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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(25)-磐余の戦い(2)

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の嫡男、春日族の入彦に出会う。


 山門やまとでは神祝(かみほ) ぎの馳射はやあて誓約うけひの鏡猟が催され、御統と豊は、持ち前の無謀さと呪能とで、春日族の勝利と混乱を招く。このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。


 かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを、斑鳩族の饒速日にぎはやひに手渡していた。安彦は果実の魔力に取り憑かれる。


 山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。


 登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、自分が磯城族の氏上の血を引いていることを知り、指導者として成長していく。


 大日は昔日を回想し、饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。安彦は山門を取り戻すため、妹を凌辱した饒速日に復讐するため、そして果実の魔力を得るため、登美族を手中とし、計画をすすめてゆく。


 筑紫の日向ひむかの五瀬は、豊葦瑞穂原とよあしのみずほのはらを目指し、天津彦あまつひこを名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場まほろばを目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。


 天津彦五瀬を失った天孫族を狭野姫が鼓舞し、彼女は天津彦の名を継いで豊葦瑞穂原を目指す。室の地に上陸した狭野姫は、名草族の宝剣、韴霊剣ふつのみたまのつるぎの力を得て、室の人々を苦しめていた丹敷族を平定し、室を熊野と名付ける。


 狭野姫は再び山門の地に踏み入るが、大日が率いる磯城族は磐余の地に強固な砦を築いて頑強に抵抗する。狭野姫の奇襲も実らず、天孫族は再び大日の前に敗退するかに思えたその時、狭野姫が放った矢が大日の胸に吸い込まれた。



 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子ひこと呼ばぬ者には容赦ない。


 五瀬いつせ

 狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。


 手研たぎし

 五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。


 珍彦うずひこ

 元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。

 胸の中央に生じた火熱が全身に広がると、感覚は却って氷を抱いたような冷たさに麻痺した。人々のどよめきが、遠い潮騒のようになり、虚空に吸い上げられたように無音となった。色覚が最後に捉えたのは、落日の赤い光だ。そして大日は、全ての感覚を喪失した。


 それからの光景は、自らの思念が映し出したものなのか、誰かの記憶をたどったものなのか、大日には判然としなかった。ただ、光彩が移ろってゆく。


 たたなづく山門の青垣山がうららかな日光に照らされている。その緑の上を、白雲が影を落としてゆく。


 草原を潤す山門川の流れを引き込み、五重の濠をめぐらせた斑鳩大宮いかるがおおみやの高楼が、真朱の甍を輝かせている。


 ひときわ高く空を突き上げる高楼の屋根から、濃縮された大量の白煙が吐き出されていく。それは上空に広がるにつれ霧のような儚さになりながらも決して大気に溶け込むことなく、青空に病根を広げるようにして、山門の天を覆ってゆく。


 その白煙は、山門全土の完全なる掌握を目論む饒速日にぎはやひの野心が、剋軸香果実ときじくのかぐのこのみの無尽蔵の呪力を媒介して生み出した毒素の霧だ。その霧に触れた者は、思考を奪われ、夢を見るようにして操られることになる。


 災いの果実と呼ばれる剋軸香果実を制御するため、悍ましい人肉の祭壇が築かれた。呪能に優れた巫女や祝者はふりを生きたまま霊力の搾取器につないでいるのだ。その前で、饒速日が呪言を紡ぎ出す。巫女や祝者の苦痛と恨みの声が、重奏して饒速日の呪言の力を増幅する。呪言は祭壇に吸い込まれ、果実の霊力をまとって毒霧となり、火山の噴煙のように高楼から噴き出された。


 山門の満天を覆い尽くした白い毒霧は、やがて霖雨のように降り注いだ。その霖雨に打たれた人は、心の中に、眩しく後光を発する饒速日の姿を抱くようになった。山門の各地に割拠する諸々の一族は、貢ぎ物を族人に負わせ、続々と斑鳩大宮を目指した。


 霖雨に秘められた呪いに抗う者を感知すると、白霧は人型を生み出し、抗う者を襲った。饒速日の呪術に決して屈しない強靱な精神力を持った者には、白霧の人型がいくつも覆い被さり、体内に浸透して、白い石であるかのように固めてしまった。


 礒城族しきぞく氏上このかみであった地牽くにくるは、一族の邑の郊外で白霧の侵入を阻もうとし、優れた霊力の巫女である姉と協力して結界を施したが、霖雨と白霧に埋没した。ただし、地牽と姉の抵抗は無意味ではなく、礒城族の人々は、長年敵対してきた饒速日への敵愾心を薄めはしたが、独立の気風までは喪失しなかった。石の彫像のように固められた地牽も、深い昏睡に陥ったその姉も、微量の霊力を放ち続け、礒城族を護り続けた。


 やがて、白霧は、火山の噴煙が大地に層を作るように山門に降り積もり、大気には呪いだけを残した。呪いは無色無臭だが、極めて呪能に優れた者には肌にざらつく違和感として知覚された。しかし、それは本能が異質を感じ取るだけで、そこから饒速日の呪術をたどることは不可能だった。


 斑鳩大宮へと続く草原のみちを、意気軒昂と歩を進める青年が見えた。若き日の大日だ。大日は、人格者の仮面で貪欲な素顔を隠した饒速日に迎え入れられ、のちに御言持みこともちとなる出世街道を歩んでいくことになる。その道を、若き日の大日は光り輝く正道と信じたのだが、実は欺瞞ぎまんと邪気がびっしりと敷き詰められた横道であった。


 誠実な才覚を饒速日に利用された大日は、しかし完全に意のままとされることはなく、心のどこかで感じる違和感を根拠に、饒速日の命令をそのままには執行しなかった。饒速日に唯一服わぬ磯城族への対処において、その一族の出身である記憶も希薄になった大日は、征討を命じられるたびに手心を加えた。


 饒速日は大日の背反を知らなかったわけではない。しかし結局、一度たりとも大日を問責することなく、山門の運営を一任したのは、大日の治政が理に適っており、それが山門の繁栄、ひいては饒速日の栄華をもたらすことを悟っていたからだ。その点、饒速日は満足を知っていた。青垣山という強固な大地の隆起に護られた豊かな山門の天地を支配することができればそれでよく、彼を恐れさせていた北方の高志族の討伐や、吉備族や尾張族などの周辺勢力の制圧は望まなかった。それは、饒速日が老いはじめたということでもあった。


 野望を逞しくしたのは、むしろ安彦だった。


 剋軸香果実を五十茸山いぶきやまの七つ子石からもぎ取ってきたのは安彦だ。一度は災いの果実の魔力に囚われかけた安彦だったが、兄と妹によって救出された。


 饒速日が発動した呪術の白霧が磯城の邑を襲ったとき、妹の陽姫やひめを守りきることはできなかったものの、自らは呪いに落ちなかった安彦は、当初、人心を操って山門全土を支配しようとする饒速日を憎み、山門を饒速日の支配から解放する意思を秘めて斑鳩大宮に向かった。


