山門編-失われた天地の章(28)-根の国の王(2)
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の俳優 の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持の嫡男、春日族の入彦に出会う。
山門では神祝 ぎの馳射や誓約の鏡猟が催されるが、このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。
山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭となっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実を巡り望見し、安彦は果実の魔力に取り憑かれていた。
登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、指導者として成長していく。
大日は昔日を回想し、呪いで山門を支配する饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。
筑紫の日向の五瀬は、豊葦瑞穂原を目指し、天津彦を名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場を目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。五瀬の妹である狭野姫は天津彦の企図を継ぎ、新たに豊葦瑞穂原を目指す。室の地に上陸した狭野姫は、名草族の宝剣、韴霊剣の力を得て、室を平定し、熊野の名を授ける。
狭野姫は再び山門に踏み入るが、またも大日が立ちはだかる。狭野姫が放った矢が大日に致命傷を与え、死期を悟った大日は、天孫族との平ぎを入彦に命ずる。父の命を拒否した入彦は、鳥見山で禊中の狭野姫と出会う。兄を奪われた狭野姫と父を奪われる入彦。二人は感情をぶつけ合うが、いつしか心が通い、二人は山門の美しい夕景に、天孫族と山門の麗しい未来を見る。その夜、講和の使者として入彦は狭野姫のもとを訪れ、天孫族と磯城族は講和を成す。
山門の首邑である山門大宮では、安彦が饒速日を殺し、山門掌握のための画策を進める。計画の成就には美茉姫の協力が不可欠であり、安彦は、夜姫と名を変えた異母妹に神楽を教授させる。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
狭野姫
天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子と呼ばぬ者には容赦ない。
五瀬
狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。
手研
五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。
珍彦
元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。
真手は饒速日の子だ。ただし、長子ではなく、母も諸族の大夫たちに知られていない。だが母体なくして子が生まれるはずはなく、秘された母親の名を知るのは登美彦のみだ。それでも真手が山門の朝庭において一定の知名を得ているのは、登美彦の密かな活動による。
饒速日は山門主であるから、諸族から妻を得ており、正妻もいる。彼女たちはそれぞれに子を宿し、嫡子たる男児も当然いたが、その存在は山門の朝庭においてあまり重きをなさなかった。それも、登美彦の活動による。
しかし、山門主饒速日の襲名となれば勝手が違ってくる。
諸族の大夫たちは真手以外の子らの名を思い出し、次の主として相応しい名がどれであるか熟慮するであろうし、妻たちは自分の子こそを継承者にと騒ぎたてる。山門大宮の隅々まで隠微に敷き詰めた登美彦の呪いも、大夫や妻たちの利益を求める自我を希釈するまでの力はない。
利益を追い求める人間の強烈な我欲を抑え込み、人々の意識を一定方向に集中させるために、饒速日は剋軸香果実の妖力を用いた。それに代わる手法として、登美彦は大祭を催すことにした。
建造物の壮大さと神楽舞の優艶さで人々を陶酔させ、思考を停止させるのだ。その虚無になった人々の心に神秘の言霊を注ぎ込み、真手を次代の山門主饒速日として崇めさせるのだ。同じ人心誑惑の呪いだとしても、吾の方がよほど健全であろう、と登美彦は自画自賛している。
その年の大晦日、夕間暮れの赤い雲間を飛んでいた鳥は、山門の地上にうごめく大蛇の群を見て肝を潰した。
あちこちの山谷や野末から這い出したかに見える大蛇は、実は人の列だった。
山門主の崩りと饒速日継承の大祭の開催を諸族に告知した登美彦は、諸族の氏上に族人総出の参列を命じた。そのため、傷病人以外のすべての山門人が、築かれた大陵の周囲に押し寄せることになった。
日が落ちると、無数のかがり火が灯された。青昏い霧に沈んでいくような世界で、大陵だけが、灯りと人影の海に浮かぶ孤島のようだった。
かがり火は巨大な墳丘墓をぐるりと取り巻いているが、舞台状になった前方部の祭壇にはひときわ多くの明かりが灯された。そこから眼下を見れば、人々の姿はまるで大海に次々と浮かぶ海月のようだった。夜の海を照らす月光を慕う海月の群だ。
山門の御言持であり持傾頭でもある登美彦が祭壇に立ち、先代饒速日の崩りを悼み功績をたたえる誄を口述したあと、今宵の大祭の趣旨を人々に告知した。
その時点で、人海にはまだ潮騒が残っていたが、祭壇にもう一つの人影が立ち、その傍らに柩が現れると、潮が引くように人海のさざめきは静まった。
過去の山門主饒速日の代替わりにおいて、先代の柩が人前に現れることはなかった。山門主だけに限らず、一つの族の氏上は死期が近づくと人目から遠ざかり、隠身となる。族人は、先代の氏上が神上がり、今代の氏上が立ったことを知るのみだ。
その点、この大祭は異例中の異例だった。
氏上を継ぐ者は、先代の遺言を知るか若しくはその意思を察知した族内の有力者が、独断または複数人の協議を経て決される。今回その手法を用いれば、斑鳩族の有力者や諸族の大夫は、次代の饒速日として、それぞれの意中の御子を担ぎだすおそれがあった。
そのため、御言持兼持傾頭という最高権力者の権限をふるって、登美彦は異例の大祭を催したのだ。
