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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(26)-磐余の戦い(3)

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の嫡男、春日族の入彦に出会う。


 山門やまとでは神祝(かみほ) ぎの馳射はやあて誓約うけひの鏡猟が催され、御統と豊は、持ち前の無謀さと呪能とで、春日族の勝利と混乱を招く。このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。


 かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを、斑鳩族の饒速日にぎはやひに手渡していた。安彦は果実の魔力に取り憑かれる。


 山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。


 登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、自分が磯城族の氏上の血を引いていることを知り、指導者として成長していく。


 大日は昔日を回想し、饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。安彦は山門を取り戻すため、妹を凌辱した饒速日に復讐するため、そして果実の魔力を得るため、登美族を手中とし、計画をすすめてゆく。


 筑紫の日向ひむかの五瀬は、豊葦瑞穂原とよあしのみずほのはらを目指し、天津彦あまつひこを名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場まほろばを目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。


 天津彦五瀬を失った天孫族を狭野姫が鼓舞し、彼女は天津彦の名を継いで新たに豊葦瑞穂原を目指す。室の地に上陸した狭野姫は、名草族の宝剣、韴霊剣ふつのみたまのつるぎの力を得て、室の人々を苦しめていた丹敷族を平定し、室を熊野と名付ける。


 狭野姫は再び山門の地に踏み入るが、大日が率いる磯城族は磐余の地に強固な砦を築いて頑強に抵抗する。狭野姫の奇襲も実らず、天孫族は再び大日の前に敗退するかに思えたその時、狭野姫が放った矢が大日の胸に吸い込まれた。昏睡した大日は、山門の天地のみが記憶する五百箇いおつの物語を、夢に見る。



 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子ひこと呼ばぬ者には容赦ない。


 五瀬いつせ

 狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。


 手研たぎし

 五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。


 珍彦うずひこ

 元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。


 夜明け前の大地にひとすじの旭光が射すと、息を吹き返した色彩がさざめいた。


 この朝は、不思議なことに、磐余砦に鳥が集まっていた。


 その鳥たちが、朝の日射しを浴びると、一斉に飛び立った。まるで、何かを空の向こうにあるという高天原に連れていくように、鳥たちは空の青さへ去っていった。


 ここ数日、戦いの太鼓も鐘も鳴っていない。磯城族(しきぞく)氏上(このかみ)大日(おおひ)が矢を胸に受けて昏睡し、天孫族は戦いで受けた損害が大きかった。


 人が静まっているなかで、季節の景色だけが人の目に映らぬ忙しさで移ろっていた。


 父が目覚めたという知らせをうけた入彦は、父が安臥(あんが)する建物へ急いだ。


 伯父である大彦と交代で父の看病に当たっていたのだが、自分の兵舎に戻って、寝つけない床についてすぐのことだった。


 同じ舎にいた御統と豊は、大日が目覚めたと聞いて喜んだが、入彦は不吉を感じていた。


 砦内は静まりかえっている。高床の建物にあがる(きざはし)を登る音が、入彦の不安をかき立てながら虚空に消えていく。


 大日の房の前で、大彦が待っていた。伯父の顔色を見た途端、入彦の予感は確信になった。


「父の話を、しっかりと聞いておけ」


 常にはない弱々しさで、大彦は甥の肩に手を置いた。


「父は、いつかむあがられましょうや」


 入彦の声が震えた。感情を閉じ込めるのは得意のはずだったが、込み上げてくるものを抑えきることができなかった。


いまし次第だな」


 大日は、入彦に何かを伝えるために現世うつしよに戻ってきた。大彦の目にはそう映った。入彦の物わかりが良ければ、大日はすぐにでも逝くべきところへゆくだろう。弟を楽にしてやってくれ、と大彦は伝えたつもりだ。


 房に入ると、清涼な空気に触れた。


 父がいる。床に半身を起こして、入彦に微笑みかけている。爽達の風が父から吹いてくる。


 手を伸ばせば、偉大な父の背に触れられる近さにいるはずなのに、まるで高原から遥かな地平を見はるかすような遠さと清々しさを感じた。室内に風が吹くはずもないが、爽やかな風の甘さを嗅いだ。


 自分の生命が悔いもなく終わることを悟った大日の達観が入彦に見せた幻想だ。


 大日の房は、既に霊界だった。


「こっちへおいで」


 父に手招きされた入彦は、また幻想をみた。


 深い森。木々の梢が輝いている。父は天を衝くような二本の檜の巨木のそばで、拍手を打っている。春日族の氏上だった父がまだ春日邑にいたころの光景だ。春日山の森に祈りを捧げることの多かった父は、二本の檜の巨木を御真木みまきと尊称して崇めていた。その祈りの場所へ、しばしば父は子を連れた。


 入彦は大日の側に座った。父は微笑み、子も微笑んだ。麗らかな日の記憶を、父と子は共有している。


「あの梢は、今でも空を支えているのだろうか」


「支えておりましょう。二本の檜とその間にお立ちになった父上の姿は、これからの私をも支えつづけてくれるでしょう」


「そうであれば、(われ)は嬉しい」


 大日は笑ったが、涙は溢れた。父がもう逝くことを受け入れた入彦の、幼かったはずの頬にも光のすじが流れている。


「三輪山に坐す御霊みたまが招いている。吾は逝かねばならん」


 一族の長は、やがて一族を守護する祖霊と一体になる。神上がるともかむあがるともいい、それが氏上の死だ。


 入彦は瞼を閉じた。涙があふれた。心では理解しているが、瞼で、これから訪れる現実を拒否しようとした。それが虚しい抵抗であることは、入彦も承知のことだ。


「だが、しばらく待ってもらうことにしたよ。夢のなかで、爺さまと話をつけてきた。どうしてもやっておかねばならないことがあるからね」


 爺さま、というのは、祖父の太瓊ふとにのことだ。昏睡中の夢で全てを知った大日は、偉大なる祖父のことを思い出していた。優れた呪能を備えた祖父の太瓊は、崩ると三輪山の祖霊と一体になり、磯城の守護神、大物主となった。まさに神上がったのである。その立場を継ぐべき子の国牽くにくる饒速日にぎはやひの呪いを弱めるため身を犠牲にし、孫の大日は、霊力を十分に高めるまえに、天孫族との戦いで命を落とそうとしている。夢の中で子孫の惰弱を嘆いた後、太瓊は、それでもまだ祖霊と一体になれないと主張する孫の我が儘を許した。太瓊は、ある俳優わざおぎの一団では、靫翁うつぼのおきなとも呼ばれている。


