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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(20)-暗夜(3)ー

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の俳優(わざをき) の御統は、黒衣の美少女豊と、山門の御言持(みこともち)の大日、その嫡男の入彦に出会う。折しも登美族と春日族による神祝(かみほ) ぎの馳射はやあてが催され、豊の呪いで紛れ込んだ御統の活躍により春日族は勝利する。馳射で破られた禁忌を巡って、誓約うけひの鏡猟がことのまえさきで執り行われる。豊の呪術が春日族を勝利させるが、御統の白銅鏡ますみのかがみから現れた天目一箇神あめのまひとつのかみが現れ、辞禍戸崎ことのまがへのさきは恐慌に陥る。


 このとき、くろがねの天孫族が山門に迫っていた。入彦は天孫族との戦への参陣を覚悟したが、大日は時期外れの磯城族への神奈備入かんなびいりを命じる。


 天孫族の大軍を孔舎衛坂に迎え撃つ大日は、昔日を回顧する。かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、好奇心と使命感に駆られた冒険のすえ、災の木の実と呼ばれる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを、磯城族の仇敵である斑鳩族の饒速日にぎはやひに手渡す。このとき、安彦は果実の魔力に取り憑かれる。


 大日率いる山門諸族は、大彦の活躍もあって天孫族を打ち破る。磯城の三輪山への神奈備入りを命じられた入彦は、大物主の幸魂さちみたまの霊力を授かる。


 凱旋した大日は、登美族の登美彦として山門の持傾頭きさりもちとなっていた安彦に政変を起こされる。登美彦こと安彦は、斑鳩族の武力と大地から無数の土兵を生み出す埴土はにつちの術で大日と春日族を追い詰めるが、御統の求めに応じた天目一箇神が土兵を粉砕する。


 大日たちを追放した登美彦が山門を牛耳る。大日たちは、入彦の許婚である美茉姫みまつひめがさらわれたことを知る。豊の提案により、美茉姫救出の応急措置をとった大日たちは、仇敵であるはずの磯城族の邑へ向かう。


 入彦の当惑をよそに、磯城族は失脚した大日たちを暖かく迎え入れる。入彦は自身の成長を感じるとともに、この先の不安を感じる。


 大日は、磯城族を凶悪な呪術が襲った日のことを回顧する。あの日から、山門のすべてが夢幻の世界に沈んだ。その夢幻にただ一人立ち向かっていたのが、安彦であると大日は気づく。



  ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。

 鵤ヶいかるがおかを中心に勢力を振るっていた斑鳩族いかるが族は、ある時期を境に急激に勢力を伸ばし、山門の諸族のほとんどを傘下にした。しかもその統一作業は、極めて平和裏に実現された。干戈かんかを用いることなく、諸族が斑鳩族の氏上このかみである饒速日にぎはやひの徳を慕って恭順したのだ。


 麗しい青垣山に囲まれた山門の豊かな盆地を手中にした饒速日は、虎視眈々と山門の豊かさを窺っていた北の高志族を撃退することにも成功した。まつろわぬのはただ磯城族だけだったが、その磯城族とて、積極的に饒速日に対する反旗を揚げたわけではなかった。


 ある時期とは、饒速日が秘宝を手に入れた時期だ。その秘宝は虹色に輝き、ちょうど山梨か瓜ほどの大きさの木の実だった。その木の実は、最後まで抵抗した磯城族の四人の若者によってもたらされた。


 その木の実の名は、剋軸香果実ときじくのかぐのこのみという。永遠に香りを失わない果実であり、変化を刻んでいくときの流転にすら影響を持つほどの絶大な霊力を蓄えた果実である。霊力の源は大地の養分であり、天日の光である。数千年から数万年単位で霊力を蓄えた果実は、変化に風化されることのない石の花に実るのだ。


 災いの木の実とも呼ばれる。その由来は、果実の実る時期にちょうど巡り会った人の手によって、その霊力を解放されるからだ。絶大な霊力は人の制御の及ぶものではなく、世界は人の失敗のたびに大きな災いを被った。


 しかし饒速日は、果実の制御に成功した。そもそも、彼の遙かな先祖は、剋軸香果実を追いかける人々だった。果実を追って鵤ヶ丘に邑を作り、代々に渡って果実の研究を深め、その知識を伝承し、現在の饒速日に至ったのである。彼はちょうど、果実の実る時期に巡り会った。そして一族の悲願であった果実をとうとう手に入れたのである。


 饒速日は、彼と累代の饒速日が重ねてきた研究と工夫を、ある種の祭壇として実現していた。一族のうち、霊力に優れた者を犠牲とし、その霊力と生命力とを祭壇に注ぎ込むことで剋軸香果実を制御した。そのため多くの族人が犠牲となった。現今の饒速日が累代の饒速日に勝る点は、多数の犠牲を厭わない冷酷さであった。


