこれ以上の伸張を望まず、筑紫の奴族や伊都族と融和し、東方を掠め取ろうとした高志族が外患にさらされてもその機に乗じて逆襲することをせず、さらには出雲に兄事していたはずの吉備族とも対等の同盟を結んだ。あまつさえ、吉備族の使人となった天孫族の天津彦五瀬に、兄の子の五十鈴媛を娶せた。ここに至って、御名方は、父と兄の軟弱姿勢
を批判するようになった。
出雲族の勢力圏の東方で声望を持つ御名方は、肥川の流域に邑を構える製鉄集団の統治を任されていた。体よく出雲族の中心から退けられたわけだが、その代償として姪にあたる美貌の五十鈴媛を娶うことになっていた。もともと恋愛感情を抱いていた御名方と五十鈴媛の婚姻を、兄が認めたという格好になる。
ところが、五十鈴媛は天津彦五瀬に嫁がされ、彼女は遥か吉備へと連れ去られた。
政治的判断だったとはいえ、結果的に弟を裏切ることになった事代主は、御名方が出雲族の不満分子を募り、彼らを率いて独断で山門征行を敢行する企てを黙認した。内紛の火種になりかねない不満分子を連れ出してくれることは、父と兄の統治方針から見れば、むしろ歓迎すべきことだった。
そういった次第で、御名方は安彦との盟約に違わず、鉄で武装した出雲族を率いて山門に乗り込んだのだ。
出雲を去るとき、御名方には故郷を棄てる悲壮感はなかった。確かに妻とするはずだった女性を奪われはしたが、それしきのことで未来に暗い幕を降ろすほど、御名方の心力は弱いものではなかった。新しい天地を想像に描いて、心身を躍動させた。
出雲族は海を挟んで大真帝国に門戸を開いているから、先進の文物や思想が届く。
そのため御名方はクニという概念を知っていた。ただし、国又は邦という文字までは知らず、あえて言えば、それは六合だった。空と大地と四方である。
己の六合を創る。そう考える御名方の思考は、明るかった。
その明るさが、冷え切った斑鳩宮に多少の温かさを回復した。安彦にとっては、全てを失ってから、初めて得た拠りどころだった。遠い日、磯城の異母兄に庇護されていた安らかな生活を、ふと思い出した。
「仕損なったらしいな。それも大いにしくじったと聞いている」
忖度をしない性格の御名方は、いきないそう言った。
「だがそれも一歩だ。その一歩を進んだ汝はえらい」
「次はまた何を踏むかもしれぬと、次の一歩が出せずにいます」
安彦がしおらしくそう言うと、御名方は何が可笑しいのか、大声で笑った。
「まぁそういうな。ここいらの掃き清めが一度に済んだということだ。めでたいことではないか」
ここいらの掃き清めとは、御名方率いる出雲族が山門大宮に入るのを拒んだであろう山門の諸族が、すでにそれぞれの根拠地に引き払っていることをいう。
ふと気づいた御名方は急に笑いを納め、神妙な顔つきになった。
「妹御を亡くしたと聞いた。気の毒なことであったな」
そっと肩に乗せられた御名方の手が、あまりに温かく、安彦は感情が絞り出す湿り気が、両目からこぼれそうになるのを耐えた。
湿り気を声に残したまま、
「来てはもらえないだろうと思っていたのです」
と、素直に心中を明かした。そうであってもおかしくはない。盟約では、安彦が山門をきちんと整地したうえで、御名方が乗り込んでくることになっていた。現状の山門はでこぼこの荒れ地といっていい。一声で数千人を結集できる御名方の人望なら、安彦と山門を無視し、出雲族の東部で独立することも、出雲族と高志族との緩衝地で勢威を張ることもできたはずだ。
「なんと、吾はそれほど頼みにされていなかったか」
御名方はわざと大袈裟に驚いてみせ、そのあと一笑した。
御名方が己の六合を創りたいという漠然とした願望を抱いて各地を行脚していたとき、御名方の夢幻を現実の形に整えてくれたのが、安彦だった。御名方は、そのときの高揚感と感動を忘れるつもりはない。
「高志族はどうです」
声に生気を少し回復させた安彦は、それを尋ねた。
「うん。どうやら他人の家を盗み見している間に、よその泥棒に家の裏戸を襲われたらしい」
高志族のさらに北方にいる粛慎が、出雲族を注視する高志族の背後を襲ったということだ。粛慎は定住地不明の大族で、豊秋津島の最北に住むともいわれるし、海を渡り、大真と同じ大陸に住むともいわれる。
慌てて本拠地の戸締りに帰った高志族の尻を蹴り上げつつ山門まで進軍してきた、と御名方は言った。
「それにしても大勢を率いてこられたものだ。あれだけの物部を連れておいでなら、身一つに成り果てた私など、お役に立ちそうもない」
「つまらんことをいうな。約束通り、吾が山門主、汝が御言持だ」
御名方としては安彦と六合を創るのであり、安彦の今の立場は関係なかった。
「私をまだ盟友と認めてもらえるのなら、ひとつ、我儘を聞いてもらいたいのです」
「いいだろう」
我儘の中身も聞かずに快諾しようとする御名方に、安彦は苦笑した。
「まずは私の話をお聞きあれ」
安彦は御名方を斑鳩宮の露台に誘った。
冬の空には凍てついた雲が浮かんでいたが、雲がまとう氷の結晶を輝かせる日光が、露台にも降り注いでいる。
安彦と御名方の二人が、光の中に立つのは珍しい。まだ登美彦だった頃、御名方と密談を交わす場所では、光は決まって最小限だった。
