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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(24)-磐余の戦い(1)

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の嫡男、春日族の入彦に出会う。


 山門やまとでは神祝(かみほ) ぎの馳射はやあて誓約うけひの鏡猟が催され、御統と豊は、持ち前の無謀さと呪能とで、春日族の勝利と混乱を招く。このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。


 かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを、斑鳩族の饒速日にぎはやひに手渡していた。安彦は果実の魔力に取り憑かれる。


 山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。


 登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、自分が磯城族の氏上の血を引いていることを知り、指導者として成長していく。


 大日は昔日を回想し、饒速日にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと気づく。安彦は山門を取り戻すため、妹を凌辱した饒速日に復讐するため、そして果実の魔力を得るため、登美族を手中とし、計画をすすめてゆく。


 筑紫の日向ひむかの五瀬は、豊葦瑞穂原とよあしのみずほのはらを目指し、天津彦あまつひこを名乗って天孫族と共に故郷を旅立つが、彼らの真秀場まほろばを目前に、山門諸族を率いた大日の前に敗れる。


 天津彦五瀬を失った天孫族を狭野姫が鼓舞し、彼女は天津彦の名を継いで豊葦瑞穂原を目指す。室の地に上陸した狭野姫は、名草族の宝剣、韴霊剣ふつのみたまのつるぎの力を得て、室の人々を苦しめていた丹敷族を平定し、室を熊野と名付ける。



 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子ひこと呼ばぬ者には容赦ない。


 五瀬いつせ

 狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。


 手研たぎし

 五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。


 珍彦うずひこ

 元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。

 磯城族しきぞくむらから南西に目をやると、露出した岩の多い小高い丘が見える。そこは磐余いわれと呼ばれる丘で、磯城族の発祥地とも伝えられている。


 その磐余に、大日は大きな砦を築いた。もちろん、勢力を回復した天孫族に備えるためだ。


 磯城族は北と東に山を背負っているため、大軍は展開できない。南と西には初瀬川が流れ、天然のほりとなっているが、そこまで敵を引き寄せれば、邑にも被害が生じる。磯城族は山門では珍しく農業を知る民であり、邑の周りには畑がある。その畑を敵に荒らされ、作物を奪われる。


 そこで、大日は磐余に目をつけた。ここに砦を築けば、戦いを邑から遠ざけることができる。そのうえ、磐余は磯城族の発祥地であるから、祖霊おやたまの加護が期待できる。霊的存在の援助があるかないかは、そこで戦う軍士いくさびとにとっては大きな問題なのだ。


 ところで、砦を、それもそれなりの規模のものを築くには、当然ながら人手が必要だ。大日は、磯城族の男たちを総動員してその作業に当たった。


 磯城族の男たちが、大日の号令一下に嬉々として従う様が、入彦にはどうにも不思議に思えた。


 少し前まで、山門の支配者とそれに抗う磯城族という構図の中で、大日は、磯城族にとって敵対者であったはずだ。実際、小規模ではあったが、大日は磯城族との戦いで、山門軍士の指揮を取ったことが幾度もある。大日の振るう剣、大日の放つ矢に傷ついた磯城の男たちは多いはずだ。


 山門の御言持みこともちであり、春日族の氏上このかみでもあった大日が、実は磯城族の出身、それも首長の血を引く人物であるという事実が、入彦には容易に受け入れられなかった。その事実は、つまり自分自身にも磯城族の血が流れているということだ。物心がついてからの十余年、まつろわぬ者どもと卑下してきた一族の血縁者であったという現実は、入彦にとってはあまり歓迎できるものではなかった。


 それでも入彦は、磯城族の守護神である三輪山の大物主の幸魂さちみたまの力を得た。その力が現世に及ぼす奇跡、それは大地の養育力を高めて作物や果樹の生育をすこぶる早める現象だが、それによって自分に注がれる磯城族の人々の称賛の視線を否定することはなかった。特に、若い女性からの抱擁を伴う感謝は喜んで受け入れた。もともと、人の意思を無条件に受け入れるのは得意技だった。


 そういったわけで、入彦は、父である大日が磯城族に推戴されて氏上に就任したことを、にこやかに祝福した。


「喜んでばかりもいられないのよ。火中の栗を拾うってことわざを知らないのかしら」


 と、とよは入彦の脳天気をたしなめた。再起した天孫族が南から迫ってきていることを知らない者はいない。磯城族の氏上となった大日は、再び天孫族の侵攻の矢面に立たなければならない。


「おれっち、栗は大好きだぞ」


 入彦が生やした山葡萄の実を頬張りながら、御統みすまるがのんきな声で主張した。


「本当に無知ね、あなたは」


 豊に呆れた目で見られても、御統は意に介さない。横たわった彼の愛馬の翠雨あおさめの腹部に頭を乗せ、たわわに垂れ下がった山葡萄の実をもてあそんだ。時々、翠雨も首を伸ばして山葡萄の瑞々しさを味わっている。


 三人と一頭がたむろしているのは、磯城から東北、鳥見山とりみやまと呼ばれる山の森の中だ。この山の頂からの眺望はすばらしく、まるで鳥の目から俯瞰するような山門の一望が堪能たんのうできる。


 躑躅つつじの美しい山だが清水も湧き、入彦が見つけた森の奥の清泉を、三人と一頭は彼らの秘密基地にしていた。岩と背の高い草に隠され、この泉は、外からではなかなか分からない。


