DATA10 赤面、そして沈鬱―元モデルの悲劇―
「はい。お待たせしました。番号札十五番の方診察室へどうぞ」
「失礼します」
医師の眼の前に表れたのは、エルメスの格調高いフレグランスな薫りを全身に纏わせ、尻の上まで伸びている長いダークブラウンの髪をした未だ二十代と見て取れる女で、見た感じ背も一般の女よりも高く、一七○近くはあった。降り積もる粉雪のように色白な顔で、ポーカーフェイスを気取っているのか今時の若い女に流行りのでかいスモーク色したサングラスをかけていた。白い薄手のロングカーディガンはどことなく女性らしい繊細さを感じさせ、極めつけはその内側の黒のキャミソールから垣間見えるふくよかな胸の谷間であり、これには堅物で気難しい雰囲気を持つ播野も思わずそこに眼がいってしまったほどであった。下はこれまた似合う、だぶだぶで作業衣のようにも見える濃いグレー色をした巷{ちまた}で流行のイージーパンツをさりげなく穿きこなしていた。
(すごく洒落ているのはわかるが、さすがに病院に来る恰好ではないよな)
場違いというか、なんとなく気恥ずかしいという感情にも駆られてくる
(この女、雰囲気からするともしや……)
好奇心のアンテナを張り巡らせて医師は、眼の前に淑{しと}やかに腰掛けた彼女がどんな職業に就いている人なのか、又は今までどんな職業に就いていた人なのか何となく頭の中で見当をつけようとした。そこら辺の街中を歩いている女よりも、睫毛のところは小洒落れた感じになっていて、何より人形のように飛び切りぱっちりとした目許が特徴的なのであった。
「はい。大変お待たせいたしました。…今日はどうされました?」
滅多に来ないであろう貴重なクライエントに恵まれて、彼は心の踊りを隠さなければならないくらいになり、妙な胸の高鳴りが少しずつ涌いてくるのが自身でも感じられた。ドクターとしての矜持もあるかもしれないが、常日頃から殆{ほとん}どと言っていいほど、“医師”という重苦しい『仮面』を被っている播野。心の奥底に潜む“本当の自分”という存在を世間体を気にして表に出せないでいた。この時も始終『マスク』は脱げずにいたが、腹の内では素のわれがかわいい娘ではないかとニヤついていた。不覚にも表情{かお}は、そんな不埒な念いが投影してか、子供のように赤らんできたように感じた。汗が滲んだり滴り落ちたりしていないにもかかわらず、彼は額や頬の辺りを少しばかり拭う仕草をした。播野は何か自身の胸の内に起こっているざわめきを悟られたくないと、いつものように落ち着き払った崇高そうな表情{かお}を懸命に作り、現在{いま}どのように病んでいるのかについてゆったりとした口振りで切り出した。
「………えっ、ええ…………」
いつのまにかスモーク色したサングラスを外していた若い女は顔をほんの少しあげて何か言おうとしたが、すぐにぱっちりとした幼さの残る瞳は医師から離れて、透き通った柔らかそうな肌はちょっとずつ鮮やかなピンクに染まっていった。人前で話をするのは恥ずかしいという感情だけが患者を支配しているようであった。そのくせどういうわけか、退屈そうに左脚を右膝の上に組みはじめた。図々しい奴、とはこの時ばかりは思わなかったが、そのかわりに、
(だいぶ緊張しまっているようだな、こりゃ……)
「少しだけでも、ゆっくりでいいですから話していただけますか」
女のほうから向き直ると播野は、丁重な物腰柔らかい例の紳士的な口調でお願いするように言った。ぱっちりと開いたその円{つぶ}らな瞳孔{ひとみ}は、よく見ると、若人らしい輝きがなんとなく失われてしまっているのが、すぐ見て取れた。例えるならば、色褪せた宝石・・・そんなところであろうか。
(見知らぬ人の前ではかなり抵抗があるようだな。これはやはり………)
「ほんの少しだけでも構いませんから……お話していただけませんか」
播野は、さきほどよりもさらにゆっくりと、己を抑えて譲歩するように話を繋いだ。患者の前ではいやがおうでも“誠実で穏和な医師”に扮している播野だが、さすがに程度ってやつがあるようである。不覚にも苦たらしい面構えに変わったのが自身でもわかり、小さな咳ばらいをひとつ左手の握りこぶしの上で洩らした。視線を床のほうに遣って人形のようにじっとしている若い女に対し、何とか重い口を開いて貰わなければと思い再度試みた。気がつけば、未だあどけなさの多分に残る彼女のカオ全体は火を噴いているように真紅色じゃないか。
「………あっ、……はい………なんか人とうまく……上手に、……うまく喋れなくなってしまったんです」
女はようやく、途中何度も口を滞らせながらも、いま現在において日常生活に支障をきたしている事柄の一つを医師に伝える事が出来た。
「人と普通に会話する事が出来なくなってしまった、という事ですね。なるほど。……しかし、私が察する限りでは貴方それだけではなさそうに見えますけれど、あなたご自身でもお気づきかとは思われますが……」
