第三話
翌朝、俺が昇降口で上履きを履こうとしていると、「おっはよ~‼ 和輝‼」という元気な声と共に背中をポンと叩かれた。
だが、俺はまだこの学校に来てから、下の名前で気安く呼ばれるほどの友人を作っていない。というか、友人に下の名前で呼ばれた経験自体、ほとんどない。つまり、声の主は確認するまでもなく、昨日旧体育館で出会った女生徒……持田杏である。
俺はいきなり声をかけられてビクッとしてしまったのを隠しつつ、自然に挨拶を返そうとしたのだが、「や、やあ、おはよう……」とあからさまにぎこちない返事をしてしまった。
「あら、元気がないわね? どうかしたの?」
「別にどうもしてないよ。むしろ、君が朝っぱらから元気過ぎるんだよ」
「そう? あたしはいつもこんな感じだけど……和輝は朝が弱い方なの?」
「いや、多少は眠いけどさ、弱いってほどでもないんだけど……」
さすがに本人を目の前にして、「君のせいで調子が狂ってるんだ」とも言えず、俺は言葉を濁す。
「なんだか、はっきりしないわね。そんなことじゃダメよ? 元気が一番! 『元気があれば、なんでもできる』って言うでしょ?」
『言うでしょ』と言われても、そんな言葉には聞き覚えがないんだけど……誰が言い出した言葉なんだ? それとも、彼女が考えた造語か冗談か?
俺たちは上履きに履き替えると、昇降口から右手に曲がり、一年B組の教室へと向かった。王輪学園の教室は一年生なら一階、二年生なら二階と、学年と教室のある階の数が同じになっている。つまり、上級生になればなるほど、朝の登校や体育の時間が億劫になっていくという不公平な仕様になっているのだが……ま、新入生の俺が考えることではない。今は一年生であることのメリットを享受し、のんびり楽々と教室へ向かわせてもらおう。
「あ、和輝? そう言えば、旧体育館の鍵、返しておいてくれた?」
「う、うん、ちゃんと職員室に戻しておいたよ」
「ありがとう。いやぁ、昨日は和輝と会ったせいか、テンションが上がっちゃってね……思わずダッシュしたんだけど、気がついたら全然知らない所でさ。慌てて近くの人に道を尋ねたら、あたし、自分の家と真逆の方向に走ってたみたいなのよ。びっくりしちゃったわ。ま、おかげでいい運動ができたんだけど……和輝はあれから、特に変わりはなかった?」
持田杏はあれこれと話をしているが、俺にはどうしても一つ気になる点があった。こういうことは早めに確認しておかないと、後々面倒なことになる。俺は彼女の話にかぶせるように言った。
「あ、あのさ、持田さん。話をさえぎって悪いんだけど……その和輝って呼び方、ちょっと気になるんだよね……」
「あれ? もしかして、あたし、名前間違えてた? ごめんね、和輝じゃなくて和志だったっけ? それとも、和之? カズチカ? 一夫?」
「いや、和輝で合ってるんだけどさ……いきなり下の名前で呼ばれるのって慣れてないし、なんだか恥ずかしいんだけど……」
「あ、そうだったんだ……じゃ、もしかして、あたしに和輝って呼ばれるの、すごく嫌だった?」
持田杏は俺の目をじっと見つめながら言ってくる。その顔は心なしかしょんぼりしているように見えた。
あれ? 俺、下の名前で呼ばれるのが、なんでそんなに嫌なんだろう? 目の前の女の子を落ち込ませてまで、否定しなきゃいけないことか? ……持田杏に見つめられている内に、俺の考えが揺らぎ出す。
「え? いや、まぁ、ちょっと恥ずかしいかなっていうくらいで、すごく嫌ってほどでもないんだけど……」
俺はしょんぼりしている持田杏を元気づけようと、優しく声をかけたのだが……。
「……本当? つまり、嫌じゃないのね? それじゃ、和輝って呼ばせてもらうわ! 改めてよろしくね、和輝!」
彼女は俺の想定をはるかに超える早さで元気になった。いや、いいんだけどさ……こっちにも励まし甲斐ってもんがあるんだから、もう少しゆっくり元気になってくれよ……。
「ま、まぁ、持田さんがそうやって呼びたいなら、俺は別に構わないけどさ」
「あ、でも、あたしだけ下の名前で呼び捨てっていうのも変よね……じゃあ、あなたもあたしのこと、下の名前で呼んでいいわよ? これからは杏って呼んで!」
「え? 下の名前で……?」
う~ん、下の名前で呼んでいいと言われてもなぁ……。まだ、いくら同級生とは言っても、彼女とは出会って間もないし、いきなり下の名前で呼ぶのは抵抗があるんだよな。ましてや知り合ったばかりの女の子を、いきなり下の名前で呼び捨てにするっていうのはどうなんだろう?
