山門編-失われた天地の章(16)-孔舎衛坂(2)ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の少年、俳優 の御統は、山門大宮への道中で黒衣の美少女、豊と出会う。大宮では、輪熊座は御言持である大日の歓迎を受け、豊は秘した宿願を果たすため大日に接近し、大日は豊を嫡男の入彦に仕えさせる。豊を追って入彦の邸に向かった御統の白銅鏡が光の巨人を暴走させ、御統は土牢 (ひとや)に捕らえられる。その頃、神祝 ぎの馳射で春日族の旗頭となった入彦は重任に堪えられず、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。豊の幻術で、御統は春日族の騎手になりすまし、彼の活躍によって登美族との勝負は互角となる。禁忌の実刃の鏃が用いられ、その凶矢から入彦を守った石飛は重傷を負う。勝敗は矢馳馬に委ねられ、御統が吉備彦との矢馳馬を制する。
馳射は春日族の勝利となるが、御統の言動が不正を匂わせ、禁忌である実刃の鏃の件も含めて山門の朝庭で審議される。誓約の鏡猟で神意を問うこととされ、美茉姫と共に鏡猟の斎に選ばれた豊は、春日族の族人となるため、入彦の妾となる。いつのまにか大切な友人が増えていた豊。彼女の前に黒々とした影が現れ、一族の恨みと苦しみをささやく。一日、山門大宮の郊外で、御統は登美彦と邂逅する。短い時間とわずかな会話に、二人は余人には知れない感傷を抱く。
鏡猟では美茉姫と豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが激しい攻防を繰り広げる。登美族は夜姫の凄まじい呪力で春日族を追い詰めるが、豊の幻術に誑かされ、春日族の勝利となる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、焔の化身となって会場を炎で呑み込む。大混乱となり、豊が御統から借りていた白銅鏡から天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。前代未聞となった鏡猟が新たな火種となることが懸念されたが、それを上回る脅威が山門に迫っていた。
鉄で武装し、天孫を号する天孫族が日下の楯津に上陸する。居丈高な天孫族の使人を退けた大日だが、彼らが提唱する水稲稲作に魅力を感じる。山門は交戦か和平かで紛糾し、山門主饒速日は決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟していたが、大日から時期外れの磯城族への神奈備入を命じらせる。大日の巧みな軍立てにより、天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。
約二十年前、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、饒速日を氏上とする斑鳩族との戦いを終わらせるため、饒速日の本陣を訪れる。饒速日の目的が災いの果実と呼ばれる剋軸香果実の根絶であることを知った四兄弟妹は、果実を持ち帰ることを条件に停戦を請う。友人の五百箇の助けを得て、四兄弟妹は五十茸山へと向かい、そこで地祇の争いに巻き込まれる。大山津祇と鹿屋野姫の知己を得た四兄弟妹は地祇の争いを収め、五十茸山中の大山津祇の邑に入る。そこで剋軸香果実のことを切り出すが、大山津祇は取りつく島もない。
大日と大彦、陽姫が大山津祇と鹿屋野姫とに和平協定を結ばせて間に、安彦は五十茸山の山中深くに潜り込み、ついに災いの果実を発見する。神の森の審問者を名乗る白蛇の奸計を見抜き果実の奪取に成功するが、たちまち果実の魔力に憑りつかれてしまう。精神を蝕まれた安彦は、共に育ってきた兄と妹を敵と疑うようになる。夜も眠らず、狂気を帯び、ついに兄妹を襲う安彦を、大日たちは眠らせる。眠りから覚めた安彦は、虚脱感の中で、故郷の三輪山とそこに暮らす磯城の人々を守ることを誓う。
回想を終えた大日は、戦場にいた。一万を超す天孫族の鉄の兵団を迎え撃つ山門諸族は、孔舎衛坂の頂上に陣を構え、大日の兄である大彦の獅子奮迅の活躍で優勢に立つ。天孫族も決死の総攻撃をかけ、両者はともに命運を賭けた勝負に出る。
一方、入彦、御統、豊の三人は、戦場を遠く離れた三輪山の山中で、大物主に睥睨されていた。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
夕景色に宵の青さが染みていく。気の早い梟が、森の奥で鳴き始めた。
輪熊座という俳優の一団の相談役といった立ち位置にいて、団員は元より、座長の輪熊や女頭領の鹿高からも一目を置かれていた靫翁が、実は磯城族が崇める三輪山の地祇、大物主であったことの事実は、入彦と豊をしばらく無言にさせた。
豊が、輪熊座にとってまだ捕らわれ者であったとき、彼女は靫翁の破魔矢の力で呪力を封じられたことがあった。豊は優れた呪術者で、その呪力の大きさに彼女自身うぬぼれるところがあったが、あのときの手も足もでない緊縛感は、それが地祇の力によるものであるならば納得できるところがあった。
