初雪の予感
土曜日。目覚ましが鳴るより先に、目が覚めていた。理由は分からない。ただ、いつもより少しだけ、意識が浅い場所に浮かんでいる感じがした。眠気は残っているのに、眠り続ける気にもなれなくて、天井を見つめたまま、ぼんやりと考える。
デート。その言葉が、頭の中に浮かぶ。人生で初めて使う種類の言葉だと思った。少なくとも、自分に関係するものとしては。付き合って二日でデート、というのも、冷静に考えるとよく分からない流れだけど、そもそも、この関係自体が普通じゃない。初対面で「初雪が降る頃にはいなくなる」と告げられて、その場の勢いで恋人になるなんて、どこの物語だよ、と思う。……まあ、俺の人生らしいか。
いつも、理由の分からない流れに乗せられて、気づいたら知らない場所に立っている。それが、俺の日常だった。
集合場所は、駅前の時計塔。ありがちな待ち合わせ場所だけど、そういう定番を選ぶあたり、澪は意外と無難なのかもしれない、と思いながら、俺はその前に立っていた。
十分前。周囲には、同じように誰かを待っている人たちがいて、スマホを見たり、空を見上げたり、落ち着きなく足を動かしたりしている。俺も、その一人だった。……落ち着かない。別に、何か失敗する予定があるわけじゃない。会うだけだ。昨日も会っているし、今日は学校じゃないだけで、本質的には変わらないはずだ。なのに、心臓が、妙に静まらない。
「……透くん」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、澪が立っていた。私服姿だった。淡い色のニットに、黒のスカート。学校で見る制服姿よりも、少しだけ柔らかくて、現実感が強い。人混みの中にいても、なぜか、視線がそこに吸い寄せられる。
「……おはよう」
「おはよ」
澪は、小さく手を振った。その仕草が、やけに自然で、心が、少しだけざわつく。
「早いね」
「……そっちこそ」
「デートだし」
やめてほしい。そういう単語を、そんな軽い調子で使うの。でも、澪は、俺の動揺なんて気づいていないみたいで、周囲を見回しながら言う。
「どこ行くか、決めてないんだよね?」
「……まあ」
「じゃあ、歩きながら考えよ」
そう言って、彼女は当然のように歩き出す。俺も、それに続いた。駅前の通りは、休日のせいか、平日よりも人が多い。家族連れ、カップル、友達同士。そういう中を、俺と澪は並んで歩く。……カップル。その単語が、頭をよぎる。俺たちも、そう見えるんだろうか。その考えに、妙な違和感を覚える。嬉しいとも、恥ずかしいとも、少し違う。ただ、現実感がない。
「ねえ、透くん。手、つなぐ?」
「……また?」
「恋人っぽいでしょ」
「……昨日も言ってたな、それ」
「うん」
澪は、あっさり頷く。
「でも、今日は、昨日より人多いから」
「だから?」
「はぐれたら嫌だ」
その理由が、意外だった。もっと、軽い冗談で言っているのかと思ったのに、澪の声は、ほんの少しだけ、真剣だった。……はぐれるのが、嫌?それって、どういう意味だ。問い返そうとして、でも、言葉が出てこなかった。
代わりに、俺は、そっと手を差し出す。澪は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、俺の手を握った。昨日よりも、少しだけ強く。手のひらは、相変わらず冷たい。でも、その冷たさが、昨日ほど気にならなかった。むしろ、触れているという事実の方が、意識を占めていた。
「……ありがと」
澪は、小さく言った。
「別に……」
そう返しながら、俺は、胸の奥が、わずかに温かくなるのを感じていた。何だこれ。ただ手をつないでいるだけなのに。
歩きながら、俺たちは、適当に店を覗いたり、ウィンドウに映る自分たちの姿を見たり、どうでもいい話をしたりした。
「透くんって、休日何してるの?」
「……特に何も」
「ゲーム?」
「少し」
「友達と遊んだり?」
「……あんまり」
「ふーん」
澪は、それ以上、何も聞かなかった。なぜか、心地よかった。 踏み込んでこない。でも、離れてもいない。ちょうどいい距離感。……いや。距離は、確実に近づいているはずなのに、心理的には、まだ遠い場所にいる気がする。それが、少しだけ、不安だった。
商店街の端に、小さなカフェがあった。外観は古くて、看板も色あせているけど、ガラス越しに見える店内は、落ち着いた雰囲気だった。
