第四話
「……それじゃ、次はバーを使ってのプッシュアップをするわよ? ……和輝? 聞いてる?」
「はぁ、はぁ……ちょ、ちょっと待ってくれ……ま、また、腕立て伏せ……?」
「そうよ。さっきも言ったでしょ? 色んなバリエーションのプッシュアップで身体をイジメ抜くって」
「も、もう無理……ちょっと休憩させて!」
杏のトレーニングについて行く、という先ほど誓ったばかりの決意もむなしく、俺は体育館の床に大の字に倒れ込んだ。彼女の言う通り、腕立て伏せには色々なバリエーションがあった。
腕の幅を広げたり、身体をひねりながら倒したり、腰を突き上げた状態で頭から前のめりに身体を下ろしたり……様々な腕立て伏せを連続で行ったおかげで、俺の上半身はすでに悲鳴をあげていた。二の腕がプルプルと震え、胸やわき腹の筋にも痛みが走る。
俺は荒く息をつきながら、旧体育館の天井をただぼんやりと見上げていた。
「何よ? 情けないわね……まだスクワットも縄跳びもしてないのよ?」
天井の骨組みを遮るように、俺の視界に杏の顔がにゅっと現れる。彼女も俺と同じ数だけ腕立て伏せをしているはずなのに、涼しい顔をして俺を見下ろしている。
「だって、同じ運動ばかり、しつこく何度もやらせるんだもん……少しは休憩したくもなるって。どうせなら、他の運動と交互にやらせてくれよ」
「なるほど。それも一理あるわ。じゃ、プッシュアップとスクワットを交互に混ぜれば、和輝もノンストップでトレーニングできるってわけね?」
「いや、ノンストップって部分は保証できないけど……」
「もう、しっかりしてよね? あんたも男子なんだから、この程度の運動は中学の時にやってたでしょう?」
「俺は体育会系じゃないんだ。腕立て伏せなんて、こんなにやったことがないよ……。杏の方こそ、なんでそんなに元気なんだ?」
「こういうのは慣れよ、慣れ。毎日、トレーニングを続けていれば、自然とできるようになるものよ?」
杏は涼しい顔でそう言い放つ。彼女にやせ我慢をしている様子はなく、激しい運動の後だというのに物足りなさそうに身体をストレッチさせている。どうやら、杏が日々トレーニングに励んでいることも、彼女の言う「毎日トレーニングを続ければ、自然とできるようになる」という言葉にも偽りはなさそうだ。
だけど、こんなトレーニングを毎日って……しかも、今の運動は杏に言わせればまだ序の口らしい。これじゃ、演劇の練習を始める前に、俺の身体がおかしくなっちまいそうだ。
「しょうがないわね……それじゃ、少し休憩しましょうか。」
俺の不平不満に呆れたのか、杏はようやく休憩の許可を出してくれた。
彼女は床に置いておいた水色のポーチを持つと、中から何やら茶色い筒状の物を取り出した。長さは鉛筆と同じくらいだが、太さは倍ほどもある。杏はその筒を人差し指と中指の間、第二関節のあたりで挟むと、おもむろに口の端でくわえた。
え? あれって、もしかして……!?
「お、おい、杏! それって、煙草じゃないのか!?」
俺は驚いて、思わず上体を起こす。
「え? 違うわよ。これは葉巻よ」
杏は悪びれた様子もなく、指に挟んだ葉巻を俺に見せびらかす。
「そういう問題じゃないだろ! 学校で葉巻をくわえるなんて……」
俺はそう言いながら、この旧体育館が人気の少ない絶好の隠れ場所であることに思い至った考えてみれば、俺が昨日、ここを訪れるまで、旧体育館は単なる物置き場として使われていたのだ。それも、置いてあるのは何の競技の用具なのかもよくわからない古びた物ばかりで、最近使用されたような形跡もない。
当然、生徒たちは見向きもしないし、先生たちも頻繁に見回りに来ることもないだろう。つまり、そんな学園内で忘れ去られたような場所で、杏が堂々と葉巻をくわえているということは……彼女は部活動という名目で、この旧体育館を自分の隠れ家、あるいは仲間を集めてのたまり場にしようとしてるのではないか……?
