山門編-失われた天地の章(17)-孔舎衛坂(3)ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の少年、俳優 の御統は、山門大宮への道中で黒衣の美少女、豊と出会う。大宮では、輪熊座は御言持である大日の歓迎を受け、豊は秘した宿願を果たすため大日に接近し、大日は豊を嫡男の入彦に仕えさせる。豊を追って入彦の邸に向かった御統の白銅鏡が光の巨人を暴走させ、御統は土牢 (ひとや)に捕らえられる。その頃、神祝 ぎの馳射で春日族の旗頭となった入彦は重任に堪えられず、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。豊の幻術で、御統は春日族の騎手になりすまし、彼の活躍によって登美族との勝負は互角となる。禁忌の実刃の鏃が用いられ、その凶矢から入彦を守った石飛は重傷を負う。勝敗は矢馳馬に委ねられ、御統が吉備彦との矢馳馬を制する。
馳射は春日族の勝利となるが、御統の不正が疑われ、実刃の鏃の件も含めて山門の朝庭は紛糾する。誓約の鏡猟で神意を問うことになり、美茉姫と共に斎に選ばれた豊は、春日族の族人となるため、入彦の妾となる。豊の前に黒々とした影が現れ、一族の恨みと苦しみをささやく。鏡猟では美茉姫と豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが激しく攻防する。登美族は夜姫の凄まじい呪力で春日族を追い詰めるが、豊の幻術に誑かされ、勝利は春日族となる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、焔の化身となって会場を大混乱に陥れる。御統の白銅鏡から天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。前代未聞の鏡猟が新たな火種となることが懸念されるも、それを上回る脅威が山門に迫っていた。
鉄で武装し、天孫を号する天孫族が日下の楯津に上陸する。居丈高な天孫族の使人を退けた大日だが、彼らが提唱する水稲稲作に魅力を感じる。山門は交戦か和平かで紛糾し、山門主饒速日は決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟していたが、大日から時期外れの磯城族への神奈備入を命じらせる。大日の巧みな軍立てにより、天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。
約二十年前、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、饒速日を氏上とする斑鳩族との戦いを終わらせるため、饒速日の本陣を訪れる。停戦の条件として剋軸香果実を持ち帰ることを約した四兄弟妹は、友人の五百箇の助けを得て五十茸山へと向かい、そこで地祇の争いに巻き込まれる。大山津祇と鹿屋野姫とに和平協定を結ばせて間に、安彦は五十茸山に入山し、災いの果実を発見する。神の森の審問者を名乗る白蛇の奸計を回避し、果実をもぎ取るが、たちまち果実の魔力に憑りつかれてしまう。精神を蝕まれた安彦は兄と妹を敵と疑うようになる。一計を案じた兄と妹は、安彦を眠らせる。眠りから覚めた安彦は、故郷の三輪山とそこに暮らす磯城の人々を守ることを誓う。
回想を終えた大日は、戦場にいた。一万を超す天孫族の鉄の兵団を迎え撃つ山門諸族は、孔舎衛坂の頂上に陣を構え、大日の兄である大彦の獅子奮迅の活躍で優勢に立つ。天孫族も決死の総攻撃をかけ、両者はともに命運を賭けた勝負に出る。一方、入彦、御統、豊の三人は、戦場を遠く離れた三輪山の山中で、大物主に睥睨されていた。
服わぬ磯城族の霊力を挫くべく三輪山での神奈備入りに挑んだ入彦は、大物主の圧倒的な霊力の前に成す術もない。助太刀しようとする豊を、御統は制する。これは入彦の戦いなのだ。大物主の容赦のない、しかしどこか揶揄するような攻撃に入彦は激昂するが、巨大な白蛇となった大物主に呑み込まれる。大物主の漆黒の体内の中、入彦は、なぜ父が自分に期待をかけるか、その理由に思い至る。そのとき、闇の中に大物主が現れる。それは、輪熊座の長老格、靫翁だった。大物主に認められた入彦は、地祇の四魂のひとつ、幸魂を鏡に映しとることに成功する。
その頃、山門大宮の大日邸は謎の集団に夜襲されていた。そのことあらんと予知していた大日の依頼を受けていた輪熊と鹿高は、輪熊座の座員を指揮して襲撃に備えていた。八岐大蛇の出現に、鹿高は謎の集団が出雲に関係していると見破る。輪熊の怪力が八岐大蛇を殴り飛ばし、輪熊座は敵の撃退に成功する。大日邸に安堵が広がるが、入彦の言い名づけ、美茉姫が拐かされていた。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