柩とともに壇上に現れたのは、真手である。そこは、彼にとって初めての外界だった。幽光の房の蔀戸から見るだけだった世界の空気に肌を触れさせ、真手は甘露に打たれたような恍惚の表情を浮かべていた。
日中であれば、真手のその表情は奇異に見られただろうが、夜の昏さとかがり火の揺らぎが生み出す幻想的場景に溶け込んで、群衆は真手の様相を神秘に臨む者の忘我として認識した。その演出効果も、登美彦の計算にある。
登美彦は真手の正体を目敏い者に気取られないよう、さりげなく儀式を進行して、なるべく早く衆目から隠すようにした。
祖霊承継の儀に進むと、真手は、登美彦に促されるままに、祭壇から円墳に続く墓道の勾配を降りていった。柩を乗せた輿を数人の忌人が担ぎ上げ、呪言を唱えつつ、真手に続いた。彼らが通ったあとを持箒者が掃き清めていく。
いよいよ先代饒速日の体内に宿っていた祖霊が、次代の饒速日の体内へと移るのだ。
柩とともに葬穴である玄室に入り、鏡の呪力によって先代から写し取った祖霊を、次代に注入する。鏡は再び祖霊を写しとることのないよう、新たな饒速日によって破砕される。
この祖霊承継の儀式に一夜をかける。通例であれば秘かに執り行われるこの儀式が、衆目に公開されている。といっても、人々が葬穴を覗き込むわけではない。先代の柩とともに地下の世界に降りた新しい饒速日が、体内に祖霊を宿し、再び誕生するのを待つのだ。日が昇るまでの間、人々の興奮が醒めないように、集結した幾万人とも知れない人々に、登美彦は酒肉を振る舞った。
酒は、庶民では祭祀でもめったに口にすることはない。そのため、酒甕が人々の間に運ばれると、歓喜の波が起こった。
大きな平瓮には肉が盛られ、甑からは木の実や穀物が蒸されるよい香りが漂った。
人々は食って飲んで、大いに大晦日の夜を楽しんだ。その賑わいを見て、高天原から天神が降り、大地から地祇が身を起こすのだ。
子どもや高齢者が休憩するための舎が建てられ、暖を取るための炉や、悪酔いした者のための湯薬まで用意されていた。
まさに至れり尽くせりであったから、群衆の中には踊りだす者もおり、歌舞飲食の遊楽は、登美彦が期待したとおりの盛り上がりをみせた。
ところで、饒速日の大陵が築かれた位置は、山門のほぼ中央で、小高い鵤が丘に建てられた山門大宮からも、はっきりとその巨大な姿を遠望できる。
大宮から大陵までは徒歩半日の距離であったから、大宮の人々はその日の未明には出発を始めた。
数千人が暮らす山門の首邑は、門を出ようとする人でごった返した。
五層に区切られた大宮の外周に近い人から門を出ていく。中心の高地に画された斑鳩宮に暮らす貴人は、当然ながら一番最後の出発となる。登美彦も、御巫の装束を整えた美茉姫も、斑鳩宮で待機していた。
大宮の最も外側の門を千引き門という。千人がかりで引くような大岩をふたつ、門柱代わりにした門だ。そこを通ると、大宮を護る破邪の結界の外に出ることになる。
大地の中には地祇もいるが、悪霊も棲んでいると考えるのが人々の通念だ。土煙が立てば、その微粒子の中にも悪霊が潜む、と人々は恐れる。そのため、門の外に出る前に祓えの儀式を行う。土煙が立てば、それが収まるまでは門を出ない。数人単位でその作業を行うため、数千人が門を出るには大層な時間がかかる。
邑に入るのにも煩わしい決まりがあるが、邑を出るときにも煩わしい。だが人々は、大真面目にその作業をこなしていた。
大半の人は、門を出るのに躍起になっていた。祖霊承継の儀を見る機会など、庶民にはない。しかも美しい御巫の神楽舞が見られ、酒肉が振る舞われるとなると、誰もが良い席を取ろうと、門柱の大岩を睨んでやきもきしていた。
しかし、外界から大宮内に入ろうとする変わり者も、いた。
入彦、御統、豊の三人だ。
三人は、千引き門とは真反対、大宮の背中を見上げるようなところに疎生している木陰に潜んでいた。
三人の目の前には、幅の広い濠がある。その向こうに土を固めた版築を積み上げた城壁があり、その上には板塀が巡らされている。いずれも大真からもたらされた建築手法で、御統は、豊と出会って間もない頃、彼女からそのことを教わった。
「入口は、あっちみたいだよ」
潜んでいることにいい加減あきた御統が、尖った口吻で千引き門を指した。
「本当に何も知らないのね、御統。 入口はあっちでも、わたしたちは通れないでしょ」
豊は能天気な弟分に頭が痛くなった。
「なんで」
御統は楽観主義者だ。たしかに門の前後はごった返しており、青年と少女と少年が逆行して大宮に入っても、周囲からしかめ面を見せられるだけですみそうな感じではある。
「入彦がいるでしょ」
思わず大声を出してしまった豊は、慌てて口を押えた。彼女に大声を出させた元凶の御統は、わざと目を白くして豊を見て、その目を入彦にも転じた。
「あんちゃんのおかげで回り道しないといけないのか」
と、これ見よがしのため息をついた。前の御言持大日の子である入彦は、大宮の人々にもよく顔を知られている。確かに彼が千引き門を通れば、たちまち通報されるだろう。
「お前だってそこそこの有名人だろう」
入彦は気色ばんで反論した。御統は輪熊一座の興行で贔屓される俳優だった。輪熊一座が、山門大宮では謀反人とされている大日一派とつるんでいたことは知れ渡っている。
「だから、私一人で十分だと言ったでしょ」
豊は悪態をついた。彼女はもともと、夜の底を移動し、旅の一団から値のあるものを頂戴する生活を送っていた。そのため、忍び込みは得意だ。幸か不幸か、御統には見つかってしまったが。
「豊だって、ばればれだろう」
誓約の鏡猟りで、美茉姫と共に春日族の代表として驚異的な呪術を披露した美少女にも、秘かな贔屓集団ができあがっている。
三人は、誰が一番の有名人であるかについて、揉めた。
城壁を巡回していた見張りが板塀から顔を出すと、三人は慌てて口をつぐんだ。こんなところで見つかっていては美茉姫救出はおぼつかないことに、とりあえず三人は合意した。
見張りは、そんなところに木立や叢があっただろうか、と記憶を探るべきだった。物陰には物怪が潜むと恐れるのが常識だから、邑の周囲はきれいに伐採されていることが多い。山門の首邑であるならなおさらだ。
だが、横着者の見張りはその作業をせず、かすかに聞いたと思った話し声を空耳だと片づけた。見張りが行き過ぎると、三人はほっと息をついた。
三人が身を潜める木立と叢は、入彦が生み出した。大物主の幸魂を宿した青銅鏡の力によって、入彦は大地の生成力を自在に操ることができる。大地に散布された種子を芽生えさせ、生長させることなど造作もない。
