DATA11 堕落―元モデル、悲鳴の軌跡―
この事件があってからは事務所の意向からか、無情にも期待されていたニューフェイスとしてのポジションは忽ち失われ、空白の三ヶ月があっという間に過ぎ去った。そのあいだ苺夏は、入る予定だったギャラも入らず、憐れにも日雇いのアルバイトでコツコツと精を出すしかなかった。それでも自分なりにモデルとしてこれから歩んでゆくなかで少しでも磨きをかけたいという気持ちが強かったのだろう。
苺夏は、有名なパリコレ専属モデルの表情や視線を真似たいと、書店に立ち寄ったり、また、インターネットから書籍を購入したりした。そして、己の自室で寝食を忘れ、頁{ページ}の端から端までひとり食い入るように眺めていたこともあった。
「苺夏ちゃん。今夜、お偉いおじさん達と一緒にご飯でも食べに行こうよ」
「え……?」
「………あ、……ハ、……ハィ」
しかし、干されたモデルを待ち受けていたのは、さらに想像を絶するような、苦痛でしかない体験であった。それは、塵垢や煩悩というものにまみれにまみれた所属事務所の社長や取締役などの上役連中らと席をともにしなければならない、陽がどっぷりと暮れてからの、いわゆる“夜の接待”ってやつであった。おむすびや奇岩を連想させるようなでかい顔にずんぐりむっくりとした体躯{からだつき}の事務所の社長は、カクテルやリキュールなど若い女が好んで口にしそうな酒を、間隔を置かずに上手く口車に乗せては呑ませ、照れ臭そうな表情{かお}ですぐ脇に腰掛けているモデルを篭絡していった。
「ほら、まいかちゃん。もっと飲まなきゃ許してあげないぞ」
「……ぁ、……あ、…ハィ」
悪魔と化したアルコール飲料が脳内をどんどんと冒してゆく。時間が経つにつれおのずと意識は朦朧とし、手足の感覚もしだいに注射を打たれたようになくなっていった。酷い泥酔状態になるまで陥らせると、五十前後の脂汗が額にべったりと滲み、獣のようにぎょろりとした眼と肉厚の面貌{かお}をした二、三人の男達は、たった一人の無垢な若い女の身体を手始めにまず大胆にも撫で回し始めると、嫌がる女の喚声を無視して着ている衣服を無理矢理その場で脱がし始めた。白いふっくらとした肌が丸見えになると、ほろ酔い気分で下劣な嗤いを浮かべた事務所の中年の男どもは、モデルをすぐ近くの何やら怪しい古ぼけた黒い扉の中までその裸体を神輿のように担いで、押し込めた。でっぷりとした躯{からだ}の事務所の幹部連中もそこで浅ましく鼠色の背広をおもむろに脱ぎ始めた後、代わる代わる彼等はか弱いモデルを奴隷のように言葉で罵り、おのれの人形か玩具の如く欲望に赴くままたっぷりと犯していった。
これでもかというくらいの辱めを受け、帰宅するのはいつも夜が明けて朝陽が昇る頃であった。マンションの一室のベッドの上に直ぐさま身体ごと転がると、ココロまで汚された自分の未来{あす}はますます眩んでゆくばかりだと、ただひとり啜{すす}り泣く日々が数カ月続いた。
それからまた半年ぐらい過ぎて、再び撮影のオファーがきたものの、苺夏はもう以前のように、モデルとして輝いていけるんだという歓{よろこ}びも矜持{プライド}も感じる事は出来なかった。街中の一角に飾るとある広告のポスターのイメージガールとして起用されたが、若い憐れな女は、今回は初めからまともなポーズすら取れず、始終カメラマンには怒鳴られてばかりの一日で終わった。
(もう…………おわり)
(なにもかも、………おわりよ)
苺夏はあまりの悲しみに、貸し出された衣装に数滴の涙を濡らした。
真夏の太陽がギンギンと大地をも焼きつくしてしまいそうなくらいに照りつけていたとある日の午後、僅かばかりのギャラを手渡しで事務員から受け取って足早に階段を駆け降り始めたが、ふと脳裏にどこか懐かしい情念が過ぎり、踊り場でさっと彼女は立ち止まると哀しい眼に変わりながらゆっくりと後ろを振り返った。甘く切ないメロウな雰囲気の漂うR&BのBGMが狭い事務所の中から漏れて自分のいるところまで聞こえてくる。それに雑じって時折、マネージャーである黒川の愉快な哄笑も響いてくる。苺夏には理解{わか}らなかった。裏は闇の支配する虚飾の世界で、あの人はどうしてあんなに女神のような柔和な微笑{えみ}を表情{かお}に湛えていられるのだろうか、と。そういえばおとといの夜も、毎夜の如く都内のどこかしらで開かれている“モデル交流歓迎会”と謳った、端たない欲望だけを満たす“酒池肉林の暗黒パーティー”の席でも、彼女は事務所や業界の上役連中や中堅スカウトマン等に媚るような眼差しを送ったり猫撫で声で話しかけたりして、まるで、感覚的な悦楽を自ら待ち受けているかのように酒を酌み交わしていたではないか。
(わたしは、………わたしはいや、……そんなの……絶対に………)
(………絶対にわたしは嫌!)
