DATA7 アルコールという名の悪魔
「番号札四番の方、診察室へどうぞ」
「失礼いたします」
と、老父と老女の声がほぼ同時に入り雑じって聞こえてきた。
年老いた男は作業衣のようなカーキ色の暑いアクリルの長袖に、紺色のキャップを気取って横に被っていた。そして、老翁が先に播野の前で軽く会釈をすると、
「先生、お願いいたします」
付き添いらしき妻のほうが、膝に両手を添え、敬礼のように頭を深々と下げて丁重に挨拶をしてきた。
(今日初めての初診だな。それにしても、また図々しく勝手に椅子に座り込みやがったな‥)
「はい。今日はどうされました?」
播野は、最前列で授業を受けるクラスの優等生のように、腰掛けている椅子に対して背筋を真っ直ぐに伸ばし、紳士的に温雅な物言いで、最初の一言を発した。
「………………」
「えぇ。実はこの人アルコールにやられてしまいまして。昨年の九月に会社を定年しましてから、不幸な事にずっと酒びたりの生活を送ってしまって……飲む量が増えてゆくうちに次第に飲まなければ死ぬ死ぬと言い出すまでになってしまって……」
付き添いの妻は、まるで自分事のように、溺れた者が藁にも縋るような切羽詰まった面持ちで、彼に代わって事情を打ち明けた。医師もそれとなく直感で、眼の前で影を薄くしている老父から漂う苦衷は感じたかもしれない。
「なるほど。アルコールに依存してしまわれたわけですね」
「主人をどうにかして助けてください。先生、お願いします」
年老いた妻は、両手を胸の前で祈るように組み合わせながら涙声で医師に助けを求め、苦しそうに目を閉じてほんの少しまた頭を下げた。
「奥さん、そんな心配なさらなくても大丈夫ですよ。根気よく治療のほう続けていけば回復していきますから」
「本当に先生、駄目な主人なんですが、助けてやってください」
茶色いパーマ頭に所々グリーンの染色を施している歳老いた妻は、再度両手を眼の前で組んで、神仏に祈るようにお願いした。
(典型的なアルコール依存だな。男のほうはうつ症状にもなっていると見える) (……根気よく通院すれば治るというものでもないんだよな……)
(根本的な治療法といえるものは現在{いま}のところ断酒しかないというのが実情だ。まぁ、一応シアナマイドとノックビンという二種類の、少量の飲酒で悪酔いを惹起する薬はあるが……)
アルコール依存症とは、薬物依存症の一種で、主に飲酒などのアルコールの摂取によって得られる精神的、肉体的な薬理作用に強く囚われてしまい、自らの意思で飲酒をコントロールできなくなり、強迫的に飲酒行為を繰り返す精神疾患である。
「なぜ、飲酒のほうに奔{はし}られてしまったのですか」
「………あ、あー…ええと」
「いいわよ。あんたは黙ってて」
当の本人がやっとこさ医師に対して言葉を発しようとしたが、妻は、顔色をずっと冴えなくしている亭主を見て非常に頼りないと思ったのか、彼が伝えようとする間際すぐそれを制した。
「実はですね、先生。この人日頃から趣味とか何にもなくて。定年してから始めのうちは、朝起きるのが遅くなって昼間もぼけーっと新聞読んだり後はテレビを漫然と見ているだけになりまして。お酒もちょうど会社辞めてからは唯一の愉しみみたいにぐびぐびと飲み始めましてね。する事が何にもないからと言って晩から次第に夜更けまで一人で酔っ払うようになっちゃったんですよ、ホント情けない事に………」
「なるほど……」
(特にこれといって、興味を持っているものもないのか、もうすぐ高齢者の部類に入るというのに。うつ病にはなりやすいタイプだな…)
「まぁとにかく、長時間の飲酒は身体にもよくありませんからね。気をつけましょう」
「この人先生、肝硬変にまでなってしまったんですよ。飲むな飲むなといっつも声かけてるんですけど、全然人の話聞かなくて困ってるんですよ」
妻はまた、何事においても意気地のなさそうな老夫を尻目にかけ、日頃の愚痴を頼りやすい医師に醜い皺を表情{かお}いっぱいに作りながらぶちまけた。
「肝硬変に……ですか。そちら病院には行かれたのですか」
播野は、患者の付き添いの妻とは正反対に、落ち着き払って相変わらずのポーカーフェイスと温柔な口調で対応していた。
「ええ、そうなんです。二ヶ月ほど前に病院へ行ったんですけど、同じ事言われましたね。やはり飲み過ぎは良くないよと。まったく、ここ最近ではアルコールで酔ってないと、苦しくて苦しくて仕方がないって泣き叫ぶ事もあって。こちらとしても大変困り果てまして…」
「なるほど。典型的なアルコール依存ですね。自身の心の中で“もうこれ以上飲んだらいけない”というセーブが出来なくなってしまったんですよ」
