山門編-失われた天地の章(13)-昔日(3)ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
輪熊座の少年、俳優 の御統 は、山門大宮への道中で黒衣の美少女、豊と出会う。剣呑としていた豊は、やがて純朴な御統との距離を縮める。山門大宮では、輪熊座は御言持の大日の歓迎を受ける。豊は秘した宿願を果たすため大日に接近する。大日は豊を嫡男の入彦に仕えさせる。豊を追って入彦の邸に向かう御統。そのとき、御統の白銅鏡が光を奔出させ、巨人の姿となって暴走する。御統は土牢 (ひとや)に捕らえられる。
神祝 ぎの馳射で春日族の旗頭となった入彦は重任を負い、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。豊の幻術で御統を身代わりに立てるはずの入彦は、父の大日の期待に応えるべく出場を決意する。御統も春日族の騎手になりすまし、彼の活躍によって登美族との勝負は互角となる。馬場では禁忌の実刃の鏃が用いられ、その凶矢から入彦を守った石飛は重傷を負う。勝敗は矢馳馬に委ねられ、戯馬 (たぶれうま)を大得意とする御統が吉備彦との矢馳馬を制する。
神祝ぎの馳射は春日族の勝利となるが、御統の軽はずみの言動から春日族は不正を疑われ、紛れ込んだ実刃の鏃の件も含めて山門の朝庭で審議される。誓約の鏡猟で神意を問うこととされ、美茉姫と共に鏡猟の斎に選ばれた豊は、春日族の族人となるため、入彦の妾となる。豊になついている黒豹の如虎を輪熊座から譲られ、いつのまにか大切な友人が増えていた豊は、彼女の宿願と一族の恨みの闇に思いをはせる。そんな豊の前に黒々とした影が現れ、一族の恨みと苦しみをささやく。
一日、山門大宮の郊外で、御統は登美彦と邂逅する。短い時間とわずかな会話に、二人は余人には知れない感傷を抱く。
鏡猟では、美茉姫と豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが花衣を着込み、美しくも激しい攻防を繰り広げる。登美族の夜姫は凄まじい呪力を発揮して、春日族を追い詰めるが、豊の機転の幻術に誑かされ、勝利を春日族に奪われる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、凶暴な焔の化身となって会場を炎に呑み込もうとする。会場が大混乱となるなか、豊が御統から借り受けていた白銅鏡から光の奔流と共に天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。
前代未聞の鏡猟が新たな火種となることが懸念されたが、それを上回る脅威が山門に迫っていた。鉄で武装し、天孫を号する天孫族が山門の玄関口である日下の楯津に上陸する。居丈高な天孫族の使人に憤慨し、退けた大日だが、天孫族が提唱する水稲稲作に魅力を感じる。山門は交戦か和平かで紛糾するが、山門主饒速日は大日に決戦を命じる。入彦は参陣を覚悟していたが、大日から全く見当違いと思われる磯城族への神奈備入を命じらせる。
大日の巧みな軍立てにより、天孫族の大軍を孔舎衛坂に誘導した大日は、決戦に向かう道中で昔日を想う。まだ斑鳩族の饒速日が山門を統べていなかった約二十年前、大彦、大日、安彦、陽姫の磯城族の四兄弟妹は、斑鳩族と磯城族の戦いの激化を避けるため、饒速日の本陣を訪れ、停戦の条件を聞き出す。饒速日の目的が磯城族の征服でなく、五十茸山に生える災いの果実、剋軸香果実の撲滅であること知った四兄弟妹は、果実を発見し、持ち来ることを請け負う。
四兄弟妹は勝手な行動を父に叱責され倉に取り籠められるが、友人である五百箇の助けを得て、五十茸山へ向かう。そこで彼らは雄偉なる地祇の争いに巻き込まれる。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
石火
石飛の父。大日の信頼厚い春日族の重臣。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
五百箇
磯城四兄弟妹の友人。優れた鍛冶の腕を持つ渡来人の子。
森の中は無風なのに、光球の中には風があるのか、巨大な鹿を乗せた草原はそよそよと揺れていた。巨大な月の輪熊はいきなり前足を振り上げたかと思うと、痛烈に光球を打ち据えた。二度、三度と同じ動作を繰り返したが、轟音を立てるだけで、光球の中の鹿は涼しい顔をしたままだ。
「およしなよ。こことそっちは時空が違うんだ。あんたの馬鹿力なぞ、何の役にも立たないよ」
「うるせえよ、馬鹿女。いまからてめぇんとこに出向いてやっから、尻まくって待っていやがれ」
月の輪熊は吠えた。周りの巨大熊がみんな耳をふさぎ、森の木立が大揺れに揺れても、光球の中は穏やかだ。
「蹴っ飛ばしてやるのは、あんたの尻だよ。まったく、物覚えの悪い成らず熊だね。草の川の魚は捕っちゃいけないと何度も教えてやっただろ」
「しるもんか、てめぇの言いがかりなんざ。いいか、あの川はな、おれの山から流れてるんだ。つまりはおれの川ってことだ。おれの川からおれが何を獲ろうとおれの勝手だ」
「どこから流れてこようと、草の川はあたしの野原を流れているんだよ。だいたい、あんたの山はあたしの野原から生えているようなもんじゃないか。つまり、この辺り一帯はあたしのもんだよ」
「馬鹿野郎。山が野原から生えてるっていう奴があるか。山は山、原っぱは原っぱだ」
「だから境を決めたじゃないか。あんたの山は大境木の根っこが終わるところまで。そこからこっちはあたしのもんだ。境と境木、分かりやすくしてやったのに、よっぽどの馬鹿だね、あんたは」
「へん。何言ってやがる。根っこは伸びるんだぜ」
「決めてから一歳も経ってないよ。それにあの大境木は老木だ。根っこが伸びるわけないだろう」