「それで、磯城族はこれまで氏上不在でやってきたというの」


 豊は胡桃くるみを食べている。入彦の操る大物主の幸魂は、実に便利で、魅力的だった。果実でも、木の実でも、思うがままに実らせることができる。


 入彦は、礒城族の年寄や祝者はふりから聞いた話を再構成して、豊に話して聞かせた。


うつきざみ?」


 初めて聞く言葉だが、言霊に耳障りな響きがある。


「礒城の人たちはそう言うらしい」


 入彦自身、既にいっぱしの礒城人であったが、まだ他族のような行儀が抜けない。十七年間、春日人だったのだからしかたがない。


 ともかく、空の刻とは、礒城に訪れた空白の時間をいう。何が空白かと言えば、礒城族を導くはずの氏上の血筋が、忽然として消えたのである。そして、消えたことにさして違和感を持たないまま、二十年に近い年月を彼らは過ごしてきたのだ。彼らがその時間の流れに初めて違和感を覚えたのは、氏上の血を引く大日と大彦が、山門を逐われて礒城に逃げてくる知らせを受けたときだった。


 氏上の血筋の失踪をなにゆえ一大事として捉えなかったのかと問えば、彼らは口をそろえて、


「それは、わからない」


 と言う。そのわからないゆえをもっと、空の刻というのだ、と彼らは言った。ただ、礒城族の邑の郊外で、あたかも邑を守護するかのように屹立する人型の石を見ると、わけもなく心を霊揺たまゆらされたと言う。


「三輪山に祭りを捧げる姫巫女も、長らく昏睡のままというじゃない。それでよく山門に取り込まれずにこれたものね」


 礒城族は神奈備山である三輪山の祭祀の主催者として、氏上の血筋のうち最も呪能に優れた女子を選出し、姫巫女と呼んだ。 


 その姫巫女は斎宮いつきのみやの奥のへやで、石の彫刻のような冷たさで眠り続けている。意識を深いところまで落とす秘術の最中と言うことだが、姫巫女は死んだと判断されても仕方がないほどに生気を失っていた。


 それでも斎宮に使える祝者はふりや巫女は、二十年間、主の世話をしつづけてきた。その奉仕を誰に命じられたかと問えば、失踪した氏上の血族の一人の最後の命令だったのだという。その命を受けた証拠は、一人の老祝者の記憶に残っている言霊だけだった。


 礒城族が山門に脅迫されながらも辛うじて独立を保ち得たのは、むらの年寄りたちが合議制により族を運営してきたからだ。その仕組みを基礎づけたのは、古くから礒城族の周辺で暮らしてきた渡来人の若者であった。彼ら渡来人は、礒城族の中枢には入り込まないものの、邑の郊外に居住を許され、類い希な鍛冶かぬちの技量で礒城族と共存共栄の関係にあった。


 その渡来人の有能な若者の一人が、呆然としていた礒城族の年寄り達に働きかけ、合議制を説いた。若者は礒城族の運営方法に目処が立ったことを確かめると、忽然と姿を消した。


 その若者の名は、五百箇いおつといった。 


「おれっちの父ちゃんだ」


 唐突に起き上がって、御統が会話に割って入ってきた。入彦と豊が驚きの顔を見合わせる。


「なんですって。あなたのお父さんなの」


「五百箇という人が、おまえの父親なのか」


 二方面からの問い合わせに、御統はいちいち頷いた。


「親方がそう言ってたんだ。おれっちの父ちゃんの名前は、五百箇だって。母ちゃんは知らないけどね」


 母親の名を知らないという不幸を、さして感傷的でもない口調でさらりと言ってのけた御統は、翠雨の腹にまたごろりと横たわり、両手を頭の後ろで組んだ。親方というのは、もちろん、御統の育ての親である輪熊のことだ。


「それで、おまえの父親は、今どこにいるんだ」


 もし五百箇に会うことができれば、空の刻という胡乱うろんな時の経過を、鮮明にすることができるかもしれない。入彦の期待は、しかしあっけなく消去された。


「知らない」


 失せ物の所在を尋ねられたときの気軽さで、御統は答えた。


「でも、どこを探せばいいかは、知ってるんだ」


「どこだ」


 入彦と豊の顔が、御統に近づいた。


常世とこよの国だよ。おれっちがいつも探しているだろう。父ちゃんも母ちゃんもそこにいるって、親方が言ったんだ」


 いつか必ず会うことができる。御統にはその希望がある。入彦と豊は、今度は痛ましげな顔を見合わせた。


「…そうか。それなら、いつか会えるな」


 入彦がそう言うと、御統は元気に頷いてから、笑った。


「ともかく、大日様が邑に帰ったことで、礒城族はときを取り戻したわけね」


 豊は、さりげなく話題を替えた。


斑鳩大宮いかるがおおみやにいたときには何も思わなかったが、父上が御言持を逐われたこともそうだけど、どこかおかしいぞ、山門は。何かぼんやりとした謎に覆われているような気がする」


 入彦は腕を組んで考え込んだ。何かが、人々の意識とは別のところで、山門の運命を操っているような気がするのだ。


「得体のしれないまじないが、山門全土にかけられているのよ。礒城族の空の刻なんか、まだましだわ。大きな災いに襲われた人々もいるのよ」


 余計なことに言及してしまった豊は、入彦と御統に馴れすぎてしまっていることを後悔した。


「そういえば、豊はどこから来たんだい」


 かねてからの謎めきを、御統はふと思い出した。


 出会ったのは、輪熊座の野営の夜だ、豊は、しがない旅芸人一座のなけなしの鏡をくすねようとする盗人だった。まるで夜から生まれ出たかのような出で立ちで、まるで星空からこぼれ落ちてきたかのような瞳をしていた。ずいぶん懐かしい日の出会いだったように思える。


