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DATA3 DVという日常の恐怖

まだ床に身を伏したまま、美佐子は祈るように両手を重ね合わせ、顔を少し俯けて瞼を閉じた。そして、三十秒くらい懺悔をしているような格好でうずくまっていた直後、また

「うるせーんだよ、この野郎」“ガチャーン”

グラスをテーブルに叩きつける音が聞こえた。赤ん坊の泣き声に触発されて、もはや大きく感情を抑制する事を失った夫は、再び業を煮やし、今度は“物をぶつける”という行為に出たのであった。これも身体的虐待の一種に含まれるのである。

「あ、あなた。もう止めて!」

美佐子はやっと身を起こして階段を駆け上がり、酒に爛れてしまった夫をまた優しく窘めようとした。怖ず怖ずとノックしてドアを開けると、先ほどのグラスが破片の塊になってテーブルに飛び散っていた。夫は水色のソファにしゃがみ込んで、みっともなく白いシャツの裾を片手でパンツの中にたくしこんでいた。

「…………ごめん、俺が悪かったよ、大人の癖についムキになりすぎた。おまえに手だしもしちゃったね。許してくれ。………だけど、この葉書の内容に関してはあまり責め立てないでほしい。……ただ、それだけさ…」

「えぇ、わかったわ。」

彼はいつものように無言のまま左手の親指で、もう一緒に寝室に向かおうという合図を美佐子に送った。美佐子も無言のままうなずいた。

(………今日は本当に疲れた。ゆっくり寝よう)

そう思いながらも、彼女が眠りの世界に落ちたのは、深夜四時を過ぎてからであった。

明くる日の朝、美佐子は八時半頃目が覚めた。すぐ隣の枕を見ると、昨晩、連れ合いに拳を振り上げてしまった男の姿はもうなかった。

(毎日どこへ行ってるんだろう、働いてもいないのに…まさか矩史つよしあそこに行ってるんじゃ………)

そう、やっぱりお金をじゃんじゃん使い果たして行くとしたらあの場所しかないだろう、と彼女は半ば覚りの溜め息を洩らした。

「雲隠れしないでほしいわ。まったく…」

そう、ぼそぼそと呟きながら、美佐子は夫の部屋へ肩を落としながら歩いていった。中へ入り、旦那が留守なのをいい事に彼女はガサゴソと置いてある物をいじくり始めた。会社に勤務していて平穏に時が流れていた頃は、整理整頓されていた彼の部屋も今や、物の見事に雑誌などが散乱していた。その不揃いになって積み重なってある束の下のほうをちらりと覗くと、何やら俗悪な彩りのする雑誌が目に止まった。そして、本の栞にするようにその間には、数万円のお札が忍ばせてあった。

「やっぱり………」

案の定、美佐子が思っていた通りであった。会社を首になり心神萎えていった男は、酒を浴びるほど飲んでいただけではなく、落ち込んで憂鬱な気分を紛らわすため、パチンコに手を出し始めていたのであった。

「いったい、いつから……あんな金額に………もし、帰ってきたら………」

(問いただしてやろう……い、いや……それは止めておこう……)

まだ子供を産んでから一年も経っていないこの女は、我が身と幼い赤ん坊のこれからを憂慮して、ついうっかり滑らせてしまいそうな口を今日だけは堅く閉じていようと心に決めたのであった。

「でもどうしよう。借金してるなんて、家計や私達の生活にも影響が出てくる訳だし、いつまでも目をつぶってなんかいられないわ」

夫の部屋を出て、夕食の準備に取り掛かりながら彼女は、早くもその堅く己に誓った小さな戒めを、結局は胸の騒ぎに打ち勝つことができなかった。

「ただいま」

夜八時過ぎ、一人先にご飯を済ませ、食卓のうえに気怠そうに顔を臥せていると、夫の声が玄関から聞こえたので、

(…ハッ……)

「あっ、矩史。おかえりなさい」

美佐子は慌てて出迎えに玄関へ足を運んだが、彼のほうはそれきり何もいわず、そのまま自分の部屋へ入っていった。

「あああっ、なんでこれが見えるところにあるんだぁ」

と、夫は電灯をつけるやいなや驚愕した声を発した。

(はっ、しまった。元に戻すの忘れてた……)

