DATA13 自由の赤い海
―患者、疾患に至るまで―
〜平成十九年八月下旬〜
「おい、山内。そろそろ上がってもいいぞ」
「そんなはりきることはないぞー」
「ないぞよー」
幅百六十平米、奥行きは八十平米の広闊な屋内は各製造工程によるマシーンや設備によって複数の区分に仕切られ、幾種類にも数えられるベアリングの金型が成形機に密着する際に生じるカコン、カコンと甲高く響く鉄の塊の重い音や、ベアリングを削る研磨機のマシーンが目に見えない猛烈な速さで回転してドーナツ型の個々のベアリングと接触する際の激しく軋{きし}みゆく音等が雑ざり合い、整然とされた工場内はいつもと変わる事なく無機的な轟音や噪音に包まれていた。各々の工程を任されている人間達はといえば、一人や二人の上役の指揮監督の下、休憩や食事を除いてはほとんどマシーンにへばりついて黙々と作業をこなしていた。研磨の隣がいわゆる組立工程であったが、そこにひとり、図体の大きな男がうつむき気味で一つ一つの直径五センチメートルほどのベアリングを小さな組立機に繰り返し通していた。
(あんな茶化すような言い方しなくてもいいのに、…………)
(木多ってなんかつくづく嫌味な奴だよな………)
彼は、アクリル製の淡い藍色のところどころに襞{しわ}や汚れの目立つ作業衣を羽織り、ただひたすらロボットのようにだんまりとして左右の手だけを素早くマシンに近づけていた。山内は、自分等の斑に先月新しく赴任してきた我と歳のさほど違いのない、どこか人格的に狡猾そうな臭いのするチームリーダーに対し、好ましい感情があまり持てず、その所為{せい}という訳でもなかったが、近頃、根気というどの仕事をする上でも欠かせない要素が空回りしているような気がしてならないでいた。
夕方五時過ぎ、期間工含め他の数十人の者は、主任を除き一斉に休憩に出ていたが、山内だけは疎外されたかのようにたった一人ぽつんと居残ってごく単純な繰り返し作業を続けていた。いや、疎外されているというよりは、彼自身のほうが人を態{わざ}と避けていると言ったほうが適切なのだった。休み時間を厭っている訳ではないが、職場での人間同士の関わり合いが煩わしく感じられてきていた。がしかし、なぜ己が孤立して皆とは異なる暗い世界に足を踏み入れたかのような気分に陥ってしまうのかは瞭然と掴めなかったし、本人もべつに解{わか}ろうとはしなかった。ただ、彼が名残惜しがっていたのは、N会社付属の期間工になる直前まで一緒に此処で働いていた派遣社員時代の仲間が全て去ってしまった事であった。
(俺だけを後にして勝手に出ていったんじゃあないんだよな…………)
(飯の食い上げになっていなけりゃいいが…………)
(今頃ホント何してんだろ、………あいつら……)
指先は変わらずベアリングを握ったり離したりしていたが、単調で貧しくても同じ時を共に過ごした旧友らの、帰り際にいつも零{こぼ}れた哀れみを滲ませた笑みがつい昨日のように浮かんでくる。
(高さん、縄ちゃん…………)
「山内さん、ずっとやってたんだ」
「順調にやってるかい。不良品出してないない?」
過ぎ去りし日々のはかない追憶に取り留めもなく耽っていた時、背後から軽い滑らかな男の声が絶え間無く軋み立てている機械の鋭い振動音に雑じって聞こえてきた。
眠く窶{やつ}れたような眼でぼんやりと横を見遣ると、くすんだグリーンの作業帽を些か斜めにかぶったチーム・リーダー(TL)、木多の浮ついた顔がそこにあった。人を小馬鹿にするかのような薄嗤いを表情に含みながら、機械を通して彼が組立し終えたベアリングの数個を細長い一重の眼でじっと精査し始めた。特に何も異常がないのがわかると、TLは山内を顧みることなくそのまま治具置場の方へのろのろと歩いていった。
(食い入るように確認なんかしちゃって…………)
(無言で侮辱されたも同然だよな…………)
社員ではなくとも、かれこれすでに四年は腕を磨いているに等しいにもかかわらず、まるで、装置の操作に漸{ようや}く慣れ始めたばかりで作業衣も未だ真新しい新米にしか見られていないのではないかと、山内はたまにしょげずにはいられなかった。
“それは己の気にし過ぎかもしれない”
昨年の頃の彼であれば、そんな後ろ向きで自意識過剰でもある自分をそう拒絶して、もう少し泰然と構えていられる心の余裕があったのかもしれないが、今はといえば違っていた。光に照らされ明るく解きほぐれる大地も、やがて冬になればいつかは空から静かに滾々{こんこん}と舞い落ちる数多の白い結晶によっていつの間にか埋もれてゆくように、嫌悪や孤疑、卑屈といった悪感情に左右され続けたせいか、山内の仕事に対する無垢で謹厳実直な想いも悲観の白雪で閉ざされつつあった。
(餬口{ここう}を凌ぐためだけに俺は期間工なんてやってるのか?…………)
(………いや、それだけじゃないはずさ…………)
彼は以前から、脳裏の片隅をふと一瞬過ぎっては容易に離れないで絡みつく、職業観をも含むしごく根本的な問いにぶつかってしまうのであった。この虚無に繋がりゆく遣る瀬ない疑問符にいつも漠然としてただ否定するばかりで、春秋に富む学生のような前途洋々たる心境にはとてもではないがなれる気がしなかった。そんなネガティブな雲霧に囚われた時、彼は決まって
(ベアリングは日本が世界に誇れる精密部品じゃないか。俺は今まさに、万能に役立つパーツの製造に携われているんだ………)
他の業種に身を置いている人達よりずっと最先端で需要の高い仕事に従事しているのだと、とかく何がなんでも優越感に浸ろうと試みるのであった。
たしかにベアリングは、自動車や家電、航空機等における内部で回転運動を行う様々な機械に組み込まれていて、現代人が快適な日常生活を送るためにも必要不可欠な機能部品となっている。日本はこの精密ベアリングの製造で世界においてトップクラスの技術を有しており、その生産シェアは三分の一を超えると言われているくらいである。山内の今いるN会社も、驚くなかれ国内業界最大手であり、国内におけるシェアは三十パーセントを超え断然トップであり、世界においても優れた高品質性や高度な生産技術は認められ、大衆から目を見張られるべく上位のシェアを占めている。比類なき数多の世人から喝采を博されている技術や製品と同じく、現場である工場で実際に昼夜問わず働く人間もみな穎才ある正社員であれば文句なしに素晴らしいと言えるのだが、問題なのは、N会社に限らず企業であるメーカー側が非正規雇用の横行に目を暝{つぶ}っている点である。嵩んで膨らむ人件費を削り、その浮いた分を主に最新設備の導入や新たな設計開発に関わる費用に廻したいと目論んでしまうのである。
こうして、所謂{いわゆる}、社会の底辺と蔑称されてもおかしくない多くの派遣労働者らが、純粋さや勤勉さを持って各々の業務に齷齪{あくせく}と身を削って働いても、派遣元企業におけるピン撥ねによって正当な賃金さえ貰えず、努力の報われない悲しい現状を生み出しているのである。
約二年ほど前、潰れた派遣元会社によって彼の仲間含め大勢の人員が淘汰されていった中で、運良くN会社のH工場直属の期間工にのし上がれた山内も、雇用は安定しているとは言い難く、いつ馘首されても不思議ではない状況に置かれているのであった。直接会社の下に今いられるのは、自身が所属していた派遣元が経営難に陥ったからでもあるが、何より勤務態度が良好だったからに外ならなかった。決して、作業能力などが高いからではなく、一カ月もすればよほど理解力や機械音痴でない限り誰でも覚えられる簡単な組立と、多少集中力が必要だが飽きるくらいに単純な検査の二工程を延々とシフトに沿って繰り返し行っているに過ぎないのだから。派遣時代、何ひとつ愚痴も零{こぼ}さず黙々とひたむきに取り組んでいた姿勢がN会社の上長の眼に留まったから、おそらく直属の期間工になれたのであろう。がしかし、それにしても、作業内容は外部の人間であった派遣工の頃と露ほども変わらないというのはどうしたことか。表情には幾度となく倦怠の色を催してしまったが、それでも、今日まで上役に不満を漏らしたり弱音を吐いたりせず、亀の歩みの如く着実に勤しんで
きたつもりであった。
現場のSLや主任は、下っ端で働く人間の向上心やプライドという作業効率にも拘わり、何よりモチベーションを高める上で欠かせない要素を丸っきり嘲り嗤って蔑ろにしてるのではないだろうか。そんな恐ろしい被害妄想さえ時に山内の脳裏を捕えて離さなくなるのであった。だが、彼のそんな悲観的な大袈裟過ぎる念いも、あながち的から外れてはいないのかもしれないというちょっとした出来事が、日に日に秋めいてきたとある日の朝、作業前の全員が揃う会合時に起こった。
その日も清涼とした空気の中に似合わず、広幅な駐車場に止めた車から降りた一塊の群小の多くは、眠気覚ましにガムを噛んだり口をめいっぱい開けて欠伸{あくび}をしたりしながら、漫{そぞ}ろ歩くように工場のある敷地内へと向かっていた。正門の片隅に並立している銀杏の樹々の葉は、疲れたカオに癒しを与えるように柔らかな黄色に色褪せ始めていた。巨大設備を始終稼動しているのが、連なるボイラー機や空調機のボオオォと低くうなるような音が絶え間無く聞こえてくるのでもわかる。いつもと何ひとつ変わらない朝。朝食も陸{ろく}に取らず寝ぼけ眼{まなこ}の山内も、茸{きのこ}のように丸みを帯びて歪{いびつ}な形をした頭を気怠そうに掻きむしりながら、いつもどおり更衣室で唯ひとり私服から作業服へと着替えていた。
午前八時半、幼心を擽{くすぐ}るようなゆったりと流れる童謡のチャイムが今日も第二工棟いっぱいに響き渡り、一斉に二十名前後の工員が、未だ朝の眠気も残る冴えない表情{かお}つきで、主任室に近い、丸時計が真上にある太い二本の角柱の前に輪を作るようにして朝礼のために集まってきた。全員がそろってからほどなくして、柔術家みたく丸みは帯びているががっしりとした身体つきに子童{こわっぱ}のようにぱっちりとした眼が焼きつく工場長と、対照的に学生みたいに小柄だが老け顔が特徴の主任、そしてあの、背はさほど高くはないが年齢の割に容貌{カオ}も声もどこか若々しく狐のように細長い切れ眼をしたTL、木多の三人が落ち着いた足どりでこの人で作られた輪っかのほうへと近づいてきた。そして、丸時計の真下あたりま来ると、ともに何やら困惑とも怪訝とも取れる表情をカオに浮かべながら、上役達は静かにその輪の中に交じった。
木多はといえば、今朝は珍しく小洒落た横長の薄い眼鏡を掛けていた。坊主頭で肉付きの良い工場長は、大人しく待ち構えているスタッフ達一人ひとりのカオを窺うように見回してから、ようやく重苦しい口をひらき、力無く“おはよう”と挨拶をした。他のみなも、何か事ありげな顔を隠せなかったが、しかし、それに呼応するように不揃いに挨拶を返した。それから、額に皺を寄せた小粒で猿みたいな容貌{かお}の主任が、書類を幾枚にも束ねたバインダーで隣の男の脇腹を軽く突く仕草をすると、いつになく知的そうに映る眼鏡顔だがどことなく変わらず気障な雰囲気を臭わせる木多が開口一番に、
「これ!傷付きまくってんだけど誰だ!」
と、口早に小隙もなく問い詰め、剃刀{かみそり}のように鋭い両眼の白い部分には細微な赤い筋が浮き出ているのが見て取れた。
(………………)
まさに水を打ったようにシーンと静まりかえり、しばし時間はこおりついた。社員や派遣含め、スタッフ全員は微動だにもせず、すべて上役らの顔に固い視線を投げかけた。他の例にもれず、同じく山内もまた、ぎょろっとした目つきになって木多らのほう以外には顔を逸らせなくなっていた。
(………え、………?)
(いったい何があったっていうんだ…………?)
(……………!)
(………えっ、…………何かしきりに俺の方ばかり見ているような気がするんだけど…………?)
図体によらず意外に神経質な性格の山内は、TLの視線が自分の方へ注がれているように感じた。
「お前達!
