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雪が降るまで  作者: 知世
2/7

二人の距離

 水無月澪と付き合うことになった、らしい。らしい、というのは、俺自身がまだその事実を現実として処理しきれていなかったからだ。屋上で小指を絡めて、「期限付き恋人ね」と言われただけで、恋人という概念が成立するなら、世界はもっと簡単にできていると思う。


 でも、次の日の朝。 昇降口で靴を履き替えているときに、後ろから声をかけられた。


「おはよ、透くん」


 振り返ると、水無月澪が立っていた。昨日と同じ顔なのに、昨日とはまったく違う距離感で。


「……おはよう」


 ああ、これ、冗談じゃなかったんだ。彼女は、自然な動きで俺の隣に立ち、靴箱を開ける。そこに自分の上履きを入れて、何事もなかったかのように言った。


「今日から、よろしくね。恋人」


 その言葉の破壊力を、彼女はたぶん、分かっていない。 心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。


「……その言い方、やめてくれる?」


「どうして?」


「目立つから」


「安心して。誰も聞いてない」


 そう言って、彼女はきょろっと周囲を見回す。確かに、登校時間のピークは過ぎていて、廊下はまばらだった。でも、そういう問題じゃない。


「……なんか、慣れない」


「そのうち慣れるよ」


 彼女はあっさり言った。慣れる。その言葉が、妙に引っかかった。慣れるほど続く、って前提なのか?いや、続かないはずだ。だって、彼女は。


「ねえ」


 澪は、俺の顔を覗き込むようにして言った。


「放課後、時間ある?」


「……特に予定はないけど」


「じゃあ、一緒に帰ろ」


「……恋人っぽいな」


「恋人だからね」


 当然のように言われて、何も返せなくなった。


 教室に向かう途中、廊下の窓から見える空は、昨日と同じように高くて、薄くて、秋の匂いがした。なのに、世界の見え方が、ほんの少しだけ違う。誰かと付き合うって、こういうことだっただろうか。もっと、嬉しいとか、浮かれるとか、そういう感情が先に来るものだと思っていた。でも、俺の中にあるのは、戸惑いと、困惑と、それから、理由の分からない、静かな緊張だった。


 澪は、俺の隣を歩きながら、時々、ちらっとこちらを見てくる。何か言いたそうで、でも言わない。その視線が、妙に重かった。


 午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。黒板の文字をノートに写しながら、俺は何度も、澪の横顔を盗み見ていた。窓際の席で、彼女は頬杖をついて、外を見ている。授業を聞いているようには見えない。でも、寝ているわけでもない。ただ、何かを考えているような、遠い目をしていた。初雪が降る頃には、いなくなる。その言葉が、何度も頭の中で再生される。彼女は、なぜ俺にそれを言ったんだろう。なぜ、初対面の俺に。なぜ、あんなにも淡々と。それを考えると、胸の奥が、少しだけ冷たくなる。


 昼休み。俺はいつものように、購買で買ったパンを持って、校舎裏のベンチに向かった。人が少なくて、風が通って、静かで、人でいるにはちょうどいい場だった。……はずだった。


「やっぱりここにいた」


 背後から聞こえた声に、思わず肩が跳ねた。振り返ると、澪が立っていた。


「なんで分かったんだよ」


「なんとなく」


 彼女はそう言って、俺の隣に座る。距離が、近い。昨日まで、こんな距離で女子と座ったことはなかった。近すぎて、どうしていいか分からない。パンの袋を持つ手が、少しだけ落ち着かなくなる。


「透くん、ここ好きなんだ?」


「……まあ」


「静かだもんね」


「うん」


 会話が、続かない。でも、沈黙は、不思議と苦じゃなかった。屋上と同じだ。空が広くて、人の存在が薄まる場所では、言葉は少なくていい。……なのに。澪は、黙ったまま、じっと俺の顔を見ていた。


「……何?」


「いや」


 彼女は、少しだけ視線を逸らす。


「ちゃんと、いるなって思って」


「は?」


「透くんが」


 意味が分からなかった。


「……どういう意味?」


「そのままの意味」


 彼女はそう言って、パンの袋を開ける音を聞きながら、遠くを見る。


「昨日さ、屋上で会ったとき、君、風景の一部みたいだった」


「……失礼だな」


「悪い意味じゃないよ。背景に溶け込んでる感じ。触ったら消えそうな、みたいな」


「それ、悪い意味だろ」


「うん、たぶん」


 澪は、少し笑った。でも、その笑い方は、どこか寂しそうだった。


「でも今は、ちゃんと人だなって思う」


「……なんだそれ」


「恋人補正、かな」


「そんな補正、いらないんだけど」


 そう言いながらも、胸の奥が、わずかに温かくなるのを感じてしまった自分がいて、俺はそれをごまかすように、パンを一口かじった。澪は、俺の手元を見て言う。


「それ、何パン?」


「クリームパン」


「……一口ちょうだい」


「は?」


「恋人だから」


 その言葉の使い方、ずるくないか?断る理由が思いつかなくて、俺はパンを差し出す。澪は、少しだけ躊躇してから、ぱくっとかじった。


「……甘い」


「そりゃそうだろ」


「透くんみたい」


「は?」


「甘そう」


「……どこが」


「顔」


「適当言うな」


 そう返しながら、でも、どこか落ち着かない。他人が、自分の食べているものを口にするのを、こんなにも近くで見るのは初めてだった。距離が、急に縮んだ気がして、心臓が、少しだけ速くなる。澪は、それに気づいているのかいないのか、何事もなかったかのように言った。


