山門編-失われた天地の章(14)-昔日(4)ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の少年、俳優 の御統 は、山門大宮への道中で黒衣の美少女、豊と出会う。剣呑としていた豊は、やがて純朴な御統との距離を縮める。山門大宮では、輪熊座は御言持の大日の歓迎を受ける。豊は秘した宿願を果たすため大日に接近する。大日は豊を嫡男の入彦に仕えさせる。豊を追って入彦の邸に向かう御統。そのとき、御統の白銅鏡が光を奔出させ、巨人の姿となって暴走する。御統は土牢 (ひとや)に捕らえられる。
神祝 ぎの馳射で春日族の旗頭となった入彦は重任を負い、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。豊の幻術で御統を身代わりに立てるはずの入彦は、父の大日の期待に応えるべく出場を決意する。御統も春日族の騎手になりすまし、彼の活躍によって登美族との勝負は互角となる。馬場では禁忌の実刃の鏃が用いられ、その凶矢から入彦を守った石飛は重傷を負う。勝敗は矢馳馬に委ねられ、戯馬 (たぶれうま)を大得意とする御統が吉備彦との矢馳馬を制する。
神祝ぎの馳射は春日族の勝利となるが、御統の軽はずみの言動から春日族は不正を疑われ、紛れ込んだ実刃の鏃の件も含めて山門の朝庭で審議される。誓約の鏡猟で神意を問うこととされ、美茉姫と共に鏡猟の斎に選ばれた豊は、春日族の族人となるため、入彦の妾となる。豊になついている黒豹の如虎を輪熊座から譲られ、いつのまにか大切な友人が増えていた豊は、彼女の宿願と一族の恨みの闇に思いをはせる。そんな豊の前に黒々とした影が現れ、一族の恨みと苦しみをささやく。
一日、山門大宮の郊外で、御統は登美彦と邂逅する。短い時間とわずかな会話に、二人は余人には知れない感傷を抱く。
鏡猟では美茉姫と豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが激しい攻防を繰り広げる。登美族は夜姫の凄まじい呪力で春日族を追い詰めるが、豊の幻術に誑かされ、春日族の勝利となる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、焔の化身となって会場を炎で呑み込む。大混乱となり、豊が御統から借りていた白銅鏡から天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。前代未聞となった鏡猟が新たな火種となることが懸念されたが、それを上回る脅威が山門に迫っていた。
鉄で武装し、天孫を号する天孫族が日下の楯津に上陸する。居丈高な天孫族の使人を退けた大日だが、彼らが提唱する水稲稲作に魅力を感じる。山門は交戦か和平かで紛糾し、山門主饒速日は決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟していたが、大日から時期外れの磯城族への神奈備入を命じらせる。大日の巧みな軍立てにより、天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。
およそ二十年前、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、饒速日を氏上とする斑鳩族と磯城族の戦いの激化を避けるため、饒速日の本陣を訪れ、停戦の条件を聞き出す。饒速日の目的が五十茸山に生える災いの果実、剋軸香果実の撲滅であることを知った四兄弟妹は、果実を発見し、持ち帰ることを請け負う。四兄弟妹は友人の五百箇の助けを得て、五十茸山へ向かう。そこで彼らは雄偉なる地祇の争いに巻き込まれる。
大山津祇と鹿屋野姫の知己を得た四兄弟妹は地祇の争いを収め、五十茸山中の大山津祇の邑に入る。そこで剋軸香果実のことを切り出すが、大山津祇は取りつく島もない。四兄弟妹は大山祇を出し抜く計画を立てる。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。若き日の名は安彦。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。若き日の名は陽姫。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
草原は輝いていた。空はよく晴れて、草露に蓄えられた日の光は、風が吹くたびに緑光の細波を立てて広がった。
