山門編-失われた天地の章(11)-昔日ー
<これまでのあらすじ>
光と命が豊かな豊秋島。 そこには天地の八百万の神々と、呪 (まじな) いと鏡の力を駆使する人々とが暮らしていた。
旅芸人一座の輪熊座の少年、俳優 の御統 は、山門の都へ向かう道中で、 黒衣の美少女、豊と出会う。優れた言霊使いの豊は初め剣呑としていたが、 御統の素朴さが二人の距離を縮める。
山門大宮に到着した輪熊座は、山門の御言持である大日の歓迎を受ける。豊は彼女の秘した宿願を果たすために、若く美しい自らを大日に献上させようとする。輪態は豊を大日に託し、大日は嫡男の入彦に仕えさせる。
輪態座を去った豊を追って、御統は入彦の邸に向かう。そのとき、御統の白銅鏡が光を奔出させ、巨人の姿となって暴走する。御統は土牢 (ひとや)に捕らえられる。
神祝 ぎの馳射が挙行され、春日族の旗頭に指名された入彦は重任に苦しむが、御統の解放を条件に豊からの助力を得る。馳射の馬合わせには持傾頭の登美彦の秘かな狙いがあった。豊の幻術で馬合わせから逃げるつもりだっ た入彦は心変わりし、父である大日の期待に応えようとする。当初の計画を変更し、御統も春日族の他の族人になりすまして馳射に出場する。
飛火野の馬場で馳射が始まり、春日族は登美族の猛攻にさらされるが、御統の奮戦により勝負は互角となる。馬合わせでは禁忌であるはずの実刃の鏃が用いられ、その凶矢から入彦を守った石飛は重傷を負う。勝敗は両族からの代表者による矢馳馬に委ねられ、戯馬 (たぶれうま)を大得意とする御統が吉備彦との矢馳馬を制する。神祝ぎの馬合せは春日族の勝利となるが、御統の軽はずみから、春日族は不正を疑われる。
山門の朝庭では、神祝ぎの馳射での不正が審議される。春日族は実刃の鏃こそ禁忌を犯すものと訴える。神意を問うため、誓約の鏡猟が挙行されることになる。美茉姫と共に鏡猟の斎に選ばれた豊は、春日族の族人となるため、入彦の妾となる。輪熊座から豊になついている黒豹の如虎を譲られ、いつのまにか大切な友人が増えていた豊は、彼女の宿願と一族の恨みの闇に思いをはせる。そんな豊の前に黒々とした影が現れ、一族の恨みと苦しみをささやく。
一日、山門大宮の郊外で、御統は登美彦と邂逅する。短い時間とわずかな会話に、二人は余人には知れない感傷を抱く。
鏡猟では、美茉姫と豊の春日族と、登美族を中核とした諸族連合の斎たちが花衣を着込み、美しくも激しい攻防を繰り広げる。登美族の夜姫は凄まじい呪力を発揮して、春日族を追い詰めるが、豊の機転の幻術に誑かされ、勝利を春日族に奪われる。怒りのあまり呪力を暴走させた夜姫は、凶暴な焔の化身となって会場を炎に呑み込もうとする。豊が御統から借り受けていた白銅鏡から光の奔流と共に天目一箇神が現れ、大槌の打擲で焔の化身を消し去る。
前代未聞の鏡猟が新たな山門の火種となることを懸念した大日だが、それを遥かに上回る脅威が山門に迫っていた。
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<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
豊
夜色の黒衣の美少女。優れた言霊の術を使う。隠された企図を果たすため、大日に近づこうとする。
大日
山門の御言持にして春日族の氏上。貴人中の貴人だが、輪熊、鹿高、靭翁に一目置いている。清々しい人柄だが、少し好色。
大彦
大日の兄。輪熊たちとも古なじみ。鹿高に一方的に好意を抱いている。豪快な人柄。
入彦
大日の嫡男。豊からの第一印象は、好きになれそうにない人物。輪熊座関係者をどこか見下している。
美茉姫
大彦の娘で、入彦の言い名づけ。元気で小気味よくおしゃべりで少しおませな少女。
石飛
春日族の青年。優れた騎手。入彦を慕っている。
登美彦
山門主の秘書官ともいうべき持傾頭にして、登美族の氏上。大日を敵視している。
吉備彦
登美彦の嫡男。父親に似ず明朗快活な性格。優れた騎手。