「靫のおっちゃん。こんなところでなにしてるの」
御統だけが、まだ事態を理解していない。
「おっちゃん、いまそこに、全身真っ白の威張った爺さんがいただろう」
「その爺さんというのは、こいつのことか」
靫翁の周りを風が包むと、白衣の老人が現れた。
「そうそう、そいつそいつ」
御統が頷くと、白衣の老人は靫翁に戻った。しばらく目をぱちくりさせていた御統は、突然ひっくり返って驚いた。
「気づきの遅さ!」
「のんびり屋か!」
入彦と豊は左右から御統に寸言を入れた。
「いつもどおりじゃな、御統よ」
靫翁は一つ咳払いをして、ここ数秒の出来事をなかったことにした。
「それはさておき、予が大物主である。輪熊とはちょっとした縁があってな、輪熊座に居候させてもらっておった」
靫翁は胸を反らした。御統はまだ混乱しているようだったが、他の三人はとりあえず彼を放っておくことにした。
「さて、入彦よ。話は大日から聞いておる。汝の最初の大勝負だな」
靫翁は入彦を鼓舞するような言い方をしたが、入彦は視線を下げた。
「大勝負は孔舎衛坂です、翁どの。わたしなどは厄介払いなのです」
「ほう。親の心子知らずとはよく言ったものだ。大日が汝にどれほどの思いを抱いているのか、汝はまったく分かっていないとみえる」
靫翁が哄笑すると、空がごろごろと鳴った。
「とんだ腰抜けを寄越されたものだが、まぁ仕方がない。いちいち手順を踏んでおるのも、御統がいみじくも申したとおり、確かに面倒。予の神力を見せて進ぜるゆえ、そのいじらしい鏡の呪力をもってこの魂を写し取ってみるがよい」
靫翁の哄笑は怒声となり、一陣の風が吹き荒れて後に現れたのは白衣の老人ではなく、赤い目の白蛇だった。
風がうなりを上げて木を揺らし、雨が叩きつけて木の葉を散らした。
細い稲光が生じて、入彦の足下の地面を撃ち、白煙を上げた。
「厄介払いの腰抜けには少々きつかろうが、汝には予の荒魂の力を見せてやろう」
奥津磐座の頂に鎮座する白蛇が裂けた大口を開くと、風雨荒れ狂う上空に、八つの鬼火が浮かんだ。八雷だ。
八つの雷玉が互いに放電しあい、その光の触手が触れあうと恐ろしい音と共に弾爆した。入彦は恐ろしさのあまりに腰を抜かすこともできず、かろうじて手放していない青銅の神獣鏡を小刻みに震わせていた。
「逃げろ、兄ちゃん」
「逃げて、入彦」
御統と豊の叫びに突き動かされなければ、入彦は八雷の落雷により黒焦げになっていたかもしれない。
轟音が山を揺るがし、入彦と御統と豊は、ばらばらの方向へ転げた。
入彦は腹ばいになったまま、亀のように逃げた。木立に逃げ込もうとした。すぐそこに見えているのに、手足の動きがばらばらで、身体はもどかしく進まない。ようやくたどり着いた木立は、八雷の落雷で破裂し、燃え上がった。入彦は心臓も内臓も飛び出させたような青白い顔で、山肌の岩陰に逃げ込んだ。ここでは風雨が多少しのげたが、八雷は入彦を嬲るように、岩陰の頂を雷で打ち据えたり、周りの木立を燃やしたりした。
生きた心地がしなかった。入彦は鏡を足元に放り出し、目を閉じ、膝を抱き寄せて、嵐が過ぎ去るのを待った。
入彦の心が悲鳴交じりに教えた。嵐はいずれ去る。いずれ父か伯父かが助けてくれる。これまでもそうだった。その経験が、入彦に辛うじて正気を保たせていた。
「山門の御言持の子は土竜であったか。人の顔色をうかがい、人の顔色に変化する七色土竜よ。今は黒焦げ色に染まるがいい」
すさまじい勢いで八雷が群雷を落とす。入彦が逃げ込んだ岩陰の周囲は火の海だった。
圧倒的な呪力を見せつける大物主。豊は地祇の超越した能力に息を飲むばかりだったか、奥津磐座の頂上で入彦を虐めては笑い転げる白蛇に向かっ腹が立ってきた。落雷が生んだ炎の熱風に巻き上げられる木の葉に言霊を投げつける。
「汝ら飛矢なり。降り注げ」
豊が白蛇に向かって大きく手を振ると、炎をまとった木の葉は鋭利な飛矢となって磐座に降り注いだ。だが、飛矢はたちまち、ただの燃える木の葉に戻って地に落ちた。
白蛇の赤い目が豊を見据える。
「なによ。地祇だからって調子に乗らないで。人が、呪術を操れないわけじゃないのよ」
豊が渾身の呪力をこめて呪言をつむぎだす。豊も、雷精を召喚できないわけではない。だが、生まれ出でた雷精は、八雷の凶悪な勢いを見て、怖ず怖ずと豊の背の裏に隠れた。
「ちょっと、なにしてるのよ」
縮こまっている雷精を叱りつけようとする豊の前に、御統が立った。
「やめろよ」
「なに言ってるの。入彦があんな目に遭わされているのよ。あなたも石つぶてを投げつけなさい。その鏡の住人を呼び起こして、あの不愉快な爬虫類を殴り飛ばしなさいよ」
豊は御統の白銅の鏡を取り上げようとした。その豊の手を取った御統は、
「これは、兄ちゃんの勝負だ。邪魔するな」
小さく、しかし強い力の声で言った。
「なにを」
言い返そうとした豊は口ごもった。普段は、何から何まで世話を焼いてやらないといけない弟のようなくせに、豊の瞳を見つめる御統の目には男の強さがあった。
「でも、入彦が」
豊の瞳が揺らいだ。
「大丈夫。靫のおっちゃんは、兄ちゃんを傷付けたりしない。…そんなには、ね」