「そんなことはてめぇの知ったこっちゃねぇ。ともかくおれは、あの川の鱒が喰いてぇんだ」
「鱒くらい、川のそっち側にもいるだろう」
「こっち側の鱒は小さくて、腹の足しになりゃしねぇ。草の川の鱒がでっかくておれの腹にあってるんだ」
「だったら、あんたの腹をひっこめるんだね。わたしの野原は肥沃だからね、川の中に栄養が溶け込んで鱒も大きくなるのさ」
「おめぇらは草食だから、鱒なんか喰わんだろう。素直におれに差し出せば、余計な戦を起こさずに済むんだ」
「だったら、あんたが頭を下げたらいいだろう」
「何だと。山の王のおれに、頭を下げろというのか」
「野の女王のあたしに頭を下げたって恥じゃないよ」
巨大な月の輪熊と牝鹿はしばらく憎まれ口を応酬してから、にらみ合って、うなり声を揚げた。
磯城の四人の子らは、はじめは面食らって、度肝を抜かれていたが、この頃になると随分と慣れていた。耳をつんざくような怒声の投げ合いにはたじろいだが、耳を塞いでいればなんとかなった。
どうやら、月の輪熊と牝鹿は、川の領有権でもめているようだ。山の王だの、野の女王だのというわりには、争いの原因が川の鱒であり、壮大なのか、卑小なのかよくわからない。四人が次の展開を待っていると、野の女王の黒い宝玉のような瞳がいきなり向いた。大彦など寝そべっていたから、大慌てで起き上がり、膝を揃えて座った。
「あれは何だ、大山津祇よ」
鹿屋野姫の問いかけで、磯城の四人は、巨大な月の輪熊の名が大山津祇であることを知った。
「あれは非永だね。まさか鱒の代わりに、彼らで腹を満たそうとしているのではあるまいね」
「馬鹿いうな。非永なぞ喰らうわけがないだろう」
鹿屋野姫の質問に大山津祇が頷いたらどうしようかと顔を青ざめさせた四人だが、そうではなかったので安堵した。だが、黒い宝玉のような瞳が見つめたままなので、四人はどぎまぎした。
「お前たちは、朝方から、五十茸山へ祈りを捧げていた子どもたちだね」
「なんだ、お前の知り合いか」
「非永に知り合いなどいやしないよ。でも、この子たちの祈りの姿はとても美しくてね、真心ってものが伝わってきたよ。おい大山津祇、この子らをどうするつもりだい」
「おれがどうしようとおれの勝手だ。こいつらは、おれが捕まえたんだからな」
「まさかあんた、この子らにひどいことをしようというんじゃないだろうね」
「さぁてな。おれの腹には合わんが、鳶くらいの良い餌にはなるかもな。谷底へでも落っことしてやろうか」
大山津祇は本当にそうしかねない意地悪げな顔を向けて、磯城の子らをおののかせた。
「馬鹿を言いでないよ。そんなくだらないことを、あんたがするはずないだろ」
鹿屋野姫はあきれ顔でそういった。その声は、あしらうようでありながら、どこか相手を認めているような響きがある。大山津祇は唾を吐くような顔つきで横を向いた。
「お前たち、こんな危険なところにきちゃいけないよ。でも、もう来ちまったもんはしょうがないね。こちらへおいでな。熊どものところはむさ苦しくていけない」
野の女王は前足を掻くようにして、磯城の子らを招いた。荒々しくも慈しみのある声に、是非とも四人は頷きたかったが、ときおり七色の輝く薄膜をどうにかしないことには、むさ苦しい熊どものところに居続けなくてはならない。
「勝手なことを言うんじゃねぇ。こいつらはおれのもんだ」
「なに言ってんだい。どうせあんたのことだから、その子らがうちらの喧嘩に巻き込まれないように守ってやったんだろ。弱いものを庇護してやるのはいいが、そのやり方が全然わかってないってところがあんたの欠点だよ。あたしが非永の里に帰してやるから、さっさとその子らをこっちに引き渡しな」
巨大で、見るからに極悪そうな大山津祇に、弱者を守ってやろうという思想があることを知って、磯城の子らは驚いた。ただし、安彦あたりは半信半疑だった。
「余計なことをうたってんじゃねぇ。このおれ様が、非永ごときを気に掛けるわけはないだろう。踏んづけちまうのも汚らわしかっただけよ」
磯城の子らにとってみれば、大山津祇の息巻いた台詞の方が、大山津祇の見た目からも納得できた。
「横道に逸れてんじゃねぇ。煙に巻こうったって、そうはいかねぇぞ。これから、おれ様直々に全軍を引き連れてそっちに突撃してやるから、覚悟しやがれ」
月を呑み込もうかというほどに大口を開けた大山津祇は、森の木立も山並みさえも吹き飛ばすほどの大咆吼をあげた。
「やれやれ。どうやらあたしの蹴りで五十茸山の向こうまで蹴り飛ばしてやらないとわからないみたいだね。仕方ない。いいさ、いつでもおいで」
「へん。お前の蹴りなんざ、飛び上がるってほどでもねぇや。今度の今度こそ、本当におれ様のげんこつをくらわしてやるぞ」
そう言う限りは、大山津祇は、鹿屋野姫に蹴り飛ばされた経験があるのだろう。そして、大山津祇は、鹿屋野姫にげんこつを見舞ったことはない。なんとなくこの二柱の神々の関係性が、磯城の子らに見えてきた。つまりなんだかんだで、大山津祇は鹿屋野姫の尻に敷かれているようだ。
「つまり、うちの親父が母上に頭が上がらないのと同じだ」
などと、大彦が適当なことを言ったが、弟と妹は頷けた。
「あら、そうかい。あんたにそんな甲斐性があるってんなら、やってごらんよ。やれやれ、あんたがあたしに、夜空の金銀砂子を連ねて花縵にしてやるっていってくれたのは、そんな昔のことだったかねぇ。変われば変わるもんだよ」
鹿屋野姫は目を流しながら、そんな捨て台詞を置いた。花縵とは蔓性の花で編んだ髪飾りのことだが、それがなんであれ、野暮と粗暴が頭の上で肩を組んでいるような風貌の大山津祇から発せられるべき言葉ではない。手下の熊どもも、磯城の子らも、ぽかんと口を開けた。当の大山津祇は、みるみる顔を真っ赤にした。
「そりゃ、手下どもの前で言っちゃいかんやつだ」
「あら、内緒だったのかい。そりゃ悪いことを言ったねぇ」