大日は、大きな榊の木を見上げた。通常の榊は低木だが、これは木影に数人が憩えるほど高く大きい。緑の葉に生えた白い花を見ながら、鹿屋野姫が話していた大境木はこの木のことだろうと思った。神事に使われることから榊と書かれるこの植物は、神と人との境界を定める境木でもある。
隆起した逞しい根が、まるで境界線を引くように伸びている。この根を越えるということは、つまり山の王と草の女王との境界を越えるということだ。
先頭を大男が行く。胸元に三日月がある輪熊だ。その後に、猿のように毛深い男、山犬のように目のつり上がった男、猪のような鼻をした男、鷲のような口をした男が続いていく。最後尾にいるのは、磯城の子らだ。
道はもちろん、径もない。草の海原を渡っていくのだ。全員の衣服は草露に濡れた。左手には水面を輝かせる草の川が流れており、時々、魚が跳ねた。その川に沿って、一行は進んでいく。
やがて盛り上がった濃い緑が見えてきた。常緑の木々に覆われた小高い丘で、片足を草の川に洗わせるような居住まいをしている。五十茸山から連なる隆起からは完全に独立した大地の膨らみである。
濃い緑の中に入っていく。木漏れ日と木影が鮮やかに対比して、日光が当たるところでは、水蒸気の白い粒子がきらきらと光っていた。
大日が見る限り、この森は檜や杉が多く、ブナ科のような果実を実らせる木は少なかった。この森に暮らす獣たちが、豊かな果実を供給する五十茸山の森に羨望のまなざしを送っていることは、容易に想像できる。
二本の大木が、はるか頭上で手を添え合うように枝を交差させている。自然の鳥居を抜けると祭壇のような形の大岩があった。その周りには花衣を着た女性達がおり、祭壇岩の上には、木漏れ日をまとった女性がいた。
「よく着たね」
それは鹿屋野姫の声であったが、雌鹿の姿ではない。すらりと伸びた四肢と豊かな膨らみを持った妙齢の女性の姿だ。
美しい。野生の、命の躍動がほとばしるような美しさだ。大彦と大日は、自分の感覚の中で、両目と心臓が飛び出した。女神の降臨もこれほどの眩しさではない、と二人には思われた。
「やい、鹿高。せっかくおれ様が来てやったんだ。さっさと降りてきて、なんぞ馳走でもすればどうだ」
輪熊は、輪熊らしく開口一番に食い物をねだった。鹿屋野姫は、人の姿のときは、鹿高と呼ばせている。
「ふん。あんたなんぞにくれてやるものなどないが、磯城の子らは疲れたろう。この森に湧く泉は甘くてね、ご馳走してあげるからこちらへおいで。おい、輪熊、あんたにも相伴させてやるからついてきな」
そう言って、鹿高は祭壇岩の向こうへ姿を消した。
「あん、泉の水だと。そんなもんいるか」
と、喚いていたくせに、いざその泉の水を飲むと、何杯もおかわりを要求した。喉が渇いていたし、なにより、確かに美味い。
「おい、輪熊。泉が干あがっちまうじゃないか」
苦笑しながらも、鹿高は新しい甕を持ってくるように配下の女性に命じた。
ここは祭壇岩の裏だ。集ったのは輪熊とその配下、鹿高とその配下、そして磯城の子らだ。同じ数だけの切り株が置いてあり、縦半分に切った丸太が卓子代わりに横たえられている。待つ間もなく、鱒、川海老、川蟹などを使った料理が並んだ。大彦と夜姫は歓声をあげたが、大日は鹿高を見つめていた。安彦は、静かに座っている。
「おいおい、ちゃんと用意してやがるじゃねぇか」
輪熊は派手な舌鼓を鳴らしながら、出される土器を次々に空けていった。
「磯城の子らのために用意しておいたのさ。あんたはその相伴だといっただろ」
そんなぼやきなどもはや耳に入らない輪熊を横目で見た鹿高は、目を反対に流して磯城の子らを見た。
「末の男童は食欲がないのかい」
鹿高が安彦を案じるような顔をしたので、大彦と大日はどきりとした。
安彦は、静かに切り株に座っている。精巧に形作られているが、これは土人形だ。埴土の呪いで生きた人と見紛う振る舞いをしているが、ものを食べる機能までは備えられていない。
「ええ、少し疲れたようです」
大日は逃げ口上を構えたが、鹿高は柳のような眉の間を曇らせた。
「それはいけないね。輪熊のところに泊まったりしたから、身体を悪くしちまったんだね。どこか涼しいところで休ませておあげ」
鹿高が配下の女性に指図しようとしたから、大日は慌ててその好意を辞退した。
「大丈夫なのかい。表情もずいぶん硬いようじゃないか」
「いや、もともと弟は表情に乏しい人間でして。土をいじってばかりいるから、顔も土気色になっちまったんです」
大彦は適当なことをいって誤魔化し笑いした。
「それよりも、大事な話をいたしませんか、鹿屋野姫様」
大日は、安彦への話題を逸らした。
「この姿のときは、鹿高と呼びな。様なんかつけるんじゃないよ、面倒だからね。姐さんと呼んでくれもいいよ。うちの子らはそうしている」