 お気楽なくせに、余計なときに、余計なことに気がつく子ね、と豊は心の中で毒づいた。ただ、表情には心の作用を反映させてはいない。


「本当に無知ね、御統。嬢子をとめ経緯いきさつを尋ねるものじゃないわ。そうでしょ、入彦」


 急にふられた入彦は、本心では御統の探究を褒めていたくせに、慌てて分別くさい顔を作って、


「そうだぞ、御統。嬢子の過去を探るってのは、野暮中の野暮だ」


 と、御統を叱った。御統は唇を尖らせた。


 会話に気まずさが生じることを避けたかった豊は、


「やらないといけないことが多いわ。まずは天孫族を撃退すること。そして、美茉姫を探し出し、助け出すことよ」


 と言って、入彦と御統の意識を転じさせた。美茉姫のことを思えば、自責の念に駆られる。豊が放った札たちは、まだ吉報を持ち帰っていない。三人を包むようにしていた山葡萄の蔓も、元気を失った。


 三人は鳥見山を下り、ほぼ完成した磐余砦に向かった。


 大岩と大木の砦だ。大岩は礒城の男達が大地から掘り起こし、集積したが、大木は、入彦が大物主の幸魂の力を源に、生成させたものだ。


 大木は栗やぶなしいだ。木の実が食用になる。砦内の一角の畑地には、豆や陸稲おかぼがたわわに実っている。大きな食料庫を大岩で囲ったような砦だ。食料という点で、どれだけ長期の籠城にも耐えられる仕様となっている。


「いよいよだぞ」


 三人を、大彦が迎えた。すでに気迫をみなぎらせている。砦内では、磯城の軍士いくさひとたちが鋭敏に働いていた。


 入彦は御統と豊と別れて、物見櫓に登った。そこに、大日がいた。入彦は、父の隣に並んだ。


 秋の風景が暮れなずんでいる。彩りを宵闇に沈めた山の稜線に、幡旗はたが立っている。天孫族が到来したのだ。


「女、こどもを砦に入れるべきではありませんが、私から離れぬと駄々をこねますもので、豊と御統を伴いました。邪魔はさせませぬし、何らかの役には立つでしょう」


 入彦は父の顔を見ずに言った。


 砦の中に、篝火かがりびの炎が立ちはじめた。そのせいか、風には、まだ秋に染まりきらぬぬるさがあった。


われも、派手にだだをこねた男童をわらべを、しかたなく砦に入れてしまった」


 大日のいう男童は、入彦のことだ。


「だが、その童のおかげで、この砦は十歳じっとせの戦いに耐えられるようになった」


 父は、子の横顔をじっと見つめている。


「私は、戦いはきらいです」


「知っているよ」


 だからこそ入彦は、大物主の絶大な力の源の荒魂あらみたまを選ばす、人に豊穣をもたらす幸魂を選んだのだ。


「ですが、私は、誰かにけしかけられて駄々をこねたのではありません。私は、私の考えで、皆と戦うことを決めたのです」


 入彦は、ようやく父を見上げた。


「それも、知っている」


 だからこそ、大日は入彦の従軍を認めた。視線は大人を見上げなければならないが、入彦の心の高さは、すでに大人に並んでいる。


「戦は明日からだ。まずは矢合わせからだが、この戦いは長引く。今夜のうちにしっかり食べて、しっかり寝ておくことだ。体力が尽きた者は、役に立たんぞ」


 入彦は、父の助言を素直に受け入れた。


 物見櫓を下りると、砦内のどこかから、陽気な喧噪が聞こえてきた。そのにぎやかさを追っていくと、篝火を囲んだ人だかりがあった。


 御統が宙を舞っている。翠雨の背に乗って、駆けさせながら軽業かるわざを披露しているのだ。


 拍手喝采を送る笑顔の中に、豊の微笑みがある。入彦のまなざしに気づいた豊は、まろやかな表情を浮かべた。入彦も、屈託なく笑った。


 入彦と豊は、お互いに、この時のように笑えた過去を持たなかった。


 入彦は、天孫族との戦いが終わった後も、誰もが、この一時ひとときのような和やかさを失わずにいてほしい、と願った。


 夜が明けると、快晴だった。


 だが、早朝のすがすがしい空気を押しつぶすような威圧感が、磐余砦に押し寄せている。


 磐余砦の南方に隆起する山並みの稜線に沿って、無数の、そして色とりどりの幡旗はたが群立している。そこに、万を超す天孫族の戦意がぴんぴんと立ち昇っている。


 入彦は、弓弭ゆはずに弦を掛けた。父は今日の戦いは矢合わせになると言ったが、その矢合わせに、入彦も参加するつもりだ。これといって自慢できるもののない入彦だったが、父から手ほどきを受けた弓だけは、人後に落ちたくないという一途な思いがある。


 黎明の空に、炊煙が上がった。


 焼きたての団栗の麺麭パンを食べていた入彦に、御統と豊が合流した。御統は両手に麺麭を持ち、口にもひとつくわえていた。入彦の術のおかげで、砦内には椎の団栗が豊富に貯蔵されている。


「よく眠れたか」


「うん、親方がいないと、こんなにもよく眠れるとは知らなかった」


 口にくわえた麺麭を素早く咀嚼すると、御統は次の咀嚼作業に移行した。


 御統が言ったとおり、輪熊も、鹿高も砦には入っていない。輪熊座は、旅に戻ったのだ。


 もちろん、御統や大日たちを見捨てたわけではない。地祇くにつかみの身で、人の争いに加わることを避けただけである。もともと、しかるべき時に御統を大日のもとに届ける、という二十年前の約束を履行したにすぎない。それを果たした以上、輪熊と鹿高に、礒城族に肩入れする理由はないのだ。しかしそれでも、輪熊は義侠を発揮して、山門全土を覆う何やら得体の知れない雰囲気の正体を調べることを約束した。輪熊には、その雰囲気の元凶に心当たりがある。


 輪熊と、御統の別れは、至極、あっさりとしたものだった。お互いに、これが今生の別れではないことを知っていた。鹿高は御統を強く抱きしめ、瞼を下ろした目尻を少し濡らした。