「よく聞け、いいか!」
「この製品見てくれ」
「今回だな、一箇所やそこらならば未だよかったんだが、……」
「五箇所も六箇所も目視で確認できるような傷が付いてたんだよ!」
「…………………」
「誰とは、いわない」
「……君らも承知しているとは思うけどさぁ、もしこんな製品が自動車のトランスミッションなんかに使われたらスムーズな変速どころじゃないよなぁ」
「とまあ、具体的にずばっと言ったら実感涌いてくるだろ」
「……………は、はぃ」
「明らかに不良と判る出来損ない、欠陥品は検査工程へ流さないでもらいたい!」
「以上だ」
確かに、直径一.五センチ・幅三センチの円筒状のリングの製品には、一メートルくらい離れているおのれにも肉眼で、数箇所に点々と小さくニミリほど刔{えぐ}れている様がわかった。洗練された容貌で常時は穏便な性質の木多も、この時ばかりは表情の色が赫然としていたのが他の誰の目にもはっきりと感じられたらしい。
“出来損ない”“欠陥品”
この二種類のコトバがナイフのように山内の胸をグサッと深く突き刺した。木多が意図的にかはわからないが、氷のように非情で冷たい眼差しを一瞬だけこちらに投げ掛けたのも痛かった。TLは、組立工程でしくじってしまった問題のベアリングをずっとスタッフの眼の前に翳{かざ}しながら峻厳な面貌{かお}をして叱責を続けていたが、咎められている側の中には、自身がミスをしたと云わんばかりに話の途中から顔を伏せたきり身じろぎしない者も幾人かいた。また、驚きのあまり眼が点になって唇を半開きにして聞いている者もちらほらいた。山内も、自分が絶対ミスしたというわけでもないのに、表情は雲がかかったように陰っていた。真ん前の顔を見ようとしても平静な面持ちを保っていられず、ふと涙目さえ催してきたのが辛かった。
もしかしたら、これが原因で契約を突如打ち切られてしまうかもしれない。そんな最悪な結末さえ脳中をじわじわと掠めてきた。あからさまな欠陥品を後工程である検査工程にそのままの状態で少しも気づかずに流してしまえば、当然まだ赴任してきてまもないTLとしてのポジションは、“蟻の穴から堤も崩れる”ごとく危うくなるのは木多自身が何より強く肝に命じ、絶えず現在も心の奥底ではおびえの感情さえあるに違いない。だからこそ、一種の処世術ともいうべく、保身に汲々とする態度をこうして部下の失敗を戒める機会にそれとなく表してしまうのは致し方ない面もあるのだ。二十名前後いる工員達の中で、いったいどれだけの者が右のような実情をわかっていただろうか。社会に出てパンを稼ぐのがやっとの期間工は、そこまではさすがにその場では汲み取れなかっただろう。
自社の製品に屈辱を味わわせてなるものかという我武者羅{がむしゃら}で一途な想いは、社員達には意識せずともそれなりに備わっているかもしれないが、今いる作業員のなかで過半数を占めている派遣や日傭{やと}いの連中はといえばどうだろうか。そこまでの熱意は流石に全員が持っている感じは窺えず、むしろ、極端に表現してしまえば失礼だが覇気の乏しいひよっこ達というのがあてはまるかもしれない。木多の時おり荒ららかになる声色に怯懦しながら、前を虚ろげに見つめたり床に眼を伏せたりしてその場にじっと佇み、長い長い朝礼が終わるのだけを堪えている様子であった。主任や工場長の懸念する痛切な声も聞かされた後ようやく、
「まぁ、失敗は誰しもが経験するものだ。みんなにとってこの時間が無駄にならないように、ひとつ気を引き締めていきましょう」
通常では起こり得ないミスが発生しために、四、五十分も長引いた朝の会合は、従業員を一人ひとり思いやるかのような木多の穏やかな物言いで幕を閉じた。そして、派遣の作業工らは、各々が任されている組立機の前まで、眠さも残る冴えない表情をまだ引きずりながら牛歩遅々として向かっていった。角界に入門するのかと思われるくらい巨躯の山内も、歩き出したばかりの他の大勢の群れと同じく、自身の作業ポジションへ戻ろうと三、四歩ばかり足を右に運ばせたとき、
「あっ、おい山内!」
「………!?」
「お前はちょっとそこで待っていろ」
舌端軽そうな滑らかな声が耳に入ってきて直ぐさま後ろを振り返ると、木多が蟷螂{かまきり}のようにきっと鋭い眼つきと不機嫌そうな表情で腕組みをしながら呼び止めたのであった。嫌な予感がした。
(えっ、………何で俺だけなんだ……………)
(俺が何したっていうんだよ、………いったい…………)
忽{たちま}ち、山内の胸裏は波打つ水面のごとくそわそわし始めた。際限のない不信感に襲われるのは近頃は茶飯事にもなっていたが、それは決して熟練する腕のように慣れゆくものではなかった。数分して、例の木多がバインダに挟んである作業に関わる書類の束をぱらぱらとめくりながらこちらへと向かってきた。そして、山内の顔を見るやいなや、
「今回のミス、お前が仕出かしたみたいだな」
「十八日水曜日」
「八時二十四分………」
先程とは打って変わって恬淡{てんたん}たる態度で、TLは顔の前に掲げた日報のある一部分を凝視しながら、口早に素っ気なく告げた。
「………えっ?…………」
(その時間はまだ夜勤の人がやってたはず…………なのに俺だなんて、……そんな………)
昨日も昼間の勤務であった、ただそれだけは確{しか}と承知していた山内には、なぜ端{はな}から己の所為{せい}にされるのか反発の気持ちさえしだいに沸いてきたが、
「ここにお前のサインがちゃんと書いてあるんだけれど」
ミスを犯したのはお前じゃないかと責められてもやむを得ない箇所を、TLはボールペンで軽くつんつんと叩いて示した。平静な態度に戻った木多であったが、未だ両眼は少し血走っていて、微かにまぶたの辺りがぴくぴくと震えていたのがわかった。
(……えっ?…………そんなおかしいよ。あるはずがない…………)
山内は、その指摘された作業者欄に走り書きしてある我のサインを、おずおずとした表情で眼をしばたたかせながら見やると、首を思わず傾げた。
「すみません、自分、……この日なんですが、…………今日と同じ昼勤だったんですけれども…………」
誰が書いたものか、筆跡は気味悪いくらいに酷似していたが、たった一日前の夜に記してあるこの己の名字が腑に落ちず、わかっている単純なありのままの事実を木多に申し訳なさそうに小声で伝え、理解を求めようと努めた。
「だって、これお前のサインだろ?」
「お前の代わりに書くヤツが他に誰かいるのか?」
男のわかりきっている生温い言い訳のような返事に対し、木多はあまり間を置かず言い張るようにサインにこだわって突き詰めた。瞳孔から外側を白く染めている強膜部分に、再び赤い糸のような筋が入ったのに気づいた。
「え、ええ………」
(でも…………おかしいなぁ…………)
(まさか夜勤の誰かが俺の書きぶりを真似て……………)
(………誰なんだ………誰がそんな悪巧みを…………)
(この川内って奴か、…………それとも花川…………)
(………いやいや、そんな馬鹿な事は流石{さすが}にやらないだろうよ…………)
(………だとしたら、…………いったいどうなってるんだ、これは…………?)
山内は、木多の睥睨するような峻烈な視線を目の当たりに受けながら、この楔型{くさび}文字か草書体のごとくひねくれた書風を逆番の工員が悪意を持って策したものだと何とか思い込もうとした。がしかし、頼りにはならぬ揣摩{しま}憶測のため、的確に名指し出来る人物などいる筈もなかった。両者のあいだには、暫し互いに譲歩できない気まずい空気が流れたが、
「あれっ、お前そういえばさ、その日いつもより早く来てマシン動かしてなかったっけ?」
言葉に詰まりもどかしそうにうなだれて何も答えられずにいる風采が上がらない男に対し、面長で凜とした好青年のTLがやっと口を切って訊いてきた。はたして、ようやく昨日の朝のことをぼんやりと思い出したのか。妥協を許さないでいた表情{かお}がほんのりと解{ほぐ}れて、意味深な薄嗤いを目許や唇の辺りに浮かばせながら、話を暈{ぼか}すようないささかおどけた口振りであった。
(………えっ、昨日?)
(…………昨日……………)
(……………!)
(ああっ!)
(………そういえば確かに…………)
(………何でなんだ…………?)
(どうして……………)
(…………時間的にはまだ二十四時間経ったくらいなのに、…………今頃やっと人から言われて思い出すなんて……………)
呼びさましたくなかった記憶の栓にぽっかりと穴が開いたように、珍しくその日、早めに作業衣に着替えマシンの前で朝礼の始まる前に少しだけ黙々と加工に携わっていた自分の姿が、まざまざと脳裏の泉に甦ってきたのであった。俄然、頭の中は真っ白になり、張り詰めすぎた空気のせいか、知らずのうちに皮膚の汗腺は緩んで額のへんが温かく湿ってきた。なんとか我に帰ったものの、彼は上役から眼を逸らしきりであった。
(しまった……………)
(………今さら、何て言えばいいんだ…………)
(首をコクリと落とすぐらいしかできないよ…………)
サインに関しては認めざるを得なくなったのだが、それにしてもタイミングってやつをあまりに逃しすぎたではないか。白状することはもう、自身には機械を扱う才能がないんですとみずから認めてしまうようなものである。そう思うと、やはりしばし緘黙し続けるしかなかった。何気なく、木多の片腕に填{は}めているロレックスの銀色に輝く腕時計が眼に留まると、同じく銀色に光る時計の長針がまもなく次の零{ゼロ}を指そうかと、秒針が一定のリズムを保って丸く円を描きながら刻んでいるところであった。もうこうして、木多に呼び止められてから早くも四十分近くが経とうとしていた。
(………だ、…………駄目だ………)
(もう限界だ……………)
(……正直に吐いて……………しまえ!)
蛇に見込まれたどでかい蛙はいよいよ耐え切れなくなった。窮屈すぎる無言の圧力から脱したくて山内はついに、
「あっ、…………はい。すみません……………」
「自分のサインでした…………」
「だろ!」
「………たしかにその日は…………おっしゃるとおり、…………でして…………」
と、力無く女々しい声で、昨日の朝は組立機の前にすでにいた事実を打ち明けた。かといって、自身がそんな派手なミスをやらかしたとは思えず、合点のほうはゆかなかったが聞こうとする勇気と気力はなくなっていた。
この人には今さらどんな言い訳をしても無駄だよ。そんな遣る瀬ないアキラメの気持ちが煙のように頭の内に充満していたからである。それでもなお、胸の奥底はといえば、火を消し止めたばかりの鍋みたく、煮えたぎるように熱く歪んだ蟠{わだかま}りが燻{くすぶ}り続けていたのであった。
「まぁ、いい。戻れ」
木多の素っ気ない鶴の一声が耳に響いたが、カゴから放たれた野鳥のように開放された気分には到底なれず、依然として、鉛色の陰気な雲が心中から払拭できないでいた。さすがに自身の持ち場に戻るのも億劫そうな面持ちで、鈍重な身体とともに二、三歩そこから離れようとするや否や
「あっ、おい山内」
口早にまた、舌滑らかな声がすぐ後ろで聞こえた。振り向くやいなや、眼鏡を鼻の辺りまでずり下げた木多が釘を刺すようにして言った。
「お前、午後からずっと今後は検査のほうにいってくれ。向こうは最近人手が足りていないらしいんだ。んで午前中はだな、俺や他のスタッフとしばらくの間ペアで組立に入ってもらう」
語りかけた内容以上に、冷ややかでどこか蔑みを含んだ目許と不自然に緩んだ薄い唇の形が、山内のプライドを又ひとつ傷付けた。
(………そんな、………どうして俺だけが弾かれなきゃいけないんだ…………)
(……それに、…………後工程だって辞めてる人は今いない筈なのに…………)
(本当に俺が、…………俺が赤っ恥ミス………やらかしたっていうのか………)
二、三ヶ月前、頭をちらりとかすめた一抹の不安がいよいよ現実味を帯びてきているのではないかと思うと、おのずと涙腺は弛みはじめ、ぎょろっとした瞳孔がしだいに泉のように潤ってきたのがわかった。
「………や、………やはり…………私が………でしたか?………」
山内は、水面のように揺らぐ胸の内をどうにかぐっと堪えながら、相変わらず訥訥とした調子ではあったが、思いきって恐る恐る訊いててみた。先程まで赤く血走っていた眼を何か訳ありげに一瞬真横へ逸らした後、
「まあいい。今回は今回で仕方がない。それより一つ一つの作業を確実にこなしてくれりゃそれでいいんだ」
木多はキツネみたく一重で鋭い眼をさらに細め、次はミスしなければそれでいいというような内容のことをさりげなく言った。
(なぜ答えてくれないんだろう)
山内のほうはといえば、厭味なTLが蹴散らすかのごとく、ほとんど我の問いに取り合わず、口早に軽く宥めるようにしか聞こえなかった。
(………ちっ、あの二人のうちの誰かっていう可能性もあるのに…………)
そのくせ未だ胸裏には、あくまで自分は単に濡れ衣を着せられただけで逆番の班で踏んだドジなのではないかと、できるならそれを転嫁してしまって遁辞を弄したいという少しばかり卑怯な自分も隠れていた。がしかし、図体に似合わず気弱な彼はこれっぽちの文句も零{こぼ}せなかった。非正規とそうでない者達との間を非情にも分け隔てている境遇の厚い壁を痛感し過ぎているせいもあるだろう。それに加え、山内の場合は生真面目な性質に拍車がかかるためか、余計に萎縮してしまいモノも碌{ろく}に言えやしないでのであった。たしかに、社員や派遣や期間工も同じ作業場で同じような職務に就いているにもかかわらず、待遇に雲泥の差が生じているのは理不尽だと誰かが叫んでも語弊はないだろう。
(………俺達は、…………彼等を超えたくても超えられない組織の歯車ってやつの中に組み込まれてしまっているんだ…………)
(……そう、それはまるで歴史に例えるならば四十六、七年前、…………)
(東ドイツが築きあげた、………そう、あの西と東に、…………市民の自由を殊更{ことさら}に奪い遮断した、…………あの高くて越えられない暗い壁に似ている…………)
(俺達はこのままずっと、赤い海だけを求めて只管{ひたすら}もがく泥臭い凡愚の職工なのかよ…………)
頭の回転が早く人あたりも良いがとにかく気障っぽくて近寄り難い臭いのする木多に、わりと単調なベアリングの組立作業を新人のように危なっかしい眼で見られつつ、何かと逐いち指図を受けながら黙然として取り掛かっているさなか、山内は不遇を人前で託{かこ}つ代わりに身動きの取れない哀れな身の上を、三十年弱続いた冷戦時代のドイツを象徴するベルリンの壁に擬{なぞら}えていた。とりわけ書物などとは縁がないほうではあったが、半年前地方新聞に大々的に掲載されていた歴史欄のシリアスな描写の記事が、妙に強烈な印象を持って彼の浩瀚{こうかん}とした記憶の海に浮かびあがってきたのであった。時おり、放心しているような生気のない両眼と半開きの唇に木多はあきれの表情を見せて、無意識のうちに横長の薄い眼鏡の縁を黄金色に光らせ大男の肉厚な背中を叱咤するかの如く一発手の平で突いたり拳骨{げんこつ}を作って嚇{おど}かしたりした。
しかし、それでも当の山内はといえば、
(俺等は、…………東ベルリンから数十メートル先へも足を踏み入れられなかった当時の無邪気な平民達と同じさ…………)
