DATA1 播野医師
Ⅰ 播野医師
「先生、この子の病は治るんでしょうか」
「御心配なく。末永く治療を続けていきましょう」
………………………………………………
受付が閉まった六時過ぎ、播野は、勢い衰えた狸のように、机で小さく身を縮めて、今日訪れた全ての患者の症状やその経緯などをパソコンを打ちながら整理していた。 いつもと変わらぬ何の変哲もない月曜日が、未だ肌寒さ感じる弥生の夜にまた包まれてゆく。
「は~ぁ。杉浦さん家は立て続けにペットも含め四人もねぇ。あっ、いや、ペットは動物だから二匹か…」 なんてジョークにもならぬ独り言を、時にぼそぼそと呟きながら、シミの所々に付いた黄色く薄汚れた肌を時々左手で軽く掻きむしる。そして、その窶れた表情を自ら厭うように眼をつぶり、頭を左右に小刻みに動かす。
「はぁ……」直ぐさま顔を俯かせて、暫しの間、空っぽの眼でキーボードを見つめる。
既に精神科医になって二十九年の月日が流れる。毛先の整った頭には雪に覆われ始めた山の頂のように、白く染まってきていた。これまでいったい、幾人もの患者を眼にしてきたのであろう。播野は、頬杖をつき獣のように黄ばんで穢れた眼を閉じ、病院勤務の時代から独立して現在に至っている今日までを振り返る。
(思えば楽なようでいて、全然楽でなかったな。この仕事は…………)
“楽なようでいて楽ではなかった”
この今となっては責めようもないどうしようもない思いが、播野の脳をズキズキと徐に釘を打たれていくかのように刺すのであった。
(まだ病院にいた時はね、自分も若かったし。陰で未熟な私を支えてくれる医師も傍にいたが………。十八年前に独立してからは日々の業務は自身できちんと律していくしかなくなった。まぁ当たり前の事だが………。何もかも、メンタル的な面でももちろん…………)
診察室の椅子にうなだれたように腰掛けて身じろぎしないまま播野は、両手で顔を覆い隠し、若かかりし頃の追憶が、現実とのギャップを引き立てていた。
“トントン”
「先生、お先に失礼します」
「……あ、あぁ。っていうか、お、お前帰る時には此処をあからさまに覗くなって言ってるだろ。内線で呼び出してくれ、頼むから」
机に肘をついて、白髪頭をいじりながら両手で顔を覆い隠していた彼は、我に帰り、肉付きはあるがどこか血色の良くない顔つきをした受付の女に面倒臭さそうに注意を促した。
「えっ、だって先生いくら呼び出ししても何も反応なかったので…帰りの挨拶くらいしていかなきゃと思って、つい………」
長身の蒼白な顔つきをした受付の女は、自分が過失を犯して申し訳ないように気弱な声で弁解した。
「もういい。わかった、出てっていいよ。お疲れさん」
“バッタァン” 受付の女は力無く診察室のドアを閉めると、細長い階段を足早に駆け降りていった。
「まったく。あの女もあれなんかに堕ちてなきゃな。今頃は…」
再び一人になった診察室で、そう播野は俯きながら気にかけるように呟いた。もう己の他に誰もいない。細々と今日訪れた、特に新規で来た患者のデータを改めて見直してみる。
「金原、安崎、富谷、伊藤、呉、中畑。六人か。みんなそれぞれ事情は異なるものの、共通していえる事は鬱病の要素を多分に含んでいるという事だ。夜眠りに就きにくいというのが、富谷さんだっけ。」
「……フッ……………」
(まぁいい。どうせ、…………………………いつもと変わりない毎日が過ぎてゆくだけさ)
顔は年齢のせいか、黄ばんで所々にシミができ窶れた表情をしてはいるものの、ぱっと見律儀そうな紳士の風貌をしたこの医師は、ニヤッと意味深な薄嗤いを口元に浮かばせ、すぐ傍に置いてある煙草をそっと引き寄せた。そしてそれを箱の中から潔く舌に忍ばせ、先程とは違った悠長な面持ちで紫煙を燻らした。
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「フッ、こいつもあの女が振り回されたやつと同じ類だな……。」
「…………あぁ、もうこんな時間か。さぁて、おしまいにしようか。薄弱な者の事は一時忘れて……………」
播野は、欠伸をしながら両腕を上に反らせて大きく背伸びをした。時計の針は八時をさしていた。
「よしっ」
少し乱暴に今腰掛けていた開店椅子を机に片付けると、来ていた白衣を素早くハンガーに掛け、灰色のスーツに再び着替え直した。そして、幾らかの書類やファイルを入れた大きなビジネスバッグを片手に持ち、自分以外誰もいない病院を後にした。
「ふぁ~眠い…」 翌朝、播野は午前七時過ぎ、いつものように自分が開いている医院へと向かう。毎日彼は、自宅と其処とをタクシーを使って勤務している。一等地の優に百坪は超える邸宅から往復二万円にもなるのであるが、年収一千万を超える彼の金銭感覚からでは言うまでもなくちょろいものであった。
「昨日は少し買い過ぎたかなぁ。さすがにマクドのバリューセット三つにシェイク二つは。はぁ〜」
「ハハハ。先生、いくら何でも暴食は良くないですよ。まだ平日なんだから」
「いやいや。暴食なんかじゃないよ、常石君。昔からお昼休みには医院の近くにあるマクドばっかり行ってるんでね。すっかり食欲の虜になってしまったよ」
