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そらみつ!~鏡と呪いの物語~  作者: 三星尚太郎
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山門編-失われた天地の章(18)-暗夜ー

<これまでのあらすじ>


 光と命が豊かな豊秋島(とよあきしま)。 そこには天地(あめつち)の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。


 輪熊座の少年、俳優(わざをき) の御統は、黒衣の美少女、豊と出会う。輪熊座の親方の輪熊は山門の御言持(みこともち)の大日と懇意で、豊は大日に接近し、嫡男の入彦に仕える。御統は白銅鏡(ますみのかがみ)から光の巨人を暴走させた罪で土牢 (ひとや)に捕らえられる。神祝(かみほ) ぎの馳射(はやあて)の春日族旗頭となった入彦は、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。豊の幻術で御統は春日族になりすまし、彼の活躍で登美族との勝負に辛くも勝利するが、禁忌である実刃の鏃が用いられる。


 馳射の勝敗と禁忌が破られたことを巡って、誓約うけひの鏡猟で神意を問うことになる。鏡猟のいつきに選ばれた豊は、春日族の族人となるため入彦のみめとなる。豊に黒い影が近づき、宿願を果たさせるため、一族の恨みと苦しみをささやく。鏡猟では入彦の正妻の美茉姫や豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが激しく攻防する。登美族は夜姫の凄まじい呪力で春日族を追い詰めるが、豊の幻術に誑かされ、春日族が勝利する。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、焔の化身となって会場を呑みこもうとする。御統の白銅鏡から天目一箇神あめのまひとつのかみが現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。


 前代未聞の鏡猟が新たな火種と懸念されるも、それを上回る脅威が山門に迫っていた。くろがねで武装した天孫族が日下くさか楯津たてつに上陸する。居丈高な天孫族の使人を退けた大日だが、彼らが提唱する水稲稲作に魅力を感じる。しかし、山門主の饒速日は決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟したが、父である大日は時期外れの磯城族への神奈備入かんなびいりを命じる。大日の巧みな軍立いくさだてにより、天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。


 二十数年前、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹よんけいていまいは、饒速日を氏上とする斑鳩族との戦いを終わらせるため、饒速日に剋軸香果実ときじくのかぐのこのみを持ち帰ることを約束した。四兄弟妹は五十茸山いぶきやまへと向かい、そこで大山津祇と鹿屋野姫との争いに巻き込まれるも、安彦は五十茸山に入山し、災いの果実を発見する。安彦はたちまち果実の魔力に憑りつかれ、兄と妹を敵と疑う。兄と妹は、一計をもって安彦から果実の魔力を取り祓う。


 回想を終えた大日は、戦場にいた。天孫族の鉄の兵団を迎え撃つ山門諸族は、大日の兄である大彦の活躍で優勢に立つ。天孫族は決死の総攻撃をかける。一方、入彦、御統、豊の三人は、戦場を遠く離れた三輪山の山中で、大物主に睥睨されていた。


 まつろわぬ磯城族を挫くべく三輪山への神奈備入かんなびいりを命じられた入彦は、大物主の圧倒的な霊力の前に成す術もない。大物主の容赦のない、しかしどこか揶揄するような攻撃に入彦は激昂するが、巨大な白蛇となった大物主に呑まれる。大物主の漆黒の体内の中、入彦は、なぜ父が期待をかけるか、その理由に思い至る。そのとき、闇の中に大物主が現れる。その姿は、輪熊座の長老格、靫翁うつぼのおきなだった。大物主に認められた入彦は、幸魂さちみたまの霊力を授かる。


 その頃、山門大宮の大日邸は謎の集団に夜襲されていた。そのことあらんと予知していた大日の依頼を受けていた輪熊と鹿高は、輪熊座の座員を指揮して襲撃に備えていた。八岐大蛇の出現に、鹿高は謎の集団が出雲に関係していると見破る。輪熊の怪力が八岐大蛇を殴り飛ばし、輪熊座は敵の撃退に成功する。大日邸に安堵が広がるが、入彦の言い名づけ、美茉姫がかどわかされていた。


 一夜が明け、孔舎衛坂では天孫族と山門諸族との乾坤一擲の時を迎えていた。山門の舟軍ふないくさを率いる斑鳩族が未だ戦場に現れない不審を含みながらも、山門諸族は渾身の突撃を敢行する。大彦の武器、石火の矛が天孫族の前衛を砕き、戦いの趨勢が山門の大きく傾いたとき、山門諸族の後衛を艶やかな羽衣装の女性に率いられた別動隊が襲撃する。その女性こそ、天孫族の日女ひめ、狭野姫だった。


 狭野姫に率いられた天孫族は山門諸族の後衛を蹂躙し、その矛先は大日に向かった。狭野姫は真金鏡まがねのかがみから光を放つ白烏の霊、日霊ひるめを呼び出し、霊力で大日を圧倒する。あわやの寸前、入彦と豊、そして御統が助けに入る。入彦は得たばかりの大物主の幸魂を駆使し、御統の天目一箇神の助けも得て、狭野姫と日霊の撃退に成功する。陣を立て直した大日と山門諸族は最後の力を振り絞って天孫族に突撃する。舟軍を率いる斑鳩族がついに現れ、白肩津しらかたのみなとに停泊していた天孫族の船団を襲撃する。