(壁から先へ踏み入れたくて、…………懸命に足掻{あが}こうとしたって何一つ変わりゃしないじゃないか…………)
堅実さや勤勉さはもとより、本人の持つ能力さえ肩透かしされ兼ねないこの道理が引っ込んでしまうような卑しい世界に身を置いている我に対し、もう久しく、常にと言っていいほど憐れみとも蔑みともつかぬ心境が絶えず自身全体を支配しているような気がしてならなかった。ちらちらと夜空から舞い落ちる粉雪がいつしか肥沃な大地を隙間なく銀色に埋め尽くすように、積もり重なった憂鬱や猜疑など好ましくない陰気な心の一片{ひとひら}一片が、向上心や好奇心という草原よりも広くて尊い財産を覆い隠してしまっている感じがするのは確かに否めなかった。土に雨水が混じり込み次第に沼地と化してそこから這い上がれなくなるように、一縷の改善をも見込まれない組織の歯車としてこのまま続けていっても、ますます虚脱と憂鬱、そして焦燥の悪感情に飲み込まれてゆくほかないのは、もうとっくに観念しているつもりであった。他方ではまた、
(いくら社員の連中が世界に通用する名高い製品を造れているから人間として誇れるかっていえば、…………)
(案外そうでもないんだよな…………)
(頭脳なんかどっちみち、田夫野人{でんぷやじん}の範疇に過ぎないなって思う奴らもけっこう見かけるし…………)
(その証拠に、しょっちゅうあいつらは、パチンコや競馬なんかのギャンブルの話ばっかしてるもんね…………)
山内は、同じ作業場で共に働いている正社員の馴染みの顔ぶれのうち、澄ました表情をして最先端技術を日々ゆくため淡々と数々のマシンを駆使して洗練された印象をも与えている幾人かのグループの姿とは対照的に、それ以外の“愚工”達はといえば、昼間や途中の休憩時に花咲く低俗でたわいのない会話や卑しくて低い嗤い声、そして、噎{む}せるほど室内いっぱいにタバコの煙を燻{くゆ}らす姿など、芳しくない一面も多分に彼等は持ち合わせているという内情を知っているからである。それゆえに、ともすれば勤勉で堅実な派遣工の方がまだ本来の意味で優秀なのではないかとさえ思えてくるのであった。
(世の中は…………本当に、不公平さ…………)
(不公平極まりないよ…………)
(俺達はいったい何時{いつ}になったら、…………)
(自由な西側に逃げられるんだろう…………)
(………嗚呼{ああ}、自由と希望の赤い海よ…………)
アフターファイブに、放蕩者のように浅はかな賭博に耽っては一喜一憂する工場の社員らの多くをひそかに内心蔑んでいるのだが。がしかし、それでもやはり、社会保険などの最低限のセーフティーネットが敷かれた本来の労働者としての地位に常時置かれてこそ、身を粉{こ}にする甲斐があるのだという、切実な想いは何も変わらないでいた。
(ブランデンブルク門から眺める夕陽もそりゃ綺麗さ………。でも、あのベルリンで一番有名なシンボルでさえかつては東側にあった…………)
(西へ、あれこれ小細工や術策を弄してでも、慌てふためいて逃れゆくプチブル達の恰好悪い姿を嘲り嗤いながら…………)
二重に仕切られている壁の間の数十メートルに及ぶ無人地帯を越えられずに止むなく命を奪われた死者の霊がまるで乗り移ったかの如く、西ベルリンの周りをぐるりと囲んで牢獄を思わせるようなその高くて暗い壁が不気味にどこまでも天に向かって聳{そび}えている情景が、なぜか妙にありありと山内の脳裏に浮かび上がってきた。
(俺らも、…………いや、………他人云々言う前にこの俺だって下手にアクションなんか起こせばもう、…………すぐにでも首斬りされかねないな…………)
(………望みの西ドイツへは………そうたやすく渡れないのか…………)
“蛞蝓{なめくじ}に塩”という諺{ことわざ}があるように、山内は、いつもよりしょんぼりとした面貌{かお}で同じ繰り返しの作業を続けていた。隣には、つきまとうように歳よりも若く見える苦手な上役の木多がいる。
(………もしも、…………もしもこいつに………告げられてしまったら…………)
TLの無関心で素っ気ない表情と口速の厭味な声色で、いきなり、淘汰されてしまったらと思うと、一気に強い不安と恐怖がアタマを支配してきた。血の気がもろに引いたのがわかって、その場で卒倒しそうになったのをなんとかぐいっと歯を食いしばって怺{こら}えた。
「よし、いいだろう。午前中はこれでおしまいだ。午後からは俺が言った通り、検査工程へ飛んでくれ」
木多は、すべて言い終えないうちに視線をすぐさま眼前の作業台の製品へと移して、ついさきほど組立を完了したばかりのロットの個数を忙{せわ}しそうに念入りにチェックし始めた。
(…………アイツが偽善者に見えて仕方がない。工場長や外来客の前では柔和そうな笑みを振り撒き外面が良いが、…………)
(下っ端の派遣や俺らの前では、………特に、…………俺の前では…………)
(これっぽちの温かみ一つさえ見せやしないじゃないか…………)
(………奴があの男に思えて仕方がないよ…………)
(………最初は、住宅建築にわが首都の労働者は力を注いでいると………それゆえ亡命者をシャットアウトするつもりなんかありゃしないと嘯{うそぶ}いて否定した二ヶ月後に、…………あの、皮肉の壁の建設が開始される数日前にベルリンを封鎖する必要性を仄めかした、…………あの、……あの憎むべき…………)
山内はとぼとぼと歩きだしたが、遠ざかってゆく木多の、アゴの尖{とが}った逆三角の顔貌{かお}を臓{はらわた}が煮え繰り返るような思いで振り返った。
(………そう、あいつは…………あの忌まわしき東ドイツの指導者、ウ゛ァルター・ウルプリヒト人民議会議長なんだ……………)
(壁は設けないと言い張ったのに、…………)
(なのに奴は、………純朴な数多{あまた}の市民を裏切って八月の半ば、…………建設される直前に署名をした、…………醜き男…………)
…「まあ、駄目なヤツは駄目なんだよ」…
ひとり食堂の片隅で隠れるように座り簡素なおかずを箸に摘{つま}みながら山内は、木多が午前中の小休憩に出てゆくため持ち場を離れる際、微かに聞こえた自分に対する慢罵の半句が、繰り返し脳裏を呪文のごとくぐるぐると廻り、飯ドキは落ち着けるどころか溜まった鬱憤を少しも晴らせずにいた。
(畜生…………!)
(どうして、俺だけが冷飯食わされなきゃならないんだ…………!)
彼はしょぼくれていかにも冴えない表情をしていたが、周りの見渡せる人はといえば当たり前だが、決してそうではなかった。一日の中で唯一無二の長い憩いの時間は、碧空に向かって噴き上げの水の迸{ほとば}しる昼下がりの公園で頬や唇が陽の光を浴びつつ自然と綻びてゆくように、といえばおおげさで変に思われるかもしれないが、ほとんどの輩{やから}が気の合う仲間と席をともにしていて、茶碗を片手に靨{えくぼ}を柔らかに緩ませ、さりげない会話を弾ませたりたわいのない駄弁を弄したりして、おもいおもいに短いひとときを寛いでいる様子であった。
ガラス越しに外を覗くと、爽やかな秋風が色づいた銀杏の木の葉を涼しげに揺らしていた。整然と立ち並んだその風樹の正反対に当たる、直角に鉤状{かぎなり}の形をした、こちら今食事中のスタッフらで賑わう建物の奥の西側に佇む数個の煙突のすぐ上を、喉や頬はそうでもないが濃い褐色をした二、三羽の百舌{もず}が、戯{じゃ}れるように互いに絡み合いながら従業員等の車で犇{ひし}めく駐車場の方へと飛び立っていった。
遥か遠くに広がる丘の向こうでは、雨上がりの後まれに目にする七色の虹がいつの間にか淡く綺麗にアーチを描いていた。どこまでも続く青い空のキャンパスのど真ん中には、孤高に大地を見下ろす太陽が昨日と何ら変わりなくまあるく描かれ、無機的で蕭然{しょうぜん}とも映る灰色に染まったコンクリートの敷地やその一角に彫られた厳かな表情で構えるモニュメント像、重々しくところどころに置かれる強硬な鋼鉄の塊や重機の上などにも幾筋もの光を連れ立って惜しみ無く柔らかに降り注いでいたが、それと同時に、迷路のように入り組む巨{おお}きな排気設備の裏側や、苔を地面の方へ古めかしく濃緑に生やしたブロック塀の手前はといえば、鼠色の黒い影がくっきりとできていた。
正午近くの時間になると、弁当屋の三トントラックが正門からのろのろと入ってきて食堂のあるこの第二工棟の西玄関入口の前で止まって、尻のポケットに幾らか黒ずんだ軍手をはさんだ一九〇に達しているかという背高{せいたか}のっぼだがどこか間抜け顔のいつもの青年が、片方の腕に五つくらい重ねた幕ノ内弁当を抱えて急ぎ足で自動ドアをくぐる。
また同じくして、幅六十平米、奥行き四十平米の他の二つの建物より一回り小さな第三工棟の裏玄関の前には、完成した製品の集荷を待つもじゃもじゃと髭を生やした古株の運転手が、ラジオを漫然と聴きながら退屈そうに足を組んで身体を背凭れいっぱいに寄り掛けていた。気のあまり長くない彼は時々、じれったさをカオに露{あらわ}にしては、開いた鉄扉の奥の室内で梱包と最終検査のため高麗{こま}ネズミのようにちょこまかと動いているパートの小母さん連中のほうを、早く此処を出たいぜと云わんばかりにあきれ顔でぼんやりと眺めている。
今しがた、食堂奥の煙突の辺りを縫うようにしてパーキングの方へ仲睦まじく飛び去っていった二、三の百舌が、広幅で頑丈なトラックの真上を互いに追いかけっこでもするように、再び第二工棟が見える東側へ爽秋の柔らかな蒼い大気の中を軽やかな羽音を立てながら伝っていった。
頻{しき}りにざわざわとした喋り声が鳴り止まない三階の食堂から一人、二人‥とぽつぽつ、人間の輪に上手く入り込めないようなひ弱気な顔貌{かお}をした男が、どこか荒涼たる面持ちを引き摺{ず}ったまま早足で階段を降りていった。
そしてまた、幾人か同じような顔触れが寛ぎの室内をそそくさと後にしたが、それらに雑じってふてぶてしい面貌{つら}をした三、四人の総務部の年配どもが、株や預貯金で得した話などをさも得意げな表情になって、でかい声を踊り場に響かせながら我が物顔で階段を悠々と下ってゆく。大勢のスタッフが各々のランチタイムを満喫していた社員食堂では、空になったお皿や茶碗はどこ吹く風で、世間体を気にしてか井戸端会議のごとく毎度のおしゃべりに花を咲かせているオバサン達の小さな集団を除いて他の工員らは、歪{いびつ}で中途半端な列を左右に作りながら面倒臭そうに、二、三枚ある食器などを洗い場のどっぷりと浸{つ}からせたお湯の中に放り投げるように落とし込んでいった。
(………さぁて………俺もそろそろ出ようかな)
(………残りの十五分はいつもの休憩室で、………いつもの紙コップの珈琲{コーヒー}を飲むとするか…………)
山内は、愁眉を含んだ表情のままあと残り僅かにせまった自由な時間をまた一人で居ようと決めた。思いも寄らぬミスが発覚した朝の会合で、仕損{しそん}じたのはサインを作業簿に書き留めた自分のほかは誰もいないだろうと一方的に決めつけられた物言いをされたせいもあってか、昨日より甚だ気落ちしていたといっても過言ではなかった。
(運命に抗{あらが}って盲滅法{めくらめっぽう}に進んでしまっては、……無人地帯の監視に引っ掛かって…………)
(運が悪ければとんだ地雷を踏みかねない…………)
(………今は未だ、………もう少し辛抱しなければならない時なのかもしれない…………)
長椅子の端にそっと力無く腰掛け、眼鏡のレンズをいささかか白く曇らせながら紙カップに入ったホットアメリカンをちびちびと啜{すす}るように飲み始めた。
現在の悩ましい境遇を、先ほどからずっと、ベルリンの壁が築かれていた東西ドイツ時代の東ベルリン市民におのれを比喩しているが、自分が当時の移動の自由を束縛されし者だと無意識のうちに感情移入するほど、妙に安堵の感さえも覚えてくるのであった。
―なぜだかは理解{わか}らない―
人は底辺に堕するほど、そうでなくても社会的立場が弱くなるほど、程度の差こそ有れ不幸せと呼べる運命に陥った人々の憐れむべき境遇に心を通わせたくなるものなのであろうか。
山内の脳裡には、まるで実際に当時の市民として居合わせかの如く、白塗りの二枚の壁に挟まれた数十メートルに及ぶ無人地帯に警備兵が二人、案山子{かかし}みたいに始終じっとして突っ立ってはいるが亡命者の侵入を防ぐため、常に銃を脇に抱えながら苦み走った表情に獲物を瞬時に狙い撃つかのような鋭い眼光を表情{かお}に含ませ、互いに時たま意味ありげに目配せしたり首を横に振ったりして、物見台から緊張感と好奇心の入り雑じった心境で四方を眺め入っている情景が、奇妙にもありありと浮かんできた。また、分厚くて廃墟を思わせるかのような鈍色{にびいろ}のコンクリートで造られた壁により、ノイケルン地区ブーシェ通りに立ち並ぶアパートの一群は東西に真っ二つに分断されてしまい、そんな越えそうで越えられない現実を目の当たりにしている誰かの途方に暮れたような後ろ姿も、ぼんやりと現れてきた。
季節は真冬であろうか。
その男は、柔術の黒帯を持っているかのごとく体格が良く、閑静な住宅街の一角にある道路のど真ん中で、黒い毛皮のジャケットを羽織り、藍色の擦り切れたジーパンを踵{かかと}の辺りまで履いていた。彼は何やら、威圧するかのような濃い灰色の壁へ眼を向けているようであった。その男は、マッシュルームみたいなヘアスタイルをしていたが、なぜか碧眼の国であるにもかかわらず紅毛ではないのに気づき、早くも違和感を覚え始めた。
東亜から仕事のため訪れている新聞記者なのであろうか、それとも作家としてパンを得ている自由人なのか、はたまた、単なる旅行者の見物人なのであろうか。
いや、しかし、ジャーナリストにしては、風采やそれとなく伝わってくるどこか凡庶な感じからしていまいち気品ってやつが足りなさそうである。それに比べれば、文筆家のほうが未だ雰囲気があるなとは思ったが、肥えすぎて出無精になった猫のように極端に丸まった背筋がとかく頼りなさそうで、知性的な印象も徐々に虚しく消え失せた。
となれば、監獄の塀のように重厚で不気味ささえ漂わせる鈍色の壁を仰いでいるのは、暇をつくり、はるばる遠方の異国の地からひとり海を越えて、以前から関心をそそられていたのであろう、この閉ざされた首都の悲痛な沈黙の様相をおのれの眼で確認しにやってきただけの男なのであろうか。大男のだらし無さそうに前に歪ませた背中しか見えないが、きっと、誰もが感じるやる瀬ない旅愁にも想いを馳せながら、住民達を独裁政治の共産主義という卑劣な鎖で強引に繋ぎとめ、無闇矢鱈{むやみやたら}に百八十度敵対する西側へそれら箱入りの飼い犬を流出させまいと、東ドイツとソ連の両政府が躍起になって建設をした“コンクリートより厚い精神の壁”を、複雑な心気で眼を凝らしているに違いない。
しかし、それにしても、その冴えない後ろ姿の彼は、ずうっと一点を見つめているように身じろぎ一つもしないでいるではないか。
まるで、ふかふかの黒いダウンジャケットを身に纏った図体のいい男は、現実にいま休憩室内の長椅子に腰掛け、背中をぐったりとして壁に凭{もた}れかけて瞼{まぶた}をかたく閉じている作業工の脳裏に、“期待の持てる萌芽の喪失”という芳しくない暗示を知らせようとしているみたく、言いようのない寂寥{せきりょう}感に浸りながら同じ場所にずっと直立したままでいた。
(いったい、…………誰なんだ…………?)