「おれは、お頭、だな」
聞いてもないのに、輪熊が口を挟んできた。
「では、姐さん。お頭も。そろそろ、お話をはじめましょうか」
大日はそう言って、自分の前の土器を片付けた。
「いいぜ」
「うちらもいいよ」
こうして、時折は輪熊の怒声と鹿高の皮肉を応酬し合いながらも、大日を取りまとめ役にした山の眷属と野の眷属との話し合いは平和的に進んでいった。
一方、安彦の行動は、のどやかとはいかなかった。
兄妹と密かに別れたこの日の夜明け前から、まるで病気にかかったような倦怠感が安彦の四肢を重たくしていた。耳の奥では、安彦を呼ぶ声が居座っている。兄妹に託した自分そっくりの土人形よりも土気色した顔で、そのくせ、これからやるべき行動を取りやめる気には全くならなかった。むしろ、焦燥感が安彦の気持ちだけを前方にひっぱるようにして彼を急き立てた。
焦燥感の正体は、自分の役割を無事果たせるかどうかという不安ではない。災いの果実が、自分以外の誰かの手に落ちるのではないかという恐怖だった。磯城族と斑鳩族との戦いを止めさせるという目的を忘れてはいないが、それよりも無尽蔵の呪力を秘めるという剋軸香果実をこの手に掴みたいという欲望に突き動かされている安彦だった。
輪熊の集落の外れから五十茸山の森に入ると、たちまち径を失った。濃い山気が白く視界を隠している。それでも迷いなく、安彦は山を登っていく。
目など、閉じてしまっても構わないほどだった。安彦には、剋軸香果実が実っているという石の森への道筋と方角が、誰かに手を引かれているかのようにはっきりと分かるのだ。
尾根に出た。山気がわずかの間だけ晴れ、安彦の眼下に雲海を見せたあと、ふたたび視界を白く閉ざした。
行くべき方角は分かっている。姿のない案内役の後ろをついていくような安彦の足取りだった。
安彦を誘うものの姿は見えないが、見えるものもある。それは白い視界に突如現れる大木の幹であったり、さまよう山霊であったりした。低位の山霊であれば祓う程度の呪力は安彦にも備わっているが、中位程度の山霊であれば少々面倒なことになる。清めた塩を身体にこすりつけている安彦の姿は山霊には見えないが、気配は悟られる。
安彦は、小型の鐸を取り出した。軽く振ると、軽妙な鈴の音が立った。ただし、安彦から遠く離れた場所で幻音を奏でるのだ。山霊は、鐸の音に吸われるように、安彦とは反対方向へさまよっていく。
霊的な脅威は鐸の音色で回避したが、物的な脅威は銅の短剣で撃退した。輪熊の影響下にある獣はめったに人を襲わない、と輪熊の岩室にいた女性の一人に聞いていた。輪熊の影響下にある獣たちは、人を非永として穢れと考えているからだ。だが、輪熊の影響下にない獣も棲んでいるらしく、ときおり安彦に襲いかかってきては、銅剣に傷つけられて退散した。そんな狼や狐などの獣は、みな正気を失ったような目をしていた。山気を吸う生活をしているうちに、精神を病んだのだろう。つまり安彦も、いつ正気を失うか分からないということだ。いや、安彦は気づいていないが、彼はすでに、五十茸山に来る前の彼とは違っていた。
白い視界に、突如、黒々とした大影の群が現れた。大影はそこでじっとしているのに、まるで押し寄せてくるような迫力があった。
恐る恐る、大影に触れてみる。ひやりとした固い感触。目をこらせば、それは石柱だった。石柱が無数に屹立しているのだ。石柱は上部へ行くほどに突起物を前後左右に突き出しており、まるで大樹が石化したような姿をしていた。
石の森にたどり着いたのだ。
安彦が気づかない程の緩やかさで風が巻き始め、少しずつ山気を払っていった。石の大樹の梢に、青空が見えた。
やがて一帯が晴れ渡った。
深い深い石の森だ。石柱を調べるうちに、やはり一本一本が大樹であることが分かった。根があり、幹には樹皮の跡がある。石が地中から伸びたのではなく、森が石化したのではないかと、安彦は考えた。石の大樹の合間に、獣の姿のようなものもあった。人に似た石を見たときには、安彦はさすがに血の気を引いた。そして森を進むうち、人型の石は獣型の石よりもずいぶんと多いことも分かった。
幕を開くようにして、山気が消えた。五十茸山の頂上付近らしく、石の森の周囲には、ただ空が見えるだけだった。
ふと肩を叩かれたようにして振り返り、安彦は息をのんだ。
巨大な石の花が天空に向かって咲いている。花弁は七つ。これが輪熊の話していた七つ子石だ。花冠の中心に、虹色に輝くものがあった。
「剋軸香果実」
安彦はそう確信した。
七つ子石に歩み寄る。花冠を見上げると、背丈の数倍はある。しかし、石の花茎には、まるでよじ登ることを促すような突起がいくつもあった。それをつたえば、螺旋状に花冠の中心まで行けそうだった。