「ここ、入ろ」
澪が言う。
「……いいのか」
「うん、なんとなく」
なんとなく、で決めるのが、彼女の流儀らしい。店内は、思ったより静かで、客もまばらだった。木製のテーブルと椅子、低い音量で流れるピアノ曲。時間の流れが、外よりも遅い気がする。
窓際の席に座る。向かい合う形で。それだけで、なぜか、少しだけ緊張する。メニューを見ながら、澪が言う。
「透くん、コーヒー飲める?」
「……苦手」
「じゃあ、紅茶?」
「……それも微妙」
「子供だな」
「うるさい」
結局、俺はココア、澪はカフェラテを頼んだ。注文を終えて、しばらく沈黙。窓の外を、人が通り過ぎていくのが見える。誰かと誰かが笑いながら歩いている。誰かが誰かの腕を引いて、店に入っていく。こういう光景の中に、自分が含まれている感じが、どうにも不思議だった。
「ねえ、透くん」
澪が、ふと、言った。
「私たちさ」
「ん?」
「ちゃんと、恋人に見えるかな」
「……知らない」
「他人から見たとき」
「……どうでもいいだろ」
「私は、ちょっと気になる」
そう言って、澪は、カップを両手で包み込む。
「……なんで?」
「だって」
澪は、少しだけ、視線を伏せる。
「どうせなら、ちゃんとしたかった」
その言葉が、胸に引っかかる。どうせなら。その言い方は、どこか、終わりを前提にしているみたいで。
「……ちゃんと、って?」
「恋人なら、恋人らしく」
「……もう十分じゃないか」
「そうかな」
澪は、小さく笑った。でも、その笑顔は、どこか、満足していないようにも見えた。飲み物が運ばれてくる。俺のココアから、甘い匂いが立ち上る。澪のカフェラテからは、少しだけ苦い香り。
「交換する?」
澪が言う。
「……なんで」
「飲み比べ」
「意味分からん」
「デートっぽいでしょ」
「……それ好きだな、そのフレーズ」
そう言いながらも、俺は、カップを差し出した。澪は、それを受け取って、一口飲む。
「……甘い」
「そりゃそうだろ」
「透くんみたい」
「またそれか」
こんな会話を、誰かとする日が来るとは思っていなかった。特別に面白い話をしているわけでもないし、盛り上がっているわけでもない。でも、不思議と、時間が過ぎるのが早かった。しばらくして、澪が、ふと、言った。
「透くんってさ」
「ん?」
「自分のこと、好き?」
「……は?」
唐突すぎて、思考が追いつかなかった。
「何で、そんなこと聞くんだよ」
「なんとなく」
「……好きなわけないだろ」
反射的に、そう答えていた。言ってから、少しだけ後悔する。別に、そこまで否定する必要はなかったはずなのに。でも、澪は、驚いた顔をしなかった。むしろ、どこか納得したみたいに、静かに頷いた。
「……そっか」
「……悪いかよ」
「ううん」
澪は、ゆっくりと首を振る。
「私も、あんまり好きじゃない」
「……」
「だから、ちょっと安心した」
「……何が」
「似てるなって」
その言葉が、胸の奥に、じんわりと沈んでいく。似てる。そんな風に誰かに言われたのは、たぶん、初めてだった。
「……別に、似なくてもいいだろ」
「でも、似てると、楽」
「……楽?」
「説明しなくていいから」
澪は、そう言って、カップを置いた。
「嫌なところとか、怖いところとか、わざわざ言わなくても、なんとなく分かる感じ」
「……そんなの、分かんないだろ」
「分かるよ」
澪は、俺を見る。その目は、不思議なくらい真っ直ぐで、静かで、でも、どこか切実だった。
「だって、透くん」
「……?」
「私と同じ目してる」
心臓が、少しだけ、跳ねた。
「……どんな目だよ」
「消えそうな目」
その言葉は、冗談めいていなかった。むしろ、観察結果を淡々と述べているみたいな、そんな声音だった。
「……失礼だな」
「うん、ごめん」
澪は、少しだけ笑った。
「でも、嫌いじゃない」
「……フォローになってない」
消えそうな目。そんな風に、自分のことを言語化されたことはなかった。でも、なぜか、否定しきれない感覚があった。……俺は、本当に、存在感が薄い人間なのかもしれない。澪は、窓の外を見ながら、ぽつりと言う。
「私さ」
「ん?」
「透くんと会えて、よかった」
その言葉は、あまりにも自然で、あまりにも真っ直ぐで、逆に、どう受け取っていいのか分からなかった。
「……急だな」
「思ったから」
「……どうして」
「理由、必要?」
