届かない
翌朝。目覚ましが鳴る前に、目が覚めていた。眠れた気がしない。それでも、体は勝手に動いた。今日、澪が来なかったら。
支度をして、家を出る。昨日より、空気が少しだけ、冬に近づいている気がした 駅へ向かう途中、何度も、スマホを確認する。……もちろん、何も来ていない。来るわけがない。連絡先を知らないんだから。分かっているのに、何度も、画面を点けてしまう。
ホームで電車を待ちながら、無意識に、澪の姿を探す。……いない。
学校に着いて、教室へ入る。窓際の席。やっぱり、空いていた。嫌な予感が、現実になった瞬間だった。担任が出席を取り、澪の名前を呼ぶ。返事は、ない。
「今日も欠席か」
淡々とした声。それだけの言葉が、嫌な音を立てて響く今日も。昨日だけじゃない。それだけで、状況は、少し、違って見えた。
体調不良。そう思いたい。でも、二日連続で、何の連絡もなく欠席するのは、さすがに、不自然な気もする。
授業が始まっても、ノートに、ほとんど文字が書けない。 頭の中では、澪のことばかりが、ぐるぐる回っている。
昨日の、駅前での表情。胸に顔を埋めてきた、あの仕草。あれは、何だったんだ。
本当に、ただの風邪なのか。考えれば考えるほど、不安は、強くなる。
休み時間。俺は、ついに、誰かに聞くことにした。隣の席の、クラスメイト。
「なあ、水無月の連絡先、知ってる?」
できるだけ、平静を装って、そう聞く。
「水無月? いや、知らないけど……」
「そうか」
あっさりした返事。別のクラスメイトにも、聞いてみる。
「水無月さん? ああ、あの静かな子でしょ」
「連絡先、知らない?」
「んー、あんまり、誰とも連絡取ってないんじゃない?」
……誰とも。その言葉が、妙に、引っかかる。澪は、確かに、クラスで浮いているわけじゃないけど、特定の友達と一緒にいる姿も、ほとんど見たことがない。一人で本を読んでいたり、窓の外を見ていたり。俺が話しかける前から、どこか、孤立しているような、浮遊しているような存在だった。
そんな彼女が、二日も連続で休んでいる。しかも、誰も、理由を知らない。担任に聞くべきか。一瞬、そう思う。でも、踏み出せない。もし、「ただの体調不良です」と言われたら。それで、納得できるか?……できない気がした。もし、「家庭の事情です」と言われたら。それ以上、踏み込めなくなる。どちらにせよ、俺は、何もできない。
昼休み。俺は、食堂にも行かず、校舎の廊下を、ただ、歩いていた。行き先も決めずに、ぐるぐると、同じ場所を回る。自分でも、何をしているのか、よく分からない。ただ、止まっていると、不安が、さらに、濃くなってしまう気がして。
気づけば、保健室の前に立っていた。澪は、よく、ここに来ていた。体調が悪いから、というより、静かな場所だから、という理由で。以前、たまたま廊下で会ったとき、そんなことを言っていた。
今も、ここにいるかもしれない。そんな、根拠のない期待。俺は、扉の前で、しばらく、立ち尽くした。
……いや。いないに決まってる。だって、欠席なんだから。 それでも、ノックせずにはいられなかった。コン、コン。
「……はい」
保健室の先生の声。扉を開ける。白いカーテン、ベッド、薬品の匂い。澪の姿は、なかった。
「どうしたの?」
「……水無月、来てますか」
そう聞いた瞬間、自分でも、少し、驚いた。こんなふうに、はっきり、名前を出して探すなんて、昨日までの俺なら、できなかった。でも、今は、そんな躊躇よりも、不安のほうが、ずっと、大きかった。
「水無月さん? 今日は来てないわよ」
「……そうですか」
分かっていた答えだ。
「何かあったの?」
「……いえ」
適当に答えて、保健室を出る。廊下に出た瞬間、肩の力が、抜けた。いない。それだけの事実が、重い。
午後の授業も、ほとんど、頭に入らなかった。黒板の文字を、ただ、写しているだけ。意味は、何も、理解していない。気づけば、窓際の空席を、何度も、見ている。そこには、相変わらず、誰もいない。この席が、ずっと、空いたままだったら。そんな考えが、頭をよぎる。心臓が、ぎゅっと、縮む。……考えるな。そう思えば思うほど、逆に、考えてしまう。
放課後。帰り支度をしていると、担任が、教卓から声をかけてきた。
