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雪が降るまで  作者: 知世
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予感

 目が覚めた瞬間、嫌な違和感があった。理由は分からない。ただ、今日は何かが、うまくいかない気がする。そんな、根拠のない予感。


 カーテン越しの空は、薄い灰色で、季節の境目みたいな色をしていた。


 学校へ向かう途中、無意識に、彼女の姿を探している自分に気づく。 駅のホーム。改札。人混み。いない。……いや、たまたまだ。そう自分に言い聞かせながら、教室へ入る。


 けれど、窓際の席は、空いていた。誰も座っていない机と椅子が、そこだけ、ぽっかりと空白になっている。まだ、来てないだけだ。そう思いながら、席に着く。


 チャイムが鳴る。担任が入ってくる。出席を取り始める。


「水無月澪」


 返事は、なかった。


「欠席か」


 担任の、何でもない一言が、冷たい音を立てて落ちる。欠席。それだけの言葉なのに、やけに、重く聞こえた。風邪、だろ。そうだ、きっと、風邪だ。昨日、少し寒そうだったし。そう自分に言い聞かせながらも、ノートに書いている文字が、まったく頭に入ってこない。視線は、何度も、空席へ向かってしまう。澪が座っているはずだった場所。そこには、誰もいない。それだけの事実が、どうしようもなく、落ち着かない。


 休み時間。俺は、スマホを取り出して、澪の名前を探した。いや。そういえば、連絡先、交換してないんだった。今さら、その事実が、突き刺さる。恋人なのに。いや、恋人だからこそ、連絡先くらい、普通は知ってるだろ。


 何やってんだ、俺。 澪の机を、ちらりと見る。カバンは、置いていない。本当に、今日は来ていないらしい。誰かに聞けばいい。そう思うのに、口が開かない。「水無月、今日どうしたの?」たったそれだけの言葉なのに、なぜか、聞く勇気が出ない。もし、「知らない」と言われたら。もし、「連絡も取ってないの?」と怪しまれたら。……何より。もし、「しばらく休むらしいよ」と言われたら。その事実を、受け止められる気がしなかった。だから、俺は、何も聞けずに、ただ、空席を見つめ続けていた。


 昼休み。いつものように、校舎裏へ行く。無意識のうちに、足が、そこへ向かっていた。ベンチは、空いている。昨日まで、澪と並んで座っていた場所。風が吹いて、落ち葉が、ベンチの下を転がっていく。昨日、ここで、卵サンド食ってたな。どうでもいい記憶が、やけに鮮明に浮かぶ。


 俺は、ベンチに座り、コンビニ袋を開けた。中身を見るだけで、食欲が失せる。結局、袋を閉じて、スマホを取り出した。……連絡先。やっぱり、ない。昨日、交換しておけばよかった。そんな後悔が、今になって、胸を締めつけてくる。なんで、交換しなかったんだっけ。はっきりした理由は、ない。ただ、なんとなく。近づきすぎるのが、怖かった。でも、今は、その距離のせいで、何もできない。馬鹿だ。そう思いながら、画面を消す。


 午後の授業も、ほとんど、記憶に残っていない。教師の声は、ずっと、遠くで響いているみたいだった。板書を写しても、文字が、頭に入らない。何度も、窓際の席を見てしまう。そこには、ずっと、誰もいない。その空白が、時間が経つごとに、少しずつ、大きく感じられる。放課後。教室を出ようとしたとき、クラスメイトの会話が、耳に入った。


「……水無月、今日休みなんだって」


「最近、体調悪そうだったもんね」


「そうなんだ」


 それだけの、何気ない会話。昨日の、澪の顔が、頭に浮かぶ。駅前で、胸に顔を埋めてきた、あの仕草。大丈夫、と、何度も言っていた、あの声。あれは、本当に、大丈夫じゃなかったんじゃないか。


 帰り道、足取りが、やけに重い。いつもなら、澪と並んで歩いていた道。今日は、一人だ。


 駅のホーム。反対側の電車を待ちながら、無意識に、澪の姿を探してしまう。……いるわけ、ないのに。それでも、視線は、勝手に動く。いない、と、分かるたびに、体の奥が、少しずつ、冷えていく。


 家に帰っても、落ち着かなかった。ランドセル代わりのリュックを床に置き、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、何度も、澪のことを考えてしまう。


 風邪、だよな。明日には、来るよな。


 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥の違和感は、消えない。俺は、スマホを手に取る。……やっぱり、連絡先は、ない。分かっているのに、何度も、画面を確認してしまう。


 馬鹿だ。同じ言葉が、何度も、頭の中で繰り返される。


その夜、夢を見た。雪の降る道を、澪が、一人で歩いている夢だった。白い息を吐きながら、振り返らずに、どこかへ向かっている。俺は、後ろから、必死に名前を呼ぶ。でも、声は届かない。距離は、縮まらない。足は、動かない。ただ、彼女の背中だけが、遠ざかっていく。


 ――澪。


 名前を呼んだところで、目が覚めた。心臓が、早鐘のように鳴っている。部屋は、暗い。カーテンの隙間から、街灯の光が、細く差し込んでいる。


 ……夢、か。そう思っても、胸のざわつきは、消えなかった。時計を見る。午前二時。眠れる気がしなかった。


 俺は、ベッドから起き上がり、窓を開ける。冷たい空気が、頬に触れる。冬の匂いが、少しだけ、混じっている。……初雪は、まだだ。それなのに、なぜか、ひどく、冷たい。


 いなくなる。そんな言葉が、頭をよぎる。根拠なんて、何もない。ただ、嫌な予感だけが、沈殿している。


 俺は、スマホを握りしめながら、考える。


 明日も、来なかったら、どうする?


 その次も、来なかったら?


 そのまま、ずっと、いなかったら?


 考えれば考えるほど、呼吸が、浅くなる。心臓が、内側から、強く、脈打つ。何も、できない。それが、一番、怖かった。連絡先も知らない。家も知らない。共通の友達も、いない。


 俺と澪を繋ぐものは、 同じクラスで、同じ時間に、同じ場所にいるという、それだけだった。その前提が、崩れた瞬間。俺は、彼女に、何一つ、手を伸ばせない。


 ……そんな関係だったのか。今さら、その事実に、気づく。恋人なのに。恋人なのに、俺は、彼女のことを、ほとんど、何も知らない。知らないまま、失うかもしれない。


 俺は、スマホを胸に抱えたまま、ベッドに座り込んだ。明日。明日、澪が来なかったら。俺は、どうするんだろう。そう考えた瞬間、はっきりとした感情が、形を持った。


 探さなきゃ。理由なんて、いらない。正当性も、いらない。ただ、彼女がいないかもしれない、という現実だけで、もう、十分だった。その夜、俺は、ほとんど眠れなかった。

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