山門編-失われた天地の章(19)-暗夜(2)ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の少年、俳優 の御統は、黒衣の美少女、豊と出会う。豊は山門の御言持の大日に接近し、嫡男の入彦に仕える。神祝 ぎの馳射の春日族旗頭となった入彦は、御統と豊の助力を得る。豊の幻術で御統は春日族になりすまし、彼の活躍で登美族との勝負に辛くも勝利するが、禁忌である実刃の鏃が用いられる。
馳射の勝敗と禁忌を巡って、誓約の鏡猟で神意を問う。鏡猟の斎に選ばれた豊は、春日族となるため入彦の妾となる。入彦の正妻の美茉姫や豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが激しく攻防する。登美族は夜姫の凄まじい呪力で春日族を追い詰めるが、豊の幻術が春日族を勝利させる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、焔の化身となって斎場を呑みこもうとする。御統の白銅鏡から天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。
前代未聞の鏡猟が新たな火種と懸念されるも、それを上回る脅威が山門に迫っていた。鉄で武装した天孫族が日下の楯津に上陸する。居丈高な天孫族の使人を大日は退け、山門主の饒速日は決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟したが、父である大日は時期外れの磯城族への神奈備入を命じる。天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。
かつて、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、饒速日を氏上とする斑鳩族との戦いを終わらせるため、饒速日に剋軸香果実を持ち帰ることを約束した。四兄弟妹は五十茸山へと向かい、そこで大山津祇と鹿屋野姫との争いに巻き込まれるも、安彦は密かに五十茸山に入山し、災いの果実を発見する。安彦はたちまち果実の魔力に憑りつかれ、兄と妹を敵と疑う。兄と妹は、一計をもって安彦から果実の魔力を取り祓う。
回想を終えた大日は、戦場にいた。天孫族の鉄の兵団を迎え撃つ山門諸族は、大日の兄である大彦の活躍で優勢に立つ。天孫族は決死の総攻撃をかける。
山門に服わぬ磯城族を挫くべく三輪山への神奈備入りを命じられた入彦は、大物主の圧倒的な霊力の前に成す術もない。容赦ない攻撃の最中に、入彦は眠っていた英雄の気質を呼び覚ますが、巨大な白蛇と化した大物主に呑まれる。漆黒の体内の中、入彦は、なぜ父が期待をかけるか、その理由に思い至る。大物主に認められた入彦は、幸魂の霊力を授かる。
その頃、山門大宮の大日邸は謎の集団に夜襲されていた。予知していた大日の依頼を受けていた輪熊と鹿高は、輪熊座を指揮して襲撃に備えていた。八岐大蛇の出現に、鹿高は謎の集団が出雲に関係していると見破る。輪熊座は敵の撃退に成功するが、入彦の言い名づけ、美茉姫が拐かされていた。
一夜が明け、孔舎衛坂では乾坤一擲の時を迎えていた。山門の舟軍を率いる斑鳩族が未だ戦場に現れない不審を含みながらも、山門諸族は渾身の突撃を敢行する。戦いの趨勢が山門へ大きく傾いたとき、山門諸族の後衛を艶やかな羽衣装の女性に率いられた別動隊が襲撃する。その女性こそ、天孫族の日女、狭野姫だった。
危険が大日に迫る。狭野姫は真金鏡から白烏の霊、日霊を呼び出し、大日を圧倒する。あわやのとき、入彦と豊、そして御統が来援する。入彦は大物主の幸魂を駆使し、御統の天目一箇神の助けも得て、狭野姫と日霊を撃退する。舟軍を率いる斑鳩族がついに現れ、白肩津に停泊していた天孫族の船団を駆逐する。孔舎衛坂の戦いは、山門諸族が勝利する。凱旋する大日を迎えるため、山門大宮の門が開くが、そこから吐き出されたのは松明と矛の群だった。
大日の謀反を捏造した登美彦は、斑鳩族の武力と大地から無数の土兵を生み出す埴土の術で大日と春日族を追い詰めるが、輪熊と鹿高、そして入彦たちが来援する。輪熊と鹿高は地祇としての本身を現し、入彦は大物主の幸魂を使って登美彦の埴土の術を無力化する。登美彦の圧倒的な呪能は再び大地を蠢かして無数の土兵を生み出すが、御統の呼び出した天目一箇神が粉砕する。