 しかし、斑鳩大宮の地下深くで、再び剋軸香果実と邂逅したとき、安彦はその魔力の虜囚となることを自ら望んだ。


 呪いに操られているふうを巧みに装った安彦は、饒速日に取り入り、地下世界の祭壇を管理する立場に就いた。まるで女性の美体の隅から隅までを堪能するように、安彦は災いの果実を制御する祭壇の仕組みの全てを把握した。生身の巫女や祝者の人肉をもって災いの果実を制御しているが、善悪の分別がつかなくなった安彦は、制御力が弱いと見なすや、犠牲となる巫女たちの数を増やすよう饒速日に進言し、許された。


 斑鳩大宮に、優れた巫女や祝者が忽然と姿を消すという噂が流れたが、その噂がやがて立ち消えたとき、安彦の欲する人肉の祭壇が完成した。


 改良された祭壇は、饒速日の意に沿うものであり、安彦はその功績を褒められて、山門主の秘書官というべき持傾頭者きさりもちの地位を得た。


 安彦は右手に大きな望みを掴んだが、左手では喪失感を掴んだ。


 陽姫を饒速日に奪われたのである。


 安彦は剋軸香果実の魔力に囚われ、それを我が物とする企みに没頭するあまり、彼が大切にしてきたもの、彼が本当に守りたかったはずのものを失った。


 磯城族の四兄妹を利用した饒速日は、三人の男児についてはその才能に着目し、一人の妹についてはその清楚な美しさに着目した。山門の天地に呪いを振りまいたように、清らかなものに汚濁をなすりつけることに、饒速日は愉悦を覚えるのだ。


 兄の加護を失った陽姫は、瞬く間に饒速日の毒手に囚われた。玩弄され、子を宿された。陽姫にとって最も悲惨であったのは、その忌むべき事実すら、彼女には幸せと感じられたことだ。災いの果実の力で増幅された饒速日の呪いは、清らかに育まれてきた陽姫の精神を完全に崩壊させていた。


 子を抱き、幻想の幸福に包まれた恍惚の妹を、血涙を流した目で見た安彦は、このとき、明確に饒速日への殺意を芽生えさせた。しかも、ただでは殺さぬ。饒速日が山門の天地を汚した呪術と同じ幻想に饒速日自身を浸らせ、精神を破壊し尽くして地獄に落とす。その復讐が、同時に災いの果実を我が物とする安彦の企望と重なっていることに気づいたとき、安彦は悍ましい笑みを浮かべていた。


 安彦は妹の手を引き、大宮の地中世界へ連れて下り、身の毛もよだつような人肉の祭壇の頂に座らせた。剋軸香果実を制御する祭壇に改良を重ねた安彦は、災いの木の実が蓄えている無尽蔵の呪力を少量ながら抽出する仕組みを完成させていた。そこから得られる呪力は、果実が蓄積する呪力量と比べれば全くの微量に過ぎないが、人たる身の人格を破壊するには十分すぎた。


 いずれ祭壇の頂には饒速日を座らせるつもりだったが、安彦は、その実験を兼ねて、まず妹を座らせた。兄が果実の虜囚となっていることを知らない陽姫は、素直に安彦の指導に従った。ただ、我が子を預けるときにだけ、弱い抵抗を見せた。赤子を抱かせたままでも実験は可能だったが、安彦もさすがに、赤子までを実験材料にする気にはならなかった。


 果実を人体に注入する実験は成功した。祭壇の頂にいるのは、もはや自分が陽姫であったことすら忘れ果てた忘我の女だった。安彦の配下に抱かれ、そばで泣き声を挙げている我が子にすら反応を見せない悲惨さに落ちた哀れさだ。


 安彦は、涎を垂らし、奇声を上げる妹連れて、饒速日に謁見した。


「我が妹は、主のお恵みを賜り、幸せの余りに惚けてしまいました」


 と報告して、妹を引き取ることを願った。陽姫の痴態に興を冷ました饒速日は、彼女の美体に飽きていたこともあり、それは精力の減退の現れでもあったが、安彦の願いを認めた。


 安彦は、饒速日と陽姫との間の子をも引き取ると申し出た。陽姫への寵愛があくまで遊びにすぎなかった饒速日にとって、正室や側室から不義を責められかねない母子を身請けするという安彦の申し出はありがたく、才覚ある安彦をますます信頼した。安彦の術中にはまりつつある自覚は全くなかった。


 饒速日の側近中の側近という立場を占めた安彦は、斑鳩族に次ぐ大族である登美族の氏上このかみの子が女子のみであることを利用し、山門主の命を得て、その婿に収まり、まんまと登美族を手中にした。饒速日と陽姫との間の子を自分が産んだ子と新妻に信じ込ませるのに、剋軸香果実の力は不要で、安彦は自分の呪術のみでそれを処理した。


 安彦は大宮内の己の邸の人知れぬへやに陽姫を隠した。


 安彦は妹を愛していた。血は繋がっていなかったが、磯城の陽射しを浴びる草原を駆け回っていた幼子のときから、安彦はとびきりの愛情を妹に注いでいた。


 その妹が、妹でなくなった。果実の魔力に侵され、最愛の妹を汚された憎しみと、妹を護らなかった自身への怨念とが、安彦を狂騒させた。その狂気に導かれるまま、安彦は歪んだ愛情を欲望と共に陽姫に注いだ。陽姫の体内に、欲望と狂気とを放出したそのときこそ、安彦が本当に最愛の人を喪ったときであった。


 人格を破壊され、歪んだ兄の欲望と狂気すら歓喜で迎え入れた陽姫は、やがて、また子を産んだ。


 我が子の産声を聞いたとき、わずかの間、安彦は正気を取り戻した。


 その子は、欲望と狂気を精とし、恍惚を胚にして生まれ出でたとは思えぬほと、光輝く嬰児だった。


 初め、その子を元の無の世界に戻そうとした安彦だったが、嬰児の笑い声が、父親の感情を呼び起こした。


 安彦はすばやく手を打たなければならなかった。いずれ再び、災いの果実の虜囚となることはわかっていた。むしろ、これだけの過ちを積み重ねた自分は、その暗道を走り続けなければならないと観念した。いま、父としての光が暗道をわずかに照らしているうちに、安彦は我が子を護る手を打っておかねばならなかった。


 安彦は饒速日を操って、山門の朝廷に驚くべき人事をもたらせた。新しく春日族を春日山麓に興し、その氏上に、和邇族わにぞくの娘を妻に迎えさせた大日を据えた。春日族には、山門最強の軍事力を備える登美族を割いて与えた。さらに、安彦は、兄である大日を御言持に就けた。


 これらの措置は全て饒速日の命令であり、安彦の影は隠微として人の目に触れなかった。そのため、登美族の氏上でありながら、御言持となれなかった安彦は、大日と反目するにちがいないという意識を、山門朝廷で参集する諸族に植え付けた。その対立構造こそ、安彦は己の狂気から山門と我が子を護るための仕組だった。