 狭野姫を取り逃がしはしたが、孔舎衛坂の戦いは、山門諸族が勝利する。深い傷を負いながらも天孫族を撃退した山門諸族。凱旋する大日を迎えるため、山門大宮の門が開くが、そこから吐き出されたのは松明と矛の群だった。


  ≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫



<人物紹介>


 御統みすまる

 俳優わざおきの少年。輪熊座の有望株。軽業かるわざ戯馬たぶれうまの腕前は抜群。


 輪熊わくま

 旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。


 靫翁うつぼのおきな

 輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。


 鹿高しかたか

 妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。


 とよ

 夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。


 大日おおひ

 山門の御言持にして春日族の氏上このかみ。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。


 大彦おおひこ

 大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。


 入彦いりひこ

 大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。


 美茉姫みまつひめ

 大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。


 石飛いわたか

 春日族の青年。優れた騎手のりて。入彦を慕っている。


 石火いわほ

 石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。


 登美彦とみひこ

 山門主やまとぬしの秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。


 吉備彦きびひこ

 登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。


 夜姫やひめ

 呪能に秀でた祝部はふりべの長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。


 御名方みなかた

 登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。


 五百箇いおつ

 磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。

 夜空に散らばる星々は美しく荘厳だが、夜の底にうごめく矛の光は無粋で禍々しい。


 大日は謀反の嫌疑をかけられた。山門の存亡を賭けた戦いに勝利し、傷つき、疲れ切った兵と共に凱旋した大日を迎えたのは、歓喜の声ではなく、無慈悲で冷酷な言葉の羅列だった。


 その言葉は言う。


 山門の御言持みこともちの大日は尊大で醜悪な野心を秘め、馬合わせや鏡狩りで山門の耳目をふさぎ、侵略者の脅威を山門主に報告することをあえてしなかった。悪逆にも侵略者とよしみを通じ、山門諸族の兵を孔舎衛坂に向かわせて宮処を手薄にし、あらかじめ引き込んでいた俳優わざおぎを装った劫賊おいはぎを暴れさせた。山門主の御稜威みいつなる霊力により、侵略者は斑鳩族の奮戦により撃退され、劫賊どもは持傾頭きさりもちの対処により退散させた。いずれの悪だくみも未然に防いだが、謀反人の大罪は明らかであり、大日とその一党にはかなき手枷てかせをたまう。


 これは政変クーデターである。持傾頭による御言持の追い落としだ。


 大日は、むしろ感心した。事実というものに言葉を添えれば、どのような陰謀も仕立て上げられる。善を悪におとしめるのも、三寸の舌先があれば事足りる。


 世迷い言もはなはだしい。だが世迷い言は、力を得たときに正論となる。正義は、正しい者の側にいるのではなく、力のある者の側にあるのだ。


 世迷い言を白面皮で語ったのが登美彦である以上、三寸の舌先を振るったのも登美彦だろう。大事なのは、その舌先から発せられた讒言ざんげんを、山門主が信じたということだ。あるいは、不信を表明できない状況にあったのか。山門主こと饒速日と登美彦との密室の場裏じょうりを、大日が窺い知ることはできない。大日に理解できることは、自分という現象に一つの区切りがつく、ということだ。肝要なことは、その区切りに巻き込まれる者の数を最低限とすることだ。正義がどこにあるかを突き詰めることよりも、確かに命を賭して山門を守った男たちを、愛すべき家族の元へ返してやらなくてはならない。彼らの傷は深く、斃れた男たちの家族の傷はさらに深いのだ。


「登美彦、いや、安彦よ」


 大日は達観したような晴れやかな顔で、冤罪えんざいを作り上げたに違いない男を直視した。登美彦は、松明に囲まれ、矛に守られている。白面皮は冷え冷えとしているが、目の奥には兄の呼びかけに応じた揺らめきがある。


「いつかいましと話したように、われもこの山門の平和を願っている。汝の言霊がどのような吾の罪をあげつらおうとも、吾は気にもしない。ただ、山門の天地のために戦った男たちは、家に帰してやろう。彼らの犠牲に相応しい称賛と償いとを、日を置くことなく与えるべきだ」


 兄の言葉に、登美彦は素直に頷いた。当初から、それは予定していたことでもあったのだろう。


 登美彦は指図をして、矛の包囲の一カ所を開かせた。大日の罪の余波を浴びたくない者は、速やかに立ち去るべし。


 しかし、大日と共に戦ってきた山門の兵たちは、だれ一人として家路へ進もうとしなかった。


「皆、家族のもとへ帰るのだ」


 大日は、わざと厳しい声を挙げた。彼らの心を突き放すような言い方をした。それでも、千名余りの兵たちは、互いに顔を見合わせるような素振りすらも見せなかった。それどころか、もう一戦しても構わないとでも言いたげな士気を立ち昇らせはじめた。


「吾を、共に戦った仲間ともがらと認めてくれるのなら、ここは立ち去ってほしい」


 大日はそう言わなければならなかった。兵たちは、ようやく互いに顔を見合わせはじめた。


「さっさと行かねぇか。てめぇら、弟に恥じかかせようってんじゃねぇだろうな」


 大彦が数人の兵の尻を蹴飛ばした。


「家路を忘れちまったやつは、家までかっ飛ばしてやるぜ」


 と、大彦が得物の銅錘を振り回しはじめたから、それは勘弁とばかりに、兵たちは包囲の外へ逃げ出していった。そして大日の周りには大彦、石火いわほ、春日族が残った。石火は足に根が生えたとでもいいたげた顔をしているし、春日族の男たちも大彦の殴打に耐えようと歯を食いしばっている。大彦は呆れた顔を大日に向けて、肩をすぼめた。