 饒速日は祭壇に呪いをかけ、果実の永遠に失われない香りを抽出して、呪いと霊力の巨大な雲を生み出した。饒速日の宮処みやこの地下深くの祭壇から地中を通り、地上に高々と築かれた高楼から吹き出した白雲は、またたくまに斑鳩宮を覆う大雲となり、鵤ヶ丘を覆い、山門を覆い尽くした。


 白雲から生じる霧に触れた人間は、夢を与えられた。偉大なる饒速日に尽くすことによって、理想郷を築くことができるという夢だ。夢見の悪い者には、霧の中に隠れた呪いが人型に現れて夢の世界へ引き込んだ。この術を破ろうとした者は、剋軸香果実の霊力により、永遠に変化せぬ石に化せられた。体ごと石化する者もいれば、精神だけが石化する者もいた。


 こうして、磯城に一部不完全なところはあったが、山門の天地は饒速日の手に納まった。


 しかし、唯一、夢の世界に引き込まれなかった人間が、磯城の三男、安彦だった。


 山門の天地を禍々しい白雲が覆ったあの日、安彦は磯城邑の斎宮で呪いの白い人型に襲われた。かたわらには、妹の陽姫やひめがいた。


 安彦は呪力のすべてを振り絞って、剣、矛、弓を持つ三兵みつのつわものの土人形である武埴たけはにを多数生み出したが、白い人型の群に飲み込まれた。


 陽姫の悲鳴がした。彼女は地にうずくまり、そこに何体もの白い人型が折り重なった。


 安彦は妹を助けようとしたが、もはやどうしようもなかった。自身が白い人型の魔の手から逃れるのが精一杯だった。


 陽姫の悲鳴が止んだ。


 武埴では白い人型を防ぐことができないことを悟った安彦は、最後の防衛策をとった。武埴を形作っていた土を解除し、新たに命じて、自分の周囲を囲むように降り積もらせた。そうして墳丘ふんきゅうのようなものを作り、その中に籠もった。


 手のひらほどの小さい銅鈴をかき鳴らし、解除はらえの言霊を共鳴させて懸命に結界を張った。


 白い人型に捕まった人は死んだわけではない。そうであれば、陽姫も兄二人も、父母も、百襲姫ももそひめも、邑の人たちもきっと救うことができる。そのことを祈りながら、安彦は結界を張り続けた。


 呪いの気配が周囲から消え去った頃、安彦は術を解いて墳丘を土に戻した。


 空は晴れていた。霧も、雲もなかった。鳥が数羽、視界を横切った。


 陽姫の姿はない。


 斎宮では、祝者はふりや巫女が狼狽えて右往左往していた。さきほどまで、意識なく倒れていた者たちだ。一人が前庭に立つ安彦を見つけて駆け寄ってきた。


姫巫女ひめみこ様が大変なのでございます」


 百襲姫ももそひめのことを、族人は尊敬と愛着をこめて姫巫女と呼ぶ。どう大変なのかといえば、問いかけても、体を揺さぶっても、いっこうに目覚めないのだという。それどころか、呼吸も疑わしいほどの青白さなのだという。


「知っていますよ」


 と言いたかった安彦だが、斎宮に上がり、奥に進んで、御簾の向こうで身を横たえた百襲姫の側に膝をついた。死人と見紛うほど、命の兆しを感じない。しかし、死んではいない。


「よろしいか」


 安彦は、祝者の長である禰宜ねぎに申し聞かした。


「いま、姫巫女様は深奥な秘術を施されておられます。余人にはうかがいしれぬほど深い術です。生きるために必要な、たとえば呼吸する力までを心の奥深くにまで集中して術に臨まれています。けして邪魔をしてはなりません。このまま、幾歳月いくさいげつが経とうとも、姫巫女様が横たわるままにしてください。ただし、しとねの上にお寝かし申し上げ、日に一度、体位を変えて差し上げるように」


 安彦の声色にただならぬ雰囲気を感じ取った禰宜は、心骨に刻み込むようにして話を聞いたが、疑問は多かった。最大の疑問は、


「なぜ、唐突に、そこまでの秘術に臨まれることになったのですか」


 と言うことだ。


 唐突ではない。複雑な事情の結果なのだ。しかし、それを禰宜に説明しても困惑を深めるだけだ。


「とても恐ろしい呪いが発動されたのです。発動させたのは饒速日です。姫巫女様は、その呪いから磯城を守るため、秘術に臨まれたのです。おそらく、我が父も、どこかでその身を犠牲にしておりましょう」


 言葉の最後に父を想った安彦は目に熱いものが盛り上がるのを感じたが、流さぬようにこらえた。


「ともかく、姫巫女様のことは、そのように頼みおきます」


 斎宮を退去した安彦は、邑の中を歩き回った。磯城の人々は日常の顔つきで、日常の生活を送っている。恐ろしい呪いが降りかかったことなど、知るよしもない安泰の中にいる。しかし、安彦の嗅覚には、邑の物陰でひっそりと冷たい笑いを浮かべる呪いの残り香が捉えられている。