「やり残したこととは、なんでございますか」


 入彦は瞼を開いた。わずかの間に、父子に訪れる事実を受け入れる覚悟を整えたのだ。悲しみに泣きじゃくり、父を喪う子の悲哀を訴える光景を、父は望んでいない。父の思いに心を染めなくてはならない。悲しみに沈むのは、独りのときでいい。


 大日は入彦の心の動きを愛でるような目をした。子は成長した。今の入彦には自分がしっかりとある。


「まずは氏上をお前にゆずらねばならぬ」


「伯父上がおられるのに、ですか」


 伯父の大彦が、元々といえば氏上の血筋の嫡流だ。大彦は弟にその地位を委ねたが、弟が先立てば、元の流れに戻すのが筋だろう。


「兄上はあの性格だ。あっさりと断られたよ」


 大日は昏睡から覚めたときに側にいた大彦に、すでにその話をしていた。昏睡中の夢の話も聞いた大彦は、


「ではなおさら吾が氏上となるわけにはいかん。くだらぬ呪いに五感を塞がれるような男は、そうならぬ男のために働くにかぎる」


 といって、弟の最後の願いをすげなく拒否した。


「氏上は、譲り譲られするものではありません。人々が相応しい者を選ぶでしょう。父上もそうであったではありませんか」


 磯城族は、長い時期、氏上が不在だった。登美彦の政変で斑鳩大宮を逐われた大日を、磯城族が氏上として認めたのだ。


「これから吾は逝かねばならぬというのに、薄情な兄と子ではないか」


 大日は弱く笑ったが、嘆いているわけではない。兄に対しては感謝しかなく、子に対しては期待があった。氏上に推戴されても、推戴されなくとも、入彦は立派に生き、大彦がそれを教導するだろう。


「ひとつ片付いたな。次は美茉姫みまつひめのことだ。兄上は何も言わぬが、胸が張り裂けんばかりに心を痛めておろう。本当は磯城など捨てて、娘を探しに飛び出したいに違いない。これは、(なれ)に頼むしかない」


 美茉姫のことはただのひとときも忘れてはいない。彼女は入彦の許嫁だ。必ず居場所を突き止め、一命に賭けて救いだすつもりだ。


「お任せください。美茉は私が必ず救いだします」


 入彦は言葉に渾身を込めた。美茉姫には、その父の大彦さえやりこめる手厳しさがあるが、無限の慈しみがある。高位にあった父の名声と周囲からの期待を背負い、他人の意に染まることだけに苦心していた入彦が、唯一、素のままの自分をさらけ出せた女性だ。自然体でつきあえる相手が近頃二人増えたが、その最初の人は格別である。美茉姫を助け出すためならば、入彦は人を傷つけることも厭わない覚悟だ。それは、磯城族のために弓を掴んだ戦いのときよりも激しい決意かもしれない。


 美茉姫の居場所を突きとめる任務を与えられた如虎(にょこ)はまだ吉報をもたらしてはいない。豊が放った札たちも、随時、状況を知らせてはきているが、美茉姫を案ずる者たちの眉を開かせてはいない。


 依然として行方は不明だが、まだしも幸いであるといえるのは、彼女に似た風体の遺体を見つけていないことと、元凶である登美彦こと安彦が、いたいけな少女を手にかけるほどの悪逆にまで墜ちていないと信じられることだった。ただ信じるしかないという虚しさは、ある。その虚しさの上に立って希望を繋いでいた大彦は、虚しさが虚しさであることに気づいた夜に悪夢を見て、跳ね起きることが幾度もあった。そのときの怒りや悲しみを天孫族との戦いに叩きつけた。天孫族にはいい迷惑だったに違いない。


 戦いは、数日、おこなわれていない。


「さて、最後のひとつだが」


 大日はここで咳き込み、吐血で白いしとねに赤い染みをつくった。大日の胸を貫いた矢は、肺を破壊して血を逆流させている。


 大日は苦悶の表情を浮かべながら、傍らから一本の矢を取って、入彦に見せた。きれいに浄められた矢であるが、入彦は憎しみの表情を浮かべた。その矢が、父を射抜いた矢であったからだ。


「汝も知ってのとおり、これは吾を射た矢だ。しかしこの矢は、天孫族の氏上を射た矢でもある」


 大日はそう告げて、入彦を瞠目させた。矢羽には鳥の羽を用いるが、その模様や、矢羽を矢柄に結い付けるはぎの色を、武人であれば覚えている。この矢は、確かに、孔舎衛坂くさえさかの戦いで天孫族の天津彦こと五瀬いつせを射ぬいた矢であった。


「天孫族を率いている氏上は天津彦を名乗っている。汝も知ってのとおり、現代の天津彦は、狭野姫というおてんば娘だ。初代は五瀬といって、狭野姫の兄になる。その兄を、孔舎衛坂で、吾のこの矢が射倒したのだ。そしてその矢を狭野姫が射返してきたのだ。返し矢おそるべし、と申すが、まことにそのとおりであるな」


 大日は弱く笑った。


「それで、その矢をどういたすのですか」


 入彦は父の体を気遣い、話をそろそろ終えるべきだと思った。少しでも長く父の側にいたいが、父の体に障ることを案じた。父にいずれ死の運命が訪れるのだとしても、ひとときでもその時の遅からんことを願った。


「この矢は二人の命を奪う矢であるが、二つの一族を結ぶ矢でもある。わかるか」


 入彦は首を横にふった。


「吾は天孫族とたいらごうと思う。天孫の農の技を広めるのだ、入彦。この瑞々しい山門の天地であれば、磯城も天孫もその他の一族も、きっと共に豊かに暮らしていくことができよう」


