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DATA9 錯乱

(はぁ………まったく、人間ってやつは理性よりも感情が先走ってしまう、なんという不都合な生き物なんだろう……まぁ…私も人の事は言えないが………)

見た感じ釣り合わなそうな老夫婦が立ち去った後、播野はまた一人頬杖を突き、遣る瀬ない物思いに耽り始めた。

そういえば、ついさっき頭をよぎった“あの暗雲”。

前方には黒く重苦しそうな扉が一つあり、そこへ何人もの男達がうなだれるようにして次々と入ってゆく。そんな光景が、映写機から展開されてくるフィルムのように突如として、彼の脳内を占拠し始めたのであった。

(………な、何があって突然、こんな悪夢に襲われるような、嫌あな感じにならなきゃならないんだ…………)

眼の前が真っ暗となり、黄ばんで薄汚れた頬に汗が一筋、髪の生え際からくっきりと流れ、尖った顎に水滴のように溜まった後、空しく机の端に落ちていった。

“死に至る疾患”

前者をどうにかして抑えようとすると、今度はまた違った、しかし同じく気味の悪い光景が無意識のうちに支配してきた。煉獄のような漆黒の狭い洞窟のなかで、十数名の男女が盃{さかずき}やグラスを眼{ま}の当たりにし、片方の腕を前方に大きく伸ばしたり、頭を握り拳で叩いたりしてもがき苦しんでいるではないか。ビールや日本酒、焼酎やウイスキーの瓶が載っている古ぼけた木製の十数台がほんの少しずつゆっくりと、わめきもがいているこれらの連中の手の届きそうなところまで動いてくる。

「…ぁあっ……ゥ…ウォオオオオオ………」

しかし、アルコール飲料を載せた木製の台は無常にも、飢え苦しんでいる人達の手の届くあともう数センチというところで、後方へゆっくりと少しずつ軋{きし}むような音を立てながら、狭い洞穴の縁{へり}まで戻っていってしまうのであった。そしてまた、間を置かずにアルコール類を載せた台は罪人のように醜い容貌{なり}をした彼らの下へ少しずつゆっくりと向かってゆく。身体を鎖で拷問の如く縛られてみすぼらしい恰好をした男女達は、自分らのほうにやってくるその古ぼけた木製の台に絶えず眼を遣りながら大きく片手だけを伸ばして、一列に並んでいる誰しもが、喉の奥からもう今か今かと呻き声を発していた。今度こそ渇望していた酒を思う存分浴びることができるかもしれない、みなそう信じたに違いない。餓鬼のようにぎらぎらと鈍く光っている眼がアルコールドリンクを載せた台が近づいてくるにつれ、いっそう不気味さを増してくる。手の届くところまであと、五センチ、三センチ、一センチ……がしかし、またその木製の古ぼけた台は、眼に見えない何物かの手によって遠隔操作されているかのように、再び後ろへ後ろへと下がってゆく。そして、アルコール飲料を目一杯敷き詰めて載せた古ぼけた木の台は、これらの動きをまるで浜辺にゆっくり打ち寄せては退{ひ}いてゆく波のように幾度も幾度も繰り返していた。

「ゥ、…ウオァァァァァ………」

囚人のように鎖に繋がれた十数名の表情{かお}は見るに堪えないほど醜く、そのおぞましい光景はまるで地獄絵図を眺めているようであった。

「ウオァァァァァァ…………」

それほど広くはない洞窟の中いっぱいに、欲望を満たす事ができずにいる酒の亡者達の激しい金切り声が響いている。

「ウワアァァァァァ………」

(い、嫌だ………こんな恐ろしいこ、光景は、…………俺は望んでなんかいない……)

脳裏{あたま}の奥深くに、耳鳴りとは似つかぬそれらの叫び声がけたたましく響いてきている。播野は我知らず、

耳元を両手で押さえ付けてこうべをガクリと机に伏せた。

(私は、……俺は………患者に良くなってほしいから、…………いや、…不埒な、………変な考えなど、……ばかりではないさ………)

突然、悪夢のようにふと涌いてきた情景に、播野の意識は自身でも信じられないくらいに掻き乱された。実際その場に居合わせたかのような戦慄ってやつが、心中の隅から隅まで駆け巡ってきた。