“バーーーン、バーーーン”

雑誌の束を幾度も壁と床に叩きつける音が耳についてきた。製本機から飛び出した冊子のようにそれは、下で怯えの表情に変わりつつある美佐子のいる玄関口にも反響した。どうする事もできず、彼女はその場に立ち竦んでいたが、しばらくするとその投げつける音は罵声とともに止み、代わりに夫の荒い息遣いが聞こえてきた。そして、扉はふと開き

「お~い、美佐子。今日俺の部屋勝手に入ったか」

「あっ、ご、ごめんなさい。つ、つい、まだ昨日あなたが割ったグラスの破片が細かく飛び散ってんじゃないかと思って」

彼女はどきまぎしながら、とっさに適当な嘘をついた。

「いいか。よく聞けよ、美佐子。結婚して二人の生活に入ったら特にプライベートには干渉しないようにって、約束したじゃないか。自由にふらふら付き合ってた頃とは違うんだぞ。まして部屋に入るだなんて言語道断だ」

階段下りる手前の廊下で、腕組みしながら直立したまま、彼は屹度なっていた。

その眼は昨夜と同じように、濁って少し威嚇しているようであった。

美佐子もずっと夫のほうを弱々しく見つめていたが、何か自分が本当に悪い事をしたような気がして、暫くすると視線を下に遣ってしまった。しかし、まもなくして、彼女はふっ切れたように再び夫の表情かおを見上げ

「ねえ、あなた。何も隠す事ないでしょ。わたし知ってるのよ、あなたがギャンブルに嵌まって抜け出せなくなっている事を」

「チェッ」

美佐子は俄然、窮鼠のように毅然とした態度に切り替わり、表情も悔しそうに硬張っていった。矩史は逆に悔しそうにしかめっ面になって舌打ちをし、

「だからよお。なんで人の部屋勝手に入るんだ。そんな権利お前にないだろ」

「あるわよ。わたしだって一人で暮らしてるんじゃないの。たまには様子見たくなる事だってあるわ」

彼女は自身驚くほど強気に言い返した。

「もういい加減話して。昨日の夜のあの督促状は何?どのくらい借金してるの。お願いだから正直に教えて」

美佐子の顔は火照りはじめ、自分でも興奮して話しているのがわかった。

「うるせーんだよ。関係ねえだろうが」

“バタン”

表情をさらに顰めて、そう吐き捨てた夫は後ずさりして自分の部屋に入ってしまった。夜の帰り道、自ら買ってきたのか、グラスにぐびぐびと麦酒で虚しさ+を紛らわしているのが、彼女の耳に入ってきた。

(今日は諦めるか…あんまり急に諌めすぎても良くないし……)

美佐子はまさかの晴天の霹靂の事態に、大きく肩を落としながら、階段を下りていった。

再び、夫が彼女に暴力を振るったのは、三日後、美佐子がまた矩史の部屋を、件の葉書がないか勝手に漁っているところを見つけてからであった。妻の髪を引っ張り、顔面に平手打ちを食らわしたのであった。これがDVにおける二回目の身体的虐待であった。それからというものの、この配偶者による一方的な家庭内暴力は日を重ねる毎にエスカレートしていくことになった。会社から解雇予告を言い渡された後、それまでひたすら真面目に会社の為に尽くしてきた生真面目な男は、懊悩しすぎたせいか転げ落ちるようにその誠心はすさんでいき、規則正しい生活もたちまち放縦になり、横暴な態度で彼女に接するようになってしまった。ギャンブルにのめり込み出したのもリストラが決まってかららしく、既に借金の総額は軽く三百万を超えていた。この“無計画に借金を繰り返す”という行為も、DVにおける「経済的虐待」に該当してしまうのである。矩史はサラ金に手を付けてしまったため、一日でも早く返済しなければ利息が益々膨らんでしまう事を考えると、美佐子は放心など決してしていられなかった。何とか言い解いて本人のためにも止めさせたい、そうはやる気持ちが抑えられず、つい高談に早口で感情が言葉に籠ってしまったのがいけなかった。自制心を失っていて、妻のそれを売り言葉と受け取ってしまった夫は、すぐに彼女に