 たいらぐとは、和睦することだ。それならばなぜ二度も天孫と戦ったのか、と人は大日の撞着を責めるだろう。だが。元々、山門の御言持みこともちであった大日は、天孫族との共存の道を探ろうとした。しかし、山門主たる饒速日にぎはやひが磯城の祖霊から受けた託宣は、戦いであった。将軍いくさのきみに命じられた大日は、多くの族人の命を預けられたため、最善の方法で天孫族を迎え撃ち、天孫族の氏上を一矢で倒した。瓦解するやに思われた天孫族は驚異的な速さで再起し、孔舎衛坂の報復を背負って磯城に迫ってきた。復讐の色に染まった彼らに正面から和睦を求めても無駄であり、一度、激しく抵抗し、彼らの頭を冷ます必要があった。陣頭で指揮をとりながら秘かに停戦の機会をうかがっていた大日に、好機が訪れた。天孫族の恨みの象徴である大日自身がたおれることによって、磯城族と天孫族とに痛み分けを演出することができる。天孫とて無闇に戦いを求めているわけではない。意地が武器を持たせるのだ。痛み分けであれば、誰もが自分自身の意地に言い分けを立てられる。ただし、大日がまだ生きているうちに、和睦の話をつけてしまわねばならない。大日が死ねば、次は磯城族が恨みの塊になる。そして永遠に終わらぬ恨みの応酬となるのだ。


 入彦は青ざめ、顔色以上に青くなった唇を震わせている。父を死に追いやろうとしている天孫族と手と結ぼうとする父の考えが、到底許容できなかったし、自らの命を奪おうとする相手から農の技を学ばせ、あまつさえ彼らの豊かな生活を想う父の発想が摩訶不思議でならなかった。


 入彦の戸惑いと怒りを、大日は父の目で見つめた。天孫族と和議を結ぼうとするそのわけを話せば、入彦は理解するだろう。だが、それは本当の理解ではないのだ。人と時とが織りなす機微を察するには、入彦はまだ未熟だ。だがいずれ父の思いを心の底で感じ取れる日が来るに違いない。大日は入彦を急かさず、その日が訪れることを信じた。ただ、父から子への教育はそれでよいとしても、氏上として、天孫族との交渉は急がなければならない。戦いが再開されれば好機は失われるし、大日の霊魂を待っている大物主が痺れをきらすだろう。自分の命はもってあと一日だろう、と大日は見計らっている。


「入彦よ、天孫の天津彦へ使いせよ。成ぎを申し入れてくるのだ」


 半ば霊界の人となった者とは思えぬ威と張りのある声で、大日は入彦に命じた。落雷を聞いたように、入彦は顔を上げた。


 入彦の、すでに濡れていた目が、光の色の異なる涙で膨らんだ。握りしめた拳に、熱を持った涙の雫が落ちた。


「なにゆえでございますか。なにゆえ、このうるわしき山門を、あまつさえ父上のお命さえも奪おうとする魁帥(ひとごのかみ)風情とお手を結ぼうとなされるのですか」


 天孫族は盗人の集団だ。天孫族が遠いしまから海を渡って来なければ、山門は平和であり、入彦はいつまでも父の温かさのなかで過ごすことができたのだ。戦慄わななくく我が子を、しかし大日は甘えを許さぬ厳色の目で見据えた。


「二人の氏上の血に触れたこの矢は、優れた破魔矢となろう。この矢を磯城族の宝とし、祭器とせよ」


 かつて天孫族の五瀬も、己を貫いた矢に神秘を見て、一族の宝とするよう命じたことがある。霊知を備えた人間には、自分の死を通して見える世界がある。しかし、遺される者には悲しみが見えるだけだ。


 大日は、矢を入彦に授けた。入彦は感情の赴くままにその矢をへし折ろうとしたが、できなかった。父が宝とせよと命じた限り、この矢には、父の魂の一かけらが宿っている。


 行き場を失った感情を爆発させるように、入彦は大日の室を飛び出した。


 入れ替わって入室した大彦が、突風に驚いたような顔をしてから、それも無理からぬというふうに頭をふった。


「やはり、受け入れられなかったようだな」


 大彦自身、本当に納得したのかと自分に問いかければ覚束ない。天孫族との和睦の話を、目覚めたばかりの大日から聞かされたとき、大彦はまだ弟は悪夢の最中にあるのではないか、と疑った。


「入彦はきっと理解するさ。だが理解するまでにときがかかりそうであれば、あとは兄上に委ねるしかない。吾は、どう頑張っても、明日の月を見ることはできぬだろう」


 入彦が戻ってこない場合、天孫族への使者を、大彦にまかせるということだ。


「任せておけ。磯城の一人としては、天孫族との和睦にいささか腹に収まらぬものがあるが、実はすぐにでも戦をやめたいとも思っている。美茉のことがどうしても気がかりでな。さっさと戦をきりあげて、娘を探しにいきたい、と言えば、汝には酷い兄貴ということになるな」


「なんの、兄上をここに留めているのは吾だ。我が儘な弟ということになろう」


「酷い兄貴に我が儘な弟か。だが、なんだかんだ上手くやってきたな」


 大彦の力強い手が、もはや弓を握ることも、剣を掴むこともない大日の手を包んだ。言葉以上のものが、大彦の体温と共に大日の心に注ぎ込んだ。頷いた大日の視界に、四十載に満たない人生の光景が次々と浮かんで、消えた。


 悔いがない、とは言えない。もっとも悔やむのは、登美彦を名乗る異母弟の安彦を魔道から救いだすことができなかったことだ。陽姫を救うこともできなかった。山門に平穏をもたらさないまえに世を去らねばならぬことも口惜しい。だが、このあとは、入彦を、兄を、遺す人々を信じ、磯城の祖霊とひとつになって見守っていくしかない。


 それにしても、これから光り輝くだろう我が子の英姿を眩しい目で見られぬことの、なんと不愍ふびんであることか。どれほどの英雄も、我が子の行く末を想うとき、霧の中の老人のように、弱々しく、誰かにすがりつきたくなる。


