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おいかけっこ

 長い暗闇を抜けて最初に見たのは月だった。

 俺の知ってる月とは違う、蒼白く光る大きな大きなまるい月。

 湿度の高い暖かい空気に包まれながら暗い空に浮かぶ蒼い月を見上げていた。


 唐突に背後から見えない力に引っ張られる。

 振り向いた俺の目に飛び込んできたのは遠くに見える緑色の絨毯。

 つまり、ここは、空の上。

 重力に引かれ緑色に向けて加速していく。

 

「落ちっ? 高っ! おいこれ大丈夫なのかっ!?」

 抱き合うように俺に覆いかぶさっている天使を問いただす。

「し、知らないっ!」

 知らないで済むか。この高さは本気でやばい。

 なす術もなく落ち続け地面にぶつかると感じた瞬間、俺は天使の背中に手を回し抱きかかえる。

 

 自分の行動に少しビックリ。

 こんな性悪天使を守ろうとしてるのか? わからない。怖くてただしがみついただけかも。


 予想していた衝撃は来なかった。

 代わりにガサガサと大きな音が聞こえ、全身を切り刻むような痛みが走る。

 どうやら草原か何かだと思っていた緑色の地面は密集して生えていた樹木だったようだ。

「いたたたた! 痛い痛い!」

 葉を散らせ枝をへし折りながらも落下する速度はほとんど減速されない。

 このままだと結局地面に叩きつけられ赤い花を咲かせてしまうだろう。

「どいてっ! すぅ……やぁ!」

 天使が俺の身体を強引に押しのけ身を乗り出し、右腕を大きく振りかぶり、息を整え短い掛け声と共に大地に拳を叩きつける。

 背中で爆発するような轟音が響き、生まれた衝撃で身体が吹き飛ぶ。

 地面に叩きつけられ、弾むように跳ねる。

 また叩きつけられ、跳ねる。

 轟音と巻き上げられた粉塵が消え去る頃、やっと自分の状態を把握出来た。

 俺は地面に仰向けに倒れ空を見上げていた。

 生い茂る葉の隙間から蒼い月を見上げていた。


「お、おおお。生きてる……少しお花畑見えたけど生きてて良かった!」

 周囲を見回すと大きなクレーターの中心で天使が空を見上げ立っていた。

 ワンパンでクレーター作成余裕でした。何それ怖い。

 天使ってパワータイプだったのか。知らなかった。

 性格悪くて力持ち。最悪じゃねえか。

「あ! き、消えるっ!」

 自身の成した破壊の中心で男前に空を見上げていた天使がいきなり慌てた声を上げる。

 その声に釣られて目線の先を辿って見たものはさっき通ってきた黒い渦。

 空の上に遠く見えていた渦は徐々に縮んでいき、やがて消えてしまった。

 え? これってもう帰れなくなったってことか? いやいやいやいや、決め付けるのはまだ早い。

 きっと天使の不思議パワーでなんやかんやすればまだ帰る方法はあるに違いない。そうに決まってる。

「ちょっと! どうしてくれんのよ! 帰れなくなっちゃったじゃない!」

 無いみたいです。

 見当外れの避難を口にしながら天使に首を締め上げガクガクと揺すられる。

「ぐほっ。やめろっ。く、苦しいっ」

「くぅ……っ」

 渋々といった具合に力を弱め手を離される。悔しそうにすんな。暴力反対。

「こんなのあり得ない。絶対におかしい。ヤバイ。マズイ。助けて」

 ぶつぶつと呟きながら頭を抱えて丸くなる暴力天使。

 正直言えば少しいい気味だが、自分も同じ状況に置かれてるんだから笑えない。

 本当は俺の方が喚き散らして愚痴りたかったくらいだが、目の前で自分以上に取り乱している姿を見ると逆にこっちは冷静になれるから不思議なもんだ。

「自業自得だろ。お前が無理矢理俺を行かせようとするから、いやそもそも素直に俺を帰しておけばこんなことにはならなかった。巻き込まれたのはこっちだぞ? 反省しろ。他人の嫌がることはしちゃダメだって学校で習わなかったのか。」

 それでも弱っている今がチャンスとばかりに、ありったけの非難を口にする。

 俺も他人の性格どうこう言えたもんじゃないな。でも少し楽しい。もっとへこみやがれ。

「私は天使だから何してもいいのよ!」

 暴君の天使様には効果は今ひとつだったようだ。

 