夜姫
呪能に秀でた祝部の長。登美彦に心酔している。
御名方
登美彦と共に秘かな企みを進める。出雲族出身。
山門大宮の五重の濠に満々とした碧水を注ぎ入れる初瀬川は、山門盆地を東から西へと流れ、西の青垣、生駒の山並みの南麓あたりで竜田などの流れと合流し、山門川となって内海に流れ出る。川が栄養を運ぶため、河口の辺りは黒鯛などの魚が多く集まり、絶好の漁場となっていた。
魚群の到来は人々を喜ばせるが、陽光を受けて輝く鱗かな、と詠んでいるうちに、銀光を照り返すのが鉄の矛であり、魚影と見えていたものが無数の船影であると分かった人々は度肝を抜かれた。それこそ、頭を置き忘れて足だけが逃げていくような始末で、沿岸の邑々は天地がひっくり返ったような騒ぎになった。
山門への入り口といっていい難波津に、山門朝廷は出先機関を置いていたが、守備兵というものはなく、津令、渡子、海人部の伴緒などは、皆、脱兎も目を見張るほどの勢いで逃げてきた。ちなみに、津とは船着き場であり、津令は港湾管理者、渡子は交通税務官、海人部の伴緒は漁業に従事する部民を管轄する役人ということになる。
かつて初代の饒速日が天磐船で山門川を遡ったときには、おそらく当時の先住民を驚かし、恐れさせたに違いないが、今度は山門朝廷がうろたえる番であった。
大日は、すぐさま山門主に奏上し、すべての大夫を集める朝議を開いた。馳射や鏡猟の話題を持ち出す者などは、もはや山門盆地のどこにもいなかった。
朝議は、紛糾しなかった。紛糾のしようがなかったからだ。鉄兵団について誰も妄想以外の情報を持っていなかったし、山門がどう対処するかよりも、自分の族をどのように守るかが大夫にとって急務だったのだ。腰の引け具合を競うような、何とも締まらない会議が続いた。一人、大彦だけが、顔を真っ赤にして、ふるえる肩の辺りから湯気を立ち上らせていた。
大日は、兄の大彦に、あえて発言を控えるよう頼んでいた。大彦が落雷のような声を発すれば、山門の進行方向が一気に戦に傾いてしまう。牙を剥いてくるものは、より巨大な牙で噛み砕くべし。大彦は単純だ。実際、大彦であれば百や二百の敵兵はなぎ倒しにするだろうが、鉄兵団の数は万に迫るという報告だ。その数には物見の怯えが反映されているだろうが、数千であることは確かなようだ。山門諸族の総軍をもってしても、その数には届かない。
「鉄の兵器で武装されている」
その報告が、大夫たちの思考を停止させている。
山門にも、鉄がなくはない。西の海の果ての大真から舶来したものだ。しかしそれは山門主や貴人が珍宝として保有する程度のもので、主要な金属器は銅だ。武器も防具も銅製のものが大半で、伝統的に石刀や石の鏃を使っている族すらある。
銅の武具は黄金色に輝く姿が神々しくはあるが、鉄に比べると、やはり脆い。銅の矛は鉄の盾に砕け、銅の盾は鉄の矛に貫かれる。戦となれば、それは一方的な殺戮となりかねない。血肉に飢えた巨大な獣を前にして、さてどう戦うか、と考える者はいないのだ。
山門の象徴色は青丹であるとはいえ、青い顔を並べるだけの朝議に、さすがの大日もうんざりした。
そこへ、鉄兵団からの使者が現れた。鉄兵団上陸の第一報から、数日が経っていた。
先の見えない議論ほど気力を使うものはないが、大夫たちの疲れた目に映る使者は、ひどく武張った男だった。あからさまに脅しをかけるような武装姿である。
斎庭の白砂を虐げるような歩き方の使者は、玉御簾の奥に饒速日が鎮座する高床の宮居への引橋の前で立ち止まり、白木の千木を仰視するように顔を上げた。
無礼この上ない。山門主の前では頭を深く下げ、直視しないことが山門の礼なのだ。
大夫の間にざわつきが起こったが、山門主の御前を使者に譲ったかたちの大日は、目で彼らをたしなめた。
背後で醸し出されつつある非友好的な気配を鼻で笑いつつ、使者は開口一番、
「我らは高天原より降臨したもうた天神の子孫である」