 意外な人物が、かたくなな表情をして、大日の側にいた。


 吉備彦だ。


 彼は登美族の次の氏上このかみであるから、登美彦の息子である。まっさきに父の元へ駆け出してよい男だった。


「私は立ち去りませんよ。何が正しいかを見極める目は持っているつもりです。それに私には、まだ妻も子もいませんから」


「だが、いましを必要とする者はたくさんいるだろう」


 大日はそう言って笑った。二度と目にすることのできない笑顔という悲壮感は全くない。振り向けば、いつでもそこにあるような笑顔だ。その何気なさに、吉備彦の頑なさがほぐれた。


 吉備彦は登美族をまとめていかなければならない。父が得体の知れない行動をしている以上、その子は族長以上の存在感で一族を率いていかなければならない。自分の感情に従っていてはならないのだ。その自覚は、吉備彦にある。


「正しさを見極める目をもった吉備彦よ。その目で、なれの父が歩むやもしれぬ暗夜を見通してやれ」


 その言葉が吉備彦の背中を押した。


 吉備彦は大日の側を離れた。取り巻く矛の垣根の向こうに立ち、しかし登美彦とは一定の距離をあけている。その距離感に息子の意思を知った登美彦は、口の端でわずかに微笑んだ。


 入彦、御統、豊は不吉を事前に察知した大日がすでに離れさせておいたので、大日とともに大いなる理不尽に真っ向から対峙しようとしたのは、大彦、石火、そして春日族の男たちだった。


かなき手枷てかせを、それほど多く用意していなかったのだがな」


 事務的な口調で呟いた登美彦が、矛を構えた斑鳩兵に謀反人らの捕縛を命じようとしたとき、去る一方のはずの包囲網の外からわざわざ乱入しようとした一団がいた。圧倒的な優位で自らが傷つくことなど予想していなかった斑鳩兵たちにとって迷惑なことに、その一団は暴風雨といってよい凶暴さを持っていた。


「やい、大日。神妙な顔をしてるときのお前ほど薄気味悪いもんはねぇが、底意地悪いことは考えねぇで、ここは三十六計逃げるに如かずだ」


 派手に斑鳩兵を殴り飛ばしながら大声を張り上げたのは、輪熊だ。昔のことになるが、まだ少年だった大日の口車にのって痛い目にあったことを実は根に持っている輪熊は、ここぞとばかりに皮肉を浴びせかけた。ついでに、海の果ての大陸の大真で流行っていると聞きかじった耳学問の台詞も添えた。要するに、さっさと逃げようと言うことだ。


 大日が孔舎衛坂で天孫族を迎撃し、入彦が三輪山で神奈備入りに挑んでいる最中の一夜、出雲族と思しき集団の襲撃を受け、撃退していた輪熊一座は、翌日、山門主の宮処みやこから吐き出された矛の集団が居候いそうろう先の大日邸を包囲する寸前に、一座はもちろん大日の家族を連れて退散していた。山門大宮に漂うきな臭さを鋭敏に嗅ぎ取った輪熊の避難行動であったが、一座ははるばると逃散ちょうさんしたわけではなく、山門大宮が建つ鵤丘いかるがおかの西北の山中に隠れた。その辺りは登美族の勢力圏内だが、山の地祇かみ、草の地祇かみである輪熊と鹿高だから、木石草花に命じて輪熊一座の姿を探索者の視界から覆い隠すことなど容易たやすいことだった。


「おい、鹿高殿!おれを助けにきてくれたのだな」


 大彦が妻子のいる身の年甲斐もなく、はしゃいだ。無論、鹿高は黙殺して、殺到してきた斑鳩兵を蹴り飛ばした。


「よし、囲みを破るぞ」


 そうすることにあまり乗り気でなかった大日も、こうなっては仕方がなかった。自分と登美彦との権力交代に余計な犠牲を出したくはなかったが、犠牲はすでに出始めている。


 内から大日率いる春日族と大彦、外から輪熊一座が暴れては、さしも完璧な包囲網でも面倒なことになる。しかし、登美彦はいたって冷静だった。


土蜘蛛つちぐもどもが穴からでてきたか」


 登美彦は冷えた笑みを浮かべた。輪熊一座の襲来を予期していたのである。ちなみに、この時代は、野や谷に暮らす人を、土蜘蛛と呼んで見下す。


 登美彦は首からさげた一枚の鏡に両手を添え、呪言を吐き出し始めた。登美彦の鏡は血のような赤銅鏡だ。魑魅魍魎のような姿をした獣の姿が込まれている。


 登美彦の口から冷気が吐き出された。左右を守る兵は、思わず身震いした。血のような赤銅鏡の鏡面が赤黒く渦を巻きはじめた。


 矛の壁を作っていた斑鳩兵が一斉に後退した。かわりに現れたのは隆起した大地と、そこから生み出された三兵みつのつわもの武埴たけはにだ。弓、剣、矛で武装した土人形の兵である。