まったく悪びれていない鹿屋野姫だ。大山津祇の顔色は赤を通り越して赤黒くなっており、ぼちぼち頭から何かが噴火しそうだった。
このとき、大日が、磯城の子らのなかで一歩、前に出た。もちろん、ときおり七色に輝く薄膜の中だ。
「偉大なる神々に言挙げ申し上げます」
大彦も、安彦も、陽姫も、大日の行動に仰天した。触らぬ神にたたりなし、という教訓を弟に教えておかなかったことを、大彦は悔やんだ。
「なんだ、少童(こぞう」
大山津祇は巨大な目を剥いて、大日を睨み付けた。黙っていろ、と怒鳴りつけたいところだが、話題を転じてくれるなら今は何でもよかった。
「お二柱の神は、つまり、草の川をどちらが支配されるかの交渉をなされておられるものとお見受けします」
大日は随分控えめな表現を使った。交渉などではなく、すでに戦争状態だったが、神々に対しては不吉な言葉を避けなくてはならない。
「交渉だと。ふん、それがどうした」
「川というものは、流れるように流れるものでございまして、上流がなくては下流は干上がるばかりで、下流がなければ上流は淀むばかりです。上流あっての下流でなし、下流あっての上流でもありません。山も森も野原も、一すじの川の流れによって、ひとつの幸いを共有しているのです。たとえるならば、ひとつの日を、東西の左右に住む者が、互いに、あの日は自分のものだと主張し合うようなものでございます。誰のものでもなくとも日は大地に遍く恵みを下し、誰に属せずとも川は幸いを運ぶのです」
大日はどこかで練習してきたかのように流暢に物語った。大日の声は佳い。大日の話はこじつけではあるが、それをそう思わせない声の魅力がある。大山津祇も鹿屋野姫も物言いたげな視線を交わし合ったが、黙って大日の語りに耳を傾けていた。
「さて、大山津祇様は草の川が野原を流れる辺りの鱒をご所望。一方、鹿屋野姫様も五十茸山の森に成る木の実をご所望ではございませぬか」
「そりゃ、椎や木楢の実、李、栗は美味しいからね。あたしの野原の草もうまいが、そればかりだと寂しいってのも本音だねぇ」
「それでは、こういたしますればいかがでございましょう。鹿屋野姫様は山神様の眷属が川の鱒を獲るのをお認めになり、大山津祇様は草神様の眷属が森の実をもぐのをお認めになる」
「お互いに、手前んとこのいいもんを隠し立てせずに出し合おうってことか」
「確かに、それならいちいち喧嘩せずに済むってもんだね。これまで五十茸山の森にこっそりとうちの子らを忍び込ませて木の実を頂戴してたけど、そんな面倒もいらなくなるね」
「おい、しれっと言いやがったな。やっぱりてめぇら盗んでやがったんだな」
大山津祇は手近なところにいた手下の熊の頭を殴りつけた。
「てめぇら、しっかり見張っとかねぇか」
「でも、おかしらが、女のすることにいちいち目くじら立てんじゃねぇっていったんすよ」
「それは、おれ様が素面のときか」
「いえ、酔っ払ってたときです」
「馬鹿野郎!酔っ払ってるおれの言うことを聞く奴があるか」
理不尽極まりない叱責で、運の悪い手下の熊は蹴飛ばされ、彼も遠い旅路に放り出された。
「ともかくも、お二柱」
大日は両手を挙げて、大山津祇を宥めた。声で鎮めたといっていい。さながら猛獣使いだ。
「鹿屋野姫様のご眷属は鱒をお食べにならない。大山津祇様のご眷属がお食べになるには五十茸山の森の木の実は多すぎる。もしもそうであれば、お互いに余剰があると言うことです」
鹿屋野姫と大山津祇は、調子を合わせて頷いた。
「お互いの余剰を交換して、お互いに利益を得ることを交易と申します。これは私ども、人の営みでございますが、秋に余剰の獲物や収穫物の交換をおこなうということで、あきにおこなう、つまりあきなうと申すのでございます。これは、海の果ての大陸、大真の先祖が始めたことでございまして、我が磯城族におきましても執り行っています」
大日は物知りだ。大真の文化もよく学んでいる。実際、磯城族は葛城や平群などの諸族と、野原の高台に築いた市で交易している。そうして互いに結び付きを深め、斑鳩族に対抗しているのだ。戦に興味を持つ大彦と違って、大日は、そういった外交的要素も含めた人とその集団の営みというものに興味を抱いている。
「あんたたちは磯城族の子らなんだね。はるばるとよくきたものだ」
「はい。神々の聖域とはつゆ知らず、ぬけぬけとやって参りましたが、実は大事な目的あってのことです。それはさておき、いかがでしょう、山の神と野原の神、互いに交易なさっては」
大日は、目の前の料理を推し薦めるような言い方をした。たしかに上手そうな話に思えるが、大山津祇には気がかりもある。
「非永の生業を真似するってのが、どうもなぁ」
髭のようなあご下の毛を摘まみながら、月空を見上げた。
「でも、あたしはいいと思うよ。何からでも学んでいかないと、手下どもは守れない。違うかい、大山津祇」
鹿屋野姫に促されて、大山津祇はしぶしぶ頷いたような、小首を傾げたような、微妙な所作をした。そのあと、腕を組んでしばらく頷いたあと、両方の前足で頭の後ろの毛を荒っぽく掻き回し、
「ええい、とにかく今夜の喧嘩は終いだ。しらけちまった」
と言って、手下どもに戦陣の引き払いを命じた。
「そうかい。なら、あたしたちも帰るとするかね。おい、その子らの面倒はきちんと見るんだよ」
「よけいなお世話だ。とっとと消えやがれ」
大山津祇が追い払う仕草で手を振ると、鹿屋野姫を乗せた草の塊とそれを包む光球は滑るようにして小さくなっていった。
手下の熊たちは、やれやれというような動きで三々五々山へ帰っていったが、一匹の気の利く熊が大山津祇に磯城の子らの処置を尋ねた。
「あん」
かったるげに磯城の子らを目の端で見た大山津祇は、何かをつぶやいた。すると、子らを包んでいた薄膜が消え、四人は草の上に投げ出された。
「どこへでも勝手に行きやがれ。ここまで来れたんなら、ここから帰ることもできるだろう。おっと、ただし、夜の間は動くなよ。どんな悪霊がいるかわからんからな。ここらには破邪の術を施してる。朝までは効き目があるだろうぜ」
