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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(22)-真秀場(2)ー

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、座長の輪熊に育てられながら、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の嫡男、春日族の入彦に出会う。


 山門やまとでは神祝(かみほ) ぎの馳射はやあて誓約うけひの鏡猟が催され、御統と豊は、持ち前の無謀さと呪能とで、春日族の勝利と混乱を招く。このとき、天孫族の大軍が山門に向かっていた。


 かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、災いの果実とされる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを、斑鳩族の饒速日にぎはやひに手渡していた。安彦は果実の魔力に取り憑かれる。


 山門の御言持の大日率いる山門諸族は、孔舎衛坂で天孫族を打ち破る。しかし凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされ、山門を逐われる。


 登美彦の追討から逃れた大日、入彦、御統、豊たちは、山門と敵対関係であったはずの磯城族の邑へ向かう。ここで入彦は、自分が磯城族の氏上の血を引いていることを知り、指導者として成長していく。


 大日は、山門のすべてが饒速日の呪術により夢幻に沈んだ日のことを回想する。その夢幻にただ一人立ち向かっていたのは、今は登美彦と名のる安彦であったと大日は気づく。


 饒速日の奸悪な呪いから唯一人逃れていた安彦は、山門を取り戻すため、愛する妹を凌辱した饒速日に復讐するため、そして果実の魔力を己がものとするため計画をすすめてゆく。登美族を手中にし、山門の実権を握った登美彦こと安彦は、果実の魔力に呑み込まれる。


 かつて筑紫の日向ひむかの五瀬は、豊葦瑞穂原とよあしのみずほのはらを目指し、天津彦あまつひこを名乗って一族と共に故郷を旅立った。彼ら天孫族は海の回廊を渡り、苦難に耐え、とうとう真秀場まほろばを目前にする地に上陸するも、先住の山門諸族との交渉は破綻する。やむなく進撃を開始した天津彦だが、孔舎衛坂の戦いで、山門諸族を率いた大日の前に敗北し、志を果たせぬまま死去する。しかし、天孫族には、天津彦の意志を継ぐ若く美しい指導者がいた。



 ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の若く美しい指導者。男勝りで、日子ひこと呼ばぬ者には容赦ない。


 五瀬いつせ

 狭野姫の実兄。天津彦を名乗り、天孫族を率いて旅立つ。


 手研たぎし

 五瀬の実子。年下の叔母となる狭野姫を献身的に支える。


 珍彦うずひこ

 元は筑紫の漁民。天孫族の壮挙を知り、その先導役を買って出る。狭野姫のお目付け役。

 狭野姫さのひめは幼少の頃から聡明さを周囲から称えられ、一目で道理を見通すような明眸を持っていた。


 照るような光輝をまとい、絹のように肌理きめ麗しい肌をしていながら、童女の頃から男勝りに活発で、長兄の五瀬いつせや次兄の稲飯いないに剣や弓の手ほどきをねだり、瞬く間に兄二人が青ざめるほどの技量を身につけた。


 一方で呪能にも優れ、祝者はふりの術に秀でた三兄の入野いりのに教えを受け、巫術をも身につけた。


 神懸かり的であったのは、それらの技の習得が、わずか八歳のときに玄人の水準に達したことだ。妹にそれ以上の教えを授けられなくなった三人の兄は、あとは天神地祇あまつかみくにつかみの導きに委ねるしかないと、嬉しいやら空恐ろしいやらの顔を互いに見合わせた。


 彼女が風変わりであったのは、勇ましい男装を好み、羽毛の飾りを愛したことだ。羽毛の飾りへのこだわりは、まるでそうすれば空を飛べると信じているかのようだった。さらに奇矯ききょうであったのは、彼女は、自分を勇敢な男児として扱うよう周囲に強いたことである。うっかり彼女を少女扱いしようものなら、拳骨ですめば運が良いほどだった。彼女を少女扱いして許されるのは、父母と三人の兄だけだった。


 天真爛漫を絵に描いたような狭野姫は、日輪が光を放つような美しさでありながら、常に勇敢な建御子たけるみこに憧れ、いつの日か丈夫ますらおを多数従えて万里の征旅に出ることを夢見ていた。そのため、長兄の五瀬が真秀場まほろばへの東征を宣言するや同行を懇請し、兄たちと父母の眉を八の字にさせた。


 兄たちと父母は、狭野姫を万里の航路に同行させるかどうかについて一応の相談はしたが、結論は最初から決まっていた。狭野姫は言い出したら聞かない娘で、同行を拒否すれば、一人でも丸太船を漕いで付いてくることはわかりきっていた。


 父母は、晩年の子である狭野姫を特に可愛がった。あまりにも早すぎる巣立ちの時を切なく思いながらも、高千穂たかちほ族の伝来の宝鏡である真金まがねの鏡を護符がわりに狭野姫に授けた。


 そして狭野姫は天孫族と号した大人たちと共に万里の波濤を越え、吉備においては、長兄と次兄の不在を、年上の甥である手研たぎしとともに待ち、足かけ四年、十二歳のときにとうとう真秀場へと続く白肩の津に上陸したのだ。


 しかし天孫族は、真秀場の先住民である山門人に孔舎衛坂で敗れた。


 大敗といってよく、天孫族の男たちの半数は傷つき、たおれた。呪術と巫術で戦場に駆り出された祝者も巫女も、多くが孔舎衛坂に朽ちねばならぬむくろとなった。


 天孫族の遺体は、山門人の手により水葬されたことを狭野姫は後に知るが、故郷につながる海に葬られたことで死者の魂が多少慰められたとしても、天孫族が瓦解寸前に追い込まれたことに変わりはなかった。天孫族が再び日向の高千穂族に戻り、伊都いと族や族、狗奴くな族などに圧迫される日々に立ち返るようでは、孔舎衛坂で死んだ者たちは無駄死にとなる。