「あぁ?今まで養ってきたのは誰のおかげだと思ってんだよ、コラ。能無し女が、出ていけ!」

などと、悪鬼のような剣幕で美佐子に怒鳴り散らし、揚げ句の果てには、蹴飛ばしたり、首を押さえ付けたりして粗暴な行為に出る始末であった。時には、物を投げ付けられたり、家庭にある物を壊されたりもした。このような波瀾が起きる度に、幼い赤ん坊はまるで自らが責められたように声高に激しく泣きだした。彼女が名前をちゃん付けで呼びあやそうとすると、夫はそれを遮り、まだ一歳に満たない乳児にも訳もなく憤った。何の理由もなく、日常会話で配偶者や子供に“出ていけ”“殺すぞ”などと脅迫するのは、『DVにおける精神的虐待』の一つに数えられるのである。この生き地獄のような、辛酸を嘗め続けなければならない日々が二年ばかり続いた。無慈悲な暴力は時に火に油を注いだようにはげしさを増し、美佐子と幼子を苛ませた。心の奥深くから聞こえてくるであろう良心の呵責から逃げるように夫は、浴びるように酒を飲んでは一人きりで喚きだす始末であった。深夜零時近くになって突然、妻の部屋に押し入り、性交を強要する事もあった。大概は愛情の徴としての戯れが、行きずりの若い女を犯すような態度で彼女に罵声を浴びせながら無理矢理やらせた。この際、普段では考えつかないような特別な行為を妻に要求する事も頻繁に起こってきた。これは、DVにおける『性的虐待』の一種である。他にも昼間は友人と合わせないなどの嫌がらせを行い、妻を苦しませた。警察や相談機関にも打ち明けようとするが、夫にどこかで見張りされていると思うとそれだけで気持ちは塞いでしまい、行動に移す事はできなかった。

「もうこれ以上この人といたらわたし自身が死の道を歩んでしまうわ」

とある日、殺伐としてもはや夫婦とは呼べなくなっていた生活にいよいよ堪えるべき限界が来てしまった。それはまだ残暑厳しい八月の下旬に入った日の午前中であった。アル中と化してしまった夫に監視されていることなどもうびくびくと怖れている気力さえなくなったのであった。すくすく二歳半まで成長した娘を一人部屋で寝かせておき、美佐子は少し遠くのスーパーマーケットへと出掛けていった。それはただ公衆電話を使うためだけの事であった。まさかの夫の膨大な借金生活の為に家計は忽ち火の車となり、それまで使っていた携帯電話も解約せざるを得なくなってしまったからである。顔にも痣が気の毒なくらい残っている女は、着くとすぐに埃臭い受話器を片手に取り、二つ歳の離れた妹と話をするため、幾分小刻みに震えた指先で番号を押し出した。

“トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル……”

公衆電話から掛けているせいか、妹の携帯にはなかなか繋がらなかった。そして、もう一度掛け直してみると、

「はい、もしもし。先川ですが。」

「もしもし、奈々歌?美佐子だけど」

「あっ、お姉ちゃん。どうしたの?」

「奈々歌、わたし実はね………」

実の妹に直接こうして声で打ち明けるのは、とても気まずかったが、しかしそれでも、もう心身共にボロボロになりかけている情況からすれば話さない訳にはいかなかった。彼女はこれまでに夫との間に起こった顛末を、時折、思わず泣き崩れながらも妹に伝えていった。妹の奈々歌は、その酷薄に打ちのめされた姉の事の始終を聞いて大変驚いた様子で、深憂な面持ちになって耳を傾けていた。

「お姉ちゃん、これ以上無理して一緒にいる事ないわ。よかったらあたしの家の部屋開いているからもうこっちに移ってきなよ」

奈々歌は、姉の堪え難く辛い現状を憂慮して、今もまだ一緒に暮らしている気違いじみた懦夫{だふ}な男と一刻も早く離れたほうがいいと勧めた。それは、当然といえば当然だったのかもしれない。むしろ、“ごめんね、あたしにはどうしてあげられることもできない”と弱気な言を洩らしてしまう事のほうが不憫で仕方ないと二歳下の彼女には思えたからである。

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