いや、自然とそういうことができて、周りにも受け入れられるタイプの奴っているけどさ。俺の場合、女の子を呼び捨てにするのもぎこちなくなるし、呼び捨てにしたらしたで、「え? お前、なに女の子呼び捨てにしてんの?」って誰かから絶対に指摘されるに決まってる。悲しいかな、俺はそういうタイプの男なんだ。
というわけで、ここはやはり「名字」+「さん」付け、という、初対面の人はもちろん、あらゆる年齢層の人をカバーできるオールマイティな呼び方で通すのが無難なんではないだろうか?
「いや、俺はいいよ。あ、持田さんは別に俺のこと、呼び捨てにしてくれてもいいけど」
「ダメ! それじゃ、不公平でしょ!? 大体、『持田さん』なんてよそよそしいじゃない? 気を遣わないで、杏って呼んでよ? ね?」
何が不公平なんだかわからないが、持田杏はどうしても俺に下の名前で呼んでもらいたいらしい。だから、下の名前で呼ばれるのも恥ずかしいけど、下の名前で呼ぶのも恥ずかしいんだって……と、内心思いながらも、俺は覚悟を決めて彼女の名前を呼んだ。
「ええっと……じゃ、じゃあ、杏……ちゃん?」
「やだ、『ちゃん』なんてつけないでよ。なんか恥ずかしいし、気持ち悪いわ」
いや、恥ずかしいのはこっちの方なんだけど……。その上、気持ち悪いって何だよ……。
「わ、わかったよ……よろしくね、あ、杏……」
「え、何? 聞こえない? もっと大きな声で言ってよ?」
「あ、杏! あ・ん・ず‼ ……これでいいんだろう?」
「そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない? 何を怒ってるのよ?」
「あ、ごめん……別に怒ってるわけじゃないんだけど、なんか恥ずかしくってさ……」
「なんで、あたしの名前を呼んだくらいで恥ずかしいのよ? 和輝って変な人ね」
持田杏はそう言って、ケラケラと笑っている。う~む……どうも、俺と彼女では恥ずかしいと思うポイントが違っているようだ。
というか、持田杏はなんで笑ってるんだ? 俺の記憶が確かなら、彼女はさっきまでしょんぼりした顔をしてたはずなんだが。昨日も思ったけど、この子は表情がコロコロ変わるな……。
俺のそんな考えなど知る由もない持田杏は、教室に入るなり昇降口の時と同じ勢いで「おっはよ~‼」とクラスメイトに挨拶し、自分の席へ向かっていく。
ともかく、俺はたった今から彼女……持田杏を呼び捨てにすることになった……。
放課後、俺は旧体育館へとやってきた。杏からは「動きやすい格好で来るように」と言われていたので、まだ体育の授業も受けていないのに真新しい体育着を持参した。
「あ、来たわね。ちゃんと体育着、持ってきた?」
杏はすでに体育着に着替え、準備体操をしながら俺を待っていた。
「うん、持ってきたよ。だけど、体育着なんかに着替えて何をする気だい?」
「決まってるでしょ? 練習よ、練習!」
「え? 練習? まだ部もできてないのに?」
「何よ? いきなり練習しちゃ悪いって言うの?」
「悪いってわけじゃないけど、他にやることがたくさんあるだろう? たとえば、部を創設する手続きをするとか、部員を集めるとか、この体育館を掃除するとか……」
「まあ、そうなんだけどさ。せっかく、こうして部員が二人揃ったんだから、まずは練習とかしてみたいじゃない? それとも、和輝は練習するの嫌いな方?」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃ、早速練習を始めましょう! さあ、和輝も早く着替えてきてよ?」
「え!? そ、そう言われても……ここで着替えろって言うの?」
「な、何考えてんのよ!? 更衣室で着替えるに決まってるでしょ? そこに男子更衣室があるから、さっさと着替えてきなさい!」
なんだ、この旧体育館にもちゃんと更衣室があったのか……。古い体育館だから、てっきり更衣室なんて付いてないのかと思ってた。
俺は杏に促され、男子更衣室へと向かった。旧体育館には古びてこそいるが、男女それぞれの更衣室がきちんと備え付けられている。室内は少々ほこりっぽく、年代物のロッカーとベンチ、机があるくらいで、冷暖房などは見受けられないが、まあ更衣室があるだけありがたいと思おう。
俺が真新しい体育着を見に付けて体育館の運動場に戻ると、杏はまだストレッチをしていた。
「ずいぶん、入念に準備体操をするんだね」