生み出した木立と叢を移動させ、三人は大宮までにじり寄っていた。外縁部に埋伏させられた悪霊や侵入者除けの呪詛は、豊が祓った。
濠の側までやってきたが、草木はそれ以上の前進を拒否した。草木に水は必須だが、その中に沈んでしまえば枯れることを彼らは知っている。
「次の見張りが来るまでに乗り込もう」
入彦は、御統と豊を木立の枝に掴まらせ、自分も手ごろな枝を掴んだ。
入彦が呪言を唱えると、木立が見る間に伸び、梢が城壁の上の板塀に届いた。すかさず、豊が祓えの呪言を投げつける。
一瞬、空間が歪み、その歪みが波紋を生んで光を散らした。豊の呪言が大宮の結界に穴を開けたのだ。その目に見えない穴を、豊を先頭にして三人がすばやく通った。
大宮内の物陰に身を滑り込ませた三人は、陰から陰をたどって、中心部の斑鳩宮を目指した。
物陰から飛び出た途端、たまたまいた邑人に出くわした。咄嗟に豊が言霊を投げつけると、その邑人には三人が親戚の子に見えた。
「こんなところでなにしてるんだい」
朗らかに声をかけるその邑人の横を、
「急いでるので」
と、豊は駆け抜けた。
「どうも、こんにちは」
「おじさん、元気してた」
入彦と御統も同様に駆け抜ける。あっけにとられる邑人に、御統は持ち前の奉仕精神から、宙返りを披露した。
「よけいなことしないで」
入彦に続いて物陰に飛び込んだ御統は、豊から小言を浴びせられた。邑人を錯覚させた豊の言霊の効果は一瞬だけで、余計で鮮明な記憶を残せば、邑人は妖魔に誑かされた自分に気づいてしまう。
二つ目の濠と、その向こうに城壁と板塀がある。山門大宮は五重の濠に囲まれた大邑だ。
三人は先ほどと同じ方法で、濠と城壁と板塀を超えた。
三つ目も同様だ。
だが四つ目、伴緒門で護られた貴人の郭に入ろうとして、三人は急停止した。危うく転びかけた御統が、
「なんで停まるのさ」
と、頬をふくらませた。
「真木が熟れない」
入彦は焦って青銅鏡を擦ってみたが、鏡の背面に鋳られた神獣は済ました顔をしている。幾度、呪言を唱えても、青い顔を出した真木の若芽は、いくらも伸びないうちに土へ引っ込んだ。
ちなみに、真木は、檜のことだ。入彦は、数ある樹木のなかで、ことさら檜を好んだ。かつて春日邑で穏やかに暮らしていたとき、春日族の神奈備山である春日山の奥に聳え立つ二本の檜に、父がしばしば祈りを捧げ、その神秘的な風景が入彦の心地に清かに画かれている。檜はまた、霊の木ともよばれる。
「無理もないわね、ここにはもう土の力がないもの」
豊は冷静に言った。
山門大宮は鵤丘に建てられ、頂の斑鳩宮を中心に、いびつな同心円の五層の郭が、麓に向けて順々に整えられている。一層、二層の郭は土がむき出しで、樹木が所々に自生してもいたが、三層の爻わり門内の郭は石畳が敷かれている。そこでは、上層の貴人と下層の庶人が爻わって、市をなしている。出店者の区画の明確化と、土ぼこりを嫌う貴人の都合とで、石畳が整備されている。土が露出しているところも多いが、檜を急激に生長させるほどの養分はない。
三層と四層を区切る濠はそう広くなく、その向こうの城壁も板塀もさほど高くはない。
「おれっちがひとっ飛び、やってやろうか」
ここまでさしたる活躍をしていない御統が、身の軽さを売り込んだが、
「呪壁に弾かれて、濠に落ちるのがおちね」
と、豊にあっさりと退けられた。
「じゃあ、どうするのさ」
拗ねを全身で表現する御統を黙殺して、豊は豊は黒衣の下から白布をとりだした。その白布は豊に言霊を吹き込まれ、自分を蝶だと信じている。羽ばたいて飛び立とうとするのを、豊につかまれて、もどかしそうに身悶えしている。
「美茉姫は、まだ斑鳩宮の中にいるみたいね」
豊はつぶやいた。白布の蝶は、美茉姫の居場所を突き止め次第、豊に報告するよう命じられていた。白布の蝶が飛び行こうとする先に、斑鳩宮の壮麗な高殿がある。
斑鳩宮の甍を照らす斜光が赤くなってきた。
「一気に飛び越えましよう」
豊は自分の履物に手を添え、言霊を注入した。
「汝、走るもの、跳ねるもの、耳長きもの」
唱え終わると、豊は跳ねだした。豊が跳ねているのではなく、二つの履物が跳ねている。
「さぁ、二人とも履物を出して。ぐずぐずしない」
叱られた御統と入彦は、慌てて履いていた沓を脱いで、豊に差し出した。二足の沓に言霊をかけると、たちまち跳ねだし、御統と入彦はあわてて抑えた。
豊が見本とばかりに飛び出すと、楽々と濠を飛び越えた。急いで沓を履き直した入彦も同じように飛び越えた。体の軽い御統は、沓を履く暇もなく、両手にもったまま、自分を野うさぎと信じる沓に引っ張られて、濠を超えた。
「どこかで如虎が待っているはずだけど」
城壁を越え、板塀を越え、山門に仕える役人達の邸の屋根を跳びはねつつ、豊は、虎の如しと言う勇ましい名をもらった臆病な黒豹を目で探した。如虎は、美茉姫の居場所を探るために斑鳩宮に潜入した豊の形代、札たちの指揮官に任じられていた。臆病だが、賢い如虎なら捕まるような下手はしないと信じながら、どこか不安でもあった豊は、美茉姫は当然ながら、黒毛の友達にも早く会いたかった。
豊は、御統に出会ってから、友達が増えた。といっても、御統は世話のやける弟のようだし、入彦は形式上は夫であるし、御茉姫はその入彦の正妻になる予定の人だ。純粋な意味での友達は、如虎なのかもしれなかった。
御陵での大葬に参列すべくごった返す人々の頭上を、三人が通ってゆく。人々は、悪霊が潜むかもしれない地面には注意を向けるが、空にはあまり意識を向けない。高天原という祖霊信仰上の天上世界を想像してはいるが、空を天として畏れる大真帝国的思想は、まだ庶民には普及していない。
豊、御統、入彦は、人々の意識の上方を飛び跳ねてゆく。
三人は、突然、見えない壁に弾かれた。豊の祓えでも解除できない結界があった。
そこは大宮の五番目の門、長鳴き門から巡らされた斑鳩宮の城壁と板塀だ。永楽長寿をもたらすと信じられている長鳴き鶏の彫刻が施されている。その長鳴き鶏に施された呪飾が強力で、豊の言霊の力でも歯が立たなかった。さすがに、山門主の宮居の結界は強固だった。
結界に弾かれたあと、豊と御統はうまく体を操って着地したが、入彦は濠に落ちた。その水音を聞いた門守が騒ぎ始めた。
まずい事態になった三人は、ずぶ濡れの入彦に左右から怨み言を投げつけつつ、逃げ出した。その影を追って、数人の門守が走った。
豊はどうすれば事態が好転するかを考えたが、難しかった。門守からは逃げきったとしても、斑鳩宮の結界が破れない。