 憎むべき饒速日への復讐は自分が請け負う。その自分はいすれ、大日によって倒されるだろう。そしてこの山門の天地は、大日によって、平和な豊さで発展するに違いない。それが、安彦の救いだった。


 安彦は我が子を、饒速日の呪いが蔓延する山門で、自分以外に唯一正しい自我を保っている人物に託した。


 五百箇だ。安彦にとって、もう一人の兄であり、唯一の友人だ。 


 大宮を離れ、密かに磯城の鍛冶の里を訪れた安彦は、我が子を五百箇に差し出した。もちろん、真実の物語を添えた。安彦の密訪に驚いた五百箇は、初め戸惑ったが、話を聞き終えると、黙って襁褓むつきの赤子を預かった。磯城の四兄妹が白い霧に消えたあの異変の日から、ただ黙々と金属を形作り、炎を見つめてきた五百箇は、精神力を培ってきた。その力を秘めた目で見たとき、安彦に憑りついた恐ろしい魔物の姿が見えたが、五百箇は安彦を信じた。珠のように輝く笑顔の赤子を信じたともいえる。


 いつの日か山門を恐怖に陥れるだろう災いの果実の破砕を五百箇に託して、安彦は去った。


 磯城を離れた安彦には、打てる手は全て打ったという安堵感があった。骨の髄まで魔力に染まった自分がどれほどの悪逆を尽くそうとも、大日と五百箇が必ず成敗してくれるだろう。現実に自分を破砕するのは、大彦の拳骨かもしれない。


 憎悪すべき悪辣の饒速日から剋軸香果実を奪い、果実の呪力の虜囚となろうとも護りとおす。そして大日と五百箇が果実と安彦を滅ぼす。かくて山門は救われ、英雄と称えられた二人は山門の輝く未来を創っていく。


 光彩に溢れる山門の未来を想って、安彦は微笑んだ。彼が心を安らげた最後の微笑だった。


 斑鳩大宮にもどった安彦は心身をともに果実の魔力に浸し、狂気に全身全霊を染めきって、冷笑を浮かべつつ、暗殺者を五百箇へ放った。


 身に迫る危険を安彦の表情から読み取っていた五百箇は、まずは安彦の期待に応えたといえるだろう。


 五百箇所は、赤子を抱いて、磯城の鍛冶の里からすばやく姿を消した。もちろん、里人に災難を及ばさぬよう、両親にすら別れを告げなかった。


 里に侵入した暗殺者は、すぐに五百箇の失踪と、行く先を両親すらも知らないことを調べた。両親の悲嘆ぶりをみれば、それが子の居所を隠すための芝居でないことは容易に知れた。


 五百箇にとって幸運であったのは、暗殺者に腹いせに両親や里人に凶手を及ぼさない冷静さが備わっていたことだが、不運であったのは、暗殺者に任務を容易に諦めない粘着性が備わっていたことだ。


 五百箇の逃避行が始まった。赤子を伴っていることが逃避行を難しくしたともいえるが、赤子の笑い声や温かさが逃避行の悲壮感を消し去ったともいえた。


 あまり泣かず、よく眠り、旅空でこれほど手のかからない赤子は珍しいだろう。母乳を与えてやることができないので、団栗や果実のすり汁を飲ませたが、そのため、赤子は腹をこわすことが多かった。赤子が泣くのは、そんなときだった。


 岩窟の一夜に、五百箇は、赤子が気に入っていた赤い菅玉を赤子の首にかけてやった。そのおり、迂闊にも赤子に名付けていなかったことに気づいた五百箇は、御統という名を贈った。五百箇と御統とが互いにかけ替えのない存在となるまでに、それほどのときは必要なかった。


 布で御統をくるみ、身体に結いつけた五百箇は、暗殺者の気配を避けなから、天目一箇神を探した。


 鍛冶の里の長老から聞いたその天神は、天地造形の力を持つ。それはつまり、天地破壊の力を持つということだ。その力があれば、安彦から託された祭壇の破砕も、災いの果実そのものを消滅させることも可能だろう。あくまで五百箇の願望にすぎないが、いまたどれる光の軌跡はそれしかなかった。そもそも、天神を探すという目的自体が難題なのだ。


 天目一箇神は、はるかな上古に山門の天地を創り、いまはその外の世界を創っていると里の長老は語った。


 外の世界とは、無限の空の下に広がる。有限の人が、どこまでたどることができるのか。目が眩むような果てない旅路を、しかし五百箇は迷わぬ足取りで歩き続けた。


 まずは出雲を目指した。鍛冶の里の長老の話では、天目一箇神は豊秋津島の最後の仕上げに出雲に向かったとのことだった。天目一箇神はまず出雲を創り、吉備を創り、山門を創り、さらに東の天地を創って出雲に戻った。五百箇の鍛冶の一族は、天目一箇神が山門を創ったとき、その地に残って補修するよう命じられたと伝わる。豊秋津島の各地には、同じように補修を命じられた鍛冶の一族が里を構えており、そこから情報が得られるだろう、とも長老は語った。しかし、五百箇はそれらの鍛冶の里を訪ねるべきではないと考えた。暗殺者に追われる五百箇は常に危険を運ぶ。平和な里に、害を及ぼすことはできない。


 ともあれ、五百箇は、天目一箇神の事業の始まりであり、完成の地であるという出雲に向かった。


 しかし、出雲の地で、五百箇は天目一箇神の足跡を見つけることは出来なかった。かわりに、妙な若い男と出会った。五百箇と年端がかわらぬと思しきその男は、山の谷から流れ出る川のみぎわで、巨大な蛇と戦っていた。八つの頭を持つ怪異な大蛇で、頭は川面へ出ているのに、尾は谷の奥にあって見えなかった。


 一目見て、その大蛇は地祇くにつかみと知れる。つまり、その妙な若い男は、この山川の地祇の力を得ようとしているのだ。


 若い男は果敢に大蛇に挑んだが、一首が吐き出した放水の一撃で無残に敗北した。大地に叩きつけられた若い男は明らかに失神したが、大蛇は若い男が起き上がってこないことを見定めると、巨大な体躯をゆっくりと巡らして、谷の奥へと消えていった。地祇にとって人の身は糧にもならぬし、再び息を吹き返そうと、そのまま死に絶えようとどうでもよいのだ。己のわずらいにならなければそれでいい。


 五百箇は若い男の側に寄った。息はある。筋骨隆々とした逞しい男だ。裸の上半身には、魔除けの文身いれずみが施されている。紋様を見れば、水難の魔除けであることがわかった。谷川にみ、若い男を放水の一撃で退けたところをみると、あの大蛇は水神なのだ。


 若い男は、息はあるが、打ち身がひどく、砕裂された銅鏡の破片が上半身の何カ所にも食い込んでいる。裂傷も多い。勇猛果敢に大蛇に挑んだのであろうが、若い男の呪能も、鏡の呪力も、地祇の力を奪い取るには及ばなかったようだ。