「入彦のことを、どうかよろしく頼みます」


 子を案じる親の感情が、大日の閉じた瞼の下から止めどなく暴れ出た。


 御言持であったときには山門の日輪のように称えられ、孔舎衛坂では諸族の軍士を率いて天孫族の大軍を撃退し、磐余砦では磯城の氏上として籠城戦を指揮をした大日は、人生の最後にはただ一人の父だった。


 入彦は夢中で走った。父の側に仕える者たちの制止の声や、族人の驚きの目は入彦の足を緩めなかった。何かから逃れようとして、入彦は走った。やるせない哀しみが追いかけてきて、入彦は懸命に走った。入彦の戻りを待っていた豊と御統の二人にも気づかなかった。


 入彦に目の前を走り過ぎられた豊は、かすかに冷たいものを浴びた。それか涙の滴であるとはわからなかったが、入彦の後ろ姿に儚い色をみた豊は、不安げな瞳を御統に向けた。御統は、澄んだ大きな瞳で、ただ入彦が走り去ったあとの空虚を見つめていた。その横顔が、いつもの無邪気さとはかけはなれて大人びていたので、豊は思わず、御統の丸い頬を指でつついた。


 入彦は砦をも飛び出した。幸いなことに天孫族は包囲陣を遠くさげていたので、矢が飛んでくることはなかった。ただならぬ雰囲気の入彦に、思わずつい門扉を開いてしまった門衛たちは、責任を押し付け合うようにして、互いを肘で小突きあった。


 走り続けた入彦は、そのまま磯城の東方を護る山の麓に入った。まだ鳥も寝ぼけ眼の早朝だ。山肌は霧を吹いている。


 冷涼な山の吐息が、入彦の心の騒がしさを静めた。入彦を追いかけてきた哀しいやるせなさは、霧に入彦を見失ったらしく、入彦は心の軽さを取り戻した。


 鳥見山の森の中にいることに、入彦は気づいた。ここには静かな泉がある。籠城戦が始まる前、鳥見山で遊んだ入彦と御統、豊の三人が見つけた。そうしようと思うでもなく、入彦の足は、三人が天の真名井と名付けたその泉に向かった。


 山中の霧に幽光が射し込む。山肌から生じた水蒸気が仄かな光を吸って、輝きが波のように伝わっていく。


 真名井に近づくと、入彦は水音を聞いた。御統と豊を砦に置き去りにしたことを知らない入彦は、二人が自分には内緒で真名井に遊びに来ているのか、と疑って、すぐに自分で否定した。ここには必ず三人で来ようと約束した。あの二人がその約束を忘れるはずがない、と約束を破りつつある入彦は信じた。なにより、あの寝坊助の御統がこんな早朝から起き出してきているはずがない。


 とすれば、天の真名井は、三人だけの秘密の泉ではなかったことになるが、他愛ない幻想を味気ない現実に化した者を罰してやろうと勝手なことを考えながら、入彦は腰に提げた銅剣を確かめた。もちろん、秘密基地の闖入者を罰するために銅剣を抜くつもりはない。鏡を持参していれば派手に度肝を抜いてやるくらいのことはできるが、鏡は砦に置いてきた。せいぜい大声で驚かすことくらいしかできない。


 ところが、背の高い草を掻き分け、大岩を乗り越えた入彦は、自身が大いに驚いた。


 泉が光っていた。樹冠から零れる幽光では考えられない光量だ。入彦は、とっさに手で視界を覆った。


 光は、やがて一点に集約してゆき、ようやく慣れた目に、人型の輝きとして映った。


 それは、確かに人であった。女人であることは、その膨らみからわかる。だが、人が光を放つのか。そう疑う入彦は、その人が泉で水浴び、つまり禊をしていたことに気づいた。当然、その人は一糸まとわぬ裸体だ。その人の肌が、光輝いているのだ。情欲よりも荘厳さをかきたてるその人の姿だった。


 入彦は息をころしていたつもりだったが、その人は入彦の驚きに気づいていた。


「人の禊を盗み見ては、罰を受けることになりますよ」


 白い脛で描く波紋も美しく、その人は泉から上がると、樹の枝に掛けていた衣を身につけた。衣擦れの音さえ、管弦のようだ。その人の肌が衣に隠されるにつれ光が和らぎ、不思議なことに、情欲が募った。


「私もここに禊にまいったのです。盗み見たのは貴女(あなた)も同じでしょう」


 入彦は言い返した。禊は嘘だし、後から来たくせに図々しいが、とっさの文句が浮かばなかった。


 その人の横顔は、入彦のどぎまぎを見透したような 艶のある笑みを浮かべた。


 天空の世界には、天細女という美しい踊り子がいるというが、目の前の人がそれだろうか、と入彦は思った。


 そのとき、真名井を包んでいた霧が晴れ、梢から朝の光が斜めに射し込んだ。霧の白さに朧気だったその人の容姿が、はっきりと見えた。それは、その人にとっても同様に、佇立する入彦の姿が明確になった。


 二人は、互いに驚愕した。


 入彦の驚きは、瞬く間に怒りとなり、憎しみとなった。


 入彦は銅剣を引き抜いた。


「天津彦か」


 刃よりも速く、入彦の鋭い声が斬りつけた。


おんみは磯城の入彦ですね」


 狼狽があったぶん、狭野姫は入彦の声にたじろいだ。だが、彼女も兄から剣の手ほどきを受けている。樹に立て掛けていた剣を素早く手に取った。


 入彦は無我夢中で跳躍した。鎮まっていた哀しみと怒りが一気に沸き上がり、爆発した。甘美なひとときの光景は消え去った。


 金属音が森閑とした空気を切り裂いた。火花が、灼けた匂いを振りまいた。


 五合、十合、二十合。入彦と狭野姫は刃を咬み合わせた。


 狭野姫は、日霊ひるめを宿した真金まがねの鏡を軍営に置いてきたことを後悔した。日霊の力があれば、磯城の小倅を打ち倒すことなど造作もないはずだ。


 迂闊といえば迂闊だった。磯城族は磐余砦に逼塞しているとはいえ、この一帯は、磯城族の勢力圏だ。狭野姫が従者を連れずに単独行動を取るならば、敵と遭遇することも予測しておくべきだった。