「医者の不養生なんてのにならないように気をつけて下さいね、先生。まだまだ現役なんですから」
朝の行きのタクシーの中で、播野は痩せこけて銀縁の眼鏡を掛けた馴染みの運転手とたわいのない会話を弾ませていた。一見物静かそうな感じであるが、話し出すとほとんど降りるまで舌が回り続けるのであった。
「はい、どうも。お気をつけて」
七時五十分、播野はようやく医院の前の駐車場を降りる。建物の横にあるブナとミズナラの落葉樹が今朝も陽の光を浴びて山吹色に煌めいていた。
「あ〜ぁ。今日も患者を相手に同じような一日が始まるのか…」
細長く急な階段を昇りながら、彼はこれから始まる一日が億劫に感じられて、ついぼやいてしまう。
いつもの事であった。それでも診察が始まれば、患者を眼の前にして、誠実そうな穏やかな表情で接しなければならないのである。心病んでいる者のこれまでの経緯を、まるで自分事のように聞き、そして、その経緯や患者における今の心の状態をパソコンのカルテに打ち込み、最後に患者に見合った最も適した処方箋を出してあげる事だ。口には表さずとも、播野の脳裏には、ペイシャントに対する一連のプロセスは出来上がっている。
(しかしね。そうはいっても……)
(色んな奴が来るからなぁ。メンタルで悩んでる奴っていうのは…………)
播野は近頃、といってももう大分前からなのであるが、様々なクライアントに接する事にある種の限界を感じていた。彼らは日常生活において絶えず精神不安定になるといい、何もかもやる気が起きないと症状を訴えてくる。精神科医になったばかりの頃の病院勤務時代は、少しでも心に悩みを抱えている患者の苦しみを取り去ってやりたい、いや俺ならどんどん未知なる大脳の分野を研究し、たとえ今は薬を少し余分に与えてでも病んでいる人達のために尽力を尽くそうと思っていたものだが、ここ数十年前からそうした揺るぎない情熱は、徐々に薄れていった。脳の分野はどんなに研究しても未だ神秘に包まれているのが現状である。多くの新進気鋭の若手の医師らは学会に自ら得た研究成果を発表してはいるものの、それらが実際の諸々の精神病の治癒に期待できるかといえば、現実にはまだ数々の患者に応用できる段階には至っていないのである。
(学部出たばかりの若い連中はいいよ。まだまだ爾後、未知なる大脳分野に没頭できて、それが後々患者の治療にも活きてくるかもしれないんだから)
診察が始まる前、播野は最近しばしばこのような自らを精神科医として誇りに感じる事ができないような物思いに耽っていた。
“ピーーッ”
受付から呼び出し音が鳴った。
“トントン”
「はい」
「先生、おはようございます。」
「おはよう」
「……………」
「ん?何その暗い顔は。どうかしたの?」
「あっ、先生、それが……。朝いちで予約していた権藤さん。急に今日体調のほうが悪くなってキャンセルしたいっていう電話が今さっきありまして…」
受付を任されている長身で若い女だが些か顔色の良くない野尻は、播野の顔色を窺いながら、声の調子を抑えて伝えた。
「ふ〜ん。…で、私に代わるようにと言わなかったのか」
「す、すいません。相手のほうが先にバッサリ切ってしまって…」
「近頃ドタキャンが多いのわかってるだろう、君も。…まぁ、仕方ないが………。後は患者の心の持ち方次第だろう。権藤さんなら心配いらないでしょう、まだ若いんだし。……それより、狩川にも伝えておけ。ドタキャンの電話が来たら、すぐ私のほうへ廻すようにと」
播野は一人一人のクライアントに接する時と同じく、砂漠のように乾ききった表情のない顔で、吐息雑じりに諦めの篭った口振りで、野尻に伝えた。
「通院期間は六ヶ月だったか。今日あたりまた採血して、それから新しい薬をもう一種類出してやろうかとも思ってたのに……。予想しない人にこうやって毎回ながら裏切られるんだ。」
(秀でた才能を持つ人物の末路はいつも惨めなのか……いや…………)
いや、違う、自分は決して大衆から抜きん出ているほどの才能を持った男ではない、また人から称讃されるべき人物ではない、なんて事は播野自身が微塵もなく疑うところはなかった。医師という大勢の人々から一目置かれる職業でありながら、播野は医者として今、莫大な金を得ていることに自ら軽蔑しているようでもあった。難関国立大を次席で卒業し、精神医学の分野に心血を注ごうと努めた若き日の診療室の自分が、一瞬脳裏を過ぎった。だが、五十代に入った彼にはもうそんなことはどうでもよかった。
(私は罹病の患者を精魂込めて救ってあげるどころか、今は………………)
これ以上、自分を責め続けるのは良くない、それはもうずっと前からわかっている。しかし、年齢を重ねる毎に、播野は医師として保つべき品格や患者に対する自身の接し方疑問を持つようになっていったのであった。
(まぁもちろん、クライアントも十人十色ではあるが…)
“ピーーッ”
午前八時四十分。診察時間が始まってからも絶えず、内面にいる誠実な自分と対峙していた時、患者が来た事を知らせる合図の音が鳴った。播野はパソコンにすぐ眼を移し、診察予約の一覧が記載されているファイルを開いた。
「え〜と、今日最初のクライアントは山橋さんか」
播野の表情は凛と引き締まり、昨日と同じいつもと変わらない診察がまた今日も始まろうとしていた。