血の匂いほど嫌悪感を掻き立てるものはない。
昨日の血しぶきがそのまま天蓋に貼りついたような朝焼けだ。
大日は本営の胡床に腰をおろし、東の山並みの上の真っ赤な空を見ていた。時々、手元に視線を落とし、張り替えたばかりの弓の弦の具合を確かめた。五百箇の作ったこの弓から放たれた矢が、幾人の天孫兵の命を奪ったことだろうか。
「龍の目とはいうが、そこまで空が憎いわけではあるまい」
大彦が大日の側にいる。
山門では東を見る目を龍の目という。大日が東の空を見る目は、まさに龍のような憤怒を秘めていた。
確かに空が憎いわけではない。しかし、流した血をそのままぶちまけたような朝焼けの赤さは、天孫族の恨みの色のように大日には見える。だが血を流したのは天孫族だけではない。山門の人間も、おびただしい血を孔舎衛坂の斜面に吸い込ませているのだ。
「天孫の亡霊の恨みに飲み込まれぬよう、私が目で祓っているのさ」
一種の呼見である。呪力を目力で祓除する作業だ。
「朝の空が赤ければ雨が降る。それだけのことだ」
大彦はわざと大日の心に寄り添わない言い方をした。戦が終わるまでは、指揮官はあまり感傷的にならないほうがいい。敵であろうと味方であろうと、その死を悼み、霊魂の報復に怯えるのは、全てが終わってからでよい。大彦は、弟にそう諭したつもりだ。大彦は大彦で、自分の棍棒にこびりついた血糊を拭き取るのに忙しい。
「ところで、今日こそは斑鳩の河童どもは働くのだろうな」
大日は口吻を未だ戦場に現れない斑鳩族の水軍に向けた。
当初の軍立てでは、斑鳩水軍が早々に天孫族の退路を断ち、混乱させた上で、海に叩き落とす手はずだった。ところが斑鳩水軍は現れず、山門の兵と巫は孔舎衛坂で二日間死力を奮って戦うことになった。死戦を厭う大彦ではないが、それでもその日の朝に言葉を交わした人間が、その夕べには物言わぬ屍となっている風景は、さすがに堪える。もちろん、斑鳩水軍の出陣を促す使いは何人も送っているが、誰も戻ってきていない。
西の空には雨の重さに耐えかねるような黒い雲が広がり、そこに夜明けの白が染みていく。
「兄者、今日だよ」
朝焼けの赤と夜明けの白とが綾をなす辺りの空を見上げた大日が、まるでその身に神を降ろしたような神秘的な声で、大彦に語りかけた。
「…、そうか」
大彦はそれだけ言った。何が今日なのかはわからない。斑鳩水軍が今日は動くのか、戦が終わるのが今日なのか。わからないが、多くの人に関わる命運というものが、今日決まるらしいことは想像がついた。
「では、一仕事してくるとするか」
大彦は棍棒を肩に担いで立ち上がった。彼の仕事は、さしあたり屍を増やす作業である。
「石火、吉備彦、出るぞ」
本営の幕府の外で控えていた石火と吉備彦に出陣を命じた大彦は、一度、弟を振り返った。
大日は、瞑目している。ずっと昔からそうしていたかのような、静かな座り姿だ。その光景に、不吉な色はない。
命運がどうあれ、まだ当分はこの弟と過ごすことができそうだ。そのことに満足した大彦は、大股で本営を出た。
逆茂木の前に、二日間の激戦を生き抜いた山門の精兵が並ぶ。矛の尖端にまで闘志が漲っている。これは故郷を侵略者から守るための戦いなのだ。友が斃れようと、兄が淪もうとも、彼らは最後の一兵となるまで戦い抜く覚悟を決めている。その決意は、整列する一人一人の表情に現れている。大彦はそんな兵達を頼もしく感じると同時に、憐れでもあった。彼らは、彼らが守ろうとする人たちの知らぬ地で、その人たちの温もりに抱かれぬ冷たさの中で死んでいくのである。
大彦は自分を叱りつけた。感傷的になるな、と弟に諭したばかりではないか。
大彦は坂の下へ視線を転じる。そこにも、旺盛な闘志が迸っている。天孫族の兵達。彼らにも守るべき人がいる。彼らの背後に、新しい天地を夢見る人たちがいるのだ。彼らとて負けられぬ戦いなのだ。
互いに守るべき人を背負った兵達が、ほんの数日前まで知ることもなかった敵と命を奪い合う。
体の中で、虚しさが広がっていく。しかし大彦は、その虚しさが押し広げた心の空間を、一瞬の間に戦意で満たした。
土を踏む音が大彦に近づき、大彦の肩が軽く鳴った。
大彦が振り返ると、大日の爽やかな笑顔があった。大日が、大彦の肩を叩いたのだ。
大日は、号令を待つ兵達を振り返った。老いた顔もあれば、若い顔もある。大日は、空を指さした。