(………何があって、…………俺の頭ん中に潜り込んでくる…………?)
(…………いったい何があって…………)
(誰なんだ!)
(………なぜお前がそこにいる…………)
人形のように壁の前で無気力に茫然と立ち尽くしているその男に山内は、同情なんかよりも虫酸{むしず}が走るような嫌悪の念に駆られてきていた。
移動したい自由という欠けがえのない果実を、痴愚な政府の謀略によって無理矢理もぎ取られた当時の東ベルリンのプチブル達には、己の苦悩を彼等の憐れみの部分に重ねられたので一種の心地良ささえ時に胸裏をつたったが、どういう訳だか、上半身黒ずくめの野暮ったそうなこの独りの男には、磁石の負極と負極が互いに突っ撥ねるように理由{わけ}もなく疎ましくなるのであった。
それどころか、山内も現実には甲斐性無しで五十歩百歩のくせに、気品の趣も伝わらず教養や知性の欠片{かけら}もなさそうじゃないか。
と、ふと頭の中に直感的に思い描かれた男を単なる俗骨で“うどの大木”だよと貶{けな}し始め、数多の不幸なプチブルらと何ひとつ変わりなく痛切に抱いてるであろう心情が彼にもあるのは当然だという、最も理解{わか}ってあげるべき心情の核心を素直に顧みようとはしなかったのだった。
(………どうしたことだ………)
(こりゃいったい…………)
(俺には…………どうしてこいつが憎いと思うんだ………)
「おい山内!」
(……えっっ?………?)
薮から棒に、口早で聞き覚えのある滑らかな声が胸を突き刺すように耳に響き、思わずはっとして横に顔を向けると、急ぎ足でやって来たのか少しばかり荒い息遣いをしつつも、これでもかとがっしり腕を組んだ姿勢で大股に立ちながら鬼のように峻{けわ}しく不愉快さを露{あらわ}にしたTL・木多の表情{かお}がそこにあった。いつの間にか、流行りものではないが小洒落た感じの細長いメガネは外していて、その代わり、鋭い両眼には朝の全体の会合の時と同じく、細くて赤い皹{ひび}のような筋が何本も放射状に浮かび上がっているのに気がついた。
(ハッ…………)
(し、しまった…………)
(……つ、ついうっかり…………)
とりとめのない空想の時間は、ホオをひっぱたかれたかのごとく一気に幕を閉じた。恐怖の鶴のひとこえにより、山内は、俄{にわ}かに現実世界に引き戻されたのである。とたんに怖じけづいてしまったせいか、胸の内が忽{たちま}ちぶるぶると震え出してきたのがわかった。そして、上役に何と弁解していいのやら、顔を伏せて考え倦{あぐ}ねるほど頭の中は真っ白になったが、詭弁を即座に弄する口先など有るわけがなく、ただ黙り込りんで狼狽するほかなかった。図体の割に怯懦な性質の男は、半句でも口を突いて出るのが怖いからと、しばし沈黙のままでいようとしたが、わずか一メートル先でこちらを睨{ね}めつけているような視線が放つ無言の威圧に堪えきれず、ただ一言だけ
「…………す、………すみませんでした…………」
それでも未だ、TLは詰責に逸りたい気持ちを抑えているのかすぐには口を開かなかったが、その表情は暴君と化したかのごとく、今にも一触即発しそうなくらいの憤りに燃えているのが、三角になっている眼でも充分感じ取れた。さっきから、鋭利な刃物のように尖った両眼は、血走りを含んで醜く吊り上がっているように見えた。
(………やばい…………)
(……どうすりゃいいんだ…………)
(もはや………万事休す、………なのか…………)
無言の圧力をもろに受けながら、家の主にいよいよ追い詰められた窮鼠{きゅうそ}みたく、表情はますます引き攣{つ}っていったが、ようやくついに、死を待つような長い沈黙を切り裂き、
「何やってんだよ、こんなとこで!」
「………はっっ、はいっ………」
「山下課長が待ってるんだから、早く検査工程に行ってくれ」
口数少なく、木多は手短に素早く言い捨てるようにそれだけ吐くと、意外にこれっぽちも問い質そうとはせず、直ぐさま身体と視線を同時に横に逸らし、無造作に扉の握りをこじ開けるようにぐいと拈{ひね}って、そそくさと足速に去っていった。
休憩室は、嵐の過ぎ去ったように静まり返った。
(…………助かった)
(…………怒鳴られずに、………済んだ…………)
(まじで、…………今回ばかりはひっぱたかれるんじゃないかと思ったよ………)
木多の予想外の行動に、彼は安堵の吐息を弱々しく洩{も}らしたが、それと同時に、ブラック珈琲を空腹の際飲まされた時のようなほろ苦い屈辱感が胸の内に痼{しこ}りのごとく残った。それがなんであるかは、もう山内にはわかりきっていた。
あの人を見下す男がこちらに来てからますますゆがんだ己の心境、あの陰湿な男が自身に抱いている印象、これからも変わらず我に対しひそかに期待し続けるであろう社会の落伍者というレッテル………
検査工程のある第三工棟へ態{わざ}と遠回りして一人とぼとぼと向かう途中、山内は、運悪く嫌味なTLと数ヶ月前に出合い、これからも毎日決まった時間に嫌でも顔を合わせなければならないのかと思うと、深い憂いとも疲れともつかぬ溜め息をひとつ、紺色に染まっているアスファルトの上に大きく落とした。今日も変わらず、朴訥{ぼくとつ}で不器用な彼の姿の影がそこに落ちていた。
午後は、何時にもまして課長を含めた社員らのいささかぴりぴりとした目線が気になりつつも、飽きるくらいに単調な繰り返し作業に黙々と取り掛かった。ロット毎に加工し終えた、それぞれ型の異なる数種類のベアリングの一つ一つに傷や凹み等がないか、いちいち目視をしながら念入りに確認してゆく。一ロットに百枚前後の軸受けが入っているのだが、十ロットは優に超えていた。
頻繁に襲ってくる昼下がりの睡魔に負けまいと、時折、風変わりにも彼はチューインガムをもぐもぐと噛んでいる真似をする。この特異な癖は、派遣より遥か前のサラリーマン時代、企画の仕事に傾注していた時から少しも変わってはいなかったのである。四年ほど前、派遣で働き始めた頃、山内のこの奇妙な仕草を偶然に目撃した同僚や友人は最初、本気で口の中にガムを含んでいるものだと錯覚してしまったらしい。
だが、そんなちょっと面白おかしいエピソードも、もうはるか遠い昔のことのような気がして寂しく感じた。
(…………あの頃は未だ全然、………という訳でもないけれど…………今よりは希望が持てたよな、…………たぶん…………)
(みんな、…………今頃何してんだろう…………)
(………高さん、……縄ちゃん、……霜君…………)
山内は、期間工に這い上がる前の派遣会社で知り合った、ひとつ釜の飯を食った仲とも言える幾人かの、窶れてはいるが真っ白な歯を剥き出しにした、決して垢抜けてなどいなかったが少年のように飾り気のない、猿みたいに剽軽{ひょうきん}な表情が、淡い追憶の泉にふっと蘇ってきた。
ケアレスミスをしたせいで、偉ぶった社員に愚図られ気分を害した時でも、仲間達は代わる代わる手を添えるように肩をぽんぽんと軽く叩いては、笑いの壷{つぼ}をくすぐるジョークを耳元で呟いたりさりげなく励ましたりしてくれた。
休憩時や帰り道では、鬼が笑うにも物足りないごく小さな悩みや不安も、彼らと分かち合う愚痴やくだらない閑談だけでたやすく紛らすことができた。枠外の世界の人達から見ればぬるま湯に浸かっているように思われても仕方ない派遣工という身分ではあったが、息の通う友人達と一緒にいた頃は、そのぬるま湯から素早く抜け出ようなどとはほとんど考えもしなかった。
むしろ、真面目に勤務を怠らずとにかく着実に作業をこなし、なおかつ、向上心や好奇心を抱いて日進月歩与えられた職務に取り組んでゆけば、いつかは無二の僚友らとともに社員へのオファーが掛かる日が訪れるかもしれない。
と、微{かす}かな淡い期待さえ心中に秘めていたのであった。
だが、今思えば、そんな曖昧ともいえる希望的観測は、スプーンでいとも簡単に崩れる甘ったるいプリンのように彼の妄想の範疇でしかなかったのかもしれない。
「あなたたちにお話があるのですが………」
「はい……?」
「何のご用件でしょうか」
「実はですね、大変お話しにくいことなんですが、二ヶ月後までに今F工場で働いているスタッフ達の大々的なカットをお願いしたいと思いまして…………」
当時、山内の所属していた派遣会社は、長い間取引を結んできたN会社から大幅な人員削減を迫られていた。生産拠点を海外の中国にも新設して、新たに稼動を開始する時期が三ヶ月後の春と見通しが付くと、メーカー側で派遣先でもあるN会社は、冷淡にも派遣会社のCtに、これまで人件費削減のために頼ってきた派遣契約の大幅な一斉解除を申し出てきたのである。
当然ながら派遣元であるCtは、このあまりにも唐突な宣告に、流石{さすが}に全ての派遣社員を解雇するのには断固首を横に振ったが、N会社の二、三人の重役らは、奴隷制度的な営利企業の弱みを逆手に取るかの如{ごと}く、派遣社員に支払うべき給与の五、六割を人材派遣会社が中間マージンとして違法に搾取していると口を揃えて非難するばかりか、この要求が受け入れられないのであれば現行の賃金体系を大々的に見直しても構わないと、何度か念を押して威{おど}しを掛けたのである。Ctの統括責任者らは、今にも泣き出しそうな表情になると、土下座でもするように力強く合掌を作ったり頭のてっぺんを幾度も机に下げたりして、たといわずかでも良いのでその人材削減の緩和をお願いしたいと切に訴えた。
がしかし、被疑者の取調べでも行うような暫しの重苦しい沈黙の最中、老いぼれたメーカー側のお偉方は、みな同時ににやりと気色悪い薄嗤いを眼や口元に浮かべ左右のカオに目配せすると、何やら工場で働くスタッフのリストらしき用紙をCtの幹部の眼の前にそっと勿体振るような感じでおもむろに置いて差し出した。それには、百名あまりずらりと一覧で氏名や配属工程等が載っていたが、名字のすぐ左側にあたる欄外の空白には、十数箇所くらいに濃いBの鉛筆で○が印してあった。
「………ええと、すみません。………これは何でしょうか?」
「決まってるじゃありませんか」
「お宅から働きに来ているスタッフの名簿だよ」
「………な、……なるほど」
「………………!」
「………す、すみません。ちょっと………」
「え、どうしました?」
もうそいつらは勤務してもらわなくてもいいよと暗にそれとなく仄めかしている箇所に、浅黒くて引き締まった容貌{かお}の派遣元の社員がさっそく気付いた。人を物のように扱わなければおのれの懐{ふところ}を温められない負け組同然の人材派遣会社が慌てふためくのは、おそらく端{はな}から想定していたに違いない。
N会社側の木で鼻を括{くく}る態度は始終変わらなかったが、期待するよりもずっと低く最終的に確保できる人数を現実に見積もられてますます困惑の色を顔に表した時は、ほくそえむように嘲りの表情さえ図々しくも互いに見せ合いっこした。Ctのしつこいくらいの懇願に対しては、もっともらしい社会の経済情勢などの話を交えてうまくかわし、取り合おうとはしなかった。頑なに首を縦に振ろうとすることだけは、避けたのである。
結局、妥協はつゆほどしか認めてもらえず、N会社からは相当の利益を見込めないと判断したのか、〇印に該当しなかったスタッフすべてにおいても、Ctは派遣契約の継続を諦めて一斉に撤退する事をしぶしぶ承諾した。
工場側がなぜ、そのリストの中の十名強のスタッフを残そうとしたのか、そして今後彼等をどうするつもりなのかが、白い染みの点々と付着した赤いネクタイの先を指で玩{もてあそ}びながら、無情な人員カットの宣告に立ち会ったCtの責任者の一人は手に取るように判った。
(まあ、彼らはもしかしたらご褒美があるかもしれんが…………)
(…………ウチには関係ないか)
「おい川代。明日あいつらをすぐ事務所に呼び寄せるんだ」
「わかりました」
社会の縁の下の力持ち的な、勤勉だが覇気に乏しい人間を都合の良いように利用して、たとい僅かでもピン撥ねに頼って儲けを得ようとする意地汚い矮小な製造派遣会社が考えるのは、いつも姑息で陰湿でしかなかった。
N会社側の直属としての契約を予定されているであろうスタッフの連中を、打ち切られる他の大勢の哀れな工員達より前に、別の派遣先へ半ば強制的に送る画策を実行に移そうとしたのだ。
いずれは遅かれ早かれ、勤務態度が良かろうと悪かろうと、能力が有ろうとなかろうと、派遣先の人件費節約の為にもう長くは同じ場所に居られないだろうという事を口実にして、常日頃の平然さを装い次の現場のほうが適しているとでも丸め込むのは決して難しくはない。
何より、それらの多くの者が身分が不安定で、近い将来、口が干上がらないとも限らない使い捨ての派遣社員達が相手なだけになおさらであろう。
―搾取の継続という暗黙の了解―
に、有無を云わせず従わせようとしたのである。
がしかし、―――――
派遣側に軍配が上がってしまうのではないかと思われたその黒い目論みは、まさかの展開で敗北を喫してしまうことになる。