 狭野姫は亡兄の遺志を継いで天津彦を名乗っているが、もともと男勝りの性格で、雄々しき建御子たけるみこたらんと自らを律してきた。しかし、狭野姫の意思と理想とは裏腹に、身体は日々、女性らしさを増していく。ただでさえ、玉のような肌であり、日輪のごとく光り輝く容姿なのだ。女性としての膨らみは豊かになり、目元にも口元にも知的な美しさを備え、万人を魅了する神秘的な美貌の人になっている。その姿が狭野姫の意識を変化させたのか、かつては隠しもしなかった肌を、人前にさらすのに躊躇を感じるようになった。だから、禊に、人目を離れた山中を選んだのだ。具合よく見つけた森間の泉で、まさか磯城族の氏上の子に邂逅するとは思いもよらなかった。


 刃の交差が三十合を超えたころ、入彦と狭野姫との間の優劣が明らかになった。


 技と精度と速さは狭野姫が長じていた。武人の誉れの高かった二人の兄から手ほどきをうけ、その兄たちが舌を巻いたほどの才能だった。武器も狭野姫の剣が優っている。狭野姫の剣はくろがねだ。銅の刃は鉄の刃に打たれ、砕けねばならなかった。だが

このとき、入彦の気迫が狭野姫の天賦の才を上回り、物質の道理を超越した。


 覚悟の問題だ。


 狭野姫はまさか生死を境にする戦いが待っていようとは知らなかったし、天孫族に安息の地を授けるまでは斃れるわけにはいかないという焦りがあった。入彦にとっても不測の事態だったが、彼には全身全霊を剣にかけるだけの捨て身があった。怒りの塊であったといっていい。父の命を旦夕に奪おうとする矢を放ったのは、目の前の女なのだから。


 狭野姫の剣は宝剣、韴霊剣ふつのみたまのつるぎではなく、細身の護身用だった。入彦の剣は、銅剣とはいえ肉厚で、重量もあった。それでも銅が鉄を砕くことはあり得なかったが、現実として、悲鳴を上げて折れ飛んだのは狭野姫の剣だった。入彦の渾身の一撃をまともに受けた狭野姫は、剣を折られ、その勢いに押されるまま転倒した。


 入彦は剣を大きく振りかぶった。その切っ先は、狭野姫の瞳には、林冠の狭間の青空に突如として輝いた死を予告する星のように見えた。


 だが、その星は、いつまで経っても、狭野姫の頭上にちてはこなかった。


 入彦は苦悩していた。


 目の前の女は、父の仇だ。だが、武器を失った一人の少女でもある。少女を斬る術を、入彦は教わっていない。


 長く苦悶した果てに、たとえようもない悲しみが入彦の喉を突き上げた。


貴女あなたが私の父を殺すのだ」


 剣に代えて、入彦は言葉の指弾で狭野姫を撃った。


 己の非を高らかに鳴らされた狭野姫も、かっとなった。無我夢中で言い返した。


「わたくしの兄は、なれの父に射殺された。わたくしはその矢を返しただけではないか」


 そうではないか。兄を喪った夜の悲しみを、夜の海に孤舟で残された心細さを、一族の命運を背負うことの苦しみを、この磯城族の小倅はわかっているのか。狭野姫は、口惜しさのあまり、涙をあふれさせた。それは、彼女が信頼する年長の甥の手研たぎしや、無私に仕えてくれる珍彦うずひこ道臣みちのおみにも見せたことのない、彼女の素のままの涙だった。


「なぜ山門に来た」


 それがそもそもの元凶である。天孫族が山門に来なければ、入彦はいつまでも父の翼の下の温かさに包まれていることができたのだ。


 どれだけの美辞麗句を並べようとも、山門人にとって、天孫族が侵略者にすぎないことを狭野姫は知っている。だから、なぜ来たかとの詰問に返す言葉はない。しかし、山門の南、むろの地で邪教に苦しめられた人々は、天孫族を解放者として受け入れたではないか。農耕技術や製鉄技術など、最新の技術を持つ天孫族は、山門人の豊かさにも寄与するはずだ。共存共栄をこそ、天孫族は望んだのだ。その申し出を山門が受け入れていれば、互いに肉親を失う悲しみは避けられたではないか。だが、その論理も、山門人にとっては盗人の三分の理にすぎないことも、狭野姫は知っている。狭野姫には、入彦の非難に負けず、涙で潤んだ瞳で彼を見上げ続ける以外に、自分の矜持と天孫族の名誉を守る術はなかった。


 入彦は、振りかぶっていた剣を下ろし、気を抜かれたように座り込んだ。怒りと悲しみが融合し、やるせなさが入彦の胸に沈殿した。


 二人は向かい合ったまま沈黙した。その沈黙は、秋の高空を日がよぎり、樹木の根元から宵闇が立ち上がるまで続いた。


「ここからしばらく行ったところに、見晴らしの良い高台があります。そこへ行ってみませんか」


 不意に入彦に誘われ、狭野姫は驚いた。なぜそんなことを言ったのか、自分を不思議に思った入彦は、


「いいですね。行ってみましょう」


 と、狭野姫の承諾を得て、ますます驚いた。


 入彦と狭野姫は高台に立った。


 夕間暮れの山門の山野を手のひらに乗せたような爽快な景色だった。

 

 眼下に磐余砦があり、目線を上げれば、夕霞の中に生馬の山並みが見える。天孫族と山門が激しく戦った孔舎衛坂の風景が、入彦の心の視界に浮かんだ。


 入彦の視線を追った狭野姫にも同じ風景がみえた。二人が邂逅したのは、孔舎衛坂の森の中だった。


「山門は小さい」


 狭野姫は故郷の日向(ひむか)の高千穂を想った。高千穂も同じように重畳とした山並みを背負っていたが、一方は海に開け、どこまでも広がる海原があった。山門も、生馬を越えれば中つ海に出るが、それでも山門そのものは、四方を山に囲まれている。山は守り主でもあるが、ともすればそこで暮らす人々を過保護にもする。