 天孫族瓦解の危機に陥らせた決定的要因は、天津彦あまつひこ、つまり五瀬の死である。


 天孫族を奮い立たせ、万里の航路を引率し、脱落者をほとんどださなかった五瀬の指導力は秀抜で、彼こそが、狭野姫が憧れる建御子の具体的人物だった。天孫族の理想郷、豊葦瑞穂原とよあしのみずほのはらは五瀬が天孫族に見せた夢であり、五瀬の死とともに夢も果てようとしていた。


 五瀬は、孔舎衛坂の戦いの二日目、天孫族と山門とが死力を尽くしている最中、飛来した一矢を胸に受けた。その矢の鏃は銅であったが、くろがねの五瀬のよろいを貫き、五瀬の体をも貫いた。


 山門の軍士いくさびとを指揮する都督かみ、大日が勝軍木ぬりでの弓から放った矢であることを五瀬が知るよしもなかったが、体から血と共に命がこぼれ出てゆくことを感じながら、自分を死に導く矢をまじまじと見つめて、山門人の怒りの強さ、山門人の誇りの高さを知った。それを知って五瀬は満足だった。山門人がそれほどに山門の天地を愛しているということであり、そうであればこそ、命をかけてこの天地を目指す意義があった。


「この矢を、我が一族の宝とせよ」


 そう命じて、五瀬は昏睡に陥った。強い呪念の込められた武具は、その切っ先の向きを変えれば、敵を討ち払う護符となる。


 五瀬はもう一日を持ちこたえたが、天孫族が海に追い落とされ、三々五々に白肩の津を脱出し、船列もなく海原を漂っている夜に身罷みまかった。


 偉大な指導者を喪った天孫族は心柱しんばしらを引き抜かれた高楼と同じで、激しく動揺した。


 その動揺を鎮めたのは、五瀬の弟である稲飯だ。五瀬には成人した子である手研たぎしがいたが、動揺した一族を鎮めるまでの人格にはまだ至っていなかった。稲飯も勇敢な指導者であり、天孫族の人々が彼の指図を待ったのは至極当然なことだった。


 稲飯は、五瀬から東征の話を事前に聞かされたとき、当初は末弟の入野とともに反対した。しかし長兄を信じることが強かった二人の弟は、結局は長兄の壮図に従うことにしたのだが、入野だけは日向に残り、父母と残留を望む高千穂族を護ることになった。


 稲飯は、やはり兄の壮図は暴挙であったと、あのとき深く兄をいさめなかったことを後悔した。夢が夢と終わった限りは、現実の世界に真向かわなければならないが、多くの族人を死に追いやった指導者の一人である自分が、おめおめと故郷に帰るわけにはいかない。


 稲飯は、天孫族の船団を操っている海童わたつみの長たる者に命じ、敗残の天孫族を日向に連れて帰るよう指示した。稲飯自身は、ひとまず吉備に戻り、身の振り方を考えることにした。


 実は稲飯は、兄が真秀場まほろばと思い描いた豊葦瑞穂原とは別の理想郷を描いていた。それは兄と共に出雲へむかった際、出雲の族人から聞いた話だった。


 出雲から海に出て、大真に至るまでの海中にも真秀場があるという。稲飯はそこを目指そうとした。


 稲飯が族人に請われて感懐を述べると、天孫族の三分の一ほどは稲飯に従うことを望んだ。彼らは、ひとたび故郷と決別した限りは、新しい天地を踏むことを固く誓った人々だった。


「では、残りの者たちは日向に帰るのだ」


 稲飯がそう言ったとき、狭野姫が言葉を挙げた。


「天津彦は、まだ豊葦瑞穂原を目指しています」


 舟首に立った狭野姫は、月が天孫族の船団を照らしているせいか、夜だというのに、日輪のような光で彼女を見上げる族人を包んだ。胸元に提げた真金の鏡が幻想的な光を灯らせている。


「兄は死んだのだ、狭野よ。なれには死者の声が聞こえるというのか」


 稲飯は神々しいばかりの妹をたしなめようとした。彼女に、稲飯が想像もできないほどの霊威が秘められていることは悟っていたが、天孫族は疲れ果てている。まずは安らかな地を彼らに提供するのが指導者の務めだろう。


「天津彦の魂はここにあります」


 狭野姫は一矢を掲げた。それは五瀬を死に追いやり、五瀬が一族の宝とするよう遺言した矢であった。


 彼女を見上げる天孫族に静かなざわめきが広がった。一族の氏上このかみなどの指導者には霊魂の声が聞こえると考えるのが一般的であったから、日の神のような神々しさの狭野姫の言葉を族人たちは拒否することができないのだ。


 稲飯も舟首に立った。彼とて兄の遺志を継ぎたい気持ちは有り余るほどあるが、いずれ再び天孫族が武器を持って戦うことがあるとしても今ではない。稲飯は、今は天孫族を休ませてやりたかった。


われは俗人であるゆえ、魂の声が聞こえぬ。妹よ、聞くが、その矢の魂は何と申しているのだ」


 稲飯は、あえて自らの指導者の資質を否定した。


「兄上」


 狭野姫は静かに稲飯を見つめた。透き通った瞳で、見つめ返せばその果てない底に吸い込まれそうだ。稲飯は、そのまま膝を屈し、妹を護る一剣になることを誓いたい衝動に駆られたが、何とか踏みとどまった。