ぶっきらぼうな言い方だが、どこか温かさもある。見た目は恐ろしいが、この頃には、磯城の子らは大山津祇の精神構造が風貌どおりではないことに気づいていた。
「勝手にしてよいのなら、このままあなた様方に付いていってはいけませんか。実はわたしたちは、五十茸の御山に入りたいのです」
大日が臆せず願い出た。大日は先ほどのやりとりの中で、大山津祇の心緒を掴んだような気がしていた。
「なんだと。非永風情がおれ様の山に入りたいだと。食い殺さずにおいてやっているものを、ずいぶんと舐めたことをいうじゃねぇか、ええ」
大山津祇は目と牙を剥いて凄んだが、その威嚇は長くはなかった。
「まぁいいさ。付いてきたいってんなら、付いてこい。だが、居心地はよくねぇぞ。それに山を下りるときは気をつけろよ。山に棲む獣どもはおれ様の仲間に手を出しゃしねぇが、仲間じゃねぇお前らには遠慮会釈ねぇからな。それと、もののついでってやつがあらぁな、交易のこと、ちょいと教えな」
最後の部分が大山津祇の本音だが、山の王の誇りが邪魔をして余計な前半部分を付けた。大日は深々と一礼してから、他の三人を促した。
五十茸山までの月明かりの道のりを、巨大な影と小さな影が進んでいく。ゆっくりと移ろう月の歩調に合わせるようなゆるやかな声で、陽姫が歌をくちずさんだ。
「おい、佳い歌だな」
熊の行軍の最後尾にいた熊が、陽姫を振り返って言った。
「山のねぐらに帰ったら、もっと歌ってくれるかい」
その熊の前を歩いていた熊も、振り返ってそう言った。
「いいですよ、いくらでも歌って差し上げます」
陽姫のあどけない瞳に見つめられた二匹の熊は、照れ笑いしながらお互いを小突きあった。
巨大な猪の群や猿の群、山犬の群などが次々に合流し、熊の行軍に加わった。彼らは大山津祇の命令で鹿屋野姫の本陣を攻撃していたのだろうが、小さな四つの影を見ても何も言わず、その後ろに列を作った。
星座は回り、月は沈んでいく。
月明かりに朝の兆しがにじむ頃、磯城の子らは五十茸山の麓を覆う深い森に入った。
鬱蒼とした樹冠が月明かりをさらに弱めると、巨大な獣たちの姿は徐々に小さくなり、朝まだきの光が木の間から差し込むと、朝靄の中で獣たちは、磯城の子らがよく知る獣の姿になっていた。
月明かりが獣たちの霊力を高めて体を巨大にしていたのだろう、と安彦が推量した。
山道が険しくなってきた。陽姫を、大彦と大日、安彦が代わる代わる助けながら登っていく。猪や猿、山犬はそれぞれの山の領域で、自分たちのねぐらに帰っていった。
山道が、俄に下りになった。
うかうかすれば転げ落ちそうな斜面を降りると、白い山気の底にたどり着いた。
ここは、五十茸山の複雑な地形が作った山阿の一つだが、山気の中から木組みの小屋の屋根が所々に飛び出ている。集落があるようだ。
小屋の側を通るたびに、白い視界の中の熊たちの影が少なくなっていく。最後まで残っていた影に付いていくと、切り立った岩壁にぽっかりと口を開けた洞門から、広い岩室に入った。
岩室の暗がりに四人が戸惑っていると、たいまつが灯って、光沢のある岩肌が現れた。
「まぁ、適当に座れ」
その声の方を見ると、囲炉裏から上る火明かりに照らされた壮年の男の姿があった。見事な虎の毛皮の上に胡座をかいている。筋骨隆々とした両肩の間に、無精髭の厳つい顔がある。皮衣を着込み、首と胸の境のあたりに鮮やかな三日月の文様がある。四人は、やっとこの男が誰なのか気づいた。
「鈍い奴らだ。そうだ、おれ様だ。大山津祇だよ。もっとも、この姿のときは、この邑の長、輪熊というがね」
張りのある笑い声が岩肌に反響した。たしかに大山津祇と同じ声だが、どこか朗らかさがある。戦場の興奮が冷めたということかもしれない。
輪熊は、板敷きの上に座っていた。岩床の上に木材を敷き、そこを居間にしている。中央に囲炉裏が切ってあり、その火にあたっている輪熊が、向かいにある茣蓙を指さしている。
磯城の子らは、促されるままに、草を編んだ茣蓙の上に座った。その途端に、誰かの腹が鳴った。四人は互いの顔を見合ったが、誰の腹ということもなく、四人の腹が調和したらしかった。輪熊は、また朗らかに笑った。
「大したやつらだ、見知らぬ邑の奥に連れてこられて、開口一番が腹の虫か」
輪熊は笑い終わった口を横に向けた。
「すまんが、朝飯の支度を頼む。かく言うおれも腹が減った」
すると、いつからいたのか、岩室の片隅にいた人影が立ち上がった。
囲炉裏の明かりが届かない暗がりのなかでは、人は輪郭しかわからないが、その人影が埋め火を点すと、鼎や甑などの並んだ炊事場らしき場所と、人影の横顔が浮かんだ。
若い女性だった。しかも、一人ではなく、四、五人いた。
いくらも経たないうちに、岩室にかぐわしい香りが立ちこめた。磯城の子らの腹がやかましくなった。
「おい、すまんが、早くしてやってくれ。虫がうるさくてかなわん」
輪熊が笑って頼むと、女たちも笑い声で応じた。そのやりとりだけで、輪熊と女性たちの間に強圧なものがないことがわかる。
妻なのか、娘なのか、婢やのか、女たちの身分はわからない。短衣だが、きちんとした織物の衣をきており、白い手足は清潔なところをみると、丁寧に扱われている女性たちではあるようだ。その女性たちが、平瓮に盛った食事を磯城の子らの前に置いた。もちろん、輪熊の前にも同じ物が並ぶ。
女性たちは皆若く、唇の赤さや、胸のふくらみに、大彦や大日などは気がそぞろになった。安彦は、そんな二人の兄を、少し尖った横目で見た。
羹の汁を飲み干して食事を終えるまで、全員、黙々と咀嚼作業に集中した。
全員が膨れた腹をさすっていると、控えていた女性たちがてきぱきとした動きで食器を片付けた。
平瓮が洗い場に持ち去られると、代わって、盞が並んだ。輪熊の膝元には、瓶も置かれた。醴酒の甘ったるい香りが漂った。ちなみに、盞は小型の杯で、醴酒は甘酒のことだ。