脳裏に突然、虫酸が奔った。モデルは断定的に力強く、心中に浮かびあがってきた猥{みだ}りがわしい姿態でグラスに酒を接いでいるひとりの女を否定した。それとともに、温容な笑壷を表情{かお}に作って皆に接しているあの人に対し、急に悪感情さえ抱き始めた。もれて此処まで聞こえてくるBGMの、甘く切ない若い男の軽やかに口吟{ずさ}むような歌声が、田舎臭くてか黒い面貌{かお}に似合わないにもかかわらず、なぜか甘くて気障っぽい喋り方をするカメラマン・日ノ岡の姿を思い起こさせた。
(耐えられない………もう、……これ以上………、もうこれ以上わたしには……………)
目の前が真っ暗になり、苺夏は咄嗟に顔を伏せて階段を一気に駆け降りた。
(……何もかも忘れてしまいたい、…………もう何もかも…………)
あの人の、絶えず自分に注いでくれた妖精のような笑顔を、今すぐに振り払おうとでもするかのように、先の見えない明日を憂慮する暇もなく早脚で、種々雑多な老若男女で行き交う繁華街の雑踏の中へと身を隠していった。
それから一週間ほどして、彼女は愛らしい膤子唇をきりっと噛み締め、ついにこの場所から立ち去る事を自ら決心したのであった。その日は終日、なぜか不思議なくらい、静穏な心持ちでいられた。夜の帷{とばり}が空をどこまでも覆い始めてから暫くのあいだ、雲と雲の間から頼りなく見下ろしていた淡い月明かりも、日付が変わる頃には分厚いそれに包み込まれてしまっていた。
丑三つ時に入った深夜一時過ぎにモデルの女は、事務所が面倒を見てくれている上落合にあるマンションの一室から、夜逃げでもするかのように大きな黒いトートバッグ一つを片手に、黒のチュニックワンピとデニムパンツ、スエード風ハットとスニーカーブーツ姿で身に纏うカラーを夜の闇の色に全て合わせ、鍵も掛けずに2DKの広々とした部屋を後にした。リビングのテーブルに、ところどころ泪の痕{しみ}を残した小さな紙切れの上に、幼子がペンを握ったようなぎこちない筆つきで大きく、
“ごめんなさい”
とただ一言だけ記して。
外に出るとみるみる、胸に火がついたように“焦り”の感情が早くゆくんだと云わんばかりに沸き起こってきた。事務所の誰かしらがもしかしたら見張ってやしないかと、若い女は怖ず怖ずと周囲を怯えた表情でせわしく見回した。がしかし、夜の闇が密集する都会の住宅街の家々を包むほかは何も見えなかった。それでも女はおそるおそると、業界の輩の誰かが近くで待ち伏せして襲い掛かってきて拉致されるのではないかと、最悪のケースを想定しながら歩き出した。
(………これから先どうしよう………わたしは、……これからどこへ行けばいいんだろう………)
二十数年の人生の中で予想だにもしなかった挫折に出くわし、屈辱的な辛酸をも嘗めさせられ、絶望の淵に追いやられたうえに、明日のことはもう跡白浪{あとしらなみ}というまさに最悪の展開を迎えようとしていた。モデル以外にとりわけ将来の夢や希望など抱いてなかった苺夏は、財布の口を締めるためにもとにかく、日々の生計を何とかしてやりくりしていく事だけしか考えていなかった。雲を霞と遥か遠くまで旅をする気力や余裕などもはら毛頭なく、しきりに吐いてでる遣る瀬ない溜め息は、精神的に疲れてしまっていることや、また、人生に対してもうあきらめの気持ちを抱いてしまっていることを表していた。かといってあまりに近場にいると、易々とあの事務所の老醜達に見つかってしまうのは想像に難くないため、モデルの女は思い切って新幹線に飛び乗り、三百粁{キロメートル}離れた西方の大都市へと逃げる事にした。そこまで移動して、髪型を変えたり地味な服装に着替えたり、なおかつ、メガネなどのちょっとした変装するための小物アイテムを身につけたりさえすれば、業界の卑劣漢等の魔の手からどうにか逃れられるにちがいない、そう直感で思いつい
たからであった。
以後、彼女にとってはこれまた別の意味で、息の詰まるような毎日が約半年ばかり続く事になる。保証人もなくまともに住むところすら借りられず、大半を駅前などのネットカフェで過ごさざるを得なくなった。
二平米くらいの狭苦しい、生身の人間が最近まで住み着いていたような垢染みた体臭の立ち籠った部屋で、泣く泣く眠りに就かなければならない日も少なくなかった。深夜の其処は、どや街にでもいるような襤褸{ぼろ}を身に纏い何処へ行く当てもなく、悲しいことに娯楽施設の一室をまるで終{つい}の棲{すみか}とせざるを得ない族{やから}が数多く屯{たむろ}していたのだ。彼らは生気を失ってはいるが、どことなくぎらついた眼をしていた。フロアの狭い通路で偶{たまたま}擦れ違っても、生ける屍のような見窄{みすぼ}らしい顔貌{かおつき}をみなしているのがわかった。しかし、自身も憐れな住人達を決して貶{さげす}んでばかりはいられなかったのだ。糊{くちすぎ}のためにはいうまでもなく、何処かで齷齪{あくせく}と働かなければならない。
「こんなキモイ人達といつまでも一緒に暮らしたくないわ」
貧民の巣窟へ紛れ込んでから半月ほどして、苺夏はコンビニでアルバイトの情報が記載されている雑誌を漁ってきて、ぱらぱらと頁{ページ}をめくり眼を通したが、心の底から奮い立って働こうなどという気力があったかといえば、ノーであった。まあ、無理もない。急な挫折と失望感に打ちのめされて立ち直れずにいたため、そんなバイタリティなぞ到底あるはずもなかった。人間としての矜持{プライド}は、すでにボロ雑巾の如くないに等しかったのかもしれない。疲れ果ててしまったがゆえに、もういつまでもこのまま安逸な時間{とき}を貪ってもいいとさえ、表面の心は思っていたに違いなかった。いや、たしかに主体性をもって時間の犠牲など気にせず仕事に没頭している人間のほうが多くはないのも実情である。巷の凡俗な人々はみな、出来る事なら職につかず、気儘に遊び惚{ほう}けていたいというよこしまな欲望も心中に潜んでいる筈である。上手く稼げる方法はないだろうかと、生半可な知識で暗中模索しながら錬金術に奔{はし}っている人も少なくはないだろう。