「………え、…ええ。わたし、人前で…いつの間にか…ものすごくあがっちゃうようになってしまって……それで今も、………わたしの顔、…真っ赤になってると思うんですけど………」
女が途切れ途切れで話している最中、播野は狐のような怪訝と憂色の雑じった眼つきで患者の表情{かお}をさりげなく見据えていたが、無理にでも話そうとすればするほど、換言すれば時間が経過するほど、若い女の声が震えてきたのがわかった。極度の不安や恐怖に襲われている様子が瞭然と伝わってきたのである。
「そうですねぇ。貴方のおっしゃるとおり、たしかに通常の人と比べて話をすることにかなり抵抗がおありのようですねぇ……」
「今はどんな職業をなされているのですか」
「………あっ、……えっと……去年の夏まではモデルを、…モデルをやってたんですけれど、……こんな、こんな感じで長く務まらなくて……それで、………今は何も………」
若く優婉なオーラも匂わせている彼女は、声を出して話し出しそうとする度に顔は火照ったように赤くなった。ぎこちない歯切れを振り切るように息遣いを些か荒くしながら、医師の返事にはきちんと答えなきゃと自覚していたのだろう。声を発するたび、小刻みに頷くような科{しぐさ}が痛いほどに伝わってきた。
―症状が現れるまでの経緯―
このあどけなくどこか頼りない平幡苺夏{まいか}という女、地元の高校卒業後は五年間アパレル関係の店で働いていたが、二十三歳の夏、都内の原宿に友達と遊びに行った時に偶々{たまたま}茶髪のけばけばしい形{なり}をした男にスカウトされたのがきっかけで、その年の秋、某モデル事務所所属のファッションモデルとしてデビューすることになったのであった。幼少の砌{みぎり}からずっと慣れ親しんだゆったりと時間が過ぎてゆく田舎街を離れ、気がつけば苺夏は、アスファルトのジャングルに限りなく覆われ、日々駆ける兎のように目まぐるしく過ぎてゆく慌ただしい殺伐とした人込みの雑踏の中に身を投じていた。巨大な駅ビルの中では、高級そうなオメガの腕時計をちらちらと忙{せわ}しそうに気にしながら出口へと疾走してゆくサラリーマン達、同じくお高いエルメスのバッグを悠々と抱え、ポーカーフェイスで闊歩してゆく何人ものOL、異邦人のように銀色に染めた長い髪を時々片手で弄りながら、ダラダラと固まりながらベチャクチャ喋って歩いている女子高生の群れ、ワインレッドのブラウスで身をスマートに着飾り、大きな鍔が特徴の洗練されたノエルの帽子を洒落たように被っている幾人かの婦人、西洋人のように長身で、ローデンストックの知的な雰囲気を醸し出している老眼鏡をかけた老翁…。何もかもが苺夏にとっては真新しく、初めのうちは、早朝に踏みしめて歩く新緑の散歩道のようにさえ生き生きと感じられた。
「苺夏ちゃん、もう東京は慣れた?」
女マネージャーの黒川は、彼女の緊張を解きほぐすように柔らかい表情{かお}でにっこりと微笑んだ。
「最初の撮影はモノトーンのセクシィワンピに黒の柔らかストローハットでいこうじゃないの」
金髪の、苺夏と同い年代くらいのマネージャーは、おどけたように軽いノリでモデルデビューの初舞台の案件を切り出してきた。想像以上に華々しい幕が開けたのに面食らったせいか、かえって表情には戸惑いの色が浮かんできた。
「大丈夫だよ。そんなシリアスに考えなくても。みんな誰でも最初は緊張してしまうものだから」
女マネージャーは再び、庶民的かつ安堵感たっぷりの愛嬌ある微笑{えみ}を顔全面に湛えながら、新人モデルにありがちな不安ってやつを取り除いてあげようと努めた。撮影は三日後にすぐ、渋谷界隈の小さなスタジオで行われる事となった。日を追う毎に秋は深まり、二カ月前なんかと比べると信じられないくらいに青い空のキャンパスが爽やかに感じられていたが、その日は氷菓を頬張っていても驚かれないくらい異様に日差しがぎらぎらとして、昼間は汗ばむくらいの陽気となった。苺夏はこの撮影当日、花柄模様のワンピに紺のジーンズ姿で出掛けていった。モデルデビューをするということもあり、スタジオへ向かう人込みのなか、期待と不安という水と油のような二つの感情が、繊細なココロの天秤の上で絶えず揺らいでいた。面持ちも何となく頼りない。
「あっ、苺夏ちゃんだ。こんにちは。今日は初めてで慣れないポーズばかり指示されると思うけど、焦らなくていいからね。ゆぅっくりと、カメラマンさんの言われた通り落ち着いてやれば全然大丈夫だからね」
四方を鼠色の古ぼけた雑居ビルに囲まれた、大通りから外れて二百メートルほど裏路地に入ったところに構える小さなスタジオに着くと、さっそく、金髪の気さくな女マネージャーが例の天使みたくとろけるような笑顔で今日も彼女を温かく迎えてくれた。黒川の小さく束ねたポニーテールが、今日はひときわ輝いているように見えた。
(大丈夫かな、わたし………。ちゃんと言われた通り、うまくキメられるかなぁ……)
もともと内気な性格の苺夏は、胸中で既に尻込みをしてしまっていた。カオにもそれがゆっくりと滲み出てくる。
