山門編ー失われた天地の章(1)-俳優の少年
古代日本。光と命が豊かな豊秋島を舞台にした物語の始まり。
俳優の少年、御統は、芸と儲けにがめつい輪熊と強く優しく美しい鹿高が率いる旅芸人一座の輪熊座と一緒に、山門を目指す旅の道中。
山門の天地を見晴るかす高台で一夜を過ごす輪熊座。そこで、ある出会いが御統を待っている。
≪是非ご一読ください。よろしければ、ご感想、ご評価をお願いします!≫
<人物紹介>
御統
俳優の少年。輪熊座の有望株。軽業と戯馬の腕前は抜群。
輪熊
旅芸人一座、輪熊座の親方。山賊のような風貌で、胸に三日月型の傷痕がある。芸と儲けにはがめついが、面倒見はよい。
靫翁
輪熊座の座員。輪熊とは古い付き合い。老人だが肉体は強靭で、強い矢を放つ。
鹿高
妙齢の女性。美形だが口と態度は悪い。女性座員の頭領格で、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。
火を発見し、利用するようになってからずいぶん時を経たが、その大地に暮らす人々の夜はまだ、にぎやかな星々とは対照的な暗さの底にあった。
ところが朝日が昇ると、その天地には光彩が溢れた。空は蒼、雲は白、山は青、草原は緑。川の流れは碧く、花々は野辺に虹を咲かす。何よりも降り注ぐ日光が豊かだ。
草原に走る鳥の影。川辺に遊ぶ鹿。山足を疾駆する野馬。森の梢を跳ぶ猿。木陰に憩う猪。渓流に鮭を追う熊。生命もまた、ここは豊かな天地なのだ。
周囲を海原に囲まれているが、孤独ではない。海原が西に果てれば大陸があり、そこから波を越えて渡来する人々がいた。ただ、その存在はまだ疎らだった。
永遠に死が訪れない常世の原や、天の神々が暮らす高天原などが空想され、ある人はそれを信じ、ある人は笑い飛ばした。
秋には作物がよく実った。山も森も土も海も川も、人々に恵みを与えた。だから人々は、その天地を、豊秋島と名付けたのだ。
そんな世界の一隅で…。
春たけなわの、暮れなずむひとすじの山径。山と谷を縫うようなその径がようやく盆地に落ち着こうとする手前の高地で、一群の集団が野宿の準備に取りかかっていた。馬の背に積んでいた幕舎を下ろし、甕や土器などの炊事道具、眠る際に包まる茣蓙や筵も下ろした。牛が引く荷車には、獣の皮を張った太鼓や諸々の芝居道具、そして木箱に収められた銅鏡が積まれてあった。太く頑丈な檻には虎や豹といった猛獣が一匹ずつ飼われていたが、調教師が焚いた薬草の匂いで、半ば眠ったようにおとなしい。
輪熊座といえば名の知られた旅芸人の団体で、どこの豪族の俳優部にも属さない流れの一座だった。
輪熊座は幻術奇術から、寸劇、舞踊、射術、猛獣曲芸、戯馬までをこなす総合巡業劇団で、特定豪族の後ろ盾はないが、流れいく先々で必ず拍手喝采を沸き起こす実力ある一座だ。なかでも、疾走する駿馬への飛び乗り飛び降りや曲芸乗りを披露する戯馬は自信の演目である。
一座を率いる輪熊はたくましい胸板に三日月型の傷痕を残した男で、庶民の成人男性なら幅広の布を巻き付けただけの布衣が一般的なこの時代に、獣の皮衣を身にまとった出で立ちは山賊との見分けがちょっとつかない。芸と儲けにはがめついが、面倒見がよく、座員には慕われている。なぜが幼児に好かれる傾向があり、年配の座員はもちろん、輪熊本人も首を傾げている。
さて、たたなづく山々に抱かれたような盆地が、盛りの春の夕べの気だるさに沈んでいる。
槻の老木が葉を茜に染めたその下に巨岩があり、そこに腰掛ける小さな影の主は、名を御統という。まだ少年だが、軽業と戯馬の腕前は抜群で、新入りの最年少ながら輪熊座期待の新星だ。ところがこの新星は初々しくは輝かず、堂々と厚かましい光を放っているところが、座員の悩みの種であったり、寸言を余儀なくされるところであったりする。