と、宣言した。驚くよりも、あきれかえるばかりの傲慢さだ。不快感が斎庭を支配したが、使者はいっこう気にする様子はなく、
「我らが遙々と海を渡ってきた所以は、東に、青垣に囲まれた美しい土地があると聞いたからである。ここに至って、まこと天孫の大業を建てるに相応しい天地であると分かった。ゆえに我らはこの地に宮を建て、天孫があまねく六合を治める本居とする」
と、一方的に通告した。
無礼にも、ほどというものがなくてはならない。家族が睦まじく暮らす家に土足で上がり込み、あまつさえ、住みやすきゆえに我が家とする、と傲語する他人をどこの人間が歓迎するというのか。山門を蛮族と侮っての所業は、温和な大日の眦をつり上げさせた。
「物言いを学び直してから出直すがよい、鉄の人よ。山門に、鉄の矛を砕く術がないわけではない。いま、あなたに、その首を肩に乗せたまま帰ることを許すのは、天神の子を名乗る人々への敬意と心得られよ」
大日がするどく指で宙を掻くと、黄金色の矛をきらめかせた衛兵が天孫の使者を取り囲んだ。使者は顔を赤黒く怒らせつつ、黄金の矛に逐われて退廷した。
殺伐とした空気が朝廷に流れた。
大日は宮居のかたわらに座る登美彦を見た。半眼で、静黙している。つまり、山門主が大日の対処に怒りをみせていないということだ。
山門主の意に外れることはなかったが、山門の未来としてはどうか。そう自問すると、大日は自分の行動に軽薄さがあったのではないかと、自身を責めたくなった。
大夫たちを見回すと、大彦は満足げな顔をしているが、他は努めて大日と目を合わせまいとしているようだった。一見、腰の引けた状況に変わりがないように思える。しかし大日には分かるのだ。不遜にも天孫を号する一族の使者の傲慢な進止と、その使者を退けた御言持との応酬に潜んだきわどさが、大夫たちに自尊心という感情を呼び起こしたということが。
個人であれ、一族であれ、組織であれ、自尊心を有することは大切なことだ。しかし、自尊心が敵対するものを見つけ、許容を拒んだとき、しばしば悲劇的なことが起こる。最悪の事例は、戦争だ。数限りない未来へと伸びている無数の綱のなかで、もっとも選んではならない綱の端緒を掴んでしまったのではないかと、大日は悔いるのだ。
いつのまにか、登美彦は姿を消していた。それはつまり、山門主が退席したということだ。
大日は朝議の解散を告げた。
数日して、二度目の使者がやってきた。
一度目とは一転した落ち着いた男で、大真風の文官衣装で取り澄ましていた。
二度目の使者は言った。
「貴国の地と川を見ると、土と水から無限の糧を生み出す水田に最も適しているようです。天孫族には優れたその技術があります。あなた方にもお伝えするので、共に力を合わせて豊かな生活を築こうではありませんか」
白々しく言ったものである。共存共栄を口にしながら、その実、体良く山門を支配下に組み込もうとする方便であった。大夫たちは、甘言の裏を見抜く、というよりも、水田稲作という最新技術に生理的な嫌悪感を示した。
山門にも、原始的な農業は根付きつつある。山門大宮の郊外に暮らす人々の中には、原生している陸稲や豆類の生育を手助けする程度の農法で収穫を得ている者もいる。山門はそこに税をかけ、不安定ながらも収入としている。
しかしながら、山門諸族の大半の常識では、日々の糧は鹿や猪、川魚や木の実など天地山川からの恵みであり、天神地祇の恩恵によるものである。天地に人為を加え、自然摂理を人の都合により操作することは、とりもなおさず、天神地祇の恩恵の放棄を宣言するものではないか。
口をへの字に結んだ大夫たちとはちがって、大日は使者の横顔をじっと見た。
山門の国歩を指南する立場にある御言持の目が近視眼であってはならない。常に、遠方を見据えていなければならないのだ。おのずと、大夫たちとは感覚を異にする。
種は大地から育ち、日光や慈雨は天から降り注ぐ。農業もまた、天神地祇の恩恵が不可欠だ。人為は、恩恵をあまねく人々に広げる工夫にすぎない。