「厚味もの、というわけではないが、まぁ、腹はふくれただろう」
木片を細長く削ったものを口にくわえた輪熊は、自分の盞に醴酒を満たすと、身を乗り出して大彦の前に瓶を置いた。
「男童くんと、女童ちゃんには、酒はまだ早いかな」
輪熊が安彦と陽姫を見ると、安彦は頬を膨らませた。そのくせ、無理して盞に注いだ醴酒を一息に飲むと、安彦は珍妙な顔つきになった。輪熊は小気味よく笑った。
「たいそうな御食をご馳走いただきました」
大彦が長兄らしい振る舞いで深々と頭を下げると、弟と妹はそれにならった。照れくささを追い払うように手を振った輪熊は、
「それにしてもお前さんたち、磯城からじゃ、ずいぶん遠かっただろう。なにやら目的があるとか言っていたが、ただ事じゃなさそうだな」
と言って、磯城の子らに話の水を向けた。
「それをお話しする前に」
と、切り出したのは大日である。大彦は、自分の大柄な体を心持ち後ろに下げた。交渉事は弟に任せることにしている。
「大山津祇様は、普段は、そのような人のお姿で邑を治めておられるのですか」
まずは大山津祇の正体をきちんと把握しようとした大日である。彼の用心深さだ。鼻を鳴らしはしたが、大日の不躾さを、輪熊は責めなかった。
「おいおい勘違いしちゃいけないぜ。おれ様が非永のまねをしてるんじゃねぇんだ。お前さん方、非永がおれ達に憧れてそんな姿になっているんだぜ」
「憧れている、のでございますか」
「そうよ。お前さんたち、不思議に思ったことはねぇか。この世界の生き物たちは、鹿や、猪や、鳥や、猿や、木や、花や、草や、魚やいろいろあるが、お前さん方、非永だけが、どうしてそんな姿をしているんだ。服を着て、言葉を話し、二本足で立っている。おかしいと思わねぇか」
四人は顔を見合わせた。そんなことを不思議に思ったことなどない。
「この世界の命は、すべからく大地や水から生すもの、つまりは、むし、だ。そのなかでも特別なもの、たとえば白蛇なんかを、まむしと言ったりするがな。それはそうと、生すものには、すべて魂がある。天神地祇などとお前さん方が呼ぶおれたちは四つの魂を持っているが、むしは大概ひとつしか持っていない。その魂は考えるのさ。どう生きるべきかを。木が木の葉や木の実を茂らせるのも、鳥が空を羽ばたくのも、猪がそこいらを走り回るのも、すべて魂が考えてのことなのよ。そうあるべき姿に、自分の身を変えてきたのさ。ところが、お前さん方、非永はどうすればいいのか分からなかった。どう姿を変えていけばいいのか、どう生きていけばいいのか。それで、おれたちに憧れた。おれたちの姿や、おれたちの暮らし方を真似たのさ」
「…はじめて耳にすることで、言葉を失っております。…しかし、わたしたちは熊や鹿の姿にまではなりません」
大日が言うと、輪熊は大笑いした。岩室に反響して、炊事場の土器がかたかたと音を鳴らした。
「そりゃそうだろう。非人には荒魂がないからな」
「荒魂、でございますか」
「おおよ。荒ぶる魂だ。おれたちはな、頭に血が上ると、あんな姿になっちまうのさ」
「ご眷属の皆々様も、大山津祇様と同じなのでございますか」
「おれ様のことは輪熊と呼べ。この姿のときはな。手下どもか。まぁ、あいつらも同じといえば同じだな」
「では、ここは神々の邑というわけですね」
輪熊は、また笑った。
「そんなご大層なもんじゃねぇや。まぁいい、言って聞かせてやるか。おい、お前たち、天神と地祇の違いはわかっているな」
「はい。天神は、高天原に坐す神々のことでございますし、地祇は、豊秋島に坐す神々のことでございます」
「うむ。では、かみ、とは何だ」
「はい。かみとは、隠れた姿、つまり隠身でございます」
「うむ。森羅万象、お前たち非永にとって摩訶不思議なできごと、たとえば雷、風、大地から実り立つ草花、生まれることや死ぬこと、温かさや寒さ、そんなことすべてを、お前たちは目に見えぬ姿をした何者かが司っていると考えた。そしてそれは大体において、その通りだ。大事なのは、魂を持つものは、それがたとえ一つであっても、隠身になりうる、ということだ」
輪熊は醴酒を盞に注ぎ、磯城の子らに自分の話が染みこんでいくのを確認してから、飲み干した。
「少し面倒な話をするぞ。魂は、それが一つだろうと四つだろうと、それだけでは自律して存在できない。霊が必要だ。おれ様たち地祇も四つの魂の真ん中に霊があって調和が取れている。特別に直霊と呼んだりするがね」
大日は奇異な思いを抱き始めていた。輪熊のする話そのものが奇異なものだが、それよりも、鹿屋野姫との争いのときは猛々しく恐ろしい姿をしていたが、今は、姿そのものは山賊の荒々しさだが、まるで子に語って聞かせる父親のような雰囲気があった。力強く、温かい。
「野原でときどき悪さをする悪霊があるだろう。あれは、魂と霊が切り離されちまったのさ。魂は霊を求めるし、霊は魂を恋しがる。だから奴らは、霊魂そろった者にたかってきやがるのさ。まぁ、それはさておき、霊の重要さがわかっただろう。それじゃ、その霊はどこから生まれると思う」
「根)の堅洲」
間髪入れずに答えたのは、安彦だ。こと霊力に関する話題には、安彦の反応が一番早い。
「そうだ。おれ様もみたわけじゃないが、この大地を遙か下で支えている根の堅洲から、霊力が湧いてくる。その霊力の噴出口が、深い山の中にはあるのさ。嵐気やら瘴毒やらと呼ばれるが、山が気を吐くのは本当だ。その山気の中に霊力が漲っている。経験があるだろう。幽山空翠の風に吹かれたときに、体の中に清々しい力が湧いてくることが。お前たちが霊力強い山を神奈備と呼んで崇めるのは、つまりはそういうことだ」
それが真実なのだとしたら、山の霊力を吸い続けているという災いの木の実の話も真実味を帯びてくる。安彦は、早く剋軸香果実を探しにいきたくて、うずうずし始めた。
