選択肢のない交渉
銀髪を夜風になびかせた女は、まるで古い童話から抜け出してきたような「魔女」そのものの装束を纏っていた。ライムはその姿を、どこか冷めた心地で見つめる。
「本物の扉を開けてあげてもいいわよ? ……ただし」
魔女の白く細い指先が、ライムの喉元を愛撫するように這った。
「私もあなたの首にかかった『100億』には、目がなくてね。さあ、選びなさい。ここで追手に細切れにされるか。それとも、私に首を預けて、束の間の安らぎを買うか」
ライムの唇が、自然と弧を描く。剥き出しの強欲、隠そうともしない悪意。それは今のライムにとって、聖者の慈悲よりもずっと信頼できるものだった。
「あはは、随分とストレートだね。……でもさ、ここに居ても地獄なのは変わりないんだ。どんな相手だろうと、今の俺に選べる選択肢なんて最初からない。それを分かってて言ってるんだよね?」
「ふふ……でも、選ぶ権利はあげたでしょ? 好きにしなさい。決めるのはあなたよ」
差し出された白皙の手。ライムは、震える自分の右手を無理やり「笑わせる」ように動かし、その手を握り返した。
「だから、選ぶ余地なんてないんだって。武器はボロボロ、仲間もいない……手を差し伸べられたら、縋りつくしかないじゃないか」
「交渉成立ね。あなたの懸賞金は、私のものよ」
魔女が残酷に微笑み、自身が用意した「扉」へとライムを誘う。手を繋いだまま闇を跨いだ瞬間、景色は一変した。
湿った土の匂いも、焦げた鉄の臭いもない。
鼻を突くのは、無機質で乾いた、覚えのない薬品のような匂い。
「ふふ、驚いたかしら? 正規のルート以外でも、行き来する手段なんていくらでもあるのよ。ただの一般市民には不必要な情報だから出回っていないだけでね」
魔女が意地悪な笑みを浮かべて、ライムの顔を覗き込む。
「残念でした。あなたが想像していたような、ジメジメした暗い森でも古びた洋館でもないわ。ここはあなたの世界よりずっと発展した、超科学が支配する『未来都市』よ」
ライムは言葉を失い、天を仰いだ。
空が見えない。そこにあるのは、見上げることも困難なほどの高層ビル群。虹色のネオンが暴力的な光を放ち、空飛ぶ乗り物が重低音を響かせて頭上を駆けていく。あちこちから聞こえる活気ある喧騒。自分たちの着ている古めかしい装備が、この眩しい世界ではひどく惨めで、浮いていることを痛感させられた。
「……なんで、未来都市なんだ?」
「あら、やっぱり暗い森の方が良かった? まあいいわ。それよりアンタ、私の言葉がわかるってことは、異世界に行ったことがあるの? それとも冒険者ギルドの所属かしら?」
魔女が首を傾げて問う。ライムは、渇いた喉を鳴らして呆れたような笑顔を貼り付けた。
「あはは、なんで過去形? 今でも所属してるよ。クエストを受けるために、入ったばかりなんだから」
「今でも所属してる……? 馬鹿じゃないの。懸賞金が付いてても所属は維持できるけど、それは正当な理由がある場合だけよ。ましてや100億の大罪人でしょう? ギルドからは問答無用で『退会処分』、つまり全次元的に抹殺対象として登録されているはずだわ。そうなれば、ギルドが提供する『翻訳魔法』も解ける。……言葉が通じなくなったら、困るんじゃない?」
不敵に笑う魔女の瞳に、ライムは自分の「偽りの笑顔」が映っているのを見た。
「そうなったら困るけど……嫌な予感しかしないな。何を企んでる? まさか俺をここに置き去りにして、自分だけ古い洋館がある湿った世界に帰るとか?」
引き攣った笑顔を貼り付けたまま問うライムに、魔女は心底心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「バカじゃないの? なんで100億をみすみすドブに捨てるような真似しなきゃいけないのよ。それに、ジメジメした世界は私の故郷じゃないわ。この世界が私の棲家なの。はぁ……馬鹿らしい、もういいわ」
呆れた様子で吐き捨てると、彼女はライムの細い手首を掴み、無機質な銀色の腕輪を力任せに嵌めた。