天孫族の提唱する水田稲作は、大日の興味を大いに引いた。とはいうものの、水田は林野を切り開き、大地に大きな人為を施すことになる。大日が天孫族の提唱をそのまま受け入れがたいのはその点にあるし、また、水田稲作という技術が本質的にはらんでいる危険性を想像することもできた。
それは土地、水路の争いだ。
水田稲作が発達している西の海の果ての大陸では、土地と水路の争いで戦いが絶えず、大日の想像を超えた規模の大戦も起こっている。大真の成立により戦は抑制されているが、それでも土地と水に関する紛争が日常茶飯事に起こっていると、大日は聞いている。
幸いに、山門には川が多く、水が豊富だ。土地の良し悪しは大日には判断つかないが、天孫族がわざわざ海を渡ってきたということは、山門の土地に価値があるということだ。
土地と水を山門朝廷が管理する。そうすれば、農業の持つ潜在的危険性は仕組みで押さえ込むことができる。
二度目の使者は、矛に逐われることなく退廷した。
その後の朝議は大紛糾した。
大日は、天孫族からの提案を一考するべしとする立場で、朝議を主導したいと考えた。が、諸族を代表する大夫の多くが頑強に抵抗した。
水田稲作など必要ないと彼らは声高に主張したが、山門の山や森や川に棲む鳥獣や魚が数を減らし、諸族の邑には飢餓が発生しているところもある現実を突きつけると、彼らの口は濁った。確かに馳射で神祝ぎし、鏡猟で天地の恵みを請うた春日族が勝利を納めはしたが、祭と政は切り離されなければならない。
朝議は数日にわたって続いた。
領域内に飢餓の邑を持つ族の大夫のうちには、大日に同調する者も現れた。
四方を山に囲まれてはいるが、山門の懐は広い。山野を切り拓けば、天孫族がたとえ万を超える集団であったとしても受けいれる大地はある。山野を切り拓き水田を作る術を天孫族から学べば、山門の諸族もまた豊かな生活を手に入れることができるではないか。
大日の主張が朝議の雰囲気を支配し始めた矢先、冷や水を浴びせるような声がした。登美彦だ。
「こたびの一件は、まさに山門の命運に関わる一大事。皆々の申すことはそれぞれに理由のあることではあるが、これより先は、神霊祖霊の下される吉祥に従うべきである。ただちにこの身を洗い清め、みずから依代となって神霊祖霊の御心をうかがってみよう。皆々にはおって申し伝える」
声の主はたしかに登美彦だが、これは山門主の言葉である。大日とて、その言葉に異議を申し立てることはできない。
朝議は解散となった。
最終的に決定するのが山門主であるにしろ、大日としては、天孫族との共存共栄策を大夫の総意として上奏したかった。それが可能になりかけた矢先に、その機会を失ったことに、大日は口惜しさを抱きつつ、山門主が鎮座しているはずの宮居をあえて直視する無礼をはたらいた。その視線を受け止めたのは、登美彦だ。凍てついた登美彦の目は、宮居の高みにあって、下界を這い回る虫けらを見下すような嘲笑を浮かべていた。
殿舎に戻った大日を迎えたのは大彦と、輪熊、鹿高、そして靫翁だった。
「みな様、おそろいで」
萎えそうだった大日の気力が、この面々に迎えられて力を取り戻した。特に、鹿高の顔が見られたのはよかった。
「ずいぶん、青い顔をしていたぞ」
大彦の声は相変わらず大きい。
「御言持として、もっと慎重に行動しなかったことをずっと悔やんでいる」
「あの鉄の使者を追い払ったことか。あの啖呵はなかなかよかった。わしは感謝しておる。おぬしが追い払ってくれねば、わしがあの傲慢な顔を殴りつぶしておるところだった。憤慨していたのはわし一人ではないぞ。腰抜けばかりの大夫でもないのだ。実害のないうちに追っ払ったのは正解だった」
この兄にこう言われると、絶対に正しかったように思える。感謝するのは自分だと大日は思った。
「だが、このままでは抜き差しならぬところまでいってしまうかもしれん。兄上、足労だが」
「うむ、春日の邑に帰って、万一に備えておく。石火にはすでに連絡をおくっているから抜かりはないだろうがな」
