DATA5 よみがえる悪夢
―そして今日―
(そうか、まだフラッシュバックが続くのか。まぁこれだけの期間、虐待や強姦という強烈な行為が繰り返されてきたわけだから無理もないな)
「意識して男性から眼を背ける事はありませんか」
播野は自身も男性である事を尋ねる前に自覚した上で、かなり丁重な腰の低い物言いで患者に尋ねてみた。
「ええ、やはりあります。酷い時にはテレビの中で男性が出て来るだけでも、顔を手で覆い隠してしまい、吐き気が催してくる事さえあるんです」
「なるほど。日常生活で外出する時でも堪えられない感じですか」 「そうですね。たまに近くに外出して、青年の男性と擦れ違うだけでも顔をつい逸らして避けて通ってしまいますね、もう最近では」
「そうですか。お辛い体験をされましたからね。まぁ、仕方のない事でしょう」
(うむ、PTSDは厄介だな。本人が酷いショックを受けているだけになんとかして早く回復させてあげたいところだが…)
「あの、先生。私、やっぱりPTSDっていう病気になってしまったんでしょうか」
美佐子は前々からこの症状の事が気になって仕方なかったので、つい自ら医師に訊いてしまった。
「あっ、ええ。まぁ、あなたがこれまで話してくれた経緯やそれから起こった一連の病状から察しますと、やはりそのPTSDというのが一番該当しますよねぇ」
『PTSD』とは心的外傷後ストレス障害の英略で、心に加えられた衝撃的な傷が元となって様々なストレス障害を引き起こす精神疾患のことである。心の傷とは、心的外傷又はトラウマを指す。トラウマには、事故・災害時の急性トラウマと、虐待など繰り返し加害される慢性の心理的外傷の二種類がある。先川美佐子のケースでは、典型的な後者のトラウマのほうである。
播野は、暫しの間また、品行方正な優等生が机に向かって黙々と勉強するように、パソコンのキーボードを規則正しくカタカタと鳴らして、前回初めて来た時から今日までの症状の経過を文字にして打ち込んでいった。
(精神不安が続くまだまだ続くのは仕方ないか…中途覚醒や悪夢などの不眠症状をなくしていく事をまず先決に考えるとするか)
「先日お薬としてお出ししました、睡眠剤のほうはきちんと飲まれていますか」 「ええ。毎晩寝る前にきちんと飲んでおります」
「睡眠のほうはどうですか」
「そうですね。飲まなかった時と比べたら、深夜途中に起きる事はほとんどなくなりましたね。思ったよりぐっすり眠れてる感じです」
「なるほど」
(ベンザリンとサイレースは効いているな。やはり中時間作用型以上が妥当か。今回は一種類だけ長時間のやつに変えてみてもいいだろう)
患者は、落ち着き払った様子でパソコンに向かいながら、自分に対する適切な治療法を探しているであろうこの紳士的な雰囲気の漂う医師に、信頼の眼差しを注いでいた。この先生なら杖柱と頼んでもいいという一途な想いにも駆られた。
(精神科ってもっと荒く気違いじみた先生ってイメージあったけど、なんか全然違ったわ。よかった…)
と自分が勝手に逞しゅうしていた淡い想像が吹っ飛んで、もしかしたら早く治してくれるかも、という期待感を含んで胸を撫で下ろしていた時、
「フラッシュバックはどんな時に今でも起こりますか」
と医師は、彼女に症状に対する質問を続けた。
「眠っている時ですね。夜昼問わず」
「鮮明に過去に受けた出来事が思い出されるのですか」
「え、ええ。そうですね。夢の中でも、なんか現実に夫から暴行を受けているような気がしてならないんです」
「なるほど」
『フラッシュバック』という専門用語は、過去に起こった記憶のなかで、その記憶がふと無意識に思い出され、なおかつそれが今まさに現実に起きているかのような感覚が極端に激しい状態の時において使われるのである。このクライアントの上記の発言から察すると、まさにこの『フラッシュバック』現象があてはまる事になる。
「そのリアリティを伴った悪夢の中で、虐待をしている男性の姿や、また、あなたが床に張り飛ばされたとして、その時にバンとか音も聞こえるような感じですか」
「い、いえ…さすがにそこまでは……していません」
「それでも、襲われているという強い感覚は生じるんですよね?」
「ええ、そうなんです。それが怖くて堪らないんです」
このPTSDや急性ストレス障害の患者に顕著な『フラッシュバック』は、必ずしも映像や音がその中に含まれるとは限らないのである。記憶には多様な要素があり、『フラッシュバック』は、先の患者も医師に対して示したように、“恐怖”などといったいわゆる感情や味覚、痛覚などの“感覚の衝撃”として発生し得るのである。
「なるほど。まぁ、大変なご経験をされましたからね。ほかに日常生活においてパニックに陥る経験はありますか」