「本当にあそこにいるのは靫翁なの。ただのいかれた蛇に見えるけど」
「おっちゃんが怒ったときは、だいたいあんな感じだ。おれっちもずいぶん叱られたから、よくわかる」
「そうなの…」
豊は、少し落ち着いた。御統に促されるまま、数歩、後ろに下がった。そこは、風雨が弱かった。
大物主の呪力の縁から落ち着いた目で見ると、確かに、八雷は入彦を直撃させるような雷を落とさない。火の海も、入彦が逃げ込んだ岩陰にはあと一歩のところで赤い舌を留めている。
「ねぇ、ところでこの勝負、どうやったら兄ちゃんの勝ちになるんだ」
これは兄ちゃんの勝負だ、などと言っておきながら、その勝負の中身が全く分かっていない御統だ。
「本当に無知ね、御統」
豊と御統が立つのは、雷と炎が狂音を轟かせる空間とは別世界のように静かな場所だった。大物主の呪力の領域からはみ出した雨が、豊の髪を濡らす。
天神地祇には四つの魂があると言われる。荒魂、和魂、幸魂、奇魂である。その四つの魂をつなぎ止めてひとつの天神地祇として形作っている精神基盤が、直霊と呼ばれる霊体だ。人もそうだが、霊と魂、つまり霊魂が、宿る肉体の精神野を作っている。
四魂のうち、荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂だ。その神の存在や性格をもっとも印象づける魂だが、災いをもたらすことも多い。和魂は神の平和的な側面で、人々に恵みを与える魂であるが、具体的な作用については、人に幸いや収穫を与える魂として幸魂が、知識や学問、技術を授ける魂として奇魂がある。
「四つの魂のうち、その一つを鏡の呪力で写し取るの。二つや三つじゃなくて、一つの魂。天神地祇の力は強大だから、一つを写し取るだけで大変なの」
豊はそう言いながら、御統の腰に吊られている白銅の鏡をちらりと見た。御統の鏡から現れ出た天目一箇神は、一つの魂どころか神そのものの生々しさを持っていた。天神を封じ込めるだけの鏡がもしも存在するのなら、一体どれほどの呪力を秘めているのか、豊には想像ができない。
「魂を写し取られた神さまはどうなるのかな?縮んじゃったりするの」
「そんなことはないわ、普通はね。天神地祇の魂がこの世界に及ぼす現象の、その現象だけを写し取るのか、魂まで写し取ってしまうのか、それは鏡に秘められた呪力や呪術者の資質、それに神が呪術者を認めるかどうかに関わってくるわ」
御統はさも理解したように頷いて見せたが、実際はあまり理解していないだろうと豊は見当づけた。何しろ、自分もよく分からない。
「靫のおっちゃんは、兄ちゃんにどこまでしてくれるのかな」
「どうかしら、とても認めてくれているようには見えないけど」
磐座の白蛇は残忍な顔をして、入彦をいたぶっている。白蛇が尾で磐座の頂を叩くたびに八雷は順番に落雷し、入彦が逃げ込んだ岩の周りはすでに真っ黒焦げだ。
自分はここで雷に焼かれて死ぬのだろう、と入彦は考えている。もう恐怖はなくなった。ただ、激しく輝く稲光を見つめている。
父は、なぜこのような役目を自分に与えたのだろう。そのことを考えている入彦には、落雷の轟音も、どこか遠くの物音のように思えた。
父は、大物主の正体が、輪熊座の靫翁だと知っていたのだろうか。これほどの力を備えた地祇だと理解していたのだろうか。
父が知らなかったはずはない。大日という人は、常に入彦が及びもしない遠くまでを見つめている人なのだ。その父が自分に与えた役目なら、父の期待は、自分が想像するよりももっともっと大きいものなのだ。それを思うと、吐き気が込み上げてくる。
なぜそれほどの期待をかけるのか。一人では何もできない腰抜けに。
首を右に傾けても、左に傾けても、入彦には、父がなぜ自分に大きな期待をかけているのかが分からなかった。三輪山への神奈備入りなど、山門最高の呪術者でなくては果たせない仕事だったのだ。
そのうち、落雷の音がうっとおしくなってきた。父の深い心の奥を知ろうとしているのに、邪魔をするな。入彦は足元に投げ出していた青銅の鏡を拾って、立ち上がった。
「むっ」
白蛇が目つきを改めた。豊と御統は目を見張った。
入彦が岩陰から姿を現し、黒焦げて今にも崩れ落ちそうな岩の上に立っている。
「おい、白蛇。随分と騒がしいが、いったいどうしたいというのだ。私を殺したいというのなら、木立なんぞをやたらと焼かず、さっさとするがいい。この鈍間め」
入彦は白蛇に向かって啖呵を投げつけた。
白蛇は怒りで満身を膨らませた。それは誇張ではなく、実際に白蛇は巨大な大蛇と化した。それも、三輪山を巻いてしまいそうなほどの巨大さに。三輪山の三輪とは、この山の地祇の正体が山を三回巻くほど長大であることを示しているのかもしれない。
巨大な大蛇は、一呑みに入彦を呑み込んだ。
事態の急変にあっけに取られた御統は、
「兄ちゃんを傷つけないと思ったけど、どうやら違ったみたい」
と、とりあえず前言を撤回した。
「あ、でも丸呑みだから、傷はついていないかも」
「馬鹿なことを言わないで」
怒鳴りつけておいて、豊は大蛇に呑まれた入彦をなんとか助け出そうとした。しかし、魁偉な蜷局巻く大蛇にむけて呪術を発動しようとする豊を、御統が抑えた。