大日は逃走するが、政変を成功させた登美彦は山門を牛耳る。春日族と分かれた大日たちは、大彦の一人娘の美茉姫がさらわれたことを輪熊から知らされる。豊の提案により、美茉姫救出の応急措置をとった大日たちは、仇敵であるはずの磯城族の邑へ向かう。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
人は、しばしば自分たちだけが時代を編んでいくものと勘違いしがちだが、季節もまた静かだが確固とした足取りで、歴史の縁を彩っていくのだ。
夏だ。
三輪山の緑は深く、木の葉の濃い影から見上げる空は青い。
山門の周囲に山姿はいくつもの峰を連ねるが、三輪山ほど母性を感じさせる山はない。その麓に身を横たえれば、母の胎内にいるような安らぎを覚える。磯城族が決して山門の饒速日に屈しないのは、つまりは圧制者から母を守っているのだ。
磯城は山門と長い戦いを続けている。ここしばらくは停戦状態が続いているが、陰に陽に饒速日は磯城へ圧力をかけ続けている。平群族や葛城族のように、山門の朝廷に馳せ参じることはしないが、境界を越える山門人の狩猟漁労の黙認や、交易に名を借りた不公平な物々交換の甘受を余儀なくされていた。饒速日の圧力に、ときに怒りの矛を挙げることがあっても、それは山門の御言持によって速やかに鎮圧された。
饒速日が既に隠身の領域に入っている以上、磯城族にとって圧力の具体的現象は御言持の姿として現れる。つまり入彦の父である大日は、磯城族の人々にとっては憎んでも余りある横暴者なのだ。
その大日が政変に逐われると、兄の大彦、そして家族は、磯城主の居館に落ち着き、あまつさえ人々の歓待を受けている。その理由を伯父の大彦に尋ねれば、その答えは、大日は磯城族の氏上の血を引いている、というものだった。当然、大彦もその血を引いており、入彦もそうだということだ。
入彦の知る父は、山門の御言持であり、春日族の氏上だった。父は春日の率川邑の邑主であり、春日族は騎馬族である登美族の支族であった。入彦は自らの出自を、山門の中核である登美族であると信じて疑わなかった。疑問であったのは、大日の弟である登美彦が春日族の本家筋というべき登美族の氏上で、分家当主の大日が山門人臣の最高位におり、本家当主の登美彦が饒速日の秘書官程度の地位にいるというねじれの構造だ。そのねじれが、山門朝廷という舞台における不協和音の原因であるというのが、入彦の認識だった。長兄たる大彦は春日族の大夫であるが、山門朝廷において重職にないという事実は、彼の脳天気ぶりから、あまり気にはならなかった。彼が春日族の兵を教練する鬼教官であるとすれば、それですんなりと納得できた。
人の意思に染まるばかりで、自分の考えを持たなかった未熟者の視界に映る世界とは異なるものが、どうやら現実世界であるらしい。
入彦は今、三輪山の緑の中にいる。祭礼のとき以外、一般の磯城族は立ち入りを許されないが、氏上の血を引く入彦にはその勝手ができる。
磯城の邑が夏の強い日射しを受けて、半身を白く輝かせ、半身を黒く沈めている。
入彦は、彼の青銅鏡をもてあそんでいる。夏の空に染めたような青い鏡体に、四体の神獣が鋳られている。
この鏡には三輪山の神体である大物主の幸魂が封じられている。その力を写し取っただけでなく、幸魂そのものを封じているのだ。その意味で、天目一箇神本体を封じている御統の白銅鏡と同じだ。
御統の白銅鏡を作ったのは、父の友人である五百箇という人だ。渡来人の血を引く優れた鍛冶だということだ。この青銅鏡を作ったのは誰だろう、と入彦はぼんやりと考えた。
入彦の両足の間に生えている草がみるみる背丈を伸ばしていく。入彦が背中を預けている木の梢が高くなっていき、枝振りは逞しく、花は実を太らせていく。
入彦は目の前にまで垂れ下がった実をひとつもぎ取り、かじった。甘酸っぱい果汁が口の中で香りを立てる。入彦は、草葉の緑と花の色彩に埋もれた。
これが大物主の幸魂の霊力なのだ。大地に力を与え、草木や花の成長を促進する。
思えば磯城族は、山門の諸族とは異なり、農耕を知っている。山門でも枯渇し始めた狩猟漁労の不足を補うために農耕的な営みを始めてはいるが、それは自生している陸稲を刈り、来年の自生を祈る程度のものだった。磯城族ではさらに数歩を進め、苗を育て、畝を整え、肥を与えて大地に活力を出させる方法を知っていた。農耕に秀でた者が磯城の氏上となり、その者が神上がって大物主となる筋道が、入彦にはよく理解できた。
入彦たちが磯城邑に迎え入れられてから、月の満ち欠けが一巡りした。ひと月が経ったということだ。
