DATA2 変わらぬ今日が再び
Ⅱ様々な患者との対応,患者の病に至る経緯
「はい、診察札五番の方どうぞ」
“トントン”大人しい子羊のように気弱そうにノックする音が聞こえる。
「はい、どうぞ」
「お、お願いします」
一九〇センチはあるかと思われる、グレーの縁の眼鏡を掛けたのっぽの男が少しおどおどしながら入ってきた。今日最初の患者であった。
(う~む。比較的軽度のパニック障害を患っているといったところか…)
播野は即座に、患者が先日話した、症状に至る経緯に目をやりながら、該当するであろう精神疾患をあてはめようとした。
「はい。その後調子はどうですか」 「ええ。初めて来た三週間前と比べますと、何となく落ち着いてきたかな…と。お薬のセルシンとホリゾンを毎日飲んでるので、はい‥一応」
「満員電車の中で、まだ不安感に襲われたりしますか」
「そ、そうですね。一、二ヶ月前はその場で卒倒するくらい頻繁に起こってきて酷かったですけど、今は、通院してからは大分その不安感は消えてきてますかね」
「薬が効いてきている証拠でしょう。今回も同じお薬出しますので、このまましばらく治療のほう続けていきましょう。はい‥では次回は、三週間くらいあけて四月十一日の金曜日の九時は如何ですか」
「あっ、はい。大丈夫ですけど」
「それでは、次回の診察、十一日でお待ちしております」
「今日も、ど、どうもありがとうございました」
「お大事にどうぞ」
男はたどたどしく椅子から立ち上がり、軽く播野にお辞儀をすると、素早く診察室から出ていった。
(なんなんだろうか…あの蛇に睨まれた蛙のような頼りなさげで、それでいて猜疑心の篭ったような眼つきは……)
播野は、もう幾度となく見馴れているその表情を憐れに思うと同時に嫌気もさしてきていた。
(まぁ、山橋さんの場合は仕方がないか。朝の満員電車の中で痴漢冤罪を経験した身だから。)
(……さて、次いくか。次はちと厄介だな………)
「はい、診察札十番の方どうぞ」
「‥はぁい…」
幾分腰の曲がった中年の女が、夫らしき白髪の男性にドアまで付き添ってもらって入って来た。戸嶋というこの中年の女は、実家を離れ嫁いでいったまだ三十路前の愛娘が、二年前突然、不慮の事故で亡くなってしまい、精神的にかなりのシヨックを受けたのであった。我が子がこのように先に他界してしまえば、どんな親でも、悪鬼のように残酷でなければ、いたく悲しむのは言うまでもない。しかし、温厚で神経質な性格が祟ってしまったのか、すぐに彼女は外出もろくに出来ないほどに気分は塞ぎ込みがちになっていった。いわゆる“抑うつ状態”に入ってしまったのである。以来、それまで一人で愉しんでいた編み物やガーデニングにはどういうわけか自ら好んでやる気にはなれなくなってしまった。気分転換を図るため、たまに亭主に誘われて行った二泊の温泉旅行でも、旅館では気分が何とか安らぐのであるが、再び家に帰ってくると亦、いつもの気持ちが晴れない、何しても無気力状態が続いてしまうのであった。それだけではない、抑うつ的な気分と伴って、眠れない日々が続く事となった。寝付きが非常に悪くなり、眠れてもすぐに夜中短時間で目が醒めてしまう。薬局
で市販の漢方薬等を飲んでもなかなか症状が治まらず、こんな生き地獄の状態が約一年も続いた。近隣の茶飲み友達に仕方なく勧められ、この播野が開いている心療内科をようやく思い切って訪れて見ようか心に決めたのは昨年の春であったという。医院近くのブナの樹々の葉は蒼々と若さを取り戻し、彼女の通院生活はもう既に一年が経とうとしていた。
「はい。その後、調子は如何ですか」
播野は、やや重い症状のクライアントを眼の前にして一呼吸して気持ちを落ち着かせながら、例の紳士的ともいえる声色で話し掛けた。
「…え、ええ。先生が毎回出してくれているデプロメールとパキシル、それにベンザリンとエリミンをきちんと飲んでいますので、何とか。此処に初めて来た時と比べれば大分楽になってきております、はい」
