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雪が降るまで  作者: 知世
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境界線

 翌朝、目覚めた。不安は消えていない。むしろ、重く、沈殿している。でも、その上に、薄い膜みたいなものが張っていて、感情が、外に漏れ出さない。


 今日は、動く。そう決めていた。理由はない。正当性もない。ただ、何かをしないと、このまま澪が現実から、少しずつ消えていく気がした。


 支度をして、学校へ向かう。駅のホームでも、電車の中でも、澪の姿を探す癖は、もう、抜けなかった。……いない。


 学校に着き、教室へ入る。窓際の席は、やはり、空いていた。担任が出席を取り、水無月澪の名前を呼ぶ。返事は、ない。


「今日も欠席か」


 淡々とした声。それだけで、状況が、確定したような気がした。……今日も、来ない。


 授業は、ほとんど、頭に入らなかった。ノートを取る手は動いているのに、内容は、まったく、記憶に残らない。視線は、何度も、空席へ向かってしまう。そこには、今日も誰もいない。


 いつまで、空いたままなんだろう。そんな考えが、ふと、頭をよぎる。……やめろ。そう思えば思うほど、考えてしまう。


  午後の授業も、相変わらず、集中できなかった。チャイムの音が、やけに遠く聞こえる。気づけば、放課後になっていた。クラスメイトたちが、次々と、教室を出ていく。ざわざわとした声が、廊下に流れていく。教室には、俺と、数人の生徒しか残っていない。


 俺は、鞄を持ち、立ち上がった。今日、動く。 朝、そう決めた。それなのに、今、この瞬間になって、足が少しだけ、重く感じられる。……何を、するんだ?具体的な計画は、何もない。澪の家も知らない。駅も知らない。連絡先も知らない。知っているのは、学校と、通学路の一部だけ。


  ……通学路。帰り道。澪と、何度か一緒に帰った道。途中で、別れた場所。あのとき澪は、どっちの方向へ歩いていったっけ。……右だ。駅とは反対方向。住宅街の方。俺は、教室を出て、校舎を後にした。


 校門を出て、澪といつも別れていた交差点へ向かう。そこに立つと、自然と彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。


「じゃあ、また明日」


 そう言って、小さく手を振る澪。そのまま、右へ曲がっていく後ろ姿。……あっちだ。俺は、無意識のうちに、その方向へ、足を向けていた。


 住宅街。低い建物が並び、夕方の光が、斜めに差し込んでいる。洗濯物が、風に揺れている。犬の鳴き声。子どもの笑い声。どこにでもある普通の風景。なのに、その中に澪がいないことが、やけに不自然に感じられる。


 ……ここを、歩いてたんだよな。澪は、いつも、少しだけ、足取りが軽かった。 歩きながら空を見ていたり、道端の花に目を留めていたり。何でもない景色を、何でもないように、見ていない人だった。


 俺は、角を一つ、曲がる。さらに、もう一つ。どんどん知らない道に入っていく。本当に、こっちで合ってるのか。分からない。でも、戻る気にも、なれなかった。もし、澪の家が、近くにあったら。もし、偶然、会えたら。そんな、都合のいい想像が、頭をよぎる。でも、それはすぐに、現実味のない妄想だと分かる。


 住宅街は、広い。 家は、無数にある。 その中から、澪の家を、偶然、見つける確率なんて、ほとんど、ゼロだ。……それでも。それでも、足は、止まらなかった。


 俺は、何を、してるんだろう。途中で何度もそう思う。好きな人の家を、無断で探し回る。普通に考えたら、気持ち悪い行為だ。境界線を越えている。分かっている。それでも、やめられない。胸の奥にあるのは、衝動じゃない。欲望でもない。ただの、恐怖だ。このまま何も知らないまま、彼女がどこかへ消えてしまうんじゃないかという、恐怖。だから、俺は歩く。正しいかどうかなんて、考えられない。ただ、止まれない。


