36話「理想と現実」
こうして無事に松平家臣たちの前での正式な同盟の話も終わり、俺は元康君の私室に招かれた。
「ふう、ああいう正式な場は肩が凝るな」
「ここは我らのみしか居りませぬ。気楽になさって下され」
元康の周りには佐奈のような侍女は居ないようで、お亀という小姓が白湯を持って来てくれた。侍女と言っても実はくのいちだったりするから居ない方がいいかもね。はあ、ショックがぶり返す。
「じゃあ遠慮なく」
俺はあぐらを組んで柱にもたれた。元康もリラックスした感じだ。しかしなんだか不思議だな。俺があの家康――松平元康と二人で同じ部屋でしゃべってるよ。
「さっきの話だけど」
「と申されますと」
「どうすれば戦の無い世の中が作れるのか、って話」
「ああ、伺えますか」
「これはかなり先走った内容の話だ。ひょっとしたら気を悪くするかもしれないけど怒らないで聞いてくれるか? あと他の人には他言無用で」
「承知しました。お聞かせくだされ」
「そもそも今なぜこれほど世の中が乱れてるのか、って事だよ。あちらこちらで戦が起こり、民は苦しんでいる。それは幕府が傾いているからだ。足利幕府がそれを抑える力を無くしたことが最大の原因だよ」
「確かに。では足利幕府を建て直せば戦の無い世になるでありましょうか」
「残念ながら……それは無理だな」
「なぜでございましょう」
「もう足利幕府は死に体だ。力は無く、ただ昔の威光に縋って生き延びているに過ぎない。今さら建て直すのは不可能だよ」
「なんと――で、ではどうすれば良いと、如何にすれば戦が無くなるとお考えなのでしょうか」
元康君が唾を飲み込む音が聞こえた。そうだろうな、この時代の武士にとって例え力が無いとはいえ将軍というのは権威の塊だ。松永久秀とか織田信長のように権威を全くありがたいと思わない奴は超少数派だろう。だからこそ足利義昭が手紙だけで信長包囲網なんて物を作り上げることが出来たんだろうから。この時代の元康君は単なる地方豪族に過ぎない訳で、保守的な考え方をして当然なわけだ。ここから先を話して果たして理解してもらえるんだろうか。
「よく考えてみてくれ。足利尊氏は生まれた時から将軍だったわけじゃない。源頼朝もそうだ。どちらも武家の頭領としてこの国を治める力があったからこそ将軍になった。この国で戦をなくすためには足利幕府を廃し、新たに力のある者がこの日の本を従えて幕府を開く事が必要なんだよ」
「そ、それは、いずれ氏真公がこの日の本を統べる、そう言う意味でござろうか」
あー、そうだよね。そう聞こえるよね。参ったなあ。俺にその気は全くない。元はただの蹴鞠馬鹿な留年学生だし。今川の当主だって十分荷が重いのに、将軍になんかなったらマジでこの国のお先真っ暗だから。そういうのは信長とか秀吉とか君に任せるよ――って言いたいけど言えない。
「いや、そうじゃない。その気は全くない。義元公ならともかく、俺はそんな柄じゃないよ。誰でもいい、国を統べる力があって、民の為に良い政治……政をしてくれる人がいれば、その人の力になりたいと思う。俺自身は将軍になんて頼まれてもならないよ」
「なんと、そのようなお考えを」
そう言ったきり、元康君は黙り込んでしまった。しばらくうつむいて考えた後、顔を上げて口を開いた。
「ではもう一つお尋ねいたしまする。氏真公は、それに最も近しいのは誰だとお考えでしょうや」
うわー、厳しいところ突いて来るよね。答えは決まってるけど、それを今の俺が言ってもいいものかどうか。悩むところだが、ここは元康君の聡明さに賭けてみよう。どうせ近いうちに話さなきゃいけないんだ。
「驚かないで聞いてくれ。それは――信長だよ」
「何を仰いまする。信長は義元公を討った仇敵ではござらぬか。その信長がこの日の本を統べるに相応しいなどと、気でも狂われたのか」
予想通りのリアクションだ。そうだよね、そう思うよね。
「確かに義元公を討った織田信長は今川にとって仇だ。でもな、よくよく考えてみるとそれが一番可能性が高いと思う。あの大軍を奇襲で破った発想力と行動力は凄い。今回俺は義元公の首と交換で尾張の城を全て織田に引き渡した。尾張を平定した信長は近いうちに美濃を手に入れるだろう。そうすればどうだ、一挙に京への道が見えてくると思わないか?」
「正直申せば分からぬとしか申せませぬ。しかし、氏真公はそれで構わぬのですか。今川にとって不倶戴天の敵たる織田が天下を取って良いとまことに思われるのですか」
元康はまだ信じられないようだ。そうだろうな。俺は歴史の先を知ってるけどそうでなければ荒唐無稽な話だ。元康は義元の死を知って追い腹を切ろうと思うほど慕っていたらしいし、会ったこともない俺よりよっぽど悔しく思っているだろう。でも史実の元康はその恨みを越えて信長と手を結んだんだ。きっとこの話も分かってくれると信じてる。
「俺は織田を不倶戴天の敵だとは思っていないよ。大殿が討ち取られたのは悔しいけど、それはこちらから攻めて行ったのを信長が防ぐためにやったことで戦の世の常だ。それにさっきも言ったように、俺はこの世の中から戦を無くしたいと思ってる。それが出来るなら信長でも他の誰でも全く構わないさ」
「それほどまでに氏真公はこの戦の世を憂いておいでなのですな」
元康は深くため息をつくと首を左右に振った。
「我が狭き了見、恥じ入り申す。まこと世の為民草の為、御自らの恨みつらみも捨ててのお考えに深く感じ入りましてございまする」
いやぁ、そんなに褒められると背中がむず痒い。そこまで大した話じゃなくて、単に俺じゃこの国を引っ張っていくのは無理だし歴史の流れを知ってると言うだけなんだけど。恥ずかしい。
「いや、これはあくまで理想論でこれから先どうなるか分からないよ。だからそんなに持ち上げないでくれ。それはそうと、次はもうちょっと現実的な話がしたい」
「と申しますと」
「瀬名と息子さんの事だ」
瀬名という名を出した瞬間に元康君の表情がわずかに曇ったのを俺は見逃さなかった。
「我が妻と息子がどうか致しましたか」
「駿府で人質として預かっているけど、いつでも返してもいいよ」
「それは――有り難きお申し出にござる」
答えに一拍間が開いたな。その一拍が元康君の複雑な心境を表している。
「でも、逆に返さなくてもいいとも思ってる」
「どういう事でしょうか」
元康君がポカンとしている。むふふ、いい表情だ。