15話「岡崎」
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「あれが岡崎城か」
朝の光で見えてきた城の姿に岡部正綱は呟いた。駿府の城から真っ暗な夜道を一晩中馬を走らせてきたのだ。途中幾つかの城で馬を変え、ひたすら休むことなくやってきた。疲労困ぱいしているがこれも今川の為、氏真の為である。途中ですれ違った尾張から逃げてきたとみられる今川兵たちは、皆一様に酷い有様だった。今川が敗れ大殿が討たれたのは事実なのだ、その実感が正綱の足を早めさせた。
「これより城に入る。何があろうと決して事を構えるな。みな心せよ」
東三河で立ち寄った吉田城で借り受けた数人の武士と共に岡崎城に入る。人の気配は微塵もなかった。
――なんと、誰もおらぬ。山田殿はまこと城をうち捨てて逃げられたのか。
そう思い驚きながら馬を降りて中に入ってみると、余ほど慌てて逃げたのだろう。あちらこちらに鎧兜やさまざまな小物が散乱していた。
「これらの物を片づけ、松平元康殿をお迎えする準備をせよ。後、門は開け放しておけ」
――しかし本当に元康殿は来るのだろうか。
氏真と寿桂尼に言われてここまで来たものの、いま一つ信じきれない思いの正綱であった。
「門の中に誰ぞの姿が見えまする」
「なんと七之助、誰も居らぬと申したではないか」
「先ほどは確かに誰も居りませんでした。あの後に入ったものかと」
酒井忠次に怒られた平岩親吉が必死に言い訳する。
「お静かに。殿、いかが致しますか」
石川家成が元康に小声で聞く。
「出来れば事を荒立てとうはない。まずは何食わぬ顔で城に入り、様子を見る」
「かしこまりました。皆、まずは大人しゅうしておれ。ただし、いざという時の備えは怠りぬよう」
「おう」
「これはこれは、岡部正綱殿ではござらぬか。確か貴殿は駿府におられたはず。それがこのようなところで何をしておられる」
門の中にいた人物の姿を見て、元康がことさら明るい声で話しかける。後ろに続く家臣たちも何気ない顔を作ってはいるが、内心の緊張のせいでどこか動きがぎこちない。
「殿の命により元康殿をお迎えするべくまかり越しました」
そう言って正綱は礼をする。
「氏真公のご命令で我らを迎えに来られたと」
その思いがけない言葉に松平勢に衝撃が走った。
「まずは中にお入り下され」
正綱が松平勢を促す。
本丸の評定の間に入った松平の一行は、久しぶりに見る懐かしい城の景色に思わず胸が熱くなる。だがこの状況下でそんな事ではいかんと各自が気を引き締めた。
「さあ、どうぞお座り下され」
「いや、そんな訳には」
正綱が元康に上座に座るようにうながすのを、元康が慌てて断る。独立すると心に決めたとはいえ、形式的には主である氏真の使いである正綱が上座に座るのが当然である。だが正綱は無理やり元康を上座に座らせ、自分はその正面に座った。松平の家臣たちは左右に分かれて並んで座っている。
「氏真様の命でお越しになられたという事だが」
元康の言葉に正綱が頷いた。
「左様にございまする。大殿が織田の手に掛かりお亡くなりになったことは元康殿もご存じでいらっしゃいましょうな」
「無論、存じておりまする。なんとも痛ましき限りにてこの元康、追い腹を切り申さぬと思えど家臣どもに止められ、斯様に無様な姿をさらしておりまする」
――氏真公がそれを知って岡部を使いに出したのが余りに早すぎて解せぬ。しかもこの岡崎で我らを待ち受けるなど、いったいどういう了見であろうか。
居並んだ家臣の列の中から石川数正が岡部正綱の背中に向かって鋭い眼光を飛ばしていた。