輪熊一座の座員たちは、何かと面倒を掛けられた御統に、惜別の言葉を陽気に送った。


 輪熊たちは去ったが、御統は寂しくはない。豊と入彦がいる。これから共に天孫族と戦う礒城族の男たちがいる。


 朝食を終えると、大日のいる一段高くなった本営に、指令を伝える幡旗はたが立った。


 積み上げた大岩の頂に立て並べられた柵の内側に、祝者はふりたちが整列し、一斉に、解除はらえの呪言をつむぎ出した。開戦に先立ち、天孫族の陣営から放たれているはずの呪いを打ち払うためだ。


 ふつう、解除の作業に当たるのは顔に隈取くまどりを施した媚女けわいめだが、先の孔舎衛坂の戦いで、彼女たちを実戦に巻き込んだ結果の凄惨さを繰り返さないため、大日は、砦内に女の術者を入れなかった。例外は、ただ豊のみだ。


 人の目に映らない大気の中の精霊は、女性の声に強く感応し、言霊を遠くまで運ぶ。精霊に女尊男卑の風潮があるはずはなく、単に声の波長の問題だろう。その点、男性職である祝者の解除のまじないは不完全ではあったが、彼らの整列を破って前に出た大彦の大音声だいおんじょうがそれを補った。


「やぁ、やぁ、いじらしくも寄せてきたものよ。吾の得物の味が忘れられなんだか。野郎どもよ、礒城が山門を牛耳る第一歩に、健気にも天孫どもがはなむけに来てくれたぞ。盛大にもてなしてやろうではないか」


 大彦が大木のような銅錘を頭上で旋回させると大気にうねりが生じ、その波に熱せられたように礒城の軍士いくさひとたちが鬨の声を挙げた。


 大彦は、いま言挙ことあげたように、今日から始まる戦いを、礒城が山門の天地を掴むための第一歩と位置づけた。大日と大彦は、末弟の策略によって山門の中枢を逐われたが、そこに返り咲くのではなく、山門ごと乗っ取ってしまおう、となるのが大彦の思考なのだ。もっとも、大日に山門主となる心づもりがあるのかどうかはわからない。大彦としては、大日のための地ならしをさえすればそれでよかった。そのあとに、大日が理想郷を作り上げてくれることに疑いはなかった。


 それにしても、大彦の轟声である。言霊を伝播させてゆく大気中の精霊など関係なく、彼の声は四方の空気を圧し、震撼させた。不幸にも大彦の近くにいた祝者には、失神したものもいた。


「うるさい奴がいるわね」


 と、眉をしかめたのは新生天孫族を率いる狭野姫だ。磐余砦を見下ろす山の高台に立っている。深い秋の澄明な朝の大気を無粋に波立たせた声に、狭野姫は気分を害された。その不機嫌を叩きつけるように、豊かな声量で狭野姫は戦闘開始を告げた。


 狭野姫の号令を受けて太鼓を雄々しく打ち鳴らしたのは手研たぎしだ。狭野姫の腹心中の腹心で、俄に膨れあがった天孫族を取りまとめ、新旧の族人が争わないよう調和させ、山門の入り口まで整然と軍を進めてきたのは手研の手腕による。新天地開拓の戦いの総指揮を執るのも手研だ。狭野姫は、この篤実な年上の甥っ子を絶大に信用している。


 手研の指令を受けて、弓を携えた軍士が山を下りてゆく。すでに打ち合わせたとおり、初日は矢合わせになる。矢には破邪の力があると信じられているから、敵も味方も戦の始まりには弓矢を応酬し、彼我の間にある大気を清浄化するのがこの時代の戦いの作法なのだ。ただ、狭野姫は密かに、今日を、矢合わせだけで終えるつもりはない。磐余砦を一目見た狭野姫は、この砦は通常の攻め方では落とせない、と見極めていた。


 配置についた弓兵が整然と矢を放つと、示し合わせたかのように砦からも矢が飛来した。


 枯れ色が目立ち始めた秋の原野の上空を矢が行き交い、置き楯が律動的リズミカルな音を立てる。儀礼的な矢合わせだから、死傷者が続出とはいかないが、それでも傷つき、たおれる軍士はいる。


 入彦も懸命に矢を放った。


 砦の周囲に巡らせた逆茂木さかもぎにようやく届く弓勢ゆんぜいだった天孫族の矢は、次第に勢いを増して、砦内にも飛び込んできた。


 入彦の右隣にいた男が、喉元に矢を受けて転倒すると、大日は、弓兵を一旦、柵際から退かせた。その隙を突いて天孫族が前進すると、頃合いをみた大日は、再度、矢を射かけさせた。置き楯を傘のように担いで飛矢を防ぐ天孫族が後退すると、砦内も沈黙した。そういう攻防が、何度も繰り返された。


 秋の日暮れは早い。原野に朱色が広がり、磐余砦が宵に沈もうとしたとき、天孫族も礒城族も、誰もがこの日の戦いは終わった、と緊張を解いた。


 そのとき、風にうねりを生んで、突如として、砦の上空に巨大な鳥影が出現した。


 八咫ほどもある巨大な白烏、日霊ひるめが急襲したのだ。その背には、派手な羽飾りをまとった狭野姫が乗っている。 


 砦内は大混乱に陥った。夕日に隠れながら飛行してきた日霊は、現れると、礒城族の目には、まるで金色のとびのように映った。


 日霊が羽ばたくと、金色の光が降り注ぐ。その滴に打たれた者は、傷ついた。


「さぁ、お仕置きです。この岩座いわくらからさっさと退散しないと、痛い目に遭いますよ」


 狭野姫は、わざと嗜虐的な声で、礒城の男達を脅した。そうすることによって、混乱に拍車をかけようとしたのだ。何より、日霊から降り注ぐ金色の滴は、打たれると痛い。


 日霊は磐余砦の上空を大きく旋回した。その鳥影を見た者も、降り注ぐ金色の滴に打たれた者も大いに怯え、逃げ惑った。金色の滴に打たれて倒れた者を見ると、白羽が短甲に突き刺さっていた。