美茉姫が斑鳩宮から出てくるのを待つという手もあった。今夜、山門主の大祭が挙行されることは三人も聞き及んでいたし、その話にあった神楽を舞う美しい巫女というのが美茉姫だろうと推量もしていた。だがこの騒ぎになった以上、美茉姫が長鳴き門から出てくるまで潜み続けるのは難しい。それよりも早く、三人が発見されるだろう。
呪能の高さに自惚れていた自分を反省していた豊の前に、白布が飛んだ。
白布の蝶だ。
豊の手の中でもじもじしている白布の蝶と同じようだが、少し違っているようにも思える。
その白布の蝶は、三人を誘導するように飛んだ。
「あんな札を作っていたかしら」
豊は疑問を抱いたが、今は危急なので、とりあえずその白布の蝶が幸運に導いてくれると信じて、その後を追った。ちなみに、言霊を吹き込み、様々な用途に使役する布やら木の葉やら小石やらを、豊はまとめて札と呼んでいる。
兎になったつもりの沓のおかげで、三人は速い。それでも、いつまでも逃げれば良いというわけではない。今は生み出した記憶のない白布の蝶を幸運の使いと信じるしかない。
御統は相変わらず沓を両手に持って、逆立ちの格好で逃げている。履いているゆとりがないからだが、その姿で遅れずついてくる御統を横目でみて、豊と入彦は、さすがは輪熊一座の軽業第一人者だと、感心するやら呆れるやらした。
前方に、不自然な叢があった。悪霊の棲処とならないよう、普通はきれいに刈られているものだ。白布の蝶は、その叢の上で浮遊した。
「なにかある」
そう感ずいた豊は、呪いの目で叢を凝視した。
そこに穴があることを知った豊は、迷うことなく飛び込んだ。入彦と御統は驚いたが、躊躇は一瞬だけで、すぐに二人も謎めいた黒穴に飛び込んだ。
そのすぐあとを、三人を見失った門守たちが、なにもないそこを走りすぎていった。
叢と黒穴は、呪能に乏しい者には見えないものだった。しばらくして、呪能がある者にも痕跡を感ずかれないほどに、叢と黒穴は完全に消失した。
その中は暗闇だった。
「汝、燃ゆるもの、焦がすもの、闇払うもの」
豊の手から、炎が立ち上った。炎のようなものであり、実際は、松明と勘違いしている木の枝だった。彼は、一生懸命に松明で、ほっほっと小さな掛け声を上げならが、暗闇を照らした。
「真っ直ぐにしか進めないようだ」
松明もどきの掛け声をうるさく思いながら、入彦は言った。
左右に手を伸ばすと、触れた何かには土の感触がない。獣の腹のような弾力のある柔らかさがあった。
「斑鳩宮の祝者たちの連絡通路かも」
豊は一応の推測をつけたが、自信はない。この黒穴がそうだったとして、そこへ三人を誘導した白布の蝶をだれが使役したのか。
「如虎が気を利かしたんじゃないの」
御統は気軽にそういうが、それはないと豊は思う。如虎には呪能がなく、獣の直感で何かを感じ取ったのだとしても、やはり如虎に預けた札のなかに、あの蝶を含めてはいなかった。
「ともかく、進もう。後ろには戻れないのだから」
入彦が前向きな提案をした。
黒穴は、地の底に降りていくような闇の濃さでありながら、唐突に外界へと繋がった。
いきなり光の戻った世界に転げ出た格好の三人は、そこが丁度、長鳴き門の裏側であることに気づかなかった。長鳴き門の内側にいた者から見れば、三人は、門から巡る板塀に突然現れた黒い染みから飛び出てきた、という光景になる。
三人は戸惑ったが、その三人を見た人々もまた、戸惑った。
「美茉姫だ」
まず御統が叫んだ。彼が差す指の先で、神秘的で、蠱惑的な御巫衣装の美茉姫が、立ち姿も超然として立っていた。紅青の顔料で隈取された顔が呪術的でありながら、どこか崇高な粧いだった。
そこは朱色の太柱が建てられた高殿の玄関で、美茉姫の周囲は、二十人ほどの護衛が取り巻いている。彼らの背後に、冷笑を浮かべた登美彦がいた。
丁度、大陵での大葬に出立するところだった。
入彦、御統、豊の三人は、三様の考えを脳裏に走らせた。
入彦は、美茉姫を取り戻し、必ず磯城に連れて帰る決意を新たにした。
御統は、広大な斑鳩宮を捜索せずにすんだので、幸運だと思った。
豊は、突発的な状況の中、二十人の護衛の中から、いかに美茉姫を奪い返し、いかにここから脱出するべきかを考えた。
美茉姫と三人との間には、広い白砂の庭がある。
護衛のうち半分が美茉姫の周囲を固め、あとの半分が矛を振りかざして狼藉者の排除にかかった。
彼らよりも早く、豊が呪言を躍らせた。
「地雷」
轟音が斑鳩宮を揺るがした。白砂が波立ち、護衛たちは平衡を失ってうろたえた。
地雷は轟音で大地を打ち据える雷霊だ。人を殺傷する威力はそれほどでもないが、混乱を生みだす。この場にいる誰をもひどく傷つけず、美茉姫を奪還するには格好の精霊だ。
入彦もうろたえていたから、豊はその尻を蹴飛ばした。それで豊の意図がようやく伝わった入彦は、一直線に美茉姫のもとへ走った。
残響と余震に騒然とする光景の中で、美茉姫は、不思議な静けさで直立していた。
そこにいるのは確かに美茉姫に違いないが、一歩近づく毎に、違和感が入彦の中で膨らんだ。
美茉姫の表情が失われている。
若く清らかな肌を惜しげもなく露わにした魅惑的な装いでありながら、日の光のように温かい彼女の笑顔がない。
まるで目を開けたまま深く眠っているかのように、意識をこの場に留めていない。彼女の瞳に、走ってくる入彦は映っていなかった。
それでも入彦は、美茉姫を抱き上げようとした。登美彦は冷笑を浮かべたまま、その様子を見ていた。
入彦は驚いだ。華奢な美茉姫の体を抱き上げることができない。呪われているのか、美茉姫の体は銅で鋳あげた像のように重かった。
それならと、入彦は美茉姫の手を取って引いたが、そこから生えてでもいるかのように美茉姫は動かなかった。
足をもつれさせて尻もちをついた入彦に、平静を取り戻した二人の護衛が矛を突きつけた。
何かが二つ飛来し、矛を突きつけた二人の護衛は、おもわずそれぞれにそれを受け止めた。途端に、二人の護衛は飛び跳ねた。兎と信じ切っている御統の沓を投げつけられたのだ。
再び小さく生じた混乱に乗じて、御統は入彦の襟首を掴み、護衛たちの輪からひっぱり出した。
「次は少々手負いが出るわよ」
豊が頭上に右手を掲げると、その手に向かって霊的な熱量が集まり、小さな閃光がほとばしった。
裂雷を招来するつもりだ。大樹を焼き裂く雷の精霊である。
豊が呪言を奏でる声は魅惑的だ。虚空に漂う数多の精霊は、豊の声に引き寄せられる。
豊の頭上に雷雲が湧くのを見て、次の展開が予想できた護衛たちは、また狼狽え、右往左往した。
高みの見物を気取っていた登美彦の冷笑が破れ、一転して険しい面貌が現れた。両手で大きく宙を掻き、大音声の呪言で大気を揺るがした。