 呪いの残り香は磯城族の人々をして、饒速日への誤った服従心を増長させていくだろう。しかし、それでいい。百襲姫も、父も、兄たちもいない磯城族は、今はおとなしくしておかねばならない。


 邑を歩き回って、兄の姿も、陽姫の姿も見つけられなかった安彦は、郊外で、変わり果てた父の姿を見た。


 石像のように佇立ちょりつする姿。それが磯城族の偉大なる族長、地牽くにくるであると分かる人はいまい。だが、安彦には分かった。石像の足元にすがり、安彦はこらえていた涙を流し尽くした。


 やがて立ち上がった安彦は邑に戻り、自分の屋敷にもどった。


 父に仕えていた者は、みな一様に気だるさを背負いながら、しかし日常をこなしていた。さすがに族長の側に仕える者たちは、降り下りた呪いに無意識ながらも抵抗を感じているのだ。


 安彦は、屋敷の奥の一室でたたずんでいる母の前で、膝を揃えた。母は、邑を襲った災厄を悟っているような目をしていた。しかし、いずれ災厄の正体を告げに来るだろう人物が、百襲姫でもなく、夫でもなく、三男の安彦だったことに少なからず驚いていた。


「母上…」


 安彦は、邑を襲った災厄の正体とその発端、そして四兄妹が果たしてしまった誤りについて、余すところなく母に語った。


「そうですか」


 安彦の物語を聞き終えた母は、瞳を閉じた。青々とした睫が、憂いの影を落としている。


「それで、これからどうするのですか」


 まだ頼り甲斐があるとは言い難い年格好の安彦だが、こと呪術に関しては信頼できる力を持っていると母は信じていた。


「わたくしは兄上二人と、妹を探しに出ます。行方ゆくえの見当はついています。母上におかれましては、邑の主立った者を集め、兄上二人のうちいずれかが邑に帰ってくるまで、日常を守り、しずかに暮らすようお命じ下さい。その間、饒速日が何かしらの干渉をしてくるでしょうが、誘いに乗らず、ひたすら邑をお守りください」


 目の前の母親と安彦は、実は血が繋がっていない。一族の長たる者は複数の妻を持つのがこの時代の習わしだが、安彦の実母は、すでに他界してる。しかし、目の前の母は、他の三人と分け隔てない愛情を安彦にも注いだつもりだし、そのことは安彦も十分感じ取っている。


 夫や息子、頼るべき者を突如失った母は、茫漠ぼうばくとした荒野に立つ孤影のような心細さだったが、その場景を振り払うようにして屋敷を出た安彦は、そのまま邑をもあとにした。


 兄二人と妹の行方は、母に告げたとおり見当が付いている。安彦としては、このときは、長期に渡って邑を留守にするつもりはなかった。


 安彦は寄り道をした。


 三輪山中に入り、兄妹と友人とで取り決めていた万一の時の集合場所へ向かった。そこを集合場所と決めたのは、格好の隠れ家を見つけたときの子供心をくすぐる高揚感からだった。まさか本当にそこを使うときが来ようとは思いも寄らなかった。


 木々の根や落ち葉に隠された岩室。その側に歩み寄ったとき、木の根っこが起き上がった。と思ったのは、隠された岩室から五百箇が出てきたからだ。


「無事だったか」


 無事とは言い切れないことを承知で、五百箇は安彦の肩を抱いた。


庶兄ままえ


 と、安彦は五百箇を呼ぶ。庶兄とは普通異母兄のことで、安彦にとっとは大彦と大日がそれに当たるが、親しみを込めて大彦と大日を兄と、五百箇を庶兄と安彦は呼んでいる。


 安彦は邑の様子やこれまでのことを五百箇に伝えた。


「すまん」


 と五百箇が謝るのは、大日のことだ。大日は、五百箇の目の前で白い霧に襲われた。


「それで、庶兄は太瓊ふとに様とは出会えたのか」


 五百箇は大日から指示されたことを安彦に伝えていた。


「いや…」


 五百箇は申し訳なさげに首を振った。


 太瓊は、家系的にいえば安彦の祖父に当たる。磯城族の先代の氏上このかみだ。今はもう隠身かみとなり、三輪山の磯城の祖霊と一体となって、磯城族を守護している。三輪山中の降臨の依代よりしろである磐座いわくらで祈りを捧げれば、力を貸してくれるはずの存在だ。そのため、磯城族は祭祀を欠かすことなく続けている。


 しかし、考えてみれば、五百箇は磯城邑に暮らしているとはいえ、遠い祖先は西ノ海の果ての大陸から来たった渡来人であり、純粋の磯城人ではない。そのため、太瓊は自分の祈りには応じてくれないのだろうか、と力なく五百箇は言った。


 安彦はそうではない、と思った。安彦の記憶にある祖父の太瓊は、厳しい人間だった。その厳しさに内包される優しさに気付くには人生の機微の経験が必要で、安彦にはまだその経験が足りていない。