「また邪魔をするの。あれはもう靫翁じゃないわ。狂った祟り神よ」
「確かにおっちゃんじゃないね、あれは。でも、狂ってるわけでもなさそうだ」
御統は豊を落ち着かせるような余裕のある動作で、大蛇を指さした。豊がどれだけ優れた呪術者であったとしても、どうにもなりそうにない魁偉な蜷局だ。大人の四五人ほどは軽く巻き取れそうな舌をちらちらと見せている。目は赤いが、穏やかだった。
「おれっちは兄ちゃんを信じる。兄ちゃんの父ちゃんも、きっと兄ちゃんを信じてる。靫のおっちゃんもそうだ。豊はどうする」
御統に見つめられた豊は口ごもった。
「わたしだって…、わたしだって信じるわ。でも…」
豊は父母と弟を失った。それが、豊の一族の宿命がもたらす運命なのだとして、その運命を受け入れざるを得ないのだとしても、大事な人を失うのはもう嫌だった。
豊は祈りを込めて大蛇を見上げた。優しい顔をしている。八雷を従えた白蛇が大物主の荒魂なら、この大蛇は和魂なのだろう。この大蛇の体内で、入彦は幸魂と奇魂とに巡り会っているのかもしれない。
どんな事態にも、かならず終わりがある。終わりを知ることができないのは、星の向こうの世界のことだけだ。
豊は御統と一緒にそのときを待つことにした。
その入彦は、闇の中にいる。横たわっている。入彦の知覚としては、大蛇に呑まれた以上、その体内の闇なのだろうと思う。しかし、すでに死後の闇の中にいるのかもしれない。この闇の正体がなんであれ、入彦は奇妙な感覚を体験している。それは、安らぎだ。入彦は、いま、安らいでいる。
闇には何もない。入彦の中にも何もないのだ。水が、水に溶け込むような安らかさがここにはある。
ここでは、誰に比較されることもなく、誰に期待されることもなく、誰の顔色をうかがうこともない。この安らぎのなかで、ようやく入彦は、じっくりと考える時間を持つことができた。
父は、自分になにを期待したのだろうか。何をも一人で成し遂げたことのない未熟者が、一族の命運をかけた馬合わせからも逃げだそうとした軟弱者が、あのすさまじい雷の化身である大物主の神奈備入りを成功させるはずなどないではないか。
山門の一大事を控えての厄介払いとしか考えられないが、そんなことをする父ではないことは、豊に指摘されるまでもない。そして父の思考は、いつも遠く、深いところを見つめている。
ふと、入彦は思い出した。十歳にもならない幼子の記憶だ。
父の子は、じつは自分一人ではない。山門の御言持という人臣の最高位におり、春日族の族長という立場の父には、その基盤を強固にし、かつ一族を持続的に発展させていかなければならないという使命がある。そのため、複数の妻を持ち、複数の子どもを授かっている。子どもたちのなかには、才気をきらめかす者もいれば、覇気をみなぎらせる者もいる。父の子どもたちのなかで、父の後継者にもっとも相応しくないのは自分だ、と入彦は認識している。だが、父が後継者に選んだのは入彦だった。
入彦の母が正室である、という理由はある。しかし、後継者を決めるのは父の一存であり、入彦が相応しくないと考えたなら、側室の子を選ぶことも可能だ。または、側室の子を正室の養子にするという手法も、他族ではざらに用いられている。しかし父は入彦を選び、その選択を悔いたり、変更を考えたりする様子はない。ずっと側で、父の仕事を見せてきた。父から遠く離れたのは、今回が初めてだといっていい。
「私など、父様の跡継ぎにふさわしくありません」
後継者の重荷に耐えかねた幼い入彦は、父にそう言った。父は、微笑んでその理由を尋ねた。簡単なことだ、自分には何もない。知力も、呪力も、腕力も、統率力もないのだ。なにもない人間なのだ。父は大きな声で笑った。
「何もないか。だからこそ汝が我が跡継なのだよ」
その時の父の笑顔が、暗闇に浮かんだ。
何もないからこそ、得られるものがある。何をも持たないということが、何をも持つということに勝ることがある。そういうことなのか。闇の中で、入彦は父の面影に問いかけた。
父も大蛇に呑まれたということはないはずだが、おぼろげな面影が明確な輪郭を持った。が、それは父ではなく、靫翁だった。
「ようやく、そのことに気づいたかね」
靫翁はそう言った。
「山を乗せるために大地は広くなければならず、大地を包むために空はより広くなければならん。自慢ではないが、予の霊力はなかなか大きい。予の魂を受け入れるには、大きな空洞を持つ者が必要なのだ」
「それが私ということなのですか」
入彦は半身を起こしている。
「少なくとも、大日はそう信じているということだ」
さて、と靫翁は口調を改めた。
「非永の世の都合に予の力を利用されるなど、虫唾が走ること甚だしいが、予もかつて非永であった身。それも大日の頼みとあっては致し方ない。汝の中にどうやら大きい空洞があるらしいことも分かったことであるし、予の荒魂を一剋、貸し与えてやるとしよう。その鏡は五百箇が鋳ったものであろう。であれば、秘められた呪力は十分のはず。予の魂の霊力を、写し取ってみるがよい」
