論争の果て
木星を周回する燃料補給ステーション。その外周には、銀色のタンク群が並んでいる。榊と水島は、その一基である液体水素燃料タンクB4の保守足場に立っていた。
足場の外は真空である。二人の体をつなぎ止めているのは安全索と磁気靴だけ。声は宇宙服の通信機を通し、機械の調子は配管へ当てた点検棒の震えで聞き分ける。
榊は靴底の磁力を一段強くした。棒に響く循環ポンプの音は、いつもと同じ低い唸り。少し離れた水島も、教えたとおり肘を足場へ固定し、点検棒を配管へ斜めに当てている。その角度なら余計な振動を拾わない。
教えたことは、ちゃんと残っている。
「榊さん。手動の非常排気って、どこでしたっけ」
「お前の右手。黄色い保護蓋があるだろ」
水島は背後を振り返り、丸い蓋を見つけた。
「これか。図面だと上下が逆なんですよ」
「必要になってから図面を開くな。先に場所を覚えろ」
「必要になったら《ミネルヴァ》が誘導してくれます」
「なら、なぜ俺に聞いた」
「榊さんが目の前にいるからです」
水島の笑い声が通信に混じる。悪びれてはいない。榊に聞いたあとで《ミネルヴァ》にも確認するのが、こいつのやり方だった。
俺は答え合わせの前座か。
そう思いながら、先ほど見た点検棒の角度が頭に残った。
B4作業区の入口には耐圧防護扉がある。その先の通路を抜ければ、中央居住区へ戻れる。壁面端末には、作業中の権限が表示されていた。
B4――現地操作中。中央管制・保守AIの操作禁止。安全装置のみ稼働。
船外作業中に、離れた場所から機械を動かされないための規則である。いまB4を止められるのは、ここにいる榊か水島だけだった。
『非常設備の位置は、必要になる前に確認してください』
《ミネルヴァ》の声がヘルメット内に流れた。榊は点検棒を握り直す。
「今の言い方、俺の日誌にあったな」
「よくある注意でしょう」
「句読点まで同じだ」
水島の腕端末には青い進捗環が浮かんでいる。
榊個人学習記録――削除処理、三十一パーセント。
会社を相手取って二年。私物端末に残した作業日誌も、却下された改善報告も、いつの間にか保守AIの教材にされていた。
安全管理を目的とする業務利用だと会社は主張したものの、榊には日誌まで売った覚えなどない。争った末、ようやく認めさせた削除だった。
「途中で異常が出たら、処理は止まるのか」
『削除処理は設備の運転と別系統です。開始後は止められず、消した記録は戻せません』
「安全より削除が優先か」
『安全装置は別に動いています』
「ほら。だから稼働中でも処理できるんですよ」
水島は、会社の説明をそのまま口にした。
「知識まで榊さんだけのものだとは、俺は思いませんけどね。その知識で助かる人が増えるなら、使えるようにしたほうがいい」
「使うなとは言ってない。誰のものかを勝手に決めるなと言ってる」
「人が死ぬかもしれない時にも?」
「俺の日誌だ。あれは俺の一部だぞ」
水島は答えず、端末へ目を戻した。進捗環が三十二パーセントに変わった時、点検棒の底で細い音が揺らいだ。
『注意。燃料タンクB4の予防停止を推奨します』
二人は同時に圧力計を見る。針は緑の範囲、そのほぼ中央にあった。これは標準警報ではない。《ミネルヴァ》だけが見つけた小さな兆しであり、中央管制はまだ手を出せない。
『循環ポンプの軸方向振動が基準値から〇・八パーセント増加。共通排気マニホールド切替弁の応答に〇・四二秒の遅延を検出しました。現在圧力は正常です。現状が継続した場合、圧力容器限界への到達予測は二十分後です』
《ミネルヴァ》は、排気に使う弁の動きが遅いと言っている。いまは正常でも、このままなら二十分後にタンクが破裂する。予測を信じて止めるか、誤判定として運転を続けるか。決めるのは二人だった。
数字が二十分から減り始める。
「推奨手順は」
『燃料の移送を止め、B4をほかのタンクから切り離し、内部の圧力を下げます。完了まで十分です』
「根拠を出せ」