「父と伯母を見よ」


 と、叱責されているような気がした。


 父である地牽くにくると伯母である百襲姫ももそひめは、身を犠牲にして磯城を守っているではないか。祖霊に頼るのはまだ早い。まずは人事を尽くさねばならない。


 自分の考えを五百箇に伝えた安彦は、


「庶兄は、いったん里に戻ってくれ」


 と、言った。もはや里には戻れず、父母にも会えないだろうと覚悟していた五百箇の表情が少し晴れた。安彦が言うには、父と伯母の犠牲によって、邑の平穏は一応保たれている。しかし、それは饒速日の呪術が染みこんだ平穏である事を思い直し、五百箇は再び表情を引き締めた。


「庶兄たちは、まぁ有り体に言ってしまえばよそ者だが、しかし邑人は一目も二目も置いている。庶兄の里が落ち着いていれば、邑人も落ち着くだろう」


 渡来人は技術者集団だ。いつの時代も、生活を支えているのは技術である。磯城の血を引いていないとはいえ、技術者集団は隠微な力を持っている。


「ときどき母を訪れ、励ましてほしい」


 安彦の母は許容範囲の広い人で、我が子たちが兄弟同然の付き合いをしている五百箇を、我が子同然に扱っている。


「それで、お前はどうする」


「おれは、兄者と妹を探す。なに、見当はついている。何か分かれば連絡する。おれは必ず饒速日の呪いを破る。庶兄も、何か考えておいてくれ」


「分かった。おれの一族にも祖霊はいる。その力を借りる方法を探ってみる」


 互いに肩を叩き合って、安彦と五百箇は別れた。


 その後、斑鳩に向かって飛ぶように駆けたことを、安彦は鮮明に覚えている。その日まで、安彦にとって山門の空は澄み渡っていた。少しずつ濁りを増やしていった空は、今では暗い夜のように安彦には思える。いや、そう思っている自分を見失っている。


 今の安彦は、名を登美彦と変えている。山門の政柄はすでに彼の手の中にあり、山門の天地が彼の手に納まる日も近い。


 登美彦の心地における空は暗く、現実の身体も地下の暗さの中にある。ただ、まったくの無明というわけではない。かつてこの地下空間には真昼と見紛う灯りがあったが、新しくこの地下空間の主となった登美彦は最低限を残して、灯りを撤去した。


 暗がりの中にわずかに輪郭を浮かべている祭壇に、登美彦は歩み寄った。きざはしを一段ずつ登っていく。


 祭壇の頂に、いわを荒削った玉座がある。そこに、痩せ細った体を横たえているのは、饒速日だ。


 か細いうめき声を時折もらす饒速日の顔を、登美彦はのぞき込んだ。目はあるが、光はない。生きてはいるが、死んでいるともいえる。ちょうど、磯城の地牽や百襲姫と同じように。


 復讐は終えた。これからは野望のときである。


 満足げな笑いを浮かべた登美彦は祭壇を下り、地下空間を地上へとつなぐ長い階段を登った。


 登美彦の思念は、再び安彦に戻る。


 磯城の邑から姿を消していた兄と妹は、やはり安彦の見当づけた場所にいた。斑鳩大宮の饒速日の宮処みやこだ。


 呪いに操られた風を装って宮処の門守かどもりに到着を告げると、思ったとおり、宮処の一房に通された。そこでは、兄と妹が談笑していた。


 奥向きながら、日当たりの良い部屋だ。調度品の格式も高く、一見して、兄たちは饒速日に礼遇されていることがわかる。


「どこにいたんだ、安彦」


 大彦が陽気な声を出した。


「山門主様にお目通りしてくるがいい。主様はわれらに大きな期待をかけてくださっている。われらはまだ年若いが、いずれ山門の枢要な地位を任せてもらえるかもしれぬぞ」


 大彦はどこまでも陽気だ。つまり、饒速日の呪いに操られていると言うことだ。


 安彦は大日と陽姫とを見た。二人は大彦ほど浮かれてはいないが、しかし、いまここにいることに疑問は抱いていない様子だ。


「では、山門主様にお目通り願ってくる」


「そうしろ」


 安彦は大彦の大声と大きな手で、房から押し出された。


 安彦は謁見は、すぐに行われた。壇の上の玉座に着席した饒速日は、上機嫌で安彦を迎えた。


「よく参ったな、磯城の勇敢なる童男おぐなよ」


 饒速日は安彦の擬態ぎたいを疑っていない。自分の呪術に自信を持っている。なにしろ山門全土を操る呪いだ。山門の片隅の童子が、その術に抗うことなど予想していない。


 饒速日が磯城の四兄妹を歓待する魂胆はわかっている。都合の良い手駒にしようというのだ。何しろ、饒速日が頭を悩ましていた二柱の地祇くにつかみを出し抜いて、五十茸山いぶきやまから剋軸香果実を掠め取ってきた子供らなのだ。その行動力と知恵は、いずれ饒速日の野望がより巨大になったときに使える。その慢心に、安彦の付け入る隙がある。