安彦が花茎に足を掛けたとき、俄に氷雨が降り注いできた。まるで氷の粒のような冷たさの雨だ。同時に、低い声が安彦を呼び止めた。
「何の代償もなく至高の大宝が手に入ると期待するほど愚かでもあるまい」
花茎に掛けていた足を下ろした安彦は、振りかえり、石柱の一つに巻きついた白蛇を見た。赤い目と赤い舌が嫌悪感を掻き立てる。
「ようやくおでましか」
「ほう、われに気づいていたと申すのか」
気づいていたとは言えない。ただ山気に入ったときから、そんな予感がしていただけだ。
「この森の番人というわけか」
「神の森の審問者と言ってもらおうか」
白蛇が赤い舌を震わした。
「汝は永遠の実を求めてやってきたのだろう。剋軸香果実とも、下界の者は呼ぶらしいが」
「上界の蛇様にお尋ねしよう。代償とはなにか」
安彦はさっさと話を進めようとした。妖魔はまず言葉で人を幻惑する。話に引き込まれてはならない。
「ふふふ、非永はせっかちでいかん。だが、いい。それが非永の非永たる愚かさだ。代償は、汝自身の変化だ」
「変化、だと」
「非永は、それを、とき、と呼ぶがね。この世界に、ときなどは存在しないのだよ。ただ、変化があるだけだ」
「変化を差し出す。つまり、代償はおれのときというわけか。なるほど、ここにある人型の石は、果実を求め、ときを奪われた者のなれの果てか」
氷雨が安彦の身体をぬらし続けている。凍えそうな冷たさだ。少しずつ四肢の感覚が奪われていることが分かった。このまま氷雨を浴び続ければ、安彦も石の人と化すのだろう。
「なかなかに察しが良い」
「だが変だな」
「なにか粗相があったかな」
「代償というからには得るものがあるのだろう。石にされてしまっては、こちらの一方的な損害だ。話が矛盾している」
「そうでもないぞ。石となった非永は夢を見ておる。永遠の実を手にし、栄華を極める夢を永久に見ることができるのだ」
おぞましい呪いだ。安彦は唾棄したくなった。
「おれは夢でなく、現実の果実を手に入れたいのだがね」
「俗なことを言う。まぁ、それも非永の業というものか。現実の果実を手に入れたくば、一つの試練を超さねばならん」
「よく聞く話だ」
安彦は、わざと肩を揺すって哄笑した。
「確かに月並みのもてなしを恥じ入るばかりだが、それでも茶化すものではない」
「…それで試練とは」
「なに簡単なことよ。この石の森の中に三柱の神がいる。それを探すだけだ。だが急ぐが良いぞ。すでに察しておろうが、この氷雨はただの雨ではない。永遠の実が降らしている呪いの雨だ。濡れ続けると石になるぞ。ふふ、そして永久に永遠の実の栄養となるのだ」
なるほど、と安彦は得心した。つまり、七つ子石は食虫花なのだ。呪力に優れる者を甘い誘いで呼び寄せ、石にして栄養分としているのだ。
安彦は石柱の群の中から三柱の神を探した。身体が徐々に重くなってくる。
「神を見つけたなら、我に高らかに告げるがよいぞ」
草地を這いずりながら、白蛇が後ろを付けてくる。
三柱の神とは何か。それをまずは考えなくてはならない。
この天地の創造神たる造化三神は天之御中主、高御産巣日、そして神産巣日だが、この三柱は姿のない神だ。姿のないものを探すということはない。
では、天神地祇か。天津神と国津神。それぞれを象徴する姿をしている石柱か。しかしそれでは二柱だ。
いや、待て。輪熊は言ったではないか。非人も神になりうると。
安彦は、明確な意図を持って石の森を走った。
両手を突き上げた人型の石があった。天を支えている者の姿だ。
「これがひとつめの神だ」
安彦が宣言すると、白蛇は笑って舌を揺らした。正解と言うことだろう。
地に両手を添えた人型の石があった。大地を慈しんでいる者の姿だ。
「ふたつめの神はこれだ」
安彦の声に、白蛇は同じ反応を示した。
そのあと、特に急ぐ素振りもなく七つ子石の根元まで戻った安彦は、自分自身を指さした。白蛇の赤い目の光が増す。
みっつめの神は自分自身である、と宣言すれば試練を超すだろう。だが、安彦はそれを宣言しなかった。
小さく笑い始めた安彦は、すぐに身体全体を揺すって笑い出した。白蛇が赤い目に鈍い怒りを点した。
「上界の蛇様よ。なかなかに下手な呪いを施したものだ」
安彦は七つ子石の花茎に寄りかかって身体を支えた。強がった風を装っているが、氷雨が力を奪い、立っているのも辛くなっている。
「おれに、言挙げさせようというのか」
言挙げは、言葉に出して言い立てることである。呪いの基本中の基本だ。言挙げることにより、言霊の力を発生させ、言い立てたとおりの結果を招くのだ。通常の人であれば何を言い立てようと言葉は言葉のままだが、永遠の実の声が耳に届くほどの呪力を持った者であれば、言挙げは効果を発揮する。もしも安彦が自分自身がみっつめの神であると宣告していれば、他の二つの神の姿をした石像と同じように、永久にときを失っていただろう。
