触れられない
月曜日の朝。教室に入った瞬間、俺は、無意識に視線を探していた。窓際の席。そこに、水無月澪の姿があった。日差しを背中に受けて、机に頬杖をつきながら、ぼんやりと外を見ている。休日の私服姿よりも、制服姿のほうが、少しだけ現実感が薄い。学校という場所に、完全には馴染んでいない感じがする。
……あ。その瞬間、妙なことに気づいた。俺、今、無意識で探してたな。
席に着くと、澪がこちらを見て、小さく手を振った。その仕草が、あまりにも自然で、心臓が、ほんの少し跳ねる。……何やってんだ、俺。
授業が始まっても、どうにも集中できなかった。黒板の文字をノートに写しながら、時々、視線が澪の方に流れる。彼女は、相変わらず外を見ていたり、ノートに何かを書いていたりするけれど、どこか、元気がないようにも見えた。気のせいだろうか。そう思おうとしても、どうしても、視線を外せない。
昼休み。購買に行こうと席を立ったとき、澪が、少し遅れてこちらに近づいてきた。
「透くん」
「……ん?」
「今日、一緒に食べよ」
それは、昨日までの流れを考えれば、自然な提案だった。なのに、なぜか、少しだけ緊張する。
「……いいけど」
俺たちは、校舎裏のベンチに向かった。いつもの場所。風が通って、静かで、人が少なくて、一人になるにはちょうどいい場所。……だったはずの場所。二人で来ると、こんなにも違う空気になるんだな、と、歩きながら思う。
ベンチに座って、パンを取り出す。澪も、紙袋からサンドイッチを出した。
「何それ」
「卵」
「……意外と普通だな」
「透くんに言われたくない」
そう言いながら、澪は、小さく笑った。……けど。その笑顔が、どこか、無理しているように見えた。
「……澪」
「ん?」
「……疲れてるのか?」
思わず、そう聞いていた。澪は、一瞬だけ、きょとんとした顔をして、それから、視線を逸らす。
「……別に」
「本当に?」
「うん」
その返事は、少しだけ、早すぎた。俺は、パンの袋をくしゃっと握りしめながら、続ける。
「……なんか、元気ない気がして」
「気のせい」
澪は、そう言い切った。でも、その声は、どこか、硬かった。踏み込みすぎたか。そう思って、それ以上、何も言えなくなる。
沈黙が流れる。風が、木の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。しばらくして、澪が、ぽつりと言った。
「……透くんってさ」
「……ん?」
「私のこと、心配してる?」
「……そりゃ」
「どうして」
「……恋人だから」
そう答えながら、自分の言葉に、少しだけ違和感を覚えた。恋人だから、心配する。それは、正しい理由のはずなのに、どこか、嘘っぽく聞こえた。本当は、もっと別の理由がある気がして。でも、それを言語化する勇気はなかった。
「……ふーん」
澪は、頷く。
「それなら、いいや」
「……何が」
「心配されるの、嫌いじゃない」
……嫌いじゃない、か。肯定とも、拒否とも言い切れない、曖昧な距離感。それが、今の俺たちには、ちょうどよかった。
午後の授業。数学の時間、黒板の前に立つ教師の声が、やけに遠く聞こえる。ノートを取りながら、俺は、斜め前の澪の背中を見ていた。背中。肩。首筋。細い。細すぎないか?そんな考えが、ふと、頭をよぎる。制服の上からでも分かるくらい、澪は、華奢だった。前からそうだったのか、それとも、最近、そう見えるようになっただけなのか、分からない。
気にしすぎだろ。自分にそう言い聞かせながらも、視線を逸らせない。授業中、澪は、何度か、ペンを落とした。それを拾う仕草も、どこか、鈍い。本当に、大丈夫なのか。
放課後。帰り支度をしていると、澪が、俺の机の横に立った。
「透くん」
「……ん?」
「今日、一緒に帰れる?」
「……ああ」
その返事を聞いて、澪は、少しだけ安心したみたいに、息を吐いた。そんなに、不安だったのか?その反応が、妙な引っかかりを残す。
校門を出て、駅へ向かう道。夕方の空は、薄く曇っていて、どこか、冬の気配が混じっている。
「寒くなってきたな」
俺が言うと、澪は、小さく頷く。
「……うん」
「上着、ちゃんと着ろよ」
「……うん」
返事は、ある。けれど、どこか、上の空だ。俺は、少しだけ迷ってから、澪の手を取った。昨日と同じように。澪は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、そっと、握り返してくる。手のひらは、相変わらず冷たい。いや、昨日よりも、冷たい気がする。