「おそれながら…」


 安彦の感情を抑え込んだ声が述べる提案に、上機嫌の饒速日は耳を傾けた。


 災いの木の実こと剋軸香果実を、実際に五十茸山の石の花、七つ子石からもぎ取ってきたのは安彦だ。石の森の審問者さにわの罠も打ち破った。今、剋軸香果実は、饒速日の設けた祭壇に納められ、制御されているように見えるが、絶対の安全が保証されているわけではない。何らかの変事が起こったとき対処できるのは自分である、という安彦の申し出は、饒速日には至極当然のように聞こえた。無論、木の実の祭壇の制御をすべて安彦に任せるわけではないが、下役の一人として使うのは意義があるように思えた。


「よかろう」


 その一声で、安彦は木の実の祭壇で働く用人ようにんの立場を得た。


 宮処の地下深くに下り、地底からわいてくる怨念の声のような動作音を低く奏でる祭壇の前に立った安彦は、祭壇の内部に秘された剋軸香果実の鼓動を、まるで手で触れるかのような確かさで感じ取った。


 復讐への第一歩である。しかし同時に、恍惚とした感情の盛り上がりを安彦は制御することができなかった。制御しようとも思わなかった。一度はこの手に独占した無限の霊力なのだ。そのときの甘美な感情が蘇った。


 それから歳月が過ぎた。斑鳩大宮の高楼に降り注ぐ日の光が季節の移ろいと共に変化し、風景の彩りが模様を変えても、安彦は深い地下空間で過ごし続け、地上にもどることはまれだった。


 成年に達した頃、安彦は木の実の祭壇を主宰するようになっていた。彼は祭壇に工夫を加え、


「木の実は完全に制御されております。主様におかれましては、近頃、お疲れのご様子。いかがでございましょう。祭壇にいささかの工夫をこらしております。木の実の無限の霊力を自在に扱うことができます。その力を主様に注ぎ入れることすら可能でございます。さすれば、またふたたびかつてのように大いなる霊力を得て、若返ることさえ可能でございます」


 と、甘い声を饒速日の耳に流し込んだ。


 剋軸香果実の霊力により、山門の諸族を操り、山門の天地を掌握して美衣美食の暮らしを楽しんでいた饒速日は、いつの頃から老いを感じていた。安彦の甘言は、たちまち饒速日の意識に染みこんだ。


 饒速日は安彦に促されるまま、祭壇の頂に設けられた玉座に着座した。木の実の霊力を注がれる前に、安彦の恨みの妖言を注ぎ込まれたことに、饒速日は気づかなかった。


 その日以来、饒速日は安彦の操り人形と化した。木の実の霊力を急激に注ぎ入れた安彦は、饒速日の人格を破壊した。それからは埴土はにつちで土人形をこねるように、安彦は自分に都合のよい饒速日を作り上げた。


 安彦は、そこで山門の天地を覆い尽くしている木の実の呪いを解かず、別の行動に移った。彼は既に、剋軸香果実の力に魅了されていた。山門を呪いから解放する以上のすばらしいことが実現できると精神を高揚させた。それは、安彦こそが山門の支配者となることだった。


 ちょうどその頃、饒速日の斑鳩族を頂点とした山門の諸族のうち、最有力の大族である登美とみ族に、首長たる氏上このかみの継承者争いが生じていた。山門主である饒速日を自在に操ることのできる安彦は、まんまとその氏上の地位を得た。そして安彦は、登美彦となった。


 さらに山門主の秘書官である持傾頭きさりもちの要職にも就いた登美彦は、地上世界でも饒速日を操るようになった。


 山門の天地を手に入れるための布石を着々と打った登美彦だが、彼の野望に反する行動も取った。登美族の一部を割いて春日山の麓に邑を作り、春日族を名乗らせた。そして、兄である大日に有力氏族である和珥わに族のむすめを嫁がせ、はくを付けた上で春日族の氏上とした。もう一人の兄である大彦には、大日の補佐を命じた。これらはすべて、御簾みすの内に隠れた饒速日の声により進められた。さらに登美彦は、大日を山門の宰相たる御言持に抜擢させたのだ。登美彦の心地で、木の実の妖力と、登美彦の野心と、安彦の良心とがせめぎ合っていた。辛うじて残された良心が、最悪を防ぐ一手を打っていた。


 安彦の心を侵食したのは木の実の妖力だったが、激しく損壊させたのは実は別の出来事だった。


 安彦が地下空間に籠もり、木の実の祭壇の工夫に没頭している間、最愛の妹である陽姫やひめは饒速日に凌辱りょうじょくされていた。


 饒速日は磯城の四兄妹のうち、男子についてはその能力を利用したが、女子である陽姫についてはその美貌を玩弄することが当初からの目的だった。


 木の実の呪いにより饒速日への抵抗心を失っていた陽姫は、男を受け入れられる歳になると、毎晩のように饒速日の枕席ちんせきはべった。陽姫にとっての惨劇は、その悍ましい行為すら、幸せと感じさせられることにあった。