「ひとつ誓約うけいをいたしましょう」


 と、狭野姫は言った。


 誓約は占いである。占者が宣言した内容に現象がどのように応えるかで、事の吉凶や正邪、成否などを占うのだ。


「もしこの矢が故郷を目指したのなら、わたくしは大綿津見にこの身を永遠に捧げましょう。もしこの矢が豊葦瑞穂原を目指したのなら、わたくしはこの身を天津彦の依代よりしろといたしましょう」


 天神地祇に誓うように、狭野姫は宣言した。


 矢が西に向かえば狭野姫は海原に身を投じ、東に向かえば天津彦の魂を引き継ぐというのである。


 狭野姫は矢を、真上の宙空ちゅうくうに高く放り投げた。


 族人は、あっと息を飲んだ。もしも矢が海中に没すれば、それは天孫族の消滅を暗示するのではないか。


 無風であった宙空に、にわかに風が巻いた。


 月光を鏃に浴び、そのまま星となるのかと思われた矢は、くるくると回りながら、天孫族の船団のもっとも豊葦瑞穂原に近いところに浮いた舟の船尾に突き立った。


 族人たちは、もちろん稲飯も、声を失った。


 矢は豊葦瑞穂原を目指したのである。


 静寂しじまをひととき置いて、一斉に居住まいを正した族人たちは声を取り戻し、


「天津彦が蘇られた」


 と、唱和した。稲飯も船首を下り、ひざまずいて、狭野姫に向けて主者きみたるものへのいやを示した。


「天孫の人たちよ。天津彦の魂をかしこむ人々よ。わたしはいまこのときより狭野の名を捨て、永久とこしえに天津彦の依代となりましょう。皆、吾こそが天津彦です」


 天津彦が復活したのである。族人たちは、舟の上で一斉にひれ伏した。


 天孫族は再び偉大なる指導者を得たが、しかし族人たちには困惑もあった。稲飯が案じたとおり、族人たちは、今は真秀場よりも安息を願っている。そのことは、しかし天津彦を襲名した狭野姫も十分に理解していた。


「兄上、お立ち下さい」


 狭野姫は仕草で稲飯を促した。


「我らが長兄、天津彦の魂は一人で受け継ぐには重すぎます。残された三兄妹は、力を合わせて偉大なる御霊を引き継ぎましょう。兄上もまた天津彦をお名乗り下さい。日向に向かう人々は、もう一人の兄である入野にも天津彦の名を継ぐよう請うのです」


 三人の天津彦が誕生すべきだと狭野姫は説くのだ。


「再び豊葦瑞穂原を目指す天津彦には三つの願いがあります。われに従いたい者は吾に従うことを吾の望みとします。新しい真秀場を目指す天津彦に従いたい者はその天津彦に従うことを吾の望みとします。日向で待つ天津彦に従いたい者はそこへ帰ることを吾の望みとします。天孫の人々よ、天津彦の願いに応えなさい」


 行く道を失った天孫族に、三つの道が示された。天孫族はどの道を選ぼうとも天津彦に従うことになり、万里の航路に出発したときの誓いに背かないことになる。


 こうして天孫族は、三つの集団に分かれた。分裂したのではなく、天津彦の壮図を三方に広げたのだ。


 夜を海上で明かすわけにはいかない。それぞれの行く先を見いだした天孫族は、この夜は浜に舟を上げ、共に過ごす最後の夜を明かした。


 朝まだき、まずは先代天津彦の葬儀が執り行われた。


 水葬である。


 海童を除いた天孫族及びその前身の高千穂族に水葬の風習はなかったが、寄るべき一片の土地も持たない彼らは、海童が信奉する大綿津見おおわたつみが故郷の日向へ運んでくれることを願って、天津彦こと五瀬の遺体を海中に流した。


 五瀬の妻である五十鈴媛いすずひめは、舟に心細げに立ち、夫の冥福を祈っていた。彼女は出雲で五瀬に嫁ぎ、つれ添った時期はわずかだった。


 手研は五十鈴媛と同じ舟に立ち、風が吹けば崩れそうに儚げな継母の心身を支えようとした。手研にとって、五十鈴媛は、生母から正妻の座を奪った女性である。しかし五瀬と五十鈴媛との婚姻は多分に政略的なものであり、そこに五十鈴媛の意思は関与しなかったことを手研は理解している。そのため、手研は実母に向けると同じ孝心で、父の後妻ながら歳の近い五十鈴媛に仕えた。


 手研の助けを借りた五十鈴媛が、海中に沈めた夫の遺体を故郷の方角へ向けて押し流したとき、それまで無音だった風が急に吹きすさび、雄叫びのように鳴った。波は乱れず、不思議な現象だった。霊異を感じとった狭野姫は、この海を雄水門をのみなとと名付けた。


 葬儀が済むと、、狭野姫は、新天地と故郷を目指していく船団を見送った。


 天孫族の行き先は三方向に分かれたが、故郷を目指す人数がもっとも多かった。次に稲飯に従う者が多く、狭野姫とともに行く舟影を見送った人数は多くはなかった。それだけ、孔舎衛坂での敗戦の衝撃が大きかったということだ。