「あの雲の上に、高天原があるという。この美しき豊秋津島を産みたもうた天津神の世界だ。その世界を守る手力の兵であっても、汝たちほどではないだろう。しかし汝たちが帰るべきところは雲の上ではなく、この山門の大地だ。斃れてしまった者も、その魂は山門の大地に帰っていく。汝たちを待つ者も雲の上ではなく、山門の大地にいる」
耳には幢が風にはためく音しか聞こえないが、千数百人の山門兵達の心が一つに固まっていく音が、大日の心には聞こえる。
「予は汝たちに約束する。必ず汝たちを山門の大地に帰すことを。予の兄の背中を追い続けよ。兄は必ず汝たちの道を切り開くだろう。怖れに駆られたときは予を見よ。必ず道を指し示すだろう。皆で戦い、皆で勝ち鬨を挙げ、皆で家に帰ろう」
大日は言葉を結んだ。檄を飛ばすつもりはなかったが、思わず語ってしまったことに大日は気恥ずかしげな微笑みを浮かべた。最前列の兵達も微笑みで応じた。その光景を和やかな空気が包んだ。はちきれんほどの熱さを内包した和やかさだ。
「さぁいくぞ、野郎ども」
大彦が大声で棍棒を突き上げると、厚い雲を吹き飛ばすほどの喊声が揚った。
一方、対峙する天孫族は静かなままだ。士気を喪失しているわけではないことは、鉄の矛の切っ先に漲る光を見ればわかる。しかし、天孫族には、兵達の士気を一つの巨大な戦意にまとめ上げる統率者が欠けているように見受けられた。
大日は、昨日の戦いで自分の放った矢が天孫族の統率者を死亡させたか、指揮を執れないほどの重傷に追い込んだことを確信した。
大彦と石火が率いる春日族を中核にした山門勢が、ゆっくりと坂を下っていく。その後ろには、吉備彦が指揮する登美族の騎馬隊が控えている。
天孫族も重い足取りで動き始めた。兵数としてはまだ圧倒的に天孫族に有利があるが、その進退には小集団毎に緩急があり、統一された動きではなかった。
春日族の後続と思われていた登美族の一隊が一斉に馬腹を蹴り、激しい砂塵を巻き上げて突撃した。彼らは春日族の脇を通り、天孫族のもっとも動きの緩慢な所に突き入った。
天孫族は虚を突かれ、突出していたもっとも士気の高い部隊に動揺が走った。その動揺を見逃さなかった大彦が、巨大な銅錘を振り上げて春日族と共に襲いかかった。
孔舎衛坂の麓の近くで激戦が繰り広げられた。
双方とも昨日までの戦いで矢を使いはたし、媚や祝者などの呪術者も多くが死傷した。そのため、今日の戦いは主に肉弾戦であり、そうであれば大彦の独壇場であった。彼が銅錘を振り回すたび、天孫族の二三人が宙を踊った。
山門勢も天孫族も、互いに死力を振り絞る段階となったが、大彦がいる分だけ、少しずつ山門勢が押していった。
斑鳩族の水軍はまだ現れないが、大日は、ここを勝敗の岐路と見極めた。立ち直りの時間を天孫族に与えてしまっては、体力の限界を超えている山門勢が瓦解しかねない。
大日は矛を振るって、本営に残っていた最後の兵を率いて坂を駆け下りた。
大日が戦線に加わったことで、山門勢の士気は最高潮に達した。天孫族が崩壊し、彼らの本営が山門兵の足と馬蹄に踏み潰され、武器を持たない彼らの妻子が戦の狂気に蹂躙される時間が、すぐそこに迫っているように、大日には思われた。
大彦も、山門兵も、天孫兵も大日と同じ想像を共有した。天神地祇も山門の勝利を確信していただろう。
しかし、孔舎衛坂の左右に広がる森林の、一部の草木だけは知っていた。鋭い闘志を秘めた一団が、密かに戦場を迂回し、山門勢の背後に回り込みつつあることを。
殺気を背後に感じた大日は、あり得べきでない方向を振り向いた。
本営が燃えている。
日から落とされたような唐突な炎の姿だ。
その炎から生まれ出たような黒い影が、たちまち一団を形成した。
一団の先頭に花が咲いている。そう見紛うほど、その人物の装いは艶やかで、頭部や肩の鳥の羽根飾りが今にも飛び立ちそうな色つやをしていた。
「さぁ、勇ましき天孫の兵たちよ。愚かにも我らの新しい天地への道を塞ぐ野蛮な土蜘蛛どもを、汝らの怒りの矛で串刺しにしてやりなさい」
揺れた玉の触れあうような美しい声色だが、よく聞けば言っていることはかなり物騒だった。
舞うような仕草の指が山門勢の背後を指し示すと、炎の中から生まれ出た集団は矛先を揃えて殺到した。
「土蜘蛛どもを串刺しにした矛を林のように並べたら、さぞ見物でございましょうな、狭野姫様」
傍らにいた若い男が飛び上がって快哉を表現したが、姫と呼ばれた人物はむっとした表情で飛び下りてきたばかりの若い男の頬を平手打ちした。
「だれが日女ですか。日子と呼びなさい、日子と」
どこからどう見ても美しい姫御前だったが、当の本人はそう呼ばれると向かっ腹が立つらしい。日子、つまりは男児として自分を扱うように周囲に強いているのだが、花衣を勇ましくたくし上げ、白さも眩しい手足を露出させた出で立ちで、豊かであるべきところを豊かにした姿ではどだい無理な注文だった。