 安彦が最愛の妹の惨劇を知ったのは、彼女が饒速日の子を産まされたあとのことだった。


 饒速日から与えられた上等な一房で、饒速日の子を抱いた妹の姿を見た安彦は、精神の崩壊する音を聞いた。


 ある夜、陽姫を密かに連れ出した安彦は、妹を地下空間の木の実の祭壇の玉座に座らせた。そして木の実の破壊的な霊力を妹に注ぎ込み、その人格を破壊した。それは来たるべき復讐のときの実験でもあった。


 陽姫は、人としての思考を失った。


 安彦は陽姫を連れて饒速日の前に出た。よだれを垂らし、視線の焦点があっていない愛姫を見て、饒速日はけがれたものを見る目をした。饒速日のその反応は、安彦に怒りの波動を呼び起こさせたが、彼はいたって殊勝な表情をつくり、


「主の寵愛を得て、妹は幸福のあまりほうけてしまいました」


 そう言った安彦は、妹を下げ渡してもらいたいと懇請した。むろん、その子ももらい受けたいと願った。一瞬、卑猥な笑みを浮かべた饒速日は、即座に安彦の願いを許した。饒速日にとっても不義の子は厄介であった上に、そもそも陽姫の美体に飽きてもいた。饒速日はまだこのとき、己も陽姫と同じように木の実の祭壇に座らされることになることを知らなかった。


 妹とその子を密かにかくまっていた安彦は、登美彦となったあと、子を自らの子として公表し、名を吉備彦きびひことした。


 饒速日の精神を土人形のごとくこね上げたのと同じように、登美彦は妹の精神もこね上げた。そして陽姫は、従順な登美の夜姫やひめへと生まれ変わったのだ。


 自らの精神をも崩壊させていた登美彦は、安彦のころから密かに抱いていた欲望を、このときとばかりに成就させた。つまり、妹を自ら凌辱したのである。従順な夜姫は登美彦を抵抗なく受け入れて、恍惚とした表情を浮かべた。


 登美彦は正常な思考を失っていたが、妹が産んだ自らの子の産声を聞いたとき、心の奥底で仮死状態となっていた安彦の心が息を吹き返した。


 登美彦は我が子をむつきに包むと、そのまま磯城に向かい、密かに五百箇に会った。


 饒速日の呪いを祓うと約束してから長期間音信がなかった安彦の変わり果てた姿を見た五百箇は驚いたが、これまでの全てを語る庶弟ままえの言葉を静かに聞いた。


「吾はもうだめだ。木の実の魔力の狂気に抗うことができない。庶兄ままえ、頼む。あの祭壇を、剋軸香果実を破壊する方法を見つけてくれ」


 その言葉と共に産まれたばかりの赤子を託された五百箇は小さく、しかし力強く頷いた。


 安彦としての心を我が子の側に置き捨てるようにして磯城を去った登美彦は、斑鳩大宮に戻る頃、狂気に完全に支配された。彼は大宮に戻るやすぐに斑鳩族の屈強な男を十数人選び出し、磯城邑の鍛治たちを一人残さず抹殺するよう密命を与えた。


 幼い命を手中に守ることになった五百箇は、座して暗殺者を待たなかった。庶弟まませの瞳に揺れていた狂気の影を見逃していなかった五百箇は、すばやく行動を起こしていた。


 間もなく襲来する災いの存在を鍛冶の里に告げ、磯城の邑から逃散させた五百箇は、自らも逃げる足で春日の大日の元へと向かった。春日は山門の勢力圏内であり、しかも登美族の支族であるから登美彦の情報網が張り巡らされていると考えざるを得ず、五百箇の行動は危険であったが、何としても大日に会わなければならなかった。