「まったく小細工を考えたものだ。試練などと言っておきながら、その実、捕らえた餌を罠の外へ出したくなかっただけのことだろう」
そうなのだ。氷雨に濡れると石になるというのなら、氷雨の外へ出ればよい。そうさせぬために、甘い言葉で罠の中に留まらせようとしたのだ。二重に張った絡繰りだが、種はいたって子供だましである。だが、子供だましの方が得てして引っかかりやすい。
「ふふ、そう馬鹿にしたものでもないぞ。巫女も祝者も、わりと多くの術者が引っかかっておるゆえな」
安彦はとうとう耐えきれず、七つ子石の根元に座り込んだ。
「汝も、ずいぶんと辛そうではないか。耐えることはない。石となって良い夢を見続けよ。汝には格別の夢を見させて進ぜようゆえ」
白蛇は口元をねじ曲げてせせら笑った。だが、笑い声は安彦の方が大きかった。白蛇の笑みが凍てつく。
「おれが、散歩がてらにここへ戻ってきたと思うのか」
安彦は銅の短剣を引き抜いた。
「おまえは神の森の審問者などではない。妖花の下等な根っこにすぎん。そうだろう」
安彦の視界で、七つ子石の花茎から地中に潜る根の一本が脈打っている。その根を、安彦は短剣で打った。
短剣の切っ先は折れたが、石の根に亀裂が入った。
「ふっ、鉄でなくては、傷を少々つける程度に過ぎん」
せせら笑おうとした白蛇の表情が再び凍てついた。安彦が勝軍木の短剣を取り出したからだ。勝軍木は霊木である。
「教えてやろう。物には役割がある。銅剣では石に傷をつけるのがやっとだ。勝軍木の剣は石を割ることはできんが、その内部に呪力を通すことはできる。それも増幅してな」
言い終わるや、安彦は石の根の切れ目に勝軍木の短剣を突き立てた。
安彦が全身から絞り出した呪力が剣の柄と切っ先を伝わり、石の根の中に流れ込んでいく。白蛇は断末魔を挙げた表情のまま、内部から黒い炎を吹き、燃え尽きたように消え去った。
安彦は勝軍木の短剣を放り出し、七つ子石の根元に突っ伏した。
氷雨が小降りになり、止んだ後、雲間から光が差した。その光の温かさが、安彦の身体を少しずつ和らげていく。
安彦は身体を起こした。七つ子石の花茎の突起を摑み、足を掛けて登っていく。
花冠にたどり着いた。一度、身体を横たえる。降り注ぐ陽光が心地よい。
首を横に向ける。そこに、虹色に輝く木の実があった。
剋軸香果実。災いの果実。永遠の実。
饒速日は、この果実は天地開闢以来百七十九万年分の大地の霊力を取り込んでいるという。こうして果実の輝きを見ていると、あながち誇張ではないと分かる。
安彦の全身が虹色に染まっていく。意識が果実の輝きに吸い込まれていく。虹色の輝きは、安彦の心にまで色彩を広げていく。
「そこまでたどり着いておいて、結局、妖花の餌食になっていてはつまらんだろう」
その声に、安彦は慌てて身体を起こした。
先ほどの白蛇ではない。
見下ろす石柱の間に、一頭の白猪がいた。空気の中を伝わってくるものでわかる。先ほどの低位妖霊の白蛇などとは全く違う。白猪は、明らかに神だ。
安彦は慌てて果実を掴み、あっけない軽やかさでもぎ取れたそれを胸に抱いた。
「案じずとも、そのようなものに興味はない。しかし童男よ、それをどうしようというのだ」
果実を内衣の中にねじ込んだ安彦は、口の渇きにあえぐように言った。
「おれは、この果実が豊秋島にもたらす災いを防ぎ、皆を守るのだ」
「…その果実がどれほどの災いをもたらすか、汝はわかっておらぬようだ」
「分かっているさ。天地を原初の混沌に戻し、有を無に帰すほどの災いだ」
「十が一に戻り、有が無に帰るだけのこと。なにをもって災いという」
「…妹が、兄が、父母が、磯城の人々がいなくなってしまう」
「童男よ、それが汝の災いか。なんとも見事に非永であることよ」
白猪は水晶のような目に、哀れむような、慈しむような光を浮かべた。
「その果実がどれほどの霊力を秘めておるか、存知おるか」
「百七十九万年分」
白猪は身体を揺すって大笑いした。
「ずいぶんと吹っかけたものだ。非永はときを知らぬくせに、大きなときを語りたがる。せいぜい数千年にすぎん」
百七十九万年と数千年の差が、非永の安彦にはぴんとこない。
「その果実は、実として目に見えるほどの大きさに育っては、非永の世を無に帰す。数千年ごとにその周期を繰り返している。いま、汝がその実を封じたとて、数千年後には再び実るのだぞ」
「…それでも、数千年の人の世は守ることができるということだろう」