巨岩の上は、夕霞に赤い筋のような川が幾本も通る盆地を見晴るかすに格好の場所だった。
御統は前髪が触れる眉に手をかざし、目を細めて、盆地の隅から隅までを記憶に写し取ろうとしてるかのようだった。
「おい御統、おまえが帷幕を張るんだよ」
先輩座員のありがたい指導も、御統には馬の耳に吹きかかる春の風だ。かわりに、腰に提げた小さな銅鏡がきらりと光ったが、それはただ光を放っただけのことで、幕舎張りに役立つわけではない。
「やめとけ、やめとけ。あいつに手伝わせたら余計な世話が増える」
別の座員が祟り神を向こうへ押しやるような苦虫顔で、そういった。実際、御統に悪気はないのだが、彼は、彼が手伝えば手伝うほど仕事が終わらないという厄介な法則を抱えている。入団してまだ数ヶ月だが、御統は『いつも面倒と手をつないでいる男』『一歩ごとに誰かの足を踏む男』『声をかければ迷惑と一緒に振り返る男」などの肩書きを得て、早くも座員に怖れられていた。
御統のまなざしに、夜の青さが降りた草原を駆け抜ける影が一つ、映った。
騎馬だ。
御統の時代、人が馬に乗るのは、まだ珍しかった。御統も馬に乗るが、それは観客を楽しませる戯馬という演目の都合に過ぎない。だが、落陽に向かって疾駆するあの騎馬は、明らかに走るために駆けている。
馬を巧みに乗りこなすことを『馭する』というが、むろんそんな言葉を知らなくとも、御統は馬の扱いには自信があった。夕闇の草原に黒々とした航跡を引きながら馬を疾駆させる乗り手の腕前は、なかなかのものだと、手を頭の後ろに組んでふんぞり返る御統は不敵に鼻を鳴らした。
鳴ったのは鼻だけではなく、彼の頭のてっぺんも重奏した。しかも、御統の目から星が飛び散るほどの派手な音を立てたから、見ていた座員も思わず痛みが自分にも飛んできたかのように顔をしかめた。
「そこは一番えらい男が座る場所だ」
白い煙をたゆたわせるような拳を一吹きして、輪熊がそれこそ岩のような尻で御統を押しのけた。涙目になった御統は、それでも巨岩に尻を残す強情をみせた。
「ふん、騎馬か」
輪熊は、もう御統を気にしてはいない。御統は、身長が縮んだらどうしてくれるだの、児童虐待暴力反対だのと一生懸命に訴えていたが、輪熊の耳は知らん顔をしている。人の話を聞かない人間を、御統は好きではない。もちろん、自分は除いている。
「あれは登美族だ」
だれも尋ねてはいないのに、輪熊は訳知り顔で話し始めた。この極悪山賊、乱暴熊と、御統はほえたてた。悪口は聞き逃さない輪熊は、
「この広大な盆地を支配する山門主を武力で支える一族だ。やつらの騎兵は強力だ。革の脛当が脚を長く見せるから、やつらは長脛彦とも呼ばれているらしい」
と言いつつ、さっきとは違う方の拳を、ふっと拭いた。星やら鳥やらを頭の上に旋回させながら、自分も目を回している御統が、巨岩の下で伸びている。
「ぐだぐだやかましいこと言ってねぇで、働いてきやがれってんだ」
怒声で吹き飛ばすように御統を追っ払った輪熊だが、もちろん一番やかましいのは本人である。
つい先ほどまでの御統と似た格好で同じように鼻を鳴らした輪熊は、しばらくも経たないのに背後が余計に騒がしくなってきたことに夕陽よりも顔を赤くした。
「おい、虎の檻を開けるな」
「つまみ食いした奴はだれだ」
「うおっ、整然とならべていた土器が謎の隊列を組んでいるぞ」
「帷幕の綱をほどいた奴はだれだ」
「てか、帷幕が燃えてるぞ」
騒ぎには悲鳴も混じっている。
口いっぱい頬張った苦虫をこれ以上噛みつぶせそうもなくなった輪熊は、鼻と耳から蒸気を噴き出してから、
「御統ゃー!!こっちきやがれ!」
と、怒号した。その勢いで、夕陽を遮っていた槻の老木の葉が吹き飛び、真っ赤なしずくが降り注いで、巨岩はまたたく間に赤に染まった。