 昼は身を潜め、夜に行動した五百箇は幸いにも登美彦の視界に捉えられることなく大日の邸に近づくことができた。


 託された赤子は、泣かない子であった。それも五百箇の決死行には幸いした。


 まるで星を二つ抱いているかのような輝く瞳をしている。夜の陰を拾って行く五百箇は、赤子の瞳に勇気づけられた。


 大日の邸内の高床の建物の陰に潜んでいると、大日が中庭に下りてきた。大日は星を眺めることを毎夜の日課にしていた。五百箇はすばやく大日の側に寄った。


 星宿ではなく生身の人間を見ることになった大日は驚きを眉目に表わしたが、どこかこれを予感していたような落ち着きもあった。


「五百箇か。ずいぶんひさしぶりだ」


 大日は、どうしてこの友人をしばらく忘れていたのだろうかと不思議に思った。


 五百箇が抱いている赤子を見て、大日は表情を和らげた。大日も子供を授かっていた。


「大日よ、いまこの山門に起こっている恐ろしいことを話す。何のことか理解できないだろうが、聞いてくれ」


 五百箇は山門の真相を余すことなく話した。饒速日の呪い。ただ一人戦っている安彦。そして安彦と陽姫との許されぬ赤子のことも。


 全てを話し終わるには長い時間を要したが、大日は遮らずに最後まで黙って聞いていた。月も気を利かせたか、雲に隠れていた。二人の密会は闇に閉ざされていた。


 聞き終えた大日は、星空を見上げた。五百箇が前置きしたように、何の話か見当がつかない。しかし、五百箇が紡いだ数千語は、真実であるような気もした。


 大日は明日の朝早く春日を出て、斑鳩大宮に向かい、そこで山門主から御言持を命じられることになっていた。


 なぜ自分が山門の人臣の最高位に立つのか。それを思えば夢のようである。五百箇が伝えた話は、つまりその夢がいつか破れるということではないか。


「いいか、大日。おれはもうお前に会うことはないかもしれない。しかし、いつかこの子がお前のまえに現れたとき、この子を護って欲しい」


 そう言い残した五百箇は、大日が星空から視線を下げたときには、夜に溶けたかのうように姿を消していた。


 五百箇は赤子を胸に抱き、虎の目、つまり西を目指して歩いた。ただ、春日から西へ向かえば登美族の勢力圏を通過することになるので、大きく迂回することにした。


 山門を外界から護る青垣山。その山並みの北側を山背やましろという。五百箇は山を越え、山背に入った。


 山背に抜けてからは、五百箇はやや緊張を解いた。ここから亀の目、つまり北に向かえば饒速日も怖れた高志族の勢力圏になる。登美彦の追っ手も、そこまでは追ってこないだろう。しかし、油断は禁物だ。


 赤子、それも乳飲み子を連れての旅は苦しかったが、行く先がないわけではない。


 五百箇は自分なりに、山門を覆う饒速日の呪いのその根源となっている木の実の祭壇を破壊する方法を探していた。


 里の古老から得た話では、磯城の邑に里を構えるまえの五百箇の一族の遠い祖先は、全てを形作り、全てを壊すことのできる天神あまつかみに仕えていたという。


 その天神の名は天目一箇神あめのまひとつのかみ


 もしその天神の力を得ることができれば、木の実の祭壇を破壊することができるのではないか。五百箇はそういう希望を抱いていた。


 では、どこへ行けば天目一箇神に出会うことができるのか。古老の話によれば、天目一箇神はこの広い豊秋島とよあきしまの山河を作り成すため、あるときは出雲、あるときは遙か筑紫、またあるときは山門の青垣山を東に越えた伊勢に姿を現すという。


 五百箇は可能性のある地をすべて訪ねるつもりだった。


 過酷な旅路に踏み出すことになったが、絶望はなかった。それどころか、日々、希望が蓄えられていった。赤子の存在が五百箇を励まし、勇気づけ、奮い立たせた。


 五百箇は、なぜ人が遙か過去から延々と子を育て続けているのか、その根幹に触れたような気がした。


 赤子はほとんど泣かない子だった。そのかわりによく笑った。


 母乳を与えることができないので、五百箇は団栗や木の実を擦り、その汁を飲ませた。そのため、赤子はよく腹を下した。赤子が泣くのは、そんなときだった。


 手足に力が付き、這い回れるようになると、赤子はしょっちゅう悪戯をしては五百箇を困らせたり、怒らせたりした。しかし赤子はよく物を食べ、すくすくと育った。


 長い旅路のある一夜、わずかな岩室に入って赤子を眠らせていたとき、五百箇はとんだ手抜きをしていたことに気づき、我ながらおかしく、しばらく笑いが収らなかった。


 ふしぎそうな瞳で見上げる赤子に、五百箇は頭を下げて謝った。


「すまない。いましに名を付けてやっていなかったな」


 人は、もし二人だけの世界なのだとしたら、名は不要なのかもしれない。大事な人であること。それだけを想えば十分なのだ。


 しかし現実世界として、この赤子にも名は必要だろう。


 五百箇は自分で作った赤碧玉せきへきぎょく管玉くがだまを首飾りにしていた。腕の良い鍛冶かぬちであったから、管玉も精巧なものだった。抱いて眠らせるときなど、この管玉を赤子はよくもてあそんでいた。


 五百箇は管玉の首飾りを外し、赤子に掛けてやった。赤子はうれしそうに顔を輝かせた。


「これを汝にやる。天神が身につけるような素晴らしい首飾りを御統みすまると言うんだ。だから汝は今から御統だ。いいか、汝の名前は御統だぞ」


 御統はその名を気に入った様子だったが、五百箇も気が昂ぶった。御統を抱いたまま岩室から出た五百箇は、星空へ向けて御統を抱き上げた。御統は愉快げな笑い声を、何度も星空に昇らせた。