大地が咆哮したように思われた。実際に、斑鳩宮を載せた大地は鳴動した。呪言を唱える登美彦が、両腕で大気を掻き起すように振り上げると、その動作にあわせて、大地が隆起した。
起き上がった大地は魔物の顔のようになり、大口を開けて、豊、入彦、御統の三人をあっという間に飲み込んだ。
大地の隆起が鎮まると、静けさが降りた。斑鳩宮の白砂は、御巫の出立に相応しい厳かな夕景色に戻った。それまで祭壇の形代のように不動だった美茉姫の頬が仄かな動きを見せた。その隠微な兆しが不測の事態を呼び寄せないよう、
「進めっ」
と、登美彦は一行に命じた。
何事もなかったように、大葬に向かう御巫の一行が白砂を踏んで進んでゆく。
もちろん、大地の大口に飲み込まれた三人がこの世から消え去ったわけではない。
御統、入彦、豊の三人は、再び闇の中を堕ちた。今度は本当に地の底まで落ちてゆくような感覚があった。
闇に溶け込んだ豊の黒衣が木菟のように羽ばたき、豊は御統と入彦を掴まえて、落下の速度を鈍らせた。露になった豊の白い肌が、光輝しているように御統には思えた。
いくらかすると、豊の履物が堅いものに触れた。地の底にあるという根の堅洲に降り立ったような重苦しい闇があった。
「洞穴のようね」
何も見えないが、豊は見当づけた。少なくとも、根の堅洲のような地中の神霊世界ではなさそうだった。漂う空気に、現世の匂いがある。
豊の言霊で灯りが生まれた。例の騒がしい松明だ。豊はそれを入彦に持たせた。
「私が先頭なのか」
「あたりまえでしょ。乙女に先をゆかせるつもりなの」
おずおずと進む入彦を急かしながら豊が続き、御統が最後だった。
入彦が持たされた小枝の松明は、豊の言霊により松明だと信じ込まされているだけだから、実際に燃えているわけではなく、そのためいくら時間が経っても消えることはない。
松明がわずかに切り開いていく暗闇をどれだけ進んだか。実際はそれほどの時は経っていなくとも、永遠の歩行を続けているような不安に苛まれる。やはり、根の堅洲にまで落ちたのではないか、とも思えてくる。
松明の小気味好い掛け声も耐え難くなってきた。重苦しい空気に飽きた御統が口笛を吹き始めた。
「やめなさいよ。物怪が集まってきたらどうするの」
豊がそういったからではないだろうが、前方の闇の底で、なにかがうごめく音がした。
「よく見えないわね」
焦れったくなった豊は、黒衣のポケットから枯れ葉一枚を取りだし、両手でくしゃくしゃにして細かくしてから、
「汝ら夜を照らすもの、尻灯すもの」
と言霊をかけた。すると、豊の手の中から、無数の蛍もどきが飛び立った。蛍もどきは、その飛び方はぎこちなかったが、その灯りは蛍よりも明るかった。
重苦しい闇がいたるところで黄色い光に払われたが、できればあまり遭遇したくなかったものが浮かび上がった。
そこは、かなり広い空間であるようだった。それは良いとしても、そこに、巨大な人型が無数にうごめいていた。
それは三兵、つまり矛や剣、弓矢を手に手に持った埴土の人型だった。登美彦が生み出した土の兵士だ。
蛍もどきは、さらに見たくもないものを三人に見せつけた。
無数の遺体である。土の兵士には、手にした剣に遺体を突き刺したままのものもあった。
遺体が身に着けている衣服には、諸族の特徴があった。入彦は、凄惨なこの光景が意味するものに想到して身震いした。
登美彦が山門の権力を手中に収める過程で、それに異議を唱え、妨げようとし、真実を暴き出そうとした者が諸族にいたということだ。彼らにはその族の氏上から命じられて、秘密裏に行動していた者もあるだろう。様態はどのようであったにせよ、彼らは、登美彦の真相を暴き出す前に、登美彦の生み出した土の兵士によって葬られた。実はその陰湿な作業は、饒速日の時代から行われていたが、そこまでは入彦も思い至らなかった。
「逃げたほうがよさそうだ」
入彦は進行方向とは逆を向いた。抗っても無駄らしいことは、無数の遺体が教えてくれている。
「どこへ逃げるというの」
向き合った豊の瞳がそう問いかけている。
そのとき、入彦の注意を引くように、御統が二三度、足元を踏み鳴らした。
「あんちゃん、ここの地面は土だよ。壁もそうだし、どこにあるか分からないけど、きっと天井もそうだ。それに」
と、御統は指先で蠢く土の兵士を差した。
「あの木偶の坊たちも、土でできてるようだよ」
御統に教えられて、入彦の脳裏がぱっと明るくなった。腰に提げている青銅鏡を手に取った。土があれば、鏡に映しとった大物主の幸魂の霊力を存分に活かすことができる。
青銅鏡を握りしめる手に力がみなぎった。
「よしっ」
入彦は自分を奮い立てた。
「五百枝霊揺生い茂れ、五百花霊揺、咲き乱れ」
光彩が瞬く間に広がった。豊が生んだ蛍もどきのわずかな灯りのほかは漆黒であるはずなのに、まるでそれ自体が輝いているような鮮やかさで、百花と百木の彩りが地の底の空間を満たした。
高木低木が茂り、根が走り、草棘が萌え、蔦が垂れ下がり、大輪が開いた。土の兵士の体にも花が咲き、木が生えた。彼らは不思議そうに首を傾げ、花木の根が体を裂くまま、土塊にもどっていった。体が崩れていくとき、彼らはまるで呪いから解き放たれたような安らぎの表情を浮かべていた。
入彦は言霊を紡ぎ続ける。
入彦、豊、御統の三人は、力強く伸び続ける木の根に乗って、勢いよく地の底を進んだ。
すると突然、三人は何かを突き破った。同時に、木の根から放り出されて、転がった。
どうやら三人は土の壁のようなものを突き抜け、また別の空間に放り出されたようだった。
そこは、何か圧迫されるような重苦しく禍々しい空気が支配していた。濃厚の呪力が充満した空間だった。その呪力を恐れたのか、入彦たちを運んできた木の根は入ってこようとせず、大穴の開けた壁の向こうからおそるおそる根の先を覗かせるだけだった。
壁は土だが、石畳が敷かれている。そういった場所では、大物主の幸魂の力は半減する。
視界はたちまち暗闇に戻ったが、青白い光が、暗闇よりも不気味に灯っている。
青白い光は一定の間隔をあけて放射状に整然と並んでおり、その中心に、巨大な祭壇があった。
石畳を微かに震わせる鳴動が、どうやらその祭壇から放たれているらしかった。
「さしずめ、根の堅洲の幽宮だな」
青白い光の不気味さに怖気をふるいつつ、入彦が言った。
青白い光の一つに歩み寄った豊が悲鳴をあげた。
「祝者かな。まだ生きてはいるようだけど」
おののく豊の背中を支えながら、入彦は青白い光の下に横たわる姿を見た。祝者の衣を身につけているが、生気は枯れ、屍のようであった。
