初雪までの関係
屋上は、秋の匂いがしていた。
「ねえ常盤くん、私さ。あと百日で死ぬんだ」
屋上の風は強くも弱くもなく、ただ中途半端に冷たかった。そのせいで、水無月澪の声が冗談なのか本気なのか、判別できなかった。肩より少し下まで伸びた黒髪が、風に揺れていて、目は少しだけ大きくて、けれどその中に、妙な空洞みたいなものがある気がした。
彼女はフェンスにもたれかかりながら、スマホを弄っている。その横顔は、いつも通り明るくて、軽くて、どこにでもいる普通の女子高生のそれだった。
「……意味、分かんないんだけど」
「だよね」
彼女は、くすっと笑った。
まるで、「そりゃそうだよね」と言うみたいに。
「でも、本当」
「いや、本当って……」
言いかけて、俺は言葉を止めた。
どう返せばいいのか分からなかった。冗談として流すには、彼女の表情があまりにも真剣すぎたし、かといって、本気で信じるには、内容が現実離れしすぎている。
だから、俺は、とりあえず一番どうでもいい反応を選んだ。
「……ふーん」
「冷た」
「いや、だって」
「まあ、そうだよね」
彼女は、あっさり頷いた。
その反応が、逆に怖かった。否定されることも、疑われることも、たぶん、最初から想定済みみたいな顔だったからだ。
「だから、百日後に死ぬの。病気で。初雪が降る頃に」
澪はそう言って、こちらを見ずに笑った。笑い方まで、あまりにも自然だった。俺は、彼女の顔を見つめる。クラスで一番うるさくて、友達が多くて、誰とでも距離を詰められる人間。その口から出る言葉としては、あまりにも不釣り合いだった。
「……それ、誰かに言ったのか?」
「ううん。初めて」
「……なんで俺に?」
「なんとなく?」
しばらく、沈黙が流れた。
屋上って、沈黙が気まずくならない数少ない場所だと思う。空が広すぎて、人の存在感が薄まるからだ。だから、知らない人と一緒にいても、別にどうということはない。だけど、気づけば俺は口を開いていた。
「……信じろって言われても、無理だろ」
「うん。別に信じなくていいよ」
澪は言って、フェンス越しに空を見上げる。
「でもさ。信じないなら、それでいいからさ、その代わり」
彼女はそこで、ようやくこちらを向いた。
「初雪が降るまで、私の恋人になってくれない?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……は?」
「恋人のフリでもいいから」
「どうせ死ぬなら、最後くらい、ちゃんと恋してみたいんだよね」
その言い方は、あまりにも軽くて、あまりにも、必死だった。
「意味が分からない」
「うん、私も」
澪はそう言って笑った。でも、その笑顔は、いつものように完璧じゃなかった。ほんの少しだけ、崩れていた。
「……なんで俺なんだ」
「優しいから」
「それ理由になってない」
「じゃあさ」
「私が死ぬって言っても、どうでもよさそうだったから」
その言葉に、胸の奥が微妙に軋んだ。俺は、彼女のことを特別好きだったわけじゃない。むしろ、少し苦手だった。距離の詰め方がうまくて、感情が軽くて、自分とは真逆の人間だったから。なのに。
「……百日後に死ぬって話を、信じてない」
そう言うと、澪は頷いた。
「うん、知ってる」
「じゃあ」
「それでもいい」
彼女は即答した。
「信じなくてもいいし、救わなくてもいいし、付き合ってるフリでいいからさ」
その言葉は、“恋人になりたい”というより、“誰かの人生に入り込みたい”という響きを持っていた。¥
「……それ、何の意味があるんだよ」
「あるよ」
澪は、少しだけ目を伏せた。
「誰かにとって、私が“特別な人”だったって事実が残るでしょ」
「それだけで、死ぬ理由としては十分」
俺は、言葉を失った。死ぬ理由。そんな言葉を、こんな軽い声で言う人間を、俺は知らなかった。
「……それ、俺じゃなくていいだろ」
「でも、他の人はさ」澪は笑う。
「私が死ぬって言ったら、大丈夫だよとか、頑張ってとか、絶対治るよとか、言うじゃん」
「……まあ」
「でも常盤くんは」
「『そうなんだ』って顔で聞いてた」
それは、否定でも肯定でもなく、ただ事実として受け取った顔だったらしい。
「……それが、よかったの?」
「うん」
澪は、はっきり頷いた。
「死ぬかもしれない人間としてじゃなくて、死ぬって言ってる人間として扱ってくれたから」
俺は、自分がそんな顔をしていた自覚はなかった。でも、彼女がそう感じたなら、それは事実なのだろう。
「……百日後、本当に死ななかったらどうする」
「そのときは」
澪は少し考えてから、笑った。
「そのときは、常盤くんにフラれたってことにする」
「勝手だな」
「恋人なんて、だいたいそんなもんでしょ」
それは、どこか投げやりで、どこか“もう失う前提で生きている人間”の言葉だった。
「……断ったら?」
「うーん」
澪は少し考えてから、フェンスに寄りかかり直した。
「じゃあ、別にいいや」
「たぶん、別の人に言うだけ」
「……それでいいのか」
「うん」
即答だった。その即答が、俺には一番重く感じられた。彼女にとって、俺は“必要な誰か”ではなく、“今ここにいる誰か”でしかない。なのに。
「……百日後、本当に死ぬなら」
俺は、なぜかそんな前提で言葉を続けていた。
「その間に、俺が何をしても、意味ないだろ」
「あるよ」
澪は言った。
「少なくとも、私の中には残る」
「……死んだら意味ないだろ」
「それでもいい」
その言葉は、“生きたい”よりも、“消えたくない”に近かった。
「……分かった」
気づいたら、俺はそう言っていた。
「え、マジ?」
「百日、いや、初雪が降るまでだからな」
「やった」
澪は、少しだけ本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあさ」
彼女は俺の前に立ち、両手を後ろに組んで、言った。
「今日から恋人ね、常盤くん」
「……軽いな」
「どうせ死ぬし」
「その言い方やめろ」
「はーい」
澪は笑いながらも、どこか安堵したような表情をしていた
そして俺は、彼女が消える前提で、彼女と恋を始めてしまった。それが、一番してはいけない形の恋だとも知らずに。