 時空を越えて、登美彦となった安彦の心の耳が、満天の星空に流れる星の音を聞いたような気がした。


 地下空間から地上の世界に戻った登美彦は、山門主の宮処の回廊を歩いている最中、ふと足を停めて星空を見上げたのだ。


 銀光で描かれた天上世界は、思わず膝を土に着き、祈りを捧げたくなるほど神々しい。しかし登美彦は膝を折らず、祈りも紡ぎ出さずに再び足を進めた。


 一房ひとへやの戸の前に登美彦は立った。戸には、いや一房の壁を取り囲むようにも、赤色の呪飾が施されている。登美彦が戸に触れると、その部分の呪飾が赤みを失い、音もなく戸は開いた。


 まどのない房で、小さな一つの灯りが、けなげに闇を払っている。その弱々しい光の中で座位を正しているのは、美茉姫みまつひめだ。捕らえられ、監禁されているが、礼のある扱いを受けている。


 登美彦の背後で戸が閉まった。わずかに差し込んでいた星明かりが消えた。


「よくお休みなされてはいかがです。とても生きる者の姿とは思えませんよ」


 美茉姫の声には皮肉はない。彼女は、心の底から叔父にあたる登美彦を案じている。それが美茉姫の性格なのだ。


「ふふ、鬼のように見えるというのなら、それが今の吾の正しい姿だよ」


 鬼とは亡者のことである。冥府の常夜をうごめいている自覚のある登美彦だ。


「それであれば結構なことですが、そろそろ私を帰してもらえませんか。父が心配なのです。がさつな父ですから、私がおりませぬとどのような生活を送っていますことやら。ご想像がおつきになられましょう」


 大彦にとっては心外なことながら、娘は自分の身よりも、むしろ父の生活がすさむことを案じている。想像のつく登美彦は、口の端を心持ち和らげた。


「残念ながら、あなたをお帰しすることはできない。姫よ、あなたにはとても大事な役割を担ってもらわねばならぬ。慈愛に満ち、すべての神々から愛されるあなたでなければ果たせぬ役割だ。誓って、決して害は加えぬ。いまも、何か求めたい物がないか、確認しに参ったのだ」


 登美彦の申し出を素直に受け取った美茉姫は、少し小首を傾げて考えてから言った。


「では、よくお休みになってください」


 もう一度促された登美彦は、今度は降参した。


「ご心配、痛み入る。では少し、休ませてもらうとしよう」


 登美彦は房を出て、再び呪飾を起動した。呪飾がなくても、美茉姫は決して逃げ出さないことを、登美彦は理解している。害は加えないと誓われた以上、それがたとえ冥界の鬼の言葉であろうと信じてしまう。美茉姫はそういう人だった。あるいは、父が必ず助けに来てくれることを信じているのかもしれない。


 その無邪気さは、誰かに似ている。その誰かを思い出さぬように、登美彦は自分の記憶に呪飾を施すのだ。


 登美彦は自分の房に戻った。ここは山門主の宮処であるが、今は登美彦がこの広大な建物群の主である。適当な一房を自分にあてがっていた。


 房では、夜よりも艶やかな黒髪と、星よりも輝く二つの瞳が待っていた。


 夜姫だ。


 登美彦を見上げる星屑のような瞳の潤いに陰りがある。その意味を、登美彦は理解している。


「妬いておるのだな。たとえあの姫が陽姫だった頃のいましの姿と重なろうとも、わたしが愛するのは汝だけだ」


 登美彦は黒髪を抱いた。沸き上がってきた情欲のままに、登美彦は夜姫の体に自分の体を重ねた。


 それからの激しい密事を、見る目がなかったわけではない。


 登美彦が宮処のあるゆる箇所に天探目あめのさぐめの霊力を写し取った鏡を配置しているように、宮処の居候いそうろうも独自の情報網を張り巡らせている。むろん、登美彦にも気付かれぬほどの隠微さで。


「やれやれ、病的だな」


 居候は鏡を伏せた。さすがにこれ以上を盗み見る出歯亀根性は持ち合わせていなかった。


「御名方様、まだお続けになられますか」


 背後の男が居候の名を呼んだ。まだ、この危険な遊びを続けるのか、と忠告しているのだ。背後の男の目には、御名方は危うい船に乗り続けているように見える。


「逃げるにはまだ早いさ。それにこちらの準備も大かた整っているのだろう」


「はい」


「なら、まだ遊びを続けよう。うまくいけば自分の天地が手に入るんだぜ。兄貴の下で息苦しい生活をするのはまっぴらだからな」


「しかし、登美彦様とうまくやっていけますかどうか」


「ふん。ここの天地は足がかりよ。飽きればあいつにくれてやる。豊秋島の懐は深い。おれが目指すのはもっと向こうの世界なのさ」


 そう大言壮語して背後の男を追っ払った御名方は、しかし、


「それに、今さらあいつ一人ほっぽりだすのは、友達甲斐ってのがないだろう」


 という本心の声は、黙って胸の中で響かせただけだった。

 饒速日の呪いに抗い、ただ一人暗い夜道を歩いていた登美彦こと安彦。山門の夜は、いまだ明けるときをしらない。


 孔舎衛坂の戦いで山門諸族に敗れ去った天孫族も、彼らの行く道を模索する。



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