白猪は大きなため息を落として、歩き去ろうとした。
「あなたは、この五十茸山の神なのか。この山の神は輪熊、いや大山津祇ではないのか」
安彦は、一点の影となりゆこうとする神に呼びかけた。
「大山津祇…、あの暴れん坊の小僧か。あやつは国津神にすぎん。我は天津神よ。もっとも、その違いなど、どうということもないがな」
そう言うと、白猪は、玄い狐に姿を替えた。それが正体なのかもしれないし、天津神には姿など意味がないと教えたかったのかもしれない。
「ときに童男よ。これは知らぬであろう。これまでに幾度となく非永の世を無に帰してきたその果実。その災いの発動が、いつも非永の手にもがれてからのことだということを。汝をそそのかしたのは何者だ。気をつけよ。よからぬ者の多いこの世ゆえ」
玄狐の姿は、もう消えていた。果実の魔力に取り憑かれ、夢うつつのような薄い笑いを浮かべる安彦には、玄狐の言葉は届いていなかった。
死人の永遠の夢をも覚ますような大笑いをしたのは、輪熊である。大日の仲介を得て、鹿高と満足する交易ができたのだ。これからは草の川の鱒を好きなだけ食べることができる。その代わり、輪熊の山への出入りを鹿高側に許さなければならないが、それは実際のところ、輪熊にとって痛くもかゆくもないことだった。
実は今回の交渉成立は、輪熊と鹿高よりも、その眷属たちにとって胸をなで下ろせる出来事だった。いい加減、輪熊と鹿高の痴話げんかに付き合うのは迷惑だったし、男が圧倒的に多い輪熊の集落と、女が圧倒的に多い鹿高の集落とでは、鱒や木の実以上に、互いに欲してやまないものがあった。これからは、双方の行き来は自由なのだ。
「本当によくやってくれたね。この馬鹿熊をよく言い聞かせてくれたものだ」
鹿高に褒められて、大日は締まりのない笑顔を浮かべた。磯城族にも妙齢の女性は多いが、鹿高ほどのはち切れそうな魅力を持つ女性はいなかった。鹿高の、文字通りはち切れそうなところを見ていた大彦は、鼻の下がどこまで伸びるのかに挑戦しているような顔をしていた。安彦の土人形は始終無表情だったが、このときは、安彦の感情を乗り移らせたような白眼視を兄二人に向けていた。
「ところで、鹿高の姐さん。輪熊のお頭とは、本当はどういった関係なのですか」
そこのところをはっきりさせておかなければと思う大日は、変なところで律儀者だった。どうせ片想いに終わるが、そうであろうと横恋慕は避けたいと考えている。
「ふふ、どう思う?輪熊は馬鹿で粗暴で我が儘だが、あれはあれで結構いい男なのさ」
そう言ってはぐらかした鹿高の妖艶な微笑みに、大日は立ち眩みしそうだった。
こんな具合に、鹿高の森の祭壇岩の裏側の交渉場は喧しいながらも朗らかな雰囲気に包まれていたが、ぽつりと、一粒の雨が降って、輪熊と鹿高は同時に眉を寄せた。
「山で、なんかあったな」
輪熊が言うと、鹿高も頷いた。山が天気を変える、ということがある。
「こんな冷たい雨はここいらじゃ降らないからねぇ」
そう言っているうちに雨脚は強くなり、森の木の葉に覆われていても雨粒に打たれるようになった。
「おい、野郎共、なんかよからんことが山で起こったようだ。すぐに帰るぞ」
輪熊は同行してきた配下をがなるような声で急き立てた。鹿高も、花衣を着た女たちに屋根のあるところへ入るよう指示した。この雨は、打たれれば気力を奪われる雨だ。
「お前達はどうする」
輪熊が案じた磯城の子らは、何やら挙動不審な動きで、安彦を隠すように集まっている。
「わたしたちは雨でも平気です。ここいらで、お暇させていただきます」
そう言う大彦の笑顔が引きつっている。雨は、だめだ。土が溶けてしまう。
「それでは輪熊のお頭、鹿高の姐さん、いずれまた」
そう言って、大彦と大日と陽姫は、安彦を抱きかかえるようにして走って行った。明らかに不審だったが、輪熊は何も言わず、追いかけもしなかった。その輪熊を、何か言いたげな顔で鹿高は見た。
「…やはり動き始めたらしいね」
輪熊は頭を掻いた。
「そうか、面倒なことになりそうだな」
鹿高は、五十茸山があるはずの方角を見た。雨が白い薄膜となって、五十茸山の姿を隠している。
「せっかく話がまとまったが、邑をたたむときがきたかもな」
「たたんで、どうするんだい」
「彷徨うさ。ありがたいことに、豊秋島は広い」
「大地ってのは、乗せないってところがないからねぇ」
「うちのやつらは、山気を吸っている内に半神半人になっちまったが、山から離れりゃそのうち元に戻るだろうよ」
「山から離れて、食い物はどうする気だい。行く先々で略奪かい。山賊みたいなあんたにはその方がお似合いだがね」