 静かな夜の空の下。風に揺られる木々のざわめきと天使の呟きだけが響いている。どうやら俺たちは森の中に落ちてきたみたいだ。

 今までの怒涛の事態の連続から一息つき冷静になって気づく。

 ……認めるのはすごく癪だがこの天使、見た目だけは結構かわいい。性格は最低なのに。

 長く伸びた琥珀色の髪はサイドで束ねられ馬の尻尾のように垂れ下がってる。活発的な中身を体現しているかのような横ポニーテール。

 クリクリとした大きな眼。今は虚ろで焦点があってないけど。

 幼さを強く残す整った顔立ち。今は死人みたいな表情だけど。

 小さな身体と合わせると、イケナイ意味での子供好きの大きなお兄さんが大喜びしてくれそうだ。

 性格は何一つ褒めるところなんざ無いのに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという言葉を否定するように外見に関しては褒め言葉しか出てこないのが悔しい。

 ――いや、あった。見つけたぞ。天使の弱点!

 カーテンをグルグルと身体に巻きつけたかのようなヒラヒラしたよくわからん構造の衣装。そのヒラヒラ越しにもわかる貧相なスタイル。

 ――なんて残念な胸なんだ。

 嫌いな相手の荒を見つけいい気になろうとしていた俺にさえ憐憫を抱かせてしまう無念な胸。

 このいたたまれない感情は、そんな悪行を働こうとしていた俺に神が下した罰なのだろうか。


「何ジロジロ見てんのよ……」

「いや、天使って羽ないんだなと思って」

「あるわよ。ほら」

 向けられた背中に生えていたのは拳大サイズのおもちゃのような小さな羽。

「ちっさ」

「ぐ……これから大きくなるのよ。ていうか女の子の身体的特徴をなじる男なんて最低よ。だからモテないのよ!」

「勝手にモテないって決め付けるなよ」

「じゃあモテてたの!」

「モテたことないです」

 ほら見ろ。と言わんばかりに得意げな表情を見せていた彼女の表情が突如不安の色を浮かべる。

「あ。ま、まさかあんた私を見ていやらしい想像してたんじゃ……やだ。こっち見ないでよ! ヘンタイ! ゲスカス! ニンゲン!」

 ニンゲン。って罵倒語だったのかよ。今までのやり取りで十分にわかってたがこいつは心底人間が嫌いらしい。

「ふざけろ。お前に欲情なんかするか。そのへんの雑草のほうがよっぽどそそるっての」

「んなっ! このラブリープリティーセクシーエンジェルを捕まえてなんて言い草っ! 目ぇ腐ってんじゃないの!? あんたみたいな駄人間が私みたいな美天使を目に出来る機会なんて金輪際ないんだからありがたく御覧なさい!」

 見て欲しくないのか見て欲しいのかはっきりしろ。

「他はともかくセクシーはないだろ。実際胸だって」

「むねがなあに?」

「い、いや何でも無い」

 胸のことを言おうとした途端雰囲気が激変した。胸の話題はタブーらしい。

 天使の象徴とも言えそうな羽のことより胸を気にする価値観はよくわからん。


「やばい。絶対にやばい。こんなことが上に知られたら……早く帰らないと」

 ちょっと眼を離した隙にまた落ちてる。怒ったり鬱ったりお忙しいこって。

「そういえば聞き損ねてたけどこっちに来た奴はどうやって元の世界に戻るんだ?」

「帰れないのよ。『世界の危機』を取り除くまでは」

「マジか」

 そんなこったろうとは思ってたが。じゃあ何か? 俺は世界規模クラスの何かをどうにかするまで死ぬまで、いや死んでも元の世界には帰れないってことかよ。

「でもそんなの無理に決まってる。あんたただの人間なのよ? あんたのせいで何の支援オプションも付けないでここに来ちゃってるんだから。色々便利な能力があったのにっ。」

「あーそれ実際どんな能力があったんだ?」

 お前のせいだろ。と喉まで出かけた言葉を飲み込む。言ったってどうせまた口論になるだけだから。

「それは色々よ。不思議な実を食べて身体がびよんびよんに伸びる能力とか。刀とお話しして高感度を上げると強くなる能力とか。仲間の死に怒って金髪になって髪型が変わる能力とか。星座にまつわる鎧を着て妙な動きで戦闘力を高める能力とか。指先一つで相手をダウンさせる能力とか。背後霊みたいのが出てきて戦ってくれる能力とか。色々あったのよ!」