 縁もゆかりもないが、根っからの親切者である五百箇は、若い男を木陰まで運んで介抱した。鍛冶かぬちの里に伝わる秘薬をふくろから取り出し、赤紫に腫れているところや、銅鏡の破片を慎重に抜き取ったところ、裂傷に膏薬こうやくを塗った。草の上に置かれた御統は、五百箇の作業を静かに見ていた。


 応急の処置を終えると、五百箇は川の水を汲んできて、気付薬を若い男の口に流し込んだ。


 若い男は、すぐに目を覚ました。


 見知らぬ人物に助けてもらったことを悟った若い男は、屈託のない笑顔を作った。


「誰かは知らぬが、世話になった。なれは、誰だ」


 豊かな生命力を感じさせる声量だった。若い男は、誰かと問いかけておきながら、返答を待たずに、自分の話を続けた。五百箇は面食らったが、黙って、若い男の話を聞いた。


われ御名方みなかたという名だ。出雲をべている大国主おおくにぬしの子だ。吾にはいろえがおり、大国主の名はいずれ兄が襲うことになる。それゆえ吾は暇を持て余していたのだが、近頃、やりたいことができてな、そのために、まぁ地祇の力が欲しくなったというわけだ」


「やりたいこととは」


 他人の身の上話だが、五百箇は御名方の小気味好い語勢に釣られた。


「うむ、自分の六合くにが欲しくなった。客人まろうどよ、汝は六合を知っているか」


 前後左右に天地を加えて六合くにとする。六号はもちろん国だが、その言葉と概念は、大真では常識だが、豊秋津島では一部の支配者層にしか伝わっていない。無限に広がる天地を区切ろうという考え方は、純朴な豊秋津島の人々にはその意義がまだ受け入れられていない。


「吾が六合を得たあかつきには、客人よ、汝を大夫まえつきみとして迎えよう。命を救ってもらった恩があるからな」


 そう言い切られた五百箇は苦笑するしかなかった。


「吾にも目的があるから、貴方に従うわけにはいかない。しかし、吾の名は五百箇という」


「そうか、残念だ」


 諦めも早い。五百箇は苦笑を重ねながら、立ち去る素振りをみせた。


「汝の目的は何だ。なぜ赤子を連れて旅をしているのだ」


 そう問われた五百箇は、御名方が大国主の子と話したことを思い出した。言われるでもなく大国主は出雲主だ。その子であれば、天目一箇神の行方を示す情報の一欠片を持っているかもしれない。


 五百箇は、山門から来たことと、天目一箇神を探していることだけを話した。


「天目一箇神か。確かに、出雲の天地を創った天津神あまつがみだと伝え聞いている。だがそれは遙かな上古の話だ。いま、その天津神がどこにいるのか、残念だが、知らん。それよりも、そうか、山門というところがあるのか。いつか行ってみたいものだ」


 御名方は上半身を起こして、木の幹にもたれた。


「おお、汝の薬はよく効くな。痛みがずいぶんとれた。吾の大夫に迎えられないのなら、せめて何らかの礼がしたいものだが」


 御名方の好意を、しかし五百箇は断った。五百箇を狙う害意が、この小気味好い男を巻き込むことをおそれたからだ。追われているともいえなかった五百箇は、ただ、先を急ぐ、とだけ言った。


「重ね重ね残念だ」


「貴方の身を、どうすればよい」


 痛みは取れたとはいえ、怪我の具合からして、まだ歩くことはできないはずだ。いずれ日が暮れる。悪霊や獣の類いに襲われてしまえば、せっかく秘薬を使い果たして救った甲斐がない。


「心配は無用だ。日が暮れる前に、吾の従者ともひとが迎えに来ることになっている。情けない姿を笑われることになろうがな」


 御名方も自分自身を笑ったが、ひどく清々しい笑い声だった。次は大蛇の力を奪ってやる。そんな決意が表れていた。


 御統を包んだおくるみを胸の前に結んだ五百箇は、


「それでは」


 と、立ち去ろうとしたが、


「待て、少し思い出したことがある」


 そう言って、御名方は五百箇の足を再び自分に向けさせた。


「ここから龍の目で川を越え、丘を超えたところに里がある。古くからの鍛冶かぬちの里だ。そこには一つ目の男が多いという。天目一箇神も一つ目。何か関係があるのかもしれん。当てがないのなら、とりあえずはそこをおとなってみてはどうか」


 五百箇は東を振り向いた。大蛇が巣くう川だけあって、対岸を霞で隠す大河だ。その向こうにあるという丘の形は見えない。


 御名方は川を徒歩で渡ることのできる浅瀬の場所を五百箇に教えた。


「これで汝の恩にいくらかは報いることができただろうか」


 粗雑に見えるが、御名方の人柄には至誠がある。


 五百箇は思い切って頼み事を一つした。


「もし、あなたがいつか山門を訪れ、そこで安彦という男に出会ったなら、一度でいい、彼を助けてやって欲しい」


 川面を見つめる五百箇の目には、魔力と欲望に取り付かれ、足掻く安彦の姿が見える。


「山門の安彦か。承知した」


 御名方は快諾した。微笑みを残した五百箇は、御名方に示された道をたどった。


 川の水には赤みがある。上流の山々が鉄を産するのだろうが、五百箇はまだ鉄を知らない。


 川は無事に渡ったが、その頃から、御統の様子がおかしくなった。泣くことをほとんどせず、笑顔を絶やさない御統が、生気がこぼれていくようにぐったりとし、やがて熱を発した。五百箇は薬草となる野草を摘み、煎じ薬をすばやく作って御統に飲ませたが、効果は現れず、御統に生気は戻らなかった。


 山野でない涼しい屋根の下で休ませてやらなければならない。五百箇は丘の向こうにあるはずの里を目指して、野原を急いだ。


 幸いなことに、日が暮れるより早く、集落にたどり着くことができた。だが、宵の青さに染まり始めた野辺から現れた人影を、里人は当初、歓迎しなかった。外界からの人間は悪霊やけがれを持ち込むと信じられた時代だ。それでも幼子を慈しむ人の基本的な情意は時代を超えるもので、五百箇に抱かれた生気を喪った御統を見ると、里人は集落の中心に建つ建物に案内した。


 鍛冶かぬちの里は、豊秋津島にいくつかあるが、大真から海を渡った者がその始祖であることが多い。五百箇もまた渡来人の血を引いており、その大陸性の風貌が里人の警戒心を和らげたことも吉だった。


 その建物に向かう間、五百箇は里人の忌避の目にさらされた。里の男達は、一つ目が描かれた布を額に巻き付けていた。御名方が、一つの目の男が多いと言ったのはそのためだろう。布に描かれた一つ目の意味を、自身も鍛冶である五百箇は推測することができる。


 連れて行かれたのは高床の建物で、里の長か、祭祀者の邸と五百箇には思えた。予想通り、五百箇の前に現れた白髪の人物は、里の長であり、祭祀者でもあった。その人物も、一つ目の布で白髪を覆っている。