「やっぱり、そういうことか」


 輪熊は激しく舌を鳴らした。大宮から姿をくらました輪熊一座の追跡に鈍さを感じてはいた。その鈍さは罠の危険をはらんでいたが、かといって大日たちを見殺しにするわけにはいかなかった。登美彦は大宮郊外の土に、あらかじめ呪言を埋め込んでいたのだ。


 無数の土人形が大日たち春日族と、輪熊率いる輪熊一座とを包囲し、分断し、殺到した。


 星々を落とすような勢いの咆吼をあげて、輪熊と鹿高は本身を現わした。大山津見おおやまつみ鹿屋野姫かやのひめの姿になれば、一殴り、一蹴りで数十の武埴が土塊つちくれに戻る。しかしそれでも、隆起した大地から生み出される武埴は無限である。


 春日族や輪熊一座に負傷者が続出した。


 大日と大彦は背中を預け合った。乱戦に身を置きながらも周囲の観察を忘れない二人は、言葉を交わしあった。


「おい、登美彦、いや安彦は子供がきの頃から土こねがうまかったが、ここまでの呪力があったかな」


武埴たけはにの安彦の面目躍如だな」


「弟自慢もいいが、場を選ばねばな」


「兄者、安彦の胸元を見てみろ」


「む、赤銅鏡だな。ずいぶん禍々しく光ってやがるが」


「ただの鏡じゃない。木の実の霊力を写しとっているにちがいない」


「木の実だと。何のことだ」


 天地を原初の混沌に戻し有を無に帰すことができる霊力を秘めた災いの木の実、剋軸香果実ときじくのかぐのこのみの記憶は、大彦にはない。大日の記憶も希薄で曖昧だったが、なぜか見たこともないはずの木の実の禍々しい姿が脳裏に閃いた。


(…安彦と深く話し合わねばならぬが)


 大日の望みは、しかし叶いそうもない。


「大日よ。山門の誇り高き御言持であった男よ」


 登美彦が、武埴の群の中に埋没しかけている大日に呼びかけた。


「このままでは見苦しい屍をさらすことになるぞ。なれにはそれが本望であろうと、春日の若者を添え物にしてはなるまい」


 降伏を決断するいとまを、登美彦は与えた。大日さえ除外すれば、山門は登美彦の思うがままだ。大彦は対面してこそすこぶる面倒だが、遠く流してしまえば脅威ではない。大山津見と鹿屋野姫は地祇である以上、行きがかりから大日を支援することこそあれ、大日がいなくなれば非永ひとの世界に口出しするいわれはない。そもそも春日族は、登美彦支配下の山門でも勇敢な手駒として活躍してもらわなくてはならない。必要以上に傷つけたくはない。


 大日が登美彦の降伏勧告に応じようとしたとき、武埴の土埃が満ちた殺伐とした光景に鮮やかな変化が生じた。


 無骨な武埴の土の体に緑が芽吹いたのだ。それどころか可憐な花も咲いた。それは一体だけのことではなく、無数に群れた武埴すべてに生じた現象だった。緑の花の彩りは、たちまち大日たちを囲んだ大地の隆起すらも色めきで埋め尽くした。


 花と緑に埋められた者たちは立ちすくみ、目をつぶらにした。この急激な変化を、どのような感情で迎えればよいのか見当がつかない。登美彦ですら戸惑った。


 緑と花を体に生やした武埴たちは、殺気や闘争心といったもの、それから大日の捕縛を命じる登美彦の呪言をも養分として吸い取られたのか、皆おだやかな顔つきになり、そこかしこに座って膝を抱えた。やがて身も心もなごやかさにとろけたのか、武埴はもとの土塊に戻っていった。さやかな星明かりの下に、にわかに凸凹でこぼこの花畑が現れた。


 花畑を遠巻きにしていた斑鳩兵は顔を見合わせた。矛を構えて大日に殺到すればよいのか、それとも花摘みでもすればよいのか分からない。


「なにしてるのよ。さっさと逃げなさい」


 高飛車な少女の叱責が夜空から降ってきた。


 大日は夜空を見上げた。声で既に正体は知れているが、夜に紛れて滑空しているものがある。


 豊だ。彼女の黒衣に息吹を与えた木菟みみずくの背に乗っている。入彦と御統の姿もあった。


 幻想から目覚めたような顔をした大日は剣を掲げ、彼に従う者たちに道を示した。


われに従い、全員この場から離脱せよ」


 大日を先頭に、春日族や輪熊一座は一かたまりとなり、遠巻きにしている斑鳩兵の一角になだれ込んだ。そこにいた斑鳩兵は大慌てで道を開けた。なにがどうなっているのかは分からないが、そこに突っ立ったままでは踏み潰されることは理解できたからだ。


 登美彦も冷酷さを取り戻した。夜陰にまぎれてこの場を一変させた張本人たちをめざとく見つけるや、周囲の兵に撃ち落としを命じた。兵たちは矛を捨て、鏡を取りだした。彼らは呪兵でもある。


 数十の火箭かせん、稲光が豊たちを乗せた木菟に襲いかかったが、撃ち落とすには至らなかった。しかし登美彦は落胆しなかった。邪魔な蠅は払えばすむ。


 それよりも大日だ。


 登美彦は再び赤銅鏡に両手を添え、先ほどよりも激しく呪言を吐き出した。全身の霊力を言霊ことだまに注ぎ込む。彼のまなじりも髪も衣も逆立った。周囲の呪兵は、主の恐ろしい形相におびえて後じさった。 