マネージャーが優しい言葉遣いや気の利いたユーモアで緊張感を解きほぐそうとしてくれても、“不安”という感情は最後まで、靄のように脳裏{あたま}にまとわりついて離れなかった。誰でもみな同じだよとかるく考えれば確かにそうだが、しかしこの彼女の場合、その“度合い”のメーターが尋常値を超えていたようであった。
「さあ、それじゃさっそく撮影のほう入ろうか。後は任せてよ、黒川さん」
室内の奥に脚をだらりと投げて座っていた、鴬色のちょっと冴えないニット帽を被っていた三十過ぎくらいの男が、気怠そうにして灰色の椅子から立ち上がり、怯えているような表情{かお}をしてじっとマネージャーの傍に寄り添うようにして突っ立っている苺夏に対し、異性を口説くような気障{きざ}っぽく甘い声で促した。マネージャーの黒川は、了解しましたと言わんばかりに無言でカメラマンらしき男に目配せをして、
「それじゃ苺夏ちゃん、頑張ってね」
口早にそう言い残すと、チーターのように軽い足取りでささっとその場から立ち去っていった。
「平幡さんだっけ。俺、専属カメラマンの日ノ岡っていいます。よろしくねぇ」
スタジオで二人きりになった瞬間、すぐに男は得意気に腕組みをして、ひどく甘くて生温い声で自らを名乗ってきた。そのくせ顔のほうはといえば真っ黒に強く日焼けしていて田舎臭く、お世辞にも二枚目とは言えない容貌であった。
「……あ、…あの、…今日わたしは……」
「撮影内容は聞いてるよね。セクシィワンピ着てファーロシアンハットを被るってやつ。で、今日撮るものはさ、君もよく知ってる、あのVから始まるファッション雑誌に掲載される予定になってるんだ」
「まぁ、楽しんでリラックスしながらやっていこうよ」
苺夏はかなり相好を強張らせながらも、眼の前のカメラマンに何か尋ねようとしたが、か黒い顔の彼はそれに気付くことなく、直ぐさまさらさらと今日行う撮影がとある有名ファッション雑誌の被写体になるという事を明かし、そして、初めての為か張り詰めている彼女の気持ちを解きほぐそうとでもするかのように、甘く誘うような声遣いをして伝えた。なにやら饒舌そうな男である。
「さぁてと。じゃあまず右奥の部屋で白のワンピとブラックの中折れハットがあるから着替えてきて欲しいんだ」
「……あっ、ハ、…ハイ……」
「そんなに気を張らせていなくても大丈夫だから」
本格的な撮影に入る前に、奥の控室みたいなところでファッションブランドの衣服を身に纏うのだ。この場面でも苺夏は、相変わらず怯えたような表情{かお}のまま、顎をほんのちょっとだけ下にずらして頷きながら、小さい声で了した。悪怯{わるび}れたみたいような容色{かおつき}のままでいる彼女が少し滑稽に思えたのか、日ノ岡は悪戯っぽい眼睛{めつき}に哀れみの感情を込めて励ますようにに言った。苺夏はそっと、申し訳なさそうに顔を少し朱{あか}く染めながらお辞儀をすると、恥ずかしさのためかやや差し俯きながらゆっくりと、奥の着替えをする控室へと歩いていった。
(大丈夫かな…あのコ……)
カメラマンの日ノ岡は、やはりそわそわとした面持ちを隠せず、控室のドアノブにおずおずと手をかけて入ってゆくまでの様子を訝しげな眼で追っていった。いくらなんでも初めてのプロフェッショナルな撮影とはいえ、あの若い女はあまりにも人見知りし過ぎるきらいがあるじゃないか、と思えてきたからである。ブランドの衣装に着替えを済ませるため奥の部屋にこもってから十分ほどして、今日モデルデビューを果たす女はちょっとだけはにかんだような愛らしい顔をしてカメラマンのもとへと戻ってきた。
「よ、…よろしくお願いします…」
と、苺夏は畏まって深々と頭を下げて挨拶をした。
(少しは落ち着いたかな……)
そして瞬く間に桃色に染まった若い女の頬が幼く感じられたのか、カメラマンはまた悪戯っぽく眼を細めて、
「オッケー。それじゃぼちぼち撮っていこうか」
カメラのあるほうへ素早く廻ると、色黒い肌をしたカメラマンは少年のように無邪気な表情{かお}で破顔一笑して、ジェネレータータイプのストロボを小刻みに暫しのあいだ動かしていた。真正面には丁度、レフ板と呼ばれる銀色の二メートルくらいある円形の大きな板が立て掛けられていた。そして左右には、長方形の形をしたHIDのスタジオライトが、円形のレフ板を中央から端にかけて陽の光のように照らしていた。被写体であるモデルは、このレフ板を背にしてカメラを向けられる。ライトからの光と銀色の円形の板からの二方向の光が被写体であるモデルに反射する事により、常時よりも明るく立体感を伴って見える効果をプロ撮影では利用するのである。
「さあ、それじゃあ、苺夏ちゃん。ライトで照らされているその銀色の円の前に立ってごらん」
「…あっ、…ハ、ハイ……」
粋を帯びて甘く弾むようなカメラマンの声に苺夏は、気弱げにうなずいて表情{かお}を幾分真ん前から逸らしがちにして、光の当たっているレフ板の前まで足弱な子供のようにゆっくりと歩いてきた。
「よーし、そこそこ。おっ、姿勢イイねー。撫で肩のあたりなんかもセクシィだし。色っぽいよ、色っぽい。君、マジで」
