41話「漢の勝負」
今日は例の日ですねえ。
そう、多くの人々の妄想の中で楽しそうな男女が爆発させられる日。
あ、いや、わたしは大丈夫ですよ。プライベート充実してますから。
こうやってパソコン叩いてたら一日なんてあっという間に過ぎて行きますし。
あーあ、早く明日にならねえかなあ。
佐奈が温泉に入りに行った。男どもが戻って来る前に俺も身を隠す必要がある。急いで部屋を出て、佐奈や男どもとかち会わないように露天の温泉の裏手にある岩場に回り込んで姿を隠す。いけない事をしているという背徳心と見つかったらどうしようと言う不安が俺の鼓動を早くする。静まれ、俺のハート。
顔を出せば露天風呂が見渡せる場所を見つけて岩陰に隠れ、しばらくそのまま息を潜めて待つ。今ごろ男どもは俺を探しているに違いない。それほど時間はないだろう。やがて温泉の方から微かに人の気配がする。時間はないが焦るな、まだだ。急いては事をし損じる。昔の人はいいこと言うな。
――俺は岩だ。俺は木だ。俺はこの自然そのものだ。自然と一体となり、気配を消す。レンジャーやスナイパーになった気分だ。呼吸を静め、軽く目を閉じて瞑想する。佐奈の気配を感じろ。音を聞くのではない。感じるんだ。
「――殿、お取込み中のところ、失礼するでござる」
「うぉっ」
瞑想中にいきなり耳元で話しかけられて、思わず声が出た。目を開けると服部正成がひざまずいて頭を下げていた。全く気配を感じなかったぞ。
「弥一郎の父、安部元真殿が殿を訪ねて参ってござる」
「あ、あっそう。えっと、今ちょっと忙しいから待っててもらうように伝えてくれ」
死ぬほどビックリした。心臓が口から飛び出るかと思った。完璧に隠れたと思ったのに、あっさり見つかってしまうとは。さすがはハットリくん、伝説の忍者だ。今の声、佐奈に聞こえてないだろうな。
「かしこまってござる」
「済まない、俺ももうちょっとしたら行くから」
ハットリくんにばれたとはいえ、この山奥まで来て手ぶらで帰るわけにはいかん。せめて一目だけでも。
「ははっ。余計な事かも知れんでござるが」
「な、なに?」
「佐奈もとっくに気付いてござる――では先に戻っておるでござる」
そう言うとハットリくんは姿を消した。はは、そっか。バレてるか。完璧だと思ったのに。バレてると分かって覗く勇気は俺にはない。諦めるしかない。仕方なくそっとその場を離れる。バレてると分かってもなお忍び足で歩く自分が可哀そうで惨めだ。はあ、俺は何しにこんな山奥まで来たんだ。馬鹿だな。俺はやっぱり氏真だ。こんなんじゃ知略2だ。絶望だ。
――はあ、温まるわ。
佐奈は湯の中でゆっくりと手足を伸ばす。先ほど氏真に赦された時は心底ほっとした。本気で手討ちになっても仕方ないと思っていたのだ。闇に生き、闇に死す。幼い頃から忍びとはそういう物だと教えられてきた。それまで仕事の対象だった氏真が、ある日突然自分達の主となったと知らされた時は驚いた。そうなった以上、自分の今までやってきたことを咎められても仕方ない。好きでやった事ではないのはもちろんだが、そんな言い訳が通じる世ではないのもまた事実だった。罪を咎められ、ただ追放されるならまだいい方だ。命を取られずとも、女の身であるからには好きなように慰み者にされて捨てられる可能性は十二分にあった。
――それをただ赦す、それだけじゃなくて「傍に居てくれると嬉しい」だなんて。
まろやかな温泉の湯の感触を楽しみながら、氏真の言葉を思い出しただけで思わず頬が赤くなる。忍びという賤しい身分の自分に、そんな優しい言葉を掛けてくれた氏真を佐奈は不思議に思った。
――氏真様は本当に変わっておられるわ。他のお大名はもっと厳しいと聞くけど。
経験豊富な忍びの仲間から、雇い主である武士たち、中でも大名連中の冷酷な振る舞いは何度も聞かされた。忍び達がどれほどいいように使われ、切り捨てられてきたか。大名の中で今川義元の事は佐奈も少し知っている。氏真の侍女として何度か見かけた。近寄る事さえ恐ろしいような、例え自分の身内でさえ邪魔となれば容赦なく切り捨てる、そんな冷たい眼差し。それに比べると氏真の眼はいつもどこか優しく、暖かい。義元が亡くなってからそれを特に感じるようになった。
――さりげなく着物の襟元や裾の隙間を覗いておられる時はまた少し違う目をされているけれど。
ちらちらと気付かれないようにこちらを見る時の氏真の顔を思い出して佐奈は思わず笑ってしまう。先ほどもそうだ。優しい言葉を掛けられて感動しながら温泉に入ろうとしている時に、岩場の陰に氏真が隠れていることに気付いた。佐奈もくの一である。素人が身を潜めたところで気付かぬ訳がない。気付きはしたが別に多少見られても構わないと思ってそのまま浸かっていると、同じところに服部正成の気配が現れた。正成に見つかった氏真がさぞ慌てただろうと思うとまた可笑しくて仕方ない。
――若も気を回されなくても良かったのに。
温泉に入る所を多少見られてもどうという事もない。まだ男を知らぬとはいえ佐奈もくの一だ。そういった手管も一通りは教えられている。実際に香を用いて氏真を誘ってみたこともあったのだ。ちらちら覗き見はするくせに妙に真面目な氏真は手を出してこようとはしなかったが。そんなところも氏真の面白いところであった。
――あまり長く浸かっても湯当りしてしまうわ。そろそろ出ましょうか。
もう氏真も立ち去ったころだろう。そう思って佐奈はゆっくりと立ち上がった。その姿は――湯帷子を纏っている。
「この姿、多少見たところで着物とあまり変わらぬと思うのだけれど」
自分の姿を見ながら佐奈はそう呟いた。体の線は多少はっきり出るがさほど恥ずかしくない。これを見て何が面白いのか女である身にはあまり分からないが、人の好みは様々だ。氏真が喜ぶのなら少しぐらい見せてあげても良かったのに、と思う佐奈であった。
この話を全国の通常通りの夜を過ごしている皆さんに捧げます(爆