 しかし、手研と珍彦うずひこは狭野姫と同じ道を行くことを決めた。


 珍彦は、天孫族の水先案内を買って出て以来、航行中は船団の先頭にいて海童を指導していたが、それ以外はもっぱら狭野姫の世話係に当たっていた。常に勇敢な建御子に憧れ、奇矯なふるまいの多い狭野姫の相手は並の人間では務めにくく、その点、珍彦は猛獣使いのようにきかん坊の狭野姫をうまくあやした。荒巻く海流を見事に乗りこなす珍彦ならではの技能だ。


 珍彦に対しては多分に暴君的な態度で接している狭野姫だが、疎ましく思っているわけでは決してなく、彼女の素直になれない感情をそのまま晒しても構わない人物が残ってくれたことは、素知らぬ顔をしておりながらも、彼女にとってはよく慣れた家にいるような安堵感があった。それ以上に狭野姫を安心させたのは、手研が残ってくれたことだ。昨夜、月光の海上で神がかり的な姿とふるまいで人々に道を指し示したとはいえ、彼女はまだわずかに十二歳なのだ。人々をまとめ、護り、導いてゆくには手研のように経験豊富な経世家が必要だ。


 狭野姫は、波打ち際で出立の差配をしている手研の側に歩み寄った。


「甥御どの…」


 喉を鳴らすような声で狭野姫は、年上の手研に呼びかけた。甘えたのだ。長兄の面影を受け継いだ手研は、続柄上は甥になるが、心象上では狭野姫にとっての兄であった。


「甥御どのが残って下さって、とても心強く思います。長兄も喜んでいることでしょう。おこがましくも天津彦の名をわたくしが授かりましたが、本来は御身おんみこそ天津彦です。これから先は、どうぞよろしくお導き願います」


 しおらしい狭野姫を見た珍彦は、自分との対応の違いに驚いたが、手研の行動はすばやかった。波が洗ったばかりの浜辺に膝をつき、氏上このかみに捧げるべき礼を捧げた。


「天津彦よ。月下の誓約をお忘れか。先代の御魂みたまが宿りし矢は、あなた様の言霊に応えてしるしを示されたはず。あなた様こそ我らの氏上。我らの新天地を切り拓かれるのは、天津彦、あなた様でございます」


 口調は丁寧ながら、手研は、わずか十二歳の少女の自然な甘えを、厳しく拒絶した。誓約の験を、何人も否定することはできないのだ。


 狭野姫は思わぬ拒絶を受け、身を反らせて驚いた。手研の目に、狭野姫の美しい容姿にかわりはないが、肌の光輝は少しくすんで見える。月の光を失ったからか、昨夜の神秘性は息を潜めているように思えた。


 疲れも当然ある。昨夜は天孫族の運命を決する重大な夜だった。その夜を主導した十二歳の少女が、年上の男性を頼り、背に負った重荷を託そうとする甘えを誰も咎めることはできないだろう。


 しかし手研は、ここで狭野姫と自分との立場をはっきりと確定しておくべきだと考えた。孔舎衛坂以上の苦難の道を、この道を選んだ天孫族は歩んで行くのだ。一人の指導者の下に、すべての族人が固く結束しなければ、真秀場までの道のりの踏破はとても覚束ない。今朝、この浜辺に残った族人は、手研を選んだのではなく、狭野姫を選んだのだ。そのことを、他ならぬ狭野姫自身に自覚してもらわなくてはならない。


 浜辺で跪く手研に気付いた族人たちが、一斉にそれにならった。


 海の西の果ての大陸、大真のかつての皇帝は、ぬかずく臣民の姿を見て、天という文字を思いついたという。人の姿を現す大の字に、一画を加えて頭を表現した。皇帝からは、臣民は頭しか見えないからだ。やがて、その天は、人の上方にあるもの、人を超越したものという意味に昇華した。


 浜辺の光景、狭野姫の周囲に天が満ちた。彼女は天に選ばれたのである。


「そうですか…」


 狭野姫は少し呆然とした視線を中空に漂わせた。


「月下の誓約を忘れたわけではありません。そうです。確かにわたくしは長兄の御魂の声を聞きました。豊葦瑞穂原を目指せという声を」


 そのとき、旭光が浜辺を照らした。


 狭野姫の肌が目覚めたように光輝を増していく。


 先代天津彦であった五瀬は、日向から白肩へ向かう航路で息子である手研にしばしば語った。狭野姫こそが我らの始祖、天照の化身ではないかと。族人のなかにもそんなことをまことしやかに囁く者がいた。父の語りと族人の囁きが妄誕でも世迷い言でもなかったことを、今このとき、手研は確信した。