「さぁ、珍彦、とんちきな夷つ男どもをお仕置きにいきますよ」
花でも摘みにいくような足取りで珍彦を踏みつけた狭野姫は、花駕籠がわりに頭椎の大刀をひっさげて駆けだした。彼女の身を飾る鳥の羽根飾りが風をはらんで、白鳥が戦場を駆けているようだ。夷つ男というのは、つまり田舎者ということだ。
背中に天孫族の鬨の声を聞いた山門勢は浮き足だった。だが、最後尾にいた大日は冷静だった。
背後の天孫族は多数ではない。せいぜい百人程度であろうと大日は見極めた。こちらは五十人を反転させれば十分対応できると考えた大日は、周囲の男達を激励し、備えさせた。
大日は残しておいた矢を全て集めさせ、坂を駆け下りてくる天孫族へ一斉に射かけた。半数はそれで斃れると大日は目算した。しかし、背後に現れた天孫族は、ただの兵ではなかった。
射かけた矢が見えない壁に弾かれたように地に落ちる。天孫族の矛の列の後ろに、異質の光がある。
鏡だ。
天孫族の兵はただの兵ではなく、呪兵だ。
鏡が一斉にきらめいた。
火産霊や火雷の力を宿した鏡から炎や電が吹き出し、大日は、一瞬で周囲の五十人を喪った。それでも大日は前に進み、矛で数人の天孫兵を突き伏した。
大日の脇を駆け抜けていった天孫兵たちは反転せず、そのまま山門勢の背後を襲った。炎や電に焼かれる人間の阿鼻叫喚が大日の耳をつんざいたが、彼は助けに戻ることができない。
大日の前で、艶やかに美しくも殺気と憎悪を迸らせる人が浮かんでいる。
それは比喩ではなく、その人を飾り立てる鳥の羽根飾りが呪力を持っているのか、太陽のように煌々と輝く二つの大きな目が、まさに大日を見下ろしている。
「朕の兄を射たのは、汝ですね」
気品のある声だ。大日でなければ、膝を着いたであろう程の霊的威圧感もある。
「昨日、射倒してやったのは、やはり天孫の氏上か。さよう、汝の兄を射し者は、山門の宰相、春日の彦大日日こそ予である。わざわざ兄の仇を取りに参ったか。妹よ、その幼気、あえかなり」
声の張りと質とで勝負すれば、大日も決して負けはしない。
「さがりなさい、さもしき宰夫よ。狗人風情が朕に言向けることなど許しません」
狭野姫は、わざと宰相を宰夫と聞き間違えた。宰夫とは料理人のことだ。その侮蔑を含んだ間違いを、大日の矛が厳しく叱りつける。
矛と大刀が火花を散らす。何の霊力を得たものか、宙空にある狭野姫が位置取り的には有利だったが、大日には矛の長さの利点がある。そもそも、体技では大彦にも引けを取らない大日なのだ。たちまち、狭野姫は追い込まれた。
大日の背後では、山門の兵達が次々と断末魔を挙げていたが、狭野姫を討てば戦いは終わる。氏上を倒された天孫族の心を支えているのは、目の前の美しくも危険な羽衣の人物に違いない。大日の繰り出す矛の鋭意が増していく。
大日の脇腹を、矛の切っ先が襲った。狭野姫の従者、珍彦がようやく主に追いついたのだ。
珍彦の矛は払った大日だが、体勢は崩れた。その隙をとらえ、狭野姫の胸元に提げられた鏡が輝く。山門にはない真金の鏡だ。
大日を目がけて、数十の白羽が襲いかかった。羽根先は鋭利で、いくつかは大日の皮膚を切り裂き、いくつかは大日の短甲に突き立った。
「ぐずだこと。あなたの主に傷がついてもよいというのですか」
助太刀してくれた珍彦を、狭野姫は叱りつけた。それだけではなく、羽根先の一本は従順な従者の頭に刺さった。ちなみに、珍彦が遅れたのは、狭野姫に平手打ちされた挙句に踏みつけられたからだ。
「さて、鄙びた土の宰夫よ。朕の道を開けてもらいますよ」
血を流して膝を着く大日の首筋に狙いを定めた頭椎の大刀が、狭野姫の頭上に振り上げられる。
大日の体は重い痺れに沈んでいる。羽根には体を麻痺させる呪いが含まれているらしい。意識だけははっきりした目で、大日は侵略者の指導者を見上げた。
「美しい目ですこと。最初から朕らの求めに応じておればよかったのです」
傲岸に振る舞っていた狭野姫の瞳に、一瞬、憐れみの色が浮かんだ。そして狭野姫の背後に、霊的な不確かさで、八咫ほどもある大きな白烏の姿が見えた。白烏は日神の使いだ。その呪力を、狭野姫の真金の鏡は写し取っているのだと、死を前にした澄みきった思考で大日は思った。
大日は入彦の声を聞いた。心が聞いたのだと思った。無事に神奈備入りを果たしただろうか。靫翁に任せた以上、心配はない。ただ、靫翁は少々厳しい。
ほころんだ大日の口元が、次の瞬間にはあんぐりと開けられた。
大日を尊大に見下ろす天孫族の指導者の頭上から、入彦が降ってきた。