入彦は、磯城族の人々から畏敬の念で仰ぎ見られた。入彦が言霊を紡ぎ出せば、陸稲の苗は伸び、豆の蔓は太くなり、椎の木は団栗をたわわに実らせるからだ。一面を花畑にすれば、女性の歓声があがった。
それは青銅鏡の中の大物主の幸魂の霊力によるものだが、それは大物主が入彦を認めて授けたものである以上、入彦自身の能力に他ならない。入彦は生まれて初めて、親の七光りではなく自らの光で、人々から慕われるということを知った。磯城には美しい女性が多く、彼女たちに囲まれるとついつい鼻の下が長くなる入彦だったが、慕われる者には責任がつきまとうことを忘れないところに、入彦の成長があった。
考えてみれば、父が神奈備入りを命じた時機は絶妙だった。いずれ山門を逐われることを父が予期していたのだとしたら、入彦に大物主の力を得させるには孔舎衛坂の戦いの前夜しかなかった。もしその時機が早ければ、政敵である登美彦は入彦を危険視しただろうし、逐われてからであれば、磯城の人々は大日にこそ大物主の力を願っただろう。
磯城族を訪れたときに、すでに入彦に神威が備わっている。それが大日の望んだ筋書きであったにちがいない。それはつまり、磯城族を父や伯父の時代ではなく、入彦の時代にしようと企図していることに他ならない。
ならば、父は行く先をどのように見つめているのか。深い緑に沈み、花の香りに包まれながら入彦が案ずるのは、そのことだった。
その大日は、磯城族の氏上の居館で、穏やかな表情を変えていない。精神を現実世界の外に置いた隠者の趣すら漂わせている。弟のそんな身構えを、大彦は嫌った。さらわれた娘のことを忘れてもらっては困るし、そもそもここで終わりと諦められてしまっては、この先がつまらなくなる。
「おい、飲め」
大彦は夜ごと酒瓶と土器を大日の前に置いた。酔わせようと思った。酔わせて本音を聞き出そうと考えた。
大日は遠慮なく兄持参の酒を飲んだ。たちの悪いことに、大日の酒量は大彦を超えている。そのため、本音を聞き出す前に大彦が酔っ払った。
「なぁ、兄者よ」
「なんだ」
大彦はやけくそになって酒をあおっている。
「兄者はどこまで覚えている。この邑で過ごした日のことを、だ」
大日は土器の桑酒の底を見ようとした。自分の過去と同じように、不明瞭な色をしている。
「むっ」
そう呻いて、大彦は土器を置いた。
「…実はよく覚えていない。おれとお前、それから安彦や陽姫と一緒にそこいらを駆け回っていた日のことはよく覚えている。五百箇のやろうが一緒だったこともあったな。遠慮なくぶん殴りやがった親父のげんこつも覚えている。でも、それからのことはよくわからん。親父や五百箇がどこへ消えたのか。なぜお前が春日族の氏上で、安彦のやろうがあんなに胸くそ悪くなりやがったのか。何度も思い出そうとしたさ、失われた記憶をな。だが、そうしようとすると頭が締め付けられるように痛くなる。おれは痛みに負けたのさ」
大彦は再び土器を持ち上げて、酒を干した。
「…そうか」
大日は席を立った。
燭一つの房だ。席を外せば、たちまち姿は消える。
大日の姿を視界に戻したのは、星の光だった。大日が牕を開けたのだ。星の光と連なって、虫の声が流れこんだ。
「夢だな。夢を見ているようだ。今が夢なのか、昔が夢だったのか。それは分からん」
星明かりに浮かぶ大日の姿があまりにおぼろげだったので、大彦はそう言った。
確かに夢だ、と大日は思う。山門の諸族も、磯城族も夢を見ている。大彦には夢の自覚があるが、他の者はその自覚すらあるまい。長く暗い夜の夢を、山門の天地すら見続けているのだ。
いや、もしもその暗い夜を、ただ一人覚醒したまま彷徨う者があったとしたら。大日には、その彷徨い人の姿が安彦に見えるのだった。安彦は、恐ろしい呪いにただ一人抗いながら、あの日の誓いを守り抜こうとしているのではないのか。
あの日、というのはおよそ二十年前、剋軸香果実を首尾良く五十茸山から採取してきた日のことだ。
大山津祇と鹿屋野姫の二柱の地祇の目をかすめて、災いの木の実と呼ばれる虹色の実を七つ子石の妖木からもぎ取った。
大彦と大日と、安彦、陽姫の四兄妹は、冒険的で英雄的な事業を成し遂げた興奮を小脇に抱えながら、磯城族の勢力圏の縁を駆け抜けた。そのまま斑鳩邑まで駆け込んだ四人は、すぐに饒速日との面会を許された。
饒速日は高らかに拍手を打った両手を大きく広げた。四人を救世主と持ち上げ、口を極めて誉め称えた。
「勇ましき磯城の子らよ。余にもその災いの木の実を見せてくれ」