 なんかどれも聞いたことのあるような能力だが気のせいだろう。気のせいに違いない。

「何より時間が無い……やだ……なんで? せっかく登りつめたのに、こんなのって無いよ……」

 今までより一層顔を曇らせ落ち込む天使。

 そんなことしてても絶対に慰めてなんかやらないぞ? むしろ落ち込みたいのはこっちなんだから。

「うっ……うぁあ」

 げ……とうとう泣き出しやがった。

 慰めないって決めたばかりの気持ちが揺れ動く。

 ぐらぐらと。

 ふらふらと。

 あんまり揺れすぎるもんだから天秤から落ちてしまった。

 泣くのは反則だ。

「あーもう。おい。こうなった以上俺も協力する。オプションなんてなくても何とかする。だから、あんま、泣くな」

 似合わない慰め方だ。

 何とか出来る宛なんてある訳もないのに、つい強い言葉を使ってしまう。

 それが良いことなのか悪いことなのかわからないが、こいつといると調子が狂いっぱなしだ。

「……何よ。慰めてるつもり? 言っておくけどお礼なんて絶対言わないから。こうなったのも全部あんたのせいなんだから」

 まあこの子ったら何て可愛げがないんでしょう。

「あーあーわかった。それでいいから。とりあえずこれからどうするか考え……何だあれ」


 暗い木々の隙間に浮かぶ二つの球体。

 うっすらと浮かぶ巨人のようなシルエット。

 月明かりに照らされてその姿があらわになる。

 全身を灰色の毛に覆われた猿ともゴリラとも違う直立する手の長い獣。

 大きく開かれた口。そこから溢れこぼれる透明の粘液は、口内に並んだおぞましいほどに鋭い牙を濡らし光らせていた。

 俺の知識に該当せず見たこともない2メートルは軽く超える巨体。その頭部にある二つの目が様子を探るようにこちらを見つめていた。

「お、おお、おい。あれが魔物とか、そういう系?」

「た、たぶん」

「なんで自信なさげなんだよ……」

「だ、だってそんなの知らないわよ。私は紹介するだけなんだから送り先の情報なんて見てないしっ」

「おま、自分の取り扱ってるものの詳細も把握してなかったのか。だから仕事失敗するんだよ。このダメ天使」

「う、うるさい! 今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

「た、確かに。とりあえず……すげえ腹減ってそう。あの猿っぽいの」

「う、うん。涎すごいもんね」

 だが実はあのサルゴリラは意外に草食で、木の実を探していただけだから別に襲われる心配は無かった。

 ねーかな。そんな展開。

 ガルガル。ボクは悪い化け物じゃないよっ。ボク人間になりたいんだっ。連れて行ってよっ。

 ねーかな。そんなオチ。


 俺の現実逃避にまるで『そんなわけあるか!』と突っ込もうとせんとばかりに、いきなり走り出しこちらに向かってくるサルゴリラ。

 ややややばい。こっち来る!

 逃げる!? 

 避ける!?

 どっちに?

 右?

 左?

 わ、わかんねえよ!

「このバカっ!」

「ぐふっ……!」

 脇腹に衝撃を受け吹き飛ぶ。

 天使の足が俺の身体を蹴り飛ばしていた。

 俺を狙い大きく振るったサルゴリラの腕は空振り、俺がさっきまで立っていた場所の側にある太い樹木を軽々となぎ倒す。

「な、なな」

 全身に悪寒。

 天使が蹴り飛ばしてくれていなかった場合の未来を想像し吐き気すら沸いてくる。

「立って!」

 俺の側まで駆け寄ってきた彼女が俺の腕を掴み強引に立たせ走り出す。

「ま、まって」

「死にたくなかったら死ぬ気で走れ!」

 後ろからさっきの化物が追いかけてくる。

 前を走る彼女に取り残されないように必死に走るが差は縮まらない。

 背の低い植物が生い茂り、木の根やらが飛び出していて、とても良好とは言えないコンディションの地面なのになんて速度だ。

「たっ、戦わないのか? お前の力ならっ」

「世界に直接関われないって言ったでしょ! 私は戦えないの! それともあんたが一人で戦うのっ? あとお前って言うな!」

「絶対にパス!」

「じゃあ黙って走る!」

 決して体力が無いわけでもないのに、必死に走る俺を一切寄せ付けずどんどん彼女の背中が遠くなる。

 このままじゃ置いていかれるっ。

「あ――」

 その焦りのせいで足元がお留守だったせいだろうか。

 木の根に足を取られる。

 気がついた時には俺は地面の上を転がっていた。

「……やべ」

 身体を半分起こして振り返ると、とんでもない速さで化物が迫ってきていた。

 もう間に合わない。恐れと諦めが俺を支配する。

 本当はすぐ動けば何とかなるかもしれない。

 でも足が動かない。

 足が竦むとはよく聞いたが本当になるなんて思わなかった。

 まして自分に身に起こるなんて。

 走りながら振りかぶられる化物の腕。

 眼を瞑る。せめて最後は楽しかった思い出を思い出しながら終わろう。

 あれ? 何も思いつかないぞ?