 気づけば、空は、だいぶ、暗くなっていた。街灯がぽつぽつと、灯り始めている。 冷たい風が、首元を撫でる。……寒い。でも戻る気にはなれなかった。


 角を曲がった先に小さな公園があった。ブランコと、滑り台と、砂場。誰もいない。ベンチに、街灯の光が、薄く落ちている。……ここ、見覚えがある。澪と、話したことがある。


「帰り道に、小さい公園があるんだよね。誰もいなくて、好き」


 そう言っていた。そのとき、俺は、軽く、


「へえ」


 と返しただけだった。今になってその言葉が、頭の中ではっきりと、再生される。……ここか?心臓が少しだけ、強く打つ。


 俺は公園の中に入り、周囲を見回した。滑り台。ブランコ。砂場。そして、奥に細い道が一本続いている。あっちかもしれない。根拠はない。でも、ここまで来たら戻る理由もなかった。俺は、その細道へ、足を踏み入れた。


 道の両側には古い住宅が並んでいる。 外壁が少しくすんでいる家。小さな庭に植木鉢が並んでいる家。どこにでもある、普通の家並み。その中のどれかが、澪の家かもしれない。


 もし、見つけたら、どうする?インターホン、押すのか?「水無月さんの知り合いです」って?……何て言うんだ。考えれば考えるほど、現実的じゃない。そもそも、澪が本当にここに住んでいる保証もない。……なのに。なのに、足は止まらなかった。


 そのとき。ある家の前で足が止まった。理由は、分からない。二階建ての、小さな家。外観は少し古い。玄関先に、植木鉢が、いくつか並んでいる。花は、枯れかけているものが多い。……澪、こういうの好きそうだな。根拠のない感覚。でも、それが、妙に、リアルだった。


 門柱の横に、小さな表札が、かかっている。


 水無月。


 一瞬、呼吸が止まった。水無月。間違いない。この家の表札には、そう書いてある。耳の奥で、自分の心拍音が響く。……本当に、来てしまった。ここまで、来てしまった。俺は、しばらく、その場に、立ち尽くしていた。


 玄関のドア。カーテンの閉まった窓。中の様子は、まったく、分からない。……澪は、いるんだろうか。……それとも、いないんだろうか。考えれば考えるほど、足が、動かなくなる。


 ここから先は、 越えてはいけない線だ。そんな気がした。 好きな人の家を、無断で探して、ここまで来て。インターホンを押すなんて、普通じゃない。それは、善意でも心配でも、ただの越境だ。分かっている。……分かっているのに。でも、 このまま何も分からないまま帰れるか?答えは、分かっていた。帰れない。ここまで来てしまったら。ここまで、恐怖が、膨らんでしまったら。


 俺は、玄関の前に立ち、インターホンを、見つめた。白い、丸いボタン。たった、それだけのものなのに、やけに重く感じられる。指を、伸ばす。……躊躇。……ためらい。……迷い。いくつもの感情が絡まり合う。


 そのとき。 中から、足音が、聞こえた。……え。心臓が、跳ねる。玄関の向こうで、誰かが、歩いている気配。カチャ、という小さな音。鍵が、回る音。……開く? 俺は反射的に一歩、後ずさった。やばい。今さら何を、どう言えばいい。逃げるべきか。でも、足が動かない。