 草や花が一瞬で燃え上がったように消え去った。大地が再びうごめきき始め、無数の土人形が生み出された。まるで大地に染みこんだ死人の怨念を吐き出すかのような咆吼をあげた武埴は、生まれたものから大日を追いかけた。


 次々と大地が蠢いていく。あたかも地中を巨大な蛇が走るように大地が隆起し、土人形が吐き出されていく。


 大地の蠢きは、恐ろしい早さでまっすぐに大日を追っていく。


「入彦!」


 木菟の背で豊が叫んだ。


「やっている。でも、だめだ。すさまじい呪力なんだ。大物主の和魂にぎみたまでもはらえない」


 青銅鏡を構えた入彦の両手が激しく振動している。気を抜けば弾き飛ばされそうだ。


 入彦が怯えた叫び声を上げた。青銅鏡の鏡面とそれを持つ彼の手とに、禍々しい赤黒の何かが貼り付いた。痛みはないが、おぞましさが全身に走った。登美彦の赤銅鏡が、いやそこに写し取られた禍々しいものが、おのが力の発動を押さえつけようとする邪魔者を排除しようとしたのだ。


「こいつ」


 豊は衣嚢ポケットから微かに光を放つ粉を取り出し、赤黒い何かに振りかけた。なめくじが塩に枯れていくように、その赤黒い何かは消え去った。


 豊はすばやく目を下に転じる。


 大地の蠢きが恐ろしい早さで走っている。そこから次々に吐き出される土人形の手が、懸命に逃走する大日一団の最後尾に届こうとしている。


「御統!」


 豊が叫んだ。それよりも早く、


「任せろ」


 と、残響を置いて、御統は木菟の背から飛び降りた。


 飛び降りたのは一つの小さな影だったのに、降り立ったのは光り輝く巨人だった。


 天目一箇神あめのまひとつのかみだ。御統の白銅ますみの鏡に宿る天神あまつかみである。


 天神の招来方法を御統は知らない。天目一箇神に捧げる神祝かみほぎの言葉も、御統は知らないのだ。ただひとつ、彼の求める時に、金色の巨人が姿を現すことを知っている。


 巨人はまず大きな足で大地の蠢きを踏み潰した。次に極太の金槌かなづちを振りかぶるや、渾身で大地を打ち据えた。


 とてつもない地響きは星空すら崩すほどだった。大地の蠢きが通った後を逆流するように亀裂が走り、無数の武埴を砕き散らした。


 残響が遠い山の背に消え去る頃、光り輝く巨人は消え、大日も消えた。夜の光景に残ったのは、大量の土埃と、その隙間から見える星のさやけさ、右往左往する斑鳩兵だけだった。


 赤銅鏡に手を添え、三度目の起動を考えた登美彦は、口腔に貯めた言霊を飲み込んで、両手を下ろした。鏡に写し取った力をこれ以上暴れさせれば、自分の身も危うくなる。生身の労力に追わせることもできるが、斑鳩兵を無駄に消費するだけだ。彼らを必要以上に酷使するつもりは登美彦にはない。彼らも新しい山門に生きる者たちなのだ。分別ふんべつは、まだ登美彦に残っている。


 大日は逃げ去った。


 御言持の座が空いたと言うことだ。そこに座るのは、もちろん登美彦だ。山門の全権を握りさえすれば、謀反人たる大日は登美彦の計画の支障にはならない。山門主たる饒速日など、もはや枯れきった老体にすぎない。


 無言で足を返した登美彦を止める視線があった。


 吉備彦だ。登美彦の息子である。


 刺すような視線、ではない。得体の知れない行動を起こしているとはいえ、登美彦から、父子として触れあう数少ない機会に、父としての温かさを感じなかったわけではない。


「吉備彦。登美の兵は天孫との戦いに疲れている。彼らをまとめて、むらへ帰りなさい」


 登美彦は問いかける息子の視線を振り払って歩き出した。


「ですが、父上」


 吉備彦は父の背にすがった。父は正しいことをしているに違いない、という希望にすがったともいえる。


「父ではないのだ」


 そう叫びたい感情を抑え込んで、登美彦はそのまま歩き去った。己の血は流れなくとも、愛しかった人の血が流れてはいる。


 危地を脱した大日は、彼に従う者たちの先頭に立ってしばらく脇目も振らずに逃走したが、山門の東方を外界から守っている連山の裾野に身を隠した。この辺りの山足には細い道が曲がりくねって存在していたので、まがりの丘と呼ばれている。ここから亀の目、つまり北を向いて歩いて行けば、春日族の本拠地である春日山の率川邑いざかわむらに到達する。鳥の目、つまり南を向いて歩いて行けば、磯城族の勢力圏に入り込む。


 大日は、従ってきた者たちを集めた。大彦、石火、入彦、御統、豊のほか、春日族の面々だ。


 大日は石火と春日族に向かって、反論も逡巡も許さぬ強い口調で命じた。


「石火よ、春日の者共を連れて春日山に帰り、率川邑を治めよ」


 大日を慕い、生涯に渡って仕え続けるつもりだった男たちは、当然、色めき立った。しかし、大日の眼光に抑えられた。


 春日族は大日の失脚と逃走を知って大いに動揺するだろう。大日は山門の御言持であったのと同時に、春日族の氏上このかみなのだ。当然、新しく山門の主宰者になった登美彦の横暴を憎み、暴発しようとする者がいることが予想される。しかし、激しく抗えば春日族は潰される。おとなしく恭順していれば、登美彦は春日族を無碍むげにはしない。春日族は登美族から分かれた族であるから血縁者も互いに多く、必要以上に春日族を痛めつければ、登美彦の支持基盤である登美族が揺らぐおそれがあるからだ。