「パニック…ですか」
女は、質問の内容がよく理解出来なかったのか、漠然とした、最初から白く顔の塗ってある人形のような顔つきで訊き返した。
「ええ。突然、何の前触れもなく、強い不安に襲われるって事はないでしょうか」
「あっ…そうですね。ええと最近はここにくる…一ヶ月…くらい前と、とかはもう外出…する事さえ嫌になるくらい…でしたので…していませんでしたが、それ以前は…街中の…ショッピングモールに…出掛けて行った時に…何回か、クラクラッときて、…吐き気もしてきて……それから」
「なるほど。わかりました、もう結構ですよ」
播野は、患者が半睡状態のようにいながら、表情に現れないまでも辛苦の経験をした雰囲気がありありと伝わってきたので、女が全て語り終わらないうちに言葉を途中で遮った。
(かなり感情が麻痺しているな。よほど酸鼻といっても過言ではない体験を強いられたんだろう)
「あ、あの先生。もう退室してもいいでしょうか」
女患者は、ほぼ眼の前にいる“男性の”医師と対面して、なおかつ、診察室という狭い空間にいる事に耐え難くなってきたのか、左手で口元を押さえながら、医師に早く診察を済ませてくれるようか弱い声で促した。
「あっ、はい。もう終わりますよ」
(未だ今日来て二回目だし、体験が凄まじかっただけに回復がなかなか進まないのはしょうがないだろう。薬は、今回も抗不安剤としてエチゾラム系のデパスとエチカームを引き続き出すとして、睡眠導入剤のほうは前回と同じベンザリンの他に、今回はサイレースに代えて長時間作用型のソメリンを出す事にしてみよう。安眠の時間は徐々に長くなっていくだろう‥)
「はい。お待たせしました。お薬のほうなんですが、前回と同じく、抗不安剤と睡眠導入剤のほう、それぞれ二種類ずつ出しておきますね。ただし、今回は眠剤のほう、一種類だけ違うものに替えてまた少し様子を見ましょう」
「…わ、わかりました」
「それから、次此処来た時には今度ナラティブセラピーという精神療法を行っていきましょう」
「ナラティブ…セラピー?…ですか」
「ええ。あなたの病状の場合は薬物療法のほかにも積極的に治療を進めていく必要があるんですよ」
「そ、そうなんですか。…わ、わかりました」
「最初のうちはゆっくりとやっていきますから、御心配なさらなくても結構ですよ」
「…は、はい」
と、それでも女は多少不安を覚えたように答えた。患者は相変わらず病的なポーカーフェイスをしていて感情が鈍っている様子であったが、この医師に信頼をおいているのか、その見つめるような眼差しの奥はどこかちょっとだけ煌{きら}めいていた。
「はい。それでは、次回の日にちなんですが、また一週間ほど明けて三月二十七日の十時くらいはいかがですか」
「え、ええ。それで‥予約お願いしたい‥と思います」
「はい。では次回三月二十七日の十時でお待ちしております」
「ど、どうもありがとうございました」 三十前後の未だ若い女は、丁寧すぎるくらい深々と頭を下げて、診察室を静かに後にしていった。
(まっ、彼女のほうは早く治してあげたいな)
播野はまた、パソコンのキーボードを規則正しくカタカタと鳴らしなから、今日の診察の内容や今後の治療の大まかな流れを詳しくファイルに打ち込んでいった。久々に、我がクライエント達を恢復の道へと教え諭す事が出来る医師としての矜持に燃えたのか、彼は入力している最中に一度、軽く両手を握りしめ小さくガッツポーズを作った。
(よしっ、なんとかなるさ。次行こう) と、珍しく漲る気持ちが全身に溢れ出してきた時、
“トントン”「失礼します。先生、今日午後一に予約っていた尾川さんなんですが、体調悪いからキャンセルしたいって電話がありました」
と、長身の女で受付を務める野尻が幾分申し訳なさそうな表情{かお}して、言づけを伝えに診察室を覗いた。
「尾川さんね。‥あ~、例の対人恐怖症のおじさんだね。‥‥わかった、もう電話は向こう切っちゃったの」
「え?…あー、はぃ」
「そう。今度からはなるべく、その手の電話が来たら私に先に報告してから対応しなさい。前に言ったかもしれないけれど、ここ最近どたキャン多いからね」
と、播野は、いつもであれば不機嫌に無表情な面{かお}を歪ませ、冷たい態度を取ってしまうところであったが、今は心中に温かいものが支配しているおかげで感情的にならず注意する事ができた。
「はい、わかりました。すみません」
受付の野尻は、頬の肉付きはふっくらとしているが、相変わらずどこか血色の良くない蒼白な表情{かお}に引き攣ったような笑いをつゆ作り、そそくさと軽く頭を下げて、また自分が担当している受付へと戻っていった。
(さて、次いくとしよう。次‥は、あー、人と話をするのに圧迫を感じるっていう人ね…)