「強い山の霊気を吸い続けると、非永も特別な力を得ることがある。特別な霊力を持っていない非永であっても、姿を巨大な熊に変える程度の神通力は備わってくるのよ。この五十茸山は特に強い霊気を吐きやがる」
「では、ご眷属の方々は…」
「もともとこの邑は、五十茸山を崇める者どもの集落だった。おれ様はずいぶん昔からこの大室を住処にしてたんだが、ある日、山の霊力を得ようとした非永のやつらに姿を見られてしまってな、無礼な奴らだと食い殺してしまえばよかったんだが、やつらがいろんな食い物やら酒やらを奉ってきてな、ついつい居心地がよくなっちまって、やつらにこの大室の近くに住むことを許しちまったのよ。そのうちに数が増え、歳月が経って、山気を吸い続けたやつらは半人半神になっちまったというわけだ」
「特別な力を持っていない人でも、山気を吸い続ければ霊力を得る…。では、元々霊力に優れた人はどうなるのですか」
これを尋ねたのは安彦だ。輪熊は、安彦の中の神秘への強い関心を見定めるような目をした。
「おい、これを聞いておくのを忘れていたが、お前さんたちは、磯城の大物主の子らかね」
「はい」
「では重ねて聞くが、非永というのは悲しいもので生は短いが、大物主が死ぬことを何という」
「崩がる、と申します」
「正しくは、隠身上がる、だ。どこの族の氏上だろうと、天神地祇の声を聞くことのできる非永には豊かな霊力が備わっている。天神地祇の吐息に浴しているうちにさらに霊力を高め、本来ひとつしか持てぬはずの魂を、おれ様たちと同じように四つに増やしていく。だが、四つの魂を調和させるための直霊を持たなければ、肉体を現世に留めておくことができなくなり、やがて姿を消す。これが隠身上がり、だ」
「それでは、輪熊様」
いじらしい声が、輪熊の顔を陽姫に向けさせた。万事控えめな彼女には珍しく、体を乗り出している。
「私のおじい様は先年、崩上がられましたが、おじい様の魂はまだこの世におられるということですか」
「ずいぶんと慕っておるようだが、お前さんの爺様というのは、先代の大物主のことだな。今は隠身となって、お前さんを見守っているだろうよ」
陽姫は、祖父の霊を抱きしめるかのように自分の胸を抱いた。輪熊の言うように、陽姫は先代の大物主に愛され、崩上がったときには、彼女は何日も泣き暮らした。
「ところで、その爺様というのは、もしや太瓊のことか」
「そうです」
大日が答えると、輪熊は無精髭を撫でながら朗らかに笑った。
「我らの祖父をご存じなのですか」
「うむ、まぁ、昔ちょいとな」
輪熊は遠い日を懐かしむような目をした。大日は、尊敬し、信愛していた祖父が偉大な地祇にそんな目をさせる人物であったことに、少なからぬ感動を覚えた。大彦はというと、弟の反応とは正反対に、大きな体を縮こめて、何か恐ろしいものから身を守るように息を殺し、目だけをきょろきょろさせていた。四人のなかでもっとも躾が悪く、やんちゃ坊主だった大彦は、厳格な祖父から随分と雷を落とされた。祖父は弓に優れており、どこで隠れて悪さをしていても、鏃のない矢が飛んできては大彦を打ち据えた。だから大彦は祖父の名を聞いただけで震え上がり、祖父が近くにいるときは、まるで擬態しているかのように周囲の風景に溶け込む技を身につけたのだ。
「ずいぶん話したもんだ。こんなに話したのはいつ以来かな」
輪熊は大きく身体を伸ばしてから、肘を枕に横になってしまった。結局、磯城の子らが五十茸山にきた目的を聞いてもらうことはできなかったが、酒で顔を真っ赤にした輪熊は、もう叩いても揺らしても起きそうにない。四人は顔を見合わせて、肩をすぼめた。輪熊が起きるのを待つしかないのだし、なにより彼らも徹夜明けで眠い。
集落を沈めていた朝靄は晴れ、舎の屋根で小鳥が遊び始めていたが、大室の中ではひとつの特別大きないびきと四つの寝息が喧しい五重奏となっていた。輪熊に仕えている女性達は、床敷を整えて磯城の子らを寝かせてやり、夜具を掛けてやった。輪熊の巨体は運べないので、寝姿だけを整えて、夜具を掛けた。
五重奏は、せっかく集落に訪れた澄明な空気に夕霞が立ちこめるまで止むことはなかった。彼らを起こしたのは、輪熊の腹の虫だ。
大室の中は日が差さず、たいまつの灯りだけなので、眠りから覚めた磯城の子らには、今が昼なのか夜なのかわからなかった。寝ぼけ眼の四人の手を女性達が引いて大室の外へ導くと、山阿の中の小さな集落は既に夕暮れで、白い炊煙がいくつも茜色の空に立ち昇っていた。昨夜の戦いを繰り広げた山王の邑とは思えない長閑さだった。
輪熊の女性達は、磯城の子らを泉の辺に連れて行った。そこには竹柵で囲われ、茅で屋根を葺いた湯浴み場が二つ設けられていて、陽姫が片方へ、三兄弟がもう片方へ案内された。湯浴み場の中は温められていて、泉から引かれた水が、甕に溜まっていた。甕の中の水は、湯にされていた。案内した女性は、土器の桶である缶を指さし、服を脱いで、缶で湯をすくって浴びるように教えた。若い女性の前で、三兄弟がもじもじしていると、女は小気味よい笑い声を残して湯浴み場を出ていった。三兄弟が教わったとおりに湯を浴びていると、隣の湯浴み場から、楽しそうな陽姫の声が聞こえてきた。
三兄弟は石の床に座った。大きな一枚岩で、この岩も仄かに温かい。
「さて、どうするか」
大彦が作戦会議の口火を切った。当然、若く美しい女性の姿に鼻の下を伸ばしに来たわけではないし、湯を浴びてこざっぱりしに来たわけでもない。
獣たちの月夜の大戦に巻き込まれたときはどうなることかと肝を潰したが、結果として、五十茸山の山王の知己を得て、あまつさえ食事や寝具、湯さえ頂戴している。幸先はよいが、このあと、どのようにして剋軸香果実の話を切り出すか。見た目に反して度量の大きげな輪熊こと大山津祇だが、この山の霊力の結晶ともいうべき木の実を、おいそれと差し出すことはないだろう。饒速日の言うように、天地開闢以来、百七十九万年分の霊力を吸い上げ続けた木の実が災いをもたらすとあれば、尚更だ。