大彦は弟の肩を軽く叩いて、身を翻した。と、足を停めて、
「おお、忘れるところだった。石飛だが、傷は順調に癒えて、めしも普通に食えるようになったとのことだ」
と、言った。
「それはよかった」
吉報だった。心から大日は喜んだ。先の神祝ぎの上覧馳射で、入彦をかばって重傷を負った石飛である。入彦を狙った矢の真相は掴めていないが、朝廷の事態は、その究明に向かうことができないほど緊迫している。順調に回復しているとなれば、大彦は石火に会ってもどやされずに済むだろう。
大彦は退室しがてら、鹿高を春日邑へ誘ったが、素気なく断られていた。
「だから、こいつはおれの女だと言って…」
輪熊の無精ひげだらけの口は、鹿高の痛烈なかかと落としで無理矢理に閉じられた。
「まぁ、それはさておき」
何事もなかったかのように、靫翁は大日に歩み寄った。
「例の話だが、先日の夜、輪熊から御統に伝えておいた」
「・・・、そうですか」
「どこまで理解できたかはわからんが、とりあえず落ち着いて聞いていたよ」
しばらくの沈黙をおいて、大日はわかりましたと頷いた。
「御統を、おまえさんに任せていいか」
頭をさすりながら、輪熊が言った。短い言葉に感無量が隠れていることを、大日の耳は聞き逃さなかった。御統をこれまで育ててきたのは、輪熊なのだ。
「はい、と申し上げたいところなのですが、思っていたよりも早く山門は荒れそうです。御統を、我が子に託すわけにはいきませんか」
「入彦か」
輪熊は鹿高と目を合わせた。
「おまえさんの息子は、とつぜん頼もしくなったな」
「父親の教育がなっていないと反省する毎日です」
「なんの反省がいるものか」
輪熊はもう一度、鹿高を見た。鹿高は小さく頷いた。
「わかった。入彦は、いい兄貴分になるだろう」
「ついては、入彦にやらせておきたいことがあります」
大日は、靫翁を見た。靫翁はすぐに察して、頷いた。
「大日殿。それは、入彦殿をしばらく山門から待避させておくということか」
鹿高が尋ねた。大日と靫翁との間で疎通した意思は、鹿高と輪熊にも通じていた。
「もちろんそれもあります。しかし、さきほど輪熊殿からうれしいお言葉をいただきましたが、入彦はまだまだです。御統だけでなく、山門を託すに足る男になってもらわなければならない。それも早急に」
四人は目で言葉を交わし合い、それぞれの想いに沈んだ。
「戦になるやもしれません。輪熊殿、鹿高殿、靫翁殿も一座を連れて、山門大宮を出たほうがよいと思います」
「もとより根無し草の一団さ。どこへでもいくし、どこからでも逃げる。だがな、困ったことにうちのやつらの中には、ここが気にいっちまたやつがいる。言って聞かすには、少々手こずるかもしれねぇ」
輪熊は笑った。しばらくは大宮に残る。そういうことだ。
「説得を急いでください」
そう言いながら、大日は、この三人が残ってくれることに大きな安心をおぼえた。どこの大族の大夫よりも、この三人は頼りになる。
しかし、この中の誰かが斃れなければならないのなら、それは自分だけで良い。大日は悲壮な決意も持っている。
「それにしても、おまえさんの弟は、なにを企んでいることやら」
輪熊がいった大日の弟とは、傾頭持の登美彦のことである。
その登美彦から緊急の呼び出しを受けたのは、三人が帰ってからの真夜中のことだ。もちろん、呼び寄せたのは山門主の名においてである。
朝服を着替えずに、一睡もせずそのときを待っていた大日は、すぐに参上した。
宮府の奥、内裏の中央にある安殿に進んだ大日は、夏の夜だというのに、室内の空気は氷室のように冷たく、不吉な予兆を感じずにはおれなかった。
そもそも真夜中の呼び出しというところが禍々しい。天神地祇の聖なる意思は、澄み渡った朝の空気の中で下されるものなのだ。だからこそ、朝議は早朝に開かれるのである。
安殿に至るまでには各所に灯りが点されていたが、どの火も寒々しく、死者が赴くという根の堅州に下っていくような不安感をあおった。