「そりゃ、そうよ。しっかり身体をほぐしておかなきゃ、練習どころじゃないわ」
「まあ、どうせ俺たち二人しかいないんだしさ、ストレッチはほどほどにして練習を始めちゃおうよ?」
「ちょっと! ストレッチを甘く見ないで! 適当にやってると、練習の時に大怪我するわよ!?」
たかが演劇部の練習で怪我なんて大げさな……と言おうかと思ったが、杏の剣幕に押され、俺は言葉を飲み込んだ。考えてみれば、俺は演劇部志望とは言っても演劇についてはまったくのど素人だ。そんな俺に比べて、杏は何か確信を持って練習に取り組もうとしている。どうやら、杏は何がしか演劇についての知識や経験があるようだ。ここは素直に従っておくべきかもしれない……。
「ごめん、ごめん。ちゃんとしっかりストレッチするよ」
「ふふん、わかればいいのよ? さ、それじゃ、準備運動を始めましょ? まずは手首と足首の柔軟から……1、2、3、4……」
杏はすでに十分にストレッチを終えているはずだが、俺に付き合って一から準備運動を始めた。彼女の号令のもと、俺も一緒に身体をほぐしていく。
「はい、次はアキレス腱を伸ばして……1、2、3、4……」
「杏、なんだか体育の先生みたいだな」
「そう? だったら、和輝もちゃんと杏先生の言うことに従いなさいよね?」
先生と言われて、杏は少し得意げな顔をする。
彼女は続いて床に座り、開脚して前屈運動を始めた。俺も杏に従って開脚前屈をしてみたが、身体の堅い俺は上体を軽く倒すだけで精一杯だ。一方、杏はというと、180度近くまで足を広げ、上体をぺったりと床につけるほど倒している。
「いてて……これ以上曲がらないよ。杏はすごいな、そんなに身体が柔らかくて」
「あたしだって、最初から身体が柔らかかったわけじゃないわよ。毎日少しずつ柔軟をして、やっと柔らかくなったんだから……さ、和輝ももっと身体を曲げてみなさい? あたしが手伝ってあげるから……」
杏は立ち上がると、俺の背後にまわり、背中をぐぐっと押し始めた。
「息を止めないで、そのままぐっと身体を倒して……1、2、3、4……」
「いてててて! こ、これ以上は無理だってば!」
「もう、本当に身体が固いわね……いっそのこと足の腱が切れちゃうくらい押せば、和輝も股割りできるようになるかもしれないわ」
「そ、そんな! 腱なんて切れたら歩けなくなるだろ……いてててて!」
「冗談に決まってるでしょ。さ、もうひと頑張りよ……5、6、7、8……」
俺は前後左右に身体を折り曲げ……いや、杏の後押しで折り曲げられ、たっぷりと柔軟体操をした。まだ準備体操だというのに、俺はもうへとへとになりそうだった。ストレッチなんて楽しくないし、もっと軽めに済ませて欲しいんだけどな……。
「はぁ、はぁ……俺、もう体操だけで疲れちゃったよ……」
「これくらいでへばってる暇はないわよ? 練習はこれからが本番なんだからね?」
しかし、これでやっと準備体操が終わった。これから、いよいよ演劇の練習が始められなるな……と、俺が思っていると、
「さ、次は筋トレ始めましょ! 最初はプッシュアップからね!」
そう言って、杏は腕立て伏せの体勢を取り始めてしまった。
「ちょ、ちょっと、杏!? 今から、また筋トレをするつもりなの!?」
「……当たり前でしょ? 練習なんだから。何よ、和輝? あんた、プッシュアップもできないの?」
「いや、そうじゃなくってさ……まだ正式な部活でもないんだし、ストレッチや筋トレばかりじゃなくて、もう少し面白い練習をしようよ?」
「面白い練習って……たとえば?」
「そりゃ、もちろん演技の練習だよ。あ、でも、台本がなきゃ芝居もできないか……ま、その辺は適当でもいいから、とりあえず二人で何か演技でもしてみようよ?」
俺は辛く地味な筋トレから逃れるため、杏に演技の練習を提案した。彼女もとにかく二人で練習がしたいと言っていたし、きっと俺の提案に乗ってくるだろう、と思ったのだが……。杏はうつむき、わなわなと肩を震わせている。
「……和輝、あんた今、何て言ったの!? ……演技の練習!? 台本!? 芝居!?」
「え? どうしたの、杏? 俺、何か変なこと言った?」
「あんたねぇ! どこで聞きかじったか知らないけど、演技だの台本だの、そんな言葉を持ち出して知った風な顔するんじゃないわよ!」
「え? え? ちょ、ちょっと待ってよ、杏。落ち着いてって……」