靫翁の背後に、再び八雷の姿が浮かんだ。八つ雷精はさきほどのような荒ぶりを見せず、入彦が構えるであろう鏡の呪力に捕らわれるのを静かに待っている。しかし、入彦は手にした青銅の神獣鏡を見つめるだけだった。
「どうした。予に啖呵をきった汝が、いまさら臆したわけでもあるまい。地祇たる者がみずから非永に力を授けるなど滅多にないことぞ。予の気が変わらぬとでも思っておるのか」
「そうではありません」
「ではどういうことだ。地祇の剋は短くはないが、気は決して長くはないぞ」
入彦はうつむき加減だった顔を上げて、靫翁こと大物主にまっすぐな視線を向けた。
「私に偉大なる大物主の力を受けれる器量が備わっているとは思えません。しかし父がそう信じた以上、私も信じたいと思います。しかし、私に貸し与えられるべき魂は、荒魂ではないと存じます」
入彦が心中を伝えると、靫翁は大声で笑った。雷の轟きのようだった。
「多くの非永は荒魂を欲する。予の力があれば、天孫族を打ち砕き、この山門の主となることもできる。だが、汝はそれを欲せぬと言う。ならば尋ねよう。汝は何を望む」
「私は、山門の人々も、天孫の人々も、共にこの地で豊かに暮らしていける明日を望みます」
大物主は、今度は細波のように笑った。八雷の姿は消え、大物主の表情には無限の優しさが表れた。目の深みが、宇宙のようだ。
「さすがに大日の子よ。わかった。汝は予が和魂を欲すると申すのだな。だが和魂は、それこそ予そのもの。これを一剋でも貸し与えてしまえば予の精神は崩壊し、荒魂が暴走してしまう。ゆえに、汝には予の幸魂を授けよう」
大物主は腹に手を当てた。指の隙間から光が漏れ出し、大物主の手は腹中から燦々と輝く光の球を取り出した。
「さぁ、鏡を取り、心構えを整えよ。幸魂は荒魂ほど暴れん坊ではないが、力の大きさということでは同じもの。なまなかな心構えでは、いかに五百箇の鏡であろうと砕け、汝は幸魂の中に溶け消えてしまうであろう」
「お待ちください、大物主よ。あなた様はこれほどのすばらしい力を持ちながら、なにゆえ、磯城族が山門に圧迫されるのを見ておられたのですか。磯城族は、なぜあなた様の力を借りて山門の圧迫をはね除けようとしないのですか」
「ふふ、山門と磯城が激しくやりあっていた時期もあったのだがな。詳しくは、汝の父に尋ねるがよい。ゆくぞ」
輝く光球が大物主の手から放たれ、目を開けていられない眩しさで、入彦を包み込んだ。もしも入彦が幸魂を受け入れることができなければ、彼はこの眩しさの中に消え去ることになる。
「豊」
「御統」
二人は同時に肩を揺すりあった。
魁偉な蜷局を巻き、目を閉じて彫像のように静まっていた大蛇が、俄に激しく輝き始めた。その輝きは、はじめ腹部の辺りに発し、大蛇の全身に広がり、あたかも新しい日がそこに誕生したかのような煌々とした輝きを放った。
やがて輝きが鎮まり、眩しさに奪われていた視界が回復すると、御統と豊の前に、入彦が立っていた。
「兄ちゃん」
「入彦」
御統と豊は、入彦に駆け寄った。
「心配をかけただろうが、神奈備入りは終わった」
「うまくいったんだろう」
「まぁな。しっかりとこの鏡に、大物主の霊力を写し取った」
「靫のおっちゃんは」
御統に尋ねられて、入彦は後ろを振り返った。闇の中でそこに立っていたはずの靫翁はもういない。
「しばらくいなくなるといっていた。二人によろしくと」
輪熊と鹿高、そして輪熊座の座員にもよろしく伝えるように頼まれていた。四つの魂の一つを入彦に預けた大物主は、魂の調整が乱れ、しばらく靫翁の姿を保持することができなくなるとのことだった。
闇の中、幸魂を自分に託してくれた大物主に、入彦はこう言った。
「明日の山門が、皆が幸せに暮らせる大地になりましたら、この幸魂は必ずお返しします」
すると大物主は笑った。
「そうしてもらわねば困るが、かといって急ぐものでもない。幸魂を汝に貸すのは、予にとってはほんの一剋のことだが、汝にとっては人生に等しい長さになるであろう。ついでに、明日などとしみったれたことを申すな。山門の未来を拓け、入彦」
大物主の言霊が、入彦の心の奥で鳴り響いている。
入彦の目に映る空が青い。大蛇に呑まれたのは、確か夕まぐれのことだった。
一夜が明けたと言うことだ。急がなければならない。
「御統、豊。二人も疲れているだろうが、私は父のもとへ駆けつけたい。力を貸してくれるか」
入彦は、御統と豊の顔を交互に見た。二人の答えはすでに分かっているような気がするが、それでも二人の声が聞きたかった。御統と豊は顔を見合わせてから、軽く息をついた。
「そんなの、当たり前だろ」
「ほんと、何も分かっていないのね、入彦」
二人はそう悪態をついてから、軽妙な笑い声を重ねた。
入彦は大蛇の腹の中から生まれ変わったような気分を抱いていた。新しい世界で耳にした最初の音色が、御統と豊の笑い声だ。幸先が良さそうだ、と入彦は思った。
「さぁ、山門の大地は決して狭くはない。ここから父が戦っている孔舎衛坂まですぐに行ける方法があれば教えてくれ」
「そりゃ、走っていくしかない」
御統は自分の太もも辺りを景気よく叩いた。彼の愛馬の翠雨がいれば孔舎衛坂まであっという間だが、どちらにしろ三人は乗れない。