自ら希望を抱いてモデルという華やかな職業を選んだものの、月日を重ねるにつれ大きな失意の谷に落ち、なおかつ、“芸能界”という裏では計り知れない危険な空間から怯えながらも遁{に}げてきた二十歳過ぎの若い女には、まともに下働きする気力があるといえるほうがおかしく感じられるのかもしれない。がしかし、たとい茨の道を歩かされてきたとしても、それでも、とかく何がなんでも金を稼ぎたいという野心に駆られるのが人の常なのであろうか。アルバイト雑誌を、ぱらぱらと何気なしに最後の頁のほうまで捲{めく}っていた苺夏は、キャバクラなどのお水系の特集に暫く見入っていた。がしかし、ふとその時、半分近く飲み残してあるウォッカの入ったピンク色の大きなグラスが脳裏{あたま}に
甦ってきた。無理強いにも服を脱がされた後、脂ぎった肉厚の顔貌{かお}をした不逞の輩共に股や陰部を撫で回され淫靡な声で喘いだあの悍{おぞま}ましい、数カ月もの夜がにわかにポジフィルムのごとく巻き戻されてきたのである。
「……もう駄目…………」
(わたしには、………男の人と………上手くなんか話せない…………)
「………できないわ……こんな仕事…………」
現実に体験してしまった悪夢を忘れられず、苺夏は力無く両手を握りしめて顔をうつむけ、辛そうに瞼{まぶた}を固く閉じた。少しばかり息遣いも荒くなり椅子に腰掛けたまま悶えていたが、すぐに雑誌の頁をまたぱらぱらと捲り直した。そしてようやく、とある頁{ページ}のわりとスペースのある掲載欄の求人内容が目に止まったのか、まばたき一つしないでじっと食い入るように眼を凝らした。
(……これなら私にも今すぐ出来るかもしれない)
(………他はもう面接とかがあったりでめんどくさいし………)
「これにしよ…」
相変わらず萎靡沈滞とした心境から抜けきれないでいた苺夏であったが、億劫そうにもなんとか携帯のダイヤルキーを押し始めた。履歴書も不要で、すぐに簡単な登録説明会に参加する事を伝えられると、早速その日の夕方、若い女は廉{やす}っぽいトートバッグ一つだけを片手にぶら提げて、駅前にほど近い十階立ての黒塗りのビルへと向かっていった。そこで一時間半ほど、無味乾燥なマニュアルの話を若い痩身の男に義務的なほとんど抑揚のない語り口で聞かされたが、すぐに運良くそこで初めての仕事を貰える事が出来た。とある金属部品を扱っている町工場で、部品の簡単な加工と検品をするのだという。人の入れ代わりが激しい職場で、即明日から入れると太っちょで黒子{ほくろ}のところどころある皃{かお}のスタッフから言われると、胸中からやっと少しだけ悩みの種となっていた不安や索漠といった大きなしこりがそっと柔らかに剥がれていくような気がした。もう、あんな襤褸衣の格好をした者が大勢紛れ込んでいるルンペンの巣窟に身を置かなくても済むかもしれない。おおげさではあるが、長い暗闇のトンネルからようやく一縷の光を見出だしたような、そ
んな安堵の思いさえ涌き起こって来た。
(あたし、脱出できるかも………)
がしかし、現実は、真っ白い生クリームの上に載ったショートケーキの苺のように決して甘くはなかった。週五日とは登録派遣会社の口先ばかりで、実際には三日も入れれば良いほうであった。赴いて行ったその古い町工場では人間関係がとかく劣悪で、数少ない社員同士が工程管理や納期やらであれこれと啀{いが}み合い、そのとばっちりはなぜか理不尽にも立場の最も弱い日雇い労働者にも向けられた。何より、苺夏とともに、その日だけのパンを得るためだけに一緒に作業をしている輩はといえば、終日独酌でもして酩酊しているかの如く赤黒い面{かお}して無精髭をだらし無く生やした中年おやじや、対照的に、病人みたく蒼白な面{かお}に生気を失ったような眼をして痩せこけた若者など、ちょうど今居るネットカフェに仕方なく棲みついているような同じ物乞の一歩手前の連中ばかりであった。
「あ〜あ、…………がっかり」
繁華街を彩る数多のネオンが頬を鮮やかに染めていった、説明会が終わった後のあの日の夜の帰り道、涌いた胸の高鳴りは儚くも消えて、一瞬見出だした淡い希望の光は蜃気楼のように単なる幻と化してしまった。このままでは自身も、堕落した族{やから}の屯{たむろ}するカフェの住人達みたいに髪もさらに痛んできて、身体は痩せ細り生気のまるで感じられない輝きを喪{うしな}った眼でフロアを徘徊するようになってしまうのではないか。そう思うと、単純な作業を繰り返していても気が気ではなかった。
思いもよらなかった底辺生活。ろくすっぽ風呂にも入れず、ネット喫茶のなかの粗末に拵えたシャワーで軽く行水するくらいしかできなかった。放射状に流れ出る水は、此処に棲む社会最下層の顔ぶれの精力のように頼りなく感じられた。
「あー、……じれったい」
懸命に振り絞った力も、石鹸の泡を洗い流すのに骨が折れるときもあった。洗髪剤{シャンプー}も毎日使うのは億劫になり、縮れ気味になってきた髪の毛の内{なか}には知らず知らずのうちにフケが溜まってきた。それから、何気なしに腹のあたりを少しだけ擦ると、焦げ茶色の些少な塊が消しゴムの滓{かす}のようにぼろぼろとタイルの上に落ちた。
「い、いやだっ………」