 暗がりの一房に案内したその人物は、手早く火を起こすと、敷かれていたしとねに赤子を寝かせるよう指示した。


 白髪の人は御統の体を撫で、瞼を指で開いて覗き込み、匂いを嗅いで、一つの診断を下した。


「神の気に当たったのだな。肥河ひのかわを渡ったのであろう」


 肥河は五百箇たちが渡ってきた川の名で、はるかな後世には斐伊川と名を変える。あの大蛇は、肥河の神ということになる。


「暴れ川でな、多くの人を飲み込んできた」


 肥河がたびたび氾濫を繰り返していることを、白髪の人は語った。


「さて、物病ものやみであれば祓ってやることもできるが、神の気であればそうもいかぬし、その力も吾にはない。この子に生きる強さがあれば自然と回復するだろうが、そうでなければかめを作ってやらねばならぬ」


 年端の行かぬ子の遺体は、甕に入れて埋葬される。御統の生きようとする強い意思が足りなければ甕に入ることになる、と白髪の人は言うのだ。自身も鍛冶であるから、五百箇には白髪の人のみたてに嘘がないことがわかる。技術者は現実主義者なのだ。


「かわいそうだが、してやれることはない。肥河の神は荒ぶっていたのだろう。渡ったときが悪かったな」


 立ち去ろうとする白髪の人の裳裾もすそを、五百箇は掴んだ。


「何とかなりませんか」


 五百箇は眉宇に悲壮さをたたえて懸命に訴えた。その目を見れば、五百箇がいかに誠実であるか、赤子をいかに愛しているかがわかる。儚い望みを与えることに意義はないと考える白髪の人だったが、五百箇の哀願に心を揺らされて、一縷いちるのすがりにすぎないかもしれない手段を教えた。


「肥河を下っていくと、入海いりうみに着く。その河の口に猪石ししいしと呼ばれる巨石の群がある。そこに棲む人ならば、あるいは何からの術を知っているやもしれん」


「石の間に棲むその人とは」


「おそるべき長寿の人よ。我らの里の遙かな祖先に、鍛冶の技を伝えたとも聞く。ただ相当な偏屈者であるから、我らの爺様は石の里を離れ、ここに新たな里を構えたそうだ」


 石の里に棲むという長寿の人が鍛冶の技を伝えたというのはあり得る話だ、と五百箇は思った。この頃の金属、つまり銅は、鋳型で形を整える。鋳型は石で作られるから、巨石の多い地では鍛冶が発展しやすい。


 迷わずそこに向かうべきだと直感した五百箇は、夜明けを待たずに出発した。白髪の人もその強行を止めなかった。赤子の命が夜明けまでもつとは言えなかったからだ。それに五百箇の装身具を見れば、彼が優れた鍛冶であることが容易にわかる。優れた鍛冶の技で作られた道具には、優れた呪力が宿る。並の悪霊では五百箇に近づくこともできまい。だが、夜を徘徊する獣は呪具では追い払えない。白髪の人は、一振りの銅剣を五百箇に与えた。見も知らぬ旅人に対するには過ぎた好意だ。同じ鍛冶として示した、五百箇の技量への敬意であった。


 武器を好まない五百箇だったが、今はそんな主張を顕示してはいられない。銅剣を帯びた五百箇は、石の里を目指した。


 一晩中歩き、薄明かるくなった彼方に入海の波間が見えた。内海だから、夜明けの暗明の境に陸地が浮かんでいる。その陸地の翠緑が鮮やかに映える頃、五百箇は石の里にたどり着いた。白い巨石がいくつも露出している。石の形を見れば、なるほど猪の姿を思い描かせる。


 石の里といっても集落があるわけではない。まるで外界からの来訪者を拒否する結界のような石の群の縁にさしかかった途端、


「何者か」


 と、飛矢のような誰何の声を受けた。


 敵意の矢を投げつけてきたのは、赤銅色の肌をした男だった。痩せ身だが鍛えぬかれた筋肉をしている。腰に布を巻いただけの格好だ。


 年の頃はわからない。千年生きていると自慢されても笑い飛ばせないほどの星霜を、その風貌から、強迫されるような息苦しさで感じる。


 男は片目だった。先の里の男たちのように、一つ目を描いた布を額に巻き付けているのではない。生身の右の目が潰れているのだ。


 なぜ右目が潰れているのか、五百箇にはわかる。鍛冶の技術の真髄は、金属を溶かす炎の操作にある。優れた鍛冶は、自分の目で炎の具合を見極めるのだ。そのため、炎の光と熱で目を妬かれる。もっとも、その傷害を負うまでには、相当の期間、金属を焼き続ける必要がある。五百箇の前に立った赤銅色の男は、その相当の期間を炎の前で過ごしたのだ。


「あなたは、この石の里の主か」


 五百箇は尋ねた。


「そうだが、われはここを石の里とは名付けていない。だれがそのように言ったのか」


「誰も言っていません。私がそう思っただけです」


「そうか。思っただけであれば許そう。誰かにここを教えられて来たのでなければな。早々に立ち去れ」


「いえ、ここを教えられてきたのです。助けていただきたいのです」


 正直に答えた五百箇は、抱いていた御統を、男に向けて差し出した。


「ほう、神の気に当てられたか。よほど呪能が高いようだ。さもなければ、それほど多くの神の気を集められまい」


 残された左目で、男はそう診て取った。


なれは河の上から来た。鍛冶の者共の住処に立ち寄ったのであろう」


「その里の男達は、一つ目の描かれた布を頭に巻いていました」


 赤銅色の男は、つまらなげに鼻を鳴らした。


「盗人のせがれどものくせに、予の象徴しるしを後生大事に護っておる。それで己の技の拙さを覆い隠しておるのよ。恩知らずにもほどがある」


「里の人は、遙かな祖先があなたから鍛冶の技を伝えられたと申しておりました」


「伝えられた?盗み取ったの誤りであろう」


 赤銅色の男は背を向けて、立ち去ろうとした。男の里の祖先との間にどのような確執があったのか五百箇にはわからないが、今、そんなことはどうでもいい。


「あなたであれば、この子を侵す神の気を祓う術を知っているかもしれないと聞きました。どうですか、できますか」


 男の背に向けて、五百箇は懸命に訴えた。


「できるよ」


 あっさりと肯定した男は、背を向けたまま歩き出した。五百箇が困惑していると、


「ついてこぬのか。ついてこねば、その幼子は今宵の星を見ることはできぬぞ。まぁ、それでもよいがな」


 と、言い捨てて、どんどん奥に進んでいった。五百箇は慌ててそのあとを追った。


 岩屋が見えてきた。


 赤銅色の男の住処らしく、巨石を荒々しく積んだだけの造りだ。岩の隙間には草が詰められている。何とか風雨はしのげそうだ。


 岩屋の前後左右に、光輝く小山があった。近づくと、それが銅器をうずたかく積み上げたものだとわかった。


 銅鐸が圧倒的に多いが、銅剣や銅矛もある。無造作に積まれているが、その一つ一つが逸品物であった。その銅器の山の前で、鍛冶かぬちとして誰にも負けない自負を持つ五百箇は立ちすくまざるを得ないところだが、いまは、赤銅色の男を追わなければならない。