「へええ、そうなんですか?じゃあ、私のほうでいくら“あなたもう飲むのは止めなさいと”説得してもどうしようもないって事なんですか、先生」
夫と共に歳いった妻は、そのような理屈を聞かされたのは初めてらしく、思わず左手で口の辺りを覆って、医師に驚きの表情を見せた。
「ええ、そうなんです。ここが非常に厄介なところなんですよ。患者である旦那さんはおそらく今、アルコールに酔った状態でいないと精神的に塞ぎ込んでしまっているでしょう。これは大量の飲酒が精神的にも大きなダメージを与えてしまったという証拠にもなるんですよ」
「まぁ…それじゃやっぱり主人は取り返しがつかないくらい飲み過ぎてしまったって事になるんですねぇ」
老妻は、見過ごしてきてしまったと自ら思える過ちをぎゅっと掌を握りしめながら悔やんだ。改めて冷静な医師のコトバを聞くと、表情{かお}はおのずと蒼ざめてきて、失望の色を隠さずにはいられなかった。
アルコール依存に陥ってしまった人達も、何とかして適量のアルコールで済ませておこうとか、あるいは今日は飲まずにいようかと考えていることが多い。そして過剰な飲酒が及ぼす様々な弊害を知っているにもかかわらず、いったん飲み始めると自分の意志では止める事が出来ず酩酊するまで飲んでしまうのである。このようなブレーキが効かない飲酒状態を『強迫的飲酒』というのである。
「ご主人はここ最近日中も飲酒していらっしゃるんですか」
相変わらず播野は、患者達のほうを向かずにキーボードを打ち鳴らし、ロボットのようにパソコンに眼を見遣ったまま、症状にかかわる日頃の病癖について尋ねた。
「そうなんですよ。もう困り果ててしまいまして、それでやっと今日こちらに参ったわけなんですけれど」
「なるほど。終日飲酒癖が抜けなくなってしまったというわけですな」
播野は、首をちょいとだけ縦に動かして頷き、それは大問題である事を二人に知らせるように大袈裟に腕組みをした。……と、その時、
「うるせえーんだよ!この野郎」
診察室に入ってからずっと、口のきけない人形のように黙り込んでいた亭主が、突然、声を張り上げて怒りを露{あらわ}にした。
「あんた、ここは先生の言う事ちゃんと聞かなくちゃ本当に治らなくなっちゃうよ」
「だからさあ。酒ちょっとばかし飲んで何が悪りぃんだよォ!」
煙草を吸うのを止めた際に起こる禁断症状と同じく、アルコールに少しでも浸ってないと精神的におかしくなっているのか、泥酔した時と同じく呂律が回らないような銅鑼{どら}声で、男は妻の諌めに鋭く反発した。
「ちょっとばかしじゃないでしょ、あんた。ここ最近はずっと昼間も顔真っ赤にしてベロベロしてるだけじゃない」
「うるせえな、何が悪りぃんだよ」
「まあまあ、二人とも落ち着いてください」
播野は、このままだと眼の前で二人が浅ましい口喧嘩を繰り広げてしまうと思い、直ぐさま後ろを振り返って、左手で軽く制した。
(ここで諍{いさか}いなんか起こされちゃ困るよ、まったく………)
……しばらくのあいだ彼は、これまでの『アルコール依存』患者における実例のファイルを蟷螂{かまきり}のようにするどい眼で凝視しながら黙り込んでいた。
(う~む。一度アル中になってしまうとどの患者もほとんど、いや全てと言っていいほど再発してしまっている。抗酒薬をこちらが処方しても、みな、“ついひとくちだけ”に負けてしまうんだよな…)
上手にお酒と付き合う事のできる機会的飲酒者とは違い、自分の意志では止まらなくなって酩酊するまで飲み続けてしまうところが、アルコール依存症の第一の難点である。
(これまで自分が診てきたクライエントのうち、回復したのはたったの二人だけか…。再びお猪口に手を出した者は自殺してしまったケースもある。
(う~む…………)
播野は、解れかかった腕をまた深く組み直し、困ったぞと云わんばかりに首を右のほうへ傾げた。
統計的に見て、ほぼ毎日純アルコール量で一五○ミリリットル{日本酒で約五合半、ビール大瓶で約六本、ウイスキーではダブルで約六杯}以上飲む習慣のある者を『大量飲酒者』と呼んでいる。ただし、これら大量飲酒者に該当しないアルコール依存症者もいるので、一概に大酒飲みばかりが自らの意志をコントロール出来なくなってしまうという事ではないのである。
「ふだんですが、一日にどれくらいの量のお酒を飲まれているのですか」
「…………」
「あっ、すみません。ええとですねぇ、ビールで瓶四本以上、日本酒で五合くらい飲んでいらっしゃいますか?」
医師は、飲ん兵衛の患者である老父に尋ねたが、反応がなかったので、代わりにまた、傍にいる同い歳くらいの妻が通訳のように、些か慌てた素振りを見せてから代辯{だいべん}した。
「ビール三瓶に、日本酒は四合ですか。それなりに飲んでしまってますねぇ。まぁ、ぎりぎり大量飲酒とまではいきませんが」
