獣人
ゲートを抜けた先には、重く湿った「夜」が横たわっていた。
空を覆うのはネオンではなく、巨大な煙突から吐き出される黒煙と、街中を這い回る配管から漏れ出す白い蒸気。鼻を突くのは、焼き付いた機械油と鉄錆の匂いだ。
「……あはは。さっきの街とは、ずいぶん空気が違うね。とりあえず、どこか宿でも探そうか」
ライムが湿った石畳を叩きながら言うと、隣を歩く魔女が、濡れた街灯に照らされた掲示板を指差した。そこには、真鍮の枠に嵌められた指名手配書が、霧の中で不気味に浮かび上がっている。
「ええ、そうね。……でも、『100億の賞金首』さんが無事に泊まれる宿が、この街にあるかしら?」
魔女が冗談めかして笑う。手配書の中では、未来都市でのライムの顔が鮮明に映し出されていた。
「ほら、やっぱり。もう飾られてるわ。普通の宿は無理ね」
「……あはは。笑い事じゃないよ。知らない街で野宿なんて、危険すぎるでしょ」
ライムは呆れたように肩をすくめる。魔女はさらに追い打ちをかけるように、優雅に髪をかき上げた。
「それに、私たちがここで使えるお金、持ってないでしょ? 共通通貨はあるけど……まあ、私は女性だし、最悪どこかに転がり込んででも宿に泊まるけどね」
「……うんそうした方が良いとはおもうけど、僕はそうもいかないな。あはは、しょうがない。路地裏の方に行ってみよう。あっちの汚れきった宿なら、僕みたいな『指名手配犯』でも歓迎してくれるかもしれないし」
ライムがメイン通りの光を背に、闇の深い路地へと足を踏み出す。その手慣れた動きに、魔女は思わず吹き出した。
「ふふ、本当に犯罪者の動きね。板についてるわ」
「……しょうがないよ。100億なんて数字がついたせいで、何もできなくなったんだ。……まあ、その前から『死事人』してたから、表通りを堂々と歩くのには慣れてないけどさ」
自嘲気味に笑いながら、ライムは鼻を動かした。
霧の奥から、鉄の匂いでも油の匂いでもない、生暖かい、鉄錆びた匂いが漂ってくる。
「――ねえ、気づいてる? 何かおかしいわよ」
魔女の声から余裕が消える。ライムも足を止め、十手の柄を握り直した。
「……あはは。なんとなく、わかってる。嫌な予感がするね。引き返そうか?」
だが、その判断は一歩遅かった。
「いいえ、もう無理みたい。……あそこ、見て」
魔女の指差す先、路地の行き止まりに「それ」はいた。
背中を向け、何かを貪るように屈み込んでいる、巨大な黒い影。
じわり、と滲み出すような漆黒のオーラが、周囲の霧を飲み込んでいる。狼に似た獣の貌がゆっくりとこちらを向き、剥き出しの牙からは、熱い蒸気のような煙が立ち上っていた。
ライムは反射的にハンドガンを抜こうとしたが、その獣の足元にある「モノ」を見て、息を呑んだ。
「……ちょっと待って。あの、血を流して倒れてるのって……」
泥にまみれた鮮やかな衣装。未来都市で自分たちを映し続けていた、あの配信者の少女――ミナだった。
「ええ、そうね。あの配信のせいで、私たちを『実行犯』に仕立て上げた子……。意図的じゃなかったんでしょうけど、皮肉な再会ね」
魔女が冷徹に戦術を練る傍らで、黒い獣は低く唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
石畳を抉る鋭い爪。口から漏れる黒い煙が、ライムの頬を掠めた。
「……あはは。本当に、参ったな」
ライムはミナの安否を気にかけながらも、眼前の圧倒的な「死」の気配から逃れるように、一歩、後退りした。
黒い獣の爪が石畳を跳ね上げ、ライムの鼻先を掠める。
金属同士が擦れるような嫌な音が路地に響く中、ライムは重心を低く保ち、ハンドガンを抜き放った。
バァン、バァンッ!