Ctの事務所の会議室に例の優秀と評価されているスタッフ全員を勤務終了後に集めたところ、なんとN会社F工場の解除の申し出につい昨日立ち会ったばかりの、あの歳に相応しく肉厚で厳かな容貌{かお}をした重役の三人が彼等の後から、先日よりも一層ふてぶてしい面魂で無造作に強くノックして入ってきたのであった。悠々と退屈そうに腕組みをして、呼ばれた派遣社員が残らず入室してくるのを見届けていた幹部らは、あまりに予想外な人物の登場に思わずコトバを失った。
そして、狼狽し始めた派遣元の社員が少しも声を出せないうちに、大きな顔に似合わず顎{あご}髭をちょびっと生やしたF工場の重役の一人が、片手に抱えていたA4サイズの幾枚かに連なった書類の束をCtの責任者二人の机の前に威圧するように大きく翳{かざ}して見せた。
「…………な、な…何ですか?」
「………それは…………?」
「見ればわかるでしょう?」
「ここいる勤勉な工員がみな、四月からは会社直属で働きたいという意思表示の紙です」
「…………えっ?」
「………な、何ですと…………?」
「彼等は昨日、私達の下で働きたいと申し出てきたんですよ」
予期せぬ事態に、Ctの幹部二人は困惑の色を隠せず、頻{しき}りにまばたきだけを繰り返した。追い詰められしどろもどろになりながらも、事の真相を落ち着いて訊{き}こうとしたが、肝心な一言がのどに栓をされたように出てこなかった。
「納得していただけませんか?」
アゴにちょび髭を伸ばした男の隣に並んでいた坊主頭で血色の良い顔立ちの重役は、彼らとは対照的に、毅然とした態度を崩さずに文書の内容の承諾を問うた。
「彼らはもう、派遣は卒業したいと言っているんです」
「たといあなたたちに口頭で伝えられなくても、もうこちらでサインはいただいています」
「何か言いたいことがあればお気軽にどうぞ」
いささか挑発的ではあるが、悠然と語りかけるように話す、一言一句の凛乎{りんこ}たる語調にもそれは充分滲み出ていた。しかし、四方に囲まれた長椅子に力無く座っている、F工場の直属スタッフに抜擢された当の秀絶な派遣社員はといえば、殆どの陣容が運命を人の手に委ねられた子羊のようにただ大人しく黙って座っているだけであった。
「………しかし、未だこちらの契約は切れていないのにもうサインだなんて…………」
「誰がサインなんかしたと言いました?」
「よく見て下さい。名前が記してあるだけでしょう」
一番左端で両腕を組んで大股に立っていた、日焼けしてはいるが恵比須みたくふっくらとした丸顔の重役が、Ct側の諦めかけたような弱々しい反論とも取れる声を聞いて、微かに口許から嗤いを零し、温厚そうな容貌{かお}に呆れと蔑みの雑じった感情を含ませながら、焦らない口振りで先方の早合点を柔らかに諭した。
「今、この眼の前にいる派遣社員君は、決して多言は弄しないが、その分、皆頑張って手と心を動かしているんですよ。手と心をです。わかりますか?」
「日々の作業の中で、一見何の変哲もないように思える小さな変化にも、此処に居る優れたスタッフ達はしっかりと気付いて、上手く対処したり報告したりしてきたんですよ」
「まぁ、いちいち具体例を挙げてたらキリがないですけどね。真剣に仕事に向かい合っている“姿勢”というものがですね、さりげないところからもひしひしとこちらに伝わってくるんですよ」
「私達にはわかるんです」
「だからこそ、今回中国に新たな工場が出来て人員を止むを得ず大量に淘汰せねばならないような状況に陥った時でも、おのずとそういった人達に対しては、肩叩きなんてしたくはなくなる」
「そういうもんでしょう?」
地球儀みたくでかい顔に似合わずアゴにちょび髭{ヒゲ}を気取って生やしたF工場の古株は、厳かな表情はちっとも変わらないでいたが、しかし、何分か前よりは全然、誠意のこもった眼差しと声色で、無抵抗にいま腰掛けている十数名の子羊の群れに助け舟を与えたかったその理由{わけ}を、腹に一物有るCtの二人に、威風堂々と大衆に語りかけるような調子で打ち明けた。
四方に形作られたテーブルの前にうつむき加減で腰掛けていた今日の主役たちは、魂の入った重役の語り口はもとより、今回の契約書は工場側が図らずも親身になって将来を憂慮、熟考してくれた末に訪れた好機なのだと改めて覚ると、不揃いにひとりひとりが照れ臭さそうにちらりと話し手の方を見遣りはじめた。なかには、思わず目頭が熱くなってしまったのか、しきりにまばたきをし始める者もいた。席の真ん中には、ひときわ眼を惹く、柔術家みたく周りの者と体型が一線を画する大男も、他の例に漏れず同じ心境に浸っていた。
隣の席に互いに並んで座っている誰しもが、逆境と順境の分岐点にいるような、また、謙抑と誇負の入り雑じった複雑な感情にとらわれていたにちがいない。図体はでかいが猫背であまり溌剌{はつらつ}としていない印象の男も、工場直属スタッフへの昇格は感謝してもしきれないという赤誠に満たされていたが、しかし、決して素直には喜べず、かといって必要以上に卑屈になるのも変な気がした。
(………認めてもらえたのは嬉しいけれども、………離れ離れになっちまうんだよな………)
(みんなとも…………)
職場で親しくしていた、一つ釜の飯を食った仲間といやがおうでも別れを告げ、もしかしたらもう永遠に会えないのだろうかという大袈裟な私情が頭を過{よ}ぎると、急に計り知れない淋しさも胸の内にあふれてきた。
蒼い天空の雲へ翔{かけ}てゆけるかもしれないという希望と、青い海の底へ沈みゆくだけかもしれないという暗澹。この二つの相反する気持ちが、水と油みたいに溶け込まず、両者は胸の内でしのぎを削るようにあらがい始めた。
この蔓{つる}のように絡みついて離れない葛藤がマイナスに働いて、やがて迷いの深い霧を作り、春のように明るい一縷の兆しを緩やかに覆い隠してしまったのであろうか。
その後、身分は僅かばかり格上げされたものの、F工場側の待遇はほとんどと言ってもいいほど旧態依然として変わらなかった。一部の派遣社員は勤務態度が社員並に立派であると心魂に徹した物言いをした、あの顎にちょっとだけ髭を生やした丸顔の重役も、正道をゆく想いを翻したように、彼らが工場直属の期間工として再出発した初日以外は一度足りとも姿を現さず、現場に対しても何ら干渉をしなかったのである。
(くそっ、………昔とさほど待遇も変わらないじゃないか…………)
あれから、どれくらいの歳月がいたずらに流れていったであろうか。
上長らにいちおうは優秀と評価され会社の下でじかに世話になり始めたほかの元派遣の工員達も、大人しい子羊のように自己主張に乏しいイエスマンばかりであった。
しだいに、工場側にとって都合の良い、飼い殺しの身分にあてがわれてゆくのさえ何の苦にもならないかのような、精力に欠けどこかもう人生をアキラメかけているみたいな表情でいつもマシンや製品とにらめっこしていた。
同じ作業の繰り返しを指示されても嫌とは言えない、そんなおっとりとして気の酔わそうな雰囲気を醸し出している子羊達は、たまには群れようとして幾人かの話し相手を作ってはいるが、決して開けっ広げではなく、どちらかといえば常にこぢんまりとしているほうで、友人と呼べるほど心安いモノではなかった。
肝が小さく女々しい雰囲気を放っているオトコ達が低いなりにも各々順応してきているなかで、人里を好まず山奥に隠れ住む狼のようにただひとり、交流の輪に入るのを避け自ら孤立を選んで我が道を歩こうとする旋毛{つむじ}曲がりな男がいた。
そいつは、見た目、三十五、六くらいの無精髭を頬いっぱいに伸ばした、力士みたく腹の脹{ふく}れた例のあの男であった。
男は、派遣時代の砌{みぎり}は仲間うちと泥臭い笑みを零したり駄弁ったりしていたが、一斉解雇というただ会社側の都合で無理矢理彼らと引き離されてからは、頑なにただ口を閉ざしてゆく一方であった。
別に表面上は、他の無抵抗な子羊君たちと同じく上役の指図には素直に面従していたが、その陰では合点のいかない理不尽な不満を吐き出したくて、しょっちゅう人気のないトイレに独りで入っては、あの重役共がやってのけた見せ掛けだけの演技をひたすら誹{そし}ったり、また、悔しさのあまり床に唾を吐き捨てたりもした。
正社員への道が開かれるのではないかと密かに期待していたのに、また、課長らも頑張れば社員登用も有り得ると口癖のように漏らしていたのにもかかわらず、まるで嘯{うそぶ}いていたとしか思えないあの連中の醜い表情のひとつひとつが脳裏に浮かびあがると、消してやりたいくらいに足でそれらを何回も踏み潰した。
所詮、みんな単純な演技に誑{たぶら}かされて鎖に繋がれた犬馬なんだと、そう簡単に諦めてしまうことなど到底できるはずもなかった。
まあ、そう思えば少しは楽になれたかもしれないが、より高きを求める心を慢性的な日常によって失いたくなかったのである。
そのくせ、愚痴ってもいいはずの職場で働く同じ身分の者にさえ、男はつゆほども関わろうとはしなかった。最初のうちはそれほどでもなかったが、やはり僚友と突如別れる羽目になったショックも響いたのか、しだいに心を氷雪のように鎖{とざ}し、他の工員とのココロの溝は拡がるばかりだった。
もともと人と群れるのが得意ではない純朴な子羊の連中も、猫も杓子も、大木みたく巨躯なあの男には捩{ねじ}くれた性質が宿っているのをいち早く悟ってか、腫れ物にでも触れるのを避けるかのように彼らはついには見向きもしなくなっていた。
そして、恐ろしく単調で、明日の見えない不安な日々が続くことになったのである。
寮の近くの市営プールでは、たくさんの水飛沫と一緒にはしゃぐ子供達の無邪気で陽気な声がいつの間にか聞こえなくり、気が付けばひっそり閑としてただ水だけを湛えた貯水池みたいになっていた。
やがて、更衣室の半開きになっている風窓からは涼秋の空気が柔らかに入り込み、敷地内の銀杏の樹々の葉は人々の心を癒すように優しく黄色に染まり、めずらしく乳イチョウが幾枚か今にも風に揺れて、清涼な空気のなかを軽やかに舞おうとしていた。
豊かな水と緑に囲まれた穏やかな町の景色はさらに蕭条{しょうじょう}として色褪せ、狭い裏路地に佇む小さな居酒屋の裏に置かれている小汚いポリバケツの蓋には枯れ葉がふぞろいに散らばり、深く帽子を被って煙草のけむりを燻{くゆ}らしながら歩くおやじの頭にもそれらがまとわりつくように掠めていった。
そして、北方に連なる山峰のてっぺんは神々しく厳かに雪化粧し、時おりその山々から吹きおろしてくる疾風は皮膚が凍てついてしまうくらい冷たかった。
やがてまた年が明け、弥生月に入り啓蟄の節気を過ぎて生命が育まれる季節が訪れると、工場へ向かう途中の大通りの道端に咲いている紫色のスミレの花がのほほんと土の中から華やかに覗かせていた。
太陽が沈まない時間は日を追うにつれ多くなり、工場の敷地内に立ち並ぶ十五メートルを超える銀杏の樹々の葉は見ちがえるように青々と茂り、初夏の爽やかなそよ風に気持ち良く枝を揺らしていた。
つい最近まで、アパート近くの緑がかって沼のように人気{ひとけ}のなかった市営プールにも、気がつけば再び数多{あまた}の子供達のお祭りのように賑やかな声が水飛沫と重なって陽{ひ}の落ちる時刻まで聞こえてきた。
工場から西に歩いて十分くらいの距離にある神社の境内には、毎年恒例の夏祭りを控え、こぎたない布をアタマに巻いたテキ屋の兄ちゃんらがだらだらとくっちゃべりながら露店用のテントを組み立てていた。
そして、旧盆を祝うその祭りも、なあんの変哲も無く無事に終わると、これまた昨年と同じくお決まりの涼しくなったねという表現があちらこちらに飛び交う秋がやってきた。
神無月に入り寒露の節気を過ぎると、夕暮れ時には盆地特有の放射冷却がひんやりとした空気となって、早くも人肌を突き刺すようになった。
冬の足音もコッコッコッとブーツで響いてきそうな晩秋の中頃、寂れてこぢんまりとした神社の境内には和服姿で綿飴をぺろぺろと舐めながら父母に連れられて歩く艶やかな女の子の姿が目に映ってくる。
やがて、夏の頃には夜七時を過ぎても遠く人里のはるか向こうまでうっすらと未だ白かった山巓{さんてん}も、夕方五時半を過ぎる頃にはもう黄昏の闇に包まれるまでになった。鮮やかな黄色に染まって大衆の心を惹きつけた銀杏の幾枚に及ぶ葉も、冬を告げる凩{こがらし}によって、アスファルトに覆われた地面に踊るようにみるみると舞い落ちた。
そして、北西の彼方向こうの群峯{ぐんぽう}が白銀をいつも纏う頃になると、寮を出てすぐの畑には朝方霜柱が立つことが多くなった。工場の敷地内も冬枯れして色褪せて見えたが、建物横に固まってある多くの排気設備からは季節に関係なくゴォーンゴォーンという低くうなるような音が四六時中耳に響いた。
だだっぴろい工場内では、幾筋にも重なって壁を這っている巨大なパイプに囲まれて、今日も変わらず無機質で様々な機械音があちらこちらで合唱していた。アクリル製で淡い青色の安っぽい作業着を着た、ひらべったい面貌{かお}の工員が無表情で黙々と目の前の作業を熟{こな}していた。
たとえ季節は移り変わっても、此処では、当たり前だがとりわけ何の変哲もなく、ただひたすら同じような時間ばかりが過ぎてゆくだけであった。いやむしろ、それがフツーであり、フツーのことが起きてゆく以外は、基本、許されない場所であった。