饒速日に催促されて、大日は、五百箇の石箱に収めたままの剋軸香果実を目の高さに掲げた。妖力は抑えられているが、石箱の中ではちきれそうになっていることが、石箱を捧げる大日には感じ取れた。
饒速日に指図された従者が近寄り、伸ばそうとした手の前に、安彦が立った。石箱に伸ばされた従者の指も、饒速日の意思も拒絶するような頑なさがある。
「勇ましき童男よ、何か申したいのかな」
口調ほど、饒速日の目は穏やかではなかった。
「明上におかれては、この木の実をいかがなされるおつもりか」
安彦の声には棘がある。
「ほっ」
と、饒速日は笑った。
「百七十九万歳の妖力を蓄え、天地に悪さをしでかす木の実を封じ込める、という話を、以前にしておらんかったかな」
「確かにお聞きいたしました」
「それはよかった。汝に話したことが余の勘違いであったなら、いよいよおいぼれたかと嘆かねばならぬところであった」
「明上よ、木の実をもぎ取ったのは、僕でございます」
「真に勇ましきことよ」
「その際、僕は五十茸山に降りられた天津神にお会いいたしました」
「それは珍しきことだ」
「天神神は申されました。木の実による災いの発動は、いつも人の手によるものだ、と。この世にはよからぬものが多い、とも」
安彦が言い終わると、沈黙がおりた。饒速日はつまらなさそうに上を向けた顎で安彦の眼光をしばらく受け止めたあと、唐突に笑い出した。
「汝の出会った者がほんとうに天津神であったとして、災いの木の実を傍目に眺めているだけの者と、その災いを封じようとする者とがいたとすれば、どちらに力を添えるべきかね」
「口と行動とが異なる者もおります世の中です」
饒速日は観念したという顔つきで、両肩をすぼめた。
「なるほど、磯城の人間は頑固者よ。汝らの父も随分な頑固者ゆえ、致し方なし。よかろう、余の口と行動が同じであるところを見せてやろう」
そう言って座を降りた饒速日は、従者が開けた扉へ進みつつ、磯城の四兄妹を手招いた。
四兄妹が導かれたのは宮の地下だった。厳重な呪飾の施された分厚い扉の先に、まるで地の底根にまで下りていくような長い下り坂があった。まだ下り坂に踏み入れていないのに、この先に異様なものがあると感知できた。
四兄妹は体を寄せ合いながら長い下り坂を進んだ。
底には、広大な空間があった。夥しい燭が点され、地中とは思えない明るさだ。
中央に巨大な祭壇がある。祭壇からは無数の管が伸びており、無数に並べられた石棺につながれていた。床には土が敷かれ、盛り上がったところや、水路が設けられていた。天井には星が配されている。つまりここは、地中に作られた天地だということだ。
饒速日は祭壇へと四兄妹を導いた。
陽姫が怯えた声を挙げ、安彦にしがみついた。石棺の中を見たのだ。
石棺の中には、人が横たえられていた。
四兄妹は、ざっと石棺を見渡した。無数の石棺には、無数の人が収められていた。彼らの生死は明らかではないが、とても生きているとは思えない肌の青黒さだった。
男女老幼は様々だが、皆、祝者や斎、巫や媚の衣装をまとっていた。眠りについたばかりと思えるものもあったが、枯骸となっているものもあった。いずれにしろ、腐敗防止は施されている様子であった。
「さて、磯城の子らよ。これは、災いの木の実を封じ込める絡繰、いわば天地の柩だ。ここに剋軸香果実を封じ、枯れ果てさせる」
饒速日は、三段になった祭壇の二段目に腰下ろしている。
「この石棺の人々は、木の実の妖力を封じるために呪力を祭壇に提供した人なのですか」
大日は聞いた。
「いかにも」
簡潔に、饒速日は答えた。その提供が任意であるのか、強制であるのかは、大日は問わなかった。問わずとも分かるからだ。
「これで、余の口と行動が同じであることを分かってもらえただろうか」
饒速日の目は安彦に向けられたが、安彦は恍惚とした表情を浮かべているだけだった。饒速日が天地の柩と呼んだこの祭壇の、禍々しい機能美に魅了されていた。
「分かってもらえたようだな」
饒速日は大日に視線を転じた。
「さて、その石箱の中身を預けてもらえるだろうか」
差し出された饒速日の手が根の底の王のものに見えた大日は、後じさりした。大日の怯えを見た饒速日は片眉を上げた。
「汝たちが納得するまで話をしてやってもよいが、石箱の中のものが破裂するまで、ときがあまりないようだ」
饒速日が言うように、大日が持つ石箱は、内部からの圧力に耐えかねるように大日の手の上で身もだえしている。
大日は片膝を着き、石箱を饒速日へ向けて掲げた。木の実を託す、ということだ。それが正解なのかどうかはわからない。しかし、木の実に対すべき次なる処置を知っているのは、とりあえず饒速日しかいない。