全ての青白い光の下に生死不明の人が横たわっているとしたら、その数は百を超えそうだった。
「だれか、いるよ」
御統が祭壇を指さした。
祭壇にまとわりついていた暗闇が、人型に剥がれたように見えた。確かに、誰かいる。
三人は用心しつつ、祭壇に近づいた。
祭壇の頂上付近は青白い光に照らされていないので、豊は、彼女の蛍もどきを祭壇の頂上付近に集めた。黄色い灯りの下に、恐ろしいものが見えた。
祭壇の頂上に八脚台の神籬のようなものが据えられており、そこに誰かが座っている。ただし、首はなく、飾り立てた衣装に、黒くなった血の跡がある。
御統が指さした誰かは、その首なしの人ではなく、祭壇を登る階にいる人影だった。
そのとき、祭壇の上方に火球が出現し、そこから火弾が三つ放たれ、入彦たちを襲った。だがそれは挨拶程度であったらしく、三人は難なく火弾を避けた。
火球が祭壇の周辺を明るく照らした。その炎の塊を生んだのが、階にいた人物であることは明らかで、火球はその人物も明々と浮かび上がらせた。
「あなたはっ」
豊はその人物を知っている。
誓約の鏡猟で、登美族の斎主を務めていたのが、その人物だ。名を夜姫。火産霊の霊力の使い手で、すさまじい威力の火矢を駆使する。その霊力の恐ろしさは焦がされた肌が覚えている。
夜姫との因縁はそれだけではない。鏡猟挙行の要因となった神祝ぎの馬合わせで、会場の外から密かに入彦を呪術で狙撃しようとした者がいた。その狙撃手と、豊は誰にも気づかれない呪術の攻防をおこなったが、その狙撃主こそ夜姫だった。鏡猟で相まみえたとき、彼女の放つ霊力の波長で、そうだと確信していた。
豊のことは、夜姫も認識していた。豊にだけ語りかける口調で、
「登美の夜姫である。この霊廟を汚す者には重い罰を下さねばならぬ」
と、審判を下す者の厳かな顔で宣告した。
「べつに俺っちは汚してなんかいないぞ」
と、御統はとぼけた声で応じた。いるだけでそこいらが汚れそうな風体をしているにも関わらず、だ。
「ここでどのような邪を企てているのかはしらん。だが、この人たちを今すぐに解放しろ」
入彦は怒りを指先に込めて突きつけた。
「それは無理だ。その者共は、霊廟に繋がることで辛うじて息をしている。殺してしまっては呪力を吸い取れんからな。解放すれば、即座に死ぬぞ」
夜姫は使い捨ての道具を見るような目でそう言った。
「それでもだっ」
入彦は美豆良に編んだ髪が棘になるほどの怒りを見せた。哀れな姿となった祝者の中には見知った顔もある。彼らは解放による終焉を願っていた。
「死にかけのやつよりも、まずはまだ生きている自分の身を案ずるべきだな」
「その必要はない。この人たちを解き放ったら、さっさと美茉姫のところへいく」
「難しいな。どうやって成し遂げるつもりだ」
「決まってるだろう、汝をとっちめてだっ」
入彦は青銅鏡を強く握りしめた。人の命と尊厳を踏みにじる者への怒りが、この空間を支配している禍々しさを凌駕した。
土壁に空いた大穴から恐る恐る覗いていた木の根が、主である入彦の勇気をもらって勢いよく入ってきた。石畳の隙間からも若芽が萌え出す。夜姫は、入彦の怒りを瞳の奥で受け止めるような目をした。
豊が、入彦の前に立った。
「あなたの術は夜姫とは相性が悪いわ。ここはわたしに任せて」
入彦が駆使する鏡の力が生長させる植物は、夜姫の火産霊に焼き尽くされてしまう。
「気を付けろ、豊。夜姫は山門の祝主だ。呪いの力はとてつもないぞ」
入彦は豊に忠告した。祝主は祝者や巫女の長で、当然ながら秀抜なる呪能を備えている。
「いつぞやは楽しませてもらったな、言霊使い。続きを楽しむといたそうか」
夜姫の頭上の火球が勢いを増した。戦闘態勢に入ったというわけだ。
「あなたの遊びに興味はないし、こんなところにも用はないの。そこを退いて、美茉姫のところへゆかせてくれたら手間が省けるんだけど、どうかしら」
豊は、一応提案してみた。呪力を練り上げる時を稼いだともいえる。なにしろここの空気は重く、精神まで圧迫される。
「あの娘は登美彦様の雄図に必要な一片。何人も、登美彦様の邪魔は許さぬ」
どうしても、夜姫は人を部品として捉える思考だ。それは自分自身が登美彦の一部品と信じているからだが、豊は生理的にその考えに嫌悪を感じる。
二人の呪力が同時に放たれ、火矢と落雷が激突した。
夜姫は火霊を、豊は雷霊を使役する呪能に秀でている。だが単純な呪力は豊が勝った。
炎と雷が激しく散ったあと、間髪をいれず豊の呪言が次の雷霊を招来した。
裂雷が、夜姫の火球を強打し、引き裂いた。
眦を裂いた夜姫が怒声と共に呪言を吐き出すと、火柱が立った。しかし吹き上げた炎は豊を焼くことなく、空虚だけを焼いた。
豊は宙を舞っている。黒衣を木菟のように羽ばたかせ、火柱のはるか上空を飛んだ。豊は夜姫の頭上に、細い木の枝を何本も投下した。
それはただの枯れ枝であったが、
「汝ら、忌矢、猟箭」
の言霊を受けると、たちまち鋭利な矢となって夜姫に降り注いだ。
間一髪飛びのいたが、夜姫は体勢を崩し、呪言を途切れさせた。その間、豊は呪力を練り上げる。
「大雷っ」
轟音と共に、落雷が夜姫を打った。寸前、夜姫は解除を放ったが十分ではなかった。
直撃を受けた夜姫の髪は逆立ち、衣服は破れ、身体に多くの火傷を負ったが、致命傷は免れた。とはいえ、体内も焼かれた夜姫は、白煙を吐きながら、しかし気は失わずに、祭壇の階をよろめき登った。
首無しを載せた八脚台の後に箱がある。そこに手を置いた夜姫が呪言を唱えると、彼女の体が赤黒く輝いた。瞬く間に火傷が治癒し、代わりに禍々しい霊気が夜姫の全身から瘴毒のように立ち昇った。
「なんか、やばいっぽいよ」
御統がおののくと、祭壇の背後から巨大なものが飛来した。
地底の空間を揺るがして着地したその巨大なものは、けたたましい咆哮をあげた。それは草花の賑わいとともに土に帰った先ほどの土の兵士とは比較にならないほどの巨躯と、見るだに堅固な身体を持った焼き土の巨人だった。
その巨人の創造主は登美彦だ。祭壇の守護者として配置していたのだ。土を堅く焼き上げ、それを積み上げた巨大な兵士だ。夜姫の呪力では起動できず、彼女は祭壇の箱に納められた剋軸香果実の霊力で不足を補ったのだ。
巨人は拳を振り上げ、打ち下ろした。豊は飛んで避けたが、巨人の拳が地底を打ち据えた衝撃で、祭壇に繋がれた哀れな祝者や巫女の何人かが吹き飛んだ。
「なんてことするのよっ」
豊は大雷を招来して巨人を撃ったが、いかほどの損害も与えられなかった。