「父上」
それは心が聞いた声ではない。
珍彦は抱き寄せるようにして、突然の襲撃者から主を守った。そのあと、恩を仇で返す質の主から、その無礼さをきつく叱られた。肌に直接触れることを無礼だと怒るのなら、その露出の多い服装をまずはなんとかして欲しい、と珍彦は叱られながら願った。
明らかに敵と思しき派手な羽衣の人物を狙った剣を空振りさせた入彦は、降ってきた勢いそのままに、父を巻き込んで転げ落ちた。
「本当に無知ね、御統。手を離すのが遅いのよ」
文句を言ったのは豊だ。言霊で黒衣に息吹を与えた木菟を飛翔させ、山門盆地を渡ってきたのだ。
豊は、今度は御統を木菟から突き落とした。彼女は珍彦と狭野姫を狙ったのだが、こちらもうまくかわされた。
「あら」
自分の失敗は咎めない豊である。
入彦とは違って軽業使いの御統はうまく着地したが、むっと尖らせた口を上空の豊に向けた。豊は赤い舌を出した。
負傷した父にさらなる打撃を与えた格好の入彦は、自分が立てた土煙に咳き込みながら、もっともらしい顔を父に向けて、
「ここは私におまかせを」
と、白々しく言った。
「すんでのところで死ぬとこだ」
と寸言を入れたいところだが、大日は怒声をぐっとこらえて、息子の手を掴んだ。
「うまくいったのだな」
大日は、父親の目で入彦を見つめた。
「はい」
入彦は力強く頷いた。それだけで分かる。息子は幾重にも成長した。ここが戦場でなければ、大日は涙を流したいところだった。
「靫翁は厳しかったろう」
「存外、そうでもありませんでした」
入彦は父の手を引いて立ち上がらせようとしたが、大日は足に力が入らなかった。
黒衣の木菟から飛び降りていた豊は、大日の側に駆け寄った。傷の手当てをしようとする豊の手を止めた大日は、
「傷はいい。それよりも私の体を痺れさせている呪いを祓ってくれ」
と、頼んだ。
山門勢は瓦解寸前だ。小勢とはいえ背後を突かれた山門勢は、攻勢に転じた天孫族に挟撃されている。大彦の咆吼が聞こえるが、彼とて不死身ではない。その声が尽きたときが、山門の命運の堕ちるときだ。傷を癒やしている暇はない。
それは天孫族にとっても大一番の賭けだった。山門勢の意識を前方に集中させるため、わざと弱勢を装った。そうして生まれた山門の虚を突く狭野姫の奇襲が失敗におわれば、坂の麓近くまで押し込んでいる山門の攻勢を支えきれず、天孫族の新たな天地は幻と消えただろう。最高指揮官を矢傷で欠いている天孫族にとっては、まさに乾坤一擲の勝負だった。だからこそ、狭野姫の奇襲が成功した今、天孫族の兵達の戦気は最高潮に達している。
双方の命運を決する剋が来た。
主を喪ってさまよっていた馬の背に飛び乗った大日は、陽光を受けて黄金色となった矛を突き上げて、単騎、混沌の戦場へ突入した。
大日は山門の男達に約束した。怖れに駆られたとき、必ず道を指し示すと。
「見よや山門の子らよ、兵どもよ。この矛のゆく先にこそ勝利があるぞ」
声の限りに大日が叫ぶと、山門勢は息を吹き返した。
もはや陣形も戦術もない。一歩でも多く前に進んだ者が生き残るのだ。
そして常に戦場を視野から外さない大日の目が、ついに捉えた。碧水の川面を流れていく船団の黒い影を。御師を示す深紅の幡旗を。
羽衣の人物とその従者を足止めするための石礫が尽きた。
「石ってなんなのよ。子どもの喧嘩じゃないんだから」
小馬鹿にしながらも、正確に急所目がけて飛んでくる御統の石礫に、狭野姫はうんざりした。
「兄ちゃん、豊、いちゃついてる場合じゃないぞ。おれっちの出番はもう終わりだ」
石礫を投げきった御統が叫んだ。足元には、もう血の混じった土しかない。
「悪戯は終わりましたか。それではお仕置きとまいりましょう」
狭野姫は頭椎の大刀を振るった。珍彦も矛を頭上で旋回させた。
狭野姫が大刀を振り下ろすと、胸元の真金の鏡が輝き、大日を傷つけた白羽が放たれた。そのうちの半分は軽業でかわし、もう半分は駆けつけた豊の呪言が払った。
「いちゃついてるわけないでしょ」
豊は御統の頭にとっておきの拳骨を落とした。
「あら、ずいぶん可愛らしい呪い女ね」
狭野姫は、なぜか腰に手を当ててふくよかな胸を反らした。
「品位を込めて言霊使いと言って欲しいものだわ」
豊も競って胸を反らした。
対峙する二人はそろって露出が多く、白い肌が眩しい。
ここが戦場でなければよかったのに、と豊に着地と言うより落下の手当をしてもらった入彦は思った。二人とも美しさに引けはないものの胸の膨らみは豊の一方的敗北だなと入彦は考えたが、口には出さなかった。拳骨を喰らいたくはなかったからだ。
「この女は私が相手をするわ。御統、あなたは入彦と協力して、あっちの男をやっつけて」