「元康殿が生きておられること、殿はさぞお喜びになられるでしょう。なにせ殿は元康殿をそれは高う買うていらっしゃいまするゆえ」
「それは有り難い限り。して正綱殿を使いに出されたのはどのようなご用命でござろうか」
元康が尋ねると、正綱は驚くべきことを口にした。
「殿は、こたびの戦を機に松平元康殿が今川と袂を分かつ決意をされるだろうとお考えです。岡崎の城に入るであろうから急ぎ向かうようにと命ぜられました」
「な、なんと仰せられる」
元康をはじめ、松平家臣達は一斉に雷に打たれたように硬直した。よもや自分たちの企みがこれほど早く露見しようとは思ってもいなかったのである。
――これは寿桂尼の読みに違いない。さすがは世に聞こえた女大名、見事と言う他はなし。しかし事ここに至っては是非もない。かくなる上は我ら揃って腹を切り、元康様だけでもお助け頂くよう訴えるか。あるいはこの使者を斬って籠城し、城を枕に討ち死にするまで戦う他ないか。
石川数正は自分達の策がこれほど完璧に読まれたことにショックを受けて下唇を噛んだ。同時にもはやここまでという決意を固め、元康の命があれば直ちに岡部正綱を斬り捨てるように身構える。他の家臣たちも血相が変わっていた。
「何を仰せやら。我らはただこの岡崎の城が捨て城となっておった故、織田への備えとして一時的にお預かりしに参ったにすぎませぬ。こうして正綱殿がお越しになったのですから、直ちに退散いたしまする」
白々しいと思いつつも、表には動揺を出さず元康が言った。なんとしても言いつくろわなければ松平家に未来はない。ここは一度計画を破棄し、忠実な今川の家臣を演じる他に方法はないのだ。
「元康殿、隠されずとも良うござる。殿は全て分かっておられまする。お分かりになった上で、元康殿にお伝えせよと言葉を承って参りました」
そう言うと、正綱は背筋を伸ばしてスッと息を吸った。その言葉を待つ元康たちに緊張が走る。
「今川氏真公よりのお言葉を申し伝える。松平元康、岡崎の城と西三河を与え付庸国として再興を認める。急ぎ国人衆を取り纏め織田上総介に備えよ」
「え――」
一瞬、元康も家臣たちも正綱の言葉を理解できなかった。岡崎の城と西三河がどうしたというのだ。謀反の疑いで腹を切れとか頭を丸めて出家せよとか、そういう話ではないのか――。
「戸惑われるのも無理はない。これを聞いた時は拙者も耳を疑った。だが殿はこう仰せになられ申した。大殿が亡くなられた今は今川家に取り未曽有の危機。このような時に松平家を、松平元康を失うわけにはいかぬと。更にたかが西三河半国、松平を失うことに比ぶれば安い物だとまで。お喜び下され」
「殿、お聞きになりましたか、殿ッ」
「西三河が我らの物に、松平再興の夢が叶いましたぞっ」
やっと話を理解した家臣たちの感情が爆発する。拳を突き上げる者、涙を流す者、笑う者、隣と抱き合う者。そのような騒ぎの中、一人元康は呆然自失の状態にあった。
――なぜじゃ。なぜ氏真公は儂をそこまで高う買うてくれる。今まで別段親しくしておったわけでもなし、そのような話聞いたこともない。ひょっとして儂を駿府に連れ出して謀殺するための罠か。
その一方で石川数正は頭の中をフル回転させていた。
――なるほど、今ここで松平を攻めれば家中はさらに混乱する。もしその上で討伐に失敗でもしようものなら、離反する国人が相次ぐだろう。その後我らが織田と手を結びでもしたらいよいよ今川は窮する。そう考えると西三河を与えて松平の独立を許し、恩を売って織田に当たらせるというのは奇手だが有効だ。だがそれを思いつき、即座に決断できる人間はそうそう居らん。寿桂尼、恐るべし。
今日も20時頃次話投稿します。