日ノ岡は、気障とも受け取れるような甘すぎる声色で、緊張感に包まれている新人モデルを褒めちぎった。若い女のほうも、ここにきてやっと、杏仁豆腐みたいに透き通った白い頬を思わずニッコリとほころばせることができた。
「ぁははは…、何それ、おもしろい」
甘い声とは裏腹に蛮骨そうな真っ黒い顔をしたカメラマンは、彼女によりリラックスして撮影に臨んで貰おうと面{かお}を可笑しく歪ませたり、ちょっとした冗談口を聞かせてあげたりした。張り詰めた胸中の結氷の牙城はなんとかようやく崩れ落ち、モデルデビューをする若い女は両手で唇の辺りを覆い隠すようにして、失笑の声を洩らした。控え目で優婉な雰囲気も併せ持った彼女のそれは、嬌笑と言うべきなのかもしれない。可愛らしく緩んだ目元に釣られたのか、日ノ岡も黒奴のように褐色に焼けた顔を童児のようにしわくちゃにさせながら、声を出して貰い笑いをした。
「よしっ、それじゃあ平幡さん、そろそろ本腰いれましょうか」
虫取り網を肩に引っかけて勇んで歩く小童{こわっぱ}のように田舎臭くも無邪気な表情{かお}を全面に浮かばせていた男は、本番に入るべく合図のコトバをかけたが、甘いながらもどこか辛辣味を帯びた声色で、いよいよこれからは気合いを入れて撮影に取り掛からなければならないんだ、とでも暗に伝えるように表情までもにわかにシリアスになった。少しばかりじゃれあっていたようなムードから一転、突如厚い雲に覆われてしまったかの如く、感情を司る大脳辺縁系の扁桃体では、妙に重苦しいよというシグナルを受け取ったらしい。もともと内気で繊細な心の持ち主みたいだ。いわゆる感受性が強いっていう性質{たち}なのか。それがこういう華やかな場面でもうまく発揮してくれれば申し分ないのだが。だが、筆者が願うほど、筋書きどおりにはゆかないようだ。カメラマンは今回の撮影概要の資料をぱらぱらとめくっていたが、やがて被写体となるモデルのほうへと眼を移し、
「はい。じゃ撮っていくよ。俺の言う通りポーズ取ってってねー」
日ノ岡はすかさずストロボのレンズに眼を遣り、そこでピントを合わせるため、少しの間じっと顔を動かさずに真正面で構えていた。
「はい。じゃー彼女、左の撫で肩になってる所をもう少し意識して下げてさ、んで身体も若干おなじく左に前屈みになるような感じにしてもらっていい?」
「……こ、こんな感じ…ですか?」
カメラマンの甘く明暢で気取ったような声での指示に対し、苺夏は自身の中ですんなりその内容が飲み込めたのか、意外に割と素早く言われた通りの姿勢を作る事ができた。
「そうそう、そんな感じ。いいねぇ、苺夏ちゃん。それでその恰好のままさぁ、両腕はだらっとカラダの真ん中に下げるカンジにして」
「……ハ、ハイ…」
「そうそう。んでさ、腰は左に反らしてもらっていいかな。色っぽく読者には見せたいから」
「あっ、………ハイ」
それなりにキャリアの長そうなカメラマンは、如何にも業界人らしい軽いノリの口振りで、モデルデビューしようとする若い女に次々と撮影に入るためのオーダーをぶつけてゆく。苺夏はといえば、多少それに気後れしながらも、指示された通りのポーズをきちんと決めていった。
「そうそう、いいねぇ。セクシィだよ、苺夏ちゃん。それからさぁ、正面に対して右に四十五度くらいの方向に顔を向けてさ、意識的にあどけないって思える表情を作ってもらえる?」
「………こ、こうですか」
モデルの若い女は、少女のようなどことなく愛らしい顔貌{かおつき}をして見せたが、ふだん人前ではなかなかオモテに出すことのない表情に恥じらいを感じてしまったのか、すぐに頬はまた淡い桃色から朱色へと染まってきた。カメラマンもその変化にさっそく気付いて、幾分驚いてかモデルの赤らんできた表情{かお}のほうを少しばかり注視していたが、
「お、おーい。そんなに恥ずかしがることはないぞ」
「………い、いえ。……別に、……大丈夫です」
日ノ岡の懸念の籠った問いに、苺夏は軽く目許を緩ませてその場をどうにか取り繕おうとしたが、さっきから面{かお}に胸中の心境が表れやすい自分がいると思うと、なんだか気が気でなくなってきたのであった。
「ちょっとすみません。トイレ行ってきてもいいですか」
「えっ?あっ、うん、別にいいけど…」 「ごめんなさい、すぐ戻ります」
そう言って彼女は、そそくさと何か隠し事でもあるように、片手で顔を隠しながら、視線も落とし気味にしてその場を一時立ち去った。
(どうしよう……今までは緊張してもこんな顔赤くなっちゃうことなかったのに……いったいどうして……)
(……今あたしがしてるのは仕事なんだから…そう、だから………)
トイレの鏡の前で苺夏は、心中の陰翳を含んだ姿をそこに映し、空ろな眼をして立ち尽くした。何とかして、本来のあるべき自分を呼び戻そうと、妙に焦りの感情さえ出てくる。
(大丈夫。…別に何も恐い事なんかないんだから……)