野営の準備の輪からつまみ出された御統は、本人的には不服なのか、口先を尖らせて、巨岩の上で輪熊と影を並べた。
斜光が力を失っていく。空はもう夜の色だ。星を数えていられるのはわずかの間で、数えることの馬鹿らしさを、星空はすぐに教えてくれる。もっとも、御統は百よりうえの数字を知らない。
「ここの天地を山門という。みろ、両側から山に囲まれて、うまいこと名付けたもんじゃねぇか」
輪熊は左右の太いひとさし指で、峰に峰を重ねる遠い山影をなぞるようにしめした。山足を隠していた夕霞は、もう濃紺の夜にかわっている。
「おれっちにはでっかい管玉にみえるけどね。門なんてどこにあるのさ」
御統には山門の謂われが、すんなりと納得できない。管玉は管状の宝飾具で 腕飾りや首飾りとして用いるものだ。御統も赤碧玉の管玉を細い首もとに飾っている。同じ輪っか状の宝飾具でも、輪熊の丸太のような腕に巻かれているのは釧という。輪熊の釧は石製のものだが、高価なものには銅釧もある。気高い黄金色の銅釧は貴人の身を飾るにふさわしいが、赤碧玉の管玉も、本来、俳優の新人小僧が身にするべきものではない。
輪熊は肩を揺すって笑った。
「それはおまえが虎の目でみているからだ。みてみろ」
輪熊は山影をなぞり終えた左右のひとさし指をそろえ、おおかた大地に溶け込んだ夕陽を突き刺すように指した。ところで、虎の目というのは、西を向く目ということだ。天地に四方を合わせて六合とする思想は、豊秋島にはまだ浸透していないが、方角の観念はあった。つまりは東西南北だが、それぞれの方角には獣が居座っていると考えられていた。それは龍、虎、鳥、亀で、西を向いているのは虎だとされた。虎の目とは、つまりそういうことである。ちなみに、方角を十二に分け、十二の獣を配するという新しい考え方が海原の向こうの大陸から伝わってきていたが、学の浅い輪熊にとっては、方角はあいかわらず四つしかない。
夕陽をみろといわれた御統は目をすがめた。光力を弱めたとはいえ、陽はやはり眩しい。
「日はどこへゆくと思うか」
日はむろん太陽のことだ。御統は、しらない、と答えた。
「海だ。海に沈んでゆく。山門を囲む山の向こうは海だ。ここの天地を拓いた大昔の人間は海から来たのだ。川をさかのぼってな。龍の目でみてみろ。川の両岸に迫ってくる山崖は、きっと巨大な門に見えたことだろう」
輪熊が誇らしげに語ることではないのだが、歴史というものに、彼は浪漫を感じる質だった。ちなみに、龍の目とは東を向く目ということである。
「ふ~ん」
御統も目を輝かせた。浪漫に感化されやすいのが少年という成長段階の特徴といえる。
「それじゃ、常世の原も、海の底にあるのかもしれないね」
御統は声を弾ませた。
御統が常世の原という言葉を口にするとき、輪熊の目はいつも潤いを帯びる。いたわりの光が目の奥に灯る。
「そうかもしれねぇな。いつか、一緒にいってみるか」
大きな手を頭に乗せられると、御統はうれしそうに笑った。
佳い光景だと表情を緩ませたのは、一座で靫翁と呼ばれる細身の老人だ。細身とはいっても肉体は強靱で、髪と眉は白いが、射る矢は、弓矢をもって自負する者の顔を青くさせる。名に靫を冠する所以だ。ちなみに、靫とは、矢を入れて背負う細長い箱形の道具で、靫とも読まれる。
「いいか、御統」
輪熊は座長というより父親という顔で、御統に語って聞かせた。
「おまえがどう思おうとも、このたたなづく山並みに囲まれた天地の名は山門だ。豊秋島のちょうど真ん中にあって、そのまた真ん中に大きな都がある。山門大宮だ。五つの濠でかこまれたでっけえ都だ。山門は斑鳩族が造った。なんでもその昔、空を飛ぶっていう天磐船にのって川を遡ってきたらしい」
「空が飛べるのに川を遡ってきたの」