どうしても、『脅迫的飲酒』が進んでくると、日常的にアルコールに酔っている状態、又は体内にアルコールがある状態にならないと落ち着かなくなったり、調子が悪いと思うようになったりして、陽の出ている時間、眼が覚めている間は飲んではならない時(例えば勤務中など)であっても、絶えず“飲酒”を続けるという『連続飲酒発作』が頻繁に行われる事がある。どうやらこの患者も、アルコールに洗脳されてしまったらしい。
「先生、もうどうしたらこの人が酒飲むの止められるようになるんですか」
付き添いの妻は、相変わらず切羽詰まった調子で医師の冷静そうな顔色を窺った。
「ここまで飲んでいれば、突然止めろと私が言ってもご本人は止めることなど到底出来ないでしょう。それよりも今は飲酒する時間を少しでもなくしていく事のほうが肝心ですね」
さすがの播野も、女の早く早くと逸{はや}る心境が自分にも伝わってきているのか、ここにきてついに声高で早口な口調になってしまった。
症状が進行していくと、身体的に限界が来るまで常に『連続飲酒』を続けるようになり、体のほうがアルコールを受けつけなくなるとしばらく断酒して、それがまた回復すると、連続飲酒を続けるという悪循環を繰り返す『山型飲酒サイクル』 に移行してしまう事がある。
「ご主人さんに聞きたいのですが、会社を辞められてから、今日ここへ来る約半年までの間に、お酒を集中して飲み続けた期間と逆に途切れてお酒を飲まなかった期間はありますか」
「…………うん~、ん?」
「あんた、ちゃんと先生の言ってる事に答えなさいよ」
ひどく困憊しきっているのか、医師の眼の前で暗く冴えない表情{かお}をして腰掛けている夫のほうをちらと見ると、同じく幾多も馬齢の加わった妻は彼に頼りなさを感じずにはいられないようであった。
「うるせぇ、わかってーよ。あのな、俺はな、長年汗水垂らして配管工としてやってきたんだぃ。その反動じゃないけどさ、先生よぉ。ちっとぐらい酒に浴びたりの生活だってあったっておかしくねーじゃーんかよ」
「何言ってんだい、あんた。最近じゃもう四六時中呑ん兵衛じゃないかい。それでこのザマじゃないの。情けないったらありゃしない」
屁理屈な愚痴をこぼす夫に対して、連れ合いは続けざまに口を五月蝿{うるさ}くして利かん気の強い彼を詰{なじ}った。
「……で、お酒に入り浸りだった期間とお酒を口にしなかった期間はありましたか」
「なんでそんな事聞くんだい」
男は、初め気障{きざ}っぽく横に傾けていた帽子の鍔{つば}をいつの間にか前方に深く表情{かお}を隠すようにして被っていたが、いじけたように口の中でただ吃りを繰り返すだけでまともに質問には答えようとしなかった。
「あんた!ちゃんと本当の事言わなきゃ駄目じゃない。先生ホントにすみません、この人ぐずで。ええ、確かに気が狂ったように目一杯飲んで眠る前に吐いてその場で身体ごと倒れてしまって‥なんてことも日常茶飯事のようになってきているんで困ってます。体を壁などにぶつけて動けなくなると、さすがにもう酒浸りになんかなるもんかって本人言ってそこそこの間は全く飲まなくなるんですけど、それでもまた、“喉元過ぎれば熱さを忘れる”っていうんですか‥懲りずにまた顔赤くしながら一人ニヤニヤして飲ん兵衛になってしまうんですよ、この人」
患者の連れ合いは、さっきよりはわずかに物言いは穏やかになったが、それでも眉間に皺は寄り続け、夫に対する杞憂の念いはずっと表情{かお}に現れていた。
「なるほど。やはり周期的なサイクルはありましたか…」
(…だとすると、かなり症状は進んでしまっているな。今アルコールに男は酔っていなくても酔っ払っている時と同じような言動をしているし……『ドライドランク』ってやつか)
播野は気怠そうに頭をぐるぐる廻し、再び暫しのあいだ腕組みをしながら考え込んだ。 飲酒の量が極端に増えると、やがて社会的・経済的問題を引き起こしたり、家族とのトラブルを抱えるようになってしまったりする。今回の患者の例においても、配偶者との折り合いが良くないので、家族間でのトラブルといえるのかもしれない。自らが原因を作ったこれらのいざこざにより、さらなるストレスを感じたり、激しく後悔の念に駆られたりするものの、その精神的苦痛を和らげようとまたさらに飲酒を繰り返してしまうのである。このように、自分にとってマイナスな面が強く働いているにもかかわらず、アルコールを摂取し続ける飲酒行動を『負の強化への抵抗』と呼ぶ。(やれやれ………困ったもんだ)
さっきから胸の内に、もやもやとした苦いモノが煙のように横たわっているということに、播野は嫌というほど気づいていた。