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1. 勇者のマニュアル本

 アルフレドは印を結んだ。目の前の器に張った水面が沸騰し、白い煙を立ち上らせた。


「ヨベターンドゥーンバンコーイラウトパンカ。知識を司りしイテキの地王キーレよ。真理の門を開き、我に道を標せ」


 両腕を翼のように広げると、それに呼応するように、沸き立っていた器の水が人の形に変化した。

 アルフレドの詠唱が終わった頃には、人形は灰色のローブを纏った老人になっていた。目が金色の光を放っていた。見た目は人間だが、人外の者だった。


「誰じゃ。神クラスの儂を、マグカップなんぞに召喚しおった奴は!」


 目の前の赤いコップの中で、ミニサイズで召喚された知識の神キーレが、開口一番、がたがたと文句を仰いました。


「ワタクシでございます」


「あ。お前、勇者に左遷されたファルナーじゃん!」


「え!?させ……左遷じゃないです。希望して勇者になったんです」


 わたくしは狼狽えながら、間違いを正しました。


「えー、そうかなぁ?」


「自信無くすから止めてください。それよりも、貴方に教えていただきたいことが……」


「あ、無理。お前、賢者じゃないもん。勇者の魔法レベルは、儂を呼び出すまでが上限よ。それ以上のサービスを求めたら、君に孫三代分の罰金掛かっちゃうよ」


「そこを何とか特別に……あ、行くな!待て、ジジィ!」


 わたくしの要求を聞く前に、キーレ神はマグカップの水に戻ってしまいました。


「ツバラ洞窟で巨大蜘蛛倒す方法くらい、教えてくれたっていいだろう!」


 勇者協会コルペ支部の誰もいない地下物置部屋で、わたくしの声がむなしく響き渡りました。



 * * * * *


 勇者の仕事の仕方が皆目分かっていないことを自覚した わたくしは、上司に命じられた巨大蜘蛛退治を成し得る可能性がないことを確信しました。


 そこで、得意の魔法を使って、神さまに倒し方を伝授していただこう、と試みたのですが、いつもの「役割の制限ルール」のおかげで、無駄な徒労に終わってしまいました。


「んだよ!あのドケチ虫め。今度は、便器に召喚してやるからな」


 ぷりぷり怒りながら、地下の物置から、一階の「一般退治課」の事務室に戻ってきました。


 「一般退治課」とは、悪人から、怪物から、悪魔まで、悪全般を相手に戦う勇者を集めた部所です。

 ちなみに、わたくしの仕事場です。


 他にも、勇者協会には、大型の怪物を退治することを専門とする「討伐課」や、人の悪事を正す「正義課」といった課があります。機会があればご紹介しましょう。


 一般退治課の部屋の前で、わたくしは立ち止まりました。


「勇者としてこの先やっていけるのかなぁ」


 先ほどのコルペ街道の体たらくを思い出せば思い出すほど、勇者を続けていける気がしませんでした。


 今度の洞窟の蜘蛛退治でも、勇者先生に手助けしてもらうことになったら、勇者協会の皆さんはわたくしをどんな目で見るでしょう。


「元賢者か何か知らねぇけど、蜘蛛一匹倒せねぇでやんの。無能だわー。そう思いませんか、勇者長?」


「うむ。賢者は我々勇者を導く者だと主張しながら、実は自分では何もできないから他人にさせているだけの無能なのかもしれないな。前から薄々思っていたが、確信に変わったな」


「間違いなく無能ですね。ともかく、ファルナーなんて、鼻紙より役立たずですよ」


 勇者仲間や上司が嘲り笑い合う姿が目に浮かびました。


「鼻紙以下だと……」


 わたくしは、その場でぶるぶるとうち震えました。


 無能呼ばわりされることが許せませんでした。少なくとも、賢者としてわたくしは無能ではなかったはずです。


 え?さっきのゴブリン退治のときに、実力が伴っていない賢者だった、と自分で省みていたじゃないか、ですと?

 タカラン支部の賢者長に贔屓されて、たまたま賢者に引き立てられただけだ、と言っていたですって?