下唇を少しぱかり噛み締め、自らを奮い立たせるように、小さなてのひらに握りこぶしをぎゅっと作った。それでも未だ胸の内で、あの何と表現したらいいかわからない空恥ずかしい気持ちがもどかしく蠢いている。また不意にすぐ、カメラが廻っている最中にそれが襲ってくるんじゃないかという不安が、どうしても拭えない。
「おーい平幡さん、聞こえるかな?もういい加減大丈夫かな?」
「こっちも時間で動いてるからさ、早めに戻ってきてほしいんだけど」
憂悶とした心情がまだ残滓のように胸の片隅にへばりついている時、廊下のほうからくだんの異性を口説き落とすような甘くて気障っぽい声が聞こえてきた。撮影の最中に立ち去る時の様子が異状に思えたので、何事が起こったのかとカメラマンは心配になって声を掛けに来たのであった。
「……あっ、……もう大丈夫だと思います。……ごめんなさい」
「どっか気分でも悪くなったの?そん時はちゃんと一言伝えてね、撮影のほうは中止するから」
トイレにきちんと入ったふりをするため、苺夏は白い薄手の綿のハンカチをさりげなくポケットに忍ばせながらようやく出てきた。
「すみません。お待たせしましました」
「おぉ、大丈夫かい?」
「口の辺りを片手で覆うような恰好して出て君がいったからさ、今日はもうもしかしたら駄目かと思っちゃったよ」
「あっ、…ホントに……すみませんでした……」
「さっ、それじゃすぐ向こうに戻ろうか」
何事もなかったかのように笑みを作りながら女を少しだけ顧みてそう言うと、日ノ岡はまた一人先に、元いた自分のポジションへと足を運ばせていった。
それからは、撮影のほうはお昼までほとんどこれといった問題もなく順調に進んでいった。休憩はわずか三十分だけしか取れず、すぐに午後の撮影が慌ただしいなか始まった。ろくにお昼の時間が取れなかったのか、カメラマンの口元をよく見ると、橙色をした食べ物の染みかすが唇の端っこのに少しだけべったりと付着しているのがわかった。苺夏はふとそれに気が付くと、クスッとまた失笑を表情に浮かべた。日ノ岡はそれに気付くと、悪戯っぽくおどけたような視線をちょいとだけ投げ掛けた。
「平幡さん、初っ端から長い撮影でごめんねー。本来なら初めてだし少ないカット数で終わるんだけどさー。…でもどうしても事務所が君を推したいっていうし、………まっ、それだけ君は期待されてるってことだよ」
「………えっ、そんな、……私が、……ですか…?」
「そうだよ」
嬉しいような、恥ずかしいような、苺夏は、唇の辺りを片方の小さな白い手で軽く覆い隠し、まさか自分なんかが信じられないという気持ちをすぐ表情{かお}に表した。そんな彼女に対し、カメラマンはまるで恋人でも意識するかのように小さくウインクをすると、再び束になっている資料をぱらぱらと忙{せわ}しそうに捲り出した。
「じゃあ、今度はまた別のポーズを作ってもらおうかな。っていうか苺夏ちゃんホントそのロータスのミニワンピとリネンハット似合ってるよねー。黒川さんが久々のニューホープが来たって言ってただけのことはあるよ、キミ」
「やっぱ、カワイイね」
「さて、気を取り直していこうか」
撮影に際しての段取りを細かくチェックし終わると、カメラマンは午前中と同じく、彼特有の甘い声色でモデルに対してその気にさせるような文句をぽんぽんと提供していった。小難しい理由などない。褒めちぎる事で、オードブルを眼前に囲んだような気分にさせてあげたかったのである。短いお昼休憩中に彼女は、同じミニワンピの今度はブラック色に着替え、アイテムである帽子は鍔がとにかく広いのが特徴のリネンハットでキメるよう指示されていたのであった。
(マネージャーの黒川さんって、……そんなにわたしのこと気にかけてくれてくれてるんだ………)
慎重な性格の苺夏だったが、少しばかり半信半疑な心境にも囚われつつも、空ろでどことなく蠱惑{こわく}的な眼差しをカメラマンのか黒い顔に投げ掛けた。日ノ岡は、若い娘だけにしか見られないそのどこかいじらしいながらも神秘的ともいえる表情に一瞬吸い込まれていったが、
「はい。じゃあ今度してもらうポーズなんだけれど、自然な撫で肩になってるのをもう一回意識してさらに左に少し下ろすような感じね。ここは午前中やったのと同じだね。で、今度はさぁ、両手をリネンハットに廻してもらいたいんだよね。細かく言うとさぁ、左手の人差し指はリネンハットの鍔に軽くつけるような感じにしてもらって、で、右はさ、髪の毛を掻きあげるような感じで肘を前に突き出して、…それでこっちの手は鍔を直接掴むようにしてもらっていい?」
「あっ、…はい。………」
「…………こんな感じ、ですか」
「そうそう。いいねぇ。肩のラインはもともといい線沿って下りてるからそんなんでいい感じだよ」
(…んで、それで、………こうして……)
カメラマンの反応とは裏腹に、苺夏は、個々のつぶさなポーズを幼子のように自分の頭に言い聞かせるようにしてキメていったが、緩慢で何となくぎこちないのが嫌だった。
(それにしても妖精みたいな雰囲気のする女だな。巷の若い娘にはない透明感というものが伝わってくる……)