思わず、苺夏は両手で口の辺りを覆い、まさか信じられないといった様子でその塵埃のように剥落したわれの垢に愕然として声を上げた。三ヶ月余りで、気付かないうちに身体は腐った卵のような汚臭を放ち、すでに女としての矜持{プライド}は自ら捨ててしまったも同然であった。この時初めて自分が今やっと、世間からわけもなく疎外されてしまう理由が身に染みて理解{わか}ったような気がした。
社会という“地”をぎりぎりに這うような困窮の日々に慣れてしまってからというものの、道徃{ゆ}く人々の視線から映えてくる情念はたしかに今まで感じてきたものとは異なるものであった。ひとりの若い女とすれ違う俗世間の老若男女は、彼女に気付いて振り返ると直ぐさま侮蔑の籠った表情を露{あらわ}にし、そこに冷笑を浮かべずにはいられなかった。なぜ数多の通行人から憫笑{びんしょう}を買われているのか、その時は不思議でならなかったが、もともと神経質な性格の苺夏には、おのれを端から覗き込むように見入る貶{さげす}みの視線や態{わざ}と嬲{なぶ}るように愚弄する罵言が、堪えられないくらいに胸裏をぐさっと突き刺した。
がしかし、時が経つにつれ、もう今となっては嗤{さげす}みの眼で罵詈{ばり}されるのも至極当然のような気がしてきたのであった。銭湯に行って身体中にこびりついた垢を本格的に拭おうと思ったけれども、すぐに行き交う人々の穢らわしい者を見てしまった時の厭わしい顔つきや、胸中まで覗き込まれているかのような卑しい嘲{せせ}ら嗤いが脳裏{あたま}を掠めたせいか変に躊躇ってしまい、なかなかそれを実行に移す事ができなかった。それどころか、人をも寄せ付けない裸体から漂う臭気が、なぜか時折面白可笑しく快感にさえ思えてきて堪らなくなる。そんな時、若い女はいつも、素っ頓狂のように甲高く引き攣った笑い声とともに腹を大きく抱えて一人悦に入った。
兎角、人生の谷ともいうべき流離{さすら}いの時間をいたずらに索漠として過ごしていたが、あまりに困憊していつもより早く眠りに落ちたとある日の夜、苺夏は母や友人の笑顔に囲まれているもう一人の自分が彼女に何か囁くように声を掛けたのに驚いて、深夜丑三つ時の三時過ぎ、ネットカフェの窮屈な狭い一室ではっと目を醒ました。それは夢寐{むび}ではあったが、つい最近までずっと長く生まれ育った懐かしい故郷での情景であった。現在からは想像もつかないほどに、平穏に毎日が楽しく通り過ぎた日々。それは、まるでつい昨日の出来事のように、意識の無い世界に俄{にわ}かに蘇ってきたのであった。
期末テストが終わった帰り道、碧空の爽やかな空気のなか、マロニエの樹々{きぎ}が立ち並ぶ大通り沿いを仲の良い友達三人と無垢な表情{かお}してははしゃぎながら駆け抜けたあの日の午後。ファミレスやファーストフードで何時間でも飽きることなくたむろしていた放課後。華奢な体躯{からだ}でも、朝早くから毎日拵{こしら}えてくれた愛情の籠ったお弁当と、そして、学校へ行くため家から出ていく自分に対し、常に慈愛に満ちた眼差しと零{こぼ}れるような微笑{えみ}で送り出してくれた優しい母。これらは決して空想や桃源郷ではなく、彼女が確かに歩いてきた決して忘れ去る事のない、一枚一枚の胸裏{こころ}の奥に自ずと焼きついた大切なフィルムなのであった。
(………どうすればいいんだろう………)
(どう、……どうなっちゃうんだろう………わたし…………)
心地良く追憶に耽る余裕もなく、苺夏は己に今降り懸かっている憂き身を胸中で歎いてから、深い溜め息とともに両眼を哀しそうに屡叩{しばたた}いた。寄生虫のように宿泊施設でもないところに逗留し始めてから、既にはや半年が経とうとしていた。陸{ろく}に満足な働き口もなく、携帯電話の料金の支払いはおろか、日々のパンを得るのも危うくなるほど、財布の中身はひもじくなってきた。
(………いけない、…このままじゃ……絶対にいけない…………)
ケータイを持つ左手が小刻みに震える。失われた五ヶ月という兎烏は想像以上に人並みな体力をも奪っていった。まともに働いてもいず精力を持て余していたためか、ちょっと椅子から立ち上がったり身体を動かしたりしただけでも、病人のように目眩{めまい}がしたり息切れがしたりしてきた。風邪に対する抵抗力も弱まったのか、微熱のような気怠い状態も起こり始めた。しかし、不運な事に仮寓の住所でいたため保険証を作れず、病院で診てもらう事さえ出来なかった。仕方なく、自分で選んだ市販の錠剤を、軽く舌で舐めるような仕草をしてから一杯の水とともにぐいっと飲んでいく。今の我が身の遣る瀬ない境遇みたく、喉を通る冷水は表面の意識する心を突き刺していくような感じがして堪え難かった。
一見快適のように思えたネットカフェ暮らしであったが、日数を重ねるうちにリラックスできるどころかかえって、寝返りを打つのにも特に夜は窮屈に感じるうえ、簡易に造ってある浴室など不衛生極まりなかった。
(………でも、……でもわたし、………どうしたらいいんだろう……)
誰かの下へ縋りたい、その想いは溢れんばかりにあった。がしかし、誰がこんなルンペン同然の生活に陥った者を助けてくれるだろうかという虚しい諦めも絶えず脳裏{あたま}の内を支配していた。それが自身でもかなりもどかしく感じたが、ナイーブな性格も手伝ってコールを鳴らすのをずっと躊躇っていた。父親の猛烈な反対を押し切り、故郷を遁{にげ}るように飛び出し上京してきたので、今更あの情け深い母の下へ容易に助けを求める事など自我{プライド}が許さなかったのかもしれない。それに、都ゆうで暮らしながらモデルとして一年が過ぎるまでは、電話やメールなどで遣り取りはしないようにしようと変に固く心に誓っていたのであった。
「もう生きてる心地が全然しなくて、………とにかく苦しくて、…それで………」