 氏上の行方が不明となれば、若い石飛いわたかだけでは血気の者共を押さえられない。邑宰である石火の存在の重さが必要だ。


 大日の意図を察した石火は、黙って帰邑の準備に取りかかった。春日族が健在であってこそ、次の大日の有事に備えることができる。


 石火らの出立を見送ったあと、


「さて」


 と、大日は逃亡者らしからぬ清々しい声をあげた。周りにいるのは大日の身内ばかりである。ずいぶんと、肩が軽くなったような気がした。


 これからどこか山門の外界の遠くへ行き、ここにいる者たちで新しい邑を作ってもいい。山と野を司る地祇くにつかみが二柱も力を貸してくれれば、どのようにでもなるという楽観がある。その楽観を抱きながら、しかし大日の足は磯城へと向かう道をたどった。


 大日に大いに頼られた山と野の地祇は顔を見合わせた。鹿高の肘で脇腹を突かれた輪熊は、大きな体を少女のように慎ましく縮こめて、


「大日よ、実は話があるのだが」


 と、か細く切り出した。輪熊は上目遣いの目を、大彦にも転じた。大彦は自分に関わりのある話だろうと思った。なにしろ、逃走劇も落ち着いたというのに、最愛の娘の姿が見えない。その不吉な事実に、大彦は、実は気もそぞろだったのだ。


 大日は手頃な岩に腰をかけ、萎縮している輪熊の話を待った。輪熊に従っている一座の者も、みな裁きを待つ罪人のような顔で並んでいる。


「輪熊殿、鹿高殿、よく助けにきてくださった。私どもの家族を一早く避難誘導してくれましたこと、幾重にも感謝申し上げます」


 そういって深々と頭を下げようとした大日を、輪熊は慌てて止めた。告白前にそう持ち上げられては、輪熊としては話がしづらい。


「まぁ、聞いてくれ。そう感謝される筋合いのことではないのだ。実はな…」


 と、輪熊は、大日から留守を託された一夜に出雲族と思しき集団の夜襲を受けたこと、撃退はしたが戦闘が大日邸内に留まらず山門大宮の広範に及んでしまったことを謝罪混じりに話した。


「登美彦の手引きに違いない。なるほど、自分で大宮を荒らしておいて、それを吾の罪をでっちあげるのに利用したと言うことだな。謝罪など不要です。あなた方がいなければ、被害はもっと大きかったでしょうから」


「いや、まだ続きがあるのだ」


 萎縮したまま、輪熊は話を続けた。


 襲撃を受けた夜が明けると、輪熊は山門主の宮処から漂ってくる不穏な気配を鋭敏に察知し、一座の者を指揮して、大日や大彦の家族の避難にとりかかった。花衣を脱ぎ、角髪みづら結髪ゆいがみを解いて俳優わざをぎの衣装を着込めば、一座の中に溶け込める。輪熊一座が列を成して大宮を出て行ったとしても、邑人むらびとの目には奇異には映らない。そもそも、前夜の騒動で、邑人はそれどころではなかった。


 しかし、大宮を脱出して、安全と思えるところまできたときに、大彦の家族から騒ぎが起こった。


 美茉姫みまつひめの姿が見えない。


 確かに、行く先々で野原に花を咲かせていくような美茉姫の笑顔がないことに、迂闊うかつながら、輪熊はそのとき気づいた。


「美茉姫はさらわれたらしい」


 輪熊の回りくどい説明にしびれを切らした鹿高が身も蓋もない口を挟んだ。


「おい、まだそう決まったわけじゃないだろう」


 輪熊は慌てた。


「さらわれたのでなければ、なお始末が悪かろう」


 さらわれたのなら取り返せばいい。まったくの行方不明であれば手の打ちようがない。あの夜襲で命を落とし、人知れぬ場所で横たわっていると考えるのはあまりにも痛ましい。鹿高の言いたいことはそういうことだ。


「それは、おまえ、そうだが」


 輪熊はおそるおそる大彦の様子をうかがった。そして、青ざめた。


 赤鬼が憤怒ふんぬの表情で立っていた。組んだ腕に指が食い込み、今にも血を噴出させそうだ。


 子供のころであればいざしらず、人として大きく育ちすぎた今の大彦から怒りに任せて殴りかかられたら、いかに輪熊といえども手に余る。地祇であろうと、痛いものは痛い。大彦の怒りが辛うじて制御されているのは、大彦と輪熊の間に、大日が静かに座っているからだ。弟の前で兄の醜態は見せられぬ、という自制が大彦にはある。