「吾は再び真秀場を目指します。みな、吾に付き従いなさい。ときに吾の矛となり、ときに吾の杖となり、ときに吾のいろせいろねとなりなさい」


 狭野姫はみぎわを白い足で払って、


「舟を」


 と、短く命じた。


 心得ていた珍彦は一艘のはしけを曳いてきて、


日女ひめ、どうぞこちらへ」


 と、いさなった。その珍彦の頭に拳骨が落ちた。


「だれが日女ですか。日子ひこと呼びなさい、日子と」


 白い拳をふっと吹いた狭野姫は、艀に乗り込みながら、つんと顎をそらした。いつもの彼女であることに安堵した珍彦は、船尾に手を置いて艀を波の中に押し出した。


「さぁ、ゆきますよ。珍彦、かいをとりなさい」


 天孫族は、こうして再び真秀場に続く航路に漕ぎ出でた。


 航路を南にとった。陸地が左手にあり、右手には島影が青霞の中に浮かんでいる。


 紀伊水道を南下していくのだが、これまで天孫族を先導し、いくつかの海峡を無事に通過させてきた珍彦にとっても未知の海域となる。


 珍彦はじっと海面を見つめ、陸地を眺め、海鳥の行方を目で追う。海流が運んでいく先の風景を想像しながら、珍彦は先頭船の櫂を操った。


 夜になれば浜辺に寄せる船旅だ。敗戦の傷を癒やす必要があり、食料も狩猟や漁で得なくてはならないため、遅々とした船足である。


 小規模になった天孫族を包容できる程度の陸地はいくつかあったが、そこは目指すべき真秀場ではない。狭野姫は、あくまで豊葦瑞穂原を目指そうとした。


 孔舎衛坂の敗戦から早くも二月が過ぎたある日の夕まぐれ、狭野姫が上陸した浜辺は、入口はさほど広い土地ではなかったが、懐の深さを感じさせるような地形をしていた。


 辺りは光を失いつつあるというのに、狭野姫が見つめる地形の先は不思議と明るかった。


 周囲とは異質の風景は、そこに霊異が宿るという証だ。もちろん、その異質を見るには見る者の呪能の濃淡が問われるが、狭野姫には明らかな異質が見えた。


「舟を焼きなさい」


 族人が耳を疑う命令を、狭野姫は静かに発した。


 声は静かだが、雷鳴のような衝撃がある。船を焼けば、もはや故郷には戻れない。不退転の決意を、狭野姫は族人に強いた。


 狭野姫の声を、手研がすばやく作業化した。


「舟を焼くのは、舟がもはや不要であるからだ。みな、天津彦が我らの真秀場へ続く道を見つけたぞ」


 手研はそう言って、族人の不安を少しでも和らげようとした。


 族人は舟から生活用品をすべて浜に上げ、火切石で得た炎で舟を焼いた。


 族人と故郷を峻厳に分かつ炎は、夜通し燃え続けた。


 浜辺に幾筋もの白煙が立ち上る頃、白々と夜が明けた。


「行きましょう」


 狭野姫の明朗な声が、澄明な早朝の空気を爪弾つまびいた。その清々しさが、族人の足取りに弾みを生んだ。


「舟を焼いてしまったなら、あれは用なしになってしまいますな」


 狭野姫の側を離れるつもりの全くない珍彦は、口だけはそう言って残念そうな顔をしてみせた。


「何を言っているのです。なれには仕事がたくさんあるではないですか。掃除でしょ、水くみでしょ、憂さ晴らしでしょ、洗濯でしょ、布団敷きでしょ、憂さ晴らしでしょ、えっと他に…」


 狭野姫は珍彦の仕事を数え上げたが、折る指が足りなくなってくると、珍彦にも指を折らせた。不吉な業務内容が二度出てきたことが気になった珍彦は、


「いや、もう結構です。まだまだお役に立てそうで安心しました」


 と、一旦、退散した。


 天孫族が上陸した浜は三方を山に囲まれているが、ふくろの口のような隘地あいちを抜けると、にわかに風景が広がった。海に迫っていた山々が一斉に退き、ぽっかりと間が空いたような印象の野原だ。


 ここの葦も輝いている。柔風やわかぜに吹かれると、光をうねらせた。


 族人の中には、真秀場の豊葦瑞穂原に到着したのではないかと興奮するせっかち者がいたが、狭野姫はここではないと直感した。ここが目指すべき豊葦瑞穂原の辺なる野原であったとしても、野末のずえにすぎないと断定できた。いずれにしろ、真秀場の周縁に踏み込んだらしい感触は、天孫族に高揚感を与えた。


 しばらく進むと、草むらから一基の石塔が頭を見せていた。周囲を見渡せば、同じような石塔が等間隔で並んでいた。


 この石塔は、さえ、つまり厄除けだ。災厄や病、物妖もののわざわいなどを防ぐ呪物である。姿は異なるが、日向にも同じような風習があった。


 つまり、ここから先は用心しなければならないということだ。塞の石塔があるということは、内界と外界との区別をつける人の集団がいるということだ。


 孔舎衛坂の心的外傷から立ち直ったとはいえない天孫族には、未知の住人との戦いを幻影に見て怯える者もいたが、狭野姫は意に介することなく堂々と進んだ。もちろん、先頭には祓除ふつじょの心得のある者がおり、呪いを浄めながら進んでいるが、狭野姫の歩みは彼らを追い越すほどの勢いだった。


 開き直りの強さが狭野姫にはある。なにしろ、護身具程度の武器と狩猟用の弓矢しか携えていない集団である。山門人のような戦闘集団に襲撃されれば、全滅するしかない。


 それならそれでよい。狭野姫はそんな気分だった。山門の懐に飛び込んでやる。そういう気組みで進んでいる。


 やがて集落が見えてきた。土塁で囲まれた小さな邑で、濠はない。炊煙が上がっている。


 狭野姫は族人を一箇所に集めて休息させ、手研と珍彦だけを従えて邑に向かった。庇護を求めたり、ましてや邑を侵略するつもりは全くない。彼らのみちを借りて通り過ぎることに了解を得ておきたいし、できれば、ここが豊葦瑞穂原から見てどの辺りの位置にあるのか、情報を得たかった。


「日女、いや天津彦様が御自ら行かれることはありますまい。まずは我らが折衝してまいります」


 と、手研は慎重なことを言った。


 天孫族には、山谷に暮らす土着民を土蜘蛛つちぐもと呼ぶ侮蔑の言葉がある。手研はそういった類いの言葉を用いる人間ではなかったが、相手は未知の人間だから、言葉よりも先に矢が飛んでくることは十分にあり得た。