と、苺夏自身も後年、自らの意志で体験したまるで断食生活のような辛酸の過去を振り返り、首を締めつけたいくらいに当時の心境が切迫詰まっていたことを苦い溜め息雑じりに打ち明けている。
それでも流石に、東京に出てきてまもない頃は、大いに我が子を慈しんでやまない母が月に何回か彼女の許{もと}へとやってきて、いつもの憐れみ深い声で教え子に諭すように色々と話し掛けてきていたのであった。がしかし、そんな母の愛情の籠った行為も故郷を離れてから三ヶ月もすると、何事もなかったかのようにぴたりと止んだ。その代わり、電話やメールでの会話は一、二ヶ月ほど続いたが、それも、事務所側が彼女のモデルとしての存在感に愛想が尽きる頃になると、母との音信は全く途絶えてしまっていた。苺夏は、頭の上の蝿も追えぬ我の心に思い煩い、苦しそうにぎゅっと固く瞼を閉じた。気がつけば、家郷を離れてからすでにはや一年以上の月日が過ぎていた。若い女の寄寓している施設の外では早朝に、冬を告げる凩{こがらし}が時たま街路樹の落葉を玩{もてあそ}ぶように巻き上げて、疾風の如く巨{おお}きなビルとビルの間を力強く縫いながら吹いていた。依然として、苺夏は何処へ行くあてもなく、かといってこれ以上どこかへ放浪したい気持ちや金銭的余裕などなく、相変わらずこ狭い独房のような芳しくないネットカフェの一室で、誰かに頼ろうと
はせず半端な自力で行住坐臥を過ごしていたが、容姿はわずか半年のうちでみるみる痩せ衰え、気力や体力もそろそろ限界点に達しようとしていた。
“♪抱きしィめて〜あなたといた時間をォ 忘れェない〜……”
(…………?……あれっ、……えっ、…………なんで?………お母、……さん?…………)
それは、年の瀬近づく十二月も折り返しに入ろうとした日の夜の出来事であった。
いつものようにゆったりと身体を硬く小さなソファーのような全面黒い革の椅子にぐったりともたれかけ、あと一時間ばかりでもう眠りに落ちようとしていた矢先、久しく耳にしなかったケータイの着メロが流れてきたのである。ディスプレイにはっきりと表示された“平幡千賀子”という名前に、苺夏は喫驚して一、眼を疑ったが、それは紛れもなく、離郷するまでずっと一緒に暮らしてきた実の母からであった。彼女は恐る恐るケータイの電話マークが描かれているキーに親指を近づけ、最後の力を振りしぼるようにそこをピッと押した。それから、やおら携帯を耳へと宛てがい、
そして、―――――――――
「………も、もしもし」
「あっ、苺夏ちゃん?」
「わたしだよ、わかる?」
「お母さんだよ!」
「………ぉ、………お母さん………?」
「そうよ」
「全然あなたから連絡なかったからわたしのほうから電話しちゃった」
「……今、……何処で何してるの?」 「………お母さん、……だよね………」
「そう。あなたのお母さんよ」
「……苺夏ちゃん、…今何処にいるの?」
「お母さんもお父さんも心配してるんだよ」
「きちんと教えてちょうだい……」
受話口の向こうで、急{せ}いている感じではあったは懐かしき母の柔らかな声が彼女の耳に響いてきた。
「………ぅ、………ぅん…………」
「あ、………あのね、……………」
「あたし…………実は……………」
すでに病人みたく疲れきった顔貌{かお}で両眼を時おり屡叩{しばたた}かせながら苺夏は、憂慮してくれている母の問いに対し、いま陥っている惨めな境遇など上手く伝える事が出来なかった。
「…苺夏ちゃん、モデル辞めたって本当なの?」
若い娘が事実を告げる前に、母は遂に興奮して些か掠{かす}れるような声で尋ねてきた。
「えっ……………?」
「……………………」
母のまさかの懸念の声に、毎夏は思わず音吐を洩らさずにはいられなかった。
神経質で思い詰める性質{たち}の彼女は、今までの成り行きを納得いくようにどう事情を説明してよいのかわからず案の定、言葉が詰まってしまった。
しかし、何とか重い口を開いて、
「………ぅん。……………」
「ごめんなさぃ……………」
暫しの間、互いに沈黙していたが、向こうでは愕然としたのか微かに荒らかな息遣いをしているのが携帯の受話口から聞こえてきた。それからまもなくして悲母は、また底の知れない深憂からか、我が子に対しあれこれと“どうして”“なぜ”と疑問詞メインの問いを頻繁に投げ掛けてきた。
その度に、苺夏は唖者のように声が出なくなりながらも、少しずつではあるが自身が窮境へと堕ちていった道のりを母親に伝えていった。母は、我が子が現在世間からつまはじきにされ、容易に這い上がることのできない窮困の悲境にいる事を愛娘の口から直接聞かされると、ショックで瞬間眼の前が真っ暗になったが、それと同時に同情の念も怒涛のように込み上げてきた。今すぐにでも腸{はらわた}が腐った下人の栖{す}む巣窟から救い出してあげたい、そんな慈愛と焦燥の想いが入り雑じりながら母は、直ちに明日N市へと向かう事を彼女に約束してくれた。苺夏は、母のその震える声色を確{しか}と耳に留めると、安堵感と屈辱感の入り雑じった心境に一気に襲われ、五分も立たないうちに眠りに落ちてしまった。
翌日の十一時頃、数多の勤め人等が颯爽としながら慌ただしく行き交うN駅のバスターミナルの広場のところで、約一年ぶりに慈母と再会した。想像以上にやつれた姿の娘を見ると、母は忽ち今にも泣き出しそうな表情に変わり、すぐさま全身で彼女を自分の身体へと引き寄せた。誰にもとって変えられない無二の母の真の温もりが、冬の大地を照らす太陽のようにおのれの身体を、そして心をも暖かく包んでくれた。思わず、熱い泪が自然と頬を伝った。これまでの茨道の如く歩んできた日々の痛切な苦難の思いをぶつけるように、苺夏は母の身体の内でコートを外側から両手で鷲掴みにしながら一気に哭{な}き崩れた。真昼のさなか、その物珍しい光景は駅前を闊歩している大勢の通行人達の眼に止まったが、二人は互いの古傷を舐め合うように、洟{なみだ}に咽びながら身体と躯{からだ}を長い間寄せていた。やがて、哀訴の昂奮が収まると、萱堂とその娘はともに嵐が静まったように穏やかな表情を保ちながら、地下街の飲食店の方へゆっくりと歩いていった。身を隠すように一番奥の厨房に近いこぢんまりとした片隅の席で、親子は顔を伏せがちにしながら無言のまま食事