 あー、あれ、無し。

 前言撤回。

 ゴブリンに殺されかかってて、気弱になってたから自分のことネガティブに捉えてたけど、やっぱり、わたくしは賢者としては10段階で評価したら7か8くらいに将来有望株でしたわ。


 そんな優良商品を雇えてることも気付かずに、馬鹿にだけしている勇者の者共め、お前らこそよっぽど無能でしょうに。


 まぁ、まだ、その状況は迎えていないんですけどね。


 しかし、今のままでは、頭に浮かんだ絵図がそのまま再現されてしまうことになります。


「冗談じゃねぇ。どーすりゃいいんだ。あの金髪野郎(ロイ・タビット)は、自分が格好いいの見せびらかせるだけでまともに教えてくれねぇし、他の先公どもも大体同じようなもんだし……」


 わたくしは頭をかきむしって、鼻紙扱いされる未来に恐怖しておりました。焦りのあまり、言葉遣いが乱暴になっておりますが、これがわたくしの素でございます。悪しからず。


「あ、ファルナーさん、おつかれさまです」


 そこに、若者らしいはつらつとした声が掛かりました。

 振り替えると、二十歳くらいの初々しさに溢れた少女が立っておりました。


「ユリアン・ソード……」


 彼女は、わたくしより二年前に勇者になった、勇者協会のルーキーでした。

 中途採用されたわたくしと違い、大学を卒業してすぐに勇者協会に就いた、生え抜き職員です。


 心の清らかさが、顔ににじみ出ています。

 いつ、彼女の目付きなり顔つきなりが、世の中に汚されていくのだろう、と、わたくしは年寄りくさいことを考えていました。


 そして、ふと、汚れのない彼女になら、弱音を吐いても悪用はしないだろうと思いました。


「ソードさん……」


 年下とはいえ、先輩勇者相手なので、敬語を使うことにしました。


「今日、コルペ街道でゴブリン退治を任されたのですが、自分のいたらなさを思い知らされました。挙げ句は、先生に助けに来てもらってどうにか役目を果たしましたが、勇者としてこのままやっていけるのか心配になりましたよ」


「続けていけば、慣れますよ」


 今じゃなきゃ駄目なんですけど。この若者なら、長々不慣れを続けていても「社会経験少ないから仕方ないよね」で済むけど、ぐずぐずやってる中年に社会は優しくないんだって。


「ソードさんの仰るとおりですね。慣れるために勉強しますよ。勇者のマニュアル本があるなら閲覧させてもらおうかな。職場内にあるんだろうけど、どこにあるか分かってませんがね。ま、それを読むにしても持ち出しは不可能だろうから、じっくり勉強することは難しそうですけど」


 ユリアン・ソードさんは返事をせず、ぼーっと、わたくしの話を聞いています。


 やはり、こんな小娘では、相談相手にはならないようです。


「ほんと、参りますよ。せめて、戦いの手順だけでも分かればいいんですけどね。ハハハ」


「あ、ありますよ」


「え?」


 何があるの?


「戦いの手順のマニュアル本なら、私持ってます。簡易版ですけどね。よければ、ファルナーさんに差し上げますよ。持ち帰ることも許可されていたはずです」


 な、なにー!!!


 そのマニュアル本さえあれば、何とかなる。

 わたくしは直感しておりました。


 自慢になりますが、わたくしは結構、記憶力が優れてるんです。精神面と体調が良ければ、本の一冊を暗記することもできる自信がありました。

 つまり、戦いの手順のマニュアルを家でじっくり読ましてさえもらえれば、頭の中に叩き込めるでしょう。


 覚えた後は、それをマニュアル通りになぞるだけです。蜘蛛だろうと、悪魔だろうと、キーレ神だろうが、記憶した知識に従って動けば、倒せるはずです。


 行く道を埋没させていた霧が、突然、消え去りました。


 わたくしが目をひんむいてる間に、ユリアン・ソードさんは事務室に入っていくと、自分の机から「戦いの手順簡易マニュアル」と表示された冊子を持ち帰ってきました。


「どうぞ」


「本当にいいの!?とっても助かります。ちゃんと返しますからね」


 借りパチ得意だけど。


「いいですよ。もう、そんなに使うこともないし、差し上げます」


 格好いいな。わたくしもマニュアル本を使わなくてもいい日が来るのでしょうか。


「いえ、必ずお返しします。とにかく、ありがとうございます。助かります」


「それは良かったです」


 にっこり笑顔が、日光のように暖かかったのでした。

 勇者さま、万歳。


 その晩、わたくしは複写屋---本の内容を魔法で書き写す作業を生業としている店です---に立ち寄り、ユリアン・ソードさんとの約束を破らないように、マニュアル本を借りっ放しにならない手立てを取りました。

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