どうやら、俺の言葉が彼女の逆鱗に触れたらしい。しかし、今さっき発したばかりの自分の言葉を思い返してみても、杏を怒らせるような言葉はちっとも思い当たらない。とりあえず、俺は杏の気持ちを鎮めようと、必死になだめるのだが……彼女の怒りの暴走は止まらない。
「たしかに、お客さんから木戸銭をもらっているからには、過激なパフォーマンスだってするし、エンターテインメントに徹しておちゃらける時だってあるわよ? だけどね、それはしっかりと鍛え上げられた肉体があってこそ成立するものなのよ! にわかアンチじゃあるまいし、ブックだのアングルだのギミックだの、そんな言葉だけで全部わかったような顔、あたしの前でしないでよね!?」
杏は俺の鼻先まで顔を近づけ、一気に文句をまくしたててきた。後半は何やら聞き慣れない専門用語を並べたてているが、とにかく俺の言葉が彼女の怒りの導火線に火をつけたことだけはたしからしい。正直、なんで俺が怒られなきゃならないんだ、という思いもないではないが、杏の気分を和らげるため、とりあえず俺は謝ることにした。
「わ、悪かったよ、杏。怒らせちゃったなら謝るよ。ごめん」
「……ううん、あたしの方こそ、ちょっと興奮し過ぎちゃったわね……ごめんなさい。和輝のこと、一方的に怒っちゃって……」
冷静さを取り戻したのか、杏は申し訳なさそうに謝り返してきた。
「だけど、最初の練習だし、和輝にはちゃんと知っておいて欲しかったの。ブックとかアングルとか、ギミックとかパフォーマンスとか……それはもちろん大切なことだけど、小手先の技術や演出に溺れる前に、まずはしっかりと体力作りすることが大切なんだってことを……」
杏は俺の目を見つめ、真剣な表情で語りかけてくる。先ほどと同様、専門用語らしき言葉が入り混じっているため、ところどころ言っていることがわからない部分もあるが、彼女の気持ちはひしひしと伝わってきた。
何の技術も知識も持っていない素人が、ただ上っ面だけ演技を真似したところでモノにはならない。立派な役者になるためには、地道な下地作りが必要……そう杏は言っているのだ。
体力作りというと、俺なんかはアクション俳優の人だけがやってるのかなと、つい思ってしまったが、考えてみれば、どんなジャンルの芝居をする俳優だって基礎体力作りは必ずやっているはずだ。
ましてや、俺のように演劇に対する知識も経験もまったくない人間が、体力作りから逃げ、できる役柄の幅を狭めるなんて馬鹿げている。将来、アクションシーンを演じる時のためにも、トレーニングは欠かすことはできない。
別段、体力に優れているわけでもない俺がアクション俳優なんて……と自嘲したくもなるが、いやいや自分の可能性を信じていないのはもしかしたら、他ならぬ俺自身なのではないか。
今の俺は、ただ漠然とした願望や思いだけで演劇部に入ってしまった状態だ。ならば……杏について行ってみよう。彼女は演劇に対し、俺以上の情熱と知識、そして経験を持っているはずだから……。
「わかったよ、杏。俺、もう体力作りをさぼらないよ。体力もできてないのに演技や芝居なんかしても、こけおどしにしかならないもんな」
「和輝……やる気になってくれたのね! よーし! それじゃ、練習再開よ!」
「おお! 何でも来い!」
杏は「改めてプッシュアップから始めるわよ!」と言い、腕立て伏せの体勢を取る。杏の号令に従い、俺も声を出して回数を数えながら腕立て伏せをする。
「いーち、にー、さーん、しー……」
「ちゃんと深くまで下ろして! ただ肘を曲げるだけじゃダメ! 顎がつくくらい、身体をぐっと下ろす!」
「ごー……ろーく……しーち……はーち……!」
杏の言う通りに身体を深く下ろすと、簡単な腕立て伏せも途端に苦しくなってくる。
「くー……じゅう! ……ふぅ、結構しんどいな……」
「さ、休んでる暇はないわよ! 次は腕の幅を狭くして、両手で三角形を作った状態でプッシュアップよ!」
「え!? また、腕立て伏せ!?」
「当然よ! プッシュアップは無数のバリエーションがあって、それぞれ鍛えられる部位が違うのよ! だから、色々なプッシュアップをやって、上半身の筋肉をくまなくイジメ抜くの!」
杏の言葉に「えー」と不満を言いたくなったが、つい先ほど、逃げずに体力作りをすると言ってしまった手前、やらないわけにはいかない。こうなったら、杏のトレーニングにとことんついていってやる!