「果実の祭壇が毀たれました」
安彦は、ここ数日の情報を御名方に伝えた。御名方は度々頷いたが、新しい驚きを示すことはなかった。それはつまり、御名方は独自の情報網を大宮内に張り巡らしているということだ。それを咎めるつもりはなく、安彦も悟られない距離で、御名方を動向を追う探女の術を施している。
「繕えぬのか」
「試してみましたが、手に負えませんでした」
陽姫を喪った衝撃で果実の妖魅を削ぎ落し、素直さを取り戻していた安彦は、憎み、卑下していたはずの先代饒速日の優れた呪力と発想力とに、今さながらに舌を巻いている。果実の霊力を制御し、無尽蔵の霊力を自在に操るための祭壇を作り上げたのは饒速日
だ。安彦はそこに工夫を加えることには成功したが、装置の大本の原理にまで精通できてはいない。天目一箇神の鉄槌の一撃は、装置の中枢部にまで衝撃を与えていた。
「山門主は御稜威なり、ということか」
御名方はそういって感心したが、買い被りの部分もあった。先代饒速日は確かに優れた呪能を備えていたが、彼が祭壇を作り上げ得たのは、累代の饒速日が積み上げてきた研究の成果が基盤にあるからだ。果実を追って高天原を発した火明が初代饒速日を名乗って鵤丘に邑を構えて以来、宿願を果たすべく、累代の饒速日は果実の研究を続けてきた。その膨大な知識を知る前に先代饒速日を始末してしまったのは、今から思えば早計だった。
「いまはまだ、妹が絞り出した呪力で封じていますが、長くはもたないでしょう」
「もたなくなれば、どうなる」
「果実は、その限りない霊力を爆ぜさせ、周囲を呑み込み、消え去るでしょう」
はるか上古の、天と地以外のすべてのものが消え失せたと同じ光景が、再び現れることになる。
「せっかく山門くんだりまでやってきたというのに、手にするものが空っぽだけというのは、どうにもつまらんな」
「卿には、山門の諸族を導いてもらわねばなりません」
「そうはしたいが、どうする」
「私が、この身をもって果実を治めてみせます」
安彦は爽やかに言ったが、御名方の眉宇は曇った。
壊れた祭壇ではなく、自分の身体の中に果実を納める、と安彦は言うのだ。自分自身が祭壇そのものになるということだ。天目一箇神の一撃を喰らい、陽姫の呪力で弱っている今なら、それが可能だ、と安彦は言う。
「汝が、汝でなくなってしまっても、吾はつまらぬのだぞ」
膨大な霊力の塊である果実を生身の中に納めることができたとして、その生身の持ち主の精神が平常であるとは思えない。
「ご安心を。私は、私です。ただ、生身は失い、魂だけとなるやもしれません」
さりげない口調で、すさまじい覚悟を述べた。
「それでは、汝が隠身で、吾が御言持にならざるをえんではないか」
口を尖らせたはしたが、それでも構わないと御名方は思った。要は、安彦と二人なら、筑紫の諸族や出雲族、高志族にも負けない六合が創れそうだ、ということだ。
「卿は現人神となればよいのです。祭も政も卿が取り仕切るのです。それを新しい六合の形といたしませんか。海の向こうの大真では、すでにそのようになっているそうです」
大真の至尊にある人物は、天子と呼ばれている。天から命を受けた者だけが、地を支配できるという思想だ。
「それが汝のいう我儘か。よかろう、そうしよう」
御名方は明朗に承諾した。
安彦は露台から大宮の町並みを見下ろした。
ほんの数日で、すっかり様相が変わっている。山門の首邑として賑やかな喧騒に沸いていた大宮は、今は充満する出雲族の軍士が蹴立てる武張った土埃にまみれている。
御名方との合意を果たしたあと、安彦は会話を終え、地下空間へと繋がる長い階段を下りた。
もはや生身に陽光を浴びることはないかもしれない。だが、悲壮さはそれほど胸を衝かない。
暗闇の中で、祭壇が虹色に輝いている。箱に納められた果実の霊力が封印を破りかけており、その亀裂から虹色がにじみ出ているのだ。
安彦は箱を開けた。虹色があふれ出た。
果実の大きさは拳程度であったはずだが、光輝が強すぎて、光源の形が定かでない。
安彦は虹色の中に両手を差し入れた。果実を、七つ子石からもぎ取ってからの歳月が、心裏を駆け抜けていく。
鉱物のような明らかな硬さを両手が感じ取った。それが果実だ。
安彦は呪力を高め、集中させ、極限をねじ切るほどにふり絞った。安彦の両手を頑なに拒絶していた硬さが、ふいに解れ、手のひらの中に溶け入ってくる感覚があった。その感覚を保ったまま、両手を腹に押しつけた。
炭火を体内に入れたように熱くなり、安彦の全身が虹色に輝いた。果実の霊力と安彦の呪力とが溶け合っていく。
ここから先は、果実の霊力が安彦の自我を喰らいつくすか、安彦の呪力が果実の妖魅を屈服させるかの戦いになる。
蕩けていく意識の中で、安彦は考えた。果実を完全に取り込めば、自分の呪力は、豊秋津島全土の大地を蠢かすほど強大になるだろう。
我は根の国の王となろう。そう考える安彦の思考が、無限の白さの中に消え入った。
妖艶な虹色を放つ剋軸香果実は、すべてを消失させる。
最愛の陽姫を喪った安彦は、深い悲哀と悔恨の後に正気を取り戻す。
出雲族を率いてきた御名方に山門を委ねた安彦は、果実を体内に封印し、そのすべての霊力を我が物にしようと試みる。