 狭野姫は手研の忠告を笑顔で受け止めただけで、そのまま邑に向かって行った。手研と珍彦が慌てて彼女を追った。


 邑に近づくと、案の定、弓矢を構えた男が二人、門から走り出てきた。頭髪を短く刈り、下半身に布を巻き付けただけの男たちだ。むき出された上半身は、いかにも剽悍ひょうかんそうだ。


 彼らは何かを叫んだ。言葉はよく聞き取れなかったが、彼らの感情はすぐに分かった。決して歓迎はされていない。


 狭野姫は手研と珍彦をその場に止めて、自分だけ数歩、彼らへ歩み寄った。男二人は弓を引き絞り、手研と珍彦は固唾を飲んだ。


「我らは日向と言うところからやってきました。吾は天津彦と申します。あなたたちにも、あなたたちの邑にも迷惑をかけるつもりはありません。ただ通り過ぎるのに径をお借りしたく、氏上殿のお許しをいただきたいのです」


 狭野姫は辞を低くした。だが、言葉が通じたという感触はなかった。


 手研と珍彦が最初の接触をしていれば、彼らの返答は矢であったかもしれない。彼らとは言葉の交換がうまくできないようだが、美しいということは、共通概念として理解できるのだろう。狭野姫の所作に魅了された二人の男は弓の弦を緩めて、顔を見合わせて相談した。


 二人の男は邑に戻った。しかるべき責任を持つ者のところへ報告にいったものと思われた。


 しかし、どれだけ待っても、邑の閉じられた門は新たな人影を送り出すことはなかった。物珍しいのだろう、土塁の上に目だけを出して来訪者の姿を見ようとする邑人はいた。


 珍彦の経験上、感情が行動に直結しているはずの狭野姫は、いくら待たされても焦れることなく、美しい彫刻のようにじっと立っていた。手研と珍彦のほうが焦れてきた。


 邑内の様子は、聞こえてくる雑音を拾うことでしか判断できないが、何やら慌ただしい。しかしながら緊迫感が伝わってこないのは、その慌ただしさが予定されていたものであり、決して災いを背負ってきたかもしれない来訪者のせいではないからだろう。


 要するに、狭野姫一行は黙殺されている。


 中天を過ぎた日が、佇立する狭野姫たちの影を長くし始めた。


 立ちっぱなしの疲労と空腹は、珍彦にも我慢できた。だが、喉の渇きががまんできなくなってきた。何しろ、季節は夏なのだ。


「追い払うなら、さっさとそうしやがれ」


 呪いのような言霊を目力に宿した珍彦が睨み付ける門が、密かに開いた。


 微かな隙間から出てきたのは、小さな人影だった。


 小さな人影は足取りにためらいを見せながらも、狭野姫の近くまでやってきた。


 童女だ。しかし、美しく着飾っている。だがそれは狭野姫の花衣のように本人の主張を表現したものではなく、他者の思惑が衣装に化けたもののように思われた。丁度、供え物を飾り立てるような案配あんばいだ。


 童女は竹の筒を狭野姫に差し出した。竹筒には水が入っている。


「水を、くれるのかしら」


 狭野姫もまだ少女だが、背丈は通常の娘よりも一段高い。狭野姫は腰を低くして、頷いた童女から竹筒をもらった。


 一口、水を飲む。美味い水だった。


 狭野姫は竹筒を手研と珍彦にも回した。三人とも生き返った心地がした。


「ありがとう」


 狭野姫は、童女に竹筒を返した。その少し前に、邑の門がもう一つの人影を出していた。その人影はさっと童女に追いつくと、狭野姫たちに向けて会釈したかと思うと、抱きかかえるようにして童女を邑に連れ帰した。


 おそらく童女の母親だろう、と狭野姫は思った。童女ほどの派手さはないが、その女性も整った衣服を身につけていた。


 何かの儀式が行われていて童女はその中心にいるのかもしれない、とも狭野姫は考えた。母親らしき女性は、その介添え役というところだろう。


 待つ時間がさらに続く。


 空が赤く焼け始めた頃、ようやく邑の門が大きく開けられた。


 炬火を持った人数が門内から小走りで出てきて、二列に並んだ。その間を、もったいぶった足取りで進んでくる女の姿があった。


 中年の女だ。往時は美しかったであろう面影は残している。鬼道に仕える司霊たまのつかさの出で立ちをしているが、童女の衣装により増してけばけばしく、目にも心にも痛い。しかし、宵闇が降りた地上で炬火に照らし出されれば、それでもその女の姿には神秘性が備えられているように見えた。