 大日は弓を引き、高台から矢を放った。それを見て、ようやく幾人かの軍士が矢を放ったが、いずれも日霊に届かなかった。


 勝ち誇った笑いを降り注ぐ狭野姫の前に、突然、大木が現れた。度肝を抜かれた狭野姫は、あやうく日霊の背から転げ落ちそうになったが、何とかしがみつき、日霊を急旋回させて大木との衝突を避けた。


非道ひどいことをするわね」


 自らの行為を棚に上げることの得意な狭野姫は、猛禽類のような目で、狼藉者ろうぜきものを探した。急成長した大木の根元に立つ人物を見つけると、日霊を急降下させた。天孫族のたっと建御子たけるみこを危険に遭わせた人間には容赦はしない。白羽で傷つけるだけではすまさず、鋭い矛のような日霊のくちばしで貫いてくれようとした。強靭な三本足の爪で引き裂いてやってもいい。


 狭野姫の攻撃の対象となったのは、入彦だ。青銅あおみの鏡に写し取った大物主の幸魂さちみたまの力を発動して、樫の大木で襲撃者を撃退しようとしたのだ。


 樫の大木の枝が蛇のように伸びてきて、日霊を絡め取ろうとした。その触手を巧みにくぐり抜け、狭野姫が命ずる日霊のくちばしが、入彦に迫る。


「あら、あのときのごちそう係の童男をぐなね」


 顔かたちがわかる距離になったとき、狭野姫の記憶にきらめく光景があった。あの忌まわしき孔舎衛坂の戦いで、もう少しで山門の将軍いくさのきみを仕留めかけたときに、山梨やら山葡萄やらのごちそうで邪魔をした少年だ。ちなみに、入彦は狭野姫よりも年上だが、狭野姫は総じて人を若輩に見る傾向がある。


 狭野姫は、剣を抜いた。互いに名乗りあったわけではないが、狭野姫は入彦を高貴な身分と看取していた。それに、見る間に大木を生成させた呪能がすばらしい。青銅の鏡に秘された力が源であろうが、それを自在に操っていることがすでに瞠目すべき才能だ。狭野姫が剣を抜いたのは、入彦の身分と能力に対する礼儀ともいえた。


 韴霊剣ふつのみたまのつるぎが、狭野姫の頭上できらめいた。そのきらめきに目を細めつつ、入彦はすばやく弓に矢をつがえって、放った。矢は、きらめきに弾かれた。


 大気をうならせる羽音とともに、狭野姫の剣が入彦を襲う。


 間一髪を、翠雨あおさめをひと飛びさせて、御統が救った。


「あんちゃん、首はちゃんとついてるか」


 叫んだ御統は、振り返って、自分の後ろにいる入彦の首が無事なことを確かめた。


「ああ、何とか繋がっているようだ」


 入彦は自分の首筋を撫でた。


 御統と入彦を背に乗せた翠雨は、大木の根を跳躍しながら駆け、狭野姫との距離をあけた。


「小癪だこと」


 狭野姫は金切り声で悔しがった。日霊に命じ、御統と入彦を乗せた子馬を追おうとしたが、強い呪力に感応して振り返った。そこに、花文鏡かもんきょうをかざした豊の姿があった。


 花文鏡は太陽の意匠を彫り込んだ鏡だ。当然、日の力を持っている。日は、火でもある。


「いでよ、火産霊ほむすひ


 火球が生まれた。豊のかざす花文鏡の鏡面近くで巨大に膨れた火球は、紅炎を吹き出しながら狭野姫に襲いかかった。


 狭野姫と日霊とを焼き尽くすかに思えた火球は、しかし、彼女らに触れる寸前、陽炎のようにかき消えた。豊は仰天し、狭野姫は微笑んだ。


日霊ひるめは、日の使い。われ天照あまてらすの血縁。火は吾の眷属。この身をおそれるは至極当然」


 狭野姫は勝ち誇った。だが、その悦に入った笑みが凍った。優越感が恐怖心にすり替わった。


 何か、とてつもなく凶暴な気配が、雪崩のように落ちてくる。


 狭野姫は、背後を振り仰いだ。巨大な影があった。


 大彦だ。


 入彦が生成した大木の幹を大猿のように駆け上り、狭野姫の頭上高くまで昇って、銅錘の、必殺の一撃を叩き込もうとしているのだ。


 無言にして、強烈な殺意が狭野姫を襲う。


日霊ひるめ!」


 主の必死の声に感応した日霊は、高く鋭い喚声かんせいで一鳴きし、風切羽が狭野姫の背後でふれ合うほど、大きく翼を広げた。そこからの羽ばたきが、猛烈な風を生んだ。


 地上で空を見上げていた御統、入彦、豊でさえ風圧に体を押しつけられたほどの暴風だ。至近距離で烈風の直撃を受けた大彦は、その巨体を吹き飛ばされた。触手のように伸びていた大木の枝を折り、幹に叩き付けられ、そのまま落下して猛烈な土煙を上げた。それでも、すぐにむくりと起き上がる大彦の頑丈さだ。


 磯城の大男の強靱さに呆れつつ、分が悪くなってきたことを悟った狭野姫は、日霊を優美に旋回させてから、


「では、ごきげんよう」


 そう言い残して、天孫族の陣所へ向けて、茜空を飛び去った。


 巨鳥の黒影が宵闇に消えると、この日の戦いは終わった。


 矢合戦ではお互いに死傷者は少なかったが、狭野姫の襲撃は大きな損害を磯城に与えた。傷ついた者も多かったが、何より心理的損害が大きかった。堅牢な砦であっても、空からの攻撃には弱い。その弱さを砦内に知らしめられては、長期の籠城を戦い抜くことができない。磯城の軍士たちは、昼夜、鳥の影に怯えなければならなくなった。