『過去の保守記録四十八件との類似に基づく予測です』
「四十八件を表示」
空中に記録番号が並び、その半数近くが薄い灰色に沈んでいる。
『十九件は削除処理中のため参照できません』
「出典の四割が消えてる予測か」
『参照可能な記録による再計算を行います』
水島が圧力履歴を開く。二本の緑色の線は、定規で引いたようにまっすぐだった。
「普通の計器は全部正常です。弁の遅れも許容値内です」
「君はどうする」
「《ミネルヴァ》は止めたほうがいいと言っています」
「君の判断を聞いてる」
水島が顔を上げた。
「警告を信用しない榊さんは、止めるべきだと思ってるんですか」
B4を予防停止すれば、四十分後に到着する燃料船は接続できない。再冷却と検査で、少なくとも半日は補給能力を失う。空振りに終われば、停止を承認した人間の名前だけが報告書に残る仕組みだった。
「AIを信じる君が止めればいい」
「本当に危なくなれば、《ミネルヴァ》が操作できるようになります。前の職場も、古い仕様もそうでした」
「ここもそうだと、通知に書いてあるのか」
水島は灰色の権限表示へ目をやった。
「通常操作を停止と書いてあります」
「非常操作は」
「別系統です」
「だから、戻ると思ってる?」
「戻らないなら、付属文書に明記するはずです」
榊は点検棒を配管へ押しつける。一定の震えの奥に、針金を弾いたような高い音があった。
この音を知っている。
三十年前、同じ型の弁を分解したことがある。画面では全開なのに、実際の弁は半分しか動いていなかった。温度の変化で軸が歪み、霜を噛んでいたのだ。
榊は非常用の排気管を別に増やすよう求めたが、金と工事期間を理由に却下されている。
「少し排気して確かめる」
「燃料を送ってる最中です。先に止めないと試せません」
「なら止めろ」
「榊さんが、この音を危険だと判断するなら止めます」
水島は承認欄を榊へ向けた。判断を求めている顔だった。
本当に同じ音なのか。三十年前の記憶を、削除中のAIに刺激されて作り直しているだけではないのか。会社と争っている今、自分は《ミネルヴァ》の誤りを望んでいないか。
「再計算を待つ」
榊は端末を押し戻した。残り時間は十八分四十二秒。
二人は三つの圧力計を見比べ、配管の温度を調べ、弁を試しに動かした。どの計器も正常と返す。調べるたびに正常が増え、警告だけが取り残されていった。
『再計算を完了。予防停止の推奨を維持します』
「確度は」
『削除された記録があるため、理由を十分に説明できません。ただし、停止を推奨します』
削除処理は五十六パーセント。水島が首を傾げる。
「さっきより説明が曖昧になってる」
「危険が減ったんじゃない。喋る材料が減ってるだけだ」
「なら、普通の警報が鳴るまで待つべきです。安全装置は別に動いてるんでしょう」
「その安全装置は、圧力が上がってから動く」
「その時には《ミネルヴァ》の非常権限も戻ります」
水島の言葉に迷いはない。榊にも、押し返すだけの証拠はなかった。
残り十五分。画面では切替弁が全開になっている。だが画面が見ているのは、弁を動かす軸の位置だけ。その奥で排気の通り道が本当に開いているかは、配管を外さなければ分からない。
防護扉の向こうでは、中央居住区の乗員たちが交代時間を迎えている。ここで予防停止を選んでも、彼らが危険を知ることはない。燃料船が接続できなくなった理由だけが、榊の名とともに報告される。
残り時間が十分になった。
『いま停止を始めれば、破裂予測時刻と同時に作業が終わります。直ちに開始してください』
「予測時刻は」
『変わっていません』
「圧力は」
『正常範囲です』
「標準警報は」
『作動していません』
水島が承認欄に指を置き、榊を見る。
「あと五分だけ待ちます。普通の警報が鳴らなければ、AIの誤判定です」
自分が押せばいい。いまなら、まだ間に合う。だが押せば、出典も示せないAIの警告へ自分の名で責任を与えることになる。そんな事情は、目の前のタンクとは何の関係もない。