「なるほど。わたしも美茉姫の姿が見えぬことを案じてはおったのです。別のところで安全を確保されているのかとも思いましたが」


「面目ない」


 輪熊は首を垂れた。彼に従っている一座の男たちは地中に沈んでいきそうなほど悄気しょげ返っている。


「何の、輪熊どのに落ち度などがありましょうか。すべては登美彦の悪謀です」


 大日は輪熊を慰めてから、兄の様子をうかがった。赤を通り越した青黒さを貼り付けた大彦の顔がある。


 愛情の深い兄だ。弟の大日にも、甥の入彦にも惜しみない愛情を注ぐ。最愛の娘に注がれる愛の深さを思えば、大日としては居たたまれない思いにさいなまれる。しかしここは、冷静に処置しなければならない。大日大彦族といっていいこの小さな集団の第一歩を、感情に委ねるわけにはいかない。


「そうと知れれば、このまま進んでいくわけにはいかない。しかし、皆、疲れている。まずは安らげる場所が必要だ」


 心に手を添えるような声で、大日は大彦の悲痛さを鎮めようとした。大彦は辛うじて頷いた。何かを声に出そうとしたが、口を開けば嗚咽おえつがもれそうで、大彦は懸命に我慢した。


「兄者の気持ちはわかる。今すぐにでも助けに行きたいだろう。だが、今は兄者に側にいてもらわねば困る」


 大日は、そう諭した。大彦が背中を支えてくれてこその自分だという自覚が、大日にはある。


 そこへ入彦が割って入り、大日の前で片膝を着いた。彼にも話は聞こえていた。


「父上、伯父上、私に美茉の救出をお命じください」


 美茉姫は入彦の許婚いいなづけだ。親どおしが決めた約束事であり、いずれ大日の後を継ぐ者とその正室という間柄になるとはいえ、まだ若い入彦と美茉姫にとっては飯事ままごとのように幼稚な関係だったが、入彦は美茉姫を大事に思っている。


「うん」


 大日は曖昧に頷いた。三輪山への神奈備入り以来、めっきり頼もしくなった息子の成長をうれしく思う反面、ここはなお慎重を期さねばならぬと自分に言い聞かせた。美茉姫がさらわれたとして、それは登美彦の手の者に相違ないが、いまどこにとらわれているのか分からない。山門大宮の登美彦の屋敷がもっとも怪しいが、そこに侵入するのはかなり危険だ。入彦までが囚われるおそれがある。


「つらい想像をしたくはないが、美茉姫が大宮に残されているということはないだろうか」


 それはつまり、すでに亡くなっているという最悪の想像だ。さきの夜襲では、邑人にも多くの被害が出たと聞く。


「それは、おそらくない」


 苦しげに言った輪熊は、座員の一人に、


「おい、あいつを連れてこい」


 と、命じた。


 連れてこられたのは如虎にょこだ。おどおどした目で、大日やら、大彦やら、輪熊やら、鹿高を見ている。彼は黒豹だが、通りすがりの猫に挨拶してしまうほど気が弱い。おっかない顔が並んでいる場では、気の毒なほど怯えてしまう。その如虎の全身が、傷の手当てに覆われている。


「どうやら、こいつが、美茉姫が連れ去られたことを知っているらしい」


 太い腕を組んで、輪熊が言った。


「如虎、こちらにいらっしゃい」


 優しく如虎を呼んだのは、豊だ。輪熊座から譲られて以来、如虎の主人は豊になっている。入彦の神奈備入りに同行するに際して、如虎は輪熊座に預けていた。


 如虎は豊に飛びついて、彼女の顔やら手やらをなめた。


「ひどい傷ね。あら、何をくわえているの」


 如虎は口に端布はぎれのようなものをくわえている。豊は端布を手に取った。それは無残にすすけて破れた花衣の一部だった。


「それは美茉が着ていた衣だ」


 豊から端布を受け取った入彦は、そう断定した。大彦も頷いている。


「やれやれ、やっとそいつを放しやがったか」


 輪熊はあきれ顔でそう言った。


「そのやろうは、ずっとその端布を放さなかったんだ」


 輪熊がそう説明すると、豊は優しく問うまなざしを如虎に向けた。


「戦ったのさ、美茉姫をさらおうとした奴と。ひどい傷を負っても、美茉姫につながる物を死守したということさ」


 輪熊は如虎を褒めた。豊も如虎を優しく撫でた。


「輪熊殿は、如虎の言葉がお分かりになるのですか」


 念のため、大日は確認した。


「もちろんだ。おれ様は大山津見だぜ。山に暮らすもんの考えはおのずから分かるってもんよ」


 輪熊は胸を反らして請けおった。


 入彦から美茉姫の衣の一部を手渡された大彦は、それを強く握りしめた。彼のなかで、父親としての心と兄としての心が葛藤した。


「ねぇ、提案をいいかしら」


 豊が声を挙げた。


「ぜひ聞かせてくれ」


 大日が豊を促した。


「みんなすぐにでも美茉姫を助けにいきたいと思うけど、まずは彼女がどこに囚われているのかを調べることが肝要。ここはわたしに任せてもらえないかしら」


 豊は星屑のような瞳で顔を寄せる大日らを見回した後、衣嚢ポケットから小枝やら、葉っぱやら、木の実やら、石ころやらを取り出した。それらは豊が言霊で息吹を与え、さまざまな用途に使役する。呪術者や言霊師は使い魔と呼んだりするが、豊は、ふだ、と呼んでいる。


