もう逃げない
ライムに笑顔のまま「依頼ってことでいい?」と聞かれ、カイルは一瞬きょとんとした。
「え……依頼って。でも僕……お金持ってないですし……それに急にビジネスライクなんですね……」
視線を床へ落とした。
窓の外から差し込む朝の光が、埃をゆっくりと漂わせていた。
「あはは、ごめん。裏稼業やってたからさ、クセでついね。でも依頼って形にした方がいいと思うよ。何かあっても責任負う必要ないでしょ?」
軽く笑いながら言うライムの声は、昨夜の戦闘が嘘のように穏やかだった。
魔女は壁に貼られた色あせたポスターへ目を向ける。
医療施設の宣伝。笑顔の獣人家族が描かれている。
「まあね。それでいいんじゃない?でも本拠地に乗り込むのは賛成しないわ。あの獅子がいるし、それに似た存在がまだいるかもしれない。それに、表向きはこの街にとってもかけがえのない施設みたいだしね……」
「そうですか……?でも死んだんじゃないですか?ベイルマンは」
「あはは、今はそこどうでもいいよ。それより、依頼するの?やめるの?」
笑顔のまま詰め寄られ、カイルの目つきが変わる。
「辞めませんよ。依頼でいいんでしょ?じゃあ、それでお願いします!」
「あら?依頼なのね?じゃあ見返りは何かしら?」
魔女が悪戯っぽく笑う。
「僕は懸賞金が掛けられてます……だから僕を冒険者ギルドに差し出せばお金に……」
呆れたように魔女はため息をつく。
「黒い獣の懸賞金って一千万でしょ?事前に調べてたわ。でもお金の問題じゃないのよね〜。だって、この子の懸賞金知ってる?」
「え……?ライムさんって懸賞金付いてるんですか?あはは、なんだか意外だな……」
「あはは、うん。付いてるよ。百億だよ」
あっさり言われ、カイルの思考が一瞬止まる。
「ああ、百億なんですね……え!?ひゃ、百億!?一体何をやったらそんな事に……」
魔女は肩を震わせて笑う。
「あれ、意外と信じるんだ。絶対嘘だって言うと思ってたのに」
「だって嘘をつく理由がないじゃないですか!僕を揶揄う必要もないでしょ?」
ライムは少しだけ視線を逸らし、
「別に本意じゃないよ。君と一緒でさ」
と言う。
「まあ規模が違うけどね?世界を消しちゃうかもだもんね、アンタは」
「使わなければ問題ないよ。抑えれば済む話だから……」
ライムの声は静かだった。
その言葉に、カイルの喉が詰まる。
「なんか……僕と似てますね……受け入れなければ誰も傷つけなくて済むって、ずっと思ってた……でも実際には本能に勝てなくて……気づいたら血まみれで……」
拳が震え、声も震える。
「いっそ無くなればいいのに……僕なんか死ねばいいのにって……でも死ねないし……死ぬ勇気もないんですよ……だって怖いじゃないですか……」
部屋の空気が重く沈む。
横から魔女が、あっさりと言った。
「受け入れればいいじゃない。自分なんだから」
続けて、淡々と。
「受け入れないから、行き場のない力が暴れるのよ」
(これは、アンタにも言ってるんだけどね……)
二人を交互に見ながら、魔女は心の中で呟く。
カイルは小さく息を吸い、
「黒い獣を……受け入れる……僕だから……」
と言って立ち上がる。
床板が軋む音がした。
「ちょっと外に行って来ます……」
ドアが開き、冷たい朝の空気が流れ込む。
魔女は窓の方を見ながら言った。
「あの子は一歩前に進もうとしてる。あなたはどうかしら?」
ライムは笑った。
「あはは、僕はずっと前だけを見てるけど?」
魔女は肩をすくめる。
「ええ、そうね。戻れないものね、あなたは」
薄い朝の光の中、部屋には静けさだけが残った。
カイルの姿がないことに気づき、魔女は小さく息を吐いた。
「何かあったら面倒だし、後を追いかけてあげて。場所は分かるでしょ? 私は最後の準備に入るから」
ライムは何も言わず、扉を開けて外へ出る。
朝の空気は冷たく、戦闘の熱を残した体に刺さるようだった。街路にはまだ人影は少なく、昨夜の騒ぎなどなかったかのように静まり返っている。
瓦礫の匂いを辿るように歩くと、崩れ落ちた建物が視界に入った。
店だった場所は無残に潰れ、焦げた木材と砕けた石が積み重なっている。まだ湿った土埃の匂いが漂い、所々から湯気のように白い煙が立ち上っていた。
その前に、カイルは立ち尽くしていた。
無表情のまま、ただ崩れた店を見つめている。
やがて唇が震え、小さな声が漏れた。
「……おじさん、ごめんなさい……」
声は風に消えそうなほど弱かった。
「僕がもっとちゃんとしてたら……強かったら……こんな事には……」
肩が震え、涙が瓦礫に落ちて黒く染みる。カイルは何度も頭を下げ続けた。
少し離れた場所で、ライムは黙ってその背中を見ていた。