をとった。その後彼女らは、真冬の午{ひる}下がりの柔らかな陽射しと蒼穹{そうきゅう}の下、今度は鬱ぎ込んだ表情になって緘黙{かんもく}したままあてもなく街中を幾百メートルか歩いたが、頓{とみ}に母親は立ち止まって娘に目配せをすると、大きな白塗りの外壁際立つホテルをあごでしゃくってみせた。
「今日はここで泊まりましょうよ」
「えっ………?」
「ぅん……」
この二人はめずらしく、さも貴賓が一夜をともにしそうな誇り高いホテルの一室で三日間を過ごした。西洋を思わせるシャンデリアの天井、薔薇のように品のある真紅の絨毯{じゅうたん}、片隅にさりげなく置かれひときわ眼に付くトルマリンの水晶。なにもかも打って変わって数日前に過ごしたあの貧民同然の夜とは異なり、眼を丸くしながら夜はホワイトダックダウンの羽毛の入ったふっくらとした布団のなかに身体をうずめたが、何よりこうして実の母と一緒に居られることが一番の安らぎであった。
そして、クリスマスまであと一週間と迫った日曜日の昼前に、母娘は何処へ旅立つでもなく郷里へとそのまま引き返していった。皮肉にも慣れさえしてきた塵芥同然の底辺生活に、ようやくピリオドが打たれたのであった。
(やっぱり自分の家がいちばんだわ)
(これでゆっくりと眠れる…………)
がしかし、実家に舞い戻れば少しは寛げるかと思いきや、無念の念いも未だ脳裏に残る苺夏を待ち受けていたのは、出郷を固く反対した峻厳な父との確執であった。菩薩のように温和で慈愛に溢れた母とは対照的に、昔気質{かたぎ}でかつ忌憚{きたん}なく人の心情を顧みずずけずけと物を言う獅子のように峻峭な父は、わずかたった一年余りで挫折して泣く泣く家に帰ってきた娘を容赦なく詰責し始めた。苺夏は、人心を踏みにじるような痛烈な父の一言一句に何も言い返せず、ただただ六畳あるおのれの部屋に引き籠ってはその角っこに蹲{うずくま}って顔を伏せていた。
「…どうしたらいいんだろう…………」
「久しぶりにゆっくりとできると、………そう思ってたのに…………」
「これじゃ………カフェ暮らしよりひどいかも…………」
「………全然気持ちが安まらないょ………」
我が家の自室で彼女は哀しそうにひとり胸奥で歎いていた。都邑で常に感じていた索漠とした気分は晴れず、ぽっかりとあいた心の空洞は塞がるどころか、歪みを増してますます拡がってゆくような気がした。元旦は間近に迫っていたが、地元の親しくしていた友人達ともそんなわけで久闊を叙する心境にはなれなかった。やがて年は明け、家の軒先には錐のように冷たく先端の尖った氷柱{つらら}が何本もでき、最も厳しい寒さの季節を迎えたが、ココロは感情の発条{ぜんまい}が外れたように無気力になり、しかも、陰鬱とした感じも絶えず彼女のアタマから離れないでいた。
そして再び、あの兎角恥ずかしい想念さえ涌き起こってきたのであった。
それは、真冬にしては異常なくらいに春めいた小正月を過ぎる前の、ひたすらただ荏苒{じんぜん}として白兎赤烏を費やしていたとある日の白昼に起こった何気ない出来事からであった。木に四六時中ぶら下がっているナマケモノのように寝転がりながらスナック菓子を気だるそうに口の中へほおばっていた時、階下からドスンドスンと重苦しそうな足音が聞こえてきた。おい開けろと云わんばかりに素早いノックが二回して眼前に現れたのは、額{でこ}のひろく碧眼のように鷲鼻の父親であった。放蕩者のようにだらけている娘を怒鳴りつけるのかと思いきや、お猪口で独酌したのかカオをいい具合にほろ酔く朱く染めた父は、リキュールの缶を差し出しながら、
「たまにはお前もこれ飲んで気持ち解{ほぐ}せや」
と、いつになく目元を弛{ゆる}ませ笑みを表情{かお}に湛えた父がそこにいた。酒に酔って涙っぽくぎらついた両眼、そして、恵比須顔のように人の良さそうな面{かお}を拝んだのは、これがまるで生まれて初めてのような気さえした。
「…………えっ?……………」
(………いやだ…………)
図らずも、苺夏はどう反応していいのか戸惑ったが、それと同時にふとあの時の、破廉恥な姿でモデル事務所の上役連中と戯れていた悍{おぞ}ましい光景を思い出した。黒い染みがところどころに付着し脂ぎって肉厚の小穢{きたな}い面{かお}と、獣のようにぎらぎらと不気味に皎{ひか}る両眼が、愚父の微酔してとろりとした眼つきと一瞬重なって見えたのであろうか。たちまち苺夏のカオは、途中で挫折した室内撮影の時と同じく、林檎の皮のようにみるみると赤く染まり出したのであった。昼前から酒に浸り、珍しく上機嫌に顔を赤くしている父とは異なり、俄かに生じた彼女のその赤らみには、言葉には形容し難く異常なくらいに恥ずかしいと思う気持ちがそこに表れたに違いない。
愚父は、娘のその火照ったような赤ら顔を見て暫しのあいだ哄笑したが、当の本人はどう言い訳したらよいかわからずにもどかしい面持ちでずっとうつむいていた。
己の衣服の裾をはだけた淫猥な姿と入り雑じったのか、突然、再び襲ってきた何ともいえぬ恥ずかしい“あの感情”により、頬が激しく紅潮したのが自身でもわかった。
(………あの事もあったから、……………?)