「そうですか、良かったですね。進んで物事に取り組む意欲のほうも出てきましたか」
「ええ。近頃は料理のレパートリーを増やすことが楽しみで‥主人も喜んでますし。この齢になってむきになるのも恥ずかしい話なんですが…」
「そうですか」
(パキシルなどのSSRIには、強力な向精神作用があるからな。食欲不振や性欲異常などの依存性ある副作用もそれと平行してあるが…。まぁ、今回もこれを続けて出すことにしよう)
「睡眠のほうも安眠出来てますか」
「ええ。こちらもお蔭さまで、何度も途中で目覚めて寝た感がほとんどしなかった一年前がまるで嘘のように、今はお薬飲めば、寝付きも早く、ぐっすり眠れております」
「そうですか。それは良かったですね」
(うむ‥睡眠も安定してきているね。よしっ、今回からはベンザリンの代わりに塩酸リスマザホン系のリスミーを出してみよう。この眠剤は短-中時間作用型だが、今聞いた様子なら多少薬を和らげたほうがよかろう)
「はい。このまま焦らず治療のほう続けていきましょう。お薬のほうなんですが、眠剤のほう多少和らげたものをベンザリンの代わりにお一つ、今日から出しますね。床に就く前で結構ですから、新旧それぞれ一錠ずつお飲み下さい」
「あっ、はい。わかりました」
「それでは次回なんですが、少しまた期間を開けましょう。五月十二日月曜日の午前十時は如何ですか」
「ええ。大丈夫ですよ」
「では次回、五月十二日でお待ちしております」
「ありがとうございました、先生」
中年の女は丁寧に深々と頭を下げると、ゆったりとした足どりで、幾分腰の曲がった格好してドアを開け、再び亭主に付き添われて待合室に戻っていった。
(やれやれ…いくら落ち着いてきているって言われても、聞くほうは神経遣うなぁ……こういった身内の、特別辛い不幸を経験した患者には毎回の事ながら身につまされるよ)
播野は、今さっきの中年女の患者の、前回通院した時から今日また此処に来るまでの症状や現況・変化などを整理しながら、苦い溜め息を吐いた。それでもいつもと変わらぬポーカーフェイスで、鄭重{ていちょう}にキーボードを叩きながら文字を打っていく。端から見るとそれは、人間臭いロボットのように多少滑稽にも映るが、本人は至って真面目なのであった。
(さて、次は…次もまた少し厄介だな……)
「はい、番号札十二番の方、診察室へどうぞ」
「……………」
アナウンスで待合室に声をかけるが、三十秒経っても無反応である。それまで播野は泰然としていたが、苛立ちを表すように左手に握り拳を造って
「番号札十二番の方!」
(あっ、まずかったな。又ついきつい調子で放言してしまった)
播野はぱっと見温厚そうな割りには、些かせせこましい性質も持ち合わせていた。己のちょっとした悪癖を弁解するかのように、直ぐさま彼は白髪の多分に混じった頭を軽く片手で掻きむしった。
「失礼します。さっきは呼ばれてたのにすみませんでした」
と、色白で顔色のあまりよくない三十前後の若い女がそそくさとして入ってきた。
「いえいえ。先川さんですね。あれから具合のほうはどうですか」
「はい。俄かに良くなってきたわけではありませんけれど、でもゆっくりと安定した気持ちを取り戻してきているかなって感じです。ただ、未だよく熟睡できない夢の中で、暴力を振るわれた主人が出て来て、強烈な恐怖に襲われる事もあるんですよね」
「はは、フラッシュバックというやつですね」
フラッシュバックとは強いトラウマ体験をした場合、日数を隔ててから突如としてその苦い経験が甦って思い出されたり、夢に出てくる現象である。
―症状に至る経緯には―