日ノ岡は暫しのあいだ、さりげなくそっとモデルのほうを眺めていたが、やはりさっきと同じく、そして魂が洗われるような崇高な感じさえ彼の胸中に染み入ってきたのであった。
「こんな感じ……ですか?」
「………あ、お、お、おう。……おう、そうだね。おぉイイ感じじゃん」
女モデルの小さな呼び声にもすぐには気付かず、ほんの短い間ではあったが、思わず恍惚感に浸ってしまったのである。そしてまた、甘い商売柄の声をして被写体の女を上手くその気にさせようとする。苺夏のほうも園児が衣服を着るような遅くじれったい動作をしてはいるものの、カメラマンの指示された通りのポーズを比較的きちんと作っていけているのであった。
「はーい。そしたらね、今度顔の向きと表情なんだけれど、顔の向きはね、真正面に対して左三十度くらいで顎引き締めてさ、撫で肩のほうにけっこう引き寄せる感じかな。で、そこから視線は右に真正面を見てさ、顔はとにかくスウィーティーな表情を作ってもらいたいんだよね。要約して言うなら、どこか頼りなくも甘く淡い哀しみの色を帯びた艶{なまめ}かしい表情ってやつかな。ハハハ、まー簡単に言っちゃえば、数多{あまた}の男を君一人に惹きつけてしまう感じかな。まぁ、たとえば眼の前に男がいるとして…だね。君はその男に声を掛けてもらえるような甘い視線を投げ掛ける‥みたいな。自分の中でイメージを膨らませてみてさ、ちょっと作ってみてごらん」
「…ハ、ハイ。わかりました」
少年みたいに熱っぽい顔でまるで立て板に水とでもいうかの如く、面貌{かお}に似合わず女々しくとろけるような業界人の気障っぽい声が小さなスタジオに響いて聞こえた。対照的に若い女のモデルはといえば、何かに怯えたようなはっきりしないもどかしい顔貌{かおつき}でカメラマンの蛮人のように真っ黒い面を見据えていた。そして、日ノ岡の要望に対してか弱そうに頷くと、驚いたことに途端に、経験をそれなりに務めたモデルに負けないくらに凛と澄ました表情を作って見せた。
「そう。いいねぇ、君。さすが期待のニューフェースだね。それでもう少しだけさぁ、哀愁にとり憑かれた瞳で男を意識した感じの視線をこっちに向けてもらいたいんだよね」
「は、はい。…………こんな感じ?」
「うん。いい感じだね、平幡さん。ナイスだよ」
細かいリクエストにも苺夏は難無く応じる事が出来ていた。カメラマンは満足感を表すようにストロボに直{す}ぐ目を遣り、ちょこちょこと小刻みに幾らかレンズを動かして被写体の若い女を覗き込んだ。
「それで最後にさ、またお尻のところをぐっと胴体{からだ}から反らしてセクシィに見えるようにしてもらいたいんだよね。左のほうに意識して少し大胆に反らしてごらん」
「えっ、……あっ、…ハ……ハイ」
と、彼女は言葉を詰まらせながら頷いたが、ここにきてどういうわけか頭の中が急に真っ白になってしまい、一時の間ではあるが呼吸は些か荒い息遣いに変わり、それまでの体勢を作ったままで身動きも金縛りにあったように取れなくなり、何かに怖れ戦{おのの}いたのかしきりに両眼を瞬{しばたた}き始めた。表情{かお}もみるみる熱病に罹ったように赤らんでゆく。
「…あっ、お、おい!…どうしたの、平幡さん。また気分でも悪くなったの?」
ストロボの中を覗きながらあと少しで撮影前の最終調整に入ろうとしていた日ノ岡は、面喰らった顔して被写体であるモデルの女に、憂色を帯びた声色で話し掛けた。
「…………」
「………あっ……え、……ええと、大丈夫…です……」
「平幡さん!」
彼は動揺を隠せず直ぐさま若い女の元に歩み寄った。
「……大丈夫です。……ま、また…トイレに……」
突如起こった急な変化に理由{わけ}がわからず、狼狽と苦渋の表れた面貌{かおつき}で安否を気遣ってくるカメラマンに対し、モデルの若い女は、何とか聞き取れるであろう小さな声で心配ないと伝えたが、それは泪を流した時のように震えていた。顔は異様に、林檎{りんご}のように紅く火照っている。前髪からは一筋の汗が頬を小川のように伝っていった。苺夏は胸の鼓動が今までに有り得ないくらい、異常に速くなってきたのを自身で感じた。それと同時に、脚から胴へとぶるぶるとした感じが小刻みに身体の中を奔{はし}ってくるのがわかった。
「…す、すみません。…日ノ岡さん」
その場にいるのが堪えきれず、彼女は涙声でただ一言だけ謝ると、恥じらいのためか顔を両手で大きく覆い隠すようにして、幾分早足でトイレのほうへと離れていった。
(……どうしよう…わたしの所為{せい}で…また、……あたしのせいで、あたしのせいで、…また撮影がで中断してしまったわ)
苺夏は洗面台の鏡の前に立ち、陰鬱に陥った自分の心が眼の前の相貌{かお}に表れるのがわかると、泣き崩れるように先程と同じく顔を深く両手で覆って、数分間立ち尽くしたまま微動だにしなかった。突如としてまた襲ってきた“あの感情”が、新人モデルだけに垣間見れる特有の透明な輝きさえ失わせようとしていた。前回は何とか切り抜けられたが、今回ばかりはもう駄目かもしれない、そんな悲観的な想いが俄かに募ってきた。何が起こったのか、どうすればいいのか訳がわからず暫しのあいだ若い女は悶えていた。