出し抜くしかない。三兄弟の議論は、その結論で一致した。親切にされた身で恐縮だが、災いの木の実を放置しておくわけにはいかない。ただし、この山の主である輪熊が、すでに何らかの手を打っているというのなら別である。それとなく話を聞き出し、輪熊に十分な策があると分かれば、それを信頼して山を去る。できれば、饒速日に説明するために、配下の誰かを同行させてもらえれば御の字だ。安彦は、不服の色を多少みせていたが、兄二人には逆らわなかった。
三兄弟が湯浴み場を出ると、ちょうど陽姫も上がったところだった。ほのかな温かみを昇らせる彼女の黒髪は、まるで星空のようにきらめいていた。妹とは知りながら、大彦と大日は、視線のやり場にこまった。安彦だけはまっすぐに妹に微笑みかけ、濡れた髪の柔らかい感触を手のひらで拭い取るようにして撫でた。
大室に戻ると、輪熊は木串に刺した鱒の身にかぶりついていた。
香ばしい匂いが漂っている。
囲炉裏には、串に刺した鱒の身が兄弟の数だけ並べられており、火にあぶられて鱒の油が食欲をそそる音を立てていた。いくつかの土器も兄弟の数だけ揃えられており、夕食の支度はすっかり調えられていた。
「戻ったか。めしを喰わせてやる。鱒を喰ってみろ、美味いぞ。おれ様があの女と喧嘩してた理由がわかるだろうぜ」
輪熊は身をそらせて笑うと、土器に置いていた二本目の串を手に取った。
「空いている舎を探させておいた。狭いが文句を言うなよ。好きなだけ居ればいいが、食い物は自分たちで調達しろよ」
大彦と大日は、先手を打たれた気まずい顔を見せ合った。これから出し抜こうとする相手に便宜を図られると、何ともやりにくい。
「輪熊様、何から何までご配慮を賜り、恐縮のしようもございません。が、不躾ついでに、我らの話を聞いていただけませんか」
と、大日は気まずさを背中に隠して切り出した。
「そういえば、お前さんたちが遠路はるばるやって来た理由を、まだ聞いていなかったな」
「それでございます」
「女たちはどうする。まぁ、話をよそに漏らすような者はいないが」
「そのままで構いませんが、ご給仕には及びません」
大日は輪熊と、女性達とを順番に見てから、居住まいを正した。
「輪熊様は、この五十茸の御山にある剋軸香果実をご存じでしょうか。災いの木の実とも呼ばれているようです」
大日は、饒速日から聞いた話を、単刀直入に輪熊に語った。
「ふ~ん。おれ様は木の実はあまり喰わんからな」
輪熊は腕を組んで思案顔を作った。しらばっくれているのではなく、本当に心当たりがない様子だった。すると、女性の一人が輪熊の側に座り、何かを囁いた。
「おお、七つ子石のことか」
輪熊の顔がぱっと明るくなった。
「七つ子石、ですか」
「うん。変てこな話だがな。山の深くに、木立がすべて石でできた石の森がある。そこに一本、木というよりもでかい花といったほうがいいようなものが生えていてな、その花弁がちょうど七つの花びらを付けてやがるのさ」
「それは、何とも不思議な花ですね」
「花かどうかも知らんがな」
「その石の森は、御山のどこにあるのですか」
「…それを聞いてどうする」
輪熊の視線が急に重みを帯びて大日を見据えた。大日は、胃の辺りが急に重くなったような圧迫感を覚えた。
「この豊秋島を崩壊させかねない災いの木の実です。しかるべく、対処いたさねばなりません」
大日は圧迫感の下から身を持ち上げるようにして言った。
「饒速日がそう言ったのか」
輪熊は鼻を不快げに鳴らした。輪熊は饒速日のことも知っているようで、生まれながらの地祇ではなく、非永から隠身になったばかりの新参者だという。それでも饒速日はすでに数代を重ねているが、それも輪熊に言わせれば、細々続く舟大工の小倅だ、ということになる。饒速日が優れた操舟術をもって斑鳩族を束ねていることも知っているのだ。
「いいか。お前たちは非永にしては見所があるから教えてやるが、天御中主が七代の陽神と陰神に命じて作ったこの豊葦原の中つ国、お前たちは豊秋島と呼んでいるようだが、ここに造形されたすべての森羅万象には、司る者としての天神地祇がいる。この五十茸山は、大山津祇たるおれ様が王だ。この山の一草一虫、おれ様のものだ。饒速日だろうと、大物主だろうと、おれ様の山に生えたものを託ける必要はない」
「しかしながら」
「聞こえんか」
輪熊が雷声を落とした。それは比喩ではなく、姿は輪熊のままだが、この地祇は確かに雷を落としたのである。鳴動の名残が、大室を揺らしている。
「ともかく、お前たちのここへきた目的がそれなのであれば、留まる理由はない。今日はもう夜になるから、用意させている舎に泊まるといい。明日、案内の者を立てて、山麓の外まで送らせよう。その先は自分たちで帰れ。ここまできたんだ、もはや迷子になったりするまい」
突き放したように言いながら、案内役を付けるという便宜を図るのは、もちろん好意ではなく、磯城の子らをこっそり山に入らせない為の見張り役だということだ。それはつまり、交渉の余地なく、磯城の子らは五十茸山を去らなければならないということだ。
「分かりました。それでは災いの木の実のことは放念いたします」
心にもないことを言った大日は、それはそうと、と話題を転じた。
「交易のことでございます」
「おお、それよ」
雷雨をはらんだ黒雲のように怒らせていた輪熊の眉が、からりと晴れた。
「取るにもたらぬわたくし共が輪熊様と鹿屋野姫様の交渉の場に居合わせましたのも、何かの縁。お二柱の交易の仲立ちをさせていただけませんか」
大日が申し出ると、輪熊は腕を組んで考え込んだ。人の営みを真似るという行為が、地祇として承服しかねていた。
「たがいに余剰のものを交換しあえば、互いに利益を得るのです」
と言っても、輪熊が組んだ腕は解かれなかった。
「今、鹿屋野姫様は、輪熊様のご英断をお待ちしているのです。ここで輪熊様から行動を起こされれば、おそらく姫様はその大きなご器量に感服されるに違いございません」