「常盤」
「……はい」
「水無月さんと、仲良かったよな?」
突然の言葉に、胸が、跳ねる。
「……まあ」
曖昧に答える。
「彼女、しばらく休むらしい」
しばらく。
「……体調不良ですか」
「詳しくは聞いてないけどな。家庭の事情もあるみたいだ」
家庭の事情。その言葉は、便利で、残酷だった。理由を説明したようでいて、何も説明していない。それ以上、踏み込めない、壁のような言葉。
「……そうですか」
それだけ言って、俺は、席に戻った。頭の中が、真っ白になる。しばらく、休む。それは、つまり。明日も、明後日も、澪は、いないかもしれない、ということだ。いや。もっと、長いかもしれない。……どれくらい?その「しばらく」が、どれくらいなのか、誰も、教えてくれない。
教室を出る。廊下を歩きながら、心が、じわじわと、締めつけられていく。このまま、会えなくなるんじゃないか。そんな考えが、現実味を帯びてくる。
駅へ向かう道。いつもなら、澪と並んで歩いていた道。今日は、一人。昨日よりも、空が、低く感じられる。風が、冷たい。……本当に、冬が近づいている。
ホームで電車を待ちながら、俺は、何度も、スマホを見た。何も、来ていない。当たり前だ。それなのに、期待してしまう。
もし、澪が、どこかで、俺に連絡しようとしていたら。
もし、俺が、番号を知っていたら。
もし、昨日、交換していれば。
そんな「もし」が、頭の中で、無限に、増殖していく。
家に帰っても、落ち着かなかった。夕飯を食べても、味が、ほとんど、分からない。テレビをつけても、内容が、頭に入ってこない。
結局、部屋に戻り、ベッドに座り込む。……何も、できない。無力感。
俺は、スマホを手に取り、検索画面を開いた。
水無月澪。
名前を、入力しかけて、指が、止まる。……何を、期待してるんだ。同姓同名の誰かが、出てくるだけだ。それでも、指は、動いてしまった。
検索結果。当然、関係のない人ばかり。顔も、年齢も、違う。澪の姿は、どこにも、なかった。当たり前だ。俺は、さらに、検索窓に、別の言葉を打ち込む。学校名。水無月。澪。組み合わせを変えて、何度も。けれど、何も、出てこない。まるで、澪という存在が、最初から、世界には、存在していなかったみたいに。その感覚が、妙に、不安を煽る。
本当に、いるんだよな。そんな、馬鹿みたいな疑問まで、頭に浮かぶ。昨日まで、普通に、話してたのに。手、繋いでたのに。胸に、顔、埋めてきたのに。
それなのに、今日は、もう、どこにも、いない。世界から、切り取られたみたいに。こんなにも、簡単に、いなくなるんだ。
俺は、スマホを置いて、天井を見上げた。部屋の灯りが、ぼんやりと、白い。
澪は、今、どこにいるんだろう。何を、してるんだろう。本当に、体調が悪いだけなんだろうか。考えれば考えるほど、不安は、形を持ち始める。
ただの欠席。 ただの体調不良。ただの家庭の事情。そう思えたら、どれだけ、楽だろう。でも、俺の中では、もう、それだけでは、 済まなくなっていた。
会いたい。理由なんて、ない。正当性も、ない。ただ、彼女が、いないことが、耐えられない。その感情だけが、はっきりと、残っていた。
俺は、スマホを握りしめる。何か、手がかりは、ないか。澪について、俺が知っていること。クラス。席。好きな飲み物。卵サンド。
……それだけ。家も知らない。 駅も知らない。 連絡先も知らない。俺は、彼女のことを、本当に、何も、知らなかった。
それでも。それでも、俺は、思ってしまう。
探さなきゃ。
昨日は、ただの衝動だった。でも、今日は、違う。これは、もう、衝動じゃない。必要だ。理由なんて、どうでもいい。ただ、彼女がどこかにいると、知りたい。生きていると。ここに、存在していると。それだけでいい。そう思った瞬間、 はっきりとした決意のようなものが芽生えた。
俺は、スマホを見つめながら、小さく、息を吐いた。明日。明日、何か、行動しよう。具体的に何をするかは、分からない。でもこのまま何もしないでいるのだけは、もう、耐えられなかった。
窓の外では、風が冷たく、街路樹を揺らしている。まだ、 雪は降っていない。それなのに、もう冬が、始まっているような気がしていた。