入彦の心の声が聞こえたわけではないが、豊は対抗心をむき出した。彼女の目からも、女性らしいところで敗北していることは一目瞭然だった。
「だいじょうぶか。あの羽の姉ちゃん、おっかねぇぞ」
御統は豊に忠告した。
「何を言っているのです。おっかない姉ちゃんなぞ、どこにいるというのですか」
高らかに笑い飛ばした狭野姫だが、四本の指を突きつけられて、むっとした。その一本に珍彦の指が含まれていたため、狭野姫は得意の平手打ちで従者の首を反転させ、失神させた。。御統たちにとっては、敵が勝手に戦力を半減してくれた格好になった。
「こんな勇ましい出で立ちをした姉ちゃんがどこにいますか」
狭野姫はそう主張した。どうやら彼女は羽根飾りに覆われた露出の多い出で立ちを勇ましいと考えているらしかった。御統たちは、対峙する人物は美しくおっかないが、頭の方は与しやすそうだと見当づけた。
「さぁ、出ていらっしゃい、日霊。天神の血を引く者の力をみせつけてやりましょう」
狭野姫が大刀をかざすと、胸元の真金の鏡が激しく光を奔出させた。白い光は大きな一羽の白烏に姿を整え、狭野姫がかざした大刀の切っ先にとまるようにして現れた。
「八咫烏ね」
豊は身震いした。彼女には白烏が秘めた呪力のすさまじさが分かる。御統の白銅の鏡と同じように、狭野姫の真金の鏡も、霊力だけでなく、日神の使いとされる神鳥の霊魂そのものを捉えているのだ。ちなみに、八咫烏の八咫は、長さの単位としては180センチメートル程度となるが、八咫烏の場合、単に大きな烏という意味である。
狭野姫が大刀を横殴りに払うと、頭上の白烏も翼を振るった。ちなみに、狭野姫は白烏を日霊と名付けている。
鋭い羽が豊を襲うが、彼女はひらりを体を舞わすと、黒衣の木菟の背に飛び乗った。この木菟は、豊の言霊の力により息吹を与えられた黒衣だが、名前は特に付けていない。
豊を乗せた木菟が日霊に襲いかかる。日霊は三本足の爪で迎撃し、木菟は剣のように鋭くさせた翼で打った。豊の言霊の力は、神鳥の霊力と拮抗しているように思えたが、それが一時的な成果であることは豊には分かっている。羽衣の人が豊ほどの言霊使いを他に知らず、面食らっているだけのことだ。落ち着きを取り戻して神鳥を扱えば、人たる身の呪力がいかに優れようと、神霊の力には敵わない。
「さぁ、入彦。出番よ」
神奈備入りで得た新しい力を見せつけてやりなさい。豊はそう言った。
満を持して入彦が登場した。観客が少ないとは言え、これほど期待を受けて登場したことは入彦の記憶にない。若干、緊張して、
「任せろ」
と、上ずった声を出した入彦は、青銅の鏡をかざした。
「掛けまくもかしこき三輪の大地祇の幸魂に恐こみ白す、御稜威なる力を示したまえ」
青銅の鏡の鏡面が波打った。
三輪の地祇、つまり大物主は八雷を招来した。さて入彦はどんな力を招くのか、御統も豊もどぎまぎしながらその時を待った。
意外な情景が現出した。
土から小さな青葉が出たかと思うと、たちまち山梨の大木に成長した。きょとんとした八つの眼が見つめるなか、山梨は黒紫色の枝に瑞々しい実を成らせた。
穏やかな風が三すじほど吹き、卵形の葉がちらちらと舞い、梨の実が一つ、ぽとりと落ちた。
梨の実をおもむろに拾い上げた御統は、失神から覚めたらしい羽の人の従者にとりあえず投げつけた。良い音で珍彦の頭に当たった山梨の実を、こんどは狭野姫が拾い上げ、一口かじった。
「うん、甘い」
思わず驚嘆するほど、入彦の山梨は瑞々しい甘さだった。ただ甘さは、敵に何の打撃も与えない。
「敵を喜ばせてどうするのよ」
豊の寸言には、当然、怒りが含まれている。
気を取り直した入彦が再び鏡をかざすと、今度は葡萄葛の木がふさふさの実を成らした。葡萄葛は山葡萄のことで、そのまま食べても美味だが、果実酒にするとより良い。
「いや、ごちそう係か」
豊は木菟の背から足を伸ばして、入彦の惚けた頭を小突いた。
「おもてなし、ありがとう。今度はこちらの番ですね」
日霊に声をかけると、白烏は主の頭上から飛び立ち、日の光を遮って金色に輝いた。雄大に広げた両翼を激しく振るうと、無数の羽根が矢の雨のように降り注いだ。鉄の鏃のように鋭く、日の光を得て陽炎のような熱を帯びている。
豊の木菟は、あっという間に切り裂かれ、穴だらけにされた。もちろん豊自身もひどく傷つき、地に落とされた。
白烏が再び雄大に両翼を広げる。次の攻撃は、豊にとって致命的だ。
入彦は機転を利かせた。
灼熱の鋭利な羽根が降り注ぐ前に、山梨の大木をたちまち生長させ、幹や枝や葉や実で豊を守った。しかし、山梨の大木は灼熱の羽根に焼かれて、燃え上がった。
「こしゃくな真似はおよしなさい」