「賢明である。これで余が磯城と戦う理由がなくなった。汝らは邑へ帰り、平和に暮らすとよい」
これで四兄妹の冒険は終わった。しかし大団円というには、四人の心にはそれぞれに解消できないわだかまりが残る結末となった。
磯城邑に帰った四兄妹を待っていたのは、斑鳩族との不毛な戦いを終わらせた者への称賛ではなく、父親の雷鳴のごとき大激怒だった。
当然だ。四兄妹は、三輪山の磐座をちゃぶ台代わりにした罰を受けて高床倉庫に閉じ込められ、しおらしく反省しているはずだった。それがこっそりと倉庫を抜け出したばかりか、五十茸山での危険な神奈備入りを無謀に敢行し、あまつさえ子供じみた正義感で磯城族の未来を饒速日と無断で交渉した。そして饒速日が己の野望を童子の行動によって諦めるはずがないことを考えれば、四兄妹は踊らされたにすぎないことがわかる。
「災いの木の実だと。それは剋軸香果実のことか。それを饒速日のもとへ運んだというのか」
父の声が低くなった。子を叱りつける親の心情以外の重さが声を低くさせたことに気付いた四人は、たじろいだ。
父は裳を払って席を去った。去り際、側近に四人を厳重に閉じ込めておくよう命じた。そのため四兄妹は、強い呪飾が幾重にも巡らされた屋舎に押し込められ、帯剣の族人にぐるりと囲まれることになった。すぐに四兄妹の仲間が一人増えた。五百箇だ。五百箇は四兄妹の行動を知りながら、それを報告するどころか手助けした罪で、同罪となったのだ。
暗い屋舎で、四兄妹から話の大筋を聞かされた五百箇は、呆れを通り越した顔で四人の顔を順々に見て、深い息を落とした。
四兄妹は、今度は檻を抜け出そうなどという不埒は考えなかった。なにしろ、彼らの脱出に不可欠な人物が同じ状態にあるのだから仕方がない。
鍛冶や工作道具をすべて取り上げられていた五百箇は手持ち無沙汰な時間に耐えかねたように、ごろんと横になって目を閉じた。四兄妹もそれぞれに不安を抱えて、同じように横になった。燭も牕もない舎内では、そうする他なにもできない。
五人には知りようもないことだが、このとき、四兄妹の父である地牽は、磯城邑内の祓い清められた区画に建つ斎宮に駆け込んでいた。そこにいた人物は、聖域の静寂を蹴飛ばした地牽をたしなめるように、静かに瞑目していた。
「姉上」
と呼びかけて、地牽は腰を下ろした。
地牽が姉上と呼ぶ人物は、族人からは姫巫女または姫巫と尊称されている。磯城族が信仰する三輪山を祀る巫女だ。礒城族の氏上の血を引く女性のうち、もっとも霊力に秀でる者がその職に就くため、姫巫女と呼ばれている。また、代々その地位を襲位させていくため、百襲姫とも呼ばれる。
ここ数日、その百襲姫の気分がすぐれない。何か得たいの知れぬ霊力を感じ取っており、三輪山が騒がしい。
「やはり、饒速日ですか」
百襲姫は目を開けた。頬や目尻には相応の歳月が感じられるが、瞳は少女のように若々しい。
「そうです、姉上。いよいよ貪欲な舌を伸ばしはじめました」
「あなたの子供たちがその契機になっていたとしても、あの子たちを叱ってはなりませんよ。磯城の人たちはみな強いですが、それでも饒速日との戦いを続けておればいずれ悲運は免れなかったでしょう。それから饒速日が貪欲な舌を伸ばしたとしたら、だれもそれを防ぐことはできません。あの子たちのおかげで、わたくしとあなたが健在のときに饒速日が大口を開けました。他族を守ることは適いませぬが、わたくしとあなたが全力で立ち向かえば、磯城を守ることくらいはできましょう」
そう諭された地牽は、すでに四兄妹を叱ってしまったばつの悪い顔をつるりと撫でた。
「ともかく、すぐに備えを」
「わかりました。吾は邑の外を守ります。姉上には邑人をお頼みします」
そう言って立ち上がった地牽を呼び止めかけた百襲姫は、しかし長い睫を閉じて、
「わかりました」
と言った。この日の到来は、すでに夢で知っていた。夢は、そう長い未来を示さなかった。それはつまり、百襲姫にも地牽にも、未来は長く続かないということだ。
邑の雰囲気の一変は、四兄妹にも五百箇にもすぐに感知できた。邑に生じた不穏な動揺は、五人が押し込められた屋舎をまるで水の上の小箱のように不安定に揺らした。
大彦は、扉がある辺りの板戸を叩いた。
「おい、どうした。何が起こっている」
返答はない。しかし、無音こそが邑の緊迫を言い表している。
「饒速日がおれたちを裏切って襲ってきたんじゃないか」