作業の流れも、各工程を通して造られる製品も、技術者の緻密な計算も、上長が工員に与える指示も、作業者の着実な動作も、正確な判断を行う人の心も、である。
また、澄まし顔した技術者がキャットウォークへ去ってゆく姿も、お昼時に自社株の話で持ち切りになる総務課の年配連中も、期間工を陰で蔑むかのように賞与がもらえた日の帰り、そっと後ろを振り返ってはほくそえむようににやりと嗤う社員の姿もまた、何一つ変わりはなく………………。
そして、今―――――
午後二時。
相撲取りのように形{なり}のでかい山内は、個々のベアリングに傷や凹み等が無いかを昨日と何らも変わりなく眼で追っている最中、ガムが有るのを想像しながら口の中でそれを噛む例の癖を、睡魔に負けまいと、他のスタッフが周りにいる前でも気にせずやっていたのであった。
昔なら慕われていた友人に幾度となく突っ込みを入れられたそのちょっとしたユーモラスな仕草も、今では誰からも顧みてはもらえず、以前であればどうにか抑えられた昼下がりの気怠い感じも、近頃では空回りするばかりで眠気覚ましの効果はほとんど皆無になっていた。
きっと、工員なんて思ったことをすぐに表現出来ない青二才な奴らばかりなんだろう。と、山内はそう必死で思い込もうとしたが、
(俺はひとの事言える身分なのか…………)
(いや、………別にそうじゃないけれども…………)
どろどろとした感情が、山内の胸裏に熱くたぎり始めた。
それを解決する道しるべすら、今は宙に浮いたままである。
(自由の赤い海を、………自分は探し求めているのさ…………)
(…………でもそれは蜃気楼や陽炎の如く、…………どこまでも追い求めるほど去っていってしまうのだろうか……………)
自らの髀肉{ひにく}の嘆が、厚くて重たい人権無視の壁によって強制的に移動の自由を妨げられていた、遡ること二十数年以上前の当時の東ベルリン市民の遣る瀬ない痛哭と重なると、溺れる者が藁にも縋りたがるような、あの息の詰まる想いにまたしても囚われ始めた。薄幸な運命に陥った彼等に哀れみを感じもしたが、それ以上にこの底辺から一刻も早く脱出したいと、男はもがかずにはいられないでいた。こんな時は、製品に欠けなどがないか、個々のベアリングと睨めっこしていても、思考はどうしてもマイナスの気を帯びてしまい、深い鬱屈の靄に包まれてしまうのであった。
「山内君、しっかりやってる?」
「寝ぼけてちゃ駄目だぞ」
突然、真横から冷やかしっぽい横槍が入って一気に眼が覚めると、あっけにとられたような表情で滑らかな若い声で話し掛けてきた男のほうに眼を遣った。
それは、逐一、作業の進捗の度合いや不良品と歩留まりとの割合を確認するため、定期的に随時、組立工程と検査工程を行き来しているTLの木多であった。
今日は組立工程にK工場から応援で臨時に二人入ったというので、朝からずっと退屈な眼で追うだけの繰り返し作業をやらされるハメになった。先日の朝礼時にかけていたいくらか安っぽい流行を追うような物とは異なり、その日は真っ黒い縁を粋に拵{こしら}えた高級ブランドであるシャネルのインテリジェンスな雰囲気を放つ眼鏡を光らせていたのに山内は気がつくと、やはりというべきか、あの嫉妬に近い感情が胸懐に煮え滾{たぎ}るように涌いてきたのであった。
(坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは、……………)
(全く皮肉なもんだな…………)
(やつが洒落{しゃれ}ているアイテムを身につけているのが、………なおさら神経に障るよ…………)
誤魔化しの笑いで濁しもせず、力無く首を縦に振りただ一言わかってますとうなずくと、木多は口元に嫌味な薄嗤いを浮かべながらその場を離れていった。そして、改変した作業マニュアルのファイルを片手に持っている検査工程のリーダーと左奥で雑談を交えながら業務の遣り取りをしていたが、ちらりと後ろを振り向いた山内は、
(………ちくしょう、あの狐野郎め…………)
ひとはみな、ひとりの人間を嫌うとそれに付随するすべての物も煙たく感じられてしまうのだろうか。
木多の眼以外にも鼻、耳、口の顔における位置や大きさ、それらの面貌{かおかたち}に様々な念{おも}いを映し出した表情やその微妙に変わりゆく変化、声色やその何か話す際の早さ、時々、指で顔の一部をいじくる等ちょっとした仕草や、はたまた、繰り広げられる会話の内容までもが、厭わしく思えて仕方がなかった。
「---あのさ、栗野君。あ--俺、---いちから第--の--階で会---が----から-------」
「-------それでさ、-----例の---あの------出来ないから-------」
形も色も同じ円形で冴えないねずみ色のベアリングを一個一個ぎこちなさ気に手に取ってマイペースで目視していたが、それと同時に、現場から次第に棟入口の方へ去りながらも話し合っている二人のTLの喋り声が途切れ途切れに、意識せずとも耳に伝ってきた。
(…………例の、………あの…………出来ない…………?)
(何が、…………出来ない…………?)
(…………誰が、………出来ないんだ…………?)
(…………もしや……………)
暗がりから牛を引き出すかの如く、手と眼は遅々としていても絶えず動かしてはいたが、頭ん中は気にしなくてもいい筈{はず}の瑣末{さまつ}なことに縛られ始め、やがて、それは何の根拠も無い疑心暗鬼へと変わってゆく。思考の歯車は、マイナスへ流れるほど入り乱れ、作業をする為に欠かせない沈着な心持ちはみるみると失われていったのであった。
碧空の広大なキャンパスには今日もまあるい太陽がひとつ孤高に描かれ、幾度となく吹き荒れる北風にも負けまいと、燦々{さんさん}と降り注ぐそれの光は絶え間なく地上を柔らかに温めようとしていた。
そんな、外の景色は昨年と何らひとつ変わりは見られなかったが、工場直属の期間工になってはや二年目の冬を迎えていた。
山内は、もうさすがに仕事に対する箍{たが}が緩んでいるのは言うまでもなく感じていたが、しかしそれ以上に、暗鬱とした妄想の暗い海にひとりでに潜り込んでしまい、そこから容易に抜け出せずもがき苦しむ時間が以前よりも顕著になってきているのに気付いていた。
(…………このまま、東ベルリン側でつゆほども抗{あらが}えずに、ただ静観するしかないのだろうか……………)
(…………ノイエ・ヴァッヘで収容された数多の犠牲者も同じことを……………)
釣瓶が落ちる秋の頃よりも暮れ泥{なず}むのがさらに早くなった師走の帰り道、雑草が茂るばかりの真冬の蕭然{しょうぜん}とした畑が目の前に見える大通りの端っこを、いつものように寄り道もせず錆色のママチャリをゆったりと漕いで寮へと向かっていたが、霄壌{しょうじょう}の差と開いてしまった同年代の働き盛りの人達とつい比較してしまうと、心の中は始終強いコンプレックスに苛まれるのであった。
(…………あぁ…………)
(柳に風と受け流せればいいんだけれど…………)
山椒{さんしょう}は小粒でもぴりりと辛いとは言うが、尚且{なおか}つ、とかく狡猾に感じられるあの憎々しいTLの顔がちらりとまた頭をかすめると、アキラメと怒りの念の入り雑じった溜め息を大きく洩らした。
木多がこちらに赴任してきてすでに半年が経ったが、運動場みたく横幅の有る工場内に幾筋も連なって張り巡らされている巨大なパイプのごとく、意外に図太く人脈を拡げようとしている点も打算的に思えて山内は気に食わなかった。器用なリーダーゆえに社交辞令はおてのものなのにちがいない。
(…………要領の良さってやつは、…………)
(時に人間{ひと}を傷つける武器にもなるのさ……………)
…まあ、彼の独り善がりな憶測も多分にあるのだろうが、上長の前で作る計算じみた愛想笑いはもちろんのこと、食堂での各課の上役同士や総務の年配連中と席を共にする際の諂{へつら}うような表情や媚びるような眼、阿諛する喋り声、また、外来客に対し各工程内を同行して案内する時に垣間見られる太鼓を叩くような口振り、休憩中何気なしに応接室の前で目の当たりにした、賓客の鼻息を窺うような手抜かりの無い振る舞いなど、どれ一つ取ってもみなあきれてしまうくらい要領を得ていた。
そしてそれらは、名残惜しくも去っていき、一別してからは未だ会っていない莫逆の友や、実直で不器用な気質の男には真似の出来ない処世術でもあったのである。
(………だけど、…………あいつだけじゃないんだ…………)
(…………東ドイツにおける境界を封鎖するという噂の真相を確かめようと、…………ドヘア記者の質問に対し嘯{うそぶ}いた、………あの…………東ドイツの指導者であったウ゛ァルター・ウルプリヒト人民議会議長だって……………)
(………壁なんか造らず、…………建設労働者には住宅建築に全力を注がせると公言したくせに、……………それなのに……………)
(………もう、…………誰も彼もだよ…………)
山内はアパートに戻ると、無造作に鞄{カバン}を床に放り投げるやいなや身体ごと白塗りの壁にぐったりともたれ掛け、卓上を思いきり拳で力強く二回ほど叩いた。
突如、むしゃくしゃとした気分に駆られたからである。
以前は職場の人気のないトイレで、溜まった鬱憤を晴らそうと陰湿にもそこの床に唾を吐き捨てたり、腹立たしい輩の名前や渾名{あだな}を殴り書きした紙を足で踏み潰したりしていたが、今ではそんな馬鹿げたむなしい時間に我が身を費やす代わりに、自室に籠{こも}っては遣り場のない怒りや悔しさを物に当たったりアルコールを存分浴びたりして紛らしていた。
派遣時代には数え切れないくらい、休みの前日ともなると十キロほど離れた市街地の飲み屋を二軒、三軒と、呂律が回らなくなるまで僚友らと梯子{はしご}酒を交わしたり、またある時は、数種の酒やツマミを最寄りの行きつけのコンビニで子供のようにはしゃぎながら買い漁り、アパートの一室に戻るとみんなで乾杯してはそれらを飲み食いして、心ゆくまで打ち上げ花火のごとく、ぱあーっと春の夜の夢のようにに酔いしれたのであった。山内は茹蛸{ゆでだこ}のように真っ赤になるのが早かったが、他の悪友達はそろいもそろって飲ん兵衛ばかりで、とうてい麦酒の缶だけでは物足りず、日本酒や焼酎を幾杯も盃{さかずき}に干してはべらんめえ口調で社員の連中を罵ったり、呵々{かか}大笑しては世間話に花を咲かせたりしていた。酔いで気持ちがいったん解{ほぐ}れれば、常日頃とりわけ感興も誘わないどんな話題でも味のある肴{さかな}へと変わっていった。おとといの日替わりランチは味付けが薄かったであるとか、道路工事の兄ちゃんが被っている黄色いヘルメットに卍{まんじ}の模様が微かに彫られていたとか、鉄製の作業用通路に技術課の定期メンテナ
ンスの用紙が皺くちゃになって一枚落ちていたなど、素面{しらふ}では気に留めてもすぐ忘れてしまうようなちょっとした会話の種も、皮肉雑じりの滑稽な解釈や面白おかしい婉曲的な表現によって、風船玉のごとくそれらはみるみると膨らんでいったのである。そんなこんなで、八畳半ほどの独居部屋には馬鹿笑いが頻繁に谺{こだま}して、飲み食いのためテーブルはとかく酒瓶や缶、食器皿などで散らかり放題となっていた。
(………ああ…………)
(………あの頃は愉快だったなぁ…………)
(……高さん、縄ちゃん…………)
(みんな、………いつも色んなおつまみ取り合っては、………絨毯{じゅうたん}の上にぼろぼろとこぼしていたっけ…………)
(………いや、胃袋に入れまくった日本酒なんか、…………帰り際トイレにぶちまけて下に敷いてあったシート………汚したコトもたしかあったよな…………)
黒い染みがところどころゴマ粒のように付着した天井と、その中央に有って円い輪っかの形をした鈍い明かりを放つ蛍光ランプを空ろな眼でぼんやりと眺めながらただひとり、左手に銀色の缶をぎゅっと鷲掴みにして今夜も頬をどぎつく赤らめている自分がいた。
心臓の鼓動が、ドラムを打つように激しく身体のほぼ真ん中で響き、両腕や手首においても皮膚の中から飛び出さんとするかのように動脈の震えが平素より強まっているのがわかった。
それでも、下戸を除いた多くの人間達は、この肉体に感じられてくる違和感に怖じけるどころか、むしろ、言いようのない特有の心地良ささえ覚え、それまで抱いていた嫌悪や憂鬱の雲霧もいつの間にか知らずのうちに消え失せて、気がつけばこれといってわけもないのに、一種の快楽じみた精神的な開放感に浸るのである。
酒は百薬の長ということわざが巷{ちまた}で知られているように、酒の持つ魔力は人間を簡単にその擒{とりこ}にしてしまうものなのである。
これも、相通じる仲間と親睦を兼ねて喜悦の表情でグラスを交わし合う時でも、日々の疲れを癒す目的で軽く嗜む時でも、あまり過ごさなければ、それは名の通り健康にも良い酔い薬として活きてくるに違いない。
塵境の諸人{もろびと}はさすがに、葷酒{くんしゅ}山門に入るを許さずとはいかないものである。
がしかし、独酌が癖のようになってしまっては、酒を飲むならまだしも逆に酒に呑まれてしまっては、かえって肝臓に負担を強いるなど不健康を助長するばかりか、精神状態のリズムも大幅に狂ってしまいかねない。
