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DATA6 消えぬ葛藤

「はい、診察札三番の方どうぞ」

「失礼しまっす」

現れたのは、でっぷりとしていて、不精髭を顎の周りに雑草のように生やした三十代後半の男であった。彼は何も言わずに、そのまま丸い回転椅子にドスンとその鈍重そうな腰を下ろした。それから、

「よ、よろしくお願いします」

と一言吃るような低く小さい声で挨拶をすると、普段の性癖からか、幾分曇らせた眼鏡を左手で軽くずりあげると、すぐに下に視線を下ろしてしまった。眼鏡越しにその意志の弱そうな両眼は、一度風が吹けば消えゆく燭{ともしび}のようでもあった。

(まるで“うどの大木”だな…)

と、播野は、ずんぐりした患者を一目見遣り、心頭で侮蔑した。

「はい、栗谷さんですね。あれから体調のほうは如何ですか」

「……そ、そうですね。まだ人を見ると顔が赤くなってしまいますかね」

と、まるまる肥{ふと}った患者は、医師の表情{かお}をまともに見ないで、吃るようなぼそぼそとした声で話し出した。

この栗谷という肥った男、今は無職であるが、三ヶ月前まではなんと営業の仕事をしていたらしい。語り口やその時の声の大きさからは、とてもじゃないが新規開拓などで外をあちこち飛び廻っていたとは想像がつかないほどであった。

「まだ人見知りをする……なるほど」

播野は、患者の初診からの症状の経過を見ながら、握りこぶしを作ったまま頬杖をついて暫し考え込んだ。

(う~む。患者の努力不足かなー。薬ちゃんと飲んでるんだろうか。それか、やっぱり…)

「お薬はきちんと飲まれていますか」

「あ…たまに忘れたり……」

男は相変わらず視線を下に落としていて指を軽く弄びながら、不明瞭な返答をした。

「は、薬を飲まない事もある」

と、播野は些かわざと強い口調で、患者の話した事実を確認して言った。

(今回薬はコレミナールとデパスだったっけ。共に脳神経にすぐ作用するから、それなりに効き目を感じるはずだが…)

「飲まないと治りませんよ」

彼はまた、ずぼらで規律を守らなそうな患者に言い聞かせるため、きつい調子で言を発した。

「は、はい。すみません」

肥った男は俯いたまま手短にそう答えると、穢らしい不精髭をわけもなく右手で弄りまわし始めた。

(まったく…こいつ、真剣に治す気あるのかどうかも疑問だな)

播野は、でっぷりとした患者を冷ややかにまた一瞥して、呆れてしまったのか思わず表情を不機嫌そうに顰{しか}めた。男は、ただただ目線を床に遣っていたが、

「あの、コレミナールってなんですか」 と、突然丸くでかい顔を大きく後ろに反らすように上げ、医師に薬の名前を聞き出した。

「はい?」

と、播野は患者の意表を衝いたような質問に驚いたが、

「いや、コレミナールって何のお薬なのかなと思いまして…ちょっと気になっただけです」

自称対人恐怖症の男は、目が游いだり、手足を震わしたりして、恐怖を感じているような様相を呈したが、それまでの吃り口調から一変して早口で、医師に尋ねた。

(この男、本当に社会恐怖なのだろうか。たしかに、これほどまでに人の顔を見れないなんていうのはおかしいかもしれないが、でも、何となくこいつから漂ってくる雰囲気がホンモノじゃないのを感じてしまう)

播野は、眼の前にいる患者と対面して話や仕草などを窺ううちに、初めから見え透いた態度で自分の診察を受けに来ているのではないか、という患者自身に対しての訝しさと煩わしさの入り雑じった思いが少しずつ募ってきたのであった。

「コレミナールもデパスも精神的な不安定を緩和させてゆく『抗不安剤』ってやつです。飲んでからすぐに効くというわけではなく、最低でも一週間以上飲み続ける事が肝心なんです。きちんと毎日、決められた回数飲まないと治りませんよ」

「‥‥ちなみに、副作用とかあるんですか」

男は気になって仕方がなかったのか、幾分赤面した表情{かお}で額に汗を数滴滲ませなから、少し間を置いて又質問した。

「副作用…ですか。まぁそうですね、たまに眠気が襲ってきたり、頭痛が起きてしまうことがありますが、それほどご心配……」

「わ、わかりました。も、もういいです」

と、再び内に籠もるような吃りに近い声で自信なく、肥った男は軽く左手を前に気弱そうに翳して途中で話してくれている医師の言葉を遮った。

「大丈夫ですか。それでは次回まで一ヶ月ほど期間を明けましょうか。え~と、ちょっと待ってくださいね…」

(薬は前回と同じで、抗不安剤はベンゾジアゼピン系のデパスとコレミナール、睡眠導入剤のほうは、短-中時間作用型のリスミーと中時間作用型のエリミンでいいだろう)