「だったら大彦兄ぃはまっさきにここから出されるはずだ。兄上一人で、斑鳩兵十人には匹敵する」
屋舎に閉じ込められたのは一日ほどだ。この五人にしてはよく耐えたというべきだ。しかし、我慢にも限度がある。
「兄上、帯剣の数がずいぶん少なくなっているようです」
と、陽姫がいった。この妹は占いに長じているが、気配を察知することにも長けている。繊細な感受性を備えているということだ。
「おやじの堪忍袋は、意外に大きかったのかもしれん」
「もしくは、堪忍袋を繕っている暇がなくなったか」
大彦と大日が、父の堪忍袋の許容量と耐久性を議論していると、陽姫のうめき声がし、続いて、彼女が床に倒れ込む音がした。
「どうした」
屋舎内は漆黒だ。外周に施された呪飾の力で、目が闇に慣れるということがない。しかし、気配は察知できる。陽姫は震えているようだ。まるで真冬の底知れぬ寒さに抱きすくめられたように。
「何か、とても恐ろしいものがくるわ」
陽姫がそう言った限り、それは近未来の現実だ。
大波を被ったように、屋舎が大揺れに揺れた。五人は転げ回ったが、安彦は、弱っている陽姫をなんとか抱き止め、彼女が板壁に叩きつけられることを防いだ。
人が倒れていく物音がする。屋舎を見張っている帯剣たちだろう。
「どうなっている」
大彦がもう一度、力任せに板壁を殴った。大彦の怪力をもってしても、呪飾の施された板壁は破れるきざしがない。
「公子よ」
板壁の向こうから苦しげな帯剣の声がした。
「おお」
大彦も大日も安彦も、急いで板壁に耳をつけ、続く言葉を待った。
「ここは百襲姫様が呪いを施された屋舎ですので、ここにおられる限りは安全です。外にはお出ましになられませぬように」
声はそう言って、止んだ。
期待した情報を得られなかった大彦は腹立ち紛れに板壁を蹴ったが、もはや帯剣の声は聞こえなかった。
尋常ならざる事態が起こっているが、屋舎の中の五人にはどうにもできない。四兄妹は優劣はあるものの、皆、常人以上の霊力を備えているが、呪具のないなかではたださえ強力な百襲姫の呪飾を破ることができない。五百箇も、工具がなければ板壁に穴を開けることもできない。
焦燥の時間がすぎていく。
もう一度大きなうねりが屋舎を揺るがした後は、屋舎を囲む邑の大気が凪になったように静かになった。
ふと、漆黒を斜めに通る細い日射しがあることに五人は気付いた。よく目をこらせば、同じような光の糸が幾本も縦横に射していた。
木造の屋舎だから、大力の大彦が内部で暴れたり、外部からの力で揺るがされたりすれば板材に隙間ができることはある。しかしそれは通常の建物の場合だ。百襲姫が呪飾を施したこの屋舎には、光が差し込むことなどありえない。もしあるとすれば、それは百襲姫の呪力が尽きたときだ。
焼き栗に触れるときのようにおそるおそる扉のあたりを押すと、水が引いていくようななめらかさで、扉が開いた。弱々しい光と冷えた空気、そして白い霧が流れ込んできた。
五人は屋舎の外へ出た。
日中ではあるようだが、立ち籠めた霧が光を吸い取っている。
「帯剣たちは、みな倒れているようだ」
すばやく周囲の様子を調べた五百箇が言った。
静かだ。禍々しい静けさだ。
「大日よ、すまんが親父を探してきてくれ。何者かが邑を襲ったのだとしたら、親父は邑の外で戦っているはずだ。おれは邑の中を調べる。安彦、お前は陽姫と一緒に百襲姫様のもとへゆけ。五百箇、お前は鍛冶の里へ戻れ」
大彦はすばやく指示を出した。自分の手を探さなければならない濃霧の中で離ればなれになるのは危険だったが、一刻も早く事態を把握したかったし、父も百襲姫も、邑人も鍛冶の里も、同時に助けを求めているような気がしてならなかった。
大日は邑の外へ向かって走った。走ったが、夢の中で急ぐようなもどかしさが体中にまとわりつく。沼を泳ぐような抵抗が手足を重くする。
柵を越え、土塁を登り、濠にかかった土橋を渡る。
父はいた。異様な姿をしていた。
なんだろうか、霧を人型に凝り固めたようなものを両脇に二体ずつ抱え、父の背にも三体のそれが覆い被さり、周りにも十数体のそれが囲んでいる。
父の目が、大日を捉えた。父は大声で叫んだ。
「隠身となって三輪山に御座される太瓊様の下へ行け」
「父上」
大日も大声で叫んだ。駆け寄ろうとしたが父の目が厳しく制止した。これまでに何度も叱られたが、このときの父の目ほど、大日を打ち据えたものはなかった。
なにが磯城を襲っているのか分からないが、饒速日の裏切りであることは明白だった。霧のように見えるのは呪いだ。呪いに込められた力があまりにも強く、秘められた言霊が粒子となって見えているのだ。父を捕らえている人型の霧は、呪いの瘴気が凝固したものだろう。