「ねえ、透くん」


「ん?」


「恋人ってさ、何するものだと思う?」


「……急にどうした」


「いや、確認」


 確認、って。


「普通は、一緒に帰ったり、連絡取ったり、デートしたり……じゃないの」


「デート」


 澪は、その言葉を、口の中で転がすみたいに、ゆっくり繰り返した。


「したことない?」


「……ない」


「私も」


 意外だった。 彼女は、見た目も整っているし、話してみると変だけど、それなりに人当たりも悪くない。恋人がいたことがない、というのは、少しだけ想像しづらかった。


「じゃあさ」


 澪は、ベンチから立ち上がって、俺の前に立つ。


「今週の土曜、デートしよ」


「……急だな」


「期限付きだから」


 ああ、そうだった。この関係には、終わりがある。最初から、終わりが決まっている。それを、俺は忘れかけていた。


「……どこ行くんだよ」


「考えてない」


「考えてから誘えよ」


「一緒に考えるのが、デートでしょ?」


 理屈としては意味不明だけど、なぜか、反論する気にはならなかった。


「……分かったよ」


「やった」


 澪は、子供みたいに笑った。この笑顔は、消える前提なんだ。そう思った瞬間、なぜか、息がしづらくなった。


 放課後。昇降口で待っていると、澪が走ってきた。


「ごめん、委員会長に捕まってた」


「委員会?」


「図書委員」


「……意外」


「どういう意味」


「もっとこう……自由人かと」


「失礼だな」


 そう言いながら、澪は少しだけ笑う。そのまま、並んで校門を出る。夕方の空は、オレンジ色で、影が長く伸びている。秋が深まりつつあることを、視界の端のすべてが教えてくる。


「ねえ、透くん」


 歩きながら、澪が言った。


「手、つなぐ?」


「……は?」


「恋人っぽいでしょ」


「……そうだけど」


 そうだけど、って何だ。拒否する理由はない。でも、受け入れる理由も、よく分からない。なのに、断るのは、なぜか、すごく悪いことのような気がした。俺は、少しだけ迷ってから、手を差し出す。澪は、少し驚いた顔をして、それから、そっとその手を握った。手のひらが、冷たい。屋上で小指を絡めたときと、同じ冷たさだった。


「……冷たいな」


「体温、低いんだよね」


「……大丈夫かよ」


「大丈夫、大丈夫」


 そう言いながら、澪は、俺の手を、ぎゅっと握り直す。その力が、少しだけ強くて、まるで離すまいとしているみたいで。


 校門から駅までの道は、十分もかからない。なのに、その時間が、妙に長く感じられた。沈黙が続いているのに、気まずさはない。むしろ、言葉を発しないことで、何か大事なものが壊れずに済んでいるような、そんな感覚があった。


 この関係は、軽いはずだ。終わる前提で始めた、軽い関係。傷つかないための、仮の恋人。そう、思っていたのに。手をつないで歩いているだけで、心臓が、少しだけ速くなる。隣を歩く彼女の存在が、やけに現実味を帯びてくる。これ、やばくないか。そんな予感が、じわじわと広がっていく。


「ねえ、透くん」


 駅前に着いたとき、澪が、足を止めて言った。


「もしさ」


「ん?」


「私がいなくなったら、どうする?」


 その問いは、あまりにも唐突で、俺は言葉に詰まった。


「……なんだよ、それ」


「質問」


「縁起でもない」


「最初に言ったのは私だけどね」


 澪は、少しだけ笑った。でも、その笑顔は、どこか、覚悟を含んだものに見えた。


「……考えたこと、ない」


 俺は、正直に答えた。だって、考えたくなかったからだ。


「ふーん」


 澪は、それ以上、何も言わなかった。でも、その沈黙の中に、何か言葉にできない重さが含まれている気がして、俺は、無性に落ち着かなくなった。やがて、澪は、俺の手を離す。


「じゃあ、また明日」


「……ああ」


 改札に向かう彼女の背中を、俺は、なぜか、ずっと見ていた。小さくて、細くて、でも、妙に存在感のある背中。初雪が降る頃には、いなくなる。その言葉が、また頭をよぎる。嘘かもしれない。冗談かもしれない。そう思おうとしても、なぜか、そうは思えなかった。


 家に帰ってからも、彼女のことが、頭から離れなかった。夕飯を食べながらも、風呂に入りながらも、ベッドに横になってからも、澪の声や、表情や、手の冷たさが、断片的に思い出される。……おかしい。昨日まで、こんなことはなかった。俺は、誰かのことを考え続けるタイプじゃない。むしろ、人との距離を保つことで、楽に生きてきた人間だ。なのに。


 スマホを手に取り、何度も画面をつけては消す。連絡先は、まだ交換していない。……そういえば、恋人なのに。そんな当たり前のことに、今さら気づく。彼女は、俺の番号を知らない。俺も、彼女の番号を知らない。それなのに、今日一日、俺たちは、確かに恋人みたいに過ごしていた。……変な関係だ。でも、不思議と、不安よりも先に、落ち着かなさが来る。


 俺は、天井を見上げながら、ぼんやりと思った。この関係は、どこまで行くんだろう。そして、どこで、終わるんだろう。答えは、もちろん分からない。ただ、一つだけ、確かなことがあった。この関係は、思っていたより、ずっと軽くない。そして水無月澪という存在が、 すでに、俺の日常の中に、 静かに入り込み始めている。

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