「これさえ付けておけば、翻訳機能が使えるわ。……本来なら交換条件で出すつもりだったけど、もうサービスよ。言葉が通じない相手に交換条件も何もないし、私のストレスに障るもの」
ムッとした顔で言い放つ魔女。ライムは自分の手首を飾った冷たい金属を見つめ、信じられないといった風に笑った。
「こんなのでいいの? どこにも所属しなくていいなんて、随分と便利だね」
「超科学の恩恵よ。……ああ、気に入ってくれたところ悪いけど、それ、アンタの居場所を24時間監視してるからよく覚えておきなさい」
「ええ? 監視するの?」
ライムは驚いたふりをして、それからすぐに肩の力を抜いた。
「うーん、あはは。普通なら脅しになるんだろうけど……あいにく俺は選んでる余地もないし、知らない世界だし監視されてる方が落ち着くって納得できちゃうよ。それより、交換条件があるんでしょ、魔女さん? 聞くよ。俺にできることならね」
「ふん。そのくらい肝が据わってないと、私の隣には置けないわ。……交換条件だけどさ、アンタの実力を見せてほしいの。例えば、その隠し持ってる『能力』とか?」
魔女の射抜くような視線。ライムは笑いながら、けれど声の温度を一段下げて即答した。
「いや、無理だよ。俺は能力を見せる気も、誰かと戦う気もない。ごめんね」
「……いいわね、その返事」
魔女は不敵に口角を上げた。
「そう言うと思ってた。能力をバンバン出すタイプなら、あの逃走劇の時にも使ってたはずだしね。でも、能力を使わなくても『暗殺』とかは得意でしょ? わかるわよ、アンタからは消えない血の匂いがするわ」
その時――。
「死ねぇっ、化け物魔女!」
怒号と共に、大気を焦がす火の玉が飛来した。ライムは思考より先に身体を動かし、最小限の予備動作で後方に跳んで回避。魔女は動じることなく、不可視の障壁で火球を無造作に霧散させた。
「またか……。しつこいわね」
やる気のない態度で魔女が顔を向けると、そこにはハイテクな重火器――腕に装着された『発火装置』を構えた男たちが立ちはだかっていた。
「チッ、また戻ってきたのか。今度は若い男連れかよ。魔術なんて時代遅れの骨董品だ……ははっ、オマケにそんな古臭い格好しやがって。いい加減、目障りなんだよ!」
先頭の男が嘲笑うと、背後の取り巻きたちも下卑た声を上げる。
「そうだ、魔女なんて滅びちまえ!」
「まあ、スタイルだけはいいからな。その服脱いで降参するなら、俺たちの玩具にしてやってもいいぜ?」
醜悪な言葉が飛び交う中、ライムはいつもの笑みを浮かべて魔女に囁いた。
「なんだあいつら。……ねえ、さっきの交換条件、あいつらの始末にする? 引き受けてもいいよ。ああいう酷い言い草を聞くのは、昔からの仕事柄、慣れっこなんだ。恨みを晴らすのは得意だよ?」
と武器を構えるが魔女はライムを制しつつも歩き出した。
男たちは一斉に武器を構え、引き金を引いた。
閃光と轟音。火花と熱風が周囲を包む。
だが、魔女は歩みを止めなかった。
「……それが火の魔術のつもり? 笑わせないで」
呆れたように言うと、彼女はライムの方を一度だけ見た。
「大丈夫だから。手を出さないでね」
それだけ言って、帽子を整え口笛を吹きながら歩調を変えただけで、まるで雨に降られているだけのような仕草だった。
攻撃は続く。
魔女の背後で、男の一人が突然喉を押さえて崩れ落ちた。
誰も何もしていない。
次の瞬間、別の男が膝をつき、呻き声を上げる。
「……な、何だよ……?」
恐怖が伝播する。
魔女は一切振り向かない。
「無駄よ」
淡々とした声だけが残った。
「さあ、行くわよ。ここにいるとうるさいし、私の家へ招待してあげる」
背後で、誰かが燃え始めた。
いつから燃えていたのか、誰にも分からなかった。
「チッ……出直すぞ! ボスに報告だ!」
男たちは武器を捨てるようにして逃げ出していく。
石を投げ、罵声を浴びせながら、それでも距離を取ることしかできなかった。
ライムは立ち尽くしていた。
魔女は何もしていない。
それなのに、現実だけが壊れていく。
彼は引き攣った表情を、いつもの笑顔で上書きし、小走りで彼女の後を追った。