山門主が日常生活する安殿の謁見の大室には、大日以外の影はない。いや、大日の側の一本の灯りが弱々しく照らす以外は、すべてが影であるといったほうがいい。
吐く息が白く凍てつきそうな時間を、大日は耐えた。
やがて、二つの灯りが点った。その間に見える玉御簾の向こうには、山門主が座るはずである。
衣ずれの音がし、玉御簾の向こうに、気配が生じた。
いつのまにか、左手の灯火の側に、登美彦が無言で座っていた。
「山門の御言持、春日の彦大日日よ。謹んで余の言葉を聞けよかし」
山門主ではなく、それは天神地祇の声である。大日は、身を床板に伏せ、ふかぶかと額づいた。彦大日日というのは、天神地祇から与えられた名だ。
神々の声を聞きながら、大日は胴を震わした。
神々はいう。青垣山に隠れる真秀場の山門。はるか海の彼方から来たった悪逆の者ども。正しきをもって、邪を討ち払う天地の道理。
「もって御言持は都督となり、山門の兵をもよおして悪逆を討つべし」
遠雷のような余韻を残して、神々の声はやんだ。
大日は体を起こした。玉御簾の向こうに、もはや気配はない。大日はすばやく足を送って、立ち去りかけた登美彦の裳を掴んだ。
「まこと、まことに山門主のお言葉か」
大日は久しく山門主の尊顔を拝していない。玉御簾の向こうに座った人物が、真実の山門主とは限らない。それを知るのは持傾頭の登美彦のみだ。
「これは、異なことを申される。お聞き逃しか。山門主ではなく、天神地祇の御言葉であらせらる」
「どうでもよいことを申すな」
「それは聞き捨てなりませぬぞ」
「戦だぞ。どれほどの兵が死ぬと思っている」
「どれほどの兵が死ぬのかは、都督となられる御言持様のお腕次第」
都督とは総大将のことだ。
「神々は御言持様の軍立ちの腕を高く見込まれているということです」
「だまれ。わたしは戦などをするつもりはない」
「それは、天孫の使者を一喝して追い返した方のお言葉とも思えませぬ」
それに、と、登美彦の目の底が鈍く光った。
「よもやとは存じますが、御稜威なる天神地祇の御心に言向け奉る所存でございますか。であるならば、ただちに大夫を集め、対処をせねばなりませぬ」
対処とは、つまり大日を弾劾し、裏切り者に仕立てて排斥するということだ。
「人主は、人主は天孫族がいかなる人々であるか、くわしくご存じであるのか。かの人々は、決して山門を侵しにきたわけではあるまい」
「さて、どうでしょうか。ここしばらく馳射やら鏡猟やらで騒がしく、御言持様も天孫族の接近を人主にお知らせできていなかったのではございませぬか。それはそれで由々しき怠り」
登美彦は白々しく顎を上げた。
大日の脳裏を、無音の稲光か駆け抜けた。
確かに天孫族の接近を感知できなかったのは御言持としての失態だ。しかし、生駒の山並みの向こうに配してある物見から、報告が入っていなかったのも事実。馳射、鏡猟の対応に忙殺され、報告の途絶に気づかなかったのは痛恨事であった。あるいは、そうなることを見越して、馳射の開催を登美彦は持ちかけてきたのか。
「汝は、汝は知っておったな」
登美彦を射貫く大日の眼光に、怒りの感情が混じった。
「さて、わたくしめごときがどうして知れましょうや」
「人主に会わせてくれ」
「それは適いませぬ。神々の依代となり、人主はたいそうお疲れでございます」
糸を断ち切るように、登美彦は大日の願いを拒絶した。
もはや話すことはないと、登美彦は裳を掴んだ大日の手を払おうとしたが、大日の手はより強く裳を握りしめた。
「登美彦、いや安彦、安彦よ。そなたは一体、何を考えておるのだ」
弟の元の名を呼んだ大日の目が涙でふくれた。
兄の目からこぼれ落ちる光を見た登美彦の目の力が、一瞬、ゆるんだ。振り払うべく大日の手に置かれた登美彦の手は、存外に優しく、その手が大日の手首を飾る管玉に触れた。
「わたくしが考えていることは、あの日と同じでございますよ、兄上」
登美彦の手が大日の手を撫でると、大日の手は力なく床に落ちた。
登美彦は静かに立ち去った。