「ですが、豊かです」


 入彦は答えた。彼は狭野姫を許したわけでは決してないが、激しく刃を応酬し、怒りを昇華させたあとは、天孫族の氏上への敬意を忘れていない。


 敬意は伝わる。狭野姫も、自分を斬る寸前までいった磯城の公子に、兄や手研に向けるのとはまた異質の、信頼を抱いていた。刃を交えたときに、心も交えたような気さえした。自分はこののち入彦に嘘をいうことはなく、入彦も自分を偽ることはない、と信じられた。


 夕焼けは、高台の二人も赤く染めた。


 美しい景色だった。群雲の切れ間は黄金色に輝き、山影は黒々として、橙色や茜色の大気が濃淡の層をなしている。天と地とが互いの光彩を重ね合わせれば、かくも美しき世界を創り上げる。羨ましい限りではないか。


「人も、美しい天地(あめつち)を創ることはできないのでしょうか」


 狭野姫は入彦に問いかけた。どこかで自分を見守ってくれているはずの兄、五瀬に問いかけているともいえた。


 入彦は狭野姫の問いかけには答えず、


「夜の山は(あやかし)を生みます。麓までご案内いたしましょう」


 そういって、狭野姫を先導しつつ、山道をくだった。


 二人は無言だったが、麓が近づき、小さな灯火を見つけると、狭野姫は立ち止まって言った。


「案内はここまでで結構です」


 狭野姫は、天孫族の陣屋からひとりで来たわけではない。麓に従者を待たせている。灯火は従者のものだ。


 入彦は頷いて道をあけた。


 入彦の前を通りすぎた狭野姫は振り返った。


「明日、天孫は攻撃を再開します。今日、禊をしにまいったのは、明日の加護を祖霊(おやたま)に祈るためです」


 狭野姫はためらいをみせつつもそう言った。それは嘘ではないが、敵の将帥の子息に正直に軍事機密を伝えたことに問題があった。磯城族が今夜、備えを固めることで、明日の戦いで天孫族の犠牲が増えるかもしれない。だが、狭野姫は、銅剣を彼女に振り下ろさなかった入彦の恩に報いたかった。


 入彦が何も言わないうちに、狭野姫は立ち去った。芳醇な香りだけが残された。


 小さく見えていた灯火が、夜暗に消えた。入彦はしばらく佇み、残された香りを吸い込んだ。


 やがて入彦は歩き始めたが、麓に降りた入彦の足は、砦には向かわなかった。


 陣屋に戻った狭野姫は、手研からの厳しい叱責を受けたあと、虚脱の中にいた。今日ほど激しく剣を、心を交えたことはない。


 明日からの戦いは、天孫族の総力を挙げたものになる。天孫族と磯城族のどちらかが死に絶えるほどの戦いになるだろう。


 入彦とは、もはや生きて会えないかもしれない。二人が共に生き残ったとしても、勝者と敗者に分かたれたならば、今日のように対等に言葉を交えることはできない。それを想うと、心が虚ろになるのだった。


 だが狭野姫のその苦しい予感は、この夜のうちに外れることになる。


 深夜、夜具に入ったばかりの狭野姫は、手研の呼ぶ声で、微睡まどろみから目覚めた。手研の声が落ち着いていたので、緊急事態を想わずにすんだ狭野姫は、身仕度を整えてから、甥の前に姿を現した。


「遅くまでご苦労なことです。なにかありましたか」


 寝入りばなを起こされたこともあるが、甥を労う狭野姫の眉目に冴えがない。ところが、手研からの報告を聞くにつれ、そこだけに朝日が射したように、狭野姫の表情が明るくなった。


たいらぎを、磯城族から成ぎを申し出てきたというのですか」


「そうです。夜更けのことゆえ、あやかしが現れたのかと思いましたが、磯城族氏上の大日からの使いととなえる者が参っております。日が昇ってから出直すように申したのですが、すぐに主の口上を伝えたいと言い張りますもので、一応、お耳に入れさせていただきました」


「よいのです。早よう、その者をこれへ」


 狭野姫の浮つきをいぶかりつつ、手研は磯城族の使者を招き入れた。


「ああ、やはりおんみでしたね」


 磯城族の使者を迎えた狭野姫は、室に入ってきた入彦の姿を見て、失くしたものを取り戻したような安堵の表情を浮かべた。同席していた珍彦と道臣は当惑を灯した目を見合わせた。


 明上おかみと入彦とは仇敵ではなかったのか。そう認識している珍彦と道臣との目には、狭野姫の振る舞いは、あたかも待ち望んだ人の到来であるかのように見えた。


 磐余砦を襲撃した狭野姫が入彦と激しく戦ったのは、僅かに数日前のことだ。その数日間に、狭野姫が急激に女性らしさを増したことが、珍彦と道臣の当惑の根底にある。


天孫あめみまの天津彦よ、磯城の春日の大日日おおひびは、成ぎをこそ望んでいます」


 そう述べた入彦の顔は乾いた表情をのせていた。涙を泣き枯らしたのだろう、と狭野姫は思った。彼女も同じ表情をしていた時期があったからだ。偉大な兄を亡くし、天孫族の命運を背負ったとき、狭野姫も人知れず泣き枯らしたことがある。


 狭野姫が想像したように、入彦は夜の底にうずくまって、一人、さめざめと泣いた。鳥見山で狭野姫を見送った後、しばらく沈思した入彦は、父の最後となるだろう命令を果たすため、天孫族の陣屋に足を向けた。磐余砦を通り過ぎるとき、砦を夜闇に浮かべる無数のかがり火のうち、弱々しく灯っている一つを見つけ、それがまるで父の命の灯のように思え、耐え難い寂寥に襲われた。うずくまって大地を濡らした入彦は、やがて立ち上がって、再び天孫族へ向けて歩き出した。


 狭野姫が深くうなづくのを見た手研は、彼女が承諾の意思を言葉に乗せる前に、


「孔舎衛坂、磐余と激しく抵抗した春日の大日日が、なにゆえ手のひらを返したように成ぎを求めるのか」


 と、鋭利な問いを投げかけた。手研とて、入彦の態度と声風に欺瞞を察したわけではなかったが、彼の立場としては、磯城族からたばかられて天孫族を危機に陥れることは避けなければならず、念を入れる責任があった。