「馬鹿いうな。大日がいいことを教えてくれたじゃねぇか。非永どもとも交易をしてみりゃいい」
「これから浮浪しようってやつらが何を交易するんだい」
「そうだな、うちのやつらにできるのは俳優の芸当くらいだな」
そう言って鼻を鳴らした輪熊は、隣に立つ鹿高を見た。雨に煙っているが、二人の手は、密かに触れている。
「おれ様が邑をたたんだら、おめぇ、一緒にきてもいいんだぜ」
鹿高は笑った。わざと考え込むような素振りをみせてから、
「そうだねぇ。せっかく仲直りしたんだしねぇ」
そう言って、鹿高は、輪熊の毛むくじゃらの手を強く握った。
失恋を察知する能力が大彦と大日に皆無だったわけではないが、甘酸っぱい痛みが胸中に生じたとき、二人は別のことで忙しかった。
鹿高の森を抜ける頃には土塊と成りかけていた安彦の土人形を適当なところに投げ捨てた後、二人は陽姫を雨から守るようにしながら逃げていた。しばらくして、輪熊に追われていないことを知ったが、それでも三人は足を休めなかった。雨が、痛いほど冷たい。
しかし幸いなことに、雨は三人の体力を奪い去る前にあがった。空は、下界の者どもにいっぱい喰わせてやったとでも言いたげな顔をして、からりと晴れた。そんな意地の悪い空に、やがて夕焼け色が滲んだ。
三人は、五十茸山へ向かったときの道を逆に進んでいる。一番星が見えた頃、三人は木立の中で野営した。
安彦が合流するはずなので、三人は焚き火に呪いを込めた粉を振りかけた。兄弟妹だけで取り決めた色の煙が、他人の目には見えず、木立の上に漂っているはずである。
夜が更け、三人が眠りに落ちようとした頃、唐突に安彦が姿を現した。そこに血に飢えた獣のような殺気があったので、浅い夢を破られた大彦は、危うく得物の棍棒で弟を殴りつけるところだった。
「無事だったか」
大日が言うと、安彦は濁った光の目を兄に向けた。
「…なんと言うこともなかったさ」
それは兄に向けるべき声色ではなかった。人を盗人と疑うような声だ。
「それで、果実は手に入れたのか」
大彦の声を、安彦は拒絶した。声調を少し落として再び問うと、安彦はしぶしぶ答えた。
「…手に入れたに決まっている」
「そうか。どこにある」
みせてみろ、と大彦が促すと、安彦は後じさった。
「おれが持っている。兄者たちに見せる必要はない」
「なんだと」
大彦は、逞しい腕で安彦の襟首を引っ掴もうとした。大彦も数日の疲れで気が立っている。その兄を宥めて、
「そうか。よくやってくれたな。これで、磯城は戦いを免れる」
大日が座るように促すと、それには安彦は従った。
「果実はお前に委ねる。なくさないでくれよ。それより疲れただろう。腹も減っているんじゃないか。鹿高にふるまわれた料理を少し残してある。食べないか。泉の水も汲んでおいたぞ」
大日は弟を労おうとしたが、安彦は首を振って拒否した。まるで、毒を服まされるのを用心するかのような暗い目をしていた。
「欲しくなったらいつでも言ってくれ。お前ほどじゃないが、おれたちも疲れている。今夜は休もう」
大日は、大彦と陽姫に目配せし、各々気に入った木の根を枕にして横になった。
安彦は、三人から少し離れた木立に背を預けた。眠らないつもりのようだった。陽姫は兄を案じて側に寄ろうとしたが、最愛の妹すら拒否する雰囲気を恐れ、それでも陽姫は安彦のできるだけ近くで横になった。
大日は、大彦と少し会話を交わしてから、眠った。
朝になった。
四人は出発し、無言で歩いた。安彦は、他の三人とは少し離れた最後尾を歩いていく。この日も、安彦は兄から差し出された飲食物には手を付けず、自分で兎を獲り、泉を見つけた。
安彦は明らかに衰弱した。しかし、目の光だけは日に日に強まった。
明日には懐かしい磯城の三輪山が見えてくるところまで帰ってきた日の夕刻、陽姫が足をくじいて倒れ込んだ。大彦と大日はだいぶ前を進んでおり、陽姫には安彦が近かった。
ためらったものの、右の足首を押さえて苦しがる陽姫の姿に、安彦は駆け寄った。
「だいじょうぶか」
妹を抱き上げようとした安彦が、異質な匂いを嗅いだ。安彦には分かる。これは呪いの匂いだ。
前方にいたはずの兄二人の姿が消えていた。黄昏に紛れ、二人は幻影を前方に置き、実は安彦の背後に回り込んでいた。
「おい、安彦」
肩を押さえた大彦の腕を、安彦は信じられない力ではね除けた。振り向きざまに両手を突き出すや、大彦と大日の胸を打って吹き飛ばした。二人は激しく転がった。
「果実を奪おうというのか。姑息な者どもめ」
それはもはや安彦の声ではなかった。根の底に棲むという鬼のような形相で唸っている。
「まて安彦。おれたちはお前を案じているのだ」
大日が何とか立ち上がって弟に呼びかけた。