父が、禍々しい白さの中に埋もれていく。父はまとわりつく人型の霧を一体も大日のところへ向かわせなかった。
父は、やがて白さの中に埋没し、石像のような姿になった。
大日は涙をあふれさせた。なんという馬鹿息子なのだ。饒速日に踊らされ、父に、磯城に今日の災厄を招いた。
霧の一部が重く垂れ下がり、そこから人型の霧が生まれ出た。ゆっくりと動き出す。それは一体だけではなかった。
大日は邑へ向かって走り出した。兄、弟、妹、友に知らせなければならない。
大彦は、邑の中心部、父の屋敷の中で、数体の人型の霧に取り囲まれた。母や家人は、みな倒れていた。三、四体の人型の霧を殴り飛ばしたが、やがて白さの中に埋もれた。
安彦と陽姫は斎宮に駆け込んだ。宮内の廊下や階に、斎や祝者が倒れている。
「…まだ、生きている」
亡骸のように見えるが、陽姫には僅かな命の脈動が感じ取れる。
安彦は宮の奥へと急いだ。
御簾を開けると、端座する百襲姫の姿があった。
瞼を閉じ、深い静寂に沈んでいる。
安彦のあとを追って御簾の中に入った陽姫は、小さい悲鳴を発した口を手でふさいだ。今度は、まだ生きている、とはいえなかった。
死んでいるのかと問われれば、否定できる。しかし陽姫すら脈動を察知できない深さに、百襲姫の命は沈んでいるのだ。
それが、安彦が知りもしない深奥なる秘術の結果であることは理解できた。百襲姫は命をかけて、磯城を襲った災厄から邑を守ろうとしたのだ。呪いの霧の中で、安彦たちが活動できるのは、その恩恵だ。だが残念なことに、磯城を襲った呪いは百襲姫の秘術を凌駕している。
安彦は陽姫の手を引いた。
もはや邑を出るしかない。兄二人を探している暇すらないだろう。
宮を出た。しかし、人型の霧の呪いがすでに包囲していた。
「饒速日め」
胸を突き上げる衝動のままに、安彦は怒声を張り上げた。清められた斎宮の土が盛り上がり、武埴の土人形が生まれ出た。主人の感情に染められた武埴たちも一斉に咆吼した。
その咆吼を目がけて、人型の霧の呪いが殺到した。
五百箇は三輪山の麓の森の中を走っていた。
鍛冶の里には向かっていない。大日たちと別れたとき、すでに里へ向かっても無意味だろうと察知していた。
それは勘だ。すぐれた鍛人と称賛される五百箇は、鉄の要点を見いだす勘を持っている。その勘は、運命の切所をも感知した。
自分に備わった鋭い勘を、五百箇はこのときほど悲しみの中で感じたことはない。父母にも、兄弟姉妹にももう会えないことを、勘が教えているのだ。
木々の根や落ち葉に紛れて、小さな岩室がある。
外からでは分かりづらいが、この岩室は、入ってみれば広い空間を持っている。五百箇と四兄妹は、もしものときにはここで落ち合うことに決めている。
五百箇は、岩室の中から最低限必要な工具を入れた嚢を持ち出した。
岩室の外で、五百箇は四人を待った。だれ一人たどり着かないという最悪の事態が頭をよぎった。
地の底からわき出るように、白い霧が森の根元を這い出してきた。それが呪いの霧であることは、五百箇には分かっている。
霧の中から吐き出された影がある。
大日だった。
駆け寄ろうとした五百箇は、すぐに足を止めた。
大日の足元にしがみつく人型の霧がある。
助けられない。五百箇の勘がそう言った。
「五百箇。行け。三輪山の奥津磐座まで走るんだ。そこで三輪の大物主、吾の祖父の太瓊様を探してくれ」
奥津磐座がある方角を激しく指さした大日は、そのままの姿勢で白い霧に覆われた。
蔓を掴み、木の根や土から出た岩角を踏み台にして無我夢中で三輪山を駆け上った五百箇は、奥津磐座の木の間から下界の様子をうかがった。
禍々しい白さの雲海が広がっていた。
磯城だけでなく、遠くに青く霞む山並みまで雲の海が広がっている。
山門は、雲の海に呑まれたのだ。
呪いの霧は、さすがに奥津磐座のところまでは昇ってこない。
小岩に腰掛けた五百箇は途方に暮れた。
しかし磯城の人も、山門の諸族の人々も、陽姫が言ったとおりまだ生きていた。
ふと自我を取り戻したとき、大日は清々しい青空の下を歩いていた。
斑鳩宮へ向かう。
大日の心の中には希望があり、四肢には躍動があった。
斑鳩族の氏上である饒速日を山門主として奉戴し、互いに手を携えあった山門の諸族。磯城族だけはまだ完全にまつろってはいないが、干戈の音は、朝日が夜鳥の声を拭い去るようにして止んだ。
