宿へ
湿り気を帯びた夜風が、ボロボロになった三人の背中をなでる。青年の呼吸がようやく一定のリズムを刻み始めたのを見届け、魔女はひさしの深い帽子を直しながら小さく息を吐いた。
「……ここにいても、いたずらに夜の冷気に体力を削られるだけだわ。まずは宿に向かいましょう。この子を、まともな布団に寝かせてあげないと」
ライムは無言で頷くと、ぐったりとした青年の腕を自分の肩に回し、その重みを背負った。魔女の背中を追って足を踏み入れた宿の内部は、外気よりもさらに重く、カビと古い木材が混じり合ったような、澱んだ空気に満ちていた。
カウンターにいた主人は、お世辞にも愛想が良いとは言えない。彫りの深い顔に刻まれた無数の皺をぴくりとも動かさず、泥と血に汚れたライムたちを冷めた目で見据える。だが、詮索をしないことだけがこの男の美徳であるかのように、無造作に、金属音を立てて二階の鍵を放り出した。
ふと、ライムの足が止まる。
壁に貼られた、端のめくれた一枚のポスター。そこに描かれていたのは、輝くような金色の鬣を持つ戦士――『街の守護者:ゴールドレオン・ベイルマン』。
(……あの、黒い獣を裂いた獅子に似ている)
ライムの瞳に、かすかな既視感が過る。
「そんな色褪せた紙切れより、早くこの子を運んでくれないかしら?」
魔女の焦りを含んだ声に促され、ライムは「あはは、そうだね」と乾いた笑いを返し、軋む階段を上った。
二階の部屋は狭く、湿り気を吸った畳のような匂いが鼻をついた。魔女は椅子に深く腰を下ろすと、ようやく重い帽子を脱ぎ捨てる。乱れた髪をかき上げる彼女の額には、隠しきれない疲労の汗が滲んでいた。
「早く、ベッドへ。……さあ、治療を再開するわよ」
ライムが青年を横たえると、彼女は震える両手をかざし、淡い、それでいてどこか頼りなげな燐光を放ち始める。その様子を、ライムは壁に背を預けて眺めていた。
「あはは……でもさ。魔法って便利だと思ってたけど、一瞬で完治ってわけじゃないんだね。結構、時間がかかるもんなんだ」
「ええ、そうね。……普通の擦り傷なら、ね」
魔女の口調が、鋭く刺すような強さを帯びた。
「でも、この子の傷は深すぎるわ。まるで、肉だけじゃなく魂の一部を削り取られたような……。あの黒い獣、一体何者なの?」
言葉が途切れた瞬間、重苦しいドアを叩く乾いた音が部屋に響いた。
扉を開けると、そこには先ほどの無愛想な主人が立っていた。手には、場違いなほど豪勢な、焼きたてのパンと果物の盛り合わせがある。
「これはサービスだ……食え」
それだけ言うと、男は返事も待たずに去っていった。
「結構な量だね。あはは、無愛想だけど案外いい人なのかも。お腹空いてたんだ、ありがとう」
ライムはトレイを魔女の前に運んだ。だが、彼女は差し出された果物を凝視したまま、眉をひそめる。
「あら? そうかしら……。この状況で、見ず知らずの客にこれだけのサービス。怪しいと思わない?」
そう言いながらも、空腹には勝てなかったのか、彼女は用心深く果物を一つ口に運んだ。ライムもまた、分厚いパンを手に取り、それを迷いなく咀嚼し始める。
小麦の香ばしい匂いが立ち込め、魔女は呆れたようにライムを見た。
「……こういう時って、『美味しいね』とか、何か感想を言い合うもんじゃないの? 黙々と食べすぎて、少し怖いわよ」
魔女の苦笑いに対し、ライムは表情を動かさず、ただ咀嚼を繰り返した。
「ああ、そうなんだけど。……何も感じないんだ。」
「……え?」
「味も、食感も。胃に入っていく感覚はあるけど、それだけだよ。あはは、お腹が空きすぎてバグってるのかな」
ライムは再び、無機質な作業のようにパンを口に押し込む。
魔女は一瞬、食べようとした手を止めた。ライムの瞳が、この豪華な食事よりも、いつかどこかで食べた『ひどく不味い野菜』の味を求めているような、そんな酷く孤独な光を湛えていたからだ。
「……そう。ごめんなさい、変なこと言って」
彼女もまた、それ以上は何も聞かず、沈黙の中で食事を再開した。
古びた宿の部屋。治癒魔法の微かな音と、食べ物を噛み砕く音だけが、不穏な夜の静寂を埋めていった。
月が雲に隠れ、宿の軋む音が一段と大きく響く深夜。
部屋の隅で、治癒魔法の淡い光が消えた。魔女は椅子に座ったまま、力尽きたように深い眠りに落ちている。ベッドの青年も、まだ死の淵を彷徨うような浅い吐息を繰り返していた。
ライムだけが、壁に背を預け、闇の中で目を開けていた。
胃の奥には、先ほど食べたパンの「重み」だけがある。味のない塊が、鉛のように身体を沈ませる感覚。
(……ああ、やっぱりか)
静寂を切り裂いたのは、鋭い悲鳴ではない。
「カチリ」という、油を差していない鍵穴が無理やり回される、卑屈な金属音。
続いて、廊下の古い床板が、自重を隠しきれない男たちの重みで「ギィ……」と低く鳴いた。
「おい、本当にこの部屋か?」
「ああ。薬はたっぷり盛った。女の方はもう使い物にならねえ。あとの二人は死にかけてるか、ガキだ。身包み剥ぐにゃあ絶好の獲物だよ」