 岩屋の入口を入ると、広い岩室になっていた。元々、巨大な岩塊が地中に埋まっており、そこを堀り抜いたのだろう。なんのために掘ったかといえば、銅器の鋳型にするために掘ったにちがいない。岩屋の周囲には、銅器の山の他、鋳型の石も無数に散置されていた。


 岩窟の中にも銅器と鋳型が溢れ、生活空間としては、わずかな隙間に藁が敷かれているだけだった。


「そこに置け」


 指さされたのは、無造作に置かれた鋳型のひとつだ。御統を物扱いされたことに不快を感じ、また鋳型に寝かせることに不審を感じつつも、五百箇は言われるがままにした。


「さて、この童は放っておけば、まもなく死ぬ」


「ですが、あなたはそのさだめを払い除けることができるとおっしゃられた」


「できる。だが、そうしてやらねばならぬ理由はない」


「あなたにも、私にしてもらいたいことがあるのでしょう。だから、理由がないのに、ここに誘った」


「まぁ、そうゆうことだ」


「なにをすればよろしいのか」


「千本の銅剣を作ってもらおう」


 突拍子もない交換条件だった。なぜ、銅剣が千本も必要なのか。必要なのであれば、男が自ら鋳れば済むことだ。岩屋の周囲に積まれた銅器を見れば、男が超一流の鍛冶であることは瞭然なのだ。


「わかりました。千本の銅剣を作りましょう」


 御統のため、五百箇は無駄な問答を避けた。千本の銅剣に必然があるにしろないにしろ、そう答えなければ御統は死ぬのだから。


「分かっているだろうが、ただ銅剣を鋳ればよいというわけではない。予の片目に適うものでなくてはならん」


 男は、眼光を強めた自分の片目を指さした。


「当然のことです」


 五百箇所にも鍛冶としての自負がある。作るといった以上、なまなかの鈍器を鋳るつもりはない。


「よかろう。ならば、外で待て」


 五百箇は岩窟の外に出された。控えめに言っても得体のしれない男に御統を預けるのは本意でなかったが、五百箇は日射しに出た。こらから赤銅色の男は、余人には見せられない秘術を行うのだろう。


 斜光に煽られた石の影が黒々と足下を這う頃、五百箇はようやく岩室に戻ることを許された。


「童をそこなっていた神の気は祓っておいた」


 と、男は言ったが、石の鋳型の上に寝かされたままの御統に生気は蘇っていない。それどころか、死の影がますます濃くなっている。


「神の気は祓ったが、ここに来るのが遅かったな。生霊いきすだまが枯れ果てようとしておる。死霊しにすだまころげさせぬには、その根に滋味うまみいこいとを与えてやらねばならぬ


神の毒気は取り去ったが、弱りきった御統が死の淵から這い上がるには栄養と休息が必要だ、というのだ。


「ここで、その滋味と息いを与えてやることができますか」


「むりだな。見てのとおり、普通に暮らすのにも不便なところだ。その童が元に戻るには、霊芝ひじりだけが生えているような山気のおくぶかさが必要だ」


 そう聞いて、五百箇には脳裏に浮かぶ場所があった。御統を抱き抱え、岩室を退去しようとした。


 五百箇にとって、それは当然の行動だった。しかし、男にも男の当然がある。


「どこへいくつもりだ。汝はここで、千本の剣を鋳らねばならぬはず」


 静かだが、腸が震えるような声だ。不思議なことに、その声を浴びた五百箇は微動だにできない。


「約束したことは覚えています。ですが、この子をこのまま死なせることはできません。霊芝が生えているような山気の幽いところを知っています。どうか、そこへゆき、信じられる人にこの子を託し、私が戻ってくるのをお待ちください」


 目だけは動く。五百箇は、その目で懸命に訴えた。男の険しい目を見続けた。


 ふと、男の目が険しさを失うと、五百箇の体が軽くなった。


「所詮、非永ひとだな。汝には違ったものを見たのだが、予の目も廃れたものだ」


「必ず戻ってきます」


「どちらでもいいさ。早くいけ」


 荒れ地に吹く風のように寂寥とした声だった。


 男を気遣う間もおしい五百箇は、仕方なく、御統を抱いて退去しようとした。


「まて、そこは遠いのか」


「かなり」


「では、その童はそこまで持つまい」


 男は、五百箇が見たことのない赤紫の山草を持ってきた。その煎じ方を教えると、


「それを飲ませておけば、とりあえず命はながらえるはずだ。だが、決して回復させるわけではない。覚えておけ」


 言い終わると、男はもう五百箇を見もしなかった。


 深々と頭を下げた五百箇は行くべき場所へ向かった。


 五百箇が目指すのは、五十茸山いぶきやまだ。そこに棲む山と草原の地祇くにつかみの話を、大日たちから聞いていた五百箇には迷いはなかった。五十茸山の幽さは、密かに災いの果実が実るほどだ。


 遠い道程を、御統は耐えた。片目の男から授かった山草が、御統の命の小火を灯し続けた。


 五百箇が突然あらわれたとき、輪熊と鹿高は、眷属を引き連れて山を旅立つところだった。磯城しきの四兄妹に仲立ちされた二柱の地祇は、いずれ起こるだろう異変を察知して山を下りようとしたが、眷属の説得に時間がかかっていた。


 五百箇は、輪熊と鹿高に全てを話した。輪熊と鹿高には、地祇の気高さをもちながら、非永の話を真摯に聞く思いやりも備えていた。


 御統を二柱に託した五百箇は、休む間もなく片目の男のもとに戻った。


 岩室の洞門に立った五百箇を見た片目の男のその片目は、大きく見開かれ、潤いを帯びた。しかし男は、いきなり怒声を五百箇に浴びせた。


「遅い」


 無愛想な態度の中に受容を感じ取った五百箇は、素直に詫び、これから男をどう呼べばよいか、尋ねた。銅剣を千本も鋳るには時間がかかる。その間、まさか片目の男と呼び続けるわけにはいかない。


「好きに呼べばよいか、まぁ、布刀(ふと)と呼べ」


 ぶっきらぼうだが、深く感じるところもありそうな顔をした。懐かしげでもある。


「布刀様、でございますね」


 たくみに向けるときのように丁寧に呼び掛けると、布刀はまんざらでもなさげな表情を見せた。


 銅剣の鋳造作業は即刻に開始された。鋳型に切り出す石は無限にあるし、良質な銅は、岩室の周りに積まれた銅器を融かせば思いのままに得られる。


 ただ千本の銅剣を鋳ればよいというわけではない。布刀に認められた剣が千本必要なのだ。


 布刀の片目は、どんな些細な失敗も見逃さなかった。鋳型の造り、銅を融かす炎の温度、鋳型から取り出す時宜、最後の研きまで、布刀は厳しい精度を要求し、そして五百箇はその要求に確実に応えていった。