高らかに笑う狭野姫を御統が睨み付けた。
「豊にひどいことをするな」
御統の怒りを、しかし狭野姫は小鼻であしらった。
「ここは戦場なのですよ。ひどいことをする者が生き残る場所なのです」
「だったら、もっとひどいめにあわせてやる」
御統は腰に提げた鏡をつかみ取り、天に向けてかざした。
小振りの鏡だが、すさまじい呪力を秘めた白銅の鏡。宿された霊力は天津神だ。
実は御統は、白銅の鏡に宿された天目一箇神を自在に呼出せるものかと試したことがある。しかしこすっても、ふっても、蹴飛ばしても、鏡は無言のままだった。
しかし御統には分かっている。彼が本当にその力を欲しているとき、白銅の鏡は必ず応えてくれる。
黄金色の光がほとばしり、光はたちまち筋骨隆々の巨人に変化した。
「天目一箇神」
狭野姫は驚愕した。日霊も仰天して羽根を逆立て、主の鏡の中に逃げ込んだ。一人と一羽の狼狽えを小気味よさげにみた御統は、一歩をずいと進めた。
「羽の姉ちゃん」
御統は呼びかけた。天目一箇神は、巨大な一つ目で羽の姉ちゃんを睨みつけている。
「私は姉ちゃんではありません」
「それはそうとして、一つ尋ねたいんだ。常世の原の行き方を知ってるかい」
「何ですって」
狭野姫は混乱した。それは仕方がない。巨大な天神の目に睨み付けられているうえに、石礫の童男は場違いの質問を投げかけてくる。狭野姫の戸惑いを、御統は何も知らないと判断した。
「金槌のおっちゃん。鍛冶の時間だ」
白烏を従えた羽衣の人物を、御統は鋭く指差した。
天目一箇神は金色の金槌を振り上げた。振り下ろされれば、山が崩れ、地が裂けるだろう。そのことが容易に想像できるのに、狭野姫はすくんだ足が動かなかった。
動けないはずの狭野姫が、なぜが飛ぶように移動した。驚いたのは狭野姫だ。
珍彦だった。主から理不尽な平手打ちをみまわれ、小憎たらしい敵の童男に山梨の実を投げつけられた彼は、それらの仕打ちに耐え、狭野姫を抱き上げて危機からの脱出を図ったのだ。主の理不尽はここでも発動し、恩人のはずの珍彦をばたつかせる手足で何度もぶった。
「おろしなさい。無礼ですよ」
しかし珍彦の足は止まらず、風のように坂の脇の木々の斜面を駆け下りていった。
「ちぇっ。逃げ足が速い奴だ」
誰よりも逃げ足の速い御統は悔しがった。
金槌を振り上げたままの天目一箇神は鳶に油揚げをさらわれた格好になったが、その光沢の巨体は、想定外の効果をもたらせた。
山門勢を挟撃し、そのまま磨りつぶす勢いにあった天孫族が、大崩れに崩れた。
山門勢の背後に白光に輝く巨人が現れたのだから、天孫族の仰天も当然だ。彼らは天孫を名乗る以上、天神のすさまじい霊力を知っている。彼らが知る限りにおいて天孫族の幹部格に天目一箇神の従えた人物はおらず、従って、振り上げられた金槌がいずれ彼らの頭上に降ってくることは、悪戯に激怒した親父の拳骨が自分の頭に降ってくることぐらい明白な成り行きだった。
人の殺意の恐怖には耐えれても、天神の天罰の恐怖には耐えられない。新天地を求めたことが神の逆鱗に触れた。天孫族の兵達がそう考え、天罰に恐れおののいたとしても、それもまた、悪戯に怒り心頭の母親の半笑いをみたときと同じくらい当然の恐怖だった。
山門勢は死地を脱した。
背後を襲った天孫の別働隊をほぼ掃討し終えた大日は、大彦と合流した。全身を返り血に染め、赤黒さの中から目だけ出している兄の姿を見てもどうとも思わないほど、大日の感覚も死戦の興奮で麻痺していた。
「どれだけの兵が動ける」
「まず百だな」
兄弟はそんな会話を交わした。山門の兵は半数が討たれ、残りの半数のうちの多くが深手を負い、軽傷の者も突然開けた生の空間に安堵して戦意を喪っている。戦意を保っているのは百人いるかどうかだ。
「十分だ」
大日は馬を替えた。共に戦ってくれた馬は、生の空間が開けた途端、力尽きた。
百人の先頭を駆け出そうとした大日を石火と吉備彦が慌てて止めた。
「崩れたとはいえ、まだ敵は多数です。ここは慎重になるべきです」
大彦も二人に同調しているような顔つきだった。その兄の顔を見て、大日はにやりと笑った。
「ようやく出てきた河童の尻を蹴飛ばさなくてもいいのか、兄者」
兄弟の意思が疎通した。大彦は大笑いすると、今から戦を始めるところだと言わんばかりに、
「さぁいくぞ、野郎ども!」
そう大声を張り上げて、百人の疲労を吹き飛ばした。
しかし実際のところ、山門の最後の鉄槌は虚空を叩く結果になった。天孫族が勝手に潰走しはじめたからだ。
山門川の河口から海原にでた斑鳩族の水軍は、白肩津に停泊している天孫族の船団を襲撃する構えを見せた。