そんな推理が頭の中で閃いた瞬間、俺は辛抱たまらず、杏に向かって声を荒らげた。
「見損なったぞ! もしかして、お前、部活を始めるなんていうのは単なる建前で、本当はここを隠れ家にして、煙草を吸ったり、授業をさぼったりしようと思ってるんじゃないのか!? 何がトレーニングだよ! その上、会ったばかりの俺まで誘うなんて……どういうつもりか知らないけど、俺はお前の不良仲間になんかならないからな!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ? あんた、何を一人で勝手に興奮してるのよ? あたしが不良? ここが隠れ家? 煙草? さぼる? ……正気で言ってんの?」
「な、なんだよ? 違うって言うのかよ? 葉巻なんて、そんなマフィアみたいな物、口にくわえておいて、よくいうな」
「え? あ……わかった。あんた、これを本物と勘違いしてるのね?」
「え? 違うの……?」
「当たり前でしょ!? あたしが本物の葉巻なんて吸うわけないじゃない!? これはチョコレートよ!」
そう言って、杏は葉巻状の筒の表面にある包み紙を破ると、ガブッとかじってみせる。
「あんたも一本食べる?」
口をもごもごさせながら、杏は俺に葉巻……型チョコを差し出す。
「いや、いい……」
「いいから、食べなさいよ? 結構いけるわよ?」
バツの悪さから一度は断ったのだが、杏の押しに負け、俺は渋々葉巻型チョコを受け取った。茶色い包み紙を破ると、中からは包み紙よりもさらに濃い茶色のチョコレートスティックが姿を現す。
念のため、つついたり匂いをかいだりした後、かじりついてみると……口の中にカカオとミルクが混じった甘い味が広がっていく。いまさら疑うまでもなく、やはり杏の持っていたこのスティックはチョコレートのようだ。
「どう? おいしいでしょ?」
「こんなの、いつも食べてたら太るんじゃないか?」
「大丈夫よ。毎日、トレーニングでたくさんカロリーを消費してるから。かえって、チョコレートで栄養を補給しなきゃ足りないくらいよ」
バツの悪さついでに、ちょっと意地悪なことを言ってしまった俺だが、杏はまったく気にした様子もない。
「和輝、あなたって男の割には身体が細いわね? ちゃんとしっかりご飯を食べなきゃダメよ? これから毎日トレーニングをするんだから、いっぱい食べないとドンドン痩せてっちゃうわ!」
「や、痩せるほどのトレーニングをしなきゃいけないのかよ……」
「当たり前でしょ。いっぱい練習して、それ以上に食べて、強く逞しく、大きな身体を作らなくっちゃいけないんだから」
「え? 体力をつけなきゃいけないのはわかるけど、別にマッチョになる必要はないんじゃないのか……?」
「いいえ、ただ筋肉があればいいってもんじゃないわ。相手選手を軽々と持ちあげるパワー、リング内を縦横無尽に駆け回るスピード、60分フルタイム戦っても疲れないスタミナ、どんな攻撃を受けても壊れないタフネス……この全てを兼ね備えた身体を作らなきゃいけないんだから。、求められるのは、見栄えだけがいい単なるマッチョとは似て非なる強靭な肉体なのよ」
「強靭な肉体って、そんなおおげさな……大体、パワーだのスピードだのって……そんな格闘技じゃあるまいしさ……」
「何よ!? 失礼ね! プロレスが格闘技じゃないって言うの!? それはもちろん、昨今はプロレスのスタイルも多種多様なものがあるし、非日常空間の演出やお客さんを魅了するエンターテインメント性もプロレスの重要な要素ではあるけど……その大元にはちゃんと格闘技としての要素があるからこそ、はじめて成り立つのであって……」
「わ、わかった、わかった! 杏がプロレス好きなのはよくわかったよ! ……ん? プロレス……?」
ちょっと待てよ……? さっきから、ちょいちょいひっかかってはいたが、もしかして俺は……いや、俺と杏はとんでもない勘違いをしているのでは……?
そう思った瞬間、俺の中にバラけていた点と点がつながっていき、ひとつの認めたくない線を形作っていく。
俺は、その線を否定してほしくて、おそるおそる杏に問いかけた。
「な、なあ、杏? 今、俺たちがやってるトレーニングって、なんのトレーニングなんだ?」
「なんのトレーニングって……プッシュアップと言えば、プロレスのトレーニングに決まってるでしょ?」
杏は当然といった顔で返事をしてくる。やはり、彼女の口からはプロレスという言葉は出ても、演劇という言葉は出てこない……。まさか、まさか……俺はとんでもない思い違いをしていたのではないか? 持田杏はそもそも演劇部志望などではなかったのではないか……?
俺は少し焦りながら、なんとか自分の考えが間違いであることを確かめたくて、さらに杏に質問を重ねる。
「い、いや、それはいいんだけど……なんで、そのプロレスのトレーニングを俺たちがやらなきゃいけないのかな、と思ってさ……」
「なんでって……そんなの決まってるでしょ? ここがプロレス部だからよ!」
「え……? ええええっ!? ぷ、プロレス部……!?」