 ただそこに立っているだけで自然な神々しさを醸し出す狭野姫に対抗するため、神秘を演出できるこの宵を待っていたのだろう。手研と珍彦はそう穿って、その司霊を見た。


遠来客人とほつまろうどよ、不躾にもお待たせしたこと、どうか許されよ。なにぶん、大切な祝い事の最中であったゆえ。こなたは、この名草邑なくさむら戸畔とべ、である」


 口では許しを請いながら、その顎は尊大に突き出されていた。戸畔は、この辺りでは、女首長という意味合いだ。


「聞けば客人は、我らに径を借りたいとか。我らの土地を抜けてどこへ行こうというのか」


 言葉は通じるが、心が通じるのか不安になる物言いだった。


「我らは、豊葦瑞穂原と遠くまで伝わる山門を目指しています」


 狭野姫の返答を、戸畔の嘲った笑いが遮った。


「ここからでは八剣やつるぎ御山おやまを越えねば山門へはゆけぬ。遠来客人よ、きびすを回して立ち去るがよい」


「御山を越えさせていただけませんか」


「ならぬ!」


 手研と珍彦が思わず腰の剣に手を掛けたほどの剣幕で、戸畔は叱声を放った。炬火を持った人間の影に隠れていた男たちが姿を現し、弓矢を構えた。


 黒々とした石の鏃だ。炬火に照らされて不気味な濡れ色を見せている。


「八剣の御山は我らの神奈備かんなび余所者よそものを何人たりともその御裾の内に立ち入らせることはできぬ」


「この邑が背面せともにおう山々は広々としています。御山の御裾を汚さぬよう越える径はございませんか」


 珍彦がいじらしく思うほどに、狭野姫は名草戸畔へ哀願を向けている。しかし、司霊は、その哀願を鼻ではじくようにせせら笑った。


「背面の山々の峰々にはそれぞれ名があるが、どの名も八剣の御山の御裾のひとひだなのじゃ。一歩たりとも立ち入ること、許されぬ。あきらめて、来た径を戻りなされ」


「戻ることはできません。我らには進むしか方法がないのです」


「舟を全て焼いてしまったのじゃからのう」


 戸畔は口元を手で隠しもせずに嘲笑した。


 邑人は、天孫族が上陸したことを知っていたのだ。当然と言えば当然だ。背後を信奉する山々に護られている以上、彼らの生活領域に踏み入ってくる者は必ず海からやってくる。


 この時世の習慣で彼らが余所者を忌み嫌っていたとしても、来訪の可能性を知りながら筋を通そうとしたその代表者を長時間放置しておいたのは、たとえ重要な儀式の最中であったとしても、底意にある悪意が容易に汲み取れる。 


「我らをご存じでございましたか」


 狭野姫は丁寧な姿勢を崩さない。


「知っておる。なれらが日向から遙々海を渡って、山門人に孔舎衛坂で蹴散らされたこともな。こなたの占形うらかたにはっきりと出ておった。今度はこの土地を奪いに参るとは、懲りぬことよ」


 底意に秘めた悪意を、もはや隠し立てせぬとばかりに吐き出した。


「違います。我らはただ、山門へ向かいたいだけなのです」


「それは適わぬとすでに申した。遠来客人よ、いさかいを生まぬうちに立ち去れ。今夜一晩であれば、我らの庭先で夜を明かしてもよい。ただし申すまでもないが、夜陰に乗じて密かに御山に入ろうとはせぬことじゃ。大熊様のお怒りを受けることになるぞ」


 戸畔はたもとをひるがえした。弓矢を構えた男たちが狙いを解かぬまま戸畔の後に続き、二列に並んだ炬火が邑への径を閉じるように退いていった。すべての炬火が邑に吸い込まれると、狭野姫と手研と珍彦は夜の底に取り残された。天津彦の名を継いだ夜ほどの月明かりはなく、星々の輝きもどこか弱気だった。


「いかがいたしましょう」


 手研が尋ねた。


「仕方がありません。しばらく待ちましょう」


「待ったところで、あの司霊の気持ちが変わるとも思えませんが」


「それでも待つのです。大丈夫。わたくしの中の天津彦の声を信じなさい」


 だれよりも狭野姫自身がそれを信じていた。この地に上陸したとき、彼女は確かに山影の向こうに光を見たのだ。それは明らかに霊異の手招きだった。


 狭野姫がそう言う以上、手研と珍彦はそれに従うまでだ。


 三人は不安そうに推移を見守る族人たちのところへ戻り、夜営の支度を指揮した。


 簡素な食事を終えて、狭野姫は天幕で体を横たえた。疲れ切ってはいるが、眠りには落ちない。霊異の手招きが、何か具体的な事象を起こす予感があったからだ。


 虫の音も眠たげな夜更けに、それはやってきた。


 天幕の外から、手研の声がした。身支度を寛げていなかった狭野姫は、すぐに天幕を出た。


 炬火も持たない手研は黒々とした影だったが、さらに二つの影を傍らに控えさせていた。


 手研が狭野姫に耳打ちすると、狭野姫は三人を天幕の中に招き入れた。


 小さな火を起こすと、四人の顔が火明かりに浮かんだ。


 手研が連れてきたのは、竹筒で水を飲ませてくれた童女で、取って付けたような着飾った衣装はそのままだった。もう一人は、狭野姫の記憶では、童女を気まずげに連れ帰った女性である。二人は親子であろうと思っていたが、その女性が自分と童女の素性を明かしたところ、やはり二人は母と子であった。初見の時に直感していたが、この母子には気品があり、狭野姫に矢を向けてきた男たちとは違って、知識層にいた風韻を感じていた。外界の人間と言葉を交わして意思疎通するには、知識が必要なのである。


「それで、どうなされましたか」


 狭野姫は穏やかな笑顔をみせて、強ばっている母子の口をほぐそうとした。


「娘を、どうかお助け下さい」


 母親はいきなり叩頭した。


「わけをお聞かせ願えますか」


 狭野姫が促すと、母親は彼女たちの邑のことから話し始めた。


 この辺りの山野は、むろと呼ばれている。なるほど、三方を山、一方を海に囲まれ、塗り込められた室のように見える天地だ。


 母子の一族は、ここで小さな名草族を起こし、邑を築いて暮らしていた。


 邑の背面の山よりも高く昇る日輪を崇め、その山塊の向こうに発展した山門の威風に吹かれつつ、小規模ながらも一定の文化を栄えさせていた。山門とは人の往来もあり、ときに山門主の声威にひれ伏すことはあったが、概ね平穏な独立を保っていた。