播野は少しの間、画面を注視しながらパソコンのキーボードをカタカタと鳴らしていたが、ふと気付くと、彼の額にも汗が滲んでくるのがわかった。

(……なんて事はないさ。いつもの事じゃないか…)

「はい、お待たせしました。お薬は前回と同じもの出しておきますね。次回の日にちなんですが、四月二十一日の十一時は如何ですか」

「え~っと、あっ、すいません。できれば三時半のほうが都合いいんですけど…」

男は、左手で無精髭をいじくり回しながら、ぼそぼそと不明瞭な声で診察に訪れたい時間を伝えた。

「二十一日の三時半ですね、わかりました。大丈夫ですよ。それでは、次回、四月二十一日の午後三時半でお待ちしております」

「あ、ありがとうございます」

そう一言、相手の顔も見ずに破棄なく挨拶をすると、こそこそと逃げ出すように、ずんぐりした体を頼りなく丸めて診察室を後にしていった。

(なんなんだ、あいつは。ただの無気力なニートだろ、ありゃ…)

男が出ていった後、播野は何となく気怠そうに、白髪雑じりの品の良さそうに整えた髪を軽く掻きむしりながら欠伸{あくび}をした。


エチゾラム〔商品名:デパス〕

…チエノジアゼピン系。睡眠薬として出される場合も有り。

【副作用】①精神神経系副作用として、ときに眠気、ふらつき、眩暈{めまい}、歩行失調、頭痛、言語障害有り。

②依存性大量連用により、まれに薬物依存を生じることあり

③連用中における減少又は中止により、振戦、不眠、不安、幻覚、妄想等の禁断症状有り


播野は、デパス-副作用-欄の“依存性”という文字を鋭く氷のように冷ややか眼で凝視した。

(これまでいったいどれだけ多くの人間が、この一粒に縋ってきたのだろうか………)

(それからいったいどれくらいの人々が…………)

播野は、机の引き出しに片手を入れ撫でるようにして探り始め、数粒の錠剤をその中から取り出した。そして、憂愁に駆られたような物淋しい眼で、その無機質な白い一粒をじっと眺め入った。

(こんなに小さな物質が簡単に人間の脳に影響を与え、情緒の不安を抑え、そして又その代わりに………)

彼は、医師として精神医学に関わり長い月日をともにしているが、薬物の即効性やそれから生じる恐怖というものに改めて驚愕せざるを得なかった。

(若かかりし頃は、日常生活において何か悪いものにでも取り憑かれているように、実体なき無形な“心”の領域に病んで苦しんでいる人達をただひたすら救いたいという、正義感に溢れていたものだが、……今は…………)

播野は傍にある時計の、一定間隔で刻み続ける秒針をちらりと見て、大きく溜め息を吐いた。

(もっとも、今自分が医師としてこうして生き延びているのは、抗不安剤や向精神薬などを毎日クライエントに処方しているからでもあるが………)

「先生、失礼します」

肩を落として些かうつむき加減で、魂が抜けたように、また例の深い物思いに沈みかけていた時、ノックと同時に慌ただしい女の声が扉越しに聞こえた。さきほどの診察の前に、患者のキャンセルを報告しに来た受付の野尻であった。

「…なんだ、またか?」

「ええ。“うつ”がなかなか治らないっていう山口さんなんですけど、なんでも今日朝起きたら高熱でとても外出できる状況じゃないって言ってます」

「しょうがないな、まったく…」

回転椅子を身体と共に野尻のほうに向け、机のうえに片方の肘を偉ぶったように突いていた播野は、億劫そうにそこから立ち上がり、電話機のある受付へと向かった。

「もしもし、山口さんですか。今日は来られないという事ですが……………なるほど、わかりました。次回からはもうなるべく予約のドタキャンは止めてくださいね………はい。それでは、お大事に」

播野は、手に持って会話をしていた受話器を無造作にガチャンと音を立てて電話機に置くと、受付の野尻に、また引き続き頼んだぞとでも言い聞かせるようにしかと目配せをして、自分は診察室へと戻っていった。

(まったく。目の前は待合室で患者がいるっていうのに、キャンセル電話なんかにいちいち対応してたら私の面子が保てなくなってしまうよ)

(……さて、気を取り直して次いくとするか)

播野は、額に滲んできた汗を白い綿のハンカチで丁寧に素早くささっと押さえ付けた。


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