その時、カイルの体から黒い靄のようなオーラが揺らめき立ち上る。
だが、獣には変わらない。
「……来てたんですね、ライムさん」
振り向かずに言う。
「あはは、さすが獣人。分かるんだ?」
軽く言うと、カイルは小さく息を吐いた。
「ええ。今までは……分かりたくなくて、無理やり否定してただけですから」
ゆっくり振り向く。その顔にはさっきまでの怯えはなかった。
「もう受け入れたんです。僕の中の、もう一人の獣も……行き場がなくて苦しかっただけなんだって」
黒いオーラが静かに消えていく。
「受け入れたら……少し楽になりました」
そして真剣な目で問う。
「これからどうしますか? 本拠地に行かないなら、ここで施設の連中を待ちますか?」
その時。
背後の空気が揺らぎ、魔女が姿を現した。
「お待たせ」
靴で瓦礫を踏みながら歩み寄る。
「作戦は簡単。今から雨を降らせるわ」
二人が視線を向ける。
「街全域は無理だから、私の周りだけに降らせて、そのまま街を歩く。そうすれば獣人たちに異変が起きる」
魔女の目が鋭くなる。
「施設は必ずベイルマンを出す。だから、足止めしてちょうだい。私がやられたら雨も止まる」
するとカイルが声を強めた。
「足止めじゃダメです! 生きてる限り同じことの繰り返しだ!」
魔女は肩をすくめる。
「あはは、気持ちは分かるけどね。切り札の魔弾でも倒せなかった相手よ? 正面からやって勝てるとは思えないわ」
「だったら消滅させる能力を――」
ライムが遮る。
「あはは、簡単に言うなよ。そういうもんじゃないんだよ」
視線は崩れた店に向いたままだった。
魔女は続ける。
「私から離れた場所で黒い獣になりなさい。それで必ず奴は来る」
そしてライムを見る。
「あとアンタも。依頼なんだから依頼人の言うこと聞きなさいよ。最悪、能力を使う覚悟を持ちなさい。命令よ?」
笑顔のまま、メインストリートへ歩き出す。
「雨が合図。じゃ、またあとで」
手をひらひらと振る。
静けさが戻る。
「行こうか、ライムくん」
声色が変わっていることにライムは気づいた。
「あはは、急に雰囲気変わったね?」
カイルは真っ直ぐ見つめ返す。
「僕はもう逃げないって……おじさんに誓ったんだ。だからここでベイルマンを待つ」
その時、ライムは気づく。
さっきまで赤く濁っていた瞳が、澄んだ青に変わっていることに。
ライムは口元を緩めた。
「了解」
そう言って、水の入った容器を一口あおった。
メインストリートから少し離れた通り。
乾いた石畳に、ぽつり、と水滴が落ちた。
次の瞬間、空気が湿り気を帯び、魔女のいる方角だけに雨が降り始める。雨粒が屋根や看板を叩き、静かな街に細かな音が広がっていく。
それを見たライムは、ゆっくり十手を構えた。
隣でカイルの体が黒い霧に包まれ、骨と筋肉が軋む音を立てながら黒い獣へと変わる。だが、その姿は以前ほど荒々しくはなく、どこか落ち着いた気配を帯びていた。
「あはは、てっきり姿が変わるかと思ったのに」
軽口を叩くと、黒い獣は静かに答える。
「……今は、この姿でいい」
低く響く声。
(……獣姿で喋った…!)
思わずライムの口元が緩む。
その時。
ガシャン――
ガシャン――
遠くから、重い金属がぶつかるような音が近づいてくる。
次第に足元が震え始め、瓦礫が小さく跳ねる。圧迫感が空気を押し潰すように広がった。
そして。
目の前の建物の壁が、爆ぜるように吹き飛んだ。
粉塵と石片を撒き散らしながら現れたのは――ベイルマン。
だが、その姿は先ほどの戦いの傷をそのまま残していた。
ライムが穿った穴は鋼鉄の胴体にぽっかりと開いたまま。黒い浮腫のような染みが全身に広がり、装甲はひび割れ、焦げ、歪んでいる。
それでも、その体から発せられる圧力は消えていない。
ライムは口元を歪める。
「あれ? ずいぶんボロボロだけど、着替えすらしてないの?」
笑いながら言う。
ベイルマンは胸の傷口をゆっくり撫でた。
「命からがら逃げ出したくせに……よく吠える……」
黒い獣が低く唸り、構える。
「……僕はもう逃げない。ここで、お前を倒す」
ベイルマンは一瞬黙り、やがて不敵に笑った。
「……倒す? 俺はこの街のヒーローだぞ?」
声が通りに反響する。
「つまり、この街の敵になるって事だ。分かってるのか?」
そして大袈裟に両腕を掲げる。
「俺は今からこの異分子を討ち取り、この世界に平和をもたらす! 我こそは正義のヒーロー、ゴールドレオン・ベイルマン! 悪党ども、覚悟しろ!」
粉塵の中で、指が二人を指す。
その芝居がかった宣言に、ライムは鼻で笑った。
「言ってろ、バカ」
十手を構えたまま、笑顔で言い放った。