 ところが母親がまだ少女だったある日、八剣の御山からの山颪やまおろしが白く濁り、その風に吹かれた族人は、かれたように山門主を崇め始めた。日輪へ捧げてきた祭祀もおろそかになった。


 山門主に完全服従するようになってからも平穏な日々が破られることはなかったが、母親が童女を産んでしばらく経った頃、山門主の命により、邑の壮健な男たちが山門大宮の仕人つかえびととして山門に取られることになった。


 母親は、実は名草族の首長の息子に嫁いでおり、夫と義父は邑の男たちを連れて山門へ行き、いまだ帰っていない。童女は首長の血を引いており、このまま祖父と父が戻らなければ首長を継ぐ資格を持っている。


 童女が走り回る歳になった頃、室の天地で大きな勢力を持っていた丹敷にしき族が、名草族に反抗する力がなくなったことを見透かして、支配の手を伸ばしてきた。壮健な男たちの多くを山門に取られていた名草族は、丹敷族が見込んだとおり、なされるがままにその支配下に組み込まれた。


 名草族は日輪に祭祀を捧げ、八咫烏やたがらすをその化身として崇めた。丹敷族は名草族にその信仰を捨てさせ、八剣の御山に祭祀を捧げ、大熊をその化身とする信仰に改めさせた。また、戸畔とべと呼ばれる女首長を派遣し、名草族を監視した。


 名草族は丹敷族に貢物を納めたが、丹敷族の要求は次第に過大になり名草族を苦しめた。祭祀で精神を、貢物で肉体を疲労させられたのだ。


 名草族にとっての希望は、童女だった。彼女が成人し、名草族の首長となれば、いまは力ない邑の男児たちもやがて壮健な男となり、族人が結束して丹敷族の支配をはね除けることができるに違いない。名草族はその希望を胸の奥に秘して、日々の辛さに耐えた。


 しかし秘された希望は戸畔に探知された。


「御山の大熊様の神妻みづまを、名草族から選出する」


 名草族の同意を全く得ないまま、戸畔から決定が下された。


 御山の化身として崇める大熊に清らかな童女を神妻として嫁がせる風習は、丹敷族ではこれまでも行われてきた儀式だった。嫁がせるといっても、山中に設けた神牀かむとこという祭壇に置き去りにするだけのことだ。邑に帰ってくることは許されない。年端もいかない童女が山中で生きていけるはずもなく、結局は餓死するか、獣に襲われるかのどちらかだ。山中に生息する熊に出会ったとしても、熊は童女を生き餌と認識するだけのことだろう。生き餌とすること自体が、儀式の目的であったのかもしれない。


 その神妻に、狭野姫の前で小さな膝を揃える童女が選ばれた。


 戸畔の悪意は明らかだ。名草族の希望となっている童女を大熊の生き餌とすることで、名草族の未来を永劫に閉ざそうというのだ。


 今日は、嫁入りの準備の儀式が執り行われた。今夜一晩、童女は邑内に設けられた祭壇で過ごし、旦時あしたの日の出と共に御山に入山しなければならない。その童女の手を引いて、母親は今夜、藁にもすがる思いで狭野姫に救いを求めに来たのだ。


「分かりました。この子は、吾が護りましょう」


 話を聞き終えた狭野姫は、即座に、明快に約束した。彼女は建御子たけるみこたらんと自らを律しており、もともと游侠おとこだてを気取る癖がある。女のくせにという指摘に挑む者は、たいてい痛い目に遭う。


 手研は果敢に挑んだわけではないが、物言いたげな目を狭野姫に向けた。


 祭祀は重要である。か弱い存在でしかない人が天地の間で生きてゆくには、祖霊や精霊、天神地祇の恵みが不可欠だ。人々はそのように自覚するからこそ、霊妙なる存在を崇拝し、祭祀を捧げるのだ。その手法として人身御供ひとみごくうを差し出すことはある。天孫族の前身である高千穂族でも、古来から今に至るまで、その風習がなかったとは手研には言えない。 


 他族の祭祀を妨げれば、その族の憎悪だけでなく、その族が崇める霊妙なる存在の怒りをも受けなければならない。手研の目は、そう訴えた。


 狭野姫の考えは違う。人身御供が認められるとしても、それは族人の総意に基づくものでなければならず、神妻となる童女が称えられるものでなくてはならない。神妻の選出は霊妙なる存在の意思に基づかなければならず、そのしるしが示されなければならない。しかし、戸畔は悪意でこの童女を選出した。名草族はそれを認めてはおらず、童女が称えられることもない。そのような祝福されない神妻を、山中の大熊が人々の崇拝を受けるに値する存在であるならば、受け入れるはずはない。従って、霊妙なる存在の怒りを買うことはない。


 狭野姫は返した目で、手研にそう説いた。手研に、もはや異論はなかった。


 母親は邑へ帰っていった。


 狭野姫は母親も留まるようにと好意を示したが、義父も夫も不在の今、名草族を代表すべき母親は帰らなくてはならないのだった。


 童女は、狭野姫の天幕で眠った。二人は、ちょうど姉妹のようだった。


 夜が明けた。


 朝は曙光だけでなく、邑からの無数の矛も解き放った。

 狭野姫は偉大なる兄の遺志と天津彦の名を継承して、再び天孫族の真秀場、豊葦瑞穂原を目指す。


 天孫族の行く手には高く深い八剣の峰々があった。その山塊を越えるためには、室の地を支配する丹敷族に挑まなければならなかった。


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