 大きな戦功をあげたはずの狭野姫は、しかし、陣所に戻って大目玉を食らった。


主者きみたるものが、なんと軽率ではございませぬか。あなた様は、ただ一人の天津彦あまつひこなのですぞ」


 手研たぎし口吻こうふんを浴びながら、狭野姫は殊勝げに頭を垂れた。これが珍彦うずひこ道臣みちのおみであれば、理不尽な鉄拳制裁で報復されるところだが、狭野姫は手研には頭が上がらない。血筋上、手研は狭野姫の甥になるが、年長である彼は、幼くして親元を巣立った狭野姫にとっては、父であり、兄であった。


 ただ、狭野姫は叱られながらも、反省はしていない。単身、敵地に乗り込んだのは無謀だが、彼女なりの必要性と勝算があったのだ。大岩で堅牢に築かれた砦を真正面から攻めれば、天孫族の被害も多い。平らげねばならない族は、磯城族だけではない。山門の南東の入口を守っているにすぎない磯城族を平らげれば、次は山門の主族である登美族とみぞく斑鳩族いかるがぞくと矛を交えなければならない。そのため、磐余砦は心理的攻撃で陥落させたほうがよい。


 甥の機嫌は損ねたが、今日の襲撃の成果は高かった、と狭野姫は自賛した。次は、単身で無謀、という批判を避けなければならない。


 翌日からは矢だけでなく、矛も砦に迫った。


 勇敢な天孫族の軍士たちが大岩をよじ登っては、突き落とされた。


 手研は矢が届く距離まで軍営を進め、自ら太鼓を打って天孫族を奮い立てた。


 天孫族は一万を超える大勢だ。対して、砦に籠もる磯城族は、手研の見立てでは千を超えない。そうであるのに、砦は頑として天孫族の攻撃を跳ね返した。十倍の敵に立ち向かわせる大日の統率力、そして大彦の破壊力に、手研はうなりつつも感心した。


 数日の攻防が続いた。天孫族の死傷者が増えた。砦内の死傷者の様子は外からでは分からないが、手研の手応えでは、明らかに磯城族の反撃に衰えがある。年少の叔母を褒めるわけにはいかないが、磯城族は昼夜を問わず空からの襲撃を警戒しており、その疲労がたまっているに相違なかった。


 今日こそは落とせる。そう信じて、ばちを握る手に力をこめた手研だが、日暮れに染まる砦を見つめて、舌を巻いた。この日も、磐余砦は攻撃をしのぎきろうとしている。


 一度、軍を引き上げ、あらためて戦術を練り直した上で出直すべきか。そう思案する手研の上空を羽音が飛びすぎた。


金鵄かなとびが来たぞ」


 礒城の軍士いくさひとの一人が恐怖の声を上げた。恐怖は、たちまち砦内に伝播した。巨鳥の襲撃を悪夢に見る者たちは、金色に輝くその姿を金鵄と呼んで恐れていた。


 弓矢を持つことも忘れ、我先に物陰に逃げ込もうとする磯城の男たちの恐怖心をあおり立てるような羽ばたきの音で、狭野姫を乗せた日霊が現れた。


「こんばんは」


 挨拶の言葉は穏やかだが、それを根の堅洲かたすからの呼び声のように聞いた磯城の軍士たちは、怖気おぞけをふるった。しかし、その恐ろしい呼び声に立ち向かった者たちがいた。


「こんばんは。ご機嫌およろしいようで」


 入彦と御統、豊は、狭野姫を待ち構えていた。彼女の襲撃を予期していた。丁重に出迎えられた狭野姫は、霜を降ろすような冷たい笑みを浮かべた。


「お出迎え痛み入ります。実は、今日は、連れがいるのです」


 狭野姫の最後から、二つの影が飛び立ち、砦内に降り立った。珍彦と道臣だ。二人を連れてきたことで、単身での無謀を試みた、という手研の批判をかわそうというのだ。狭野姫にとって、恐ろしいのは手研ただ一人だ。


 手研も、年下の叔母が再び無謀を企図するだろうことは予想の範囲内だった。そのため、緩めかけた枹の手を強め、ここ数日で最も激しく砦を攻め立てた。


 大日と大彦は俄然として勢いを強めた寄せ手の対応に追われ、侵入者への対応は、入彦、御統、豊が請け負うこととなった。


おんみらの名を聞いておきましょう」


 狭野姫は、素直に三人のことが知りたいと感じた。先の奇襲も、孔舎衛坂での作戦も、この三人に邪魔立てされたが、不思議と憎しみはない。単に年格好が近いというだけではなく、狭野姫は、立ち向かってくる三人に、自分と同じ風姿を感じた。自分と同じように、信念を持った童子たちだ。


「私は入彦だ」


「大日の子ですね」


 目を見ればわかる。狭野姫は孔舎衛坂で、当時山門の将軍いくさのきみだった大日と対峙している。目の美しさを見れば、二人が父子であることは推測できる。


「わたしは豊」


「言霊使いね。今日は戦法を替えるのかしら」


 豊は鏡を携えていない。先日の戦いで学んだ。天孫族の長が操る霊獣は天照の使い。それを宿す鏡の呪力は途方もなく、匹敵する力を発揮する鏡は滅多にない。それならば、豊は、自分の最も得意とする言霊で戦うことを選んだ。