「さかしらなことを言うもんじゃねぇ。言伝えってのはな、そのまま飲み込んだほうが美味いもんだ」
そう教えられた御統は、大きく口を開けて、まだその辺りにただよっているはずの輪熊の言霊を吸い込んだ。しばらくして、目をぱちくりさせた。美味くない。野宿の準備をほぼ終えた座員が振り返るほど、輪熊は大声で笑った。
「ともかくだ。斑鳩族の氏上は饒速日って名前だ。山門主と呼ばれているが、いまも、都の立派な屋敷の奥でふんぞりかえっているだろうぜ。威張っていられるそのわけは、いろいろな族に支えられているからよ。なかでも登美族が強い。ほれ、さっきの騎馬も、乗っていたのは登美族にまちがいねぇ。天磐船もそうだが、速さを知っているやつぁ強ぇやつよ」
輪熊は丸太のような腕を組んで、鼻息を巨岩に落とした。御統には速さが強さだという図式が理解できない。目に見えない強さがあることを認識するには、まだ御統は成長を重ねる必要があるが、さしあたり、彼のどんぐり眼には輪熊より強い男が映ったことはない。
こうばしい香りを風が運んできた。御統の鼻と腹の虫が反応するよりも早く、
「おう、めしができたか」
と、輪熊ががなった。すると、夕飯が土器にのって輪熊に運ばれてきた。なるほど、いち早く声を挙げたところに飯がきた。飯を腹一杯たべる男は強い。つまりはそういうことかと、御統は少々違った角度で速さが強さの図式を理解した。
ところで『めし』は、いわゆる白米のことではない。そもそも『めし』という発音が『食べる』の尊敬語『召す』に由来するという蘊蓄はともかく、御統の日常に、米を炊いて器に盛りつけるという習慣はない。
主食は団栗だ。特に椎の実は渋みが少なく甘みがある。皮をむいて乾燥させておけば携帯食として都合が良く、輪熊座も相当量を牛に牽かせている。粉にして練れば麺麭が焼ける。
御統も、木串にさした団栗麺麭にありついた。
御統に夕飯を届けてくれたのは、妙齢の女性だ。女性座員の頭領格で、女性らしさよりもたくましさが前面に押し出ているが、年端のいかない者には分けへだてなく優しい。ただし、口と態度は悪い。
「ほれ、くいな」
うかうかすると木串で両頬を縫い付けられそうな勢いで団栗麺麭を御統に突きだしたが、
「蜂蜜をまぜてある。どうだ。あまいだろう」
そういって細める彼女の目の光は、とても温かだった。
彼女は鹿高と呼ばれている。衣服の上からでも、高々と跳ねる鹿のような優美な裸体が想像できるからだ。
鹿高は、鮮やかな白の貫頭衣を燃えるような赤の木綿の帯でしめ、これも純白の横布で腰を巻き、そこに獣の皮衣をかぶせているものだから、まるっきり山賊の女頭目だ。輪熊のつれあいにちょうど良いが、二人は夫婦ではない。だが、輪熊がこの世で唯一頭が上がらない存在であることにちがいはない。
御統の嗅覚には少し刺激の強い匂いがただよってきた。輪熊が、生地に山椒を練り込んだ団栗麺麭を持ってこさせたのだ。
給仕した座員は、ついでに干した猪の肉を焼いたものも置いていった。さっそく御統が飛びつく。一切れを口に入れると、くせはあるが旨味のたっぷりある肉汁が喉をすべり落ちた。輪熊は骨が付いたままの肉塊にかぶりついた。
「おい、てめぇら。あと二つ日が沈む頃には山門大宮に着いてやがらぁな。今夜は残った食料、全部くっちまおうぜ」
肉の味に気をよくした輪熊ががなりごえと一緒に、かじり跡付きの骨付き肉を月に向かって突き上げると、焚き火を囲んで車座になっていた座員が歓声でこたえた。
鹿高は白々しい鼻息をついて、あきれた目で輪熊をみた。
「なにばかなこといってんだい。明日の食料はどうすんってんだい。あんた、まさか子ども達に一日腹をすかせてなというつもりじゃないだろうね。それとも、その付きすぎた贅肉をこそげ落としてくれってのかい」