牽制の弾丸が獣の足元で火花を散らす。その隙に、ライムは背後の獣を無視して泥の中に倒れるミナへと走り出した。
「ちょっと! そっちより今は自分の心配をしなさいよ!」
背後で魔女の呆れた怒鳴り声が飛ぶ。
ターゲットを魔女に変えた黒い獣が、グルル……と低く唸り、地面を抉りながら突進を開始した。
「火遊びは嫌いかしら?」
魔女の手のひらから放たれた巨大な火の玉が、獣の真正面で炸裂する。爆風に一瞬怯む獣。だが、それは苦痛による停止ではなく、単なる「故障」のような不自然な動きだった。獣はそのまま制御を失ったかのように、猛烈な勢いで路地裏のレンガ壁に激突した。
(……なんなの? もしかして、自分の体さえ制御できていないの?)
魔女が驚愕する中、ライムはミナの元へ辿り着き、冷たくなりかけたその手を強く握りしめた。
「良かった。……あはは、まだ生きてるね」
ライムが安堵の息を漏らしたその瞬間。
ミナの喉の奥から、アイアン・ベイルの蒸気音よりも遥かに無機質な、電子的な合成音声が漏れ出した。
『――能力のコピー、完了しました』
「はぁ、はぁ……。……こんなの、全然面白くないよ……。……早く、ここを、離れなきゃ……」
ミナは焦点の定まらない瞳で、喘ぐように言葉を絞り出す。
「面白くはないよ。でも、このままじゃ本当に笑えない結末になっちゃうから」
ライムが冷静に、しかし冷徹に告げた時、崩れた壁の瓦礫を吹き飛ばして黒い影が再び立ち上がった。その獣の体からは、さらに禍々しい漆黒のオーラが立ち上り、口からは熱い蒸気と共に黒い煙が吐き出される。
「――これは、さっきまでとは別物よ!」
魔女が放つ無数の火炎を、獣は四足歩行の異様な速度で回避し、一直線にライムたちを食い殺そうと肉薄する。
死の顎が目前に迫った、その時――。
ドガァッ!!
上空から降ってきた「巨大な質量」が、黒い獣の頭部を路地裏の地面ごと踏み砕いた。
そこに立っていたのは、夜の闇に紛れるような黒い獅子の頭を持つ、重装甲の獣人だった。
「お前たち、大丈夫か? さっさとここを離れろ! あとは私が決める――この街の治安を守る、私がな!」
獅子の男は、叫びながら獣の頭を掴み、無慈悲に片手で何度も殴りつける。
メキッ、ゴキッと、生々しい骨折音が響き渡る。あんなに凶暴だった獣が、今はただの肉塊のように抵抗もできず振り回されていた。
「……あんなに強かった獣が、何もできていない」
ライムがその圧倒的な暴力に目を奪われていると、隣で魔女が冷たく言い放った。
「……正義のヒーローっていうより、ただの『弱い者いじめ』に見えるわね。やりすぎよ、かわいそうに」
「さて。――とどめといこうか」
獅子の男が仰々しく決めポーズをとろうとした、その刹那。
瀕死だったはずの黒い獣が、最期の力を振り絞って獅子の腕に噛みついた。
「ぐわっ!? ……この、野良犬がッ!」
獣は獅子の腕にある**「奇妙な機械装置」**を牙で深く抉り取ると、そのまま霧の奥へと逃げ去っていった。
「くそっ、よりによって腕のユニットを……! チッ、……あー、コホン」
獅子はヒーローらしからぬ舌打ちを漏らした後、無理やり作ったような爽やかな声でライムたちを振り返った。
「……君たちが無事で何よりだ! では私は失礼する、さらばだ!」
獅子はそれだけ言い残すと、驚くほど軽やかな跳躍で高い塀を飛び越え、闇の中へ消えていった。
「あはは。……あの獅子さんのおかげで、助かったね」
ライムがぽつりと感想を漏らす。魔女はその横顔を、探るような、揶揄うような目で見つめた。