「……澪、冷えてる」
「そう?」
「……手」
「ああ」
澪は、軽く笑う。
「体温、低いんだよね」
昨日も、同じことを言っていた。でも、今日は、その言葉が、なぜか、引っかかる。
「……本当に、それだけか?」
「え?」
「……何でもない」
問いかけてから、後悔した。これ以上、踏み込んだら、何かが壊れる気がしたからだ。澪は、俺の顔を見て、少しだけ、困ったように笑う。
「……心配性だね、透くん」
「……悪いかよ」
「悪くない」
そう言って、澪は、俺の手を、ぎゅっと握り直す。その力が、少しだけ、強かった。離されるのが、怖いみたいだ。そんな考えが、頭をよぎる。
駅前の人混みで、俺たちは、少しだけ、距離を縮める。澪は、無意識のうちに、俺の袖を掴んでいた。「……はぐれるのが、嫌。」デートの時に言っていた言葉が、頭の中で、再生される。その理由が、ただの人混みの問題じゃないことを、俺は、なんとなく、察していた。
改札の前で、立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
「……ああ」
澪は、そう言いながらも、すぐには、手を離さなかった。数秒。ほんの数秒。でも、その時間が、やけに長く感じられる。
「……澪?」
「……ん」
「……何か、言いたいことあるなら」
そう言いかけた瞬間。澪は、急に、俺の胸に、額を押しつけてきた。
「……っ」
声が詰まる。人目のある場所で、そんなことをされるとは思っていなかった。
「……澪?」
周囲の視線が、気になる。でも、澪は、動かなかった。俺の制服の胸元に、額を預けたまま、じっとしている。
「……ごめん」
澪は、小さく言った。
「……どうした」
「……なんでもない」
「……なんでもなくないだろ」
そう言うと、澪は、ようやく、顔を上げた。目が、少しだけ潤んでいる。泣いてる?いや、泣いてはいない。でも、その一歩手前みたいな、ぎりぎりの表情だった。
「……澪」
「……大丈夫」
澪は、そう言って、無理に笑う。でも、その笑顔が、あまりにも苦しそうだった。
「……大丈夫じゃないだろ」
「……大丈夫」
繰り返す。まるで、自分に言い聞かせるみたいに。俺は、言葉に詰まった。ここで、踏み込むべきなのか。それとも、踏み込まないほうがいいのか。分からない。 でも、一つだけ、確かなことがあった。このまま、何も聞かずに離れるのは、嫌だった。
「……澪」
俺は、できるだけ、静かな声で言う。
「……何かあったなら」
「……」
「……言わなくてもいい。でも」
「……」
「……一人で抱えなくていい」
それは、恋人として言うには、少しだけ重い言葉だったかもしれない。でも、嘘じゃなかった。
澪は、しばらく、俺の顔を見ていた。その視線は、迷っている人のものだった。何かを言うか、言わないか。 頼るか、頼らないか。 その境界線の上で、揺れているような目。やがて、彼女は、ゆっくりと、視線を逸らす。
「……ありがとう」
それだけ。……それだけだった。でも、それ以上、追及することは、できなかった。
改札の向こうで、澪は、振り返って、小さく手を振った。その笑顔は、いつもより、少しだけ弱々しかった。俺は、その背中を見送りながら、違和感のようなものを覚える。……何かが、確実に、ずれてきている。そんな感覚が、離れなかった。
家に帰ってからも、澪の表情が、頭から離れなかった。駅前での、あの一瞬。 胸に顔を埋めてきた、あの仕草。あれは、ただの甘えだったのか。それとも。考え始めると、止まらなくなる。
俺は、ベッドに横になりながら、スマホを手に取った。連絡先。そういえば、まだ交換していなかった。恋人なのに。今さらすぎる事実に、少しだけ、自分でも呆れる。でも、その理由が、なんとなく、分かる気もした。番号を知ったら、連絡を取るのが当たり前になる。当たり前になったら、依存してしまいそうで。……もう、片足突っ込んでる気もするけど。
俺は、天井を見上げながら、ぼんやりと思った。この関係は、どこまで行くんだろう。 俺は、どこまで踏み込んでしまうんだろう。澪は、何かを隠している。それは、確実だった。でも、それ以上に、確実なのは、俺が、すでに、水無月澪という存在を、“失うかもしれないもの”として、意識し始めている、という事実だった。失う前提で始めたはずなのに。失うことを、できるだけ、考えないようにしていたはずなのに。それでも、心は、勝手に、彼女の存在を、日常の中心に押し上げ始めている。それが、何よりも、怖かった。