鹿高は赤の木綿の帯に挟んでいた黒曜石の石包丁をとりだし、その刃に指をすぅっと滑らせた。
輪熊の笑いが凍った。鹿高ならやりかねないことを知っているからだ。だから輪熊は、咳払いして、
「おほん。明日の分を少し残して、今夜は宴会だ」
と、先ほどの提案を下方修正した。座員は大笑いした。
鹿高を頭領とする女性座員がしっかりと管理していたので、明日の分を残しても、じつは十分に食料はあった。だから、鹿や猪の肉やら、栗を炒ったものやら、くるみやら、葡萄葛やら、瓜やらが土器にたっぷりのって並ぶと、鹿高も思わず笑顔をみせた。
鹿高が葡萄葛の房をひとつ手に取ったのをみて安心したのか、輪熊がまた騒ぎ出した。
「おい、酒があったろう。浄めねぇといけねぇ道々(みちみち)はもうそんなにねぇはずだ。どんだけ残ってる」
酒と聞くと男の座員も騒ぎ出す。さっそく甕の中を確かめた座員が、
「あるある、たんまりある。うっかりこぼすと、山門大宮が酒に浮いちまいそうだ」
と歓声を挙げた。
「そいつぁいい。そいつを飲み干すってことは、つまり山門を飲み干すってことだ。これから一儲けも二儲けもしようってわしらには縁起がいいじゃねぇか。おい、早く酒を回せ回せ」
男の座員の頭上を、酒がめが目まぐるしく回った。
鹿高は、酒のことには何もいわない。苦笑しているだけだ。子どもは酒を飲まないし、飲むのは馬鹿な男どもだけだからだ。
下世話で品のない話題といっしょに一座の馬鹿な男どもの胃袋に流し込まれている酒は、酒といっても果実を発酵させた一夜酒で、甘酒やどぶろくのようなものだ。若く清らかな巫女が稲の実を噛んで醸した神酒ではない。『かむ』から『かも』すのだ。
ちなみに、酒は本来、浄めに用いるものだ。酒は神々の飲み物で、豊秋島の人々は、大地には大地の神々である地祇が鎮まっていると考え、悪霊もまた大地に潜んでいると考えるのが一般的だった。そのため旅人は、行く先々の道中を酒で浄めるのが常識だった。道に酒を振りまけば、悪霊は退散させられ、地祇は酒に酔って快く旅人を通すという道理だ。もちろん、旅人みながみな、一歩毎に酒をふりまけば大地は酒びたしになるわけで、つまりは出発の朝の儀式にすぎない。ただ、儀式といってもおざなりにはできず、輪熊一座も毎朝神妙な顔つきで酒をまく。
何事にも都合を無視した厳格さを求める人間はいるものだが、もし仮に、大地を浄め地祇に奉る酒は巫女の噛んだ神酒でなくてはならないと賢しらに意見を呈する者がいたとしたら、彼は輪熊の拳骨をその身で味わうか、さもなければ、
「いますぐ巫女の噛だ神酒とやらを持ってこい」
と、落雷のような轟き声に追い立てられることだろう。これは、輪熊が横暴ということではなく、彼なりに地祇への礼儀を一生懸命に行っているということなのだ。ただこの夜は、地祇のための酒を浴びるように飲んでよろこんでいる。
一夜酒だから、酒精は高くない。それでも飲酒の習慣のない庶民は十分に酔える。輪熊も上機嫌だ。
輪熊は気分が高まると、子どもたちと戯れるという癖がでる。この夜も、垂髪の子どもらを、男児とも女児ともわけずに抱き上げては高く放り投げ、胸で荒々しく受け止めるということを、子どもらのねだるままに繰り返した。肘を張ればちょっとした大木の枝のような腕に子どもらを何人もぶらさげてみせたり、年長の男児十人ばかりと力競べをとったりした。果ては牛から外された荷車に子どもらを乗せて、持ち上げたり、揺らしたりして笑い声を巻き起こさせた。
御統は鹿高の隣に座って、果汁を漉したものを飲んでいた。御統は髪を揚巻に結ってあるから、子どもらの輪には入らない。かといって、男どもと酒を飲む年でもない。どちらの輪にも入らない御統は、傍目には寂しげにもみえるが、本人は輪熊と子どもらとの戯れ姿をみて喜んでいる。