 ときはかかった。当初は一日に一本の銅剣も鋳上げることができなかった。しかし、布刀の鋭い眼力に認められた銅剣が百本を越えると、作業速度は急速に上がった。布刀も、もはや何も注文をつけなくなった。


 一年が過ぎた。石と銅塊以外に何もないところだったが、日々の食糧を運んでくれる人々がいた。それは一つ目を描いた布を額に巻いた人で、布刀を師と仰ぐ里の人々だった。布刀は、彼らに対してひどく横柄な態度で臨んでいたが、食糧の運搬を拒否することはなかった。


 そして、ついに千本の銅剣が鋳上がった。


 布刀の片目の前には積み上げられた銅剣は、朝日を浴びて幻想的な輝きを放った。


 それ以上に輝いたのは、布刀の片目だった。滂沱ぼうだとした涙を流していた。


「ついに、われの罪はあがなわれた」


 布刀は天空へ向けて大声を発した。


高皇産霊たかみむすびよ、見そなわせ。いまこそ、非永ひとの鋳し千本の剣を奉りますぞ」


 布刀は、その片目に映る天空の偉大な存在へ訴えかけた。


 なにが崇高な事象が始まることを感知した五百箇は、畏れずに問い掛けた。


「布刀様、あなたはどのような罪を得たのでございますか。そして私の鋳た剣が、なにゆえその購いとなるのでございますか」


 言葉の先にある布刀の姿は、すでに以前の姿ではない。光の山として積まれた千本の剣よりも高く、強く耀いていた。


「ああ、やはり、あなた様は」


 それは、一族の長老から聞いていた天目一箇神てんもくいっかしんの姿に他ならなかった。


五百箇いおつよ、八百万やおよろずに一つの鍛冶かぬちの才の持ち主よ」


 五百箇を呼ぶ布刀の声は、もはや人の姿から発せられるものではない。小山ほどもある光輝く姿からの声は、大気をどよもした。


 巨大な一つ目には人を睥睨へいげいする圧力はなく、慈愛と感謝に満ちていた。ただし威厳は、自然と五百箇を跪かせた。


われは遙かな昔、高天原たかまがはらまします高皇産霊に命じられて、この中つ国、すなわち豊秋島を形造った。ほぼ造り終えた予は狂心たぶれごころを起こし、予こそこの中つ国の主たらんとした」


 天目一箇神の狂心を咎めた高皇産霊は、八束水臣津野やつかみずおみつぬに命じて、志羅紀しらぎ北門きたど佐伎さき、北門の農波ぬなみ高志こしから国を引かせ、天目一箇神を出雲に封じ込めた。そして大地の獄囚ひとやに閉じ込める期間を、


永久とわならぬものが千の剣を鋳るまで」


 と定めた。


 永久ならぬものに剣を鋳る術を伝えるため、辛うじて矮小した姿で獄囚を離れることを許された天目一箇神は、自ら形造った豊秋島を巡り、大地から萌え出た永久ならぬもの、すなわち非永ひとに鍛冶の術を伝授した。しかし、非永は、鍛冶の術を知ると、天目一箇神の恩義を忘れて、報いるということをしなかった。そもそも、非永の中に、天目一箇神が認める鍛冶の腕を持つ者はいなかった。失望した天目一箇神は、出雲に帰り、四方からの国が重なった石多い里で、一人籠もって、長い歳月を待ち続けた。その歳月の始まりは、五百箇の目が眩むほど遠い日のことだった。


「五百箇よ。予はなれに、どのようにして報いればよいか」


 その言葉こそ、五百箇が求め続けてきた旅の終焉だった。


「あなた様のお力を、私にお授けください」


 五百箇は額を地に打ち付けんばかりに頭を下げた。


「なにゆえ、予の力を求めるのか」


 そう問われた五百箇は、今度は仰首して、天目一箇神の一つ目をまっすぐに見つめた。そして、ここに至る経緯の全てを話した。


「うむ。あの千代の毒茸はまだ枯れずに人の世に災いをまいておるのか」


 そう言うかぎり、天目一箇神は剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを知っていることになる。


「あれが毒をまくのは、決まって人の手によるものだ。予は人の諍いには手を貸さぬ」


「ただ、御統を護っていただきたいだけなのです」


「・・・あの童か」


 天目一箇神はしばらく一つ目を閉じて考えた。


「よかろう。童の一生を沿い護ることなぞ、欠伸のついでの出来事よ」


人が想像することもできない歳月を虜囚として耐えた天目一箇神にとって、人の一生など瞬きにすぎない。


「ただし、予は指図はうけぬ。気儘にさせてもらうぞ」


「それで構いません」


「さらにもうひとつ。予の力を欲するなら、予が宿るべき、神籬ひもろぎを造れ。高天原を流れる安河の川面のように澄んだ鏡をな」


 神籬は、神が宿る依代よりしろだ。


「さっそくに取りかかりましょう」


 千本の銅剣を鋳あげた五百箇にとって、一枚の銅鏡を鋳ることは造作もない。しかし、天津神そのものの依代よりしろとするためには、強力な霊力を封じ込めなくてはならない。祝者はふりでも斎主いわいぬしでもない五百箇は、鋳あげた鏡の裏に言霊を秘めた呪飾を彫り込むことにより、霊力を封じ込めた。


 小振りな銅鏡に、二人の仙人と二匹の霊獣が向かい合う姿が浮かび上がった。


 鏡の大小に霊力の濃淡は比例しない。小振りにしたのは、まだ幼い御統の使いやすさを考えたからだ。


 天目一箇神の依代となるべき神籬の銅鏡が仕上がった。


 初秋の夜明けだ。薄明が大地の起伏を黒々と浮かび上がらせている。


 磨きあげたばかりの銅鏡のつまみに真新しいひもを通し、五百箇はそれを提げて近くの川に向かった。川の清水に銅鏡を浸し、浄めるのだ。


 澄明な空気を吸い込むと、からだ全体を清々しい達成感が巡った。布刀の要望は厳しかったが、五百箇はやりきった。本来の姿を取り戻した天目一箇神も、この鏡には満足するだろう。これで御統に逢いにゆける。その高揚感が、昨日まで忘れなかった緊張感を薄めてしまった。


 川辺から岩室までにたいした距離はない。そこに、悪意が潜んでいた。


 音もなく飛来した矢が、五百箇の胸を貫いた。


 静かに倒れた五百箇の生死を確認するために人影が近づいた。登美彦が放った暗殺者だ。


 しかしその暗殺者は、標的の生死を知る前に、己の死を知った。


 一つ目を描いた布を額に巻いた人の里で護身用に授かった銅剣が、刺客の胸を貫いたのだ。


 蹌踉そうろうと立ち上がり、川辺に戻った五百箇は銅鏡に付着した血を洗った。胸に刺さった矢の矢柄を折ると、その拍子に血を吐いた。肺の中に溢れた血が、喉を遡ってきたのだ。手の甲で口の端の血を拭った五百箇は、迫り来る死を思わず、血で汚された銅鏡を天目一箇神が依代として認めてくれるだろうか、と案じた。