「……必要だろ」
澪は、少しだけ考えてから、言った。
「たぶん、私」
「ん?」
「透くんが、私のこと、ちゃんと見てくれそうだなって思った」
「……どういう意味だよ」
「そのままの意味」
澪は、こちらを見る。
「私のこと、消える前提じゃなくて、“今いる人”として見てくれそう」
……そんなつもりは、なかった。むしろ、俺は、最初から、彼女が消える前提で、この関係を始めたはずなのに。
「……そんなことない」
思わず、否定していた。
「俺、普通に……」
普通に、何だ?普通に、彼女を恋人として見ている?普通に、彼女の言葉を信じている?普通に、彼女のいなくなる未来を、どこかで受け入れている?どれも、正解でもあり、不正解でもある気がして、言葉にできなかった。
「……まあ、いいや」
澪は、そう言って、話題を切り替える。
「次、どこ行く?」
「……考えてなかったんじゃないのか」
「今から考える」
その軽さに、少しだけ救われる。それ以上、その話題を続けるのは、なぜか、怖かった。カフェを出て、川沿いの道を歩く。水面には、空が映っていて、雲がゆっくりと流れている。風が冷たくなり始めていて、秋が終わりに近づいているのを、肌で感じる。
「寒くない?」
俺が言うと、澪は、少しだけ肩をすくめる。
「ちょっと」
「……上着、貸そうか」
「いいの?」
「……まあ」
そう言って、俺は、自分のパーカーを脱いで差し出す。澪は、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、ゆっくりとそれを受け取った。
「……ありがと」
袖を通した彼女は、少しだけ嬉しそうに、腕を動かす。
「大きい」
「そりゃそうだろ」
「でも、落ち着く」
その言葉が、妙に胸に響いた。……落ち着く。誰かに、そんな風に言われたことが、今まであっただろうか。澪は、しばらく無言で歩いていたけれど、やがて、ぽつりと呟く。
「透くんの匂いする」
「……言わなくていい」
「安心する匂い」
「……だから言わなくていい」
そう返しながら、でも、なぜか、心臓が、少しだけ速くなる。夕方が近づいてきて、空の色が、少しずつ変わっていく。川の水面に映るオレンジ色が、揺れている。
「ねえ、透くん」
澪が言う。
「もしさ」
「……また、もし、か」
「うん、また、もし」
澪は、小さく笑った。
「もし、私が、普通の人だったら」
「……普通って何だよ」
「余命とか、そういうの、何もなくて」
「……」
「それでも、私と付き合ってた?」
その問いは、思ったよりも、胸に刺さった。もし。そんな仮定をすること自体が、彼女の言葉を、嘘だと決めつけているみたいで、少しだけ、嫌だった。
「……分かんない」
正直に答える。
「だって、今の澪しか、知らないし」
「……そっか」
澪は、それ以上、何も言わなかった。でも、その横顔は、どこか、満足そうだった。
夕暮れの中、二人で川沿いのベンチに座る。人通りは少なくなっていて、風の音と、水の流れる音だけが、静かに続いている。しばらく、言葉のない時間が流れる。不思議と、落ち着く沈黙だった。……なのに。
「ねえ、透くん」
澪が、突然、言った。
「私が死んだら」
「……やめろよ」
「最後まで聞いて」
「……」
澪は、こちらを見る。その目は、冗談を言う人の目じゃなかった。でも、悲しそうでもなかった。ただ、静かで、真剣だった。
「私が死んだら」
澪は、ゆっくりと言葉を選ぶみたいに、続ける。
「ちゃんと、悲しんでくれる?」
その問いに、言葉が詰まった。……ちゃんと、悲しむ?そんなの、分からない。
「……そんなこと、考えるなよ」
俺は、そう言うのが精一杯だった。
「だって」
澪は、小さく笑う。
「私は、透くんに、忘れられるのが、一番怖いから」
……忘れられるのが、怖い。死ぬことよりも?いなくなることよりも?その問いを、口に出す勇気はなかった。
「……忘れないよ」
代わりに、俺は、そう言っていた。反射的に。でも、それは、嘘じゃなかった。
「……ほんと?」
「……たぶん」
「たぶんか」
澪は、少しだけ、不満そうに言った。
「でも、いいや」
そう言って、彼女は、俺の肩に、そっと頭を預ける。距離が、急に、ゼロになる。体温が、伝わってくる。重さが、伝わってくる。存在が、伝わってくる。心臓が、強く打ち始める。……近い。近すぎる。なのに、押し返す気にはならなかった。むしろ、動くのが、怖かった。この距離が、壊れてしまいそうで。