―――悪くなることはあっても、決して良くなることはない病―――


この究極のフレーズが、まるで大脳に知らず知らずのうちに刻印されてしまったのか、意識から拭い去ろうと必死に苦しみ喘{あえ}いでも、そう簡単に、長年自ずから積もらせた観念を消し去るわけにはゆかなかった。

(とにかく、とにかく落ち着くんだ……俺がこんな調子じゃこの先のクライエントはどうするんだ………頼む、しっかりしてくれ、…俺………)

播野は、机の上に苦悩に歪んだ顔を伏せたまま、両手には握りこぶしを作り、それを歯痒そうに幾度か叩いた。二進{にっち}も三進もゆかない“現実”という憎たらしいほどの“大きな壁”。己の非力さを悔しがるように、白髪雑じりの頭ごと伏せたまま揺さぶった。

「…先生………先生、どうかされたんですか」

いつの間に入ってきたのか、気がつくと、受付のもう一人の女である菅谷が、すぐ背後で憂い顔をのぞかせていた。

菅谷は、四十半ば過ぎの色白で顔のむくれている俗にいうぽっちゃりとした体型の女で、播野とほぼ一緒にこの医院にやってきた古株である。以前は医師と同じ病院に勤めていたが、播野が開業するという噂をいつしか聞くと、なぜか菅谷も、地元では知名度の割と高くなった今いるこの小さな医院に赴任してきたのであった。

「……ぁ、あぁ………」

播野は、力無く覆っていた顔を菅谷のほうにゆっくりと向けて微かに首を縦に動かした。がしかし、その表情は病人のように蒼ざめて、額からは汗がまだ滲み出ていた。まだ、いったい自分のなかで何が起こってしまったのかよく理解{わか}らないでいた。

(嘘だ………私は、……俺は決してそんな酷い仕打ちはやっていない、………やっていない、………と信じるしかないさ)

これほど、彼が診察の合間に自身を取り乱してしまったのは、非常に珍しいことであった。患者に接する時のような泰然自若として穏和な柔らかい物腰が、この時ばかりは消え失せていた。

「……な、なんでもないさ。…大丈夫だよ。ただ、……少しだけ……五分間だけ時間をくれ」

「あ、はい……」

受付の菅谷は、播野の舌も引かぬうちに一寸{ちょっと}だけ頷くと、何かを悟ったように目配せをしてその場から離れた。しかしドアを閉める間際、治療に携わる医師の筈が逆に病人みたくふにゃんとして腰掛けている情けない医師の後ろ姿をあらためて目の当たりにすると、氷のように冷たい眼を凝らしながら静かにゆっくりとドアを閉め、元いた場所へとおもむろに戻っていった。

自らを突如として襲ってきた悪夢のような情景はさておき、播野が医師として診察の最中でも深く考え込んでしまうのも無理はなく、『アルコール依存症』は予後〔病の治療を施した後〕の死亡率が三~四割と非常に高く、酒をたとい控えめでも飲んでしまった患者と通常に飲酒した患者との間に差異は見られず、完全に断酒することによってのみ、生存率が高まってゆくのである。

(悪いのは、……人間の意志の弱ささ……。一口でも飲めばまたアル中が再発する、だからもう絶対に飲まないと一度心に決めた事は貫き通す………こんな簡単なことが何故、なぜ人間にはできないのか……理性という動物にはない素晴らしい特徴を生来備えているのにもかかわらず………だ。……愚かだ、……あまりにも愚かな気がしてならん!)