((……またくるぞ、きっと…))
((……またくるよ、きっと…))
((……そしてまた顔はあからむんだ、きっと))
(………えっ?……)
(さっきのあの気持ちは本当に何の前触れもなくわたしの胸を掠めたのかしら…いや……いや、違うわ……)
煩悶とした表情で身動きを取れず苦しんでいると、ふと心中の奥底から仄{ほのか}に、男の低い野太い声と若い女のか細い声、そして男か女かはわからないが子供の喋るような甲高い声が続けざまに過{よ}ぎっていった。一瞬耳を疑って、再度それら幻の人声に耳を澄ませようと苺夏は両耳に手を当てたが、もうそれきり何処からも聴こえてくることはなかった。しかし彼ら架空三人の語調は静かであったが、彼女の耳には聢{しか}と聞こえ、現在{いま}の心境を見え透いた一言半句は、とにかく胸を潰される思いであった。若い女は途方に暮れたのか悲嘆雑じりの吐息を大きく漏らした。
(頬が真っ赤に染まってしまうくらい、…恥ずかしい気持ちが、次もまた…、次もまた起こってきたらどうしよう、ホント……)
そう考えると苺夏は、空怖くなって思わず顔を床に伏せて、少しばかり固く瞼をぎゅっと閉じたままでいた。まさにこの、“突発的に悪い変化が急に前触れなく現れてきたら”という近い未来に対する予期できない不安や恐怖が、本人の潜在意識下に溜まってしまうと、表面で活動している心とは無関係に、発作的に突然その不安や恐怖といったマイナスの観念が現実に具現化されることとなり、日常生活のあらゆる場面で支障をきたしてしまうのである。この若いモデルの女のケースを見ると、午前中に一度恥じらいの心情がふいに涌いてきて顔が赤らんでしまったという体験が、潜在意識という心の奥底にある意識でない領域に知らず知らずのうちに刻み込まれてしまったため、午後の撮影間近に来て突如としてまた、無意識のうちに午前中に生じた体験が現実というノンフィクションのストーリーに撮影の中断という一頓挫を生み出してしまったのである。
(平幡さーん。俺だけど、聞こえる?) しびれを切らして、カメラマンはまたトイレの前までやってきて声を掛けた。どのくらい化粧室の鏡の前でそうしてやって悶々としていたことだろう。苺夏は未だ胸中の整理が出来ず沈んでいたが、聞き覚えのある声にハッとして我に返り、俯けていた顔を素早く上げて、思わず外のほうに視線を移したのであった。
「…あっ、すみません、もう大丈夫です。今戻ります」
「君、本当に大丈夫?」
モデルは、今立っている洗面台の前から些か高声に自らのコンディションが回復したことを伝えたが、その声遣いは頼りない感じにカメラマンには聞こえた。
(口先だけ、もう心配はないと言われてもね…二度ある事は三度あるっていうし……)
日ノ岡は、憂慮とも呆れともつかない苦々しい表情{かお}で、彼女がトイレから一刻も早く出てくるのをドアの側から見守っていた。
「…あっ、二回もこんなことなっちゃってすみませんでした。日ノ岡さん」
「……………」
「……すみませんでした、ホントに………」
カメラマンは神妙な面持ちで腕組みしたまま無言だったので、新米のモデルの女は心底申し訳なさそうに謝り、深々と頭を下げた。
「……っていうかさぁ、。君さっきより顔蒼白くなってるけど大丈夫なの?」
「えっ…わたしの顔が…ですか」
苺夏は、自身でも信じられないといった様子で頬に指先を軽く添え、目を白黒させながらか黒い面貌{かお}を怯えるように仰視した。そしてまた、洗面台の鏡で確かめてこようかと後ろを顧みた時、
「もう今日は撮影はしないから。こんな調子じゃあね‥。マネージャーの黒川さんには伝えておくよ」
「…えっ、……いや、あの……そんな………」
カメラマンは無念そうな遣り切れない表情を見せてそう告げた。モデルがうろたえて言葉に詰まっているのを見るに耐え兼ねたのか、日ノ岡はそれから何も言わず黙ってスタジオの奥の部屋へと退いていった。
(……そんな、…そんな………どうしよう、あたし……)
感情がおのずと高まり、瞳の奥に泪が自然と溜まってきたのがわかった。気が気でなくなりつつも苺夏は、ついさっきまでHIDのスタジオライトが背後にある円形のレフ板に煌々と照りつけていたところまでゆっくりとした足取りで戻っていった。がしかし今は、眩しいくらいに放たれていた人工の光は、彼の撮影中止の判断によって消されていた。その隣にある一室ではドア越しに、日ノ岡が何やら頻{しき}りに、携帯電話で誰かと話をしている声が耳に入ってきた。おそらく、事務所の若い金髪のマネージャーである黒川であろう。苺夏はまた、脚から上半身のほうへ胴震いが奔{はし}ってきたのを感じた。
(この先わたしは………この先……わたしは、………どうなって……しまうんだろう………)