分かっていながら、榊は手を伸ばさなかった。
「五分だ」
残り五分ちょうどで、標準警報が鳴った。赤い光がヘルメットの表示面で明滅し、足場を大きな震えが走る。移送ポンプの唸りは低く沈み、そのまま途絶えた。
『B4の圧力上昇を確認。燃料移送を停止。非常排気を開始します』
「《ミネルヴァ》、B4を緊急隔離。排気量を最大に」
『操作できません』
「もう非常事態だ。操作権限を戻せ」
『学習データ無効化処理中は、通常操作権限および非常操作権限が停止します』
水島の指が端末の上で止まった。
普通の時だけでなく、非常時にも《ミネルヴァ》は操作できない。水島の思い込みは外れた。
「通常だけじゃないのか」
『詳細は保守支援機能変更通知、付属文書四に記載されています』
「前の基地では戻った」
『当施設の権限状態を表示しています』
非常排気の表示は緑。命令どおり弁も動いている。それでも圧力は上がり続けた。
榊が配管図を開く。通常用と非常用の排気管は、出口の手前で同じ一本の配管につながっていた。その一本が塞がれば、どちらを使ってもガスは外へ出ない。
『排気が流れていません。出口までのどこかが塞がっています』
別系統の警報がヘルメット内に重なった。
『B4作業区を閉鎖します。防護扉が閉じるまで九十秒。中央居住区へ退避してください』
背後で耐圧防護扉の縁が白く光る。その先の通路を走れば、九十秒以内に中央居住区へ入れる距離だった。
「三十年前の改善案を出せ。会社は、却下した代わりに何をした」
榊の端末に三行が現れた。
非常用排気管の増設――見送り。
代替措置――榊の保守記録をAIへ学習させ、異常を早期発見する。
判定――同等の安全性あり。
添付図面は、三十年前に榊が描いたものだった。独立排気管を赤で加えた線も、そのまま残っている。原提案者の欄だけが空白だった。
本来なら、塞がっても使える別の排気管を増やすはずだった。会社は配管の代わりに榊の経験をAIへ入れ、早く気づけば同じ安全だと決めたのである。
「直す代わりに、俺の目を《ミネルヴァ》へ移したのか」
水島が配管図と記録を見比べる。
「榊さんの警告で、十分を稼ぐために」
「俺には不採用と言ってな」
『防護扉閉鎖まで六十秒』
画面上で、B4から隣のタンクへ赤い線が伸びていく。このまま破裂すれば、高圧ガスと破片が隣のタンクも壊す。その先には、乗員のいる中央居住区がある。
B4を配管から切り離すには両端を閉じなければならず、一人では間に合わない。
「水島、戻り配管を切れ。俺は供給側を閉める」
「榊さん、扉は」
「今なら間に合う」
「だったら――」
「君が決めろ」
命令ではなかった。水島は開いた防護扉へ顔を向ける。白い縁の内側を、退避可能を示す緑の矢印が流れている。
『防護扉閉鎖まで四十五秒』
水島は扉を背にして、B4の反対側へ走り出した。
「戻り側、やります」
榊も供給側遮断機の保護板を蹴り開ける。赤い手回し輪は薄い霜に覆われ、手の力だけでは動かない。点検棒を差し込んで押すと、三秒後に固着が解けた。
「水島、位置についたか」
『あと十二秒――着きました。保護ピンを抜きます』
「俺が先に閉じる。圧がそっちへ回る。表示を待つな、配管の震えが変わったら切れ」
『分かりました』
『防護扉閉鎖まで十秒』
榊は点検棒へ体重をかける。視界の端で扉が閉じ始め、通路の緑の灯が細くなっていく。最後に見えたのは、中央居住区へ続く丸い入口。やがて足場を重い衝撃が貫き、防護扉は完全にロックされた。
『B4作業区、隔離完了』
残り三分二十四秒。
「閉めるぞ」
手回し輪は一周ごとに抵抗を増す。肩の古傷が焼けるように痛み、点検棒がたわんだ。宇宙服の手袋の中で指が汗に滑る。
『B4圧力上昇。退避してください』
「退避先は閉じた」
『防護扉の緊急解除を要請できます』
「解除後の被害予測」
『扉を開ければ、爆発の衝撃と破片が中央区画まで届く危険が高まります』
「要請しない」
榊は輪を回し続ける。
『供給側、振動変化!』