土ならば自分の出番とばかりに、入彦は青銅鏡をかざして呪言を唱えたが、巨人の強固な身体は植物の種子の生長を封じ込めた。
焼き土の巨人がもう一体、祭壇の背後から現れたときには、三人は驚愕のあまり呆然とした。
最初に自分を取り戻したのは御統だ。
「とにかく逃げ回れ。あの拳骨で潰されたくないだろ」
幸い、巨人の動きはあまり俊敏ではない。逃げることは可能だが、いつまで逃げればらちがあくのか、それが分からないのが辛かった。
焦った豊は、御統の忠告を守らなかった。
攻撃に転じようとした。ところが、彼女が招来した雷霊も火霊も風霊も、巨人にはまったく効かなかった。
それどころか、豊は二体の巨人に挟まれ、迫られて逃げ場を失った。
干物のようにぺらっぺらになった豊を想像して、御統は青くなった。入彦は一体の巨人の足に組ついたが、動きを止めることはできなかった。
豊めがけて岩石のような四本の腕が振り上げられたとき、祭壇の頂で巨人を操作していた夜姫に向かって影が走った。
影は夜姫に飛び付くと、果実が納められた箱から彼女を引き話した。夜姫は影と絡んで、祭壇からもんどり落ちた。
「如虎っ」
動きを止めた巨人の股の間から助け出された豊が歓喜の声をあげた。
夜姫に襲いかかって豊を救ったのは、斑鳩宮に潜入していた如虎だった。
如虎は豊に走り寄って、彼女に抱き締められた。
夜姫はまだ立ち上がれていない。巨人は動きを止めたままだ。
「御統、いまだっ。白銅鏡を使えっ」
入彦が叫んだ。
「おっちゃんを呼ぶのか。どうして」
御統はどこか緊張感がない。
「いまのうちに、あの忌々しい台を壊すんだよ」
御統ののんびり具合が、入彦に大声を出させた。ようやく合点がいった御統は、白銅鏡をかざして、
「おっちゃん、鍛冶と時間だ」
そう叫ぶ御統の声に反応して、白銅鏡の鏡面から黄金色の光が溢れ出た。
奔流する黄金色の光子は、たちまち、巨大な焼き土の兵士を踏みつけにできるほどの極大な姿となった。
ここの天井が高くてよかった、と見当違いの安心をした御統は、
「おっちゃん、あの気味の悪い台をぶっ壊しておくれよ」
と、金槌を担いだ一つ目の魁夷な零体に指示を飛ばした。
天目一箇神は鍛冶を司る天高原の天津神だ。鏡に封じられているとはいえ、それは自らの意思でそうしたのであり、小汚い風体の俳優童子風情の指示に従わなければならない理由はない。
天目一箇神は物憂げに大きな一つ目を半眼にし、億劫げに首を回した。
だが、すぐに異様な霊気を感受した天目一箇神は、祭壇に向けた大目をぎょろりと見開いた。
「おお、こんなところに、あんなものがあっちゃいかんな」
地下世界ごと震わせるような声で人間たちを身震いさせた天目一箇神が、大きく金槌を振り上げた。やっぱり天井が高くてよかった、と御統は思った。
放心状態で天目一箇神を見上げていた夜姫は、我に返るや、狂ったように呪言を吐き散らした。何十という火矢で天目一箇神を撃ったが、隆々とした筋骨には傷一つ付かなかった。
天目一箇神が金槌を振り下ろした。祭壇は粉々に砕け散るかと思えたが、薄く光る障壁が発動して金槌の一撃を受け止めた。地下世界が崩壊するほどの衝撃で、豊、入彦、御統は床を二回三回と転がった。
焼き土の兵士は粉微塵に砕け散ったが、祭壇はその姿を留めていた。障壁の中にいる夜姫は、八脚台にしがみついて衝撃に耐えていた。
「むうっ、小癪なことよ」
天目一箇神はもう一度、金槌で障壁を打擲した。渾身の一撃を受けた障壁は、今度は硝子片のように飛び散った。が、祭壇そのものは傷ついていない。
天目一箇神の打擲に怒り狂ったのか、祭壇が赤黒い光を放った。光源は、果実が納められた箱だ。赤黒い光はますます激しくなり、瘴毒が充満し、地下空間全体が鳴動し始めた。
「ううむ、これはいかんわい」
天目一箇神は大目玉をぎょろつかせて、顎を撫でた。
「なにがいけないのさ」
御統がおそるおそる尋ねた。
「どうやら、予が打ち壊したのは、剋軸香果実を封じ込めていた結界であったらしい」
「つまり、どうゆうことさ」
「長い間封じ込められていた果実の霊力が爆発的に放出されるとゆうことだ」
些細なことだ、と言いたげな天目一箇神は頼もしかったが、一抹の不安があった。
「でも、大丈夫ってことだよね」
「うむ、予はな。汝らは糞のように捻りつぶされるであろう」
恐ろしいことを天目一箇神は言ってのけた。事もなさげな言いぶりに、しばらくその言葉をやり過ごした御統たち三人は、しかしその意味を理解するや大騒ぎを始めた。
「やれ、煩きことよ」
天目一箇神は面倒くさげに顔をしかめたが、それでも御統たちを護ってやる気はあり、三人を巨大な手で包んだ。
「痛いっ」
「狭いっ」
「へんなとこ触らないでっ」
手の中の三人は誠に騒がしかったが、天目一箇神は無視することにした。
巨大な一つ目を祭壇に向けると、赤黒い光は危険な色合いを増し、夜姫が懸命に果実の暴発を防ごうとしているのが見えた。
人の身であれの暴発を防ぐことはできまい、と夜姫の結末を予見し、それを哀れに思いつつ、金槌を振り上げて、天井に大穴を開けた。
大穴の向こうに星影が見えた。その星がどんどん近づいてくる。三人を手の中に包んだまま、天目一箇神が飛翔したのだ。
地表を突き抜けたとき、そこは山門大宮の外縁部だったが、そこで生活しているはずの人々は皆、大陵での大祭に参列していたため無人であり、突然、大穴が開き、極大の霊体が飛び出したとしても、驚いたり、怪我をしたりする者はいなかった。
斑鳩宮にだけ篝火の灯りがある大宮を上空から見下ろしたとき、突然、大宮の建つ丘が膨らんだような気がした。
それは錯覚ではなく、果実の暴発により霊力が地下空間に充満し、地表を突き上げたのだ。大宮の数カ所からは赤黒い光が噴き出し、その衝撃で崩れ落ちた斑鳩宮の高殿もある。
そのまま大宮全体が陥没するかと思われたが、その崩壊を、夜姫が全霊を捧げて防ぎ止めた。
暴発寸前の果実が納められた箱を両手で掴み、夜姫は全ての呪力を振り絞って制御を試みた。
呪力は生命力でもある。使い果たせば、命も尽きる。
夜姫は、命が尽きるまで呪力を振り絞っても、果実の暴発を防ぐことはできないことを知っていた。しかし、それでも彼女は逃げ出すことをしなかった。
夜姫の脳裏に、磯城の風景が広がった。そこを楽しげに駆け回る四人の子どもがいる。
夜姫は、自分に向かって啖呵をきった入彦の姿を思った。
「ほんと、大日兄様にそっくりなこと」
そこまで呟いたとき、夜姫の視界にどうしようもない赤黒い光の奔流が映り、心理の風景が散華して、彼女の思考は無になった。