「天と地が織りなす美しき風景を創りたくなった、と申し上げましたら、天津彦にはおわかりいただけましょうか」


 天孫族を天とすれば、磯城族は地だ。その入彦の発想を、狭野姫はたちまち了知した。


「さぞ美しい風景となりましょう」


 狭野姫は微笑んだ。そのほほ笑みで、講和はほぼ成立した。


 同席の手研らは唖然とするしかない。謎かけのような言葉のやりとりで、天孫族の行く先が決められてしまった疎外感があった。


 しかし、狭野姫の意望を実現させることが手研の使命だ。彼は狭野姫の真意が磯城族との講和にあることを見極めたと思い、室内の話題を具体の手続きに進めた。


 入彦が出した講和の条件は二つだ。城下の盟は結ばないことと、天孫族が磯城族の安全を保証することだ。前者は、これは降伏ではないことの意思表明であり、後者は磯城族人の安全確保のための絶対条件だ。砦を退去したところを襲撃されれば、磯城族はひとたまりもない。


 狭野姫は二つの条件を受け入れた。


 講和締結の会場は、磐余砦と天孫族の陣屋との中間に位置する場所の地を祓い、うてなを築いて設けることにした。その作業には、双方が同人数を出してあたることになった。


 期日は明くる黎明となった。天神地祇の耳目がもっとも澄みわたる(とき)だ。


 磯城族の安全保証の確証については、講和の祭壇で明らかにすることを狭野姫は約束した。


 入彦が天津彦の言葉を体内に収めて退室すると、狭野姫も衣を払って立ち去った。手研らの助言ないし苦言は不要ということだ。


 手研らの頭ごしに話の筋道が通された感があるが、彼らとて講和に反対するものではない。戦などは、しないに越したことはない。ただ、狭野姫と入彦と間に、彼らの知らぬ間に意思の直通が生じていることに不思議を感じはした。狭野姫の守役をして自らを任じている珍彦には多少の嫉妬がなくはない。


「主だった者どもが騒ぎ出すやも知れぬな」


 それが懸念だ。天孫族には、孔舎衛坂で父や子、兄や弟、友人を殺された族人が少なくない。彼らは磐余砦を踏みつぶし、磯城族を根絶やしにしなければ恨みを晴らせない。もっとも、孔舎衛坂の戦いに磯城族は関与しておらず、参戦したのは、当時の山門の将軍いくさのきみであった大日と、その腹心たちのみだ。その辺りの事情を天孫族は知らないが、知らせれば彼らの説得の糸口にはなるやもしれない。ただしその場合、大日とその腹心の首は要求されるだろう。大日の死が旦夕に迫っていることを、三人はまだ知らない。


「ともかく、夜明けまでには時間がない。人を出すことにしよう」


 手研と珍彦、道臣は手分けして、比較的穏健な族人を選出し、作業に向かった。


 大地が清く祓われ、速やかに台が築かれた。


 山と空との境が白々と浮かび上がると、両族の代表者が台の前で対面して着座した。狭野姫は、まだ樹木の根元に居座る暗さを払いのけるような目映い姿だ。手研、道臣、珍彦のほか、天津彦に帰属した諸族の氏上が彼女に従っている。


 一方、大日はさすがに溌剌というわけにはいかないが、間もなく尽きる命を気取られぬよう秘かに気力を振り絞っている。彼を大彦がさりげなく支え、磯城族の主だった者が列座している。入彦はいない。


 秋の清らかな朝日が、台を照らした。


「たかちはる日輪の天津彦よ、明上おかみをお迎えできることを嬉しく思います」


 大日が歓迎の口上を述べた。


「そらみつ山門の磯城の兄磯城えしき大日日おほひびよ、おんみに会えて喜ばしく思います」


 狭野姫が返礼した。


 そのあと講和の具体的な内容を話しあったが、大日も狭野姫も、戦いを止めること以上に踏み込まなかった。そのため、話し合いは短時間で終えられた。


 このあと、双方の代表が台に昇り、神祝(かみほ)ぎと共に互いの祖霊に対して盟約を結んだ旨の報告をする手順になるが、大日としてはその前に片付けておかねばならないことがある。


「さて、事前に申し込んでおきましたが、あなた方が本日の成ぎをまもり、必ず武器を収めるという証をお示しいただきたい」


 その証を得ておかなければ、緊張を解いた途端に砦内に雪崩れ込まれては、圧倒的少数の磯城族はひとたまりもない。


(われ)は本日ただいまより、磐余彦いわれひこと名を替えることといたします」


 ただそれだけであったが、それは重要なひと言であり、列席した人々は皆、息をのんだ。


 狭野姫たちの時代の通念において、名はとてつもなく重要な意味を持つ。名は、ただその人を指し示すだけの便宜でなく、その人の肉体、魂魄をも支配するものだ。そうであればこそ、天津彦の名を襲げば、人はその人を天津彦として崇めるのであり、饒速日の名を襲げば、人はその人を饒速日として称える。名を替えるということは、ただ変名するということではない。自らの存在そのものを替えてしまうということだ。


 狭野姫が磐余彦を名乗ることによって、彼女は磐余と同体になったのであり、磐余を守護する霊妙な存在を崇めることを誓ったのだ。その彼女が磐余の地で結ばれた盟約に背くことはあり得ない。背けば、彼女自身の存在が崩壊することになる。これ以上の保証はないといえる。


 狭野姫の言葉の重要性を理解していない者はいない。磯城族の列席者は歓喜し、天孫族の列席者は困惑した。


 手研も道臣も珍彦も、狭野姫の考えを聞かされていなかった。


 手研は渋面をすぐに苦笑に塗り替えた。彼の主はまたしても面倒なことを言い出したのだが、手研は叔母の望みはなんであれ叶えられるよう尽力することを誓っていた。なぜなら彼の叔母は彼にとっての日輪であり、霊妙な存在はすべからく気ままなものだからだ。


 磐余彦に名を替えるということは、狭野姫が、彼女の基盤である天孫族から乖離することであるが、手研はそれを昇華として捉えることにした。流亡の一族であった天孫族の氏上から、新生山門の天地を治める山門磐余彦へ昇華するのである。そう考えれば悪い話ではない。天孫族は手研のもとでまとまればよい。狭野姫は天孫族のみでなく、山門の諸族、そして磯城族の上に立ち、あまねく輝きで人々を照らすのだ。