 次の瞬間。 玄関のドアが、ゆっくりと、開いた。現れたのは……澪、じゃなかった。中年の女性。少し、疲れたような顔つき。きちんと整えられていない髪。


「はい......?」


 警戒と訝しさが混じった声。


「……どちらさま?」


 喉がひくっと鳴る。頭の中が、一瞬で真っ白になる。……何て言う?……どう説明する?でも、口から出た言葉は、考えていたものとはまったく違っていた。


「……水無月さんに、会いに来ました」


 気づいたときには、そう言っていた。声が、少し震えていた。


「……澪の?」


女性の表情がわずかに変わる。驚きとも、戸惑いとも取れる、微妙な変化。


「……澪は、今、いません」


 即答だった。あまりにも、即座で、感情の温度がない。


「……そう、ですか」


 そう返すしかなかった。でも引き下がれない。


「……あの、学校ずっと休んでいて」


「……そう」


 女性は短く答える。それ以上、何も言おうとしない。会話が途切れる。ドアは、半分閉じられたまま。


 このまま終わる。そんな予感がした。俺は咄嗟に口を開く。


「……具合、悪いんですか」


 女性は一瞬、黙り込む。それからゆっくりと、息を吐いた。


「……あなた、彼氏?」


「……いえ」


 即答だった。恋人だ、と言えなかった、自分が情けなく感じられる。


「……友達?」


「……はい」


 そう言いながら、自分の声が少し、揺れているのを、感じた。女性は、俺をじっと、見つめる。まるで、値踏みするように。


「……澪は、今、誰とも会いたくないの」


 その言葉は柔らかく、でも、はっきりと、拒絶の意味を持っていた。


「……でも、心配で」


「……心配?」


 女性の声が、わずかに強くなる。


「……あなた、澪の何を知ってるの?」


 その問いに、答えられなかった。何を知ってる?好きな飲み物。卵サンド。笑ったとき、目が少し細くなること。悲しいとき冗談を言うこと。……それだけ。肝心なことは、何も知らない。黙り込んだまま、答えられずにいると、女性は小さく、ため息をついた。


「……そう。……なら、これ以上踏み込まないで」


 その言葉は、責めるようでもなく、優しいようでもなく、ただ、静かだった。


「……でも」


 俺は思わず言い返していた。


「……俺、ただ、会いたいだけで」


 それだけなのに。それだけなのに、どうしてこんなにも、難しいんだ。女性は、その言葉を、じっと聞いていた。


「……それが、一番困るのよ」


「……え?」


「……優しい理由ほど、人を傷つけることもあるから」


 これ以上踏み込むな。そう言われている。唇を噛みしめる。ここまで来て、 それでも、何もできない。その事実が悔しかった。


「……澪に、伝えて、もらえますか」


 そう言うしかなかった。


「……俺が、来たって。……会いたがってるって」


 女性は少し驚いたような表情を浮かべる。それから、小さくため息をついた。


「……伝えるわ」


 それは約束のようでもあり、その場しのぎの言葉のようでもあった。俺はそれ以上、何も言えなかった。言えば言うほど、自分が余計な場所に足を踏み入れている気がしたから。


「……すみません」


 そう頭を下げる。女性は何も言わなかった。ただ、ゆっくりとドアを、閉めた。


 ……ガチャ。鍵の音が静かな住宅街に響く。俺はその場に立ち尽くした。遠くから、車の音がかすかに聞こえる。


 ……終わった。何も、分からなかった。 澪がどんな状態なのかも、なぜ休んでいるのかも。ただひとつ、分かったことがある。俺は、彼女の世界の外側にいる。それだけ。それがはっきりと、突きつけられた。


 俺は、ゆっくりとその家から離れた。さっきまで、必死に探していたはずなのに、 見つけた瞬間、近づけなくなる。それがやけに、皮肉に感じられる。


 帰り道。さっき通った公園をもう一度、通る。ブランコは、相変わらず、誰も乗っていない。風で鎖がかすかに揺れている。


 夕焼けが、街を、薄く、赤く染めている。その色が、やけに、冷たく見えた。


 家に帰ると、急に疲れがどっと押し寄せてきた。鞄を床に置き、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今日の出来事を、何度も思い返す。 表札の「水無月」。インターホン。玄関のドア。女性の声。頭の中で、何度も、繰り返される。


 会えない。その事実をどう受け止めればいいのか、分からない。……でも。少なくとも澪は、どこかに、ちゃんと、存在している。消えてしまったわけじゃない。 それだけで、少しだけ救われた気がした。


 ……なのに。別の重たい感情が、静かに沈んでいる。俺はここまで、しなくちゃ、ならないくらい、彼女に依存していたんだ。その事実に今さら気づく。気づいて、怖くなる。でも、それを止めたいとも思えなかった。


 ……会いたい。ただ、それだけだった。


 夜、部屋の窓を開けると、冷たい風がカーテンを揺らした。空はまだ雪の色じゃない。それなのに、澪がいないこの世界は、こんなにも、冷たい。

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