澪は、しばらく、そのまま黙っていた。呼吸が、少しだけ、規則的になる。
「……透くん」
「……ん」
「私さ」
澪は、俺の肩に頭を乗せたまま、言う。
「生きてる時間、ちゃんとしたいんだ」
その言葉は、胸の奥に、ずしりと落ちた。
「……ちゃんと、って?」
「ちゃんと、誰かと一緒にいて」
「……」
「ちゃんと、好きになって」
「……」
「ちゃんと、覚えてもらって」
最後の言葉が、胸に刺さる。覚えてもらって。忘れられたくない。彼女の中には、その恐怖が、想像以上に強く根を張っている気がした。
「……透くん」
「……ん」
「私のこと、好き?」
その問いは、思ったよりも、ずっと静かで、ずっと切実だった。冗談でも、軽い確認でもない。 答えによって、何かが変わる気がして、心臓が、少しだけ強く鳴る。
「……分かんない」
正直に言った。
「……まだ」
付き合って、数日だ。恋人だと言われているけど、恋という感情が、何なのかも、よく分かっていない。それなのに、好きかどうかを聞かれて、即答できるほど、俺は器用じゃなかった。澪は、少しだけ、目を伏せる。
「……そっか」
声は、静かだった。でも、その静かさの中に、ほんの少しだけ、落胆が混じっている気がした。
「……でも」
俺は、続ける。
「……嫌いじゃない」
それは、あまりにも弱い言葉だったかもしれない。でも、嘘は言いたくなかった。澪は、しばらく黙ってから、ふっと笑う。
「それで、十分」
そう言って、また、俺の肩に、頭を預け直す。その重さが、妙に愛おしく感じられて、俺は、自分でも驚いた。……おかしい。これは、ただの期限付きの関係のはずなのに。どうして、こんなにも、感情が動くんだ。
夕方の風が、少しだけ冷たくなる。川の水面が、夕焼けを映して、ゆっくりと揺れている。しばらくして、澪が、ぽつりと呟いた。
「ねえ、透くん」
「……ん」
「雪、好き?」
「……昨日も聞かれたな」
「うん」
「……嫌いじゃない」
「私も」
澪は、そう言って、少しだけ笑った。
「初雪ってさ」
「……」
「世界が、一回、リセットされる感じがして」
「……どういう意味だよ」
「分かんない。でも、全部が白くなって、今までのことが、ちょっとだけ、遠くなる感じ」
その言葉に、なぜか、嫌な予感がした。リセット。遠くなる。消える。
「……リセットされなくてもいいだろ」
俺は、思わず言っていた。
「今のままで」
澪は、その言葉を聞いて、少しだけ、目を見開く。それから、ゆっくりと、微笑んだ。
「……そうだね」
でも、その声には、どこか、納得しきれていない響きがあった。日が落ち始めて、空が、紫色に変わる。そろそろ帰る時間だった。駅までの帰り道、俺たちは、また手をつないで歩いた。昼よりも、少しだけ、力が強くなっている。澪の手は、相変わらず冷たいけれど、なぜか、離したくないと思っている自分がいて、それに、少しだけ、戸惑った。
「今日は、楽しかった?」
駅前で、澪が聞く。
「……まあ」
「まあ、か」
「……楽しかったよ」
そう言うと、澪は、少しだけ、安心したみたいに、息を吐いた。
「よかった」
「……澪は?」
「うん」
彼女は、小さく頷く。
「楽しかった」
……その言葉で、よかった。それだけで、十分だった。
「じゃあ、また月曜」
「……ああ」
改札の前で、立ち止まる。澪は、少しだけ、言い淀むような間を置いてから、言った。
「ねえ、透くん」
「……ん?」
「今日は、ありがと」
「……何に対してだよ」
「全部」
そう言って、澪は、少しだけ笑った。それから、くるりと踵を返して、改札に向かう。俺は、その背中を、なぜか、じっと見ていた。
初雪が降る頃には、いなくなる。その言葉が、また、頭をよぎる。けれど、今日は、それが、昨日よりも、ずっと現実味を帯びて感じられた。……もし、本当だったら。もし、本当に、彼女が消えるなら。俺は、そのとき、どうなるんだろう。悲しむのか。壊れるのか。それとも、何も変わらないふりをするのか。分からない。
でも、一つだけ、分かっていることがあった。水無月澪は、もう、「消える予定の誰か」じゃない。今、この瞬間、隣にいて、手をつないで、笑って、話して、体温を持っている、“生きている人”だ。その事実が、俺の中で、静かに、でも確実に、何かを壊し始めている。