いかにも分別臭い面貌{かお}した人生の老練者の多くが、屋敷や自宅の孤城にひとり閉じこもっては、また、烏合の衆で犇{ひし}めく居酒屋などで酔いどれになるまで深酒に身をゆだねてしまう機会が世間ずれしていない若者に比べて少なくないのは、見方を変えれば彼らが酒に多く頼らなければならない心の傾向を持っているともいえるだろう。
そう考えると、実に不憫{ふびん}でもある。愁いを忘れたくて、好きな趣味が高じて、つきあいという人間関係を重視するあまりしかたがなくてなどなど、何故{なぜ}呑まれるほどに酒を浴びたくなるのか、との問いに対しては十人十色いろいろなぼやきが聞こえてきそうではあるが。
何を隠そう、濁りかけたランプの下でたったひとり、ビールの缶を握り潰すように片手に深く持ちながら茹蛸{ゆでだこ}のように顔を真っ赤にしている山内も、ここ半年あまり酒に操られてきているといってもおかしくはなかった。
べったりとあんころ餅のようにでかい尻を壁ぎわにおろしていたが、すぐ前の小さなちゃぶ台の上には、すでに飲み干した三五○ミリと五○○ミリのアルミ缶がそれぞれ2つずつぺちゃんこに凹んで転がっていた。
そして、時にアゴをしゃくりあげてはぐいっと一気に、時には啜{すす}るようにちびちびと、緩急自在に麦酒やカクテル、さらには、アルコール度数の強い果実酒や洋酒にまで手を付けずにはいられなくなっていた。
おのれでも確かに、飲む量や回数が昨年に比べ増えてきたのは承知していたが、頭ではなんとなくわかっていても、コンビニやスーパーなどでアルコールの類が並んでいるコーナーの側を通り掛かると、山内は、“酔魔”の誘惑に対しついに首を横に振れず、あれもこれもと欲するまま買い物かごの中をスキマなく満たしてゆくのであった。
(…………オレの心を唯一、……和ましてくれるは、…………もうこれしかないんだ…………)
指先の凍てつくような冷たい雨の降りしきる夜零時過ぎ、翌日からまた勤務が始まるというのに、ぶかぶかの黒いダウンジャケットに身を包んで、県道沿いのコンビニから住宅街のあるほうへこそこそと人目を避けるように、傘で顔を隠しがちにしながらも早足で帰路を急ぐ冴えない男の姿がそこにあった。
速める足取りを嘲って焦りを煽るかのように、暗い夜道の窪みにあちこちにできた水溜まりが行く手を細かく阻み、時々あやまって浸かっては靴下まで冷たい水に濡れた。男はそのつど表情を歪ませたが、それでも心の奥に絶えず残るわだかまりに比べれば屁でもなかった。
鬱屈とした面持ちのまま部屋に戻り、雨に濡れたダウンジャケットをその場に脱ぎ捨て、空のリュックサックも隅に放り投げると、彼はいつものようにでかい身体を白塗りのビニルクロスの壁に凭{もた}れかけてちゃぶ台の前に座り、魂の抜けたような眼でみすぼらしい部屋を鈍く照らしている蛍光ランプをぼおっとまた見つめた。
そして、言いようのない深くて重たい溜め息を一回吐いてから、たった今買い漁ってきたばかりのアルコール飲料の一つを気散じのため手に取ると、恐ろしく早いピッチで三五○の缶を空にした。つまみのスルメはほとんどど口にしない代わりに、麦酒や混酒を交互に味わうため、顔はみるみると火が点{つ}いたように赤らんでゆく。ほろ酔い機嫌を楽しむため、アップテンポでうねるような旋律{メロディ}が特徴の、さも幻想や催眠状態を呼び起こすかのような電子音楽をコンポに流しながら、自分だけの世界に入るのを何よりの酒の肴にしていた。
時はすでに、丑三つ時にあたる二時半を少し廻っていた。さすがに欠伸{あくび}が牛のように絶えず出てきて、その日は倒れ込むように布団を被ったが、明くる日もその次の日も心がアルコールを求めて止まない日が続いた。
本人はさほど意識しなかったが、やがて月のうちで顔が赤くだらし無く染まらない日は数えるほどになり、寝不足や頭痛、吐き気などの二日酔いの症状を翌日の勤務日に持ち越しては、寝癖頭に窶れた表情のまま仕事場に出向くというのも茶飯事になっていった。
朝いちの全体での会合が終わってから作業に取り掛かった直後など、単調な検査の繰り返し作業でさえ頭のネジが外れたように覚束{おぼつか}なくなる事もあり、そういう時に限って、あのキツネみたく鋭い眼をして狡猾な臭いをぷんぷんと漂わせる木多が、いちいち巨躯の男のそばに忍び寄ってはおちょくるように咎めてくるのであった。
「山内、身体は壊れたロボットのように動いているけど、生きてるか?」
「だいじぶ?」
(………ちっ、…………糞、…………小馬鹿にしやがって……………)
こんな時、山内は決まって激しい憎悪の念に駆られた。
上司に対する不信や、職場での孤立、能力さえ見出だせない容易な仕事、将来への漠然とした不安、理不尽な社会に対しての失望……あらゆる方面から、小さなストレスが積もりに積もって、男は誰もいない休憩室でひとり爆発しそうにもなったが、幾人かの女子がおしゃべりしながら廊下を伝ってくる足音が聞こえると、臆病風に吹かれたのか、すぐに猫背中をさらに蹲{うずくま}るように丸めて両膝の上で顔を伏せてしまった。
柔術家のごとくずっしりとしている身体とは対照的に、蚤{ノミ}の心臓みたく気が弱くて繊細な気質の持ち主である彼は、外部の小さな反応においてもいやおうなしにいちいち敏感に察してしまう。それは自身でも厭になるくらいに、奇麗なコトバでいえばデリケートなのであった。
たとえを挙げるなら、それがしの後ろをおとなしい同じく元派遣の子羊の連中が数人固まって歩いている時の気配や、黙々とみな、作業に集中している時に機械音に雑じりながら微かに聞こえてくる上役同士の会話、食堂など大勢の者が一斉に集まる場所において、見知らぬ者と何気なしに視線があった時に感じる一瞬の感情、喫煙室で腕組みをして眠ったふりをしている時、駄弁っていた工員の族{やから}が静かに其処を離れていった時の冷ややかな空気、また、職場内でなくとも、下校途中の女子高生の群れなど、道ゆく人達と擦れ違った際に聞こえてくる飾り気の無い笑い声、コンビニで雑誌やマンガをうつきながら立ち読みしている時、背後のレジで立ち尽くしてこちらを窺っているかのような二人の店員の視線などなど…、至るところで自分だけが低く見積もられ蔑まれているかのような、そんな独り善がりの被害妄想に駆られては無意識のうちに眼は俄{にわ}かに涙ぐんできて、そして結局、悲観の泥沼に嵌まっていっては容易に抜け出せずに苦しんでしまう自分がいるのだった。
この快、不快を左右する感受性が、多彩な絵画や彫刻に戯れ人々の純真な心を魅了したピカソや、感情表現の旋律{メロディ}をどこまでも追求したベートーベン、また、鋭い観察眼で人間の奥深くに潜む心理的描写を筆に著したシェイクスピアなどのように美術や音楽、文学など芸術の分野で活かせればこの上ないのだが、生温い俗世間に暮らす多くの凡人は、こうした能力の芽を見出だすのはおろか、かえって、この性質が強ければ自己表現が上手く出来なかったり、一時何かの拍子に奇抜さが認めらても変人扱いされたりと、日常生活において心の枷{かせ}となってしまいコンプレックスを抱いてしまうという負の側面も多分に現実には有るのだ。
当の山内も決して後者の例にもれず、生まれ持っている感受性とやらは裏目に出てばかりで、それに加え、もう些細な愚痴でさえ今は人にこぼすのを躊躇{ためら}っている、そんな端からみれば冴えない、うだつのあがらない男なのであった。
眼に見えない何者かによって、無情にも、前者とそうでない者とにえり分けられているのであろうか、とさえ思えてくる。
運命の気まぐれな波に掠{さら}われてまで、この儚{はかな}き人生において努力する価値など果たしてどれくらい有るのだろうか。
入った当初から数年前までの始動するエンジンみたいに溢れていたやる気もどこかの彼方にいつしか消え失せて、たいして今は己に磨きもかけず漠然とした毎日をただ送っている山内には、この問い掛けが最もしっくりくるかのように思われた。
山内は、どちらかといえば無神論者のほうに近かったが、それでも、この人生はもしや天の神とやらに操られ弄{もてあそ}ばれているのではなかろうか、全ての人間は、網目の大きさが不揃いに異なる篩{ふるい}に容赦なくかけられ、運良くその振動に負けず堕ちず網目にしがみついて残された者だけが、この世において優遇される得な生涯を与えられるのではないか、なんていう此岸の世界しか認めない学者等からは嘲{アザケ}りの嗤いが聞こえてきそうな、そんな奇妙奇天烈で神の存在を素直に肯定しうるような想いをも張り巡らせたりもした。
がしかし、そんなちょっと風変わりで独り善よがりにしか過ぎない空想も、海水のように塩辛くて逃れるに逃れ得ない厳しい現実の前に、男は無力だった。
いやむしろ、天にも見捨てられたのではないかとさえ思えるほどに、ひどく絶望感にさえ駆られてくる始末であったのだ。
(………いや、何処に住んでいようと…………)
(………どこに住んでいようと、…………すべての自由な人間はベルリンの市民なんだ…………)
(………ベルリンの市民はすべて自由な人間なんだ…………)
(すべての自由な人間は、ベルリンの市民、………ベルリンの市民はすべて自由な人間…………)
(嗚呼{ああ}、…………ベルリンの市民よ)
(………自由なすべての人間達よ…………)
冷戦真っ只中の一九六三年の夏、西ベルリンを囲む鉄条網による壁が敷かれて二年程経ったこの年の六月、獅子のように凛々しく整った黄金色の髪に血色の良い肉厚な容貌{かお}をたたえて、移動の自由を束縛された当時の憐れむべき国民に対して演説を行った、あのジョン・F・ケネディの力強く胸の内に響く名ゼリフを、山内は呪文のように心中で繰り返して、悲観の湖に沈んでしまおうとする我にどうにか必死で言い聞かせようとした。
東ドイツにおける人道を踏みにじるような社会主義政策に堪えきれず、知的層や熟練労働者らは壁で塞がれる前に西側に逃亡した者も数多かったが、それ以外の富裕層を除いた小市民はといえば、厚い人権無視の壁が街をどこまでも囲んで重くさえぎった後でも、それに決して泣き寝入りなどせず、果敢に飛び越えようとして国境警備隊員に捕まり無惨にも命を絶たれた者も少なくなかったのである。国家権力の憎むべき凶弾に幸い斃{たお}れなくとも、身柄を止むなく拘束され顔を醜く顰{しか}めた者は実におよそ三千人にも及んだ。この非情な東側の仕打ちに対し、鷲みたく精悍な顔つきで、東ドイツ国民の憂いに同情し無条件に自由である旨を宣言し、人の子を見守る主のように温かく包み込んだその勇姿を、あたかも実際に他の大勢の聴衆にあたるプチブル達と同じく、哀れみを乞うような物悲しい眼差しで米大統領の演説に耳を傾けていたかの如く、山内は、幾度もその場面を思い描いては、意地でも脳裏にその偉大なる光景を焼きつけようと試みた。
それが唯一、今の彼を慰めてくれる、遠く懐かしい追憶のような気がしてならなかった。
(………きっといつか、…………俺達にも巡りめぐって……………)
長く孤独でいる時間やそれに伴う精神的な疲れを紛らすため、あれやこれやと散らかり放題のむさ苦しい部屋で今夜もひとり、山内は愁いや蟠{わだかま}りを仕方なくも肴{さかな}にしつつ、例の華やかな旋律{メロディ}を奏でる電子音に陶酔しながら、嫌な思いを知らず知らずのうちに麻痺させてくれるアルコールの魔力に酔いしれていた。
(あぁ…………ずっとこの酔いしれる感覚でいられたらいいのに……………)
すでにはや、寝床の黄緑色をした時計の針はもう三時を指そうとしていた。にもかかわらず、あぐらの格好をして寛いでる小机の真下には、洋酒が二缶と辛口麦酒が一缶、未だ転がっているではないか。
額や頬、アゴから首にかけて顔全体は、まるで唐辛子のように真っ赤に変わっていた。胸を打つ鼓動は太鼓を叩くように激しくうな唸{うな}るように聞こえてくる。もうさすがに布団を被{かぶ}ろうかと、重い重い腰を起こそうとしたが、孤立の断崖に立たされる悪夢のような夜明けが再びもうすぐ訪れてしまうのかという異様なほど強烈に感じる不安が脳裏を掠めると、アルコールに奔{はし}りたい衝動に結局打ち勝てなくなってしまった。
揚句の果てには、その場で意識がなくなるまで酒に呑まれるようになってゆく。
そして語るまでもなく、工場には気分や調子が優れないという口実で休みがちの日や、また、太陽が西へ沈まないうちに早めに正門を後にする日も少しずつ目立つようになってきた。長身だがどこか間の抜けたような面長顔でおっとりした感じの例の弁当屋の兄ちゃんが、毎回のようにギアを噛ませて左折してきてのろのろと遅いスピードで構内を走り出す頃にやっと、眠たそうに眼を擦ったり欠伸{あくび}をしたりしながら自転車置場に辿り着くと、深い吐息を幾度も吐きながら大幅な遅刻に対し何と言い訳しようかと、蓬髪のボサボサ頭を掻きむしりながら検査工程のある第三工棟までトボトボと一人歩いて向かう日もあった。負けじ魂など薄れてしまったどころか到底有るわけもなく、決まりきった単純作業や微塵も会話を交わさない職場の連中、さりげなく遠くから見張られなにかと文句をつけては不快な気分にさせる上長など、ただもう何もかもみな苦痛でしかなかった。