この先川美佐子という女、現在は妹の家に居候しているが、半年前まで、別れた夫と二歳半になる子供と一緒に暮らしていた。がしかし、あまりにも夫の家庭内暴力が酷く、顔に赤黒い痣{あざ}ができるまでになっていた。二年ほど前から、いわゆるこのDVの被害に遭っていたのであった。最初の頃は日常的に罵声を浴びせられたり、休みの日に友達と無理矢理合わせないなどの精神的虐待だったが、いつしかそれは、美佐子に容易に拭い去る事のできない無実の烙印を家庭内で押されていくのであった。夫の勤めていた某中小商社の業績が悪化し、彼女の夫は不運な事にリストラ対象になってしまったためか、十年間ひたすら黙って会社の言いなりになってきた夫も、あと一月で辞める事が決まると、温厚で真面目な気質が嘘のようになっていった。家に帰宅してからの生活がまず、荒{すさ}んでいったのであった。それまで毎日も飲まなかった酒を、ビール缶ニ、三本は毎日軽く開けるようになったのであった。それだけでは止まらず、日本酒、ワイン、ウイスキーと、呑んだくれのように遣る瀬ない顔をだらしなく赤く染めていった。このままではいけない、何とかやめさせな
きゃ…、妻であった美佐子は言い渋って噤んでいた重い口を開いて、やんわりと泣きじゃくっている病人を宥めるように、気持ちを落ち着けるようにと声をかけて励ましもしたが、美佐子の夫は聞く耳持たずで、お猪口に注ぐ右手は止まらなかった。
(もう…どうしたらいいんだろう……) そんな彼女の募りゆく不安に煉獄のようなさらなる暴君ともいえる鞭が加えられるようになるきっかけとなったのは、夫が会社を辞めさせられてから、一ヶ月ほど経ったとある日の夕食後の出来事にあった。それまでの間も美佐子は夫の事情を気の毒に思い、その変わり果てた姿をドアの隙間から恐る恐る見守っていたのであるが、ふと玄関のほうに足を運ばせると、何やら一通の葉書が電話機のすぐそばに置いてあったのであった。
(なんだろう、これ………はっ…………)
一瞬にして、美佐子に、冷たいガーゼを首に当てられたような寒気が趨った。それは、夫宛ての某大手消費者金融からの督促状であった。
(数百万も借りていただなんて……いつの間に………)
「おい、美佐子どしたんだぁ?」
(………はっ…………)
ついさっきまで微かに感じていた、か弱い兎が臆病にこちらを覗いてような気配が消えたので、夫は食卓を出て、茹で上がった蛸のような真っ赤に染まった顔をこちらに見せた。
(……はっ、しまった………)
「なんだぁ、それは?」
マラリアか何かの熱病のように真っ赤な表情に、野性動物のようなぎらぎらとした瞳孔を湛えながら、美佐子のほうへと徐にやってきた。
「……あっ、これは………」
「それ見せろよ」
手に持っていた督促状の葉書を背中のほうへ隠そうとすると、夫は直ぐさまそれを引ったくるように素早く取り上げ、
「お前、なに人のを見てんだよ!!」
と、彼女の肩を強く抑え眼前で赫怒した。
「………あなた、何なのそれ?」
美佐子は、まさかの出来事に狼狽した顔色を隠せず、その葉書の内容を確認したくなって、夫の手から取り返そうと幾分躍起になってせがみ続けたりもしたが、
「うるせぇんだよ、お前は!!」
“バアアァン”
と、美佐子を怒鳴りつけながら床に突き倒した。これが、DVにおける身体的虐待の始まりであった。彼女はあまりに豹変してしまった夫の態度に、恐怖を覚えてしまい、暫くその場から動く事さえ出来なかった。無情にも力無い女を張り倒したその男は、督促状の葉書を掌中で握り潰しながら、階段を昇り、寝室のほうへと消えていった。その千鳥足の後ろ姿はまるで、責められても致し方ない自らの非に頑迷に負けまいとするかように美佐子の眼に映った。震える手を床に付けたまま、彼女はまだその場から動く事が出来なかった。何十分くらい、我を失っていた事だろう
「ワァーーーーン…ワァーーーンアゥアゥアーーーン…」
突然、甲高く、金属で擦り切るような幼い泣き声が長く伸びて美佐子の耳に届いた。それは、未だ生後七ヶ月の娘であった。一ヶ月くらい前から夜泣きをし始めているが、今の乳児の泣訴が自分と夫とのさっきの小競り合いで起きたんだという事は、彼女にもすぐわかった。
(萌々香、ごめんね)