「おれっち、御統」


「あなたは、天神あまつかみしもべですね」


 狭野姫は、わざとそういう言い方をした。このひなびた童子が、白銅ますみの鏡から天目一箇神あめのまひとつのかみを降臨させるのだ。孔舎衛坂での天孫族の敗北を決定づけたのは、山を崩すような天神の力であった。神の霊魂そのものを鏡に宿しているという点で狭野姫の日霊ひるめと同じだが、神格としては日霊は天目一箇神に遠く及ばない。年端のゆかない童子が、そのような絶大な力を持つ天神の主だとは、狭野姫には信じられなかった。


「おれっち、でか目親父の子分じゃないぞ」


 憤慨した顔で、御統は口を尖らせた。


「天神を、ずいぶん軽く言うのね。よくないことよ」


 狭野姫はたしなめめたが、御統は平然としていた。


「そんなことより、羽の姉ちゃんは誰なのさ」


 忠告を軽く流した御統は、狭野姫に睨み付けられた。狭野姫が秀麗な眉を逆立てたのは、忠告をいなされたからではない。


「誰が姉ちゃんですか。われの名は天津彦あまつひこ。天孫の建御子たけるみこよ」


 怒りが募った狭野姫は、そのまま戦闘開始を珍彦と道臣に命じた。迫力ある名乗りを考えていた二人は、披露する機会を割愛されて驚いた。顔を見合わせた二人は、しかたなく、矛を振るって襲いかかった。同時に、狭野姫が日霊に攻撃を命じた。


 鋭利な白羽が降り注ぐ。豊が言霊をつむぎだすと、辺りを舞っていた樹木の木の葉が旋毛を巻いて白羽を遮った。


「入彦、もっと木の葉を」


豊の要請に応じて入彦が青銅の鏡に命じると、暴風が吹いたかのように木の葉が舞った。


(なれ)ら鋭き飛矢なり」


たゆたっていた木の葉が戦意を帯びて、狭野姫と日霊に襲いかかった。


「なるほどね」


 豊の戦法を理解した狭野姫は慌てなかった。呪力では真鉄(まがね)の鏡に対抗できないと悟った豊は、入彦と連携して言霊の力を存分に発揮しようというのだろう。狭野姫にとっては片腹痛かった。


 日霊が熱波を発した。天照の眷属である日霊が日光の力を放出したのだ。飛矢となった木の葉も、触手のように伸びていた樹木の枝も、燃え尽きた。


 熱波は豊や入彦の肌をも焼こうとしたが、巨大な真桑瓜の実が盾になって、二人を護った。


「あちぃって!」


 御統と珍彦と道臣は熱さに跳ね回ったが、甘い果汁を浴びた豊と入彦に被害はなかった。


「まったく、日女ひめさまには我らのこともお気遣いいただきたいものだ」


「しかたあるまい。我らであれば何とかするとお信じなされてのことであろう」


 珍彦と道臣は愚痴を言ったり、励ましたりして、御統を前後に挟んだ。童子一人にいい大人が二人がかりというのは見栄えが悪いが、珍彦と道臣は、この俳優わざをぎの童子が、ただの童子でないことを知っている。


 彼が腰に提げている白銅鏡は、天神をこの顕界けんかいに媒介する。その天神は鉄槌を持っており、その一撃は山をも崩す。ただ、二人が知らないこともある。それは、白銅鏡に宿る天神がひどく気儘で、御統の意思によって現出するものではないということだ。ともかく、御統が鏡を持ち出すことができないほど、間髪なく攻め立てなければならない、と考えた。


 珍彦と道臣が矛を逆さまに持って御統に突きかかったのは、二人の大人としての最後の配慮であった。できれば、命を奪うことなく、童子を鎮めたい。ところで、御統は、実は一人ではない。彼は翠雨あおさめの背にあった。御統の愛馬は若駒とはいえ、前脚をあげれば優に大人の背丈を超える。翠雨の蹄に逆らわれれば、珍彦と道臣はちょっと苦労した。そのうえ、御統が馬上から的確に石礫いしつぶてを投げ込んでくる。珍彦と道臣は、ついに矛の刃を御統と翠雨に向けた。


 狭野姫、日霊と、入彦、豊も激しく戦っている。


 入彦は一帯に生育させた樹木の枝や根で、縦横無尽に飛び交う日霊を捕まえるか、叩き落とそうとした。狭野姫は日霊に熱波を放たせ、枝や根を焼いた。砦内に火災が起こったが、豊が言霊を駆使して、炎の興奮を鎮め、消火した。


「いい加減に降参なさい」


 狭野姫は呆れてきた。どうせ、いつかは砦は落ちるのだ。岩をも貫く羽矢と、火焔を生む熱波を日霊が放ち続ければ、いずれ砦内の礒城族は倒れ尽くし、砦は燃え落ちる。どれほど抵抗したとしても、それが近い未来の光景だ。それなのに、なぜ入彦と豊は懸命に戦おうとするのか。


「降参するのは、お前達だ、天孫の主者きみたるものよ。ここは礒城のところであり、礒城の御祖みおやが切り拓いたくにだ。野末のずえの草花に至るまで、お前達にまつろうことはない。だが、礒城は豊でもある。お前達を受け入れるところがないわけではない。天孫よ、流浪の我が身を省みて、いやを正し、出直すがいい。そうすれば、共に生きる道もあるだろう」


 入彦は言った。堂々とした声だ。まるで、父、大日のようでもある。


猪口才ちょこざいなな口を利くこと」


 狭野姫は逆上した。入彦の迫力に押された自分が許せなかった。入彦の双眸に、建御子たけるみこの光が見えたことにも我慢できなかった。


 この頃、手研は総攻撃を命じていた。砦内は狭野姫の襲撃によって大混乱しており、組織的に防戦している礒城族はわずかだ。その僅かが、手強かったが、天孫の全ての軍士を投入すれば、日が落ちきるまでに砦を制圧することができると確信した。そのため、本営の軍士までを駆りだして、砦の外郭を構成する岩壁に取り付かせた。