他人はもとより、見る物すべてが憂鬱で息苦しく、そして、三十路をとうに過ぎたのに未だ宙に浮いたままの人生を歩んでいる自分という存在さえも頼りなくて醜くて、いっそシャボン玉のように地上からあっけなく消えてしまいたいと始終、天から運命を操る誰かがいると想定して念じたり小声で呟いたりもした。
また、どういう訳か、両眼が知らずのうち涙ぐんでくるのも辛かった。胸の内で絶えず四六時中抱えている不安や迷い等のストレスを大脳が中枢神経系を通して敏感に感じ取り、言葉には出さずとも表情を通して外部に訴えさせようとしているのであろうか。
彼自身は当然ながらそこまでは思い至らなかったが、ふいに襲ってくるこの不可解な現象に対しいつ起きるのか予測も立てられず、また、実際に起こってから己で抑制が効かないのに恐怖さえ感じてしまうのであった。
(………畜生、まいったな…………)
瞳孔に水っぽいモノが溜まってくるのに違和感を覚えるのとほぼ同時に、山内は周囲にいるスタッフの視線が異様に気になり始める。それまでほど良い具合に自分の世界に閉じこもっていられたのが、眼の表面に液体が含まれてくる感じがわかると、忽{たちま}ち心境は一変し、製品を手に取りひたすら目視を続けている作業工の全員が、こちらを興味ありげに代わる代わる頻繁に一瞥してきているような錯覚に囚われてしまうのであった。
まるで、人が困っているのを面白がっているような、あるいは、そうでなくとも嘲っているような、そんな仕事における直向{ひたむ}きさを踏みにじるが如き気配があちこちから感じられてくるのであった。
だがそれは、山内だけの思い込みで、決してすべての者が冷ややかな眼つきでいちいち涙ぐんでいる男のほうを窺いはしていないのであった。ただ一部の工員は、潤んで今にも雫が頬に滴り落ちそうにも見えるその眼{まなこ}に気が付いたのかただちらりと見遣りはしたが、当人が忌まわしく受け取るほど関心も何も蔑みの感情などはとりわけ抱いていなかった。
電車に乗っている時、相向かいに腰掛けている者がなぜだか理解{わか}らないが、自らのほうをずっと凝視していたり、意味ありげな薄嗤いを浮かべていたりしているときのあの嫌あな感じ。
誰しもが一度は遭遇するけれど殆{ほとん}ど記憶には残らない、でも日常では起こり得るあの非常に些細な体験に似通ったものを、繊細な神経の持ち主である山内の脳裏が常に呼び覚ましてしまうのであろうか。
こんな時は決まって、いつも某{なにがし}かの良からぬ念{おも}いに駆られ、彼は様々な事物を狭い角度からでしか考えられなくなってしまう。
元来の内向的でマイナス思考な性格も災いしているのだろう。
そしてさらに、追い打ちをかけるかのように、近頃では木多に対する例の葛藤や煩悶も重なり余計にその傾向は顕著になってきた。
深酒で勤務をすっぽかした日の翌日や他の工員達より大幅に遅れてタイムカードを切る時刻が遅い日に限っては、拝まない日はないといってもいいくらい、小賢しくて気障っぽい面をした上役が組立工程からやって来ては、もうすでに本音を見透かしているのか、にやにやと嫌味な嗤いを時おり表情{かお}に浮かべながら、毎回おちょくるように言葉をころころと変えては緩やかに詰問してきた。勤務態度を指摘されるのは到底致し方ないが、度を越えて不愉快な気分を催させ、また人としてのプライドをも傷つけるような物言いが兎角{とかく}許せなかった。悔しさと憤りの情が一気に沸き起こり、その場でTLを突き倒したい衝動に幾度も駆られたが、彼の内にある良心やモラルといった自制の要素が真面目な彼をして多分に働き掛けるがゆえに、傷害などの事件沙汰にはこれまで発展せずに済んでいるのだ。
しかし、その代償としてのストレスは次第に半端ではなくなり、仕事中も頭痛や胃痛が起こるほどに膨らんでいった。
にもかかわらず、様々な不平や気迷いに苛まれる時間が多いわりには、胸の内の狭い箪笥{たんす}にそれらを秘めっぱなしで、外部に愚痴をもらしたり相談をしたりする友人や知人は誰ひとりとしていなかった。
幾度も繰り返すが、憂いの捌{は}け口として最もウエイトを占めていたのはといえば、やはり酒に呑まれて嫌な感情を拭い去ろうとする方法であった。
前述した通り、下戸を除いた大概の人間は、埋められない心のスキマを紛らわそうと、アルコールの持つ“一種の魔力”を利用しようとする。その時間がおのおの多かれ少なかれ、社会で上手く処世してゆくために料理屋などでビールや日本酒を酌み交わすのは、俗世間一般では暗黙の了解ともなっているのは言うまでもない。その席で気の合う莫逆の友らと酔いしれて緊張を解{ほぐ}せれば、それは、“酒は百薬の長”という名句が示すように、坐臥における潤滑油と充分になり得るであろう。
がしかし、幾ら社交上とはいえ、またそれとは別に、ひとり部屋に籠って独酌に浸る場合でも、度を越して浴びるようにそれに馴染んでしまってはカラダに負担が掛かるばかりか、精神にも害を及ぼしかねないのは決して否めないのである。
“アルコールに取り憑かれたせい”で、現に、憂鬱や無気力になる時間や程度が一年前と比べ甚{はなはだ}しくなっているのに、山内自身は気付いていなかった。
とりわけ、熱中する好尚もなく遊び心に欠ける彼であったが、昔ならたといわずかでも興味をそそる事物にさえ最近は倦むようになってきていた。
それゆえ、目的意識もなく、ただ荏然{じんぜん}として日々が過ぎていったのである。
ちょっとした暇つぶしにと、コンビニで買い揃えたクロスワードや漢字パズルの雑誌も、いつの間にか窓際の片隅に幾冊か束になって放置されっぱなしで、表面にはうっすらと埃が覆い被さり始めていた。だらりと寝転びながら帰宅した後や休日にリラックスして聴いていた洋楽や邦楽のCDも、今は絨毯{じゅうたん}の端っこにふぞろいに重ねてある飾りだけの存在になってしまっていた。
夜、一人きりの淋しい部屋で、山内は体育座りのような恰好で両手で頭を支えて仰向けになりながら、真上で冴えない明かりを放つ棒状の蛍光ランプをぼおっと物思いに耽るような眼つきで見つめている自分に気づいた。
いま少しで切れかかりそうなそのぱっとしない電球は、理不尽な社会の柵{しがらみ}に家畜のように縛られ、幾らもがいても微塵も変わりようがない暗澹とした現実を象徴しているかのようであった。
暦{こよみ}は立春を二十日ばかり過ぎ、二、三日ほどは、小春日和のぽかぽかとしたひだまりのような温かい空気がガラス越しに感じられたが、ふと深夜、昨日とはどこか違う異様な静けさに頭を傾{かし}げて冷んやりとしたベランダの窓をそっと開けると、真っ黒に塗り潰された夜空から、ちり紙を細かく砕いたような水っぽい牡丹雪が無数に舞い降りていた。
ぽっかりと半開きになった口元から真っ白い息をのぞかせながら、山内は、雪よりもまず果てしなく深く広がる闇に包まれた曇天のキャンパスにしばしのあいだ吸い込まれていた。外は零度を下回り身震いしてしまうくらいの気温であったが、肌に染み入る寒さも忘れて、滾々{こんこん}と夜更けの空から落ちてくる白い結晶の舞いに幼子の如く魅せられたのであろうか。
一切の万物を包み込むかのような境目なき天空と、数え切れないほど地上へとやってくるふんわりとした雪片、という明暗のコントラストの妙に、萎えた気分はおのずと和らいできたのかもしれない。自然が与えうる癒しの光景に思わず安堵感に浸ることができたが、しかしそれも束{つか}の間、凍えるような外の寒さに我に返って窓とカーテンを閉めてから敷きっぱなしの布団の上に倒れるように寝転がると、夢心地から醒めたかの如く再び鬱屈として重苦しい気分になり、あれもこれもと腐心せずにはいられなかった。
日を追う毎に痛む過去の痼{しこ}りは、束子{たわし}で擦って消える水垢のように決して脆弱なものではなかったのである。
頭の中のグラスは憂いの水で溢れかえっていたのであろうか。
もはや、他人の心良きアドバイスは疎{おろ}か、軽い冗談話にも不快を示すほどに性格は歪み、他者との関わりは頑なに拒む一方になっていた。
かといって、己の生きる道しるべや人生哲学を貫徹したいわけでもなく、いや寧{むし}ろ、おそらく、無意識のうちに拘泥してしまって行動や思考の枷{かせ}となっているその偏執する我から脱却したいという望みのほうが強かったのである。
そこらで飼われている犬や猫などのペットと同じく、漫然とただ食って寝て起きてはの味気ない日々が、これからもずっと続いてゆくのだろうかと、渇いた眼つきで壁の一点をじっと見遣ったまま荒い鼻息とともに肩をがっくり落とすと、ますます自暴自棄な気分に駆られてくるのであった。
“後は野となれ山となれ”
という投げ遣りな念いが一気に胸の内を支配し、それに比例するかの如く、胃や肝臓を困憊させるアルコールの量は増していったのである。
酩酊感に我を忘れて空想や妄想の世界を彷徨{さまよ}うのが、情けなくもこの男の日課みたくなって、それが唯一の愉しみと化していた。彼にとっては、瓶であると紙パックであるとを問わず、酔いの魔力に溺れられるのであれば、みな緑酒に違いなかったのである。
お菓子みたいに数百円で手軽に買えるそのドリンクを、ここ最近は必ずと言っても良いほど買い占めて、ニヤニヤ顔で店を出たが、そのくせ左手のほうはといえば、レシートを悔しそうに握り潰していた。
もともと金遣いは下手なほうで貯金もろくにせず、アルコール以外では主にコンビニでのだら喰いや雑誌などに小銭を叩く浪費癖が止まない男であったが、精神が乱れ気味になるとますます、この芳しくない傾向に拍車が掛かってくるのであった。
そのくせ、おもしろいことになぜか自身の口座の残高照会はしょっちゅう確認したがる小心者であり、この相矛盾する行動に対し、当の本人はといえば、何らおかしいとは感じていなかったのである。
とかく、生活の歯車を著しく狂わせているのは、過度のアルコール摂取が深く関係していると、健常者から見れば一人足りとも疑いはしないであろう。
しかし、山内はこの見逃せない変わり様をたいして気にも留めず、酒豪に匹敵すると口外しても不思議ではないほどに、昔の彼では有り得ないくらいの量を飲み干していた。
ただそれは、決して酒が心底好きなわけではなく、酒に操られなければ憂鬱や不安等の強いストレスに耐えきれず、なおか且つ、上手くそれらを解消出来なかったからにほかならないのは言うまでもあるまい。
だが、それにしても、日頃の職務に支障をきたすまでアルコールに嵌まってしまうとは予想だにしなかったであろう。
直接は関わりを持たず、道端で擦れ違えば会釈を交わすだけの顔見知りしかない地元の人達からも常に、こそこそと根も葉もない噂をされていたり、背後から冷ややかな嗤いや目線を送られていたりしているのだと、被害妄想の解釈の範囲や程度はアルコールにさほど染まらなかった昨年の冬よりも確実に進行していたのだ。
まあ、現に、でっぷりとして恰幅{かっぷく}の有る体型はもとより、不精髭を頬いっぱいに雑草みたく生やして、黒縁の眼鏡のレンズを真っ白に曇らせながら店内に入って来る山内のだらし無く間の抜けたような姿をコンビニ等の入口で見かけた女子学生らが、たまらず吹き出したり小馬鹿にするような半句をこそこそとこぼしたりしていたのも、あながち思い込みばかりではなかったのだが。
しかし、それでも、極度の人間不信に陥ってしまったのは確かに生来の神経質な性格も手伝っていたのだが、それに加えて、飲酒の習慣化により慢性的な鬱状態から抜け出せなくなってしまったのも大きな一因なのである。
日頃のストレスに対し、スポーツで汗を流したりカラオケで声を張り上げたりするなど発散のやり場を上手く作ることができず、アルコール飲料に頼り過ぎたのが更なる堕落への道を歩む結果となってしまったのである。
アルコールの酔いにより一時だけは心地良くなっても、また明くる日、職場で気障っぽいTLに厭味な発言をされたり合点のゆかない注意をされたりして晴れない気分のままアパートに戻れば、再びウサ晴らしのため夜な夜な身を隠すようにしてひとりコンビニへとおもむき、酔いしれる為のドリンクをありったけ買い込んでは亦{また}、こぢんまりとしてむさ苦しい部屋で丑の刻を未だ過ぎても、片手に持ったアルミ缶を柔らかに握り潰しては茹蛸{ゆでだこ}のごとく顔を赤らめるという、典型的な悪循環の輪から逃れられなくなっていたのである。一滴もそれらを口にしないと些細な鬱憤は溜まるいっぽうだということで、気がつけば、いつの間にか毎夜飲ん兵衛みたいに渇いた心を潤すようになっていた。
八分目に呑めば何にも勝る百薬の長となるはずが、かえってアルコールの魔力に取り憑かれてしまったが為に、派遣工時代にはまだあふれていた、気力や勤勉さという仕事にも人生にも前向きに働く要素がなおさら何処かへ吹っ飛んでしまったのである。
―このままでは、夜の路地裏を徘徊する夢遊病者のように頭が狂ってしまうかもしれない―
そんな切羽詰まった思いがいよいよ募っていた、春は三月をむかえたがまだまだ肌寒いとある休日の昼下がり、彼は、いつもと変わらず心憂い溜め息を大きくひとつ洩らしてから、いよいよ“例のところ”へと足を運ぶべく、手元にあった携帯電話のマイクにすかさず口を近づけたのであった。