悪夢のような悍{おぞ}ましい幻からどうにか立ち直ってきた播野は、普段より少しばかり荒い息遣いに変わっていた。それでも未だ、両腕は力無く机の上に置いたまま、一人また物思いに耽った。今度は、その時の感情という、“一時の誘惑”にあっさりと負けてしまう人間達の心の脆さに拘泥し始めた。

とにかく何といっても、アルコール依存症の治療でまず重要なのは、「患者本人の認識」である。多くのケースでは、アルコール依存症であるという事実を認めたがらない。さきの頑固オヤジも、途中までは然{しか}りであった。それは認めてしまうと、飲酒が出来なくなってしまうから、いやがおうでも認めようとはしないのである。

(一滴も呑まずに我慢していれば人間{ひと}に八つ当たりするし、呑めば呑んだで、内臓を痛めるだけでなく、うつや不安障害を併発し、自殺してしまったり、自然と死に至る確率も高くなる………まったく、一番治せるようで治す事ができない、厄介な病気としか言いようがないな………)

播野は、これまで担当した患者のケースをまたまた覗いてみたくなった。静かにマウスを動かし、該当クライアント一覧のファイルを開いた。出てきたリストの中の、〔予後における詳細〕の欄を上から眼でずっと追っていったが、虚しく苦い溜め息がぽつぽつと洩{も}れるばかりであった。投げられるのなら、匙{さじ}を投げたい。無責任だが、そんな諦めの念いが煙のように胸の内を充たしてくる。

「しかし、一番の問題は…………」

ぼそっとつぶやくと、こればかりはどうにもならぬと言わんばかりに、播野は品良さ気に整った白髪雑じりの毛髪{かみのけ}を片手で鋭く掻きむしった。

「………根本的な治療法は酒を一切断ち切ること、…酒を、一切………」

“酒を断ち切ること”

幾度も幾度も念仏のように繰り返されるこの決まりきった文句を、播野自身も唱えたが、途中で風に煽られて消えた儚い蝋燭の灯{ともしび}のように、声は次第にか細く途切れてそのまま口を噤んでしまった。

アルコール依存症は本人の意思だけでは解決する事が困難なため、周囲の理解や協力が自ずと求められてくる。たとえ治療によって回復した場合であっても、アルコール依存症に一度陥ってしまった者が一生涯断酒を続けることは大変な困難を要するのが実情である。ここがさっきからずっと、筆者もくどいくらいに強調している点であるが。

「…まぁ、苦しむのは俺じゃないから……別にいいんだけれど………」

そう、また医師はぼそっと皮肉っぽく呟いたものの、脳裏{あたま}にはつい先ほどまで診察をしていた、あのカーキ色の作業衣のような薄汚い格好をしてほとんど口を利かなかった患者のみすぼらしい哀れな姿が糞尿のようにこびりついて離れないでいた。

(……はぁ、俺のやってる仕事はまるで、他人{ひと}の生き様まで背負わなくちゃならんのか………)

ふと、皮肉とも諦めともつかぬ嗤いが、彼の唇の辺りを気色悪く歪ませた。こんな時医師はきまって、気が狂ったようにキーボードを出鱈目にカチャカチャと打ち鳴らす。どうしようもなく抑え切れない感情。アルファベットの文字列が、その衝動にまかせて激流のようにセルに素早く刻み込まれる。何行も何行もそれらは意味もなく、ただ無味乾燥に並べられてゆく。ひょんな事から、大脳辺縁系の感情を司る扁桃体は異常を来たしてしまうのか、常日頃の冷静さを失い、容易に情緒が掻き乱されることも、この頃では珍しくないような気がする。

「畜生………これも一種の職業病ってやつか……」

(ま、…俺には…………アレのせいも、……あるだろうがな………)

と、播野はまた意味ありげな薄嗤いを一瞬表情{かお}に浮かべ、組んだ両手を気怠そうに頭の上に高く掲げ、そして吐息とともにパッと投げ出すように離した。

“ピーーッピーーッ”

彼の悪い癖で、長々と物思いに耽っていると、内線の呼び出す音が甲高く聞こえてきた。

「はい。もう大丈夫だから」

受付のほうで気掛かりに思っているさまをその甲高い音ですぐに感じ取り、播野は素早く受話器を片手に取った。菅谷が何やらあれこれ愚痴をこぼしたのには取り合わず、開き直ったようにただ早口で、次の診察が出来るコンディションに戻った旨を伝えると、直ぐさまそれを急{せ}くように元有った所へ置いた。

(……まぁ、考えていても仕方がない) 「次いくとしよう」

室内には、長年密かに愛用している、フルーティーでエレガントな匂いが特徴のアロマオイル『ダウ゛ァナ』が、相変わらず心地良い、優しい癒しのする甘い香りを放っていた。


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