「その姿はいかにしたことか」


 布刀の姿に収まっていた天目一箇神は、片目を剥いた。その驚愕を受け流した五百箇は、静かに銅鏡を差しだした。


「あなた様の神籬として、この鏡は相応しゅうございますか」


 そう言う五百箇の姿は、布刀の片目には、もはや命の灯火が消え去ったかそけさだった。


「うむ。予の現世うつしよの住処として申し分はない。だが、この鏡を誰があの童のもとへ運ぶのか」


 そう問いかける相手は、生きる五百箇ではない。彼の生身は草原の上に倒れ、そよ風に吹かれている。天目一箇神の片目に映るのは、霊魂としての五百箇だ。


「さらにもうひとつをこいねがうことは許されぬ欲深さでございましょうか」


 生者には聞こえない声が天目一箇神の霊感に響いた。


 すでにひとつの契約はなされた。五百箇が千本の銅剣を鋳造し、天目一箇神の神代から続く獄囚のときを終わらせた。その見返りに、天目一箇神は、御統の一生を沿い護るのだ。これ以上、亡者の願いをきく義務はない。神は、なにも一方的な作為を強要される存在ではない。


 天目一箇神は、片目を細めた。五百箇はただの非永ではない。愛弟子である。天目一箇神は、天津神が持つべきではない情にほだされた。


「予は造りあげるもの。非永の命を造ることなど造作ない。汝があの童のもとへゆくまでの命を繋いでやろう」


 一聞では無慈悲とも思える言葉に、天目一箇神は密かな愛情を忍ばせた。五百箇が御統のもとへ至らぬかぎり、彼は新しい命を長らえらことができるのだ。


 五百箇はいじらしいほどに誠実だ。話を聞けば、五百箇は、ただ友との約束を果たすために全身全霊を捧げている。そういう人間だからこそ、布刀の姿との約束を守って千本の銅剣を鋳上げたのだ。御統とは血の繋がりはなく、ただ、自分に向けられる幼くか弱い存在からの依託に、誠実に応えようとしているのだ。


 もう、自分だけの幸せを考えてもよい。天目一箇神は、愛弟子にそう諭したつもりだった。


 しかし、再び草原に生身の体を立ち上げた五百箇所は、まっすぐに御統のもとへ向かった。天目一箇神は、湿った瞼を閉じた。


「ああ、まごころよ」


 五百箇の直向きさは、天目一箇神の魂を霊揺たまゆらした。非永という儚い存在を、初めて愛おしいと知った。


 五百箇が五十茸山に着いたとき、不運にも、御統はすでに輪熊に連れられて長い旅に出たところだった。御統を輪熊に託したとき、輪熊は眷属を引き連れて山を下りる直前だった。五百箇が出雲から戻ってこない間に御統が回復すれば、旅に連れて行くと告げられたことを、思い出した。輪熊は山を捨てるわけではなく、折々に戻ってくると話していたことも思い出した。


「あの童は、輪熊とやらに養われているのだろう。それでよいではないか」


 天目一箇神は、銅鏡の中から愛弟子に話しかけた。しかし五百箇は、五十茸山中深くの、輪熊の里の入口に座り、そこを動かない意思を示した。


 あえて愛弟子の反意を促さなかった天目一箇神は、人の目には見えず、ときの流れを遮断する箱を造り、それで五百箇を囲んだ。その中で眠っておけば、幾年月が過ぎようと、今のままの五百箇でいられる。待ち続ける苦しみがない。


 春夏秋冬のときが過ぎゆく。死している五百箇の体は朽ち去ってしかるべきだが、箱に囲われた五百箇は、生者の姿のまま眠り続けた。


「おい、ありゃあ」


 久しぶりに山に帰ってきた輪熊が驚くと、その足下を小さな影が走り抜けた。


とうと


 御統は五百箇に抱きついた。襁褓むつきに包まれていた赤子は、走り回ることができるようになっていた。そして、自分を慈しんでくれた五百箇のことを覚えていた。


「やぁ、御統」


 五百箇はゆっくりと瞼を開け、御統の頭を撫でた。


「おめぇ」


 輪熊には分かっている。五百箇は、既に生者ではない。


「輪熊様、御統が随分とお世話になりましたようで」


「うむ。まぁ、やんちゃくれだわ。それよりもおめぇ、あとどれくらいこっちにいられるんだ。おめぇにそんな呪いをかけたやつも、今夜一晩くらいは待つんだろうな」


 国津神くにつかみである輪熊には、感じ取れるものがある。その横の鹿高も、事情を把握していた。天津神の高い霊威を感じたが、それくらいの我が儘を認めないのなら、輪熊と二人で、五百箇に取り憑いている天津神と喧嘩してやるつもりだった。


「ええ、おそらく」


 五百箇は微笑んだ。


 輪熊が山の住処にしている岩室で、御統は五百箇に甘えた。その喜びようが、輪熊と鹿高の心を痛めた。


 夜が更けて御統が眠ると、五百箇は輪熊と鹿高に全てを話した。


「どうか、これからも御統をよろしくお願いします」


「うむ。それは任せておけ」


 五百箇は、天目一箇神が宿った銅鏡を差し出した。


「御統がこれを肌身離さぬようお言いつけください。そして、もしも大日が助けを請うてまいったときは、必ず御統を山門にお連れください」


 山門をいずれ飲み込む試練のときを見通したような目で、五百箇は言った。


 大日は、やがて山門を覆っている幻像に気づくだろう。そのとき、大日は必ずや輪熊に助けを求めるにちがいない。そして、山門を惑わす幻像を打ち破る鍵は、きっと御統であるにちがいない。五百箇はそう信じていた。


 五百箇の信念を全身で感応した輪熊は、


「承知した」


 と、力強く言った。


「御統には何と」


 鹿高が尋ねた。父と信じる五百箇がようやく戻ってきたのに、目覚めれば再び一人になる御統が哀れでならない。


「御統には、常世の国からずっと見守っていると、そうお伝えください」


 五百箇の体は現世の理から放たれて、生者としての色彩を失っていく。


「御統、どんなことがあってもくじけちゃいけないよ。幸せを探すんだ。そのために生まれてきたのだから。御統、ああ、御統」


 五百箇は、御統の安らかな寝顔を見つめた。その両目から溢れる涙が光の粒となった。その光が星明かりのように夜空に吸い上げられたとき、五百箇の姿は消え去った。


 この五百箇の物語は、昏睡した大日が見続けた夢である。


 夢が果てたとき、大日は静かに目を開いた。

 饒速日の奸邪な呪いから山門を解放しようとした安彦と五百箇。安彦は剋軸香果実の妖力に魅せられて正気を失い、五百箇は直向きにまごころを貫いた。


 二人の物語を垣間見た大日が、昏睡から覚める。

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