 頭の上で生まれた大きな音につい眼を開ける。

 その瞬間見えたのは、俺をまたぐように飛び越え化物にとび蹴りをかまし化物をすっ飛ばしている天使の姿だった。

 不本意ながら。

 不慮の事故で。

 たまたま偶然。

 頭の上で足を上げる少女とそれを見上げる少年。という構図のせいで本当にわざとじゃなく。

 めくれ上がった衣装の奥の両足の付け根。その先にあるものを見てしまう。

 あらやだこの子パンツはいてない。


「あー! もー! やっちゃった! 使っちゃったじゃない! どーしよー! 終わった! 私終わった! もうヤダ!」

 この世の終わりだと言いたげに憎憎しげな言葉を吐きながら眼を吊り上げるノーパン女。

 蹴り飛ばされた化物は一度は倒れはしたものの、ゆっくりと立ち上がろうとしている。

 体重の軽そうな彼女の蹴り一つであれだけデカい化物を吹き飛ばせるはずもない。『使ってしまった』とは天使の力とやらのことだろう。

「わ、わるい。助かった」

「うっさい黙れ!」

 感謝の言葉すら受け取れないほど興奮している模様。

 俺もさっきの映像が頭から離れずやや興奮している模様。

「はぁー……もういい。もうどうでもいい。このイライラを全部あの人間猿にぶつけちゃる……!」

 長いため息を吐き彼女の眼が完全に座った。

 だがその直後。いつのまにか立ち上がり近づいていた化物の巨腕が彼女に振り下ろされる。

 危ないと声を上げる間もなく大きな音が響く。

 驚くことに巨木を簡単になぎ倒すほどの化物の豪腕を、彼女は片手一本で受け止めていた。

 そしてそのまま逆側の空いた手で化物の胸元を殴り抜け、その巨体をまるで綿で出来た人形のようにいとも簡単に吹き飛ばす。

「す、すげえ」

「ふふん。そうでしょ。天使の力と格闘技術を組み合わせた私の『天使ん拳』は最強なのよ!」

 ネーミングセンスは壊滅的だがすごいぞ天使ん拳。

 がんばれ天使ん拳。

「名前は酷いが頑張れ!」

「言われなくったって!」

 俺の声援に応え、化物と天使の攻防が始まる。


 ……こいつ本当に強い。

 化物の攻撃を難なく受け止め、容易に吹き飛ばすほどの打撃を生み出す腕力だけじゃない。

 大振りとはいえ巨体に似合わず素早い化物の攻撃を、時に受け止め、時にいなし、その要所要所で適切なカウンターを決めていく技術も備えている。

 自ら言った最強という言葉は伊達ではなかった。

 体格差をものともせず化物を圧倒する天使ん拳伝承者。

 ――だがそんな快進撃は唐突に幕を降ろすことになる。


 ダメージが蓄積された化物の動きは鈍りきっていた。

 その化物が苦し紛れに放った横薙ぎの一撃。

 俺の眼から見てもわかるほどに、さっきまでとは違う力強さのもなく遅い一振り。

 避けるまでも無いと判断したんだろう。彼女はその軌道を読みきり片腕をあげ備える。同時に逆の手で拳を作り腰貯めに構えていた。

「え――?」

 驚愕の声を漏らしたのは俺だったのか。彼女だったのか。

 その時見たものは、俺の描いていた未来予想図を覆した光景だった。

 今まで通り受け止めるかと思われた彼女の腕はそのまま何の抵抗も無いように化物の腕に押され、腕ごとその身体に衝撃を受け、これまでの意趣返しのように軽々と吹き飛ばされていた。

 俺に向かって飛んできた彼女の身体をとっさに受け止めたが、勢いを殺しきれず二人一緒に押し飛ばされてしまう。

「がっ……ひゅっ……」

 背中から木に激突しようやく止まる。彼女の身体と木に挟まれ肺の空気が全て押し出され一瞬意識が遠のいた。


 何が起こったのか理解出来ずに混乱する。

 腕の中の彼女は気絶している。声をかけようが揺すろうが眼を覚ます気配がない。

 優勢だと思われた状況が一気に窮地にまで追いやられている。

 なぜ?