(………え……そんな……………)
(だからって……………)
突如として涌き起こってきたこの複雑な感情を自らの頭の中で説きあかそうと試みたが、果たしてモデルの撮影時に初めて起こったのと同じものなのか、それともあの穢らわしい酒池肉林ともいえる料亭での狭くて薄暗い一室で辱められた記憶が甦ってきたものなのかは掴めなかった。
“何とも口には容易に言い表せないただただ恥ずかしい”という想念。
まるで、その場で心中を素っ裸にされたような通常では滅多に起こり得ない異様な情念が脳裏を掠めたのは、この父の卑しい眼つきを見た日だけに留まらなかった。
それから、また三日もしないうちに頬は生まれたての嬰児のようにぽわんと赤くなった。今度は近くのコンビニに立ち寄った帰りに、ずんぐりむっくりした一人の若い男と擦れ違った時であった。坊主頭でおむすびのような不恰好をした肉厚の顔にちらりと眼がいくやいなや、苺夏のホオは途端に火を点けられたかの如くぽおっとし出して真っ赤になってしまった。
(………ぇえっ、…ぃやだぁ。……………)
(………また急に恥ずかしくなっちゃった…………)
人見知りでもないアカの他人の顔を一瞥しただけで、咄嗟{とっさ}に“あの感情”が風のように掠めてきた。またしても、あの醜い低劣な面{つら}とオーバーラップしたのであろうか。
他に理由が見当たらないのだとしたら、きっとそうにちがいない。
あんなことまでされたのだからきっとそうだ。
がしかし、カメラが廻っているときにも、同じように紅潮したではないか。
いったいどうして顔が赤面するのか、自身ではわけがわからずほとほと困り果ててしまうのであった。一度おさまってもまたいつか急に顔が紅潮してしまうかもしれない、という予期不安が少なからず脳裡{あたま}の内にあったに違いない。
苺夏は、意識して流石にそこまでは気付かなかったが、何の前触れもなく頭の中を過ぎる恥じらいの感情にしだいに来る日も来る日も振り回されてゆくことになっていった。ある時は家でごく普通に夕食を取っている最中に、またある時は眠りに就く前の夜に、さらには、男女の別関係なく人と視線が合う毎に顔が明太子のようにあかくなりだした。
愚父も初めのうちは、娘の奇態とも思える面貌{かお}の変化を馬鹿にしたように声高に一笑したが、これがたびたび間を置かず表れるようになると、
尋常ではないのに気づいてきたのか、困惑した色を表情{かお}に見せ始めた。慈母も最初はほとんど気にも留めなかったが、我が子が以前とは異なる様相を呈してきているのに平然としてはいられず、
「苺夏ちゃん、どうしたの?」
「………どうしたの、……苺夏ちゃん?」
と、声をいくぶん震わせながら憂慮する回数もしだいに多くなっていった。
(このままじゃいけない)
どうしようもない焦りと不安に煽られた彼女と母親は連れ添ってとうとう近くの薬局に出向いた。そこで、白髪頭ではあるが才媛な感じのオーラを放つ姥桜が、懇切丁寧にもパニック障害などを抑える精神安定のための漢方薬を一種類勧めてくれたのであった。
心中が涛{なみ}打ったように狼狽していた二人は、藁をも縋る想いでそれを直ぐさま手に取った。
早速その日の夜、苺夏は“加味帰婢湯{かみきひとう}”という巷で噂されているサプリメントのような錠剤を初めて飲んだのであった。そして、神経症等に対する効き目が現れるまでに最低一週間は必要と、雪のように真っ白なアタマをした薬剤師の老媼には言われたが、三日ほど経った日の朝、寝床から這い上がるのが普段より軽くなったのに若い女は気づいた。それだけではない。頭の中もどういうわけか、もやもやとして先のまるで見えない暗雲が一気に取りさられたような感じになった。
【効能】
…貧血・不眠症・精神不安・神経症
苺夏は顆粒状の漢方薬が入った瓶詰の裏側の表記にしばらくのあいだ見入っていたが、胸中には久しぶりにひとしお嬉しい気持ちが湧いてきた。
もしやこれで、今までずっと苦しめられてきた原因不明の赤面は一夜で吹き飛んでしまったのではないか。
そんな錯覚に囚われてもおかしくないほどに、身体もココロも一気に軽くなったような気がした。不思議と顔に紅潮は表れず、ずっと胸中を蔽{おお}っていた不安の靄もどこかへ消え去って、四、五日くらい恢復したかのような静穏な時間が流れた。
(……よかったぁ)
(もう一生あのまんまかとあきらめてたりしてたけど…………)
(勇気を出して飲んでみて良かったわ)
つい昨日までの晴れ晴れとしなかった気持ちが嘘のようになくなったため、胸の奧からは嬉しささえ込みあげてきた。
―――がしかし、―――――
この奇跡とも思えた爽気な気分だが、翌週の初めに早くも崩れ去る事件に遭遇してしまう事になるのであった。
その日は、真冬にしてはあまりにもポカポカとして清々{すがすが}しい朝を迎えたので、真ん中に椋木{むくのき}の直立している近場の公園までぶらりと散歩していた最中であった。アイポッドの画面に眼を遣っていたが、乗れる洋楽のリズムに合わせて気儘に足を運ばせながらふと何気なく前を見上げると、三十前後くらいの男の、面皰{にきび}や赭{あか}い吹き出物だらけの不恰好な面長の顔貌{かお}と偶然合った。それは以前、コンビニの帰りに擦れ違ったずんぐりむっくりした体型の血色の良さそうな男と何となく雰囲気が似ていた。
その醜いカオした男が眼の前を通り過ぎる手前、途端に苺夏の頬は畑に生い茂る酸漿{ほおずき}の果実のように激しく真っ赤に変化した。表面の心では忘れ去られていたものの、未だ“あの何ともいえない恥ずかしいという感情”が大脳の深層部で燻{くすぶ}り続けていたに違いない。再び頭の中は真っ白になり、彼女はワケの理解{わか}らぬままその場で立ち尽くしてしまった。
いったい、どうしたことだろう。
あの“加味帰婢湯”という、巷間では効き易いとされる漢方薬は、驚くほど日を待たずして自身にもその薬効を顕したかのように感じられたのであるが、今こうして再びあからさまにカーブミラーに映る嬰児のように赤らんで惨めとも思える頬を目の当たりにすると、我ながらなぜか情けなくも思えてきた。辰の刻の陽は柔らかに燦々と降り注いでいたが、公園へ行く気にはもうなれず、苺夏はとぼとぼとアスファルトに眼を遣りながら自宅へと引き返した。火照ったように赤くなったまま、しょんぼりとして萎えた生気のない顔で娘が帰ってきたのがわかると、母もまさかといった様子で忽ち困却したような表情{かお}つきに変わった。