未だ初日だというのに、言いようのない濃い不安の靄が彼女の心を侵してゆく。誰にも理解{わか}ってもらえない遣る瀬なさともどかしさが胸中でじわじわと葛藤し始め、眼に見えない何者かが己の精神の自由を奪い去ろうとしている。明日という闇に恐怖さえ感じたのか、頭の中はまた真っ白になり、一筋の水滴のような洟{なみだ}が無意識のうちに透明な白い頬を伝っていった。
「あっ、あのさぁ平幡さん。五日後の水曜に再撮影したいと思うからさ。まぁ大丈夫。今回の雑誌に載せるやつは未だ猶予あるから、心配しないで本当落ち着いてやってね」
「……来週の水曜日…にまた此処に来ればいいんですか?」
「そう。黒川にもさっき俺が伝えておいたから大丈夫だよ」
もしかしたらもう今日きりで私のモデルとしての仕事はないのかもしれない、そんなふうに最悪な現実のシナリオを頭に思い描いてしまっていた苺夏であったが、カメラマンに撮影延期の話を告げられると、表情{かお}にはあらわさなかったものの、心中ではホッと安堵の吐息を洩らしたのであった。
「こんちわ。やっほー彰ちゃん、これ新宿のデパ地下で買ってきた今人気のスイーツなんだけど食べなよ」
「おぉ黒ちゃん。やっぱ来るの早いな。なんだそりゃ。ブリュレかい?」
後ろを振り返ると、事務所マネージャーの黒川が、愛嬌たっぷりの笑みを湛えて、二人のいるところへはしゃぐように駆け寄ってきた。しかし、朝スタジオを出てゆく前には輝いているように感じられた金髪のポニーテール姿が、いま何気なくふとちらりと見遣ると、どことなくそれは疲れているように見て取れた。
「おぉ? さすが熟練カメラマンさんも、甘いモノには目がないって感じ?」
「いやいや、冴ちゃんには敵わないよ」 「このブリュレはね、生地がところどころ崩れてて、焼色も薄めになってんの。で何よりとってもサクサクしててさ……」
「へええ。もしかして、ちまたで話題の注文殺到してるっていうあのヤツ?」
「そうだよん」
冗談も混じえながら彼らが喋々と親しそうに会話しているさまを端から眺めていると、かえって苺夏は負の重力に導かれ、光さえも届かない暗い深海に沈んでゆくような気分に陥ってしまった。感情のない飾り物の人形のようにただ虚しく二人のほうを見つめていると、
「あっ、ほら苺夏ちゃんも食べなよ。焼きたてだから美味しいよ」
「おぉ、そうだ。平幡さんもこっちおいで。今日の事は別に気にする事ないからさ」
女マネージャーは、例のとろけるような人懐こい微笑みを瞬時にまた作り新米モデルにも勧めると、苺夏は遠慮がちなな表情{かお}で、首をちょっとだけ縦にぎこちなく振った。
「彰ちゃん。ねぇ聞いて、聞いて。この前の日曜日ね、ウチの事務所の阿河さんと原井君と私の三人でガーデンプレイスで食べ歩きした後ボウリング行ったんだけどさー、あたし三ゲームでストライク八回も出しちゃったぁ」
「マジで?八回はすごいなぁ。そういや黒ちゃん、あの二人と仲いいんだったっけ。」
「ぅん。けっこう週末とかよくみんなで遊びに行ってるよん」
マネージャーに勧められて苺夏は、仕方なくスティッククリームブリュレを口いっぱいに噛みしめた。たしかに普段であれば頬っぺたが落ちてしまうくらいの贅沢なスイーツであったかもしれないが、彼女という“自己”をいま不気味に内面から支配している暗澹たるナニモノかに掣肘{せいちゅう}されているようで、喉は通ったが何となく、コンビニで買うデザートみたいなありきたりの食感にしか感じられらなかった。
一人取り残されてしまうような場面はいつ誰にだってある事だ。気持ちが冴えず沈んでいる時ほど、人の親切や喜ばしい事物を快く受け入れられず、とかく、厭わしく思ってしまうものである。このモデルの女も、そんな人生の“惰性”の法則にもれる事なく、しごく憂鬱な気分へと心の天秤が傾いてしまったがために、マネージャーとカメラマンが温かく接してくれようとしていたにもかかわらず、冬の外気の下に置かれたスープのように一人ぽつんと孤立から抜け出せなかったのであろう。
撮影は日ノ岡から言われた通り、翌週の水曜日に行われた。午前中だけの予定であったが、またしても彼女は顔を紅潮させてしまう。そこで急遽、午後においても日ノ岡はストロボに眼を遣らなければならず、カメラマンはやむを得ずモデルに対し一部ポーズのカットを命じて本撮影に入った。それでも漸{ようや}くなんとか、ファッション雑誌に飾られる自身のデビュー作品となるシーンを撮り終える事が出来たが、それは彼女にとって、鉛に始終アタマを抑えつけられているような苦痛の時間でしかなかったのかもしれない。“顔が朱{あか}らんでしまい幾度も撮影の進行を妨げてしまった”という悲痛すぎる“現実”は、以後、彼女の脳裡から離れる事はなかった。
“また起こるかもしれない、また起こったらどうしよう……”
一瞬一瞬の場面が重要視される世界に入った事でなおさらなのかもしれない。
“漠然とした言いようのない不安”
ってやつが、やがては“強迫観念”という名の鎖に変わり、数時間後などきわめて近い未来を無意識のうちに縛ってしまうことに対し、苺夏は為す術を知らず、ただただ今はもがき続けるしかなかったのである。