 どうして?

 そんな疑問が頭の中を駆け巡る。

 ……いや、そんなことを考えてる場合じゃない。

 鈍っているとは言え今ものそのそとあの化物がこっちに迫ってきている。

 疑問を感じている場合ではないと、無理矢理に思考を切り替える。

 戦うという選択肢は無い。

 今ある選択肢は。

 彼女を連れて逃げるか――彼女を置いて逃げるか。

 ここに彼女を置いていけば化物が彼女を襲っている間に俺は距離を作れる。その方が生き残れる確率は間違いなく圧倒的に高い。



 俺はヘタレだ。


 勇気なんて大層なもんはこれっぽっちも持っちゃいない。


 俺はヘタレだから。


 今まで守ってくれていた女の子を置いて、一人で逃げ出せるような勇気なんてあるわきゃない。



「くそっ」

 気を失った彼女を肩に担ぎ走り出す。

 それに触発されたかのように化物も走って追いかけてくる。

 くんなよっ! もういい加減諦めろっ!

 そんな願いが届くわけもなく化物がどんどん近づいてくる。

 振り向かなくても、後ろから響く足音がどんどん大きくなっているからわかってしまう。

 慢心創意と言えど、人一人担いだ俺と手負いの化物とではまだ向こうの方が速いようだ。

 このままじゃ時期に追いつかれると判断し、わざと隙間の狭い木の間や、あえて木のギリギリを通りその後に少し軌道を変え木を盾にするように走る。

 だがそんな小細工は無駄だったとすぐに知ることになる。

 大きな破壊音を耳にし走りながら振り向くと、そこには一切順路を変えず体当たりで木々をなぎ倒しながら真っ直ぐこっちに迫ってきている化物がいた。

 パワフルすぎる!


 絶望に彩られかけていた眼が一つのものを捕らえる。

 前方の木々の向こうにキラキラと輝く広い濃紺の大地があった。

 森の終わり? 平原?

 逡巡する。平地に出られたところで化物から逃げ切れる道理なんてない。

 いや、関係ないか。どっちにしろこのまま森の中を走っていたところで、いずれ追いつかれるのは判りきってる。

 それならと、そこに向かって全力で突き進む。


 森を抜けた勢いのまま紺色の大地を力強く踏みつけた――つもりだったが、紺色の大地は何の抵抗も無いかのように俺を足を吸い込んでいく。

 勢いのついた俺は立ち止まるこも出来ないまま転倒し、全身でその紺色の中に飛び込んでいく。

 その衝撃で紺色の中に生まれる無数の泡。皮膚に染みる冷たい感触。口や鼻の中に入ってくる流動性の高い液体。そこでやっと紺色の大地だと思っていたものが湖だったことに気づく。