「ほんとうに無知ね、御統。どれだけの距離があると思っているの。一里、二里の距離じゃないのよ」
豊は呆れた目で御統を見てから、得意げな顔を入彦に向けた。厳しい目つきの豊も美しいが、目を丸々と見開いた豊はもっときれいだな、と入彦は思った。ちなみに、一里はおよそ五百メートルだ。
豊が言霊を唱えると、彼女の黒衣がするすると解けた。白く眩しい四肢を露わにした豊の側に、黒い大きな木菟が現れていた。
木菟が翼を広げた。ひさしぶりに息吹を吹き込まれたらしく、彼ははやく飛び立ちだくてうずうずしていた。その背にひらりと乗った豊は、
「入彦、はやく乗って」
と言い、入彦が木菟の背に乗るや、木菟を羽ばたかせた。
「おい、まっとくれよ」
おきざりにされた御統が飛び上がった。
「あら、あなたは走っていくんでしょ。あなたの軽業は大したものなんだから、猿みたいに梢をつたっていけばどうかしら」
豊は、御統に笑い声を降らせた。
御統の頭上に降り注いだのは愉快な音色だったが、少し時間を遡った山門大宮に降り注いだのは、禍々(まがまが)しい影の群だった。
入彦が神奈備入りに挑んでいた昨夜、山門の首邑は月のない闇夜に覆われていた。邑人の多くは眠りについていたが、凶悪な気配をいち早く察知した者もいた。
輪熊と鹿高は、向かい合って果実酒を飲んでいた。輪熊座の座員の数人も大気の中に肌触りの異質さを感じ、起き出した。その中のひとりが、輪熊と鹿高に注意を促しに来た。
「ああ、分かってる。夜来る客ってのは、追っ払うにももてなすにも面倒なことだ」
「月がないなら、少々手こずるかもしれないねぇ」
「なぁに、お前のおっかねぇ面は月のあるなしに関係ねぇし」
鹿高の準備運動がてらのかかと落としをくらった輪熊は、頭頂から白い湯気を上げながら座員に指示した。
「手はず通り野郎共を配置に付けさせろ。鹿高、女子どもは頼んだぜ」
「任せな」
鹿高はしなやかな四肢を躍動させて駆けだした。
ここは山門大宮郊外の輪熊座宿舎ではなく、宮処近くの大日邸だ。出陣間際の大日から万一のときの対応を頼まれていた輪熊は、一座を連れて大日邸に出張ってきていた。邸には彼らだけでなく、大彦の家族など、春日族の大宮在住者の大半が詰めていた。
その万一のときが、来たったというわけだ。
輪熊座員の男共は、大日邸の武器庫から矛や弓を拝借し、すばやく予め決められていた配置についた。なにしろ大日と大彦が春日族の男子のほとんどを戦に連れていったため、邸内は無防備であった。少なくとも、事情を知らぬ者にはそう思えたが、実はそうではなかった。
座員は俳優に過ぎないとはいえ、輪熊座の男達である。彼らのうち古参の者は、輪熊がまだ五十茸山に集落を構えていたときからの配下で、まだ山の霊気を体内に宿している者もいる。訓練された兵士達に勝るとも劣らない戦力だった。
輪熊の威令はよく行き届いた。彼の怒鳴り声になれた座員には、この緊迫の事態も、輪熊の不機嫌なときとあまり違いがなかった。
邸内の女子どもは、鹿高が引率して、一番中央の屋舎に避難した。そこには大日の妻子もおり、勇ましい出で立ちに弓を小脇に抱えた美茉姫の姿もあった。
「殿方たちが苦戦なされましたら、わたくしたちがお手伝いしてさしあげましょう」
美茉姫がそう言うと、鹿高は高らかに笑い、屋舎は賑やかな雰囲気になった。
さて、座員の配置が済んだ。門も、塀も、高殿も固めた。塀の外には外敵を防ぐための呪言が埋められているし、外からの襲撃は十分防げるはずだった。だが、襲撃者は、空から来た。
「ふん。饒速日の天磐船は空を飛ぶというが、汚らしいもんを飛ばしてくるんじゃねぇ」
輪熊が拳骨を振り上げると、黒ずくめの襲撃者の一人が殴り飛ばされた。
輪熊の周囲が着地点だった襲撃者達は気の毒だったが、夜空からの奇襲は座員たちは混乱させた。
門や塀で防ぐことなく、いきなり邸内の複数箇所で正体も知れぬ襲撃者を迎え撃つことになった座員たちは、負傷者を続出させた。襲撃者には呪術者も含まれており、夜陰を火箭が飛び交い、雷が落ち、鎌鼬が暴れた。
「饒速日の正体は火明とも言うねぇ」
黒い襲撃者を十人ほど蹴り飛ばした鹿高は、女子どもが避難する屋舎の前でそんな伝承を独りごちた。火明、つまり隕石のことだ。饒速日は天磐船という堅牢な船で山門川を遡ってきたのだが、権威を増すためにそんな伝承を作ったのだろう。ただし、伝承がすべて作り話だとは限らない。
「それで結局のところ、饒速日は大日が邪魔なんだね。どうしてかねぇ、あんなに山門のために働く男もいないだろうに。それに妻子をさらっても、大日は余計に腹を据えるだけだろうが、どう思う?あの男は怒らせると面倒じゃないかねぇ」
鹿高は、物陰でじっと立っている襲撃者の一人に問いかけた。
「そんなにあっさりとこちらの正体と目的を見抜かれたら、ちょっと切ないんだけどね、お姐さん」
物陰から現れた襲撃者は、魁偉な体を持っていた。もちろん黒ずくめだ。大きな黒い塊だ。輪熊よりは一回り小さいかもしれないが、決して引けを取らない怪力を秘めていることは疑いようがない。そのくせ、音もなく着地したところをみると、敏捷性が高いのだろう。すばしっこい輪熊と思えばいいのかもしれないが、それを想像した鹿高はげんなりした表情を作った。