登美族は早くから斑鳩族を支えてきた大族だが、その一部が春日山の麓に率川邑を建て、春日族を興した。その新族の氏上として選ばれた大日は、饒速日の朝廷を構成する大夫として、斑鳩宮へと闊歩しているのだ。奮励努力の次第では、いまは登美族の氏上が務めている御言持の座に座ることも可能だ。
視界の中の風景の明るさが、大日の呼吸に覇気をみなぎらせている。斑鳩宮へと続く道は、まるで虹のようであった。
しかし、体内の全てが虹の澄明さに蕩けていたわけではない。どこかに、僅かな濁りがある。どこにそれがあるのか見当が付かないが、その濁りが、ときおり話しかける。風景の輝く緑の陰に何かが潜んでいないか、と問いかけてくる。
成功への道筋がはっきりと見えたとき、人は、ともすれば周囲への注意を怠りがちだ。自分にはそれを戒める慎重さがある。このときの大日はそう考え、濁りの問いかけを聞き置いていた。そしておよそ二十年、その濁りは問いかけ続けていた。
失脚し、山門を逐われた今日、牕が夜の暗闇に切り取った僅かの星空を仰ぎ見て、大日は明察した。あの濁りの声こそが、自分の覚醒した声だったのだ。
いや、思い返せば、それが覚醒した自分の声だと気づいていたのだ。しかし大日はその声に耳を傾けなかった。夢から覚めることを嫌ったのだ。
夢はこの夜、はっきりと覚めた。
大日は大彦の前に座り直した。
大彦はまだ夢うつつにある。この兄ですらそうであるのだから、山門の人民のほぼ全ては、夢の中にあることすら気づいてはいまい。
何かを問いかけようとしていた兄の土器に、大日は無言で桑酒を注いだ。
酒は燭の火揺らぎを映すだけだが、安彦が見つめる鏡面には、一人の稚女が鮮やかに映し出されている。
斑鳩大宮の饒速日の宮処の人知れぬ一室だ。地下深くに作られており、通常人の感覚では根の底と言っていい。
地中の一室とはいえ、空間は広大だ。かつて饒速日が、磯城の四兄妹を案内した地下の天地である。
地下の天地の支配者は、今は安彦になっている。
彼なりの変更を若干加えてある。夥しい数の燭はすべて撤去してあり、中央の祭壇から伸びる管につながれた石棺の数は増した。この地下の天地の存在を知る者は、すべて石棺の冷たさに横臥している。
安彦が見つめる鏡面だけが、青白い光を発している。その輝きの範囲に佇立している武埴の衛士が、焼き土色の魁偉な肉体を濡れたように照らしている。
鏡面に映し出されているのは、美茉姫だ。地下の天地ではない宮処の一室に監禁されている。天探目の霊力を写し取った鏡を用いれば、映像を伝達することができる。ちなみに天探目は間諜の能力を持つ神霊であるが、その暗然とした印象から人々の信仰心から忌避されており、天探目と呼び捨てにされている。
印象の悪さはさておき、映し出される美茉姫の姿は清澄だ。
美茉姫は、清らかな純白の巫女姿で端座している。落ち着いた座り姿だが、さらわれて動揺せぬ心地の強さが美茉姫の姿の彩度を高めていた。
「やはり、この稚女しかおらぬ」
と、安彦は確信した。彼の計画に欠かせない儀式を執り行わせるために、美茉姫以上に相応しい司霊はいない。
背後で、微かな気配が身じろいだ。
安彦が振り向くと、二つの眼があった。
「妬いているのか、愛人よ。案ぜずとも、吾が心を宿らせるのは汝妹のみだ」
安彦は二つの眼の上部の闇に手を伸ばした。そこに滑らかな絹の感触がある。黒髪だ。
磯城の四兄妹の末子の陽姫は、今、夜姫と名を替えて安彦の側に侍っている。かつて星屑のように輝いていた瞳は、暗い情念を灯すのみだ。
安彦は顔を鏡に戻した。
人に聞けば、日常の美茉姫は闊達な娘子であるという。次々と芽吹き、花開いていく野の花の騒がしい美しさなのだという。しかし、鏡面の中の彼女は、神秘的な佇まいを見せている。かつて陽姫も、このような美しさだった。
妹は、饒速日に汚された。しかし、妹を汚したのは饒速日だけではない。饒速日は陽姫の体を汚したが、心を汚したのは安彦である。陽姫を夜姫に堕としたのは安彦なのだ。
闇の中で、小さなうめき声があがった。安彦の追憶を浮かべていた表情に、冷酷な笑みが広がった。
この地中の天地が安彦の所有物になって以来、彼はもう一つの工夫を加えていた。
無数の石棺が繋がれた祭壇。その頂上に、玉座を設けている。
もっとも玉座というのは名ばかりで、荒削りした磐座だ。
そこにも無数の管が繋がれている。否、無数の管に貫かれた人物が座っている。
それは、かつての地中の天地の主、饒速日であった。
山門を沈めていた暗い夢から目覚めた大日。
ただ一人、妖夢から覚醒していた安彦は、しかし誰よりも暗い夜を歩いていた。