「……それは、どっちの意味の『助かった』なの? あの恐ろしい能力を使わずに済んで助かったって意味? それとも、そのままの意味?」
「……そんな意地悪な言い方、しなくてもいいじゃないか。それより、ミナさんを治さないと」
ライムはミナを抱き抱え、魔女に懇願するように視線を送る。
「……いいけれど、応急処置よ。これだけ傷が深いと、助かる見込みは薄いわ。……それでも、魔力を割く価値があると思う?」
魔女の真剣な問いに、ライムは迷うことなく頷いた。
「うん。……お願い」
「やれやれ。……本当に、お人好しの死事人ね」
魔女の指先から淡い光が溢れ出し、煤けた路地裏に、微かな生命の波紋が広がっていった。
魔女の指先から溢れていた淡い光が、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。
路地裏を包んでいた微かな温もりが、冷たい夜気に塗り替えられていく。ライムが無言で魔女の顔を覗き込むと、彼女は重苦しい沈黙の後、ゆっくりと、しかし明確に首を横に振った。
「……そっか。あはは、そうだよね。……でも、ありがとう」
ライムは力の抜けたミナの腕をそっと地面に下ろし、膝の泥を払って立ち上がった。その横顔には、悲しみよりも「終わってしまったこと」への静かな納得があった。
「ただ見捨てるよりは、最後に誰かがそばにいた方が、あの子も寂しくなかったんじゃないかしら?」
魔女が自嘲気味に笑い、重い腰を上げる。二人はそのまま、目的の宿がある光の方へと歩き出した。
(……救えなかったな。あはは、結局僕は、何もできてないじゃないか)
ライムは自分を嘲笑いながら、ふと、最後にもう一度だけ彼女の姿を焼き付けようと振り返る。
だが、そこには――何もなかった。
「……えっ? あれ……?」
つい数秒前まで、ミナの遺体があったはずの場所。そこには、彼女が流した血の跡すら残っておらず、ただ湿った石畳が不気味に広がっているだけだった。
「今度は何よ、もう」
魔女が苛立ちを隠さずに振り返るが、ライムが指差す先を見て、その瞳に驚愕の色が走る。
「……ミナさんが、いないんだ。消えちゃった」
「あら? ……本当ね。おかしいわね、死体が歩いて逃げるはずもないのに」
魔女が訝しげに眉をひそめたその時、空からポツリ、ポツリと、鉛色の雨が降り始めた。雨粒は街の煤煙を吸って黒く濁り、深まる霧と共に視界を白く塗り潰していく。
「濡れるのは御免だわ。早く宿に行きましょう?」
魔女の声に促され、ライムは釈然としない思いを抱えたまま、重い足取りで再び歩き出す。だが数歩も行かないうちに、今度は前を行く魔女が、彫像のように足を止めた。
「……今度は、この青年かしら。彼も、さっきの『狼』に襲われたのかしらね」
魔女の視線の先。ゴミ捨て場の影に、一人の青年が力なく倒れ伏していた。
ボロボロの作業着は切り裂かれ、その下の地面にある土も、自分の血でドロドロに固まっている。
「えっ? ……本当だ、すごい傷だ。……ねえ、治せるかな?」
ライムが言いかけるよりも早く、魔女は溜息をつきながら青年の傷口に手をかざしていた。
「……言うと思ったわよ。ええ、もう始めてるわ。貸しにしておくからね」
魔女の指先から、再び小さな光が灯る。
ライムは雨に濡れるのも構わず、ただ静かに、その青年の浅い呼吸を見守った。
ミナを失ったばかりのその手が、次は誰にも届かない場所へ行かないようにと、祈るように握りしめられていた。