 手研の胸中を寂しさが去来した。これで狭野姫はますます高みに昇り、手研の手が触れ得る距離から遠ざかっていく。


 講和の成立がその朝のうちに天孫族の隅々にまで知れ渡ると、夜の海鳴りのような不気味なざわめきが陣屋のあちこちで起こった。親類縁者の仇を討つ機会を奪われた者たちが、不満をうねらせているのだ。


 だが、磯城の大日が亡くなったという報告が届くと、そのうねりは鎮まった。天孫族の恨みの元凶は、もういなくなったのだ。大日を倒したのが狭野姫の放った矢であることも広まると、手研の説得もあり、天孫族は復讐を終えて、次の段階に進むときが来たことを理解した。


 その次の段階とは、真秀場まほろばへの入り口をこじ開けた後の、天孫族の理想郷の建設だ。


 狭野姫は、天孫族の拠点を畝火山うねびやまに置いた。そこから、山門の中心、斑鳩いかるがを目指すのだ。斑鳩族を中心とした山門の諸族を征服することが目的ではない。天孫族が有する優れた技術を山門に広め、豊かな実りが千年も続く豊秋津洲とよあきつしまを創るため、その事業に参画してくれる一族を求めるのだ。そのために、天孫族は山門の新たな盟主とならなければならない。もちろん、簒奪ではなく、推戴される盟主である。


 一方、磯城族は、講和が成立すると、磐余砦をきれいに破却し、磯城邑に立ち退いた。


 天孫族と磯城族の講和成立を知って、激しく舌打ちしたのが、いまや実質的な山門の支配者となった登美彦だ。


 天孫族がいずれ立ち直り、再び侵攻してくることは予測の範囲内だったが、その速度が登美彦の計算を凌駕していた。


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみの魔力を制御する人肉の祭壇を利用して饒速日にぎはやひを廃人とし、山門を牛耳った登美彦だったが、痛感したのは自らの人望のなさだった。大日の声には、叩けば響く(さなき)の音のように鳴っていた諸族が、登美彦の声には鈍い音しか奏でない。天孫族を迎撃する体制が覚束ないという苛立ちがある。


 かつて饒速日が躊躇なく実行したように、果実の魔力で人を操る白い霧の呪いを発動させるという手段を、登美彦は用いるつもりはない。饒速日程度の奸凶にならうつもりはないし、数千年の大地の霊力を養分とした果実の真の力を見てみたい欲望がある。いずれにしろ、この世ならぬ人外の力に頼るには、まだ人事を尽くしていないという思いが強くある。大日や天津彦に劣るという敗北感を背負ったまま山門を手中にしても、鬼道に堕ち、人の心を捨ててまで目指した到着点とは言い難い。


 登美彦は、斑鳩大宮の地下深く、自ら根の国と呼ぶ暗闇の空間で、人肉の祭壇を背にして思案に耽っている。


 登美彦が使える手駒は今のところ二つ。登美族と斑鳩族だ。登美族は彼等にとっては良い氏上の登美彦に懐いているし、斑鳩族は登美彦から伝えられる饒速日の言葉に疑問を抱きながらも従っている。二つの族の軍士いくさびとを合わせても、室の諸族を急襲した天孫族の規模に遠く及ばないが、登美族と斑鳩族には優れた機動力がある。馬と舟だ。


 登美彦は両族を山門の各地に神出鬼没させ、諸族の離反を牽制するとともに、天孫族の影響力の伸展を抑えた。


 だが、今はおとなしい天孫族も状況の膠着にいずれしびれを切らし、本腰いれて攻勢をかけてくるにちがちない。この先の展開をそう読んでいる登美彦の奥の手が、出雲族だ。


 登美彦にとっての唯一の盟友というべき御名方みなかたが、出雲族を率いてくる手はずになっている。


 出雲族は山門の遥か西方の大族だ。氏上は大国主おおくにぬしを代々名乗っており、長男がいずれ襲名することになっている。次男である御名方には出雲で画ける痛快な夢がなく、同じように面白い未来が待っていない族人の次男坊や三男坊を引き連れて、彼等の真秀場を探し求めている。その点、彼等は動機において天孫族と共通する。鉄器で武装しているところも同じで、数は多くはないが、味方につけば大きな戦力になる。


 登美彦としては、当面、御名方の出雲族が来援するまでの(とき)を稼がなくてはならない。


 剋を生み出すための奇術を、登美彦はすでに考えている。そのために、饒速日にもう一仕事してもらう必要があった。


「ひとつ、お借りいたしたいものがあり、本日は参りました」


 登美彦は祭壇の頂の肉塊と成り果てた山門主に嗜虐的な声をかけた。その手には、暗闇に溶け込んだ長剣が握られていた。


 そのあと行われた登美彦の陰湿で残虐な作業を、月も星も見咎めることはなかった。


 同じ夜を、入彦は静かに過ごしていた。


 磐余砦を破砕し、きれいに地をならす仕事を終えた入彦は、磯城邑に帰って、父を偲ぶ時間を過ごしていた。


 大日がかむあがった以上、磯城族は次の氏上を推戴しなければならないが、族人は入彦を急かさなかった。氏上不在で族を運営してきた経験があるし、天孫族との講和がなった今では、差し当たりの脅威が磯城族にはない。


 入彦は、いまだ深い眠りに落ちたままの大伯母の百襲姫を見舞い、大彦と父の思い出を語り、豊と御統との三人で鳥見山の真名井で過ごす静かなときの流れの中にいた。


 休息のときは、しかし長くはなかった。


 豊が放っていた札が、美茉姫みまつひめの有力な情報を携えて、戻ってきたのである。

 磯城族と天孫族、そして山門が進むべき新しい道を指し示して、大日は逝った。狭野姫と幾度も激しく戦った入彦は、一人の少女としての狭野姫と、山門の未来図を共感する。


 一つの戦いが終わったそのときに、さらわれた美茉姫の消息を知らせる知らせが届く。

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