 一瞬このまま溺れるかと思えたが、深さは膝の高さまでしかなかったようで容易に立ち上がることが出来た。

 顔を上げた先には一人の女性が立っていた。


 腰まで長く伸びた黒い髪は月明かりに照らされ煌いている。

 髪と同じように月明かりでキラキラと輝く一糸纏わぬ塗れた肢体は、成長した女性らしさを見せ妖艶とさえ言えそうな幻想的な雰囲気を漂わせている。

 何より俺の眼を釘付けにして離さない大きな二つの球体。

 素晴らしい以外の感想が出てこない。

 どこぞの天使のそれとは大違いだ。実にけしからん。 

「……いやん」

 おどけた声をあげ、両手で胸を覆い、片足をあげ下半身を隠す全裸のお姉さん。もうちょっと見ていたかった。

「す、すいません。わざとじゃないんですっ」

 ってやってる場合か。

「じゃなくて! 助け――逃げて下さい! デカいサルゴリがっ。木をっ」 

「あーはいはい。さっきから聞こえてた音と君たちの様子で大体どういう状況かはわかってるさ」

 状況を把握していると言う割には微塵も慌てていない彼女の態度は余裕に満ち溢れていた。

「助けてあげるからこっちに来なさい」

「は、はい」

「後ろに下がっててね」

 見ず知らずの女の人の後ろに隠れるなんて、男として情けない限りだがそうも言っていられない。

 彼女とすれ違った時に、彼女の側に突き立てられていた長い棒状のようなものが眼に入る。

「おーこれは想像以上の大物だね。期待出来そうだ」

 森から現れた化物を眼にしても一切怯むこともなく軽口を叩く美人のお姉さん。

 この世界の住人にとってはあんな化物でも取るに取らない相手なんだろうか。

 だとすると俺はとんでもない世界に来てしまったんじゃないか。あんなのがそこら中にゴロゴロしてる世界なんて想像もしたくない。


 お姉さんが無言で化物を指差すように片手を上げる。

 するとその手の先に、パキパキと小さな破裂音を鳴らしながら氷の塊が形成される。

 そこに現れたのはつららのように尖った大きな氷塊。

「穿て!」

 お姉さんの声に呼応するように浮いていた氷塊が化物めがけて加速いていく。

 うおお。これが魔法ってやつ? か、かっこいい。

 しかし撃ちだされた氷塊は化物に当たりこそしたが、その瞬間に砕け小さな氷片へと変わる。

 化物は少しよろめいただけで無傷だった。

「おやおや。とっても硬いんだね。これならどうかな?」

 お姉さんは今度は手を真上に上げる。指刺された空中に一つ一つはさっきのより小さいが、空を埋め尽くすように何十もの氷塊が生まれる。

「えいっ」

 さっきとは違ったお姉さんの軽い掛け声で、無数に氷塊が一気に化物に降り注ぐ。

 化物を中心に、地面を揺らすような爆音とともに白煙が舞い上がる。

「や、やったか!」

「もちろんやってないよ。こんなのちょっとした時間稼ぎにしかならないさ」

 お姉さんが側にあった長い棒を引き抜く。湖から引き上げられ全身を現したそれは鍔のない細長い刀剣だった。

 剣先を引き、刀身を斜め後ろに下げ構えている。

灼熱に溺れた世界(あかいろドライブ)

 さっきまでの掛け声とは違う響きを持った言葉をお姉さんが口にする。

 それと同時にお姉さんの持った刀剣の刀身が徐々に紅く染まっていく。

 剣先に僅かに触れた水面が一瞬で蒸発し水蒸気に変わった。

 その時にはもう、無数の氷弾を凌ぎきった化物がうなり声を上げながら走りだしていた。

「寒かったかい? 今まで冷たくしてごめんね。おいで。あっためてあげるよ」

 迫り来る化物に茶化すような軽口を口にするお姉さん。やわらかそうな胸と違い彼女の心臓は鋼鉄で出来ているのかもしれない。

 化物の接近に微動だにしなかった彼女の身体が突然弾けるように前進する。

 高く高くあがる水しぶき。

 そして横薙ぎに一閃。

 すれ違うように化物の横を通りすぎた彼女は、剣を振り切った姿勢で背中を向け立っていた。

 ただ一振りで両断されその半身を失った化物の下半身は、その半身をなくした後も走っていた勢いのまま進み、やがて崩れ落ちるように倒れ水面に沈む。

 そこから流れ出した血液が湖面を赤く染めていく。

 切り飛ばされ高く舞い上がった上半身は、回転しながら血を撒き散らし湖の淵の草の上に落ちて行く。

 見えた切断面は黒く焼け焦げ煙を上げていた。


 彼女は剣を携えたまま未だ煙を上げる上半身に歩み寄り、何かを待つかのように佇んでいる。

 数秒後、化物の上半身に突如たくさんの小さな光の粒に変わり、やがてそれも空気に溶けるように消えていく。

 視線を戻すとそこにあったはずの下半身も消え失せていた。

「あったあった。んー思ったよりちっちゃいなぁ」

 それを確認した彼女が焦げ跡の残る草むらに手を伸ばし何かを拾いあげた。

「あ、あの……ありがとうございます」

 お姉さんに駆け寄り頭を下げる。

 このお姉さんは命の恩人だ。

「……まず君に一つ。さっきから言いたかったことがある」

「は、はい」

 さっきまでの飄々とした態度とはうってかわったお姉さんの口調に思わず緊張が走る。

 ……なんだろう。

 『やっぱり君もころすねっ』とか

 『お助け料一億万円ね』とか言われたらどうしよう。

 お姉さんの動向から眼を離せなくなる。


「女の子の裸をそんなにジロジロ見るのは関心しないよ?」

「あっ! す、すいません!」

 そんなことかっ。

 い、いや確かに見てたけど。

 揺れ動くぷるんぷるんやぼいんぼいんを見てたけど!

 どうしようも無かったんだ。不可抗力なんだっ。

 だって……俺だって男の子なんだから。

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