図体はでかいが、酒精許容量はそれほどでもない輪熊は、荷車を抱えたまま、大きな音を立ててひっくり返った。荷車に乗っていた子どもらは、幼くともさすがに芸人の座員だけあって、放り出される荷車から軽々と飛び降りていた。
「おいおい、だいじょうぶかよ」
だれも輪熊を心配せず、荷車を案じた。
高いびきの輪熊は、数人がかりで三重に張られた帷幕に放り込まれた。輪熊の幕舎が三重張りなのは、彼の発する騒音で、他の座員が眠れないからだ。あまりにひどいときは、鹿高の指揮で、輪熊を山奥に捨ててくることもある。翌朝、笹の葉の擦り傷だらけの輪熊は当然激怒して、冬眠明けの熊も道を避けるような形相で山中から出てくるが、大抵、もっと恐ろしげな形相の鹿高に怒鳴りつけられて終わる。その一幕は、座員にとって、おそろしくも滑稽な光景だった。そんなわけで、座員は全員、老いも若きも男も女も、輪熊と鹿高を慕っている。
鹿高は御統だけでなく、一座の子ども達全員の母親だ。旅芸人の一座にいる子どもは、出生が明らかな方が珍しく、ほぼ孤児達だ。理由はさまざまだ。山賊に襲われて消滅した邑の生き残りの子がいるし、売られていた子もいる。御統の時代の豊秋島では、まだ定住していない民族も多く、移動中にはぐれた子もいる。彼等は不幸には違いないが、それでも日々笑うことができるのは、鹿高がいるからだ。もちろん、輪熊だって芸にこそ厳しいが、父親の温もりも持った男だ。
「さぁ、もう寝る時間だよ」
子ども達を幕舎に連れていく鹿高を見送った御統は、彼の幕舎まで歩いた。途中、酔い潰れている座員の顔や背中などを踏んづけたが、御統にその自覚はあまりない。
御統の幕舎は靫翁と同じだ。なにかとやっかいを持ち込む御統との同室を、他の座員が嫌がるからだ。不思議と、靫翁の前では、御統に取り憑いた法則やら面倒やら迷惑やらは悪さをしない。
靫翁はもう眠っていた。御統も横になったが寝付けなかった。斑鳩族が造ったという山門大宮の姿を想像しようとしたせいもある。しかし、それよりも他に、なにかが心を疼かせるのだ。
御統は眠ることをあきらめ、幕舎をでた。宴会の余韻は、静かで冷たい山の夜気にすっかり消え去っていた。獣よけの松明だけが、細々とした音を立てていた。
「眠れないのかい、御統」
声をかけたのは鹿高だ。子ども達を寝付かせ、自分の幕舎に戻るところだったのだ。
「うん。おれっちのここのなかで、だれかが呼んでいるような気がするんだ」
自分の胸を指さして、御統ははにかんだ。われながらおかしなことをいうものだと思ったからだ。
「そうかい。そういうときはね、なにかいい出会いがあるもんさ」
鹿高はそう言って、御統の腰の辺りを見た。そこに提げられている小さな銅鏡が、今夜はそれほど月明かりが眩しいわけでもないのに、やけにきらきらと光を弾いている。
「どうだい、今夜はいっしょに寝るかい」
鹿高がそう提案すると、月よりも銅鏡よりも強く、御統の顔が輝いた。
「いいの、女将さん」
「いいともさ」
鹿高は御統の肩の辺りに手を回した。柑橘系の甘酸っぱい香りをかいだ気がした。鼻がかいだのか、心がかいだのか、それは御統にもわからない。
気立ては男勝りだが、やはり妙齢の女性だけあって、鹿高の幕舎は質素ながら華やぎがあった。旅の身空の俳優一座の幕舎だから、造りは風雨と夜気をしのげるだけの簡易なもので、床は草地のままだ。むろん調度品などありはしない。そこに、葛の褥をひき、身の上には衾を掛けて眠るのだ。
鹿高はすっとした動作で内衣だけになった。促されて夜具に入った御統は、普通の男なら生唾を飲みそうな鹿高の身体のなめらかな温もりに、女を感じるよりも、まだ母を感じる年頃だった。
母はどんなだったろう。鹿高のように、優しく、強く、そして美しかったろうか。
見たことのない母の姿を想像すると、御統はまた眠れなくなった。
