14話「決断」
本日2話目です。
ちょっとずつ物語が動きはじめてます。
「申し上げます。岡崎の城はもぬけの殻の様子、誰の姿も見えませなんだ」
「なんと、やはりそうか。数正殿の考え通り山田景隆は城を捨て逃げ帰ったようだな」
平岩親吉が戻ってきた頃にはすっかり朝日が昇っていた。だが元康はまだぐっすり眠っている。あれだけ死ぬ死ぬと騒いでいたくせに、さすがの度胸というところか。
夜が明け、義元を始め今川の名だたる武将が幾人も討ち取られたことも分かってきた。桶狭間で奇襲を受けた部隊の生存者が三河までたどり着いてきたので情報を得られたのだ。
「さて、そうと分かればどうするか。まずは若を説得せねばなるまい」
「頑固だからのう」
「考えがござる。住職を呼んでくだされ」
呼び出した住職に石川数正が何やら囁く。
「成る程。拙僧でお力になれるか分かりませぬが、一つやってみましょう」
「拙者からも何とぞよろしくお頼み申す」
酒井忠次が頭を下げると、住職が鷹揚に頷いた。
「かしこまりました。では首尾良く行った暁には何とぞ」
住職はにっこりと笑い、それに忠次が答える。
「たんと寄進させて頂きまするゆえ頑張って下され。お亀、殿を起こして参れ」
「して、どうであった」
寝起きで不機嫌な元康が並んで座る家臣たちに尋ねる。
「まことに残念ながら、やはり義元公は織田に討ち取られたとのこと。御首級は織田に奪われ、亡骸は痛みが酷くすでに埋葬されたそうにございまする」
家臣の先頭に座る酒井忠次が頭を下げた。忠次は三十四歳、若い松平家臣団の中では最年長である。
「やはりそうか、致し方なし。では儂は今ここで腹を切る。介錯せよ」
元康はそう言うとおもむろに脇差を目の前に置き、襟をぐいと腹まで広げた。
――そうくると思った。本当に頑固なんだから。
やっぱりか、そう言いたげな家臣たちの目が生暖かい。
「若、お待ちくだされ。若はこの松平の主にござるぞ。軽挙は御慎み下され」
「何が軽挙ぞ。大恩ある大殿がお亡くなりになったのだ。後を追うのが当然であろうが」
元康が目を剥いた。鳥居元忠の言葉にカチンと来たらしい。そこで数正が住職へアイコンタクトを送った。
「元康どの、お待ちくだされ」
「住職、止めても無駄じゃ。本堂を汚して悪いが、儂の腹は決まっておる」
「まあまあ、まずは拙僧の話を聞きなされ。腹を召されるのは別にそれからでも遅うはない」
「……話してみよ」
「そもそも元康殿は何の為に戦こうておられた」
「知れたこと。義元公の下で戦い功を成し、大恩に報いるためよ」
「ホッホ、小さい、器が小さいのう」
住職は元康を小馬鹿にしたように笑った。元康の目が吊り上がる。
「何と無礼な。武士の忠義を馬鹿に致すか」
がっしと目の前の脇差しを手に取って腰を浮かせ、今にも斬りつけんばかりの形相で睨みつける。
「おや、これより死に行かんとするお方がこれしきの事で腹を立てられるか、ホッホッホ。よろしい、この拙僧の首で良ければお取り下され。それが真の武士の道だという事であれば」
「……何が言いたいのじゃ」
元康は首を叩きながら笑う住職を睨みつけていたが、やがて脇差しを置くとどっかと座りなおした。周りで息を飲んで成り行きを見ていた家臣たちも安堵の息を吐く。
「元康どのは厭離穢土、欣求浄土という言葉をご存知か」
「聞いたこともない」
「我らが浄土宗の教えにある言葉ですじゃ。厭離穢土とは、この娑婆の世は汚れた地でありそれを嫌い離れるということ。欣求浄土とは極楽浄土を心から願い求めること」
「……良く分からぬ」
「よろしいか、元康殿がおっしゃった忠義だの功だのという事はすべからく人の欲でございます。そのような欲を持って誰もが戦うからこそ、この世は汚れた物となり戦が無くならぬのです」
「忠義も功も儂の欲だと言うのか」
「御仏の前には忠義も功も必要ありませぬ。己の欲を捨て、いつしかこの世を戦の無き平和の浄土となさんと願うならば、御仏の加護を受けいつか事は成されましょう」
「戦の無い世を作る、そのために戦う事が御仏の御心に叶うというのか……」
元康は俯いて考え込んでしまった。
「若、いまや義元公は討たれ、山田景隆は城から逃げ去り岡崎城は捨て城になっておりまする。今こそ松平の旗を掲げる好機。ご決心下され」
ここぞとばかりに酒井忠次が声を張り上げ、石川数正も続いて説得に掛かる。
「左様にござる。勝ったとはいえ織田に兵を差し向ける余力はなく、今川を継ぐはあの蹴鞠狂いの氏真。家中は恐らくまとまりますまい。盟を結ぶ甲斐武田、相模北条も関東の長尾景虎に応対するのに手いっぱい。とても援軍を送る余裕はない物と思われまする。この機を逃す手はございませぬ」
「厭離穢土、欣求浄土……」
元康はなおも考え続けている。何やら口の中でぶつぶつと呟いていたが、不意に顔を上げ大声で叫んだ。
「誰ぞ、白布を持て。大きな白布を。あとは墨と筆じゃ」
用意された白布を前に、元康は住職に頭を下げた。
「御坊、これに先ほどの言葉を書いて下され」
「ホホ、お安い御用ですじゃ」
住職は白布一杯に『厭離穢土 欣求浄土』と書き上げた。なかなかの達筆である。
「これでよろしいかな」
「見よ、これよりこれを松平の旗印とする」
元康はその白布を手に立ち上がり、家臣たちに宣言した。
「若、御決心くださいましたかっ」「おお、若っ」
家臣たちは一斉に歓声をあげる。
「皆、心配をかけた。これより儂はこの三河で松平を再興する。付いて来てくれるか」
「ハハッ、我ら一同、不惜身命。この身を投げ打ってお仕えいたしまする」
力強い元康の言葉に、家臣たちが一斉に頭を下げた。ここに居並ぶのは家臣筆頭として酒井忠次。元康の母方の従兄である石川家成。その甥であり知勇兼備の将、石川数正。三河武士の中でも一の頑固者と呼ばれる鳥居元忠。大久保兄弟の兄で粘り強さに定評のある大久保忠世。その弟で武勇に優れる大久保忠佐。若いながらも猛将として知られる蜂屋貞次。元は小姓の七之助であった平岩親吉。「槍半蔵」と呼ばれる槍の名手、渡辺守綱。元服したばかりだが将来が楽しみな「平八郎」こと本多忠勝。そして後に榊原康政と名を改めることになる小姓のお亀。いずれ劣らぬ松平の忠臣たちである。この11人が後に『松平の十一神将』と呼ばれることになることを、今はまだ誰も知らない。
「儂の力で一体何が出来るのかは分からぬ。だがこの世から戦をなくし浄土とするため、力を尽くしてみたい。さきほど岡崎は今だれも居らぬと申したな」
「殿、いま岡崎は空き城にございまする」
石川家成が頭を下げた。
「ではこれより岡崎の城に参る。良いか、奪うのではない。あくまでそこに城が捨ててあるゆえ、拾いに参るのじゃ。ゆめ間違うでないぞ」
「おおお!」
掛け声とともに家臣たちが一斉に立ち上がる。松平元康、十八歳の事であった。
『松平の十一神将』
……松平家選抜総選挙(嘘)