扉の向こうで交わされる、粘りつくような囁き声。主人の無愛想な声も混じっている。そこには先ほどの「サービス」の欠片もなく、ただ獲物を値踏みする下卑た欲望の匂いだけが漂っていた。
ゆっくりとドアが開く。
差し込む廊下の細い光の中に、三つの影が伸びた。手には錆びついたナイフと、血の染み付いた革袋。
「ひひっ、この魔女、なかなかの別嬪じゃねえか。杖も高く売れそうだ」
「こっちのガキはどうする? 眠り薬で死んでりゃ手間が省けるが……」
一人の盗賊が、ベッドの脇に座り込んでいるライムに近づき、その顔を覗き込む。
だが、その男の手が止まった。
闇の中で、ライムの瞳が、感情の死に絶えた無機質な光を放って自分を見つめていたからだ。
「……あはは。ごめん、薬なら効いてないよ。何も感じないから、毒なのかどうかも分からなかったんだ」
ライムの声には、怒りも、恐怖も、ましてや正義感など微塵もなかった。
ただ、夜露のように冷たく、そこに在るだけの声。
「な、なんだてめえ……起きてやがったのか!?」
盗賊がたじろぎ、ナイフを突き出す。
がその瞬間闇の中から放たれたライムの十手が、先頭の盗賊の喉を正確に、深く穿った。
「ガ、あ……ッ」
声にならない湿った音が溢れ、盗賊は噴き出す鮮血を両手で抑えながら、力なく床に沈んだ。鉄錆の匂いが一気に部屋を満たす。
続いてナタを振りかざして飛び込んできた男に向け、魔女が指先を弾く。
「――静かにしていなさい」
青白い雷光が空気を焦がし、盗賊の全身を貫いた。男は断末魔すら上げられず、激しく痙攣しながら、まるで廃材のように転がった。
「まったく。この私を売り飛ばそうだなんて、いい度胸ね」
魔女は椅子から立ち上がり、乱れた髪を整えながら冷たい瞳で惨状を見下ろした。
「……あれ? 眠ってたんじゃないの?」
ライムの問いに、彼女は鼻で笑って帽子を深く被り直す。
「ええ、寝てたわよ。でも薬の影響じゃないし、そもそもそんな安物が私に効くわけないでしょ。それより言ったはずよ? **『怪しい善意なんか信じるな』**って」
「ああ、悪かったよ。こんなに露骨だとは思わなくて。……もう少しやりようがあるだろうに。プロならさ」
ライムは十手に付着した脂を無造作に拭い、乾いた笑いを漏らす。
「ああ。連中も、プロじゃなかったんでしょ」
魔女は冷静に言い捨てると、血の海を避けて廊下へ踏み出そうとした。
その時、ベッドの青年が弾かれたように跳ね起き、血塗れの部屋を見て絶句した。
「……うわ! また、僕なんかやっちゃいました!?」
震える声。魔女は彼を一瞥し、慈悲の欠片もない微笑を浮かべる。
「あなたじゃないわ。ただ、死んだように寝ていただけよ、あなたは」
ライムはすでに、その場の気配から消失していた。
魔女は迷いのない足取りで階段を降り、震える宿の主人の前へ立った。
「……あなたの差し金?」
氷の破片が混じるような低い声。
返事を待つ必要はなかった。魔女の手から放たれた氷の刃が、主人の額の正中を、一切の抵抗を許さず貫いた。
「ああ、その人で最後だよ。これで、ゆっくり眠れるね」
ライムが刃の血を拭きながら戻ってくる。
「まあとりあえず朝までは寝ましょうか…死体を片付けとくわ」と言うと死体を一箇所に集めて始める。
「ああ、僕も手伝うよ」
ライムが死体を集めるべく腰を上げた時、カウンターの奥で扉を開けた魔女の手が止まった。
開かれた闇の先には、折り重なるようにして三つの影が転がっていた。
縛り上げられ、絶望の中で息絶えた獣人の家族――この宿の本当の主たちだ。閉じ込められていた空間には、腐敗の始まりを告げる甘ったるい死臭と、乾ききった鉄の匂いが澱んでいた。
「……ッ、何か、あったんですか?」
背後から青年が近づこうとする。魔女は即座にその視線を遮るように扉の前に立ち、低く、威圧的な声で告げた。
「あなたは部屋に戻ってなさい。……見なくていいものがあるわ」
「え……?」
戸惑う青年を、ライムがひょいと肩を叩いて促す。
「ああ、大丈夫。ただ、あっちもこっちも血の海になってるだけだからさ。 あはは、掃除が終わるまで二階で寝てなよ」
ライムの言葉には、死者への冒涜も哀れみもなく、ただ「片付けるべき汚れ」としての響きしかなかった。彼は怯える青年を連れ、慣れた手つきで部屋へと戻した。
一階に静寂が戻ると、魔女は三体の遺体を丁寧に、しかし事務的な手つきで他の遺体と重ねた。
彼女が指先を向けた瞬間、赤い炎が音もなく爆ぜる。
燃え盛る火は、炎は獣人の毛を焼き、肉を焦がし、やがて形を失わせていく。
爆ぜる音だけが、静まり返った宿に響いていた。
爆ぜる薪のような音を聞きながら、魔女は揺れる炎を見つめて静かに呟いた。
「……しばらくここで良いわね…」
その言葉が落ちた背後の壁では、煤に汚れ、熱で歪んだ『黄金のヒーロー』が、暗い部屋の隅で誰に向けるでもなく笑い続けていた。
ライムは窓から外を眺めながら
「また…誰も、ここには残らないのかな…」とどこか胸騒ぎを感じて炎を眺めていた。