「息吹を与えれば、この子たちはとても優秀な斥候うかみになるの」


 豊がいくつかの言霊を紡ぎだすと、小枝たちはむくむくと起き出した。豊に促されて大彦が美茉姫の衣の一部を地面に置くと、小枝たちはそこに集まって、何やら相談を始めた。


「美茉姫が身につけていたものを守っていたのは大きいわ。この子たちはね、物に残った所有者の思念を読みとることもできるのよ」


 そこから所有者の姿形を大まかに捉えられる、とも説明して、豊は自慢げな顔を見せた。


「どうかしら。まずはこの子たちに美茉姫の居場所を調べさせましょう。助け出す算段は、そのあとで立てましょう」


 豊は入彦を見た。大日は大彦を見た。ふたりは眉の間に苦渋を漂わせたが、やがて頷いた。


 如虎が低く喉を鳴らして、豊の膝辺りに鼻をこすりつけた。


「あら、なにかしら」


 豊が目を丸くすると、輪熊が軽く笑った。豊は問う目を輪熊に向けた。


「如虎も行きたいそうだ。自分なら美茉姫の姿を見誤ることはないとさ。こいつ、生意気にも責任を感じてやがる」


 輪熊はそういう褒め方をした。責任感を忘れない者が、人だろうと獣だろうと、輪熊は好きなのだ。


 豊は如虎の首根っこを抱きしめた。


「なんだ、あなたもやっぱり男の子なのね。いいわ、あなたが頭領すぶるおさよ」


 豊は札たちに如虎を紹介した。


「いいこと。如虎の言うことをよく聞いて、きちんと役目を果たすのよ」


 豊が声美しくも厳しく命じると、札たちは如虎の前にきちんと整列して、お辞儀した。


 小さな斥候たちが勇ましく出発した後、大日は兄と息子の肩を順に叩いた。


「すまないが、まずはこれでよしとしてくれ。美茉姫は必ず救い出す」


 誓約うけいをするときの声で、大日は二人に約束した。


 それからしばらく小休止をとったあと、大日は一行を出立しゅったつさせた。向かうのは南。つまり磯城だ。


 入彦は怪訝けげんに思った。山門をわれた以上、斑鳩族や登美族はもちろん、本拠地の春日族のほか、平群へぐりや葛城といった山門諸族の勢力圏を避けなければならないことはわかる。だが、磯城族は、現時点では休戦状態にあるとはいえ、長年にわたって山門と干戈を交えてきた一族だ。大日が指揮をとって磯城族と戦ったこともある。いずれ再び戦端を開く可能性があったからこそ、事前の神奈備入りを自分に課したのではないのか。磯城族の守護神である大物主の力を削ぐために。その大物主の正体が靫翁うつぼのおきなであったことは意外だったが。 


 不安に包まれた疑問を、しかし入彦は口に出すことはなかった。父の顔をみれば分かる。朗らかな、まるで故郷へ帰るような表情だ。


 大日は行く先を何も案じてはいない。ならば、自分も父を信じるのみだ。入彦はそう考えて、ようやく不安を払った。しかし、有事の心構えは解かなかった。


 山門を巡る青垣山の稜線が白くなった。


 夜が明けた。


 光彩が広がっていく。今日も、山門の天地は麗しい。


 見覚えのある石像が見えてきた。神奈備入りのために磯城族の崇める三輪山へ忍び込む入彦、御統、豊の三人を、邪魔するでもなく見ていた石像だ。今は、朝日を受けているからか、まるで子の帰宅を迎える父のような温かい光を放っているように、入彦には見えた。


 石像の足元に残る暁暗からいくつもの人影が生まれ出た。入彦は体内に緊張を走らせた。


 大日は、歩みの速度をいささかも衰えさせることなく進み、やがて人影に包まれた。


 人影は、もちろん磯城族の人たちだったが、彼らは大日を迎えると、それぞれに一歩を退き、地に両膝を着けた。まるで氏上このかみ帰邑きゆうを歓待しているかのようだ。


「驚いているな、入彦」


 大彦が、力強い肩を寄せてきた。美茉姫のことは心の奥にしまってある、という顔をしている。


「驚いています。山門と磯城は仇敵の間柄ではなかったのですか」


「仇敵さ。山門と磯城はな」


「山門の御言持は、仇敵ではないのですか」


「元御言持だがな。もちろん山門の御言持は、うかつにこの近くを歩こうものなら、まっさきに石を投げつけられる人間だ」


「…石は飛んでこないようです」


「そうだな。自分たちの一族の氏上に石を投げるやつはいないさ」


 入彦は目を丸くした。


「正しくは氏上の血を引く者、さ。大日はな、磯城の氏上の血を引くのさ。もちろん、このおれもだ」


「そんな父が、なぜ春日族の氏上で、山門の御言持なのですか」


「うん、それだがな」


 重々しく口を結んだ大彦は、腕を組んでみたり、首を傾げたりした。


「じつはおれもよく分からんのだ。まるで、てんにでも化かされたようだ」


 化けて人を驚かす獣と言えば狐や狸だが、古い時代では貂もその片割れとして知られていた。変化の力は貂の方が強いとも信じられていた。


「だが、この邑の風景はよく覚えている。どこにどんなうまい木の実が成るか、もな。それから、佳い女の住処も覚えている」


 戸惑いの淵に入彦を置いてけぼりにした大彦は、自分も磯城の人の歓待の輪の中に入っていった。

 天孫族の脅威を退けた大日は、家族とともに山門を逐われた。


 敵対していたはずの礒城族に迎え入れられた入彦は、過去から続く暗夜の道を知ることとなる。

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