「今だ。切れ」
『切ります――レバーが途中で止まりました』
「一度戻せ。五度でいい。噛んだ霜を逃がせ。叩くな、軸が曲がる。引きながら切れ」
『やります』
《ミネルヴァ》の表示では、榊の記録の削除が九十二パーセントに達している。
『戻り配管を適切な方法で隔離してください』
それだけだった。以前なら、どちらへ戻し、どこを引くかまで説明したはずだ。手順は榊の日誌にあるが、水島へ直接教えたことはない。
『切れました!』
供給主管と戻り配管の表示が白に変わる。
『B4の切り離しを確認。隣のタンクへ爆発が広がる危険は下がりました』
「黄色い蓋へ行け」
『手動排気ですね』
「場所は分かるな」
『もう聞きませんよ』
水島の息に、笑った気配が混じる。残り一分四十八秒。
榊がタンクの外板へ点検棒を当てると、音は高く、薄くなっていた。静けさは収束ではない。液面の上を気化した水素が占め、外板全体が圧力を抱え始めた証拠である。
『手動排気、開きます』
「一気にやるな。四分の一、戻して、もう四分の一だ」
配管を走る振動が一度だけ太くなり、すぐに細る。
『開度五十。排気流量、必要値の二十一パーセント』
一本しかない排気管は、奥で塞がっている。
いま排気を始めても遅い。隣接タンクを切り離した以上、守れるものはもう増えない。それでも手を止めれば、あとは待つしかなかった。
『圧力容器限界まで六十秒』
閉じた防護扉の解除表示が点滅する。榊はそれを消した。
「水島」
『はい』
「事故記録へ残す。最初の警告で、俺が停止を承認するべきだった」
『俺も残します。非常時になれば、AIがやると思っていました。誰が止めるのか聞かれても、最後は自動で決まるって』
「俺は君がやると思ってた」
『俺は《ミネルヴァ》がやると思ってた』
「こいつは、俺たちがやると思ってたんだろうな」
『《ミネルヴァ》、そうですか』
『私は予防停止を推奨し、必要時間を通知しました。操作権限はありません』
正確な答えだった。
『限界まで三十秒』
「榊さん。日誌、消えましたか」
進捗環は百パーセントに達している。
榊個人学習記録――削除完了。
「消えた」
『じゃあ最後に、ひとつ教えてください。次に同じ音がしたら、どうすればいいです』
榊は外板へ点検棒を当てた。もう耳を澄ます必要もない。
「正常値が続く時ほど、循環音を聞け」
B4を覆う断熱膜に白い亀裂が走り、音ではない衝撃が点検棒から榊の骨へ届いた。
*
事故から三か月後、運営会社は榊と水島の追悼式を開いた。二人の名を刻んだ記念板には、「身を挺して中央居住区を救った英雄」と記されていた。
事故記録を読めば、二人が死んだ原因は明らかだった。《ミネルヴァ》は破裂の二十分前に停止を勧めている。停止には十分かかる。それでも二人は決断せず、普通の警報が鳴るまで十五分を使った。
ところが、公表された報告書はその十五分を「AIと作業員による慎重な状況確認」と呼んだ。最初の警告で止めていれば助かったという事実は、どこにも書かれていない。
「二人の勇気と、AIによる早期発見が、ステーションを救いました」
社長が記念板の前で語ると、参列者から拍手が起きた。
「この成功を受け、当社は保守作業へのAI利用を全施設へ拡大します。二人が遺した知識も、新しいAIの中で生き続けます」
背後の画面に、新しい保守支援AIの登録内容が映し出された。
榊個人学習記録――再取り込み完了。
権利者――運営会社。
「榊さんは、その記録の削除を求めていたのではありませんか」
記者の一人が尋ねた。
「事故後の調査で、個人の日誌ではなく、業務上の安全情報だと認定し直しました。したがって、権利は当社にあります」
削除されたはずの記録は、事故調査用として残されていた複製から丸ごと戻されていた。榊はもう、異議を申し立てられない。
社長が合図すると、新しいAIが起動した。
『皆様の安全を守るため、AIの判断に従ってください』
式場に流れたのは、榊の声だった。