この夜をもって、兄弟が直接に見えるときは終わった。
朝になって、斎庭に大夫を集めた大日は、天孫族を名乗る鉄兵団を討ち払うことを告げた。
大日は疲れた顔を大夫に見せず、熱を含んだ声で、諸族の長である大夫たちがそれぞれに動員すべき兵の数を指示した。
登美族と春日族を中核にし、諸族の兵が補翼する。斑鳩族は、水軍を担う。全体の総大将たる都督は大日だ。
大日は、戦には乗り気ではない。大夫たちを鼓舞しながら、戦を避けようとする心の目を閉じてはいない。しかし、山門の政体として、山門主の言葉は絶対だ。山門主に降臨した天神地祇や祖霊の言葉には、誰も異を唱えることはできないのである。
戦と決した以上、山門は一枚岩とならなければ、兵の犠牲が大きくなる。御言持が二心を抱いていると大夫が疑えば、山門は戦う前から瓦解する。心の声とは違う声を、大日は発しなければならないのだ。入彦のことを責めてばかりもいられない。
殿舎に戻った大日は、入彦を呼んだ。
朝議には参加していないものの、山門に立ちこめた不吉な気配を明敏な感性で察知していた入彦は、緊張を背負って父の前に立った。
「そなたに、やってもらわねばならぬことがある」
そう告げられた入彦は、体を強ばらせた。入彦は十七歳。従軍を命じられても不思議ではない。
「磯城の三輪山へゆけ」
予想とは違う父の言葉を聞いた入彦は、安心する一方、戸惑いを目に表した。
「磯城族が面従腹背し、服わぬ者どもであることは、そなたも存じているだろう」
もちろん知っている。青垣山の内、山門の内界において、唯一半独立を保っているのが三輪山麓の磯城族だ。かつて激しく矛を応酬したが、ここ十数年はおとなしい。
「三輪山に神奈備入りし、磯城の魂を奪ってまいれ」
大日はそう言ったが、入彦の戸惑いは深まるばかりだった。
神奈備とは、神霊が鎮座すると信じられた山や森のことだ。諸族はそれぞれに神奈備を持つ。たとえば春日族であれば、春日山がそれであり、斑鳩族であれば山門川がそれである。
服わぬ他族を討伐する場合、まず、その他族を守護する神霊や祖霊の力を弱めておく。具体的には他族が崇める山や森に侵入し、主神として現れた神霊や祖霊の御霊を鏡に写し取ってしまうのである。それを神奈備入り、という。当然、神奈備を守る側は様々な呪いの防御策を施しているから、侵入した者が命を落とすことはよくある。矛を戦わせるまえの、呪力での前哨戦というわけだ。
斑鳩族の征服活動が活発であったときは、神奈備入りは頻繁に行われたが、山門盆地をほぼ制圧し、半独立とはいえ磯城族を残しただけのここ最近では実施されていない。
それを、今このときにせよ、と大日が言うのだ。
いずれ磯城族を完全に征服するにせよ、今ではないはずだ。今は、おそるべき鉄の兵団を率いる天孫族に備えるときである。入彦の戸惑いは、そこにある。
「天孫族との間にこそ、抜き差しならぬものがあるのではないかと思っておりましたが」
山門主が告げた神託は大夫までにしか伝わっていないが、山門大宮に暮らす人間で肌の感度が高い者は、すでに戦の気配を感じ取っている。どのみち、諸族が兵を動員し始めれば、その兵糧や軍事物資の調達で、大宮は大わらわになるだろう。
「そなたが案じる必要はない」
大日は、父親の声で、入彦の不安を拭い去ろうとした。しかし、だからこそ心の中に募る思いが、入彦にはある。
山門の危急存亡のときに、父は、自分を必要としない。そんな声が、入彦の中で虚ろに響いた。
それは当然だ、という諦めも、入彦にはある。これまでの自分の行動を振り返ってみるといい。誰が、自分に頼ろうとするだろうか。
「わかりました。さっそく磯城に向かいます」
「豊と御統を連れて行け」
春日族にも優れた術者はいる。それなのに、父があえて豊と御統を指定した意図が、入彦には理解しかねた。豊はわかる。正規の術者ではないが、最高の呪力を持っている。御統がわからない。わからないが、御統と一緒だということが、なぜか安心できた。
「気をつけろよ」