 天孫の本営が露出した。物見櫓からこのときを見逃さなかった大日は、礒城族の決戦兵器に出動を命じた。


 砦内からのろしが上がった。それを遠目に見ていたのは、石火いわほ率いる春日の騎馬隊であった。


 実は大日は、密かに春日の騎馬隊を招き寄せており、山足の森に潜ませていた。勝敗が錯綜するこの一瞬に、秘蔵の騎馬隊を発動させた。


「ゆくぞ、息子よ」


 石火は、石飛いわたかに向けて腕をさすってみせた。馬合わせの傷がすっかり癒えた石飛は、力強くうなづいて父に答えた。


 大地が鳴動した。数百の馬蹄が宵闇を打ち払って、手研の視界に出現した。それはまさに、地から湧いて出た悪夢であった。


 天孫の本営を守る軍士は少なく、あっというまに春日族に突破された。


 馬影に沈んだ本営を見た天孫族達は岩壁に取り付いたまま戦意を喪失して、呆然とした。そこに銅錘を担いだ災厄、大彦が飛び込んだ。一瞬で十数人を倒された天孫族は、潰走を始めた。


 孔舎衛坂の悪夢が、再び繰り返される。


 信じがたい光景を日霊の背から見た狭野姫は、目眩めまいがした。


「退き、山門の礼を学んで、善道ただしきみちをたどって手を差しのばせ。私は、大物主から授かった幸魂さちみたまの力で、お前達にも幸を分け与えよう。共に生きることができるはずだ」


 入彦は狭野姫を諭した。勝敗はすでに決している。これ以上の戦いは無益だった。


 狭野姫は、秀麗な容貌に険のある笑みを浮かべた。この小賢しい男だけは屈服させておかなければならない、と強く意識した。さもなければ、狭野姫の心に投影された入彦の姿が鮮やかに残ってしまう。狭野姫の深層心理を覗き見たならば、要するに彼女は入彦の毅然とした姿にどぎまぎしたのだ。無意識にその事実を隠蔽しようとした。彼女を憧れさせるのは、ただ、亡き兄、五瀬だけでなければならなかった。


「日霊、穿うがち尽くし、焼き尽くしなさい」


 命を受けた日霊が、入彦に向けて、ありったけの白羽を飛ばし、熱波を放った。入彦を護る樹木の枝葉がたちまち引き裂かれ、燃え上がった。


「こっちを見なさい」


 その声は、狭野姫の頭上で響いた。あり得ないと思った狭野姫が振り向くと、黒衣を木菟みみずくのように羽ばたかせた豊が上空にいた。


「そんなところで何をしようというの」


 頭上を取られたことの負け惜しみで、狭野姫は豊を笑った。虚空には、豊の言霊に応える木の葉も木の枝もない。ところが、狭野姫の冷えた笑みが凍てついた。豊は、黒衣から一枚の鏡を取り出した。隠し持っていたのだ。


「小娘!」


 狭野姫は叫んだ。ちなみに、豊は、狭野姫と同じ年頃だ。


 入彦のものよりは小ぶりな青銅あおみの鏡。空に息づく精霊を宿すことに適した鏡。豊は、澄んだ鏡面から、稚雷わかいかづちの群を生み出した。日霊は入彦に集中し、咄嗟の対応がとれない。


 無数の雷に打たれた狭野姫は、細い黒煙を吐き出した。彼女の身を飾っていた羽根飾りは黒焦げ、日霊も大きな損傷を受けた。


 落下に近い速度で、日霊は砦内に落ちた。珍彦と道臣が駆け寄る。


日女ひめ!」


 と叫んだ珍彦の頬が良い音を鳴らした。意外に元気良さげな細腕が、何度言っても聞かない者をひっぱたいたのだ。


「さっさと乗りなさい」


 叱声を浴びた珍彦と道臣は、狭野姫の意外な威勢の良さに、安堵しながらも戸惑った。


「逃げるのよ」


 そんな言葉を使いたくなかった狭野姫だったが、鈍い男達は明確に告げてやらないとわからないらしい。


 三人を乗せた日霊は、ふらつきながら飛び立った。重傷を負ったに違いない入彦の元へ駆けつけた豊には、狭野姫を追撃する余裕はない。御統は、友人を見送るような顔で、逃げていく襲撃者を見上げていた。


 日霊の翼の下で、目を覆いたくなる光景が広がっている。


 圧倒的に有利だったはずの天孫族の大軍が潰走している。それを少数の騎馬隊が追っている。まるで、狼に狩られる鹿の群のようだった。


 孔舎衛坂くさえさかの惨劇が、狭野姫の心理の視野に映し出された。手研の姿は、宵闇にも、逃げ惑う天孫族の中のどこにも見当たらない。


 最愛の兄に続いて、信愛する甥までも失うのか。


 狭野姫は、光を弱めていく落日に向けて絶叫したかった。


 狭野姫は黒焦げた衣装の内から一本の矢を取り出した。それは、孔舎衛坂の戦いで兄の命を奪った矢である。そして、月夜の海原に漂う天孫族に、道を示した矢でもある。


 珍彦から弓を受けとった狭野姫は、徐に矢をつがえると、悲哀の絶叫をあげるかわりに、目標もなく矢を放った。


 敗残の天孫族が、黒々とした山の向こうへ消えていく。


 光を失った空に、一本の矢だけが浮かんだ。


 夜陰に姿を隠し、風に導かれて虚空を滑ったその矢は、あろうことか、大日の胸に落ちた。

 またしても大敗を喫した天孫族。


 御統たちは強力な呪力で猛威を振るう狭野姫を撃退するが、一本の矢が彼らの運命を大きく揺さぶる。

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