船団と津には、天孫族の勝利を願う女こどもや老人しかいない。斑鳩族の水軍を見た彼らは恐怖に戦いた。その恐怖が天孫兵に伝播し、天孫族は乾坤一擲の戦いを放棄しなければならなくなった。
戦に勝ち、新しい天地を手に入れても、愛する家族が蹂躙されてしまっては意味がない。天孫兵たちは上官の命令よりも、家族の安全を優先した。それは当然の行動であり、上官も彼らを留めることはできなかった。
斑鳩水軍は、実際に天孫族の船団を襲うことはしなかった。それでも天孫族は壊滅した。
夕まぐれである。
兵やその家族を収容した天孫族の船団は、散り散りばらばらの孤影となって海原を染める夕日に吸い込まれていった。
戦いは終わったのだ。
孔舎衛坂の中腹から茜色の景色を見晴るかしていた大日は、勝ち鬨を挙げることを躊躇した。確かに山門は勝利したが、あまりにも傷は深かった。
しかし、斃れた山門の男たちの魂が勝敗を知らずに永遠に彷徨うことになることを慮った大日は、高々と拳を突き上げて、勝ち鬨を挙げた。
生き残った山門の男たちの声は、宵の青さに沈んだ山影を響もした。
入彦たちは、焼け跡となった本営で大日たちを待っていた。大日は、危機に駆けつけてくれた息子と豊、そして御統を抱きしめるようにして迎えた。そして息子の登場の仕方がまずかったことを思い出して、その額を小突いた。
「あの天孫の将はどうなった」
大日は息子に尋ねた。羽衣の人物だ。出で立ちや気品からして、ただの部隊長とは思えない。天孫の引率者にかなり近い地位にいる人物だろう、と大日は見当を付けている。
「すみません、逃しました」
入彦は頭を下げてから、視線を横に向けた。御統が、焼け焦げた木材の上で逆立ちして遊んでいる。白銅の鏡は、御統の動きに合わせて他愛もなく揺れている。
「謝ることはない。お前たちが来てくれなかったら、危なかった」
大日は力強く入彦の肩を叩いた。埃に汚れた息子の顔の、何と頼もしいことか。ここが死戦を終えた戦場でなければ、大日は落涙したことだろう。
日が沈む。
大日は兵たちを休ませた。すぐにでも大宮に帰りたかったが、傷を負った兵が多すぎた。山門主への戦勝報告には、比較的元気な者を出立させた。
翌日、大日は敵味方の区別なく、この戦場で斃れた者を埋葬した。孔舎衛坂の斜面に沿って一晩中篝火を絶やさなかったから、斃れた者の遺体が獣に荒らされることはなかった。
斑鳩族は津に船を停泊し、兵たちを近くに降ろしたまま、遅参を詫びることはもちろん、使者を発たせることもしなかった。大彦は大いに憤慨したが、大日は黙殺していた。当初の軍立てとはかなり相違したが、結果として斑鳩族の船影が勝敗を決したことに違いはなかった。ただ、津に陣取った斑鳩族の兵の黒影は、天孫族のものよりもどこか胸にざらつく不安を掻き立てた。
日が傾いてから、山門勢は帰路についた。その山門勢を追うように、斑鳩族が動き出した。さすがに不愉快を感じた大日が使いを出し、報告を求めると、
「天孫の残兵を掃討している」
という回答だった。その白々しい声が聞こえてきそうな事務的回答に、大日の胸中の不安が強まった。
大日は入彦と豊、そして御統を側に呼んだ。大日から耳元で囁かれた入彦は戸惑う素振りを見せたが、父の強い眼光に抗えず、豊と御統を連れて道を外れた。
一つの懸念に対処したつもりの大日の前に、篝火を石壁の上に並べた山門大宮が見えてきた。
すでに宵闇が立っている。大宮は、周囲をぐるりと巡る石壁のあたりは篝火の灯りで赤々としているが、全体としては黒々と沈んでいる。不吉というしかない。
その不吉の門が開いた。松明と矛の集団が吐き出されてくる。とても凱旋兵を出迎えるという雰囲気ではない。
松明と矛が大日の前で展開する。大日に率いられた山門兵達は固唾を呑んでその様子を見ていた。
一人の男が大日の前に進み出た。数人の兵に守られている。
登美彦だった。松明に照らされたその表情は、感情を見事に拭い去っていた。
「何事だ。山門の天地のために戦ってきた男たちを出迎える趣旨がうかがえぬな。不意打ちの祝宴を用意してくれているのなら、早めに教えてくれよ」
大日は言葉で不吉を祓おうとしたが、それはうまくいかなかった。
「春日の彦大日日よ、謀反を企んだ罪により、御言持の任を解き、汝をここに拘束する」
登美彦の声は静かだった。しかし、本当の凶事とは静かさの中から始まるものだ。
星空へ向けられていた矛が一斉に倒されると、凱旋将軍とともに帰ってきたと信じていた兵達は騒ぎ出した。その響めきを抑え込むように、斑鳩族の矛が背後に並んだ。
孔舎衛坂の戦いで見事に天孫族を撃退した大日。しかし彼と傷ついた兵たちを待っていたのは謀反人の汚名だった。
登美彦の企みが、山門に暗雲を湧きたたせる。