そういって見送った父の瞳の光の重さの意味も、入彦にはわからなかった。
入彦を神奈備入りに送り出したあと、大日は着々と戦の準備を進めた。大彦が春日族の精兵三百人を率いてくると、戦雲はにわかに厚くなった。
山門大宮から立ち昇る火焔のような戦気を遠望したのか、天孫族から三度目に来たったものは使者ではなく、黒い林のような鉄の矛の群れだった。
天孫族は内海に面する難波津を発し、入江をさらに切り込んで、日下の楯津と呼ばれる湊に再上陸した。そこから一気に山門川を遡る構えを示したが、いち早く斑鳩族の水軍を配した山門は、その最も危険な防衛線を固めることに成功した。舟軍では分が悪いと、天孫族は考えを改めた。何しろ斑鳩族の舟は足が速い上に堅牢で、天磐舟と呼ばれている。
次に、山門の天然の城壁ともいうべき山の北側を複数の侵攻路で越えようとしたが、そこも山門の北部に邑を持つ登美族や平群族の俊敏な動きで防ぐことに成功した。
大日は巧みに軍立てし、ある大路へと天孫族を誘導した。
孔舎衛坂。それが大日の構想する戦場の名前だ。
坂と境は、山門において同じ意味である。現世と隠世との境には、黄泉の平坂があると信じられた。平らな坂とは不思議なので、それは川のことなのかもしれない。であれば、三途の川がそれなのかもしれない。
ともかく、山門を取り囲む青垣山の内部が山門の内界であり、その境の外は外界ということなのだ。
その山門の内界に通じる最も大きな路が孔舎衛坂だ。
西から青垣山を越える尾根筋にあたる坂だが、横幅は広い。両側は切り立った斜面で森が深いが、騎馬を縦横に駆けさせることができるほどの広さを持っている。攻める側はこの一路をひたすら攻め寄せればよく、守る側はこの一路をひたすら死守すればよい。
攻めやすく、守りやすい。坂の頂上をどちらが先に取るか。勝負の行方はそこで決まる。
大日は、到着したばかりの春日兵三百をすぐさま孔舎衛坂に向かわせた。率いるのは大彦で、佐けるのは石火だ。この二人が頂を押さえれば、天孫族の鉄兵団がたとえ一万でも、容易に抜かれることはない。
春日兵と入れ替わりに、登美族の兵四百が到着した。うち半数は騎兵だ。他族から長脛彦と呼ばれて恐れられている彼らは、脚を長く見せる革の脛当を巻き付け、勇ましい出で立ちをしている。
登美族は大族であるため動員力はもっと高いが、山門の北側の山の峰々に関塞、つまり守塁を築いて兵を籠めているため、大宮に到着したのはそれだけの人数だ。
ぞくぞくと諸族の兵が集まった。先発した春日兵と合わせて約二千というのが、山門の全軍である。斑鳩族は水軍として百艘の舟を出すほか、山門大宮の守備に残る。
陸上戦に限られるとして、数のうえでは天孫族に圧倒的有利がある。武器も、天孫族が優れている。しかし、十分に勝算はあると大日はみていた。
武装した出で立ちの吉備彦が、大日を仰ぎ見て、力強く頷いた。登美族を率いるのは彼である。神祝ぎの上覧馬合わせでは敗北を喫した吉備彦だが、その経験が彼を一層たくましく育てていた。登美族と春日族が、山門軍の中核であり、強力な鉄槌となるはずだ。
林立する銅の矛が、陽光にも神々しくきらめきわたる。
大日は馬上。出陣を告げる大角を吹き鳴らさせた。
部隊長以上の者は、宮居の前の斎庭で、玉御簾に隠れた山門主に言挙げて祝福されてから、定められた順序で出発していった。
隊列が、大宮の五つの門を通っていく。
大日は最後まで斎庭に残った。
宮居を仰ぎ見ると、いつものように玉御簾の側に登美彦が座っている。その表情は、逆光に隠れていた。
大日の乗馬が、主人を急かすように尾を振った。
おもむろに馬を進めた大日は、右手の甲を目の前にあげた。そこに、登美彦、いや安彦の温もりが残っている。
門を越えていく。
山門の勝利を疑わない大日だが、自分にとっては、帰路のない出立かもしれない。そう覚悟している大日は、縹色の空を見上げながら、昔日を想った。
鉄の兵団、天孫族との決戦に赴く大日。彼の脳裏には在りし日の思い出が去来する。