「む?そうだろうか」
輪熊の組んだ腕が、少しゆるんだ。
「もちろんでございます。大不敬ながら、鹿屋野姫様は輪熊様に対して意地を張っているようにお見受けいたしました。ここで大らかさをお示しになられれば、姫様のお気持ちも、朝日を浴びた草露のように温まるに違いございません」
鹿屋野姫に対して、輪熊がそんな素振りを見せれば蹴り飛ばされることは容易に想像できたが、その光景を心から押しのけつつ、大日はそう言った。
「うむ。そうだな。草原の女王といっても、しょせんは女子だ。きびしく折檻するのは男気が立たぬと前から考えてはいたのだ」
「では…」
「よし、明日にでもおれ様があの女のところに出向いてやるとするか。すまんが、お前さんたちも同行してくれ」
「承知いたしました」
「言っておくが、話がついたら、お前さんたちは磯城に帰るのだぞ。むろん、あの女との話がうまくまとまれば、褒美は別に考えておく」
「わかりました」
深々と頭を下げた大日は、他の三人を促して、用意された舎に下がった。その板敷きの床の上で、四人は額を寄せ合った。
「やはり大山津祇を出し抜いて、災いの木の実を手に入れるしかない」
ここでは安彦が話を切り出した。
「しかし、山の王の言うことももっともだ。この山のことは、輪熊様に委ねてもいいんじゃないか」
と言って、弟妹に再考を求めたのは大彦だ。なんだかんだいっても、大彦には長兄らしい慎重さがある。その慎重さを振り払うように安彦は食ってかかった。
「何を言ってるんだ、兄上。大山津祇の、あの鈍重さを見ただろう。災いの木の実を、食い物程度にしか考えていない。あんなことなら、いずれ高志族のやつらに木の実を奪われてしまう。そうなってからでは磯城は守れないんだぞ」
大彦は、安彦の剣幕に驚いた。その目を大日に向けると、頼りにしている弟は考え込んでいた。
大日は、努力を重ねれば人には無限の可能性があると信じていた。天神地祇や隠身でなくとも、叡智を結集すればどんなことでもできるようになるだろう、と。だが、神々の世界を垣間見て、その信念がぐらついた。神々の営みは、やはりあまりにも偉大だ。人は非永ではないと信じているが、それでも神々の世界に、おいそれと手を出すことは許されない。
妹の陽姫は不安そうな目をしている。その目を見た安彦は強い口調で二人の兄に訴えた。
「兄上たちは、大事なことを忘れてはいないか。磯城族と斑鳩族との戦いを止めさせること。それがそもそもの目的だったはずだ。災いの木の実のことは山の王に委ねました。それで、饒速日が矛を収めるはずがないだろう」
人の大事は、天神地祇の小事だ。だが、人は人の理屈で生きていくしかない。神々の営みが偉大であろうとも、人が平和を希求して悪かろうはずがない。大日にしろ、大彦にしろ、まだ年若い彼らが理解できる範囲は、そこを超えなかった。しかし、実はそもそもの目的を見失いつつあるのは、安彦だった。斑鳩族との戦いを止めるという目的を忘れたわけではないが、その上に、彼は個人的な目的を据えつつある。
「だが、具体的には、どう出し抜くのだ」
「大日兄がうまく誘導してくれた。明日、大山津祇は鹿屋野姫のところへいくだろう。そのときに、おれが一人で探しに行く。兄上たちは、ここへ来た道を逆に辿って磯城に向かってくれ。おれは、その道のどこかで合流する」
「明日、お前が同行しなかったら、すぐにばれるぞ」
「もちろんだ。だから今夜のうちに、埴土を使って、おれの土人形を作っておく。言霊を吹き込んでおくから、生きた人間のように動き回るし、話しかけられでもしない限り、大山津祇の目は誤魔化せるはずだ」
安彦の埴土の術は優れている。たしかに、誤魔化すことはできるだろう。
「だが、剋軸香果実がどこにあるか、分からんだろう」
「任せてくれ。おれには分かるんだ。災いの木の実の霊力をひしひしと感じている。まるでおれを呼んでいるようなんだ。おそらく五十茸山の背面、南北の稜線をたどれば石の森にたどり着くはずだ」
「だが、一人というのは」
「大丈夫だ。四人の中で、その一人になれるとすれば、おれだ。兄上達だって、もし自分がその立場なら、一人でも行くだろう。そのかわり、陽姫のことを頼む」
大彦はもう一度大日を見た。大日は頷いた。
「よし、わかった。おまえに頼むとしよう。だが、くれぐれも気をつけてくれよ」
「もちろんだ。おれたちは四人で一つだからな」
そう明言してくれたことに、大彦は安心した。弟からどこか危うさを感じていたが、安彦がそう弁えている限り、大丈夫だろうと自分を納得させた。
安彦はさっそく身代わりとなる土人形の制作に掛かった。持参している埴土だけでは不足するので、こっそりと舎を出て集落の外れまで行き、山肌の土を削って土を得た。さすがに神奈備山の土は元より霊力を秘めており、それほど捏ねて鍛えなくとも、安彦の言霊は枯れ地に降った雨のように吸い込まれた。
安彦の作業中、横になった大彦と大日は、緊張して眠れないなどという話を交わしておきながら、いくらも経たないうちに、もう鼾をかいていた。陽姫は、安彦のすぐそばで寝息を立てている。
土人形の仕込みを一通り終えた安彦は、兄と妹の眠る姿を見てから、舎を出て、作業にほてった身体を夜風で冷ました。
星影が降りしきる。
五十茸山の山影が、迫ってくるようにそびえている。人の目には見えない山の一点から、しきりと声が囁きかけてくる。剋軸香果実が呼んでいるのだ。その声の妖しさに戦慄するが、安彦は山影の向こうにあるはずの一点を睨み据えて自分を奮い立てた。
妹も、兄も、父母も、磯城族も、山門も、豊秋島だっておれが守ってやる。おれにはそれができるんだ。そう固く誓って安彦は舎に戻り、兄と妹の間に身体を横たえた。
山の王と草原の女王の知己を得た磯城の子ら。剋軸香果実の妖しい声を聞く安彦は、大山津祇を出し抜き、一人で石の森へ向かう。