「だまされぬぞ。この果実は誰にも渡さぬ」
「お前からその果実を奪おうなどとは思っておらん。おれたちで磯城の人たちを戦いから守るんだろう」
「そうとも守ってやるさ。このおれが、絶大な力を得て、磯城も、斑鳩)も、豊秋島もすべて守ってやる」
「お前一人がすることじゃない。みんなで力を合わせるんだ」
大日はなおも弟を宥めようとしたが、大彦はそれをさえぎった。
「無駄だな。お前が言ったとおり、安彦は果実の魔力に取り憑かれている。悪霊を追い出すのにいちばん手っ取り早いのは、昔からこれだと決まっている」
大彦は握った拳骨を大日に突き出した。
「ははは、兄者よ。そのような非力で、何ができるという」
安彦が呪言を紡ぎ出すと、大地が隆起し、巨大な土男が現れた。呪力を練り込んだ土でもないのに、以前の安彦の埴土の術とは比べものにならないほどの強力な土人形だ。自分の拳骨と土男とを見比べた大彦は、拳骨を引っ込めて棍棒を構えた。大日も、弓に矢をつがえた。
「ははは、兄者よ。ひとつ聞くが、野ねずみが熊に打ち勝つのを見たことがあるのか」
兄を野ねずみと見下げる安彦は、もはや安彦ではなかった。取っつきにくいところのある弟だったが、常に二人の兄を敬仰していた。巨大な土男を操るのは、果実が生み出した化け物だ。弟を奪う者は許さぬ。
吼えた大彦が棍棒で殴りかかった。土男の繰り出した拳骨と衝突したが、大彦は力負けすることはなかった。大日の放った矢が土男の右足を砕いたが、足は瞬く間に再生した。
「野ねずみではなく、きつね程度ではあったのか」
兄二人の予想外の善戦を、安彦はせせら笑った。その笑いが、急速に力を失った。
四肢の力が抜けていく。甘い感覚が背筋を昇ってくる。
安彦は陽姫を振り返った。彼女の足元から薄い紫の煙が立ち上っている。
「…陽姫」
陽姫は調合したいくつかの香草を焚いた。この煙に巻かれた者は、甘く強い眠りに引き込まれる。
膝を草地に落とした安彦は、妹の足を見た。怪我も腫れもない。足をくじいたように見せたのは、陽姫の演技だったのだ。
「兄上、お疲れでしょう。ゆっくりお休みください」
陽姫は安彦の瞼の上に、手を置いた。少し抗ったあと、安彦は眠りに落ちた。
安彦が深い眠りから覚めたとき、視界に広がった空では、最後の星明かりが早朝の白さに消えようとしていた。身体は重いが、病が癒えたような意識の爽快感がある。添えられていた手に気づいた。陽姫の手であった。
安彦が目を覚ましたことを、陽姫は大彦と大日に告げた。二人の兄も安彦の側に来て、安彦の顔をのぞき込んだ。
「気分はどうだ」
「…生まれ変わったような気がするよ」
「そうか。それはよかった」
「…兄者よ」
「なんだ」
「…なにか悪いことをしなかったか、おれ」
「ん…、まぁ、少しな」
「そうか、少しか」
身を起こし、弱く笑った安彦は、陽姫が持ってきた水を、喉を鳴らして飲んだ。
「大彦兄ぃ、大日兄ぃ」
「なんだ」
「おれは弱いから、いつか兄者たちみたいに強くなりたいんだ」
「馬鹿をいうな、お前が弱いだと。強いさ、だから、果実を手に入れることができたんだ」
「そういえば、果実をどこへやしたかな」
安彦は衣の中をまさぐった。
「しまってある」
大日が言った。磯城を出発する際に、五百箇が用意してくれた麻袋の中にあった石の箱に収めてある。五十箇が特別にあしらえた石箱で、妖気や呪力を一時的に遮断することができる。大日のその話を、安彦は黙って聞いていた。
「兄者、あそこに見えているのは三輪山か」
安彦は風景の一点を指さした。黒々と重なる山の頂のひとつに、懐かしい姿があった。
「そうだ、帰ってきたぞ」
大彦は安彦の背を叩いた。その勢いで立ち上がった安彦は、そのまま二三歩、三輪山へ向かって進んだ。
霞のかかった空。垣根のような山並み。山の麓に磯城があり、空の下に山門の大地がある。
「兄者。おれたちは磯城の子らだ。氏上は大彦兄ぃが親父から引き継ぐとしても、おれも磯城の人たちを守りたい。でも、おれにできるのかな」
「できるとも」
大彦と大日が同時に力強く請け負った。
大日は片手を大彦の肩にかけ、片手を安彦の肩に置いた。陽姫は安彦の手を掴んだ。
「いいか、おれたちは四人で力を合わせて、磯城の人々と山門の大地を守っていくんだ。これは、いいか、言挙げだぞ」
大日が言うと、三人は頷いた。
朝の日が昇っていく。
黒々とした山並みがやがて青になり、降り注ぐ陽光を受け止めて緑になった。
このときの光景をずっと覚えておこうと、安彦は思った。
大日の回想は、大彦、安彦、陽姫の四人で共に見た朝の光景で終わる。
春日族、登美族を中核とした山門の軍二千人を率いる大日は、孔舎衛坂で天孫族の大軍を迎え撃つ。