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雪が降るまで  作者: 知世
1/7

初雪までの関係

 屋上は、秋の匂いがしていた。


「ねえ常盤くん、私さ。あと百日で死ぬんだ」


 屋上の風は強くも弱くもなく、ただ中途半端に冷たかった。そのせいで、水無月澪の声が冗談なのか本気なのか、判別できなかった。肩より少し下まで伸びた黒髪が、風に揺れていて、目は少しだけ大きくて、けれどその中に、妙な空洞みたいなものがある気がした。


 彼女はフェンスにもたれかかりながら、スマホを弄っている。その横顔は、いつも通り明るくて、軽くて、どこにでもいる普通の女子高生のそれだった。


「……意味、分かんないんだけど」


「だよね」


 彼女は、くすっと笑った。


 まるで、「そりゃそうだよね」と言うみたいに。


「でも、本当」


「いや、本当って……」


 言いかけて、俺は言葉を止めた。


 どう返せばいいのか分からなかった。冗談として流すには、彼女の表情があまりにも真剣すぎたし、かといって、本気で信じるには、内容が現実離れしすぎている。


 だから、俺は、とりあえず一番どうでもいい反応を選んだ。


「……ふーん」


「冷た」


「いや、だって」


「まあ、そうだよね」


 彼女は、あっさり頷いた。


 その反応が、逆に怖かった。否定されることも、疑われることも、たぶん、最初から想定済みみたいな顔だったからだ。


「だから、百日後に死ぬの。病気で。初雪が降る頃に」


 澪はそう言って、こちらを見ずに笑った。笑い方まで、あまりにも自然だった。俺は、彼女の顔を見つめる。クラスで一番うるさくて、友達が多くて、誰とでも距離を詰められる人間。その口から出る言葉としては、あまりにも不釣り合いだった。


「……それ、誰かに言ったのか?」


「ううん。初めて」


「……なんで俺に?」


「なんとなく?」


 しばらく、沈黙が流れた。


 屋上って、沈黙が気まずくならない数少ない場所だと思う。空が広すぎて、人の存在感が薄まるからだ。だから、知らない人と一緒にいても、別にどうということはない。だけど、気づけば俺は口を開いていた。


「……信じろって言われても、無理だろ」


「うん。別に信じなくていいよ」


 澪は言って、フェンス越しに空を見上げる。


「でもさ。信じないなら、それでいいからさ、その代わり」


 彼女はそこで、ようやくこちらを向いた。


「初雪が降るまで、私の恋人になってくれない?」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。


「……は?」


「恋人のフリでもいいから」


「どうせ死ぬなら、最後くらい、ちゃんと恋してみたいんだよね」


 その言い方は、あまりにも軽くて、あまりにも、必死だった。


「意味が分からない」


「うん、私も」


 澪はそう言って笑った。でも、その笑顔は、いつものように完璧じゃなかった。ほんの少しだけ、崩れていた。


「……なんで俺なんだ」


「優しいから」


「それ理由になってない」


「じゃあさ」


「私が死ぬって言っても、どうでもよさそうだったから」


 その言葉に、胸の奥が微妙に軋んだ。俺は、彼女のことを特別好きだったわけじゃない。むしろ、少し苦手だった。距離の詰め方がうまくて、感情が軽くて、自分とは真逆の人間だったから。なのに。


「……百日後に死ぬって話を、信じてない」


 そう言うと、澪は頷いた。


「うん、知ってる」


「じゃあ」


「それでもいい」


 彼女は即答した。


「信じなくてもいいし、救わなくてもいいし、付き合ってるフリでいいからさ」


 その言葉は、“恋人になりたい”というより、“誰かの人生に入り込みたい”という響きを持っていた。¥


「……それ、何の意味があるんだよ」


「あるよ」


 澪は、少しだけ目を伏せた。


「誰かにとって、私が“特別な人”だったって事実が残るでしょ」


「それだけで、死ぬ理由としては十分」


 俺は、言葉を失った。死ぬ理由。そんな言葉を、こんな軽い声で言う人間を、俺は知らなかった。


「……それ、俺じゃなくていいだろ」


「でも、他の人はさ」澪は笑う。


「私が死ぬって言ったら、大丈夫だよとか、頑張ってとか、絶対治るよとか、言うじゃん」


「……まあ」


「でも常盤くんは」


「『そうなんだ』って顔で聞いてた」


 それは、否定でも肯定でもなく、ただ事実として受け取った顔だったらしい。


「……それが、よかったの?」


「うん」


 澪は、はっきり頷いた。


「死ぬかもしれない人間としてじゃなくて、死ぬって言ってる人間として扱ってくれたから」


 俺は、自分がそんな顔をしていた自覚はなかった。でも、彼女がそう感じたなら、それは事実なのだろう。


「……百日後、本当に死ななかったらどうする」


「そのときは」


 澪は少し考えてから、笑った。


「そのときは、常盤くんにフラれたってことにする」


「勝手だな」


「恋人なんて、だいたいそんなもんでしょ」


 それは、どこか投げやりで、どこか“もう失う前提で生きている人間”の言葉だった。


「……断ったら?」


「うーん」


 澪は少し考えてから、フェンスに寄りかかり直した。


「じゃあ、別にいいや」


「たぶん、別の人に言うだけ」


「……それでいいのか」


「うん」


 即答だった。その即答が、俺には一番重く感じられた。彼女にとって、俺は“必要な誰か”ではなく、“今ここにいる誰か”でしかない。なのに。


「……百日後、本当に死ぬなら」


 俺は、なぜかそんな前提で言葉を続けていた。


「その間に、俺が何をしても、意味ないだろ」


「あるよ」


 澪は言った。


「少なくとも、私の中には残る」


「……死んだら意味ないだろ」


「それでもいい」


 その言葉は、“生きたい”よりも、“消えたくない”に近かった。


「……分かった」


 気づいたら、俺はそう言っていた。


「え、マジ?」


「百日、いや、初雪が降るまでだからな」


「やった」


 澪は、少しだけ本当に嬉しそうに笑った。


「じゃあさ」


 彼女は俺の前に立ち、両手を後ろに組んで、言った。


「今日から恋人ね、常盤くん」


「……軽いな」


「どうせ死ぬし」


「その言い方やめろ」


「はーい」


 澪は笑いながらも、どこか安堵したような表情をしていた


 そして俺は、彼女が消える前提で、彼女と恋を始めてしまった。それが、一番してはいけない形の恋だとも知らずに。

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