山門大宮の崩壊は免れたが、人の目には見えない霊気の衝撃波が宙空の天目一箇神を襲った。爆風のような衝撃波にあおられ、霊力の均衡を崩した天目一箇神は、失速し、きりもみながら落下した。
驚いたのは、大陵での先代山門主の葬礼と次代山門主の継承の祭典に参列していた群衆たちだ。
山門主饒速日の柩と饒速日の名を襲名する真手とが大陵後部の円墳に穿たれた玄室に入り、大陵前部の方形の祭壇では艶麗な出で立ちの美茉姫が神秘的な神楽を舞って、天神地祇、祖霊、群衆を愉しませていたときである。
突如として大地が鳴動し、月明かりの下の山門大宮が大揺れに揺れるのが見えた。かと思う間もなく、夜空から黄金色の光を放つ極大の霊体が落下してきたのだ。落ち着いて神楽や飲食の愉しみを続けるような肝の据わった人間は、庶民にも、貴人にもいなかった。
霊体とはいえ天津神だ。現世に影響を与えるほどの強い霊気の塊だから、その巨体が落下すれば、その轟音たるや群衆を飛び上がらせるに十分だった。
天目一箇神は、大陵の後円墳と前方墳をつなぐ墓道の辺りに落ちた。
起き上がってあぐらをかき、やれやれと頭をさする様子には愛嬌があったが、群衆の目には災厄そのものの姿として映った。
天神地祇は祟るものだ。
群衆は天津神の異様な出現を、高天原の怒りとみた。高天原から豊葦瑞穂原たる山門の大地を委ねられた山門主饒速日の継承儀礼を、前例のない大祭として催したことに、高天原も祖霊も赫怒しているのだ。その大祭に参列した以上、祟りは己の身にも降りかかってくる。そう恐怖した群衆は、瞬く間に、暴徒と化したような制御不能の混乱に陥った。
天目一箇神を、鏡猟の際に目撃した者もいる。
「あの金槌に打たれたら、根の堅洲まで埋め込まれるのだぞ」
という妄言が混乱に拍車をかけた。
大混乱の中で、群衆のいう高天原の怒りよりも激しい怒りに打ち震えている者がいる。
登美彦だ。
天目一箇神の出現により、山門主饒速日の地位を真手へ承継させる儀式が中断されただけでなく、登美彦が企図したことの全てが高天原に否定されたことになった。改めてもう一度、大祭を催すことは不可能だ。
混乱が落ち着けば、諸族の大夫たちは従来の方法での山門主継承を強く求めるだろう。継承者となるのは真手ではありえない。高天原の怒りを買った責任者として、登美彦が山門の権力を握り続けることもあり得なくなった。
全てが崩壊したのだ。兄を裏切り、妹を犠牲にし、自分をも妖実の虜として築き上げてきた一代の事業が、このとき、潰えたのだ。
登美彦は、ひびが入り、崩れ始めた大陵の前方墳になおも立ち、天目一箇神を睨み付けた。天目一箇神の手から三つの人影が飛び出し、美茉姫をさらったことも、もう眼中にはない。彼女の奪還を阻止したところで、どうにもならない。
怒りに失望と絶望が加わって、登美彦の身体がほとばしる呪力で膨らんだ。頭髪が逆立ち、まなじりが裂け、衣服が破れた。
獣の咆吼のような呪言が混乱の騒ぎを引き裂くと、半壊の大陵が蠢きだした。
大陵の建造は先代饒速日がまだ自我を保っていたころから着手されていたが、登美彦は密かに呪力を封じた鏡を数十枚も埋め込み、強大な呪詛を仕込んでいた。登美彦の呪言を受けて発動し、膨大な質量の土人形として機動する呪術だ。
それは、大地が起き上がる様に似ていた。天目一箇神すらはるかに凌駕する圧倒的な質量だ。山が動いた、という次元である。月も星も隠された。
混乱していた群衆は、そこに留まれば死を免れないという認識で一致し、我先に逃げ出した。
天目一箇神は、久しぶりに己より大きなものを見上げて、心地よさげに目を細めた。
「やれやれ、非永というものの執念も、なかなか馬鹿にできぬものよなぁ」
天津神の霊力をもってすれば、山岳のごとき大巨人すら破砕することはできる。だが、天目一箇神は、これを生み出した登美彦という術者を褒めてやりたくなった。
「童男よ、予はここまでにする。あとは汝らの好きなようにいたせ」
天目一箇神はそう告げると、御統が引き留める間もなく、光の粒子となり、拡散して、消えた。
「どうしろっていうんだ」
入彦が怒鳴った。天津神の独尊は御統の責ではないが、入彦としては天目一箇神の持ち主に食ってかかるしかない。
「決まってるだろ」
山岳のごとき大巨人は歩きだそうとしている。空から土石流が落ちてくるようなものだ。
御統、入彦、豊は一目散に逃げ出した。
入彦は逃走にまごついた。美茉姫を抱いているからだ。彼女は入彦に救い出されてからも、どこか陶然として意識を遠くに飛ばしている。
大巨人に踏みつけられては、御統の一生をかけても、入彦と美茉姫を掘り起こすのは無理だ。御統が二人の逃走を手助けしたとしても、埋もれる人間が三人になるだけだ。
こんなときにこそ、駆けつけてくれる友達が、御統にはいる。
「翠雨っ」
馬影が視界に映ると、御統は全身で歓喜を表現した。
御統の相棒の愛馬だ。ずっと友達で、輪熊座での軽業も、馬合せの矢合戦も共にやってきた。磯城から大宮の近くまでは一緒だったが、斑鳩宮への侵入にあたって、郊外で待機させていた。
御統は翠雨の背に飛び乗った。すかさず美茉姫を引き上げ、後ろに乗せた。
「それじゃお先に」
翠雨の馬脚は、あっというまに御統と美茉姫を遠くに運んでいった。
豊は黒衣を羽ばたかせて、離脱した。
自分の足に頼るしかない入彦は、泣き言を撒き散らしながら、懸命に走った。
しかしこの時点では、入彦はそこまで必死になる必要はなかったかもしれない。なぜなら、崩壊した祭壇のわずかな一片の高みに立ち、逃げ惑う群衆を睥睨していた登美彦は、怒り狂いながらも、冷静さを心の一隅に残していた。
操り人形の真手を山門主に据え、自らは真の支配者として、山門だけでなく山背などの周辺地域をも手中に収め、出雲族や高志族、筑紫の奴族や伊都族も手出しができぬような大勢力圏を築き上げる計画が瓦解したことをすみやかに認めると、登美彦は次善の計画に移った。
次善の計画のためには、今は群衆に恐怖を植え付けることが肝要だった。
もともと、大巨人を起動させた呪詛には、長期間継続するほどの呪力は注入されていない。
しかし群衆は、庶民も、貴人も、諸族の大夫も、山門に生きる全ての人間が、登美彦を、地中の霊力を自在に操る大呪術者であると、恐怖の記憶と共に心理に刻み込むだろう。
根の国、という地中深くを指す言葉は、死者の世界を連想させる。
その根の国の王として豊葦瑞穂原全土を支配することこそ、登美彦の次善の計画であった。
入彦、御統、豊の三人は、美茉姫を奪還した。
登美彦によって恐怖を植え付けられた山門は、次なる混乱に突入していく。