「あんたはふしぎな子だね」
鹿高は、御統の揚巻の髪に指先を滑らせた。
「あんたはね、小さい頃はずっと、輪熊と一緒じゃなきゃ眠らなかったのさ。あの大いびきのなかですやすや寝ていたもんだ。それが、この静かな夜に眠れないんだからねぇ」
鹿高のいう、その小さい頃の記憶は御統にとって、あまり鮮明ではない。物心がついたとき、御統は輪熊の舎にひとりで過ごすことが多かった。旅の幕舎ではなく、小さい、風雨がやっとしのげる程度の荒ら屋だ。輪熊はときどき帰ってきたが、そんな日の夜は、輪熊は遅くまで眠らなかった。夜明けまで、誰かと話していたこともあった。ある日、帰ってきた輪熊は、次の日に御統を輪熊座に連れていった。輪熊は荷物を全て持ち出させ、舎に火を掛けた。そこで過ごした何年かの月日が灰となり、御統の旅の日々が始まった。御統は大人の男の群に入れられた。
「歌でもうたおうかい」
鹿高は、御統の腰の辺りに置いた手で拍子をとりながら、静かに、小鳥が囁くように歌った。荒くれ男が歌うがさつな歌だが、鹿高がそれをゆっくりとした音調で歌うと、まるで賛美歌のようだった。鹿高の歌声を心の耳で聞いているうちに、御統は眠った。
しばらくして。
御統の銅鏡が音を立てるような軽やかさで、小さく、ひとりでにきらめいた。その音に揺り起こされたように、御統は目を覚ました。
鹿高は眠っている。
御統は鹿高の眠りを妨げないように、こっそりと夜具を出た。
鹿高の幕舎も出ると、草も虫も深く眠る深夜の最中だった。
銅鏡に起こされたとは、御統は思っていない。腹に起こされたと思っている。要するに、腹がへったのだ。
男たちが車座で囲んでいた焚き火のそばに、まだ食べ残しがあったことを目ざとく見つけていた御統は、腹の虫に誘導されながらそちらへ向かった。
酔い潰れていた男たちも、いまはみな、幕舎に収容されているようで、人影も酒臭さも残っていなかった。
月も星も、今夜は光が弱々しい。雲が邪魔をしている。
埋み火のようになった焚き火の焼け残りのかすかな明かりに、動く影があった。
夜行の山の獣かと、御統は身構えた。食べ残しの匂いにつられるとはよほど食い意地の張ったやつだろうと、自分を省みることのあまり得意でない御統は思った。
冗談はさておき、夜行の獣は危険なものが多い。人を呼ぼうかと思いながら、帯に結んでいる小さな石刃に指を掛けた。
夜の底で、二つの光が御統をみた。星がそこに落ちていたのかと見まがうほどの輝き。光はすぐに闇に消えた。同時に、御統も走り出していた。
獣ではない。
人だ。あれは人の目だ。
漆黒の中を走って、しばらくして御統は足を止めた。あまり行くと、谷底に落ちるかもしれない。
閉じた瞼の裏に空想するような微かな人の輪郭は、もうどこにも見えなくなった。もともと、人などいなかったのかもしれない。
御統は輪熊座の野営地に戻った。
二つの光が落ちていた焚き火の傍に腰を下ろした。
干した鹿肉が焚き火の埋め火に突き刺さって良い匂いをただよわせていた。無造作に引き抜く。
歯形が残っていた。獣のものではない。もちろん一座の人間でもない。御統を見て、逃げる必要がないからだ。
誰かいた。
その誰かの想像がうまくできなかった。
輪熊が夕方に話していた斑鳩族か、登美族の人間かもしれない。
彼等はどんな姿をしているのだろう。彼等は常世の国への行き方を知っているのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、御統は干した鹿の焼き肉をほおばった。
輪熊座には孤児が何人もおり、御統もそのひとり。旅芸人一座の生活は苦しいが、輪熊や鹿高、そして靭翁たちに見守られて、みんなすくすくと育っている。そして御統は、かけがえのない友人と出会うことになる。