「………苺夏ちゃん?…………」
「どうしたの?」
「……またそんなふうに………顔真っ赤になっちゃって…………」
「苺夏ちゃん、…………苺夏ちゃん!」
他に兄弟姉妹もいなくて、たった一人の愛娘は母にとってきっと子猫のように愛しい存在だったに違いない。そんな無二の我が子が、ここ数ヶ月間、自他ともに理解のできぬ奇妙な精神状態から抜けだせないのかと思うと、母自身も顔を青くしてしまい、ただただもう子供の名前を歎くように連呼するほかはろくに何も言葉を掛けてあげられなくなっていってしまう。
やがて、家の眼下の原っぱの片隅には蕗の薹{ふきのとう}が特有の薫りを放って群生し、春弥生の爽やかな碧空の下、万緑に凜と映える衝羽根樫{ツクバネガシ}の林の梢には“ホーホケキョ、…ホーホケキョ、ケキョケキョ…”と、春を告げる鶯{ウグイス}の清らかな鳴き声があちらこちらに聞こえてくる頃になった。
がしかし、依然として、原因のつかめぬ頬の赤面は続いたままで、苺夏はまともに外出する事すら怖くて出来なくなっていた。終日、出無精のニートのように部屋に引きこもり、家族の者とも口数は少なくなっていった。このままいたずらに何の楽しい思い出も作る事なく、夜の暗闇の浜辺に打ち寄せる波のように、単調で陰鬱とした日々を過ごしてしまわなければならないのであろうか。そんな先の見えない明日への想いが始終脳裏をぐるぐる駆け巡っていると、当然ながら決して良い気分はしなかった。眠そうとも泣き腫らしたとも取れる目つきで手摺{す}りに拿{つか}まりながら階段をおもむろに降りて、お昼ご飯のため食卓へ入ると、黄色く分厚いタウンページがだらし無くテーブルの端に置きっぱなしになっているのに気付いた。腹ぺこだったため一刻も早く食事を済ませたかったが、何気なくそれをパラパラとめくりだしているうちに、とある頁{ページ}のわりとスペースのある掲載記事に眼が止まった。
〈播野こころの精神医療室〉
“疲れている あなたの心を 癒します♪ ココロの不安な方 今すぐ気軽にお電話を♪”
普段であれば気にも留めない患者を誘{いざな}う常套な謳い文句が、この時ばかりは食い入るように苺夏の心を惹きつけた。
今すぐこちらへお電話を!
[? 02*-34**-**27]
昼食の事はどこ吹く風で忘れてしまい、思わず左手でケータイを見開いている自分がいた。けれども、その文言どおりに首を縦にふるには心のどこかに多少なりともやはり抵抗はあった。
(やっぱり、………やめようかな………………)
(…………え、………何言ってるの…………?)
(今のままで一生を終えるのなんてぜったいイヤ……………!)
と、ふと気がつけば見えない何かしらの縁の糸で操られてゆくように、親指を小刻みに震わせながらゆっくりとダイヤルキーを一つ一つ押していった。
「02*-34**-**27………でいいんだよね………」
タウンページの一齣{ひとこま}に太字のゴチで書かれている精神科の電話番号を指差しながら、苺夏は間違えないようにすまいと確認せんばかりにつぶやいた。遂{つい}に、勇気を振りしぼってコールを鳴らした。
“トゥルルルルル…トゥルルルルル…”
数秒も立たないうちに、顔はまた火照ったように赤くなりだした。十二回くらいコール音を鳴らした後、なんとなく覇気のない受付の中年女の声が聞こえてきたので、事情をおそるおそると伝えると、受付のその女は棒読みみたくほとんど抑揚のない声で極力早く来院したほうがいいと勧めてきた。このままの状態でいつまでもいたくないと思っていたので苺夏はさっそく、春分の日を迎える二十日に初めて病院へ行く事に決めた。母や父にもこれから通院する旨を告げたが、芳しい表情{かお}にはやはりならなかった。
月は弥生に入りずっと暖かい陽気に恵まれていたが、通院初日はといえば、庭先に霜が降りるほどに稀にみる凍える朝を迎えた。苺夏は、一度洋服タンスの中に仕舞いかけたふかふかのマフラーを首に纏い、憂色を絶えず表情{かお}に浮かべながら路線バスに乗って、街のタウンページに記載されていたG市内のバイパスから少しだけ離れた所にある
“播野こころの精神医療室”
とやらに一人向かっていった。
そして、―――――――
受付を済ませ、小綺麗な十二畳ほどの待合室で、何もせず茫{ぼう}としたまま待つ事二十分。
「はい。お待たせしました。番号札十五番の方、診察室へどうぞ」
いよいよ精神科の医師に、自分が陥ってしまった、我のうちで起こっている不可解な病状を話さなければならない時がやってきたのである。
「失礼します」
顔をぎこちなく強張らせながら扉を開けると、優しいアロマの香りとともに、白髪も多分に雑じってはいるが、品格良く穏やかそうな白衣を着た痩躯の医師が眼の前でパソコンと向き合っている姿が見えた。おそらく四十代後半から、五十代といったところであろう。顔のほうは疲れたようにいささか黄ばんでは見えたが、その物腰穏やかげなドクターは、溌剌としていない表情{かお}の若い女に対し、面子{メンツ}を極力傷つけないよう鄭重に柔らかく、今回の症状についてなど幾度か質問を繰り返してきた。当の苺夏はといえば、面貌{かお}さえまともに医師のほうへ向けられなかったが、それでもなんとか、
「…………えっ、ぇえ……………」
「………あっ、…………はぃ…………」
「人とうまく…………上手に、……………うまく喋れなくなってしまったんです…………」
「………え、…………ええ。わたし、人前で……いつの間にか………ものすごくあがるようになってしまって…………それで今も、……わたしの顔真っ赤になってると思うんですけど……………」
「………あっ、………えっと…………去年の夏まではモデルを、………モデルをやってたんですけれど、…………こんな、……………こんな感じで長く務まらなくて……それで、………今は何も……………」
と、頻繁に度々つっかえながらもどうにか、日常生活にさえとかく支障をきたして、疱{もが}いても疱{もが}いても己では対処のしようのない苦境の現状を、パソコンの前でほとんどたじろぎもしない、律儀そうだが一風変わったような痩躯の医師に話していったのであった。