鹿高は、黒い塊をいきなり蹴飛ばした。その蹴りを飛び下がって交わした黒い塊は、挑発的な笑い声を立てた。
鹿高の髪の毛がざわざわと逆立った。髪だけでなく、四肢や頬にも毛が生え、指先は蹄となって獣人のような姿になった。この姿から放たれる蹴りの一撃は、非永の姿のときの比ではない。
黒い塊は、文字通り砕け散った。しかしそれは闇を払ったような手応えのなさだった。
「なんだい。本体はそっちだったのかい」
鹿高が見上げると、母屋の屋根にうずくまっている影がある。鹿高が蹴り砕いたのは幻影に過ぎなかった。
「なめた真似をされると、怒りを抑えられなくなるんだけどねぇ」
鹿高が本来の姿を現した。光輝を放つような毛並みの牝鹿だ。しなやかで美しい姿ながらも、秘められた強靱な力が漲っている。母屋の屋根の黒い塊は感嘆の声をあげた。
粟立った肌のように、鹿高の周囲の土に無数の小さな突起が現れた。と思うや、無数の草が生まれ、緑の穂先を鋭利にして屋根の上の黒い塊をめがけて飛びかかった。黒い塊は白刃を一閃させて草の槍を切り払うと、すばやく体を飛ばして、着地した。そこを強烈な鹿高の蹴りが襲う。
白刃が数個の光の欠片となって飛び散り、黒い塊は激しく転がった。
「まったく、地祇ってやつは手に負えねぇな。まぁ、おれの親父もお仲間なんだがね」
黒い塊は、まだ若干の余裕を残した口調でそう言うと、月光もないのに煌めくものを取り出した。その煌めきに危険を感じた鹿高は、女子どもが避難する屋舎を守るように後ずさった。
「ちょいと乱暴なことをさせてもらうぜ」
煌めく鏡を構えた黒い塊が呪言を唱えると、禍々しい赤の光が鏡面から奔出した。
赤い光はたちまち巨大な八首の大蛇となって現れ、その巨体で母屋を踏み潰した。
「八岐大蛇とはね」
鹿高は全身の鹿毛を逆立てた。屋舎から様子をうかがっていた女こどもたちが恐怖の声をあげた。
「大丈夫だよ。あの化け物を近づけさせはしないよ」
深く澄んだ目を向けて、鹿高は女こどもを落ち着かせた。
「たしかにこいつは化け物だが、おれにとっちゃ、あんたも十分に化け物なんだぜ」
黒い塊は呪言で八岐大蛇を操り、一岐の鎌首で鹿高を打ち据えようとした。その一撃は飛んで避けたが、屋舎のすぐ前まで追い詰められた鹿髙は窮した。次の攻撃をかわせば、大蛇の鎌首は屋舎を破壊してしまう。攻撃を受け止めなくてはならないが、月のない夜だ、鹿高の脚力にそこまでの力はなく、草の槍も大蛇の皮膚を貫けそうもない。それでも鹿高は、冷静な眼を忘れない。
「八岐大蛇を連れ出してくるとは、あんた、ずいぶん遠くから来たんだねぇ」
鹿高は、黒い塊の正体をあらかた見極めた。
「ねぎらいのお言葉、痛み入る。地祇を殺すって作業はなかなか難しいが、やってみよう。少々の巻き添えは覚悟してくれよ」
不敵に笑った黒い塊が大蛇に命ずると、八岐の鎌首が鬼灯のような赤い目を光らせ、頬を膨らませた。咬み合わされた牙の隙間から、細い水流が勢いよく噴出している。
「八岐大蛇が水神であることは、あんたなら知っているだろう。山をも押し流す大水でこの邸ごと流し去ってやろう」
黒い塊が嗜虐と残虐を重奏させた笑い声を高らかにあげたが、その笑いは彼と大蛇の背後から急速に迫ってきた圧迫感に消し飛ばされた。
輪熊だ。
母屋を飛び越えてきた輪熊は、拳骨を固め、渾身の力を込めて大蛇の横っ面を殴り飛ばした。
輪熊は非永の姿の時も巨体だが、本体はさらに大きい。しかし鹿高と同じように、月の霊力のない夜では、八岐大蛇に比べれば大人と子どもの背丈だ。それでも輪熊の怪力は、巨大な大蛇を邸の外まで殴り飛ばした。大水を吐き出す直前だった大蛇は、大量の水を噴流させる勢いも加わって、随分遠くまで飛んだ。
「山をも流すだと?おれ様なら山をも殴り飛ばすぜ」
怒髪天を突く形相の輪熊は、黒い塊を睨み付けた。
「地祇をまとめて相手にはできねぇな」
潮時をさとった黒い塊は、合図の口笛を高らかに響かせた。邸内に散らばっていた襲撃者達は、その音色を聞くと、手はず通り四方八方に散って、山門大宮の邑中を荒らし始めた。
邑中には、当然、邑人が暮らしている。輪熊が殴り飛ばした八岐大蛇が爻わり門外の市の辺りに落下し、巨体を起こしてそこで暴れ始めた。大日邸内で始まった狂騒が、大宮中に拡散した。黒い塊の姿は、すでにない。
「やつら、一体何が狙いだ」
輪熊は牙を剥いてうなった。
「なんだが面倒なことになりそうだねぇ。ともかくも、やつらを追っ払っちまわないと、迷惑するのは弱い人だよ」
鹿高はもう人の姿に戻っている。
「ちっ。こりゃ大日が戻ってきたら大目玉くらうぞ。あの蛇団子はおれ様がなんとかする。おまえは野郎ども連れて、邑中に散った奴らを片付けてくれ」
頷いた鹿高は、輪熊に伝えた。
「出雲が一枚噛んでやがるよ」
「ってことは、あの黒団子は出雲族ってことか。おっかねぇ話だな」
輪熊と鹿高は視線を交わしあってから別れた。
邸内は急激に静かになった。そのぶん、邑中が騒がしくなったが、ともかくも一難が去った安堵感があった。
「こどもたちは引き続きこの屋舎にいて。女性達は負傷した人の手当をしてください。残った殿方たちは申し訳ありませんが、警備を続けて下さい」
輪熊と鹿高がいなくなった邸内では、美茉姫が責任者を買って出た。彼女自体がまだ子どもに近かったが、その指摘を巧みに退けつつ、髪を巻き上げ、袖をまくって弓を小脇に挟んだ勇ましい出で立ちで、邸内を見回った。
「気を抜かないで。賊がまだ潜んでいるかもしれませんよ」
美茉姫は邸内の人にそう声を掛けて注意を促したが、それは彼女にこそ向けられるべきものだった。その潜んだ賊というのは彼女の用心深さの産物に留まらず、本当に潜んでいた。そしてその賊の目は、じっと美茉姫をうかがっていた。
美茉姫は護衛を付けるべきだったが、彼女は負傷者の手当や賊の再侵入の防ぎに人手を割いてしまった。自分の身は自分で守れるという自信があった。隙というものは、そんなところに生じるのだ。
潜んでいた賊が美茉姫に襲いかかったとき、その現場を目撃した目はなく、その短い悲鳴を聞いた耳もなかった。
美茉姫の危機に、駆けつけた者が誰もいなかったわけではない。しかし残念なことに、駆けつけた者は、輪熊一座の中でもっとも頼りにならないと目されていた存在だった。
如虎だ。
虎の如し、という勇ましい名前をもらった黒豹だが、如虎という普通名詞は、実は猫のことだ。虎のように獰猛な豹ではなく、猫のようにおとなしい豹なのだ。
御統の手を借りて輪熊座から豊に譲られた如虎は、主の神奈備入りには同行していなかった。
輪熊座の所属から外れた如虎は住み慣れた檻を出て、彼よりも獰猛な子馬や猿などからの視線を気に病みつつ、邸内を自由に歩いていた。といっても臆病な彼は、大概は人気から外れた木影で身を横たえていることが多かった。
今夜も、彼独特の感性で早くから危険を察知しており、邸内の藪の中に身を潜めて嵐が過ぎ去るのを待っていたところだったのだ。
ところが、嵐の足音が遠くなったときに、彼の目前で、嵐の余風が美茉姫をさらったのである。
さらわれかけているのは新しい主人が親しくしている少女だ。しかも彼女は、見た目は恐ろしげな自分にいつも笑顔を送ってくれていた。
獣にも、雄としての男気がある。
如虎は藪から飛び出し、黒衣の襲撃者の尻のあたりに噛みついた。
だが、敵地に一人残るよう指示された襲撃者は冷静だった。自分の尻にぶら下がっているのが黒豹だと知っても驚きも戸惑いもせず、呪言を唱えた。如虎は棍棒で殴られたような衝撃を受けて、土の上を転がった。
襲撃者は如虎にとどめを刺すよりも、眠らせた美茉姫を抱えてこの場から離脱することを優先させた。
そうはさせじと、如虎は、襲撃者の肩に担がれた美茉姫の衣に飛びついた。だが、さきほどよりも強烈な衝撃を受けて、如虎は地面に叩きつけられた。小さな鳴き声をあげて、如虎は動かなくなった。
夜明け前、大宮の騒動はあらかた落ち着いた。
一時、邑のあちこちで火の手が上がり、特に八岐大蛇と輪熊が暴れた爻わり門外の市の辺りは大いに燃えさかったが、大蛇が鏡に収容されるとすぐに鎮火した。
宮処の高楼から眺めていると、輪熊一座の統率された動きは、訓練された軍隊に劣らなかった。輪熊座を事前に宮内に呼び寄せていた大日に、まずはうまく防がれた格好になった。だが、それも登美彦の手のひらの上のことだ。
「いやいや、地祇の相手ってのは、骨が折れるぜ」
高楼内の秘めやかな空気を破ったのは、輪熊から黒団子と呼ばれた人物だ。
「お疲れ様でした、御名方殿」
登美彦は振り返りもしない。
「だいたい上手くいったと思うが」
「上々ですよ」
ようやく登美彦は御名方に目を向けた。
「鹿の方は、おれの正体に気づいたようだ」
「まぁ、大蛇を出してはね」
「まずかったか」
「いえいえ、予定通りです。ただ、出雲にはしばらく汚名を着てもらうでしょう」
「構わん。おれが汚れるわけじゃない。まぁ、とっくに汚れてはいるがな」
御名方は黒衣についた汚れや煤を払った。
「ところで、注文通り、女童を運んでおいた」
「さすがです」
「お前さんに、娘子嗜好があったとはな」
軽口のつもりだったが、向けられた視線に重い棘を感じた御名方は弁解した。
「おれだって、か弱い娘に向ける情けぐらい持ち合わせているんだぜ」
「それは存じ上げませんでした。今後もお付き合いさせて頂く仲です。他に私が知らぬことは」
「どうだろうな。お前さんが女なら、ゆっくり教えてやることもできただろうぜ」
「男の友情というものも育みたいものです。ともあれ、今夜はお疲れ様でした」
「こっちの下準備は済んだわけだな。なら、おれはおれの準備にかかるぜ」
「お願いします。もう少しで、あなたの六合が手に入りますよ」
「ま、その日を愉しみにしておくとするさ」
御名方が高楼から姿を消すと、入れ替わりに登美族の男が上ってきた。
登美族の男の報告は、登美彦に冷たい笑みを浮かばせた。
三輪山の方角で、激しい光が一晩中輝いていたという。
「兄上も、さすがに手が早い」
その後の登美彦の表情は、登美族の男が目を背けるほどの鬼気をまとっていた。
入彦は神奈備入りを成功させ、大物主の幸魂の霊力を手に入れた。
一方、山門大宮では登美彦の悪謀がうごめき始める。
山門諸族と天孫族